1月 3日 地の塩としてのアブラハム。  創世記 131-11

創世記13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。

13:3
彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。

13:4
そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。

13:5
アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。

13:6
その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。

13:7
そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。

13:8
そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。

13:9
全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」

13:10
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。

13:11
それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。


今年の教会のテーマ聖句は地の塩として生きることを強調します。クリスチャンが塩気をなくしたら、この世における生存意義をなくしたことになるとイエス様は言われたのです。私は、信仰生活の中ではっきりとした神の法則を見出しています。それは、自己保全と自己中心の人間は、クリスチャンであろうとなかろうと決して祝福されないということです。ましてや、魂の救いを真理を得たクリスチャンたる者が、自己繁栄を望むだけであるならば、必ず悔い改めを迫られるべく、試練の谷を過ごさなければならないということです。

 昨年は、世の光として生きるということをテーマにしました。年越し祈祷会で話しましたが、そこでいう光は燭台の火であり、風にも消え、油が尽きても倒れても消えるようなはかない火のことでした。はかない火だから枡の下に隠して火種を守ろうとしても、それでは火の意味をなさないのです。如何にかよわい火であろうと、それは燭台の上に置き、他のものを照らさなければならないのです。

 昨年1月に話したゼカリヤ書の神殿の燭台に油を供給する2本のオリーブの木は恵まれました。その木は、二人の信仰者ゼルバベルとヨシュアであり、二人への信仰の油注ぎが、神殿を照らすものとなるのです。私はかくありたいとメッセージを語りながら願ったものです。

 ところが、破滅の人生を歩む人々も見てきました。要するに傲慢なのです。私たちは、そういうことを今日は、アブラハムとロトとの比較から学んでいきたいと思います。アブラハムはご存じのように、カルデヤのウルという俗悪な町を父と一緒にでましたが、父のテラは途中のハランに定着をしてしまいました。神は、その後、アブラハムに語りかけました。@父の家と生まれ故郷を出ること、A神の示す地に行くこと、でした。それは、神が祝福される者が祝福を得るという奥義を人々に示す旅でもありました。

 田舎者でもあったアブラハムは、エジプトのパロの権威と豪華さの前に動揺して、服従してしまう失敗もしますが、神の介入によって、そこから抜けだします。そして、悔い改めたアブラハムにとって、気になることは、自分に従ってきた甥のロトの貪欲さと不信仰でした。彼は、非常に富んだ者になっていましたが、自分の祝福が神からのものであることは知っていました。そして、自分の路程をべテルで振り返り、主の御名によって祈ると、やはり罪深いロトとの同行は無理であるということが示されました。

 神にある清さを守るためには、私たち信仰者は俗悪な者や貪欲な者との交流や同行は避けなければなりません。たとえそれが家族であっても、友人であっても、自分の信念や信仰を保つことができない人とは、距離を置いて過ごさなければ、私たちは祝福や方向性を失ってしまうのです。

 そこで、アブラハムは、ロトにはこの世の基準で良いほうを選ばせ、ともかくは別れて歩むことにしました。これは、決して交流を断つということではありません。後に、アブラハムは堕落したロトのとりなしをしており、また略奪されたロトの財産を命がけで取り返しております。つまり、神に付き塩気を保っているからこそ、破綻した親族を助けることができるのです。しかし、いくら執り成しをして助けても、罪人の人生を究極的に回復させることはできません。ロトは結局のところ、滅びの道を歩むことになるのです。

 皆さんは、あまりクリスチャンや信仰者を見ることなく、世の人々の一般的な暮らしを見ています。しかし、聖書は、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入っていく者が多いのです。」と書いてあります。

 現代社会は、貨幣経済、利益中心目標の限界に突き当たっています。そのように生きて人々は、病気になり、不幸になり、ノイローゼになりました。もはやいくら稼いでも、その金では幸せになることはできないのに、いまだに多くの人が、その幻に惑わされています。

 アブラハムは、神と共に歩むために、ハランを出て、ロトとも別れ、そして俗悪な平地のソドム・ゴモラとも離れたのです。しかし、決して地の塩になるとは、世捨て人になることではありません。アブラハムには、多くの神の家族と子孫が与えられ、祝福の人生を歩んだのです。



1月10日 地の塩。従順なイサク。  創世記2462-67

創世記24:62 そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのである。

24:63
イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。

24:64
リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、

24:65
そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。

24:66
しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。

24:67
イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。


 先週は、地の塩としての世の中の欲望と決別したアブラハムの歩みを語りました。今日は、その息子イサクの従順な歩み、決して人と争わない聖別された地の塩としての清さを語ります。塩は塩気を失って、アブラハムが注意したように世の中と迎合するようではなりませんが、塩気が強すぎて、味を失うようでも誰も近寄らなくなります。

私は、日本のクリスチャンがその独自性アイデンティティーを現わそうとして、一般社会から疎まれてきたような印象を持っています。クリスチャンというのは、マイナリティー(少数派)として存在する時に、地の塩としての健全性を持つのであって、歴史的にもマジョリティー(多数派)になった時には、救われていない者が入り込んで清さを失う傾向にあります。イエス様も、迫害され報われない民としての信仰者を励ましておられるのです。

 ところが、人間というものは基本的に権力に弱く、多数派が幅を利かせるので、どうしても勢力を伸ばしたいという気持ちを持ちます。この辺が信仰の逆説という奥義の一つで、力を持ちたいと思って行動すると力を失うのです。他にも、「愚かな者を神は選ばれた。」、「与えなさい。そうすれば与えられます。」、「迫害される時は喜びなさい。」などの聖書の論理は、信仰の奥義として身につけなければならないものです。

 私自身は、ダビデに傾倒し、パウロの論理に感動して神学と聖書の学びに没頭したのですが、結局のところ、マリヤの夫ヨセフの歩みで良いと自らを位置付けたので、平安を得たのです。教会成長志向が強く、誰にも負けずに教会を成長させ、牧師として成功しようと思って教会成長研修所に選ばれた時は、得意でしたが、その間に痛風になって動けなくなり、その後のいろいろな挫折体験ですっかり弱気になりました。2001年頃から祝福されてきたのですが、その頃はやはりヨセフのような心境になり、マリヤの陰でも良い、と思うようになったのです。そういう面で潟ーゼフと名付けたのですが、妻からは、ヨセフのように早死にしないでねと言われています。

 さて、イサクについて、今日の聖句は非常に麗しい記述です。イサクはアブラハムについて過ごし、子供の時には全焼の生贄にされかかったことにも従った人です。40歳になるまで結婚せず。信仰による結婚後も多くの試練があったのですが、その従順には、すばらしい人格と信念があったのです。

 イサクは飢饉の時に、情勢によって判断することなく神に従い、「その年に百倍の収穫を得た。主が彼を祝福してくださったのである。」とあるように、「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10・22)という奥義を自分のものとしています。その祝福を妬んだ人々は、イサクの使う全ての井戸を、それらはアブラハムが掘ったものであるにも関わらず、埋めてしまいます。他の所に移って井戸を掘っても埋められ、少なくとも5つ目の井戸の時にその迫害する人々から「神はあなたと共におられることを、はっきり見たのです。」(創世記26・28)と言われるほどの祝福を得るのです。

 私には、それらの祝福の秘訣が、今日の箇所にあると思うのです。イサクは、結婚前にネゲブの山地に住んでおり、そして各地を視察しています。その旅の疲れの後の夕方に、散歩に出るのです。男性が一人で散歩にでるということは、情緒豊かな思慮深い人であるしるしです。このような時代ですから減量の為ではありません。私も散歩が好きですが、脇目も振らずにひたむきに歩いている人は、なにか哀れです。イサクは、視察や調査を繰り返し、物事を深く考えるから散歩に出るのです。井戸の争いでも結局のところ、逃れながらベエルシェバというより良い地に戻ってきているのです。自分の面目や利害に惑わされない謙遜さを持っているから、状況に惑わされない判断をすることができるのです。

 イサクはリベカを愛し、母の亡き後、慰めを得た、とあります。人を愛する人は、忍耐と犠牲を持った人格がなければなりません。そして、そのように愛するが故に忍耐と犠牲を持って生きるが故に、人の愛を勝ち取り、愛されるのです。喧嘩をしたり、言い争いをする夫婦は、そのような人格がないのです。自分の権利や主張を繰り返す人が、愛を勝ち取ることは不可能です。イサクとリベカは愛し合ったのですから、非常に人格的な素晴らしい人たちなのです。

地の塩として生きるためには、

@ 塩気を保つために熟慮して判断しなければなりません。

A 忍耐をし、自分の損得を超えた従順な生活を送る。

B 愛しあう伴侶と友人を持てる。

C 全てを益とする神を信頼する。

 思うようにならない人生を思うようにしようとするから罠に陥るのです。いつも試練がありますが、それをよしとして、神の御手に委ねれば、いつかは祝福が神から来るのです。人に頼っても、己の力に頼っても、それは苦労でしかなく、祝福はもたらされないのです。


1月17日 地の塩3.祝福を重んじるリベカ。  創世記275-17 

新改訳 創 27:5-17

27:5
リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それでエサウが獲物をしとめて来るために、野に出かけたとき、

27:6
リベカはその子ヤコブにこう言った。「いま私は、父上が、あなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。

27:7
『獲物をとって来て、私においしい料理を作り、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、主の前でおまえを祝福したいのだ。』

27:8
それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。

27:9
さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。

27:10
あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」

27:11
しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。

27:12
もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」

27:13
母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」

27:14
それでヤコブは行って、取って、母のところに来た。母は父の好むおいしい料理をこしらえた。

27:15
それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、

27:16
また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。

27:17
そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡した。




 先週お話したイサクは40歳で結婚しましたが、60歳まで子供が生まれませんでした。ようやく生まれたのが双子で、まったく性格の違う兄弟でした。兄のエサウは粗野な人で欲望に走り、一人勝手に野を歩いて猟をしていました。妻も、祖父アブラハムの「カナン人の娘の中から私の息子の妻をめとってはならない。」(24・3,286)とある言いつけを簡単に破り、何人ものカナンの娘を妻としていました。それだけでなく、それが親に嫌われているとわかると叔父イシュマエルの娘を更に妻としました。イシュマエルも粗野な人で、エジプトの娘と結婚していたのでした。ヘブル書にはエサウのことを「俗悪な者」と指摘しており、ローマ書は神様が、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」(9・13)と記しております。

 他方、弟のヤコブは穏やかな人であり、天幕で家族と一緒に住みながら家畜の世話をしていました。当時の状況ですから、ヤコブも若い時は、欲も持っており、知恵におぼれることもありましたが、神への一途な信仰も持っていました。俗悪で不信心な兄が長男の祝福を軽んじているのが我慢ならずに、兄が獲物を得られずに空腹で猟から帰ってきた時に、レンズ豆の煮物を食べたがったので、「長子の権利と交換」と言うと、簡単にエサウは応じてしまったのでした。

 母リベカもまた、エサウの不信心が嫌いでした。信仰者が信仰を馬鹿にする人を嫌うのは自然なことです。夫が年をとって弱気になり、長男の祝福をするという時に、それを聞きつけて危機感を感じます。27章7節の「死ぬ前に主の前でおまえを祝福したいのだ。」という言葉を聞いて、エサウがどれだけ真剣にそれを受け留めたかは疑問です。しかし、信心深いリベカは、それを聞いて、こんな不信仰な長男に跡を継がせてはならない、と考えたのです。

 父親は、論理で物事を考えるくせがあります。信仰は持っているのですが、状況に対応させるよりも、よほど問題があっても原則に従おうとします。当教会の理念に「状況に左右されず」とありますが、その後に「聖霊に聞き従い」とあり、柔軟な判断が聖霊に導かれて行われることが大事です。さすがのイサクも年老いてきたのでしょう。

 ヤコブは、兄の気性の激しさと父の性格の一途さを心配します。生涯を忍耐と誠実で生きてきたイサクにとって、息子に欺かれるのは耐え難いことだとヤコブは理解するのです。しかし、リベカは言います。「わが子よ、神も父もそんなことをするはずがないけれど、あなたがもし呪いを受けなければならないことがあったとしたら、私が受けます。しかし、勇気をもって、なすべきことをしなさい。決して俗悪な者に専横を許してはなりません。」

 世の中には、思いもよらぬ俗悪な者がいるものです。それを手をこまぬいて見過ごしているとガンが身体を蝕むように、私たちの人生を破壊してしまいます。しかし、よく見張っており、思う通りにならないことを神に委ねて祈っていると、却ってその病巣を見つけ、根絶することができます。私は、マタイ13章の収穫の時まで毒麦を放置しておくという意味が最近分かってきました。放っておくと確かに毒麦は正体を現します。当初は毒麦は、良い麦に化けているのですが、中から出る毒によって害を現わしてくるので、どれが毒であるかはっきりとわかってくるのです。神の前に裁きの時があることを知っていなければ、とても腹が立つくらいあくどいことが悪人は行なうのですが、小銭を稼いでも、神の裁きの前には立ちおおせないでしょう。

 ともかく、地の塩として、リベカは不信仰で悪辣な者をたとえ息子でも許せなかったのです。日本人は、寛容ということを履き違えています。悪いことを悪いと指摘し、罰しないから悪がはびこるのです。成人式の行状は、はっきりと罰しないから起こることです。

 リベカの判断と行為の正しさは、その後の二人の歩みによって証明されます。ヤコブは、神に請願して歩み(28・22)、神の祝福を勝ち取る(32・29)ことになるのです。そして、ヤコブはイスラエル(神は争われる)(神の王子)という名前を与えられるのです。


1月24日 地の塩4、悪に負けないヨセフ。  創世記4014~23節 
新改訳 創 40:14-23

40:14
あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。

40:15
実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。」

40:16
調理官長は、解き明かしが良かったのを見て、ヨセフに言った。「私も夢の中で、見ると、私の頭の上に枝編みのかごが三つあった。

40:17
一番上のかごには、パロのために調理官が作ったあらゆる食べ物がはいっていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった。」

40:18
ヨセフは答えて言った。「その解き明かしはこうです。三つのかごは三日のことです。

40:19
三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をむしり取って食うでしょう。」

40:20
三日目はパロの誕生日であった。それで彼は、自分のすべての家臣たちのために祝宴を張り、献酌官長と調理官長とをその家臣たちの中に呼び出した。

40:21
そうして、献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をパロの手にささげた。

40:22
しかしパロは、ヨセフが解き明かしたように、調理官長を木につるした。

40:23
ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。



 ヨセフはヤコブの正妻の子で大事に育てられていたにも関わらず、17歳で兄たちに殺されそうになり、奴隷に売られてしまい、エジプトで奴隷として働くことになってしまいました。兄たちに裏切られたのは、父の愛を一身に受けたが故の妬みでした。ヨセフに罪はなく、兄たちに総出で殺されかけ奴隷にされるという出来事を通して、ヨセフの心は苦しんだに違いありません。それでも彼は、罪に負けて自分の人生をだらしなく過ごすことは耐えられなかったのです。将来の見込みのない奴隷という身分でも誠実に一生懸命働いて、全財産を任される執事になりました。

 20数歳の若さでそのような働きをし、聡明で体格も良く美男子だったので、評判の良い人気者だったでしょう(395)。ところが、ヨセフはまた理不尽な目に遭います。好色な女主人がヨセフを誘惑したのですが、潔癖なヨセフはそれを拒みます。それでも彼女は毎日ヨセフに言い寄り、とうとう家の者を全て外に出して不倫を決行しようと計画を練ります。しかし、それでもなお、ヨセフは誘惑を拒むので、逆に彼女は怒ってヨセフを無実の罪で訴えます。巧妙なウソによって訴えられたヨセフは、更に悪い監獄に入ることになります。

奴隷が女主人を襲おうとしたことで訴えられたのですから、ヨセフへの扱いは酷いものだったでしょう。鞭うたれ厳しい労役を受けなければならなかったことは当然です。普通だったらここで心が歪みひねくれて、怒りと敵意に囚われてもしょうがないような状況です。

 箴言には以下の言葉があります。

悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。14: 32

知恵のある者は用心深くて悪を避け、愚かな者は怒りやすくて自信が強い。14: 16

主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。8: 13

熱心に善を捜し求める者は恵みを見つけるが、悪を求める者には悪が来る。11: 27

 私はこのヨセフが大好きで、教会に来て2カ月でヨセフの説明を大学生会でまとめて発表した時に、聖霊に満たされる体験をしたことが忘れられません。ヨセフのように生きるなら、神は必ずいつも共にいて、守ってくださり、全てが転じて益となる、と語ると聖霊が私に充満して、その言葉の間違いないことを示してくださったのです。自分の会社をヨーゼフと名付けたのも、このヨセフに倣って生きたいという願いからでした。

 世の中には自分の思い通りにならないと相手を罠にかけ、陥れようとする人間がいるものです。悪人というのは、自分の悪と不正に気がつかず、平気で人を陥れ、攻撃するものなのです。しかし、「悪は罪人を滅ぼす。」(136)のです。

 「霊の戦い」が話題になり、「神社などに悪霊がいるから悪霊追い出しをするのだ」、などと馬鹿なことをする牧師や信者がいました。「神を信じない者は滅びです。」と宣伝している車がありますが、日曜の礼拝の時間もやっているので、まともなクリスチャンではありません。信仰とは、神を信じて誠実な人生を過ごすことであって、悪人に対して腹を立て、道を踏み外すことこそ、サタンの思うつぼなのです。「悪霊追い出し」などとして、悪霊を角が出て尻尾が生えているものと思うから惑わされるのです。悪を平気で行い、ウソを言う者こそ、悪霊の影響の下におり、囚われているのです。そういう者が敬虔な信者を装って、聖書を利用することもあるから注意しなければなりません。イエス様を誘惑したサタンは聖句を巧みに利用しているのです。

 ヨセフは、監獄でも誠実に生きて信頼を獲得しました。周囲はみな、堕落し、悪辣に生きている人々なのですから大変なことだったでしょう。それでもヨセフは神が自分を助けてくださることを信じたのです。「神は我らの避け所、また力、苦しむ時、そこにある助け。それゆえ、我らは恐れない。」(詩編461-2)とありますが、多くの人が苦難の時に、神に寄りすがるのではなく、この世の知恵や努力、力で対処、対抗しようとします。しかし、それでは、平安は得られないのです。

 たとえ、牧師や信者を自称していても、自己犠牲のない人、十字架を負って歩んでいない人を信用してはなりません。聖霊に満たされ、神が共におられることを何よりも第一にしなければならず、肩書きやきれいごとを述べる巧みな人を信じてはならない時代が来ているのです。

 ヨセフは聖霊に満たされていたので、献酌官や調理官の夢を見事に解き明かすことができました。正しいことをし続け、祈り続けて13年間、彼は報いられませんでした。しかし、そういう年月で彼の人格は聖霊によって養われ、訓練されて、不屈の信仰と判断力が練られたのです。そして、ついにエジプトの総理大臣に突然任命されることになってのですが、見事に大役を果たし、ヨセフの父ヤコブと兄弟たちを救いだしたのです。

 正直な人を悪い道に迷わす者は、自分の掘った穴に陥る。しかし潔白な人たちはしあわせを継ぐ。28: 10


1月31日 5.感動し率先するベツァルエル。  出エジプト3530~363
出エジプト
35:30
モーセはイスラエル人に言った。「見よ。主はユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し出し、

35:31
彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。

35:32
それは彼が金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、

35:33
はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる設計的な仕事をさせるためである。

35:34
また、彼の心に人を教える力を授けられた。彼とダン部族のアヒサマクの子オホリアブとに、そうされた。

35:35
主は彼らをすぐれた知恵で満たされた。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、彫刻する者、設計する者、および、青色、紫色、緋色の撚り糸や亜麻布で刺繍する者、また機織りする者の仕事を成し遂げるためである。

36:1
ベツァルエルとオホリアブ、および、聖所の奉仕のすべての仕事をすることのできる知恵と英知を主に与えられた、心に知恵のある者はみな、主が命じられたすべてのことを成し遂げなければならない。」

36:2
モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。

36:3
彼らは、聖所の奉仕の仕事をするためにイスラエル人が持って来たすべての奉納物をモーセから受け取った。しかしイスラエル人は、なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た



 父と母の歩みとその和やかな生活を懐かしく思い起こします。父は、東京の尾久で下駄屋を営んで人も使っていたそうです。戦争で前橋に移り、軍需工場で班長を務めていた後、部下の失敗の責任をとって辞めた後、職人用の草履を作り始めたようですが、詳細はわかりません。草履の裏は自転車のタイヤをタイヤを使います。古タイヤの耳を切り、洗って干し、それを逆に巻いて長時間蒸して平らにします。草履の形に切ってから、草履表に縫い付け、最後にきれいに切り揃えます。鼻緒もぼろ切れを芯に詰めて仕上げます。それを朝から夜遅くまで続けます。近所の人は母の人柄を慕い、父とも話をするのを求めて縁側に立ち寄ります。父は人の話を黙って聞き、母は相槌を打ちながら、お茶と茶菓子或いは漬物を出します。私はそれらの話を聞きながら、漫画の本を読むという毎日でした。多くの人が父を恩人とか世話になったとか言って挨拶に来るのですが、平凡な草履職人の父のもとに人が集まるのが不思議でした。

 クリニックの受付の横で仕事を始めましたが、患者さんに声を掛けられるのがうれしく、そこにお茶を用意して、相談窓口でも始められたらと思います。喫茶店のオーナーになるのが引退後の夢でしたが、お茶を出しながら窓口相談のおじさんになるのもまんざらではありません。

 職人というのは、自分の仕事や芸で人を喜ばせ満足させるのが生きがいでしょう。彼らは権力に屈せず、顧客にも媚びず、自分の仕事のできの良さを磨くことを信念とします。人を喜ばせ満足させるためには、良い物を安く売ることを信条とし、清貧に甘んじる他はありません。そして、それが誇りなのです。理不尽なことに頭を下げることを拒み、父が職人として人生を貫き、働き続けたことを思い起こします。

 ベツァルエルはT歴代誌2章によれば、ヘツロンの子カレブの曾孫ですが、このカレブはケナズ人エフネの子である勇者カレブとは別人です。ヘツロンはユダの孫ですからベツァルエルはユダから7代目となります。エフネの子カレブもT歴代誌4章にユダの系図に突然載っていることから、ケナズ人エフネとその子カレブが出エジプトの時、合流してカレブがユダ族の娘と結婚したのでユダ族の中に加えられたのだと思います。ケナズ人はエサウの子孫の一派であり、カレブの弟オテニエルは最初の士師となります。T歴代誌4章には、ケナズの子たちの子孫が職人だったと記され(14)ているので、ベツァルエルは、部族に加えられたケナズ人の職人から技術を学んだのではないかと思います。これは、柏崎説です。

  むろん、文化の高いエジプトで職人の技術も身に着けていたであろうベツァルエルですが、神に名指しで召し出された(出エジプト35・30)のは、技術の故だけではありません。「感動して、進み出て仕事をしたいと思う者」(36・2)でなければならないのです。感動のない人は、自分の仕事に専心することはありません。向いていないとか、苦労が多いとか、うまくなれないとか、いろいろな理由で仕事を変える人が多いように思われます。仕事は、Callingとも言われます。神の召しなのです。

 就職の面接の時に、キャリアアップのためにと書く人がいて驚きます。会社は、その人のキャリアアップに利用されるということですから、それで採用するところがあるのでしょうか。確かに、思い通りにならないと直ぐに辞める人が多くなっていますが、採用する側としては、3年以内に転職を重ねている人は、採用する気にはなれません。仕事が身に付き、しっかりと顧客の為に働くことができるには2年は掛かるので、それ以前で辞める人は形だけの技術しか身についていないと思われます。つまり、仕事に感動のない人は、仕事を続けることもできず、仕事も身に付かず、生きがいも人生も確立しないと思われます。

 天職というのは、神が人を喜ばせ仕えるためにその人に与えた使命であり、その仕事を通して、地上の人生が問われるのです。そういう意味でも、クリスチャンは自分の仕事に神の召しを確認することが必要で、そのことによって地の塩としての使命を果たすのです。

 「主が知恵を授けられた心に知恵のある者」とは、「感動してその仕事をしたい」と思う者でなければなりません。いやいやながら働く人や、愚痴を言う人に神は知恵を授けられません。給料が良い仕事、楽しい仕事、目立つ仕事、いろいろと願いはあるかもしれませんが、職人の気持ちとは遠いように思われます。何よりも、欲望を満たす仕事によって、「神の霊に満たされた。」ということはないでしょう。

 ベツァルエルの仕事は、自分ひとりでしたものではありません。主は、「彼の心に人に教える力を授けられた。」「彼らを優れた知恵で満たされた。・・・仕事を成し遂げるためである。」人々が助け合い、教えあい、励ましあって、仕事ができるならば、なんとすばらしいことでしょうか。

 自分に与えられた天職に献身して人生を過ごすならば、なんと充実した生き方ができることでしょうか。天職に引退はありません。自分の技を磨き、人と助け合って、仕事をしていくのです。他人の作った物にいくら手を掛けても、素材と基礎が悪ければ良くはならないものですが、私たちは大きな物、目立った物にケチをつけ、関わりたがるものです。また、他の物を利用したがるものです。自分でコツコツと作り上げなければなりません。そして、毎日毎日、少しずつ出来上がることを喜びとするのです。

 父は、こつこつと忍耐と信念をもって生きた人生で、私を作り上げたような気がします。人生の半ばで、自らのなすべきことをはっきりとつかんだような気がします。


2月7日 6.知略の限りを尽くしたネヘミヤ  ネヘミヤ47~16節 

新改訳 ネヘミヤ4:7 ところが、サヌバラテ、トビヤ、アラブ人、アモン人、アシュドデ人たちは、エルサレムの城壁の修復がはかどり、割れ目もふさがり始めたことを聞いたとき、非常に怒り、

4:8
彼らはみな共にエルサレムに攻め入り、混乱を起こそうと陰謀を企てた。

4:9
しかし私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて日夜見張りを置いた。

4:10
そのとき、ユダの人々は言った。「荷をになう者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない。」

4:11
一方、私たちの敵は言った。「彼らの知らないうちに、また見ないうちに、彼らの真中にはいり込んで、彼らを殺し、その工事をやめさせよう。」

4:12
そこで、彼らの近くに住んでいたユダヤ人たちがやって来て、四方から十回も私たちに言った。「私たちのところに戻って来てほしい。」

4:13
そこで私は、民をその家族ごとに、城壁のうしろの低い所の、空地に、剣や槍や弓を持たせて配置した。

4:14
私は彼らが恐れているのを見て立ち上がり、おもだった人々や、代表者たち、およびその他の人々に言った。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」

4:15
私たちの敵が、彼らのたくらみは私たちに悟られ、神がそれを打ちこわされたということを聞いたとき、私たちはみな、城壁に帰り、それぞれ自分の工事に戻った。

4:16
その日以来、私に仕える若い者の半分は工事を続け、他の半分は、槍や、盾、弓、よろいで身を固めていた。一方、隊長たちはユダの全家を守った。


 ペルシャ帝国の王の献酌官ネヘミヤは大変な高官であるにも関わらず、祖国エルサレムの城壁が荒れ果てて同胞が悲惨な状態であることを憂え、その修復を願い出るのです。そして、私財を投げ出して全力で城壁再建を図り、多くの敵の攻撃や罠を乗り越えて、52日間で完成しました(6・15)。更に、ユダの総督として12年間総督手当てをもらわず、税を少なくして民政をはかり、エルサレムとユダヤの秩序を回復したのです。

 ネヘミヤを私が大好きな理由は以下のとおりです。

1. 自分の地位や名誉を捨てても、同胞を愛する仕事をしようとした。2・5

2. 私財を投げ出し、給与ももらわずに、民が豊かになるために生きた。5・14

3. 祖国が困難にあったのを不信仰と罪の故と認め、それを解決しようと動かないことを自らの罪を認めた。1・4-9.

4. 自ら密かに現地を偵察し、実情を確認して、準備した。2・12-18.

5. 敵が誰であるかをはっきりと確認し、彼らと迎合することがなかった。

6. 協力する人々のことをしっかりと記録し、彼らの献身と働きを賞賛した。

7. 敵の心理的攻撃に対して、神への祈りをもって対抗した。4・4-5.

8. 戦う覚悟を民に教え、武器を持たせた。4・13-14.

9. 神に祈りながら、日夜見張りを置いた。4・9.

10.民の生活にも心配する経営と政治力を持っていた。5章

11.指導者を私財を持って慰労し、人々の苦労をねぎらいながら、自分は節制をした。5・17-18.

12.神を恐れて、人に威張らなかった。5・15.

13.敵の批判や策略に対してはっきりと反撃している。6・8-9

14.殺害の罠に対しても逃げようとしない。6・11.

15.速やかにことを完成し、敵に機会を与えなかった。6・15-16.

16.適切な管理者・指導者を任命している。7・1-2.

17.ネヘミヤは信仰的指導者であったので、礼拝を導いている。8章

18.自国の歴史教育をしっかりとしている。9章

19.信仰をもって戦えば勝利し、堕落すれば敵と悪に支配されることを人々に教えている。

20.生活や社会の規律を作り、制度化している。

21.祭司や賛美する者を組織している。

22.祭司やレビ族の地位と経済を確立した。


2月14日 7.義人ヨブの試練とその意味  ヨブ記401~14
ヨブ40:1 主はさらに、ヨブに答えて仰せられた。

40:2
非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。

40:3
ヨブは主に答えて言った。

40:4
ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。

40:5
一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。

40:6
主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。

40:7
さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。

40:8
あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。

40:9
あなたには神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴をとどろき渡らせるのか。

40:10
さあ、誉れ、気高さで身を装い、尊厳と威光を身につけよ。

40:11
あなたの激しい怒りを吐き散らし、すべて高ぶる者を見て、これを低くせよ。

40:12
すべて高ぶる者を見て、これを押え、悪者どもを、その場で踏みにじれ。

40:13
彼らを共にちりの中に隠し、その顔を隠れた所につなぎとめよ。

40:14
そうすれば、わたしはあなたをたたえて言おう。あなたの右の手があなたを救えると。


 若いということは、未熟ということで、まだ熟してはいないということです。若い人を低く見ているわけではなく、熟したら能力があるということでもありません。ただ、経験は少なく、状況や出来事に対応することが不慣れであるということは事実です。他方、慣習や慣例、或いは失敗経験によって左右されないチャレンジをすることもできるわけです。

 先日、息子たちとゴルフをしました。ドライバーは私よりも50ヤードくらいは飛びますが、成績は私のほうが良く、ホッとしました。お風呂で、アプローチがうまくなりたい、パットが・・・と言いましたが、私はうまくなるには、経験を積むしかない、と語りました。上手な人は、集中的に練習と実戦を積んでおり、時と金を掛けないでうまくなったなどと言う人は、正直ではないと語りました。私は自分の立場と職業から、このスコア以上になることは諦めている、とも説明しました。ラッキーで幸せな人生になることはなく、天才で勝ち続けることもないのです。

 人の才能や素質など、大した違いはなく、要は努力と忍耐を重ねてきたかどうかが、その人の人生を決めるのです。才能や素質の違いと言うのは、殆ど弱者の言い訳であって、成功者は間違いなくどんな分野でも努力の積み重ねと言います。私自身は貧乏人の末っ子で、甘やかされて育った凡才ですから、自分の決意と努力がなかったら、人生は全く違ったものになっているでしょう。

 多くの問題は、物事を自分の思い通りに、速やかに、抵抗なく、気楽に獲得しようとするところから生じます。そして、殆どの人が、少しでも問題があると悲観し、腹を立て、運がない、状態が良くない、うまくいかない、と諦めるのです。

また、年配の人には堕落という問題があります。熟すのではなく、腐ってしまうということです。それは、安逸を貪ったり、慾に負けたり、対面を気にしたり、失敗を恐れたり、自分を変えることや問題を解決することに向かうことを避けるのです。健康とか子供の問題、経済的不安、その他の問題は、これらの安逸を妨げるので、自己管理しないと、やはり大きなダメージになります。

 宗教者の堕落や挫折を多く見てきていますから、私自身にいろいろな試練があることは、当然なことだと考えるようになってきました。神の国を目指すということは、天路歴程ではありませんが、多くの試練や艱難を乗り越えなければならないことだと考えております。

 さて、そのような面でヨブに振り掛かった試練は、大変厳しいものでした。試練というものに対して、人々は、その人が罪を犯したからだとか、悪いことがあるからだと考えることが多いようです。ヨブの試練の中で、3人の友人たちは、「お前に罪があるから神は罰を与えたのだ。ちゃんと悔い改めて、許しを請いなさい。」と忠告します。このような考え方は多いようですが、これでは神は意地悪な方で、人間の罪を許さないで責め立てるということになり、また、試練のない人は善人であるということになります。聖書信仰は、このような鬼神礼拝的な考え方から脱却しなければなりません。しかし、残念ながら、このような指導をして献金や礼拝を強要する牧師や宗教的指導者は多いのです。

 3人の友人の後に、エリフという若者が真理を語ります。試練は、@懲らしめのため、A地を潤すため、B恵みを施すため、(37・13)と示します。試練に対して、@悩む人も、A立ち向かう人もいます(36・21)。しかし、試練は空から降る雨のようなものであって、私たちはその意味合いなど考えずに、ただ黙々と雨に対応して働いていけば、土地は潤い、私たちは豊かになるのです。

 困難や試練を人為的にもたらす悪人や意地の悪い人はいます。しかし、そういう人に対抗しようとしてはいけません。彼らは間違いなく、公正な裁きをする神が罰を施します。意図的な悪や感情的な敵意は、社会によっても罰せられるように、神が罰します。私たち、信仰者がこのようなことをすることはあり得ないので、私たちは、自らの試練を罰などと考えてはならないのです。

 愚かな人は、自分の経験と判断で物事を捉えます。学んだり、人に聞いたり、熟慮することなく、物事を行い、そして人を攻撃したり、批判します。ヨブは、神がヨブを愛しておられることを悟りませんでした。ただ、神の前に正しく清く歩み、罰せられないように心がけていたのです(1・15)。大きな試練の中で「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(1・21)と神を賛美してしまうヨブの信仰は、神も喜ばれるものでした(1・8)。

 ヨブの信仰と人格に関して、サタンの付け入る隙があるとしたら、彼は、自分の義と人間性で信仰を保っていたことでした(1・9-11)。そして、神はヨブへの試練を許容したのです。ヨブは試練を経て、「あなたには、すべてができること、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」(42・2)と神に告白しています。つまり、神の御手による守りと祝福であり、確かにヨブはその後、神の祝福によって繁栄したのです。

 私たちは、神が私たちを個人的に大事に扱ってくださること、神の御心に従って生きるならば、必ず祝福され幸せになることを悟らなければなりません。そして、自分の人生の主権を自分から、神に差し出すことが大事なのです。


2月21日 8.地の塩としての人格と教養  Tサムエル167~18
Tサムエル16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

16:11
サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」

16:12
エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」

16:13
サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。

16:14
主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた。

16:15
そこでサウルの家来たちは彼に言った。「ご覧ください。神からの悪い霊があなたをおびえさせているのです。

16:16
わが君。どうか御前にはべるこの家来どもに命じて、じょうずに立琴をひく者を捜させてください。神からの悪い霊があなたに臨むとき、その者が琴をひけば、あなたは良くなられるでしょう。」

16:17
そこでサウルは家来たちに言った。「どうか、私のためにじょうずなひき手を見つけて、私のところに連れて来てくれ。」

16:18
すると、若者のひとりが答えて言った。「おります。私はベツレヘム人エッサイの息子を見たことがあります。琴がじょうずで勇士であり、戦士です。ことばには分別があり、体格も良い人です。主がこの人とともにおられます。」


 地の塩としての信仰者の在り方を今年は学んでおりますが、これは私自身の選んだ人物の特徴を聖書から抜き出して語っているわけですが、やはり基本的にはその人の人格と人間性ということになります。その点で地の塩として注意するべきは、極端な行動を取っていないことと、栄耀栄華に陥っていない人物であることを大事にしています。

 宗教的指導者である者として気をつけなければならないことは、宗教を教えて自分の栄達や繁栄を望んではいけないことと、信者を犠牲にしてはならないことです。私たちの属する福音派とは英語でEvangelicalsというのですが、伝道する人々という意味合いもあるようです。魂の救いということは人生の意義に関わる大事なことであって、伝道は私たちが優先するべきことですが、かといって伝道を重視するあまりにクリスチャンとしての生き方や人格の成長がなおざりにされてはならないものです。

 自らの罪を認め、回心して神を信じる者になったのですが、信者にしても牧師にしても、長い間に信仰が形骸化してきて、謙遜や献身を忘れ、この世に流されたり、堕落してしまうことがあります。この世では、衣食住の必要があり、信仰者といえども、これらを確保しなければ生きていくことはできません。「主の祈り」に「日ごとの糧を今日もお与えください。」という祈りがありますが、神に与えられるという不安定な状態よりも、自らの仕事や地位によって確保したくなるものです。献金というものも、信仰のバロメーターになり、貧しい時は豊かになったらもっと多く献げると言い、豊かになったらこんなに献金しては割に合わないと考える人々も多くいるものです。そういう面では、生活において常に戦いや困難があり、またその過程の中で、什一献金をしているということは、その人の信仰の確かさを保証するものであると言えましょう。

 今日はダビデのことをお話します。ダビデには7人の兄がおり、容姿が優れた兄もいるのですが、ともかく兄たちに揉まれてしっかりと育ちます。16章に記されたダビデの若い時の特徴は以下のとおりです。

@ 主によって心を認められた

A 一人で羊の番をする

B 血色の良い顔

C 目が美しい

D 姿も立派

E 琴が上手

F 勇士である

G 戦士である

H 言葉には分別がある

I 体格が良い

J 主が共におられる

K 主の霊が激しく臨んだ

私はこの中で、ダビデは琴が上手で人の心を和ませ、うつ状態から解放することができる人物であったことに注目をしています。信仰生活で大事なことは思いを上に、神に向けることです。ピリピ4章に「何も思い煩わないで、感謝をもってささげる祈りと願い」とありますが、歌を歌い、楽器を演奏するという人々は、人生を嘆くことよりも、慰め合い、助け合って、神を信じることを選んだ人々であります。歌うことをせず、讃美をしない信仰者はありえません。ダビデは、そればかりでなく、自分の讃美をもって人を慰め励ましたのです。自分の権勢欲によって悪霊の虜になったサウル王の心をも、ダビデは和ませることができたのです。

 現代社会は、物事を成し遂げる能力が重視されています。それでは、母の役割や友情、そして教養や芸術などの非活動的なものの価値が認められなくなってしまいます。実際、社会主義諸国では、そのようなものが軽んじられて、生産性が重視されたのですが、結局のところ、そういうことで生産性が上がったり、社会が落ち着くということはありませんでした。

 私は、教会というものが、伝道や成長を重視しすぎることによって、社会の秩序や情緒、文化を提供することがなくなり、魅力のないものになってしまったと思っています。親が子供の成長を喜ぶのは当然ですが、干渉や指導によって成長を促せるものではなく、却って損なってしまいます。大事なことは、愛情や栄養を注ぎ、その適性にあった成長を見守ることです。

 ノウハウを教えるプログラムや集会が私は好きではありませんが、それ以前に、人生の生き方を知らないで、ノウハウに飛びつく考え方を改めなければなりません。仕事をし、食事をし、風呂に入って寝るだけでは、とても人格や教養は形成されず、魅力ある信仰者にはなりません。テレビを観て得た知識などで教養が形成されることはありません。教養というのは、自分で考えることであって、黙っていて入る知識は、人を堕落させるだけなのです。そういう面で、本を読んだから、聖書を読んだから、知恵が増すわけでもありません。神に問い、自らを吟味し、努力をして自分自身を神の器として作り上げることが必要なのです。

 詩編69編を読むと、ダビデの孤独や葛藤、そして悔い改めや神への請願と信仰が明らかに示されています。「私は、呼ばわって疲れ果て、喉が渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました。」(3)とあるように、神にだけ目を向ける者の葛藤があるのです。「私へのそしり、私の恥と私への侮辱」(19)とありますが、真の信仰者は孤独なものです。その孤独こそが、神への讃美や歌を生み出すのです。そして、そのような信仰こそが、周りの人々への深い同情と思いやりを生み出すのです。自分の思いを人に伝えようとし、理解を求めようとし、妥協をする人々には、真の讃美は生み出せないのです。肉なる人間、罪ある人間の理解を求めようとする人に神への飢え渇きは生まれません。そのような罪人に対して、求めるのではなく、与える心こそ、神の喜ばれるものなのです。信仰者の交わりとは、そのような罪ある者の限界を理解した、執り成しと慰めに基づくものなのです。


2月28日 9.悪を裁かず神の手に委ねるダビデ  Tサムエル2411~19 
Tサムエル24:11 わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着のすそをよくご覧ください。私はあなたの上着のすそを切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めてください。私はあなたに罪を犯さなかったのに、あなたは私のいのちを取ろうとつけねらっておられます。

24:12
どうか、主が、私とあなたの間をさばき、主が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。

24:13
昔のことわざに、『悪は悪者から出る。』と言っているので、私はあなたを手にかけることはしません。

24:14
イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。あなたはだれを追いかけておられるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。

24:15
どうか主が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」

24:16
ダビデがこのようにサウルに語り終えたとき、サウルは、「これはあなたの声なのか。わが子ダビデよ。」と言った。サウルは声をあげて泣いた。

24:17
そしてダビデに言った。「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。

24:18
あなたが私に良いことをしていたことを、きょう、あなたは知らせてくれた。主が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかったからだ。

24:19
人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように。


 ヤコブが叔父のラバンから逃げる時、追いかけるラバンに神様が夢で告げました。「あなたは、ヤコブと事の善悪を論じないように気をつけよ。」(創世記31・24)。ラバンは娘二人を罠によって嫁にやることによって、ヤコブを14年間ただ働きをさせ、ヤコブの祝福によって多くの繁栄を遂げました(創世記30・30)。それで、羊は白、山羊は黒が普通であり、それ以外は殆どいないのですが、ヤコブはその少ないほうをもらうことに交渉しました。しかし、結果はヤコブの群れがどんどん増えたのでした。ラバンにも主張はあり、力はありますから、理由をつけてヤコブを攻撃することはできたでしょう。しかし、神ご自身が、ヤコブの味方であることを、ラバンに告げたのです。これでは、ラバンはヤコブを攻撃することはできません。

 日本社会では、批判や陰口が多いように思われます。私自身もよほど注意しないと、噂話に巻き込まれます。教団の監事になって最も良かった点は、自分の言葉に非常に注意深くなったことです。会社の社長になって覚悟したことは、社員と同じ目線になってはならないということです。牧師になって自戒したことは、教会員をどんなことがあっても祝福するということです。親になって気をつけたことは、事の成果や短期的なことで、子供を評価しないということです。

 監事としての意見や評価に他の牧師が聞き耳を立てることが分かってからは、下手なことや間違ったことを言ったら大変なことであり、言葉に慎重になりました。経営者としては、社員は自分の生活が会社の業績に関わっているので、いろいろな注文や意見をいうけれども、それは自分の都合を優先することが多いので、それを聞いていると会社の方向性をおかしくすることがわかりました。さらに、牧師がその信者を呪ったら大変なことになります。私は、信者の言動に悩み苦しんだことはあったけれども、腹を立てたり、怒ったことはないと思います。これは、親としてと同様で、祈り見守らなければなりません。

 ダビデは、無実の罪でサウル王に長い年月軍隊によって命を狙われてきました。ダビデは強く勇者であり、並はずれた指導者でもありました。心も清く誠実で、信仰深く、音楽や教養も豊かでした。部下にも女性たちにも民衆にも評判が良く、頼られていました。そのダビデの長所と優秀さが、王であるサウルの地位を不安定にするということで、命を狙われたのです。

 サウルは無理難題をダビデに課したのですが、ダビデは、それをいとも易しく果たしてしまいます。罠にも誘惑にも掛かりません。自ら槍で突き刺そうとしても、ダビデは造作なく逃げてしまいます。人々は、絶対権力のあるサウル王に嫌われたダビデを避けるのですが、ダビデはいつも守られ、逃げおおせます。

 攻撃されても罠に掛けられても逃げ続けるダビデの忍耐深さと誠実性に、私は感動します。殆どの人が、何でもないことで怒って、人を攻撃するのが世の中だからです。妻の患者さんには、妄想や統合失調症の人もいるので、あらぬことで酷い言葉や攻撃を受けることもしばしばです。だからと言って、診察しないわけにもいきません。私も昔、礼拝の証しで牧師批判をして、教会を混乱させ多くの教会員を去らせた人とその後も交流して執り成しをしてきましたが、やはり、15年たっても同じようなことをしてしまいました。今やその人の人生は、崩壊の中にありますが、もはや取りなすこともできません。

 Uペテロ2章に、「彼らは虚しい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれを逃れようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。・・・豚は身を洗って、また泥の中に転がる、ということわざどおりです。」(18-22)とあるように、ごまかして生きる人は、自分の罪の結果を刈り取るようになってしまうのです。人生で、こういう人々に数人であっていますが、決して悔い改めることをしないで、口先で生きて人々を惑わし、自らは次第にうまくいかない歩みに腹が立ち攻撃的になって身を滅ぼしていくのです。

 人の言葉や攻撃に腹が立ち、仕返しをしようとすれば、サタンの罠に陥ります。ダビデは、サウルを容易に撃ち殺すことができるチャンスを2回も持つのですが、決して攻撃しません。サウル王に何年もつけ狙われ追われ、逃げ回る生活を歩み、妻子も部下も命の危険にも遭うのですが、敵を攻撃するチャンスを利用しようとせずに、神の手に任せました。部下たちは、神が与えたチャンスだというのですが、サタンの罠であったとも思います。

 先週、「主からのわざわいの霊」とあるのは、実際には、神からのものではない、神は災いをもたらす方ではなく、神の黙認の中で悪霊が働いている、ということを語りました。今日も同様に、部下たちが「主があなたに、あなたの敵をあなたに渡す。良いと思うことをせよ。」と言われたのだから、サウル王を殺してしまいなさい、と言ったにも関わらず、ダビデは「主君に対して手を下すなど、主の前に絶対できない。」と悪の誘惑に乗らなかったことを指摘します。

 悪や攻撃に対して腹を立てず、「善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12・21)とするならば、それは神の国とその義がその人のうちにあることになり、神は100倍の祝福をもって私たちに報いてくださるのです(マタイ13・23)。


3月 7日 10.自分の栄光を求めないダビデ  Uサムエル2313~23 
新改訳 Uサム23:13 三十人のうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いていた。

23:14
そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。

23:15
ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」

23:16
すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、

23:17
言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。

23:18
ツェルヤの子ヨアブの兄弟アビシャイ、彼は三人のかしらであった。彼は槍をふるって三百人を刺し殺し、あの三人とともに名をあげた。

23:19
彼は三人の中でもっとも誉れが高かった。そこで彼らの長になった。しかし、あの三人には及ばなかった。

23:20
エホヤダの子ベナヤは、カブツェエルの出で、多くのてがらを立てた力ある人であった。彼は、モアブのふたりの英雄を打ち殺した。また、ある雪の日に、ほら穴の中に降りて行って雄獅子を打ち殺した。

23:21
彼はまた、あの堂々としたエジプト人を打ち殺した。このエジプト人は、手に槍を持っていた。彼は杖を持ってその男のところに下って行き、エジプト人の手から槍をもぎ取って、その槍で彼を殺した。

23:22
エホヤダの子ベナヤは、これらのことをして、三勇士とともに名をあげた。

23:23
彼はあの三十人の中で最も誉れが高かったが、あの三人には及ばなかった。ダビデは彼を自分の護衛長にした。

 「牧師は掃除をするものではない。」「牧師は羊飼いであって、信者は羊である。」などという言葉を聞くことがありますが、私はそういう言葉を聞くと虫唾が走るというか、嫌な気持ちになります。「牧師は指導者だ、信者とは違うんだ。」と牧師自身が言うならば、イエス様が人として生まれ、枕する所もない荒野に住まわれた(マタイ8・20)という謙遜な姿勢や「人の子が来たのも仕えられるためではなく、仕えるためであり」(マタイ20・28)を振り返らなければなりません。

 韓国に行くと「牧師先生様」と呼ばれ、大変大事にされますが、それを当然としてきた韓国キリスト教が庶民から尊敬されないものになってきています。日本の場合は、牧師など尊敬はおろか、変人と見做されることもあるのに、牧師自身が威張っている場合もあります。信者に囲まれて暮らし、説教をして教えるだけであると、そのようになることもあるのでしょう。

 宴会や酒の場で性質の悪いのは、警察官・教員・医師・保育士と言われていますが、普段の仕事でストレスが多く、きちんとしなければならない反動でしょうか。ゴルフなどでも、成績の悪い時に、その人の本性が現れます。ゴルフして最後まで仲の良い夫婦はいないということで、10年くらい前にコンペで仲良くゴルフしていたら「あなた方は本当の夫婦?」と疑われてしまいました。それでも、妻はマイペースで、体調の悪い時はおかしな行動を取るので、当時は内心腹が立つことも多かったのは事実です。

 社長とか指導者は、家庭でも同じ言動をして家族から嫌がられることもよくあります。人々にちやほやされることを当然として生きると、いつの間にか親しい友がいなくなり、誰にも相手をされなくなってしまいます。

 別に社会的地位や権力がなくても威張りたがる人はいるものです。自慢話をする人は、神の目を意識していない人かもしれません。「悪者どもは、放言し、横柄に語り、不法行う者はみな自慢します。」(詩編94・4)。

 ダビデには、勇士たちが揃っていました。3勇士がおり、その下にも3勇士がおり、さらに30人の勇士とその長ベナヤがいたのです。ヤショブアム、エルアザル、シャマの3勇士は、ダビデのために命がけで戦い、忠実な僕でもありました。ある時、ダビデがベツレヘムの門のところにある井戸の水を飲みたいものだと、独り言を言います。ベツレヘムは、敵のペリシテ人の先陣があるところです。するとなんと、その3勇士がダビデのために、命がけで敵陣に踏み入り、その井戸から水を汲んで持ってきたのです。

 ダビデのため息をかなえようとする忠実な勇士たちに感動と感謝を持ちながら、ダビデはその命がけの行為を自分のものとして当然に受け入れてしまうならば、自らの神格化につながり、罪を犯すことになると気がつきました。ここに誠実な信仰者の真骨頂があります。

 「幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。」(詩編40・4

 私自身は、献身者になってから、毎年多くの試練があり、自分の思い通りになったことは殆どありません。それらに地団駄を踏み、喚き苦しんだことは数限りなくありますが、それで解決したことはありません。ただ忍耐し、なすべきことを行い、毎日を過ごす中で解決したり、他の道が与えられたり、自分の過ちや弱さを教えられたものでした。

 それらの中にあって、掃除をしたり、片づけをしたり、人の世話をしたり、人に仕えることが、どんなに大事なことかわかってきたものです。指導者というのは、人々の利害が関わってくるので、不満や要求も突き付けられるものです。思い通りにならないことに苛立ち怒る者は、指導者としては不適切です。思い通りに動き働けない人々だからこそ、指導がいるのです。

 しかし、部下が指導者に対して文句や悪口を言い、敵対行動に出るならば、その人は、指導者の祝福や守りから外れることになります。ダビデの3勇士が命がけでダビデの飲みたがった水を汲んできたのは、ダビデの指導性を何よりも大事なものだと判断したからです。

 高ぶる者や悪人は、人に仕えることができません。だから、人を指導することもできません。人々の弱さや罪性を理解し、執り成し、成長させ、勝利させようとするから、指導ができるのです。君臨し命令することは、指導とは違うのです。

 「主は、私の味方、私は恐れない。人は、私に何ができよう。」(詩編118・6)。信仰者を攻撃し、破滅させようとする人がいるなら、主がその人の代わりに敵を叩いてくださいます。

 家庭の長は父親であり、会社の長は社長であり、教会の長は牧師です。長の祝福や守りを大事にして、長に従い、それぞれの働きと交わりを保つならば、更にその上の長であり、主であるイエス様の祝福と守りを受けられるのです。しかし、また、それぞれの長は、自分が栄光を取り、高慢にならないように主の僕としての忍耐と謙遜を身につけて歩むように努めるべきなのです。うまくいかない時こそ、信仰者としての真価が問われるのです。


3月14日 11.死ぬ覚悟を決めるエステル王妃  エステル記4章7~16 

新改訳 エス4:7 モルデカイは自分の身に起こったことを全部、彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために、王の金庫に納めると約束した正確な金額をも告げた。

4:8
モルデカイはまた、ユダヤ人を滅ぼすためにシュシャンで発布された法令の文書の写しをハタクに渡し、それをエステルに見せて、事情を知らせてくれと言い、また、彼女が王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求めるように彼女に言いつけてくれと頼んだ。

4:9
ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに伝えた。

4:10
するとエステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えさせた。

4:11
「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女でも、だれでも、召されないで内庭にはいり、王のところに行く者は死刑に処せられるという一つの法令があることを知っております。しかし、王がその者に金の笏を差し伸ばせば、その者は生きます。でも、私はこの三十日間、まだ、王のところへ行くようにと召されていません。」

4:12
彼がエステルのことばをモルデカイに伝えると、

4:13
モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。

4:14
もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」

4:15
エステルはモルデカイに返事を送って言った。

4:16
「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」


 イスラエル南王国がバビロニア帝国によって滅ぼされ、北王国の人々がバビロンに捕囚になった後、バビロニアはペルシャによって滅ぼされてしまいますが、そのままユダヤの人々は捕虜になっていました。イスラエル人とは、南北イスラエルの総称であり、南ユダの人々をユダヤ人というので、これ以後はユダヤ人と呼ぶのです。紀元前539年のクロス王の神殿再建命令以後も捕囚は残っており、荒れ果てたエルサレムよりも文明国ペルシャに住むことを余儀なくされていました。エステルが仕えるアハシュエロス王は別名クセルクセス大王であり、紀元前486-465年の統治とされています。以前お話したネヘミヤは、アルタシャスタ王の第20年とあるので、紀元前445年となり、エステルの後の話です。

 王は王妃の美しさを人々に見せようとしましたが、王妃ワシュティは誇り高ぶって出てきませんでした。王は怒って、王妃を退け、新たに王妃を選ぶことにしました。国中の美しい乙女たちが集められた中に、ユダヤ人モルデカイに育てられた姪の孤児エステルがいました。

 乙女たちを監督して12か月の躾指導をするのは、宦官ヘガイでしたが、他の乙女たちは自分の勝手に装うとするのですが、エステルだけは彼の指導のままに従うので、好意をえました。「彼女は、女たちの監督官である王の宦官ヘガイの勧めたものの他は、何一つ求めなかった。こうしてエステルは、彼女を見るすべての者から好意を受けていた。」(2・15)。そして、とうとうエステルは王妃に選ばれました。しかし、エステルは自分がユダヤ人であることは秘密にしていました。

 他方、モルデカイは王を殺そうとする人々のことを告発し、暗殺事件を未然に防いでいました。彼は自分がユダヤ人であることを明らかにしていましたが、王のお気に入りの権力者ハマンに対して彼だけが「膝もかがめず、ひれ伏そうともしなかった。」(3・2)ので、ハマンは彼を憎み、彼の属するユダヤ人を皆殺しにしようと図りました。

 ユダヤ人はペルシャ帝国の中でも教養があり、裕福な知識階級になっていたようです。ハマンは、彼らを皆殺しにするならば、その財産を没収できると考え、殺害に掛かる費用を補償するとして銀一万タラントを差し出すと王に申し出て許可を得るのです。これは、当時の税収の3分の2にもあたるそうです。

 ユダヤ人皆殺し命令は紀元前474年の第一の月に出され、第12の月の13日に実行されることが発布されました。1年の猶予の間に、ユダヤ人であることをやめるか、他国に逃げるか、殺されることを覚悟しなければならないのです。

 このことは、江戸時代のキリシタン迫害とも共通し、ローマ帝国におけるクリスチャン迫害、戦前の日本におけるキリスト教徒への迫害もあります。国家権力というものは、それに従わない人々を迫害し、追放するのが常です。したがって、クリスチャンとしては、自分たちと価値観の違う人々や、他宗教への非難中傷は避けたいものです。自分たちの信仰を唯一無二のものと確信することと、他宗教や他の価値観の人々の人格や考えを尊重することとは別な問題です。

 さて、その民族的危機を前にして、モルデカイはエステルに訓戒します。「自分は王宮にいるから助かるなどと考えてはならない。もし、あなたが、このような時に沈黙を守るなら、あなたは滅びるだろう。そして、別のところから神は助けを起こすだろう。あなたが王妃になったのも、この時のためかも知れない。」(4・14

エステルもまた、命がけで王に訴えることを決意します。そして、3日3晩の断食と断水を同胞に要請します。断食だけなら、私も21日間しましたが、水をも飲まないのでは、1日か2日がやっとでしょう。まさに命がけです。この後、有名なエステルのことば、「死ななければならないのでしたら、死にます。」と決意するのです。

結局のところ、ユダヤ人皆殺しを図ったハマンは、モルデカイを殺すために自分の作った柱に掛けられて死刑になり、モルデカイはハマンの地位を獲得し、ユダヤ人を殺そうとした者は逆に殺され、ユダヤ人は祝されるものとなりました。

「地の塩であれ」、という今年のテーマは、私たちクリスチャンが自分たちの信仰を人々の前に明らかにし、また、清さを保って生きることです。そして、そこには、私たちの生存や生活を脅かす戦いや事件もあることでしょうが、決してそれらに怯えずに、命がけで戦うということが必要なのです。

Tペテロ5:5 みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

5:6
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

5:7
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

5:8
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

5:9
堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

5:10
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。


3月21日 互いに日々の罪を清め合う。  ヨハネ福音書131~17 
新改訳 ヨハネ13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

13:2
夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、

13:3
イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、

13:4
夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

13:5
それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

13:6
こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」

13:7
イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

13:8
ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

13:14
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

13:17
あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。


 人には罪があり、その罪性を認め、コントロールしないと人生の破滅に至ってしまいます。私たちクリスチャンは、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。・・・罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者をするのです。」(Tヨハネ1・8,10)とあるように、自らの罪を認めたものです。そして、「私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しいお方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1・9

 さらに、Tヨハネは、罪と欲望に関する説明を続けます。「兄弟を憎む者は、闇の中におり」(2・11)、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、この世から出たもので、世と世の欲は滅びます。」(2・16

 指導者というのは嫌なもので、その行動や判断が人の利害に関わるので、非難や批判を受けるものです。また、組織や集団というのも、人の利益に貢献しないと大事にされず、離反されたり、批判されるものです。鳩山首相もオバマ大統領もその決断すべきことは多くの人に利害に関わり、あちら立てればこちら立たずで、何をしても非難批判されているようです。最近の人々は、何をしても自分の思う通りでなければ非難するようで、従順とか忍耐とか朴訥とかは愚かなものとされた自己主張の社会です。

 ところが、「兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまづくことがありません。」(2・10)とあり、人生の艱難辛苦や他人の罪を見ても、そもそもつまずく人は、クリスチャンではないと解説されています。これは、信仰者の大らかさを言い得て妙であります。非難・批判・つまずく、ということで、その人が魂の救われたクリスチャンであるかないかが分かるということなのです。

 ある自称クリスチャンが組織と指導者の批判をして、自分のことは棚に上げて攻撃を繰り返しましたが、それに乗るのは、闇の中にいる人々なのです。攻撃や批判ということに満足して、破壊行為に乗るのは、その人が滅びの中にある証拠なのです。そういう人々は、いくら自分の生活が破綻に陥り、友や家族が近寄らなくなっても、自分の主義や考えが実行され、破壊されることに満足を見出すのです。テロ事件や犯罪行為というのは、そのようにして成り立つのです。

 イエス様は、いよいよサタンが総攻撃に入って、イエス様をなき者にしようとすることが分かりました。その時、イエス様は、裏切ろうとするユダを糾弾し、暴いて、その攻撃を未然に防ごうとしたでしょうか。

 私たちは、自分が危機に陥った時に、その危機を自らの力や策でしのぎ、或いはその反対者や攻撃者をやっつけてやろうと思ったりはしないでしょうか。相手の罪や過ちを指摘して、攻撃し返そうと思ってはいないでしょうか。

 イエス様は、弟子たちの足を洗われたのです。その中には裏切ろうとするユダも含まれていたのです。

 イエス様は、弟子たちの足を洗い、日々の罪を清めようとされました。足というのは、日々の生活で犯す罪過を清めることを意味し、既に自分の罪性を認めて悔い改めているので、自分の全体を洗う必要はないこと、つまり、存在自体は清いことを教えています。しかし、「皆が清いわけではありません。」(13・10)として、イスカリオテのユダが、罪を認めて悔い改めたのにも関わらず、今やサタンの罠に陥り、滅びの人になったことを示しています。

 主であり、師であるイエス様が、自分を滅ぼそうとするユダをも含めて足を洗ったのだから(13・14)、私たちごとき者が、自分を攻撃し批判する人を、勝手に攻撃するなどはもっての他なのです。「わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(13・15)。「しもべはその主人にまさらず」、どのような人に対しても足を洗うことを心がけて接するならば、「あなたがたは祝福されるのです。」(13・17)。

 私は自分の語るべく用意される神の言葉に圧倒されます。自分の為すべきことが、御言葉によって自分に語られるのです。

 パウロは、誠実に神に仕え、私利私欲などありませんでしたが、パウロを攻撃し批判する人は後を絶ちませんでした。Uコリントの十一章を読んでみてください。パウロを攻撃する人々が「義のしもべに変装して」巧みに、人々を惑わし、罠を仕掛けるのです。それに対してパウロは、攻撃し返さないので「私を愚かと思ってはなりません。」(11・16)と言うのです。むろん、パウロも弱いのです(29)。

 「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたし力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が、私を覆うために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストの為に、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。」(Uコリント12・9-10


3月28日 きれいごとで誤魔化せない。  マタイ福音書2717~26
 
マタイ27:17 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」

27:18
ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。

27:19
また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」

27:20
しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。

27:21
しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」

27:22
ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」

27:23
だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。

27:24
そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」

27:25
すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」

27:26
そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。


 犯罪者が事の発覚した時に言う言い訳が、決して通用しないことを知っていたら、世の悪事は殆ど起こらないでしょう。不正や汚職をした人が、全て会社の為だったと言って涙を流すと、騙されやすい人や純粋な人は、そんなものかと同情してしまうことがあります。先日も、自分勝手に引継ぎもしないで辞めた人が、尤もらしいことを言って、退職の辞を言った時は、その常識知らずに驚いたものです。採用面接を数多くしていますが、いくら尤もらしいことを言っても、1年や2年で職を代え続けた人を信用して雇う人はいないことを、若い人々は知らなければなりません。

 屁理屈と言いますが、屁のようなくだらない理屈ということでしょう。男の社会では、そのような屁理屈を言う人間は馬鹿にされたものですが、母親相手に、屁理屈を言って困らせている少年少女を見る時に、この子はまともな人生を送れないだろうと心配してしまいます。

 漱石は『草枕』で「知に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。」と語りましたが、理屈ばかりを言っていると人に嫌がられ、情を大事にすると世の中の流れに呑み込まれ、自らの主張を通すと人との付き合いが悪くなると言うわけです。そういうわけで、日本人は建前と本音を使い分けようとするのですが、これは世界的には、通用しない生き方です。つまり、言葉を使い分けるのですが、悪を犯し、人に迷惑を掛けても、うまく誤魔化すと、言い逃れができて、世渡りできるということです。

 しかし、そのような自他を誤魔化す言葉の遊びは神の前には通用しません。つまり、日本人の本音と建前の使い分けは、全知全能の神を知らない民族の特徴であり、だからこそ罪人のしるしなのです。

 先週、私たちは、パウロが自分を攻撃し陥れようとする人々に対して、自分の反撃や対応を放棄し、「弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじて」(Uコリント12・10)いることを学びました。私たちは、そこにパウロが全能なる神とその主権に任せる信頼と信仰を見出したのであります。今週、私たちは、イエス様ご自身が、同じように自らを十字架に掛けようとする人々に対して、「甘んじて」おられる姿を見るのです。そして、それゆえに、イエス様を罪に掛け、殺そうとする人々の大いなる罪を見出すのです。

 ユダは、自分が金の使い込みをしているのを誤魔化すために、イエス様を裏切りました(26・15)。ユダは、イエス様に対して、「裏切ろうとしているのは、まさか私のことではないでしょう。」とぬけぬけと言っていますが、イエス様は、あなただ、と指摘して、最後の悔い改めを迫っています(26・25)。罪人の特徴は、他人の罪に気がついても、自分の罪に気がつかないということです。

 祭司長や長老たちは、自分の立場や特権を侵す者は、犯罪者だと考え、排斥することが正義だと考えて、平気で人を殺します。自分の権利を脅かす者に対する攻撃性が罪人の特徴ですが、私たちはどうでしょうか。それに甘んじているでしょうか。

 群衆も、流れに呑まれてイエス様を攻撃します。少し前までは、イエス様に付き従っていたのに、指導者に騙されて、そのままイエス様を悪人だと判断して殺そうとするのです。ダビデが言ったように「悪は悪者から出る」(Tサムエル24・13)のであって、どんな理由があっても人を攻撃してはならないのです。私もこの3ヶ月間、大変な攻撃を受けてきましたが、面白いことに、その人たちは、それを正当と考えているらしいのです。だからこそ、私は、神の手に全てを委ねるのです。しかし、実は全てを知っておられ裁かれる神こそが恐れるべき御方なのです。

 総督のピラトは、自分が人を裁く権利と権力があると思ってイエス様を尋問しました。しかし、実は、人を尋問することで、自らの罪を神の前に尋問されるのです。「すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。」(ローマ2・1

 群衆が、イエス様を死刑にしろと騒ぐので、ピラトは水で手を洗い、「この人の血について、私には責任がない。」(27・24)と言いますが、使徒信条にあるように、イエス様は「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架につけられ」と記録されるのです。

 あなたを非難し攻撃する人がいても、決して対抗し、反撃してはなりません。屈辱に甘んじればよいのです。そういう義人に対して、神は、必ず裁きをつけてくださるのです。「人々を裁きながら、自分で同じようなことをしている人よ。あなたは自分は神の裁きを免れるのだとでも思っているのですか。」(ローマ2・3

 だから、私たちクリスチャンは、決して人を裁いたり、批判したり、攻撃したりしてはいけないのです。