4月 4日 よみがえられたのです。  ルカ福音書241~12


新改訳 ルカ 24:1-12

24:1
週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。

24:2
見ると、石が墓からわきにころがしてあった。

24:3
はいって見ると、主イエスのからだはなかった。

24:4
そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。

24:5
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。

24:6
ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

24:7
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」

24:8
女たちはイエスのみことばを思い出した。

24:9
そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。

24:10
この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。

24:11
ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。

24:12
〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕


 福音とは、どんなものでしょうか。パウロは、イエス・キリストが私たちの罪の為に死なれたこと、葬られたこと、三日目によみがえられたこと、と教えており、その福音を保っていれば救われると教えます(Tコリント15・2-4)。

 イエス・キリストが私たちの罪の為に死なれて、私たちの罪を負ってくださり、贖ってくださり(罪の代価)、私たちを救われたということは、信じやすいことです。しかし、実際は、それだけでも信じる人は少ないのです。

私たちは、低血糖症の治療を行い、その他、精神疾患や自閉症、そしてガンの治療も始めていますが、治ると信じる人や治そうと思う人は、少ないものです。低血糖症も全ての人が治るわけではなく、その他の病気も同様ですが、治そう、治らなければならない、と信じる人は、やはり治るものです。これは、病は気から、ということを言っているのではありません。治りたいのか、と聞いても、疑ってかかっていて、治りたい、と言わない人がいるのです。

病の子を連れてきた父親が、「もしおできになるものなら、息子を癒してください。」と願うと、イエス様は、「できるものなら、と言うのか、信じる者にはどんなことでもできるのです。」と不信仰を叱ります(マルコ9章)。死んで4日も経ったラザロをよみがえらせたイエス様は、「あなたが信じるならば、神の栄光を見る」と言ったのですが、人々は信じません(ヨハネ11・40)。

要するに、人々は神の存在は信じても、病の癒しや奇跡、そして復活は信じないのです。神がいるか、いないか、だけを信じるならば、「信じている」と答えたほうが聞こえは良いけれども、その信仰を現実に働かせ適用させるのは、本当の信仰者だけができるのです。イスラム教の自爆テロを、私は凄いと思います。良悪しはともかく、彼らは命がけで神を信じ、神のためとして死んで行くのです。キリスト教は、人を殺すために死ぬことはしないけれども、本来人を救う為には死をも辞さない教えでしたが、多くの人にとってお飾りの宗教になっています。

パウロは、アグリッパ王に対して、「神が死者をよみがえらせるということを、あなた方は、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。」と訴え、弁舌するとアグリッパは、「気が狂っているぞ、パウロ」(使徒26・24)と黙らせようとします。人々は、死後のことを考えておらず、考えても解決できないので、無視しようとします。死後があり、天国があるのならば、それは、この人生の歩みを裁かれる神がいるということであり、神を信じないで歩んできた人にとっては、恐ろしいことだからです。

病気の癒しも、多くの人が金や薬で治すというならば、同意するのですが、自己管理というと嫌がるのです。自己中心が罪ですから、自己中心で生きられなくなるということは、自己否定になるので、とても耐えられないのです。自分勝手に生きられないのならば、死んだほうがまし、と考えるのです。しかし、実は、その死んだ先に、どのように生きたかが問われるということであるならば、話はもっと深刻になってしまいます。死ぬことはできず、生きるのも苦しみです。

 パウロは、「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになる。」(Tコリント15・14)と言い、「キリストがよみがえらなかったのなら、あなた方の信仰は虚しく、あなたがたが今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(17)と叫びます。更に、38節に、おのおのの種に、それぞれの身体をお与えになります、と語り、この世の働きの結果として神の国の身体の栄光が違ってくると教えます。ですから、「堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなた方は自分たちの労苦が、主あって、無駄でないことを知っているのですから。」(Tコリント15・58)となるのです。

 このように人の死は終わりではなく、神の国への始まりであることを知れば、この世でしっかりと神の為に働いた人の死は、悲しみではなく喜びであり、凱旋となります。イエス様のよみがえりは、その真理の証拠でもありました。復活と神の国の現実を信じることは、ですから命がけのことなのです。マリヤも、その他の女たちも、ペテロもヨハネもヤコブも、みなその話は、「たわごとと思われた。」(ルカ24・11)のですが、彼らは、イエス様のよみがえりが真実であり、現実のものであることを体験して、命がけで福音を伝える者となったのです。

 よみがえりと神の国を本当に信じる者は、病や試練、迫害に関して恐れがありません。死んでも天国であり、負けても神は報いてくださるのです。試練も、この世の種まきのようなものです。死というものがあるから、罪に支配されるのであって、永遠のいのちというものを信じるから、恵みと平安があるのです。


4月11日 愚かな、信じない、心の鈍い人。  ルカ福音書2425~35節 

新改訳 ルカ 24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。

24:26
キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」

24:27
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

24:28
彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。

24:29
それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。

24:30
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。

24:31
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。

24:32
そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

24:33
すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、

24:34
「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。

24:35
彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。


 毎日、検査結果の説明をしています。患者さんたちの容体は様々で、なんと言って良いか途方に暮れるような悪い数値の方もおられます。その状況を察して、「長い苦しみだったでしょうね。」と語ると涙を流しておられました。回復の為には、なんとかして解決法を見出さなければならないので、ご本人の恐れや苦しみを理解した上で、「戦っていかなければなりませんよ。」と説明すると、後で院長に「初めて真っ直ぐにアドバイスしてくれる人に出会った、その通りなので頑張ってみます。」と涙ながらに語ったそうです。

 むろん最初は疑ってかかる人もいますが、検査数値の意味と症状の原因の説明をすると、喜んでくれます。EBM(証拠に基づいた医療)ということですが、患者さんたちに丁寧に検査の意味を説明しているところは、少ないと思います。夫婦で来られた方は、伴侶の体調や精神的な症状の原因を聞いて、「性格じゃなかったんだ。すごく良くなったんで驚いています。」などと言ってくるので、「弱さを助け合って改善すると、病気がない夫婦よりも幸せになりますよ。」と言うと、うれしそうにうなづきあいます。説明の後は、院長の診察もスムーズにいき、充実した仕事だと満足し、また、一番大事なことを人任せにして社長をしていたことを反省しています。

 ご本人の生活が成り立つことを優先して、サプリもなるべくいらないで済むように食事指導もしながら、健康回復への道筋を説明します。苦情や文句が多く、攻撃的であると報告を受けていた患者さんも、率直に説明すると驚くほど理解を示します。この人の人生が掛かっているのだからと、しつこい質問にも丁寧に説明し、またそのために事前の研究もします。1年前は話すこともできなかった青年が、まったく改善し、明るく落ち着いて対応したのは感激し、思わず握手をして「よく頑張ったね。」と体験記の記録を約束しました。

 さて、今日の聖句ですが、イエス様は何度もご自分が試練に遭い、死ななければならないことを説明してきたのですが、弟子たちは理解しませんでした。先入観が強いことと、聖霊に思いを委ねなかったからです。患者さんも、管理栄養士たちに自分の病状の酷さを言い連ねることがあります。それをいくら聞いても、解決にはならないのですが、私は、そこでその原因を具体的に説明すると、患者さんは私の話を聞き始めます。つまり、自分の過去に関心があるか、将来の治療に関心があるか、どちらかを決めるのは、その人にあったアドバイスがあるかないかなのです。

 イエス様の十字架の出来事が、私たち一人一人の人生と将来にどれだけ関わりがあるかを理解するかどうかが、私たちの信仰姿勢に関わり、私たちの人生を変えていくのです。そして、それを説明するのが、クリスチャンの伝道の働きなのです。

 自分の罪の問題に苦しみ、解決を願い、更に幸せを願う人でなければ、説明を聞き、理解しようとはしません。教会には、面白半分で来る人もいれば、利益や目論見があって来る人もいます。弟子たちがイエス様の十字架を他人事の事件と考えていたのと同様です。自分と関わりがあると信じていないのです。

 儲けの為に医療をするところもあれば、習慣として病院に来る人もいるようです。治したいとも、治りたいとも思わない人々です。教会にも、救われたいとか、良くなりたいとか、祝福されたい、と考えないで集う人もいるようです。残念ながら、牧師にも自分の名誉や成功、収入を優先する人もいるようですが、信者にも犠牲を払おうとしない、十字架を負おうとしないでクリスチャンとしての交流や集会を味わおうとする人もいるようです。

 そんな人に対して、イエス様は「ああ、愚かな人たち。聖書のことばを信じない、心の鈍い人たち。」と責めるのです。

 勝間和代さんのコラムに、「会社の上司が無能な理由」として、出世するまで努力するけれども、その人の能力が尽きたところで出世が止まり、その地位に定着するので、その地位に満足する人は、無能なのだという言葉がありました。私たちクリスチャンも注意をしなければなりません。

 「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」(Uコリント5・17)とあるように、私たち、信仰者にとって、過去の信仰は使い物になりません。現在の信仰によって、新しく造られた者として、変えられ続けて生きることが必要なのです。

 私たち夫婦には、毎年試練があり、これまでの生き方と能力では対応できないものなので、自分の在り方を変え、自分の考え方を吟味しなおして、問題を解決できるものになるようにしています。自分というものを説明し、理解させようとすることは、これからの自分に働きかける神の促しを拒むものです。自分の在り方にこだわらずに聖霊の導きに身を委ねれば、神はあなたを用いることができるのです。

 私たちは土の器に過ぎないのです(Uコリント4・7)。「私たちは自分自身を述べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを述べ伝えます。『光が闇の中から輝き出でよ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(4・6)


4月18日 赦しの福音を伝える者。  ヨハネ福音書2119~23 
新改訳 ヨハ 20:19-23

20:19
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

20:20
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

20:21
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

20:22
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

20:23
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」


 管理栄養士を何人も雇ってきましたが、職業的に仕事をする人は、殆ど患者さんが納得せず、院長自身が長時間説明しないと栄養医学の治療が進まない場合が多くありました。私が後ろで聞いていて、流暢に検査結果を説明するのですが、患者さんには殆どわからないと思われる専門知識をスラスラと語るので、その時はなんとなくわかるような気がするのでしょうが、一方的なので、説明が終わった時は、何が何だかわからない、という印象でした。説明する側が優位にいて、講義をするという感じで、栄養医学に同意していない人は、それだけで反発すると思われました。彼女たちも症状があり、治療の必要があったのですが、自らはサプリメントを摂らず、食事にも無頓着であり、何度か注意したのですが、私たち夫婦から診れば、その頑なな行動は悪化している病状であり、仕事はできなくなるでしょう。自分を管理できずに、形式や知識だけで幸せになることはありません。クリニックの良い環境の中で守られていたことに気がつかずに、更なる飛躍を志したことが災いにならなければよいのですが。

 「自分の努力や管理が嫌で生活も食事も変えたくない。」「治療法を信じていない。治ると思っていない。人を信じない。」「金がかかることや努力をできないと思っている。」このような人々に、治療を理解させて治そうと思わせるならば、大きな前進です。若い人々は、ノウハウを聞くと直ぐにできると思うのですが、人間と言うのは教わった知識で動くほど単純ではありません。疑い悩み恐れている人々は、言葉では同意しても、実践するほど勇気がなく力もないからです。

 日本のクリスチャンは、伝道されて救われたり、祈られ育てられて、成長するということが少ないように思われます。自らの関心や思いで教会に来て救われたという、第1世クリスチャンが殆どです。他の人々に伝道し、祈り、教え、育てて、救いに導くということができないのです。確かに聖霊の働きですが、聖霊の働きだけという場合が多く、聖書的な考え方や生活、人との交流の仕方など、丁寧に教えられていないのです。教えられていないから、教えることもできずに、集会の参加や奉仕に励むことがクリスチャンの心得となってしまうのです。

 娘の友達が、大学の授業がつまらない、分からない、と言っていました。私は、大学レベルの教育は日本では講義するだけなので、学問の喜びは分からないことが多い。本当に分かっている人は、教えることも面白いものなのだよ、とアドバイスしました。東大の学生の留学率が極端に少ないそうですが、知識の蓄積では日本一の大学生が、自分の意見を言い論争をしなければならない外国の教育を敬遠する理由を理解しているのは、彼ら自身なのでしょう。

 イエス様は、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなた方を遣わします。」と言われました。それは、赦しの福音を伝えるためです。赦しの福音とは、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され」とあるように、私たちが人を赦すことによって伝えるものなのです。福音を知っている私たちが、福音を単に知識だけで教え、それを信じない人々をさげすむならば、人々は私たちに敵意を持つだけです。

 「4つの法則」という冊子による伝道方法が広く教えられ、教会に定着しました。私は、それを否定するものではありませんが、日本人の特異性を理解しないと、救われていない人を救われたクリスチャンとして間違って扱ってしまうことになります。形式的・知識的に神を信じ受け入れたとしても、神ご自身によって救いを体験していなければ、救われてはいないのです。つまり、救いというのは、人の行為や知識の結果ではなく、聖霊の業であり、救いというのは知識によって確認するのではなく、救いという事実の体験によって確認するものなのです。

 日本では、理解するということが知ることであると考えられていますが、世界では、体験してそれがどんなものであるかをわかることが知ることであるとされます。たとえば、坂本龍馬という人がどんな人かを本や情報で調べたところで、分かるはずもなく、実際に会って交流をした人でなければ、わからないのです。私にとって、弓山喜代馬先生は現実の師であり、キム・ジュンゴン師の説教と働きも現実に聞いて知っているのです。司馬遼太郎という作家は、歴史上の人物を自分自身で調査研究してあれだけの詳細な小説を書きあげているのです。私たちは、キリスト・イエスと出会い、教えを受け、そして救われていなければ、本当のクリスチャンではないのです。

 救いを真に自分のものとするためには、私たちが他の人の罪を赦すという働きと行動を自ら行わなければなりません。確かに、イエスさまこそが人の罪を赦すことのできる御方ですが、その赦しを神を知らない人々に伝え体現するためには、私たちが赦しの福音を伝える者として、私たちに罪を犯し、攻撃する者を赦すという神の業を行う必要があるのです。

 医療という身近な分野、人間にとって必要な領域においても、人々がそれを信じ受け入れようとする時には、医療従事者の真摯な姿勢と癒しの体験が必要であるとすれば、信仰による救いという人々にとって未知な分野、超自然の領域において、私たち信仰者の真摯な姿勢と救いの体験がどれだけ必要なものであるかは、言うまでもないことです。それなのに、多くのクリスチャンが伝道というものをなおざりにしており、また批判的な姿勢で社会と人々に接するならば、どうして救いを伝えることができましょうか。

 どんな人をも赦し、人々を愛するということは、聖霊なしにはできないことであり、また救われていない人にもできないことなのです。そして、この赦しを福音を実践し、伝えることによって、私たち自身が平安の中でこの世を生きていくことができるのであります。


4月25日 信じなければいのちは得られない。  ヨハネ福音書2124~31節 
新改訳 ヨハ 20:24-31

20:24
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。

20:25
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

20:26
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。

20:27
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

20:28
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

20:29
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

20:30
この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。

20:31
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。



 先週は、クリニックに九州から2名、北海道や新潟、静岡からも来院されました。どうして来たのと問うと、インターネットで探しだしたとのことでした。このようにどうにかして良くなろうとする方々もいれば、最初から疑ってかかる人、病気が原因で攻撃的な人何を言っても悲観的な人もいます。検査結果の時に、非常に攻撃的だった青年が、2週間後に非常に穏やかになって来られました。本人も驚いている様子で、前回とは言葉遣いが違って丁寧語になっています。私ともう少し話したがっているようでしたが、次の方がいるので、そのままになっています。回復の会などに入ってほしいとも願います。

 検査結果を見ても、説明しなければ、その検査と症状は結びつきません。説明の中で疑いは晴れ、治ると信じ始めなければ、治療にはつながりません。また、自己評価が低く、健康というものを体験したことのない人は、少し良くなっただけで、もう治療は済んだと思ってしまったり、回復の過程で症状が悪化すると直ぐに諦めてしまいます。先日は、ガンの患者さんがもう人生は終わりだと悲嘆にくれていましたが、院長の説明でそれほど重症ではないとわかると、すっかり元気になりました。このように、意識の違い、考えることで、その人の歩みは全く違ってくるのです。

 また、子供たちの場合には、親がどのように対応するかでまったく、その子の人生は変わってきます。自閉症の子が、すごく良くなりました。私は検査数値を見て、もっと悪いと思って会ったら、それほどでないので聞いたら、この2カ月で驚くほど改善したそうです。私は、その若いお母さんに、「あなたは偉い、よく頑張りましたね」と言うと涙を流していました。

 信じなければ、幸せにもなりませんし、人生を築き上げることもできません。イエス様に12弟子として選ばれたトマスは、他の弟子がイエス様の復活を信じても、決して信じようとしませんでした。非科学的なことは信じない、という人は多いものです。しかし、信じなければ治療もしようとしないように、信じなければ何事も進まないのです。

 両親の仲が悪いと結婚しようと思わず、兄弟仲が悪いと結婚しても複数の子供は持ちたがらないようです。また、自分に自信がない人は、新しいことができず、幸せを体験していない人は、趣味も冒険も努力もしようとしません。しかし、そういう中でも、幸せな結婚をしよう。幸せになろうと願い努力する人もいます。どこが違うのでしょうか。

 むろん、クリスチャンでなくても、幸せや成功を願い努力する人は多くいるものです。聖書は、@生まれながらの人、A肉に属する人、B御霊に属する人、の3種類の人がいると指摘しています(Tコリント2・14-3・3)。生まれながらの人は、自分の幸せや繁栄のために努力をします。それでも子供や愛する人の為には、献身的に努力をするもので、だから「女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」(Tテモテ2・15)とあるのです。

 肉に属する人とは、「堅い食物を食べられない」人であって、消化の良い「乳ばかり飲んでいるような者は、みな、義の教えに通じてはいません。」(ヘブル5・13

クリスチャンも牧師も、助けてくれ、と言ってくる人ばかりで、人を助けようとする人は殆どいなくなっています。自分の楽な道ばかり歩もうとするので、神の助けは要らないのに、それでも助けてくれと祈っています。残念ながら、神はそういう自己中心な人を助けることはしません。

 健康も堅い食物を食べなければなりませんが、御霊の人は、消化してこなすのが困難なようなことを平気で取り組むようでなければ、義の教えに通じることはないのです。最近、私に経済的援助を求める牧師さんたちが多いのですが、私は自ら苦しい困難に立ち向かおうとしない人は決して助けません。それは、彼らをだめにしてしまうからです。

 信じる、ということは、自分の能力の延長にあるものでもなく、他の人の能力や経済力の延長にあるものでもありません。復活の主を信じるということも、この世の全ての論理を超えたものです。はっきりと申し上げておきますが、復活の主を確実に信じていない人は、この世を信仰をもって生き抜くことはできず、神の国に間違いなくいくかどうかもわかりません。

 ところが多くのクリスチャンが、復活を信じるということに関してあやふやなのです。トマスは、復活の主を見なければ、合わなければ、決して信じないと言いました。皆さんは、トマスをけなすかも知れませんが、このような明確な態度に対して神は応じてくださいます。私は、35年前、多くの疑問と挑戦を神に投げ掛けました。神がおられるなら、こうしてくれ、ああしてくれ、いつまでに解決を与えてくれなければ、もう信じることはできないと、神に挑戦しましたが、神は私に全てを答えてくださり、かなえてくださいました。それで、神が私に答えてくださった以上、私も神に答えて献身するしかないと、判断したのです。

 神を馬鹿にしてはなりません。神は、「求める者は受け、探す者は見つけ出し、叩く者には開かれる」(マタイ7・8)方なのです。


5月2日 主と共に社会で働く。  ヨハネ福音書211~13   

新改訳 ヨハネ21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。

21:2
シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。

21:3
シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

21:4
夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

21:5
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

21:6
イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

21:7
そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

21:8
しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

21:9
こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

21:10
イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」

21:11
シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

21:12
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。

21:13
イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。



 復活されたイエス様に出会った弟子たちは、自分たちの信仰が形式的であったこと、イエス様が天国に至る道を示す救い主であることを悟りました。しかし、それでもなお、自分たちがどのように生きるべきものなのか、まったくわかりませんでした。それで、ペテロは慣れ親しんでいた自分の職業である漁をしようとしたのです。そして、他の弟子たちも、ともかく同行することにしました。

 自らの生まれ育った価値観、考え方、風習、そして生活を変えるということは、なかなかできないものです。世界の殆どの人々は、その生活様式が定まっており、そこに土着の宗教も深く結びついています。日本では、キリシタン禁令に基づいて檀家制度が確立し、その家の墓地を守るということが代々の子孫の義務とされたので、他の宗派に代わるということは、先祖に対して申し訳ないということで、それぞれの寺院の檀家を守るということが生活の基本となりました。

 日蓮宗などは、既成仏教を攻撃して教えを説いたので、迫害を受けましたが、次第に定着し認知されて土着化していきました。しかし、日蓮宗系には、新しく宗派が生まれ続けるのは、その特徴からありうることです。霊友会、立正佼成会、創価学会もこの流れの中にあり、墓や檀家制よりも現実の生活の生き方に強調がされているように思われます。

そうしますと、墓や檀家制がキリスト教定着の壁であるとは、言い難いのではないでしょうか。つまり、墓を守る、檀家制度を保つ、ということが家制度(確かに戦前の日本は家制度でありました。)と共にあったとしても、幕末以来の日本の新興宗教は、それらと戦い、勝利をしてきたのであります。私は、最近、創価学会や公明党の方々と親しくなり、交流をしているのですが、なかなか大したものです。かたや、クリスチャンや牧師たちと接すると、その社会性のなさと甘えが気になります。とても、社会で戦って、立ちうちできるような教育指導や組織作りがされていないようです。

しかし、アメリカ・アッセンブリー教団などを知りますと、その社会的影響力の大きさと働き、そして組織力や制度の強さに驚くものです。日本でも、内村鑑三、山室軍平、中田重治らの傑出した指導者の時は、それぞれ非常な勢いで教勢が伸びたのであります。山室軍平は救世軍という組織を日本でも非常に有名なものとする廃娼運動で勢いづき、多くの入隊者を獲得しました。中田重治は、ホーりネスの教会を毎週一つずつ作っていったと言われる日本史上最高のリバイバルを起こしました。彼らは、共に人材育成と組織構築力に秀でていたのです。

現代のクリスチャンは、復活の主に出会っても何をしてよいか途方に暮れていた弟子たちのように、指導者による強力かつ丁寧な弟子作りがされていないと思われるのです。私は、2月から6名の新入社員を雇い、更に3名を雇い入れようとしています。3月までに辞めた8名は、教え育てることができない人に任せていたために、それぞれが良いと思ったことをしており、後で確認して愕然とするような調和と統率のなさでした。これも私の責任でした。

 現在は18名全員の仕事と内容、働きぶりを私自身が確認し指導しており、これまで続いていたクレームも返品もなくなり、業績は飛躍的に伸びています。森を見て木を見ない、ということがないように従業員教育はそれぞれが全く違う指導と教育と配慮を必要としています。そして、ベツァルエルのように「主が知恵を与えられた、心に知恵のある者」(出エジプト36・2)を用い、「他の人にも教える力のある忠実な人たちに委ね」(Uテモテ2・2)ることが必要なのです。

 社会に戻ろうとし、漁を始めた弟子たちの働きには、成果は全くありませんでした。自分のために生きる人生には、報いも成果もなく、ただ歳をとり、お金を費やしていくだけのものなのです。イエス様は、船の右側に網を下ろしなさいと命じました。大事なことは、右でも左でもなく、イエス様の言葉に従って生きるということなのです。

 イエス様は獲れた魚を焼く炭火もパンも用意され、弟子たちに食事を提供してくださいました。そして愛情を注いでくださいました。私は、実は、従業員は私たち夫婦のために働くものであるという社会の通念、資本主義的考え方で人を雇っていました。その対価として給料を払い、休日を与えれば、十分であると考えていたのです。それ以上に、従業員と関わり、世話をするには忙しすぎるし大変であると思い込んでいました。

 しかし、一人一人と接してみると、丁寧に仕事を教わっておらず、争いと不平の中で心が痛んでおり、人格が育っていないことに気がつきました。そして、妻と結婚した時のことを思い出しました。私を必要としているこの女性を愛し、守れば、それだけで自分の人生は、意味あるものとなると困難を覚悟したのでした。先日、妻の医局時代のオーベンの先生が、柏崎さん、あなたは大したものですよ、と褒めてくれたそうです。体力も気力もなく、迷惑ばかりをかけて医局の問題児とされていた妻が、今や有名な能力ある医者となっています。神の栄光です。自分のことばかり考えていた妻が、自分を必要とする患者さんに、力と愛を注ぐことを始めた時に、神の祝福を得たのです。

 大事なことは、従業員に、患者さんの助けをし、力を注ぎ、愛情をもって接していくことを身につけさせていくことです。そのためには、私が、彼らを利用するのではなく、彼らのために生きれば良いのだということに気がついたのです。

 神の奥義は、自分を人に注ぐということです。そういう人に主はいつも傍にいて、私たちに声を掛け、祝福を注いでくださるのです。


5月9日 我々すべての母。  ガラテヤ4章26節   櫻井圀郎師

ガラテヤ4:21 律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。

4:22
そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。

4:23
女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。

4:24
このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。

4:25
このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。

4:26
しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。

4:27
すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」

4:28
兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。

4:29
しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

4:30
しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

4:31
こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。


一 上なるエルサレム

 1 「上なるエルサレム」

  (1)「今のエルサレム」と対比。基督教と激しく対立していたユダヤ教。

  (2)ユダヤ教とは、×旧約聖書の宗教。○旧約聖書を再解釈した宗教。

 2 アブラハムの「二人の子」

  (1)第一妻 サ ラ(雇い主) → 第二子 イサク(13年後)

  (2)第二妻 ハガル(被用者) → 第一子 イシュマエル

 3 上なるエルサレム=基督教

  (1)天に昇った勝利の基督に基づく基督教

  (2)エルサレム=神の平和。神の安心。

二 自由なる女

 1 アブラハムの二人の妻

  (1)ハガル サラの侍女。サラが夫に与えて第二妻に。子を産むことが目的

  (2)サ ラ 不妊の女。90歳。アブラハムの後継者を産むとの神の約束。

 2 自由と意思

  (1)自由とは 意思の自由。自由でなければ意思とは言えない。

  (2)自由の子 意思の子、信仰の子。人間的な思惑ではない。

三 我々すべての母

 1 母なる教会

  (1)信仰の子を生み出す母

  (2)巧妙な悪魔の誘惑の囁き

 2 信仰の母

  (1)信仰を守り、導き、育てる教会

  (2)主イエス「神の言葉を聞き、神を言葉を行う者こそ、私の母である」

 3 カーネーション

  (1)古代ギリシャ、古代ローマ、カトリック

  (2)基督の愛と基督のさかれた肉


5月16日 主はまた来られる。  使徒の働き13~11

新改訳 使1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。

1:4
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

1:5
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

1:6
そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

1:7
イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。

1:8
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

1:9
こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

1:10
イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

1:11
そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」




 十字架に掛かって苦しみを受けられ、そして神の大能により3日後によみがえられたイエス様は40日間、弟子たちに現れて教え、永遠のいのちと神の国の実在を示されました。この2点は、人間にとってはあこがれであると同時に夢であり、非現実的なことと思われることの典型でした。

 パウロが、「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰は虚しく、今もなお、罪の中にいるのです。」(Tコリント15・17)と力説するように、単なる理想的な人間、聖人、神の愛と真理を語った預言者とイエス様を捉えているとしたら、私たちは「全ての人の中で一番哀れな者」となってしまいます。なぜなら、命がけで復活のイエス様を伝えており、神の国の実在を信じているのですから。

 最近、坂本竜馬ブームですが、明治維新を作り出した志士たちは、日本を愛し、新しい国造りに命を掛けた人々でありました。そして、確かに竜馬を含めて多くの人が、その志のために死んでいったのであります。その確率は、90%以上でしょう。彼らは、死ぬことを恐れてはいませんでした。死の先のことが分からないのに、死ぬことを恐れない、つまり、死ぬことよりも、如何に生きるかに関心があったからでありましょう。

 人生というものは、不可解であり、不安定であり、予測不能であります。しかし、だからといって、希望を持たず、冒険をせず、自分を試したり戦うことを恐れる、そのような人生は、人生そのものの意味を失ってしまうつまらないものとなってしまいます。だから、人々は彼らを志士と言って志をもった素晴らしい勇士としてほめたたえるのです。

 一世代は大体30年ですから、徳川幕府の体制は8世代、9世代にも繋がる強固な封建制度を形作っておりました。そこでは、世襲の身分体制が確立しており、身分の低い者たちには、出世や成功というのは考えてはいけない御法度(禁止されていること)でした。むろん、間違いも未熟さも過激もあったでしょう。しかし、彼らは、それをものともせずに、維新に命をかけて、生きがいをもとめたのでありました。

 面白いことに、イエス様を迫害したパリサイ派の人々は、教理的には復活や死後のいのち、天使、霊の存在を信じ、それらを否定するサドカイ派の人々は、それほどイエス様を攻撃していないのです。つまり、彼らの教理は、彼らの人格や生活とは密接に結びついていなかったのです。同じことは、自称クリスチャンの真実性と人格、そして信仰生活とも密接に結びつくのです。復活や神の国を本当に信じるならば、私たちの日常生活は、信じない人々とは全く異なるものとなってくるはずですし、維新の志士のようにその教えを伝えるために命がけになって当然なのです。むろん、私たちはサムライではありませんし、現代は命がけの争いを起こしてはならない時代になっており、戦闘的攻撃的になるものではありませんが、本気で福音を信じ、伝えるということは基本となります。

 しかし、これらに必要なことは、意思でも能力でもありません。イエス様は、命がけで福音を伝えるのには、聖霊のバプテスマ、つまり聖霊の力が必要なことを教えているのです。そして、このことを多くのクリスチャンが軽んじているのです。人間というのは、本来、罪人であり、自分勝手であります。神の御霊に委ね導かれることよりも、自分の意志と判断で生きたいのです。

 多くのクリスチャンが、そのようにしていくら教えを受け、救われ、信者として歩んでも、聖霊に満たされて歩むことを嫌がるのです。弟子たちは、イエス様に教えを受け、証拠を示され、復活を確信しました。しかし、イエス様は勝手に歩まないで、父の約束を待ちなさい、と言われたのです。「聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなた方は力を受けます。そして、・・・地の果てにまで、イエス様の証人となり、福音を伝えます。」(使徒1・8)。

 信者にとって、全ての幸いと祝福、更に力は聖霊なる神から与えられ、自らの人間的な力は、単なる人間的な努力であって、やはり罪ある存在の働きであることを身にしみて悟らなければなりません。

 私は自らの35年に及ぶ信仰生活の多くを、そのような人間力と徒労に費やしてきました。それは、為すことが自己判断によるものであり、それは如何に祈り、努力しても、結局は、罪ある人間の歩みであり、苦しさと苦さ、虚しさと疲れを覚えるものであったように思われます。そして、神と共に歩むことの凄さ、喜び、平安、その楽しさと祝福を知りました。確かに、聖霊が、私たちに力と導きと、教えと知恵を、成果と充実を、そして、自らの判断の如何に愚かなことかを教えるのであります。

 主は、また来られます。それは、裁き主として来られるのであって、救い主としての働きと祝福は、それまでのこととなるのです。終末の教会は、黙示録のラオデキヤの教会のようであると言われています。「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。・・・生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐きだそう。」(黙示録3・15.16)。「「見よ。わたしは戸の外に立って、叩く。だれでも、わたしの声を聞いて、戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をする。」(黙示録3・20


5月23日 聖霊の賜物が注がれた。  使徒の働き1039~47節 

新改訳 使 10:39-47

10:39
私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。

10:40
しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。

10:41
しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。

10:42
イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。

10:43
イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」

10:44
ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。

10:45
割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。

10:46
彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。

10:47
「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」



 ローマ軍の百人隊長コルネリオは敬虔な人で、神を恐れかしこみ、聖書も読み、いつも神に祈っている人でした。午後の3時に幻を見て、神の御使いが話しかけるのを聞き、返事をしたのでした。この幻というのは、いわゆる幻聴幻覚とは違い、しっかりと意識はあるのに、はっきりと現実から乖離して見るものであって、私も何回か見たことはあります。

彼は、ヨッパの海辺にある皮なめしのシモンの家にいるペテロを招いて来なさい、と御使いによって命じられます。普通、ユダヤ人が異邦人の招きに応じることはないのでした。ところが、ペテロもまた、幻を見ます。

それは、天から敷物に吊るされて、ユダヤ人が食べてはならないと律法に命じられている動物が下ろされてくるのでした。そして、これらを食べなさいとペテロに命じる声が聞こえるのですが、ペテロは、汚れた物と律法に規定されている物を食べることはできませんと答えます。すると「神が清めた物を、清くないと言ってはならない。」と返事があります。同じ幻を3度も見て、ペテロはどういうことかと思い惑います。丁度その時、コルネリオから遣われた者たちが、この家の戸口に立ち、案内を乞います。そして、御霊が彼に「ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。」とペテロに語りかけるのです。

ペテロは、それで彼らを家に泊らせて、次の日に彼らと同行するのですが、どちらもユダヤ人としては異例なことです。彼らは、50キロほど離れたカイザリヤに行くと、コルネリオは既に親族や親しい友人を集めて待っています。そして、ペテロを迎えて、聖書の話を聞くのでした。

ここから初めての異邦人伝道が始まるのですが、先入観と偏見のある異文化圏への伝道は、神ご自身が積極的に関与します。また、神の語りかけをしっかりと自覚し、対応するペテロの勇気と決断が結果を左右するものとなります。

そして、人々の心を揺り動かし、神への信仰を起こすのは、やはり奇跡です。この奇跡は、勇気と決断力のない人には起こすことはできません。事なかれ主義や優柔不断の人では、奇跡は起こらないのです。そして、勇気と決断力を持つためには、日頃からコルネリオやペテロのように祈りをしていなければなりません。

今日は聖霊待望会を持ちますが、ただ聖霊をください、聖霊のバプテスマを受けてみたいものだ、と満足や祝福を願って聖霊のバプテスマを求めても、受けることは難しいでしょう。聖霊のバプテスマというのは、自己の利益の追求のために与えられるものではないからです。先週お話ししたように、聖霊のバプテスマは、イエス様の証人になって伝道し、神の業をするための力を賦与するものであって、奇跡や不思議をして自慢や高慢になるためのものではないからです。

使徒の8章には、「使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持ってきて、・・・この権威を私にも下さい。」(19)と言うのですが、「ペテロは、「あなたはそれにあずかることもできません。あなたの心が、神の前に正しくないからです。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。・・・あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」(使徒8・21.22)と答えます。このシモンは、信じて洗礼を受けていたと13節に記されています。ですから、信じて洗礼を受けていても、この世の生き方に囚われている人(苦い胆汁と不義のきずな)は、聖霊のバプテスマを受けることはできないということです。

 むろん聖霊のバプテスマを受けても、清くない人、つまりウソを言ったり、誤魔化したり、罪を平気で犯す人に聖霊は内在することはできません。悪霊というのは、憑くものですが、聖霊は満たす御方なので、私たちの心を支配し牛耳ることはないのです。したがって、聖霊のバプテスマを受けた人でも、罪を犯すことはできるし、祈らないで過ごすことはできるのですが、そういう人からは聖霊は去っていくのです。怒りや欲望に身を任せた人は、そのようにして滅びの中に入っていくのです。私はそういう人々を多く知っています。

 さて、コルネリオをはじめとする異邦人は、奇跡と神の導きに感動し、「この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦し受けられる」(43)と聞いて、感動し悔い改めて、そのまま聖霊のバプテスマを受けてしまいました。私の説教中でも、昔、聞いていて感動し聖霊が満たしているのを見て、その人に手を置いて祈ったら、直ぐに受霊した人がいました。教区の聖会でも、聖霊のバプテスマを受けそうな状態の人はすぐわかるので、バプタイズされるように祈ると直ぐに受けます。信徒時代に高校生科の主任として30数名の高校生とキャンプの小さな小屋で祈り、その殆どが聖霊のバプテスマを受けて、リバイバルがおこったことがありました。

 聖霊のバプテスマは、他の人が見ても受けたかどうかは、直ぐにわかるものです。「異邦人にも、聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神をさんびするのを聞いたからである。」(46)。こうして、彼らは、水のバプテスマよりも先に、聖霊のバプテスマを受けたのでした。


5月30日 この曲がった時代から救われなさい。  使徒の働き232~43

新改訳 使徒2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

2:33
ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

2:34
ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。

2:35
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』

2:36
ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

2:37
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。

2:38
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

2:39
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

2:40
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。

2:41
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

2:42
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

2:43
そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。


 iPadが発売されました。もはやサタンは、働き回る必要がなくなりました。インターネットが発明されてから、淫らな写真や人の中傷・ゴシップで人を堕落させるのは容易になりましたが、IT化が進むと人間を欲望の中に引きずり込むのは本当に簡単になりました。金が儲かる節約できるなどと情報を流せば、簡単に人々の関心を引き付け、破産させることができます。猥褻な映画や写真を見るのに、ビデオショップに行かなくても、直ぐにダウンロードできます。人々は、次々に押し寄せる情報と欲望に対して、無頓着に惑わされ、考えることや人と交流すること、人格を成長させることなど関心がなくなりました。

 「人は如何に生きるべきか」などと考える人は殆どいなくなり、そういう「いかに生きたら儲かるか、成功するか」というノウハウ情報が飛び交っています。都会では自然に接する機会は全くなくなり、食べるものもインスタント食品であり、加工食品であって何が含まれているか、わかりません。ただ、安くてうまいものが求められ、健康とダイエットに良ければなおのことうれしい、というだけの食事、食物が流通しています。

 勝手に堕落するし、勝手に不健康になり、勝手に争い、破滅していく、もはやサタンの働き場はなくなってしまったほどに、人間の自己崩壊システムを構築してしまったのです。いくら坂本竜馬のようになりたいと思っても、それは仮想現実(バーチャル・リアリティー)のものとなり、現実に試練や苦労をやる人はいなくなってしまいました。

教会も人々の心を満足させるサービス業となり、牧師たちも信者を如何に喜ばせるか、その要求を満たすかに関心を持つようになりました。教会は、奉仕をしないと罪責感を持ってしまう人々によって非常に細かく吟味され、計画されて世の中の人々をただ教会に招くことに多くの犠牲を払うべきものとされています。集まるだけで、良い証しになったとして、信者さんも満足するのです。悔い改めは、礼拝を守らない、献金をしない、人々を教会に誘わない、という教会の利益に反したものが大罪のように責められるようになってしまいます。

信者もまた慣れたもので、「極端な信仰はおかしい」、「自由であるべきだ」などとして、祈りもせず、聖書も読まず、伝道もしないで、「自分は神様と通じている」などと自惚れながら、塩気のないつまらない人間になっていきます。

「この曲がった時代から救われなさい。」と言っても誰も耳を傾けません。人々は、「昔から何も変わっていない。」(Uペテロ3・4)というのですが、「主の日は盗人のようにやって来ます。」(Uペテロ310)。

エルサレムの人々にとって、イエス様を十字架につけて、一段落というところでしょう。「これで騒ぎの種はなくなった。落ち着いた生活ができる。」多くの人は、「むきになってはいけない。熱心になって、筋を通そうとか、頑なになってはいけない。そのうち収まっていく。」などと冷めた考えをしているものです。信仰もまた、そういうところがあります。

 ところが、そのようにして世間の常識から片付けたイエスが、よみがえったというのです。そして、官憲の手で殺されたイエスと同じようになることを恐れていた弟子たちが、急に大胆になり、超自然的な現象と共に、「イエスはよみがえられた。」と叫んでいるのです。

 私が個人的に伝道し、救いに導いた人は100人以上いますが、それは私の接し福音を語った人の1割にも満たないのではないでしょうか。そして、献身し主の弟子として歩む人は更に少ないものです。今日は私の57歳の誕生日でありますが、その2万日、50万時間のうちに選択をしなければならないことは、数千・数万あったと思われます。

 二十歳の時の妻との出会いも大変希少な確率であり、その後の教会に導かれ、逆に私が妻のために祈り指導するようになってことも不思議なことです。結婚へのプロセスも神の介在なしにはあり得ないでしょう。

 ただ、私は神にあってはっきりと言えますが、そのそれぞれの時に、確かに神に従ってきたという確信があり、その一つでも違えたら、今の自分はなかったと思います。それらを振り返る時に、神なる聖霊がいつも私の傍にいて、私を間違った方向に行かないようにしっかりと守り導いてくださったことを感じておりました。ですから、それを自分の能力や功績であるとは思っていません。

 ただ、他の人々のことを思い、見守り、とりなしている時にわかることは、殆どの人は、この神の語りかけに応答していないということです。自分の歩みを誇るわけではなく、恵みだと思うからこそ、それができない人々の執り成しをし、祈りをするわけですが、だからこそ、もったいないと思うのです。

 この時代から救われなさい、ということは、この時代の普通の考え方、対応の仕方から抜け出て、神の国の考え方をし、神に導かれて判断をするということです。一度、過去に神を信じ、悔い改めたから、既に救われた、などという簡単なものではありません。

 この時代の風潮に左右されたら、救われることなく、囚われてしまいます。そういう面で、神に従い、神に聞かなければ、「一同の心に恐れが生じた。」(使徒2・43)ということはないのです。そして、罪と誘惑に対する聖なる恐れこそ、「多くの不思議としるしが行なわれた。」原因なのです。



6月6日 自分にないものとあるもの。  使徒の働き31~12
 
新改訳 使徒3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。

3:2
すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。

3:3
彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。

3:4
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。

3:5
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。

3:6
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、

3:7
彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、

3:8
おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

3:9
人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。

3:10
そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

3:12
ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。



 鳩山首相が失敗した原因の一つは遺産でしょう。母親が膨大な財産を持っており、それを生前に処理しないと日本の税制では殆どなくなってしまいます。それを息子の属する政治団体に寄付すれば良いのですが、母親の気持ちとしては息子の自由に使える裏金にしようとしたのでしょう。また、そのような財産を持つ者としては、人々に批判されけなされ、反論もできない立場は耐えられなかったのでしょう。議員ももうやらないと言いだしてしまいました。

 聖書でも歴史でも持てる者が、その持てる財産、地位、名誉、権力などを惜しんで失敗するというのが常です。会社を経営すると税金や社会保険などの支出は膨大なものとなり、利益の半分以上はなくなってしまいます。そのうえで人を雇い、世話をし、それでもなお思う通りに行かないと批判をされ、顧客からも文句がでます。ネットでも言いたいことを言われ、弁解もできない、かといって、手を抜いたり、悩んでいたら、直ぐに問題が起こり、業績も落ちて、給料も払えなくなる、踏んだり蹴ったりの繰り返しです。計算したら65歳である程度の年金が出るので、その歳になったら引退したらどんなに楽だろうとも思ってしまいます。

 それでは地位も名誉も財産もなければ、気が楽かといったら、そうでもなく、楽をしたい、健康でありたい、うまいものを食べたい、遊んで暮らしたい・・・などと、きりがありません。責任を放棄するということは、幸せを放棄するようなもので、人間としての尊厳を自ら意識しない人が幸せになることはありません。

 先週、この曲がった時代から救われなさい、と語りましたが、この時代に埋没することは簡単です。クリスチャンでも、牧師でも、殆どの人が金銭の誘惑に負けています。人の目に見えないもの、報いのない善行が神の目に覚えられ、天に宝を積むことになると語りましたが、そのような人は殆どおりません。

 打算や損得で生きる人を私は信用しません。そのような人は、利益の為には嘘も言い、誤魔化しをして、人を簡単に裏切るからです。傲慢な言い方になりますが、私はこれまでのところ、自分自身を一番信用できる人間だと思っております。そして、数少ない信用できる人を親友或いは、尊敬する人として大事にしております。

 さて、ペテロは、施しを求める乞食に対して、金銀は私にはない、と言いました。私たちクリスチャンは、自分の所有物は何もなく、神から預かっているに過ぎないと悟ることが必要です。

 この教会堂を購入する時、教会員には無理だと言う人もおりました。しかし、私は自分の財産を掛けて献げようと決心しました。ところが、前の所有者は6カ月も居座りました。思う通りに行かないことを全て委ねることを身につけました。毎日祈るなかで、全てを神に支配に委ねて、自分の支配権や思惑を放棄することを教えられたのです。それだけでなく、借金して献げることを神に強いられました。大きな覚悟をしたものですが、それ以降祝されたのです。

 MYビルを購入する時は、銀行の承諾が下りない中で、倒産も覚悟し、最後まで神に委ねることができました。今年の従業員の大量退職騒ぎでは、神が社長であるとはっきり意識することができました。私は神の僕として、一生懸命仕えて働くことを学びました。私にあるものは、すべて神のものであり、自分の所有権を主張してはならないことを教えられたのです。

 「私にあるもの」、それはペテロと同様に天地創造の神への信仰であり、神の子供であるという立場です。自分の所有権を主張するならば、神の僕となることも、神の財産の管理を任されることもないのです。なぜなら、自己所有のものを増やそうとして、誤魔化したり不正をすることがありうるからなのです。

 12節で、「なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって、彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか」とペテロは叫んでいます。多くの人が、信仰深くなりたいとか、力強い信仰者になりたいとか、成功したクリスチャンになりたい、とか自分の祝福ばかりを願っています。

 会社で、自分の利益や成功や満足を求めて働く人がいたら、その人は使い物になりません。確かに私どものところでもそういう人がいたことははっきりとしており、辞めてから多くの証拠が出てきました。もし彼らがそのまま勤めていたら、会社もクリニックも、そのうちに倒産したでしょう。実際にかなりの顧客が不適切な仕事で来なくなっていることがわかりました。私自身が現場で働いて、すっかり雰囲気が違うようになり、説明もよくわかったと多くの人が言ってくださっています。私は、仕事の中で神に仕えているのだと、いつも意識するようにしています。

 私たちにあるのは、強い信仰力ではありません。主の御霊が私のうちにおられるのです。そして、この聖霊をあなたもまた、受け入れるのならば、神の子、神の僕として神は大いなる御業を私たちを通してされるのです。

 多くの人が、神様と祈っていますが、これからは、主、と祈ろうではありませんか。遠い存在の全能の神ではなく、私をいつも見守り助けてくださる主人が、私たちの信じる神様なのです。その神は、このように生まれつきの足の障害者も癒してくださるのです。


6月13日 イエス以外に救いはない。  使徒の働き48~20節 
新改訳 使徒4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。

4:9
私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、

4:10
皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。

4:11
『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。

4:12
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

4:13
彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。

4:14
そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。

4:15
彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。

4:16
彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行なわれたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。

4:17
しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」

4:18
そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。

4:19
ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。4:20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」


 今日は献児式がありましたが、子供が生まれて、その名前を与えられると、そこに権利がついて来ます。更に、その家の歴史を負い、財産管理の責任がついて来ます。鳩山家やしばらく前の細川家などは大変な財産を継いできたわけです。日本は世界でも稀な平等社会で、家柄や身分の差などは戦後殆どなくなってしまいましたので、名前の価値というのが、あまり実感がないようです。

 江戸時代までは、名前を大事にし、だれそれの子孫として家柄を大事にし、無理に戸籍を作り出して、封建制の根拠としてもいましたが、明治維新で、平民が権力を握り、それらの戸籍を意図的に分からなくしてしまったきらいもあります。ともかく、聖書はユダヤ人の系図を大事にします。

 ですから新約聖書の冒頭の、日本人にとっては面倒くさいダビデ王の子孫としての証明、ルカ3章にあるマリヤの祖先のダビデの子の祭司ナタンへの系図が大事なものとなり、イエス様は約束の救い主としても証明されるのです。つまり、イエス様は創世記3章から預言され、その後も預言され続けて、その詳細な姿が捉えられてきたのであり、突然ご自身を超自然的に現わしただけではないのです。神が人を救うということは、歴史の初めから意図され予表されてきたのです。

 イザヤ書には、イエス様の十字架に掛かる姿と意味が預言されています。

  まことに、かれは私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが、私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。私たちは、みな、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちの全ての咎を彼に負わせた。(53・4-6

イエス様がむごい死を遂げられたので、私たちに救いがあるのです。ペテロとヨハネはイエス様が十字架で死なれるのを見ました。そればかりではなく、イエス様を裏切った自分の罪を深く恥じ、悔い改めながら、救いようのないイエス様の苦しみを眺めていたのです。もし、イエス様がよみがえらなかったなら、彼らは一生、自分の罪と行動に苦しんで発狂してしまったかもしれません。

預言の中に明確に書いてあったのに気がつかず、罪なき方であることを知っていたのに邪魔であると判断して殺してしまったのです。家を建て、社会を築き上げようとしたユダヤ人が、価値がなく無駄だと捨てた石が、イエス様だったのです。人生を築き上げる礎石は、神が居られるという信仰です。神を信じない者の人生は、如何に生きようと、無駄なものとなります。一生懸命築き上げても、倒れてしまう基盤の上に人生を築いてはなりません。

 多くの人が、神を信じることを人生の味付けや意味合いと考えています。神を信じるということは、その人の人生の礎石でなければならず、根幹でなければならないのです。そうしてこそ、意味ある人生を生きることができるのです。

 ペテロは、イエス様を無残な十字架に付けた当事者として自ら告白します。「この方以外には、誰によっても救いはありません。」

 皆さんは、罪というものが、人を破滅させ、裏切り、陥れてしまうものであることを、知っているはずです。私が、牧師として皆さんを執り成し、祈り、助けることができるのは、人間の罪深さを知っているからです。人間というのは、自己利益の為に平気でうそを言い、騙し、傷つけ、攻撃する存在です。私は、これまで助け祈り愛した人々から、散々裏切られ、傷つけられてきました。神の前で、それを苦しみ泣き叫んだ時に、それはまさに自らの姿であることを知らされたのです。

 つまり、勝手に生き、自分のことばかり考えて、私をも利用する人々の罪を赦し、とりなすことこそ、十字架の道であることを知らされたのです。まさに、イエス様がされたことを私たち自身がするように従った時に、私たちにも主の弟子としての奥義が取得できるのです。そして、このことをイエス様は、全ての人に要求しておられるのです。

だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです。(マタイ16・24.25)


6月20日 教会で名を上げてもしょうがない。  使徒の働き432~55
使徒4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。

4:33
使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。

4:34
彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、

4:35
使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。

4:36
キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、

4:37
畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

5:1
ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、

5:2
妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

5:3
そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。

5:4
それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

5:5
アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。



 神の子イエス様が十字架に付けられ、代わりに助け主の聖霊なる神が父なる神によって遣わされたので、教会が始まりました。そのことは、イエス様ご自身が預言されていたことです(ヨハネ16・7)。その助け主は、「罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせます。」(16・8)とあります。

 イエス様が人の罪の身代わりとなって、十字架に掛かってくださったので、自分の罪を認めて救いを信じる者は、神の子となり、助け主なる聖霊がその人の心の中に住んでくださることになりました。聖霊はまた、「すべての真理に導き入れて」(16・13)、神の栄光を私たちにも現わしてくださるのです。更に、イエスを信じる者は、イエスの名によって、私たちが必要だとして求める物を与えてくださるのです(16・23)。

 この実現によって初代教会が形成され、人々は信仰とそれにふさわしい生活を学ぶために共同生活をすることになりました。これは、律法と戒めによってがんじがらめに縛られていたユダヤ人にとって、信仰者としてのイエスの教えに従って生きるためには、必要なことだったのです。この状況と意味合いを誤解して、信仰者の共同生活が理想などと解釈することは、逆に戒律的になる誤った原則主義者の教えです。このことを絶対化すると、聖書の他の箇所の教えが意味のないものとなってしまうからです。

 青年期の共同生活は必要なものですが、成熟ということは管理責任の行使及び自他の自由の確保という成長プロセスを経なければならないからです。キリスト教というのは、指導者による絶対的な管理や先制を決して認めてはならない教えなのです。牧師や夫や父親には絶対服従などという教えを唱えるのは、聖書原則を誤った戒律的なカルト集団として警戒しなければなりません。

 今日は父の日ですが、「父たちよ。あなたがたも、子どもを怒らせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6・4)という言葉を贈ります。権威と権力のある者は、その行使によって人の怒りを起こさないように注意をしなければならないのです。現在、興奮した一人の精神疾患の患者さんの敵対行動によって多くの障害を受けています。それでも、神を信じる医師及び経営者として、それに怒りをもって対応してはならないのです。

 さて、初代教会の共同生活は、力強い神の介入と信者の信仰と祈りに満ちた歩みによって、祝福され、喜びに満ちたものでありました。必要な資金は、互いに出し合い、必要に従って分け与えられていました。その中でも、後の指導者となるバルナバなどは、自分の財産を処分して、すべて使徒たちに渡したのでした。

 それを知ったアナニヤとサッピラの夫婦は、自分たちも教会の中で良い立場に立ち、威張りたいと思ったのでした。教会で最もみっともないのは、自分の自慢話をする人です。過去の自慢や、自分の業績や財産・地位を教会で語るのは、自分がいまだこの世にしがみ付いており、魂の救いもおぼつかないことを自ら告白しているようなものです。

 教会というのは、真実な形成を聖霊に満たされてしているならば、この世の地位や業績とは全く縁のないところで、それを自慢しても、褒められもせず、対応が良くなるわけでもなく、そのうちに自ら恥ずかしくなって傲慢さを悔い改めるような教会が最も聖書的なのです。皆さんのうち、他の人に相手にされないのを不審に思う人がいたのなら、自分の会話が自慢話に繋がっていたことを反省するといいでしょう。

 それでは、教会はこの世と縁がないかというとそうではありません。長老や執事は、よく家庭や財産を治め、世の中にも評判の良い人でなければならないと聖書(Tテモテ3章)に書いてあります。むろん、金銭にも無欲で、とあり、共同生活から成長して抜け出した社会人としての成熟が要求されるのです。

 ところが、愚かなアナニヤ・サッピラの夫婦は、地所を売った代金の一部を自分に残しておきながら、全額を献金したとウソを言ってしまったのです。正直に一部を捧げただけだと言えば良いのに、この程度のウソは平気だと思って、神にも人にも誤魔化してしまったのです。

 ウソを言う人は、自分のウソがばれないようにとその後も自分の言ったウソとつじつまを合わせて言葉を言わなければならないので、更にウソを言い、平安を失います。私が気になるのは、そんなに信仰でしたわけではないのに、「神に示されて」、「祈って」、「信仰によって」、などと簡単に神の名を言って「証し」にしたがる人々です。本当に信仰でしたならば良いのですが、信仰でしたものでないなら、「主の御名をみだりに唱えてはならない。」という十戒を犯したことになるのです。「恵みによって」という言葉は、誰が言っても良い言葉です。しかし、「私は、これこれを信じて」という言葉は、なかなか言ってはならない言葉です。

 要するに、信仰者を気取ってはならない、ということです。本当に信仰を持ち、信仰に従って生きるということは、生半可なことではありません。私たち夫婦は、牧師であり、クリスチャン医師という肩書を背負っているので、その重荷に毎日苦しんでいます。ただ、その重荷を負っているという意識を、イエス様に任せていこうとするので、どうにか恵みによって暮らしていけるわけです。誰よりも働き、誰よりも責任を負い、そして酷いことを言われ、苦しい戦いをする。でも、それが、信仰者としての十字架だと覚悟したので、それを主の御霊によってさせていただいています。

 こういうことを祈りのないクリスチャンが、形だけで真似をしたら破綻します。世の中の算段や常識で助言してくれる人もいます。しかし、一たび、十字架を負って生きた私たちにとって、これを逃げたら、滅びにあいます。

「わたしの義人は、信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、あたしのこころは彼を喜ばない。私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、しんじていのちを保つ者です。」(ヘブル10・38.39


6月27日 人に従うより神に従うとは。  使徒の働き527~39節 

新改訳 使徒5:27 彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、

5:28
言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」

5:29
ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。

5:30
私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。

5:31
そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。  5:32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

5:33
彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。

5:34
ところが、すべての人に尊敬されている律法学者で、ガマリエルというパリサイ人が議会の中に立ち、使徒たちをしばらく外に出させるように命じた。

5:35
それから、議員たちに向かってこう言った。「イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。

5:36
というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。  5:37 その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。

5:38
そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。

5:39
しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」


 日本の役所は、世界のどこよりも無駄が多いのではないでしょうか。「公僕」という言葉がありますが、役人が税金で国民の世話をするという考え方が一般的なものとなっているのは普通ではないでしょう。それは資本主義ではありません。商売というのは、安くて良いものでサービスが良いものが繁盛するので、淘汰されていくのです。

 ところが、日本ではサービスを役人がするという意識があるのですが、それは需要と供給の原則を無視しているので、必ず一方的なものとなり、金が掛かり、不適切なものとなり、更には一部の権力者が利得を独占するのです。後進国というのは、そういう公共が利得の手段になる国です。

 ですから日本では、弁護士・会計士・司法書士などの資格はあっても、役所の御用聞きになり、また独立した専門職として定着しないのです。また、日本の経済は許認可の中でやって来ましたから過保護で、かつ独占なので、競争原理が定着しておらず、現在の不況の原因となっています。

 他方、そのような中で弱者が犠牲になっており、それは一般国民の殆どでもあります。精神病患者の数も非常に多くなっていますが、それは向精神薬の販売から始まり、服用した患者さんはやめることができないようになっています。この許認可も多くの資金を投じればできるようになっています。社会と言うのは、罪と欲望の上に成り立っているので、正しく生きようとするだけならば良いのですが、その権力者の利害に障ると突然、弾圧を受けるのです。

 南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)を打ち破ったマンデラさんは、大変な迫害の中で勝利を勝ち取ったクリスチャンです。今日はその大統領就任演説の一部をお配りします。ガンジーもそのような闘争を行い、スーチーさんも現在戦っているのです。NHKの龍馬伝に出てくる武市半平太は、暴力によって下士の人権を勝ち取ろうとしたところに無理があったというべきでしょう。

 ペテロたちも公権力の弾圧を受けています。人々がペテロたちの奇跡に驚き、味方になっているので、手荒なことはできない(26節)けれども、議会の中に立たせて威圧を掛けています。イエス様の名によって教えてはならないと厳しく命じておいたのに(28節)ということに、普通は恐れて従うものなのです。

 ペテロは言います。「人に従うより、神に従うべきです。」(29)。さらに、あなた方は神の子を十字架にかけて殺したと責め、「神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」と言葉を続けて、立場としては裁きを行う権力者たちを裁いているのです。「彼らは怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。」のも当然なことです。

 ところが、ここにガマリエルという賢明な学者が、自分の論拠と考えや立場によって、人を裁いてはならない。公正な裁きをする神に任せなさい、と意見を言います。悪人は自ら滅ぶ者である、という原則であり、これはマンデラやガンジーと共通する考え方であります。

 さて、このような健全かつ公正な判断は、自分たちこそ正しいと考える全ての人が持つべきことであります。つまり、上述のようなことを言う私たちもまた、「自分の主義と考え方がすべて神のものであり、神が味方に付く」などという吟味なき正当性を振り回してはならない、ということであります。

 先週、アナニヤとサッピラの罪と判断についてお話ししましたが、罪や失敗を犯す人の特徴は、自分の意識が強く、なぜ失敗をしたのだろう、罪を犯したのだろうと考えていることです。そして、その罪や失敗をどうにかして挽回しよう、或いは頑張って切り抜けようとすることがあります。

 罪や失敗は、努力によって補えるものではありません。現代日本には、躾というものが家庭にありません。躾には褒美はなく、罰しかないのです。そして、躾の基本は親の人格にあります。そして、罰に服するということは、人格を形成するのです。更に言えば、神の国への道は人格形成の道であり、人格なき者は神の国にふさわしくないのです。ですから、受動的に罰を受けたり、罰を逃れようとしたり、弁解や言い訳を言う人は、罰に服するということがないので、人格を形成できないのです。

 自分が正しい者であり、思うようにならない人間や社会・組織は間違っている、などと判断する人は、ですから神の人としての人格が形成されていないのです。認められず、報われず、苦しいことばかりでも、それを正しいと信じ、神を信じる者としてふさわしい生き方として忍耐して生きることこそ、神の人なのです。

 この世に生き方に倣って、怠惰な生き方をしてはなりません。ペテロは、権力の弾圧にも関わらず、神の教えを語り、伝道をしました。多くの人がいつまでも、教わるだけの生き方をしています。聖書や考え方の指導を受けても、受動的であり、自分は未熟だと反省し、少しでも成長しようと考えているだけです。

 大事なことは、自らの未熟さなどに目を留めず、人に語ることであり、仕えることであり、伝道することであります。自分の弱さ罪深さに甘んじながら、ペテロのように神に従って、行動をしていくこと、報われない努力を続けていくことが大事なのであります。自分を良くしようなどと考えてはなりません。