10月4日 心を尽くすなら聖霊の雨を注ぐ。 

 申命記1113節〜25節 

申命記11:13 もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、

11:14
「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。

11:15
また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」

11:16
気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。

11:17
主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、主が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう。

11:18
あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。  11:19 それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。

11:20
これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

11:21
それは、主があなたがたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が、天が地をおおう日数のように長くなるためである。

11:22
もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行ない、あなたがたの神、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、

11:23
主はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。

11:24
あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。あなたがたの領土は荒野からレバノンまで、あの川、ユーフラテス川から西の海までとなる。

11:25
だれひとりとして、あなたがたの前に立ちはだかる者はいない。あなたがたの神、主は、あなたがたに約束されたとおり、あなたがたが足を踏み入れる地の全面に、あなたがたに対するおびえと恐れを臨ませられる。

 法律というものは、守らなければならないが、守れないようなものは悪法であります。「悪法もまた法なり」として死んだソクラテスは、法律を作る国家の責任を示したかったのかと思います。私は、速度規制が非常に変だと思います。首都高速の最高速度は60kmであり、殆ど守られていません。守られなくて普通の規則を作ると、市街地や狭い商店街でも40kmくらいで走る危険な輩が増えてきます。法治国家というものは、法をいつも作り変えて適切なものにし、法律外の犯罪が起こらないようにしなければなりません。民主党政権になって、これまで自民党が自らの作った法の下で利権を得ていたことがばれてきました。歴史的に長期政権というものは必ず腐敗するのです。

 話し合いによって執行される組織は、必ず談合的になります。寛容という隠れ蓑に収まった馴れ合いが、互いを律することを阻害させるからです。聖書は指導者を要求します。それは、献身し、自らを律し、構成員に対して命を掛けた責任を持つ者です。もし、退廃し、罪を犯すならば、彼は裁かれなければなりませんが、それだけではなく、組織が退廃した責任をもとらなければならないのです。

 人は法や正義に生きることはなかなかできません。だからこそ、全ての人を律する法が必要であり、その番人としての警察機能や裁判所が存在するのです。国家を形成し、積極的な活動を為さしめる法は、作りえません。神の与えた律法も、人を罪として裁くことはできても、義と愛に進ませることはできなかったのです。

 今日の聖句のように、心を尽くして神を愛し、その戒めを守ることができると考えるのは、偽善者です。聖書ははっきりと「律法を行うことによっては、誰一人として神の前に義と認められない。」(ローマ3・20)と断定します。先週、如何にしても自分の正しさを主張する人と出会いました。一度悔い改めて救われたことがあるとしても、このような人は既に内在の聖霊は去っているのかと感じました。怖いものです。

 境界性人格障害という症状の人が多くなってきています。自他の欠点や悪いところが認められず、良い人間でなければならないとして周囲の人に良く思われようとします。良くなろうとしているので、自分のした悪事や失敗は覚えておらず、自分の悪いのは、あの人のせいだと周囲に言いふらし、また、自分を良くしようとして特定の相手に依存します。依存された人は、自分こそ助けることができるのだと思って相談に乗りますが、過剰負担になるので、手を引きます。そうすると、その人のことを偽善者として攻撃します。

 罪や弱さを認めない現代日本の特徴のような精神障害です。このような状態になっていなくても、自分の過ちや罪を認められない人は多いのです。クリスチャンでも罪を犯して当然なのです。失敗をして当たり前なのです。どんなに聖書を読み、信仰生活を送っても、自らが罪人であり、罪人でなくなることはないということを認めないと平安な生涯を送ることはできません
 大事なことは、神が私の罪を赦してくださったということです。罪を犯さないのではなくても罪を犯しても赦されるということなのです。ローマ5章を読んでください。恵みが私たちを支配するのが大事なのです。「それでは、恵みが増し加わるために、罪の中に留まるべきでしょうか。」(ローマ6・1)。罪に対して死ぬのです。

 申命記11・14に「神の命令に良く従って、主を愛し、心を尽くし、仕えるなら」「先の雨と後の雨を与えよう」とあります。ヨエル2章23節にもありますが、先の雨は使徒時代の聖霊の働きによるリバイバルとされ、後の雨は終末における聖霊の働きであるとされます。

 つまり、私たちにとって必要なことは、聖書を基準として信仰に生きることです。聖書を読めば、私たちが罪人であることはわかりますが、それでもなお、聖書を読み、聖書に従い、それを誤魔化すことをしないということです。自分は、聖書にしたがって正しい歩みをしているなどと、装ってはならないのです。そのように自分の能力によって生きず、正しさを主張せずにいるからこそ、神を求め、聖霊を求めて生きられるのです。

 聖霊のバプテスマというものは、聖霊によって神を信じるということとは別な、聖霊に充満して異言を語ることによって確認できることです。ローマ8・26には「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのために執り成してくださる」とあります。異言の祈りというものは、聖霊なる神が、私たちの口を使って、神に執り成しをしてくださることなのです。

 異言の祈りは、心を尽くして祈るものです。また、心を尽くし力を尽くし、精神を尽くさなければ、聖霊のバプテスマは与えられません。自分の在り方、考え方、態度を主張していては、聖霊に満たされることはないのです。また、このような姿勢で異言の祈りを真剣に祈っていなければ、聖霊によって生きることは難しいのです。初代教会のクリスチャンは、みな聖霊のバプテスマを受けていました。現代でも、プロテスタントの半数は異言のバプテスマを信じる人々で構成されています。終末には神が、祝福の雨を注いでくださったのです。

 信仰者は正しさで生きるのではなく、聖霊に満たされて生きるのです。私は、歩く時も仕事をする時も声を出さずに異言で祈っています。「家に座っている時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それを唱えるように」(申命記11・19)が実行できるのです。


10月11日 主の命令に従うなら祝福される。  申命記1122節〜30  

新改訳 申 11:22-32

11:22
もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行ない、あなたがたの神、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、

11:23
主はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。

11:24
あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。あなたがたの領土は荒野からレバノンまで、あの川、ユーフラテス川から西の海までとなる。

11:25
だれひとりとして、あなたがたの前に立ちはだかる者はいない。あなたがたの神、主は、あなたがたに約束されたとおり、あなたがたが足を踏み入れる地の全面に、あなたがたに対するおびえと恐れを臨ませられる。

11:26
見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。

11:27
もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、

11:28
もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。

11:29
あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。

11:30
それらの山は、ヨルダンの向こう、日の入るほうの、アラバに住むカナン人の地にあり、ギルガルの前方、モレの樫の木の付近にあるではないか。

 何度も何度も語られる言葉が「神の命令に従うなら祝福され、信仰の道から離れるなら呪われる。」という言葉です。わかっていながらできない。それは、人間に自由意思と罪があるからです。「信仰が試されると忍耐が生じる」(ヤコブ1・3)とありますが、信仰というものは、この世の罪と悪によってその真価が問われるのです。「信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊い」(Tペテロ1・7)とあるのに、多くの人が試練で信仰を失っていくのです。

 明日は、低血糖症治療の会がありますが、院長の指導に従い、きちんと自己管理しながら時間を掛けることを覚悟して治療を続ける人は、みな改善していきます。治らなければ体調も良くならないし、働けない。それでも、誘惑に負けて甘い物を食べ、おいしいジュースやコーラを飲むのです。

 イチローや松井が激しいトレーニングを続けているのは、誰でも知っています。だからこそ実績が伴い、尊敬を集めるのです。信仰の戦いも「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走る」(ピリピ3・14)ことが大事なのです。

 今年は、経済的には大きな戦いがありました。2月には、多額の不動産取得税が掛かり、雨漏りがして屋根と壁を補修し、給水タンクが壊れ、手形決済に先払いを1週間前に要求され、そして先週はエアコンが壊れました。ビルの大きなものですから、驚くほどの額です。そして、教会ではエレベーター塔の建設がいろいろと手間がかかり、業者と打ち合せを重ねています。その他にも、退職と採用が重なり、人件費がかさんでいます。そして、多くの諸問題が起こり、教団の仕事も重なっています。

 自分の苦労に思い上がり、成功しているパウロをねたんで批判する人々に対してパウロは言います。「私は狂気したように言います」(Uコリント11・23)、「私の苦労は彼ら以上に多く、・・・このような外からくることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心遣いがあります。誰かが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。」

 うまくいっているのはラッキーだからではありません。成長するのは能力が特別高いのではありません。戦いの蓄積であり、忍耐の限りを尽くすからです。「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ12・48)ということばは事実です。しかし、何度も言いますが、最初から5タラント与える主人はいません。全て1タラントを与えて仕事をさせ、うまく管理するものに多くを任せるようになるのです。

 そういう面では、忠実に神に仕え、多くを与えられるようになることもしんどいものであると思います。牧師になったのに、「報われない、うまくいかない、理解されない」などと愚痴を言う人がいます。献身者というのは、そういうことを言わないということで、神に身も心も献げるという誓いをするということです。ある神学校を卒業した人になぜ、神学校にいったのですかと聞きました。召されたからであると答えました。それなのに、あれはできない、これはできない、と愚痴を言います。

神が召したから牧師になるということはありません。神は一方的に選びますが、無理は言わないのです。召しに応じて、献身するという誓いが必要なのです。それは、一回献身したら、牧師になったら、それでよいということではありません。献身を続けることが要求されるのです。つまり、信仰の試練を覚悟して歩むということです。但し、信仰の試練というのは、勝利するということではなく、耐えるということが大事なのです。耐えて諦めない、ということが私たちを信仰者として成長させるのです。

指導者が落胆し、愚痴を言い、言い訳を言って責任を取らなかったらどうなるでしょう。最近は、責任を取らず、「あなたの好きなことをしていいよ。」などときれいごとを言う父親が増えています。人生には、耐えなければならないこと、判断をしなければならないことがあるのです。神の命令を守るということは、話し合いの結果ではないのです。決断でしかないのです。

「誰一人として、あなたがたの前に立ちはだかる者はいない。」と神は約束してくださいます。私の人生は戦いばかりです。しかし、神は守ってくださいました。今回のエレベーター塔の建築に際しても、この建物の設計図と構造図を取得できないでいます。しかし、神に祈って、導かれるものを探しています。執事会では、もし図面が得られないならば、エレベーター塔だけでなく、教会の礼拝堂とエントランス、そしてトイレの全面改築を考えることもありうると話しあいました。

自分の戦いであると意気揚々としていたヨシュアの前に、抜き身の剣を持った御使いが立ちふさがります。敵か味方かと問うヨシュアに対して、「わたしは主の軍の将である」(ヨシュア5・14)と語り、ヨシュアの味方なのでなく、ヨシュアが神につくかどうかが勝利のカギであることを示したのです。

自分の思い通り、願いどおりに物事がなることを期待し、考えてはいけません。多くの信仰者が、そのようにして神を自分のしもべであるかのように要求の祈りをしています。そんなものが叶えられるはずがありません。この叶えるという文字はすごいですね。口に十字架を当てるということを示しています。私たちの願い、語ることが神の思いに合っているのならば、叶えられるのです。


10月18日 信仰の拠り所を定める。  申命記125節〜14節 
12:6-14

12:6
あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。

12:7
その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。

12:8
あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。

12:9
あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである。

12:10
あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、

12:11
あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。

12:12
あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。

12:13
全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。

12:14
ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。

 教団の教規によれば、信徒とはその教会の教会員名簿に登録した者を言います。信徒は、礼拝その他の集会への出席と献金そしてクリスチャンであることの公言して証しすることが必要です。所属教会を変更する時は、役員会に申し出て転出教会への転籍紹介状を発行してもらい、その受入書をもって、その教会の会員ではなくなります。

 アメリカでは、このような教会員制がきちんとしていないで、礼拝出席だけを強調する傾向があるようです。教会はより多くの人々を集め、献金額を増やすことを目的とし、その教会は魅力的であり、素晴らしいと評価されます。そのような教会の評価基準が日本でも定着して、地方教会や小さな教会とその牧師は教勢拡大を求められ、自己評価を低くして苦しみます。

 アメリカでは仕事や会社を変えたり、引越が多く、その地域に定着することが少ないので、そのような移ってくる信者を教会員にすることに多くの関心が向けられ、転籍手続きというのはあまり聞きません。つまり、幾つもの教会に会員登録をしていることもありうるのです。最近はしっかりとした教会員制度を持つことがアメリカでも強調されているようですが、それでも転籍手続きはないと思われます。但し、きちんとした信者は牧師の紹介状による移転を経ていると思われます。アッセンブリー教団は、その点ではきちんとしているでしょう。同じ地域で幾つもの教会に移っている人は、牧師になることは経歴的に難しくなります。信仰者として評価されることはありません。

 当教会では、近くの他の教会の信者の集会出席は基本的に認めていません。今日の聖句では、「選ぶ場所を尋ねて、そこに行かなければならない。」(5)、「捧げ物を、そこに携えて行きなさい。」(6)、「その所であなた方は家族と共に、あなた方の神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福して下さったあなた方の全ての手の業を喜び楽しみなさい。」(7)とあり、定めた教会に家族と共に参加して食事を一緒にし、仕事の結果や生活を共に喜び合いなさいと命じられるのです。

 8節の禁じられている行いは、勝手にいろいろな教会に出入りして、面白そうなこと、興味深いこと、信仰深そうなことを求めてはいけない、ということです。「自分の正しいと見ることを」することは、堕落の始まりなのです。信仰とは、知的満足ではなく、利益追求でもないからです。そういう面で、聖霊を求めたり、力を求めたり、明るさを求めて、他の教会からこの教会に来る人も多くいますが、お断りをしています。同様に、この教会員であって、便宜的に他の教会に出席する人々には、その教会に移ることを勧めています。

 信仰というのは人格的なものですから、便宜的に他の教会の礼拝に参加するというのは、他の教会の在り方に影響を与えることもあり、自分勝手な失礼な行為です。旅行の時などは、牧師に相談して同じ教団或いは、同じ傾向の教会に参加するべきです。私たちはペンテコステ派の教会ですから、清め派の教会や、保守派の教会や、或いはカリスマ派の教会とも違う雰囲気をもっています。私などは、旅行で現地の教会の礼拝に参加する時は、牧師であることは言いません。交流は楽しみますが、深入りはしません。パウロの手紙にあるように、教会を移り歩いて間違った教えを語る人々が教会を破壊しております。他の教会の礼拝に出席しなければならないような時には、客としてのマナーを守り、その教会の在り方を変えるような交流や発言をしてはならないのです。

 「全焼の生贄をかって気ままな場所で捧げない」(13)とあるように、献金は固定的なものにするものです。私は、いろいろな所に献金をしておりますが、その追跡はせず、また気ままに献金をしないで、献げるところは決めています。つまり、捧げた以上、使い方まで調べないという原則です。

 教会というのは、「主が受け継がせようとしている地に安らかに住み、信仰生活の中で神の御名を崇めるような生き方をするところ」(10,11の要約)なのです。そして、神に献身して生きるレビ人(教会奉仕者)の経済を支え、一緒に喜び生きることが大事なのです。

 そういう面で、私は教会成長論や、商業主義的教会は好きではありません。クリスチャンを集めようとする教会も好きではありません。クリスチャンの音楽集会や講演会などは大事なパラチャーチ活動(教会ではできないことをやる超教派の活動)であると思います。それは例えば、ギデオン協会であり、ミクタムであり、バイブル&アートであり、創造科学研究会なのです。テレビ伝道の太平洋放送やハーベスト・タイムもそうです。

 教会とは、生活の場であり、中心です。「教会はキリストの身体であり、一切の物を一切のものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1・23)。聖書は、神の御心と知恵と教えを現わし、聖霊は私たちに信仰の力を与え、教会は私たちの生活の場となり家族となって、信仰者を支えるのです。信仰生活には、信仰の家族が必要であり、信仰者である人間が介在しなければ、私たちは成長せず、神の業を行うことはできないのです。

 「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、神の全能の力の働きによって、私たち信じる者に働く神の優れた力がどのように偉大なものであるか」(エペソ1・18,19)を私たちは教会によって知るのです。教会は知的教育の場ではありません。大事なことは理解ではなく、信じて生きるということなのです。

 日本の家族制度は破壊し、家族がどういうものか、どういうことを語りあい、助け合い、共に生きるか、今や人々は理解していないのです。そしてクリスチャンさえも、信仰を個人的なものにしてしまっているのです。だから、家族としての教会ということが分からないのです。


10月25日 自らの判断ではなく。  申命記1217節〜26  

12:17 あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一、あるいは牛や羊の初子、または、あなたが誓うすべての誓願のささげ物や進んでささげるささげ物、あるいは、あなたの奉納物を、あなたの町囲みのうちで食べることはできない。

12:18
ただ、あなたの神、主が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。

12:19
あなたは一生、あなたの地で、レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。

12:20
あなたの神、主が、あなたに告げたように、あなたの領土を広くされるなら、あなたが肉を食べたくなったとき、「肉を食べたい。」と言ってよい。あなたは食べたいだけ、肉を食べることができる。

12:21
もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、あなたは主が与えられた牛と羊をほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。

12:22
かもしかや、鹿を食べるように、それを食べてよい。汚れた人もきよい人もいっしょにそれを食べることができる。

12:23
ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。

12:24
血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。

12:25
血を食べてはならない。あなたも、後の子孫もしあわせになるためである。あなたは主が正しいと見られることを行なわなければならない。

12:26
ただし、あなたがささげようとする聖なるものと誓願のささげ物とは、主の選ぶ場所へ携えて行かなければならない。


 今日の箇所の中心聖句は、「あなたは主が正しいと見られることを行わなければならない。」(25)です。先週の8節の「あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。」との対比です。

 士師記の記述のテーマは、最後に記されている「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」ということです。先日も、電話で「教会をどうやって選んだら良いのか。」という質問がありました。その方は、一生懸命教会で奉仕をしているけれども、虚しい、報われない、と言っていました。結局のところ、その人の愚痴を聞くだけで終わってしまいました。観点が、自分の欲求の充足であり、とてもその人の欲求不満を電話で短時間にアドバイスするわけにもいかないからです。また、私が「基本的に、他の教会の方へ信仰のアドバイスをしていない。」と伝えると、自分の教会員だけを大事にする勝手な牧師とも思われたようです。

1. 幸せを求めて判断するのではなく、神に従って生きること。

自分を中心にして利益を求めて判断して生きるならば、疲れ果ててしまいます。大事なことは、神の御心に沿っているか、どうかを確認することです。下僕の判断基準は、主人の意向にあっているかどうかです。クリスチャンは、「この世と調子を合わせてはいけない。」(ローマ12・2)のです。この世から良い評価を受けることを考えてはいけません。この世から遊離してはいけませんが、分離(聖)した人生を生きなければならないのです。

だから、仕事や情況を理由とし、或いは良否や適否などを理由として教会を変えてはならないのです。むろん、自分の属する教会が変わることはありうるでしょう。しかし、自分の判断や情況に左右されてはならないのです。妻は礼拝出席を第一として、人から非難されても覚悟していました。子育てに私たちは、選ぶことなく与えられ産まれてきた子供を育ててきました。経済的には困窮してきましたが、献金を怠ったことはありません。誰よりも働いてきたつもりですが、健康を守ってくださいました。都合の良い選択をしてきたことはありません。為すべきことをしてきただけです。自分の都合で、家族に欲求してはいけません。仕事を家族よりも優先してはいけません。自分のやりたいことを、他の人を犠牲にしてやってはなりません。利益目的で信仰をもってはなりません。困った時だけ教会に来る人は、神に祝福されていないのです。教会に自分の都合に惑わされて来ないから、困った情況から抜け出せなくなるのです。神に従うことが大事なのです。

2.禁止されたものを正当化して行ってはならない。

 ユダヤ人が優秀なのは、食べ物が良いからだと言われています。血は、元来寄生虫や病原菌が多く、安全のためには昔の環境では食べないように注意することは大事でした。肉は食べたいだけ食べてよい、というから生の血を食べないようにとのことかと思います。

禁じられていることをしたがるのは、人の罪性からおこる誘惑です。糖尿病の人は、運動をせずに食べたい物を食べるので、治ることはなく早死にします。私の友人は、気をつけて管理したので糖尿病が治りましたが、タンパク質摂取が少ないので、体力が落ち、うつ気味です。

 駄目なものはだめです。性的退廃は、その人の全てを虫食みます。罪を犯せば、かならず裁きがあります。不正をしてはなりません。人を批判したり、非難する人は、自らの人生に喜びがなくなり、生活を破壊していきます。

3.神への請願は、神の宮で多くの人と共に味わうことが大事なのです。

自分の家で味わうのではなく、教会で人々と願いを共有するのです。請願のための捧げ物をして、教会でそれを共有するのです。信仰の家族と喜びを共有するような生き方をもつのです。判断ではなく、請願が大事なのです。願いを持たない人は、信仰者とは言えません。ヘブル11章にあるように、信仰とは願いによって確認され、称賛されるのに、日本人のクリスチャンには請願をする人が少ないのです。

教会や牧師をないがしろにしてはいけません(19)。奴隷と書かれていますが、貧しい人々や障害者、外国人を差別してはいけません。彼らを迎え入れて、一緒に喜び楽しんで食事をすることが大事です。教会の礼拝には参加するけれども、食事会には参加しないという人々は、この喜びを得られません。できるだけ、食事を一緒にするのです。食事は家族一緒にするものです。別々に食べるような家族は、喜びがなく、神の祝福を得られません。楽しい食事は、人生の喜びです。

4.指導者を持つべきです。

 家庭では父親を指導者として敬い、従うことを確立しなければ幸せは得られません。男は、責任を負い、決断をする勇気を持たなければなりません。責任を妻や子供に負わせては、幸せにはなれません。仕事や組織でも、指導者を認め、従うならば祝福を得られます。人間の行動というものは、完全なものはありません。指導者が間違っても、皆が従い続けるならば、良き歩みをすることができるのです。善悪や良否の判断など大したものではありません。大事なことは、決断をし、失敗することがあっても、それは良き経験になるということです。失敗や困難の時に指導者批判をする人が、自らの失敗に怯えるのです。

 失敗や挫折、困難を共有するから神の家族になるのです。教会や家庭で、虚しい世間話や批評をしてはなりません。自分の気持ちを言い表し、願いを共有し、助け合って生きるのです。それが幸せな人生を作りだすのです。正しさを求める人は、不満と苦さで苦しむでしょう。求めるのではなく、従い、そして、神に願いをもって、弱さを言い表し、人々と共有できる人は幸いです。


11月1日 惑わす者たち。  申命記131節〜8節 

新改訳 申 13:1-8

13:1
あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、

13:2
あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、

13:3
その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。

13:4
あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。

13:5
その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。

13:6
あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう。」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、

13:7
地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。

13:8
あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない。


 新型インフルエンザが大流行です。ワクチンの在庫があるのに、手順や配分方法を検討して時間を掛け、流行を抑制できなかったのは、行政とミスでしょう。これが鳥インフルエンザであれば、死者は数十万人となり、大変な問題となったことでしょう。罹患者もインフルエンザと診断されなければ、平気で歩きまわり、仕事をして他の人に移しているのですから、病原菌に対する認識の甘さは驚くべきものです。コンピュータ・ウィルスへの対応もそのような人が多く、「自分はインターネットをしないから平気だ」と言っている人もいます。インターネットをしなければ、PCの能力は数百分の一以下になり、PC使用の意味がありませんし、インターネットをしなくてもウィルスが移ることもあります。

 先週、「幸せを求めて判断するのではなく、神に従って生きること。」「禁止されたものを正当化して行ってはならない。」と語りましたが、その後すぐに違反することの了解を求めて来た人がいました。妻が大学病院に勤めていた時に、お腹や頭が異常に膨れて末期であることが明確な患者さんたちがいましたが、ご本人たちは、自分が死ぬとは決して思っていないので、福音を聞こうともせず、死後の裁きについて語ることもできませんでした。「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル9・27)のです。

私たち夫婦は、医療従事者なので、季節型も新型もワクチンを接種しましたが、それでも多量のウィルスに汚染されれば、平気だというわけにはいきません。世の中に絶対平気ということはないのです。健康管理に努め菜食主義を守ってきた方がガンになりました。牛や馬は草を食べても発酵などでタンパク質やビタミンを作りだしますが、人間はもはや創造の時のように草や木の実で生きられるものではなくなっています。肉や魚を摂らないと栄養が足らないようになっているのです。また、蓄積した環境汚染で、食物や環境には汚染物質が混ざり、人体のDNAも傷ついてしまって、どんなに努力しても健康というものはガンによっていつでも犯されるようになっているのです。

 また検査数値が完全に異常であり、病気なのに「自分は何でもない。元気だ。」と言い張る人がいて驚きました。病気であることを恥だとでも思っているのでしょうか。説教で罪や間違いを指摘しても、お話として聞いて、自分の弱さ、罪深さを認めようとしない人々も多いのです。マリヤ・クリニックでは、治らないと言われている糖尿病の人が治ってます。精神病も一度掛かると治らないと言われていますが、マリヤ・クリニックでは治っています。多くの問題を持っていた人、性格の悪い人も、教会で救われ、素晴らしい信仰者になっています。治療を認めない人も、罪を認めない人も、死んでいくしかないのであります。

 イエス様は、「幸いなのは、神のことばを聞いて、それを守る人たちです。」(ルカ11・28)と言われ、この時代はしるしを求めるから悪い時代だと指摘しました。今日の聖句は、預言者や夢見る者が、宗教的なしるしや不思議を行って、信仰者を誘惑することへの警告です。この教会にも、開拓時代から伝道者とか牧師とか自称する人々が来て、教会員を誘い、自分の都合のよい働きをさせて喜ばせ、自分の群れに引っ張っていきました。結局のところ、利用されただけで、その群れは破綻し、教会としての活動はできなくなって彼らは信仰を失いました。誘惑というのは、怖いものです。私自身は、教会員の幸せを祈り願いますが、自分とその利益のために教会員を利用したり、献金を迫ったりしたことはないと思います。

 教会には、偽物やおかしな指導者がいても不思議ではありません。だから聖書が警告しているのです。彼らは、教会に反逆させようとしたり、落ち着いた信仰生活から迷いださせようとするのです。だから、神ご自身が罰するのです。怖いことです。「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。・・・雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げていきます。」(ヨハネ10・11,12)。牧師というのは、教会員を利用するのではなく、育て守るのです。そして、神の国に繋がる信仰者というのは、「羊は羊飼いの声を知っているので、羊飼いについていきます。しかし、他の人には決してついていきません。かえって、その人から逃げ出します。」(ヨハネ10・4)。

 聖書には、続いて信仰から離れるように誘い掛ける親兄弟、伴侶、友人がいることを指摘しています。信仰生活を保つということは戦いです。不信仰者に理解されて信仰生活を平安に過ごすなどということは決してないと聖書は断言します。ところが、多くの人々が、本当の信仰ならば、他の人と争うことはなく、理解され認められるなどと思っているのです。私たち夫婦は、戦い続けて今の立場につきました。もし、妥協していたり、人々の理解を求めていたら、現在の私たちはありませんし、祝福もありません。日曜を守り、献金と奉仕を喜んで行い、与えられた子供達を育てながら、仕事を果たしてきました。人々は私たちに干渉し、攻撃し、非難し、多くの困難がありましたが、私たちはそれを当然の信仰の試練と受け留めてきたのです。

 更には、13節からよこしまな者たちが、私たちを惑わすとあります。当時、神は選びの民を守り、民族としての独立性と信仰を確立させるために、違反者を死刑として厳しく律しました。しかし、実際には、信仰による厳しさというのは、指導者が信仰に命を掛け、神を絶対としなければ達成しえないものなので、罰に関しては疎かにされ、おかしな儀式主義に堕していったのです。

 先週、妻が疲れ果てて寝込みました。私は、「あなたは罪を犯している。安息を守り、神に委ねて生きることが大事で、働きすぎてはいけない。」と諭しながら、足をマッサージし、湿布薬を貼ってあげました。勤労も日本人には罠です。

  もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日と呼び、主の聖日を「栄えある日」とよび、これを尊んで旅をせず、自分の好むことをせず、無駄口を慎むなら、その時、あなたは主をあなたの喜びとしよう。イザヤ58・13

  幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない。このように行う人、これを堅く保つ人の子は。イザヤ56・2

 信仰生活というのは、簡単なものなのです。



11月8 あなたは主の聖なる民である。  申命記141,2,21,22,27-29

新改訳 申 14:1-3
14:1
あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。死人のために自分の身に傷をつけたり、また額をそり上げたりしてはならない。
14:2
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
14:3
あなたは忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない。
14:21
あなたがたは自然に死んだものを、いっさい食べてはならない。あなたの町囲みのうちにいる在留異国人にそれを与えて、彼がそれを食べるのはよい。あるいは、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。子やぎをその母の乳で煮てはならない。
14:22
あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。
14:27
あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないからである。
14:28
三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。
14:29
あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。


 この14章には幾つかの細かな規定が記されています。それは、何の為であるか理解することは大事なことです。
まず、死人のために身体を傷つけたり、額をそり上げてはならないという戒めですが、それは、私たちが主の子供だからであると説明されています。仏教の僧が頭をそり上げていますが、それはまさしく悔いて悲しむという印でしょう。身体を傷つけるのは、親しい者の死がとても苦しいからでしょう。ピリピ書には、「主にあって喜びなさい。・・・それはあなた方の安全のためにもなることです。」(3・1)とありますが、それは殉教の死を遂げる前の獄中での手紙です。私たちクリスチャンは、辛い、苦しいという情況に左右されて、感情に振り回されてはならないのです。
 次に、食べ物の規定です。動物でも反芻するもの(一度食べたものを胃から戻して再度かむ)は聖いとされるのです。胃の中で発酵が進み、十分な栄養となるので、食物だけを食べて済むのです。そして、汚れた物を食べてはならないと命じます。このことは、クリスチャンとして、食べる物に気をつけ、おかしな物は食べないという節制を意味します。確かにジャンクフード(粗悪なお菓子)を食べる者は、精神に異常をきたすということを低血糖症は指摘します。イギリスで、幼児に甘いお菓子を食べさせたところ、暴力的な子供になったという報告がありました。私は、そういう菓子はとてもみっともなくて食べられません。神の子としての節制を保つことは大事であり、健康にもなります。
 更に、自然に死んだ動物を食べてはならず、それは信仰のない者ならば構わないと命じます。これは、命という代価を払ったものを食べて生きるということです。自然に死んだ動物を食べることは、経済的には損失になりません。日本では、普通のことでしょう。しかし、犠牲なしに生きるということは、その人の人生を堕落させるのです。同様に、収穫の時に落ちた穂は、拾ってはならず、貧しい人がそれを所有するべきだという他の箇所の原則にも通じます。こういう考え方は、損得で生きる者にはわからないことで、真実な信仰者ならではの考え方です。ゆとりのない生活をしてはならないというのも同様で、隙間なく家を建ててはならないということもあります。
 子ヤギの肉をミルクで煮てはならないというのは、育てあげるべき乳で煮るということは不謹慎であるということです。非常に繊細な配慮であり、動物を軽んじることなく、道徳というものはどういうものかを教えているのです。神の宮で食事を一緒にするべきことは、既に説明しました。
  28節の3年ごとに収穫の10分の一を、レビ人・在留異国人・みなしご・やもめのために備えるということも人道的な素晴らしい教えです。「置いておく」ということも、与えられるという卑下の思いを配慮した措置です。
 このように神の戒めは、大変人道的なものであり、神の民がいかに神を信じて誇り高く、周りの人々を配慮して生きるべきかを教えているのです。現代社会は、富を追求し、排他的な生活を営むべく方向づけられ、そして破綻したのです。
教会においても同様に、成長拡大志向で伝道が強調されました。しかるに、その結果、クリスチャンは信仰者として成熟し、愛の人になったのでしょうか。週日の仕事が日曜には教会奉仕に変わっただけで休みなく働くことが、神の御心ではありません。神の教えは目的志向ではなく、状態を大事にするのです。何をやったとか、どんな地位を得たとか、富を得たとかいうことではなく、神と共に歩み、喜びと平安と愛に満たされて生きることが大事なのです。そして、その過程で御言葉を伝え、教えを説明して、人々を救いに導くのです。
 ですから勝手に考えた将来の為に現在を犠牲にしてはなりません。子供の頃からの受験勉強中心の生活など、クリスチャンは決して許してはなりません。休みなく会社や世の中の為に働くなど、神の喜ぶことではありません。
 余禄というのは、貧しい人にあげるべきものです。仕事だけの生活は、罪以外の何物でもありません。収入の全てを神から与えられたものとして理解し、その十分の一を神の家族に戻して、生活を助けるということは、何とすばらしいことでしょう。
 収入や時間、富や生活を自分のために費やしたならば、それは汚れた生活です。得た収入は失われ、没頭した仕事は失敗に終わり、生活も健康も破綻を期すのです。自分の宝は天に蓄えるべきです。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあります。「神の為」などと言って、自分の思う通りのやりたいことをやってはいけません。神は、あなたを必要としません。私たちが神を必要とするのです。神と共に生きることを第一にするべきです。
 空の鳥を見なさい。天の父が養ってくださいます。心配したからといって、自分の命を少しでも延ばすことはできません。異邦人のような生き方をせず、神の国と神によって義とされることを、気にかけて生きるべきです。そうすれば、祝福は全て、添え物として与えられます。


11月15日 神の兄弟に心を閉ざしてはならない。  申命記155-11

新改訳 申 15:5-11
15:5
ただ、あなたは、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行なわなければならない。
15:6
あなたの神、主は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。またあなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。
15:7
あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。
15:8
進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。
15:9
あなたは心に邪念をいだき、「第七年、免除の年が近づいた。」と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。
15:10
必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。
15:11
貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」

 神が祈り求める者全てを超自然的に癒していたら、人間は自己管理をしなくなり、健康だけでなく生活や人格も破綻してしまうことを語りました。飽食は身体を破壊します。先日、レストランでドリンクコーナーに子供たちが群がり、ジュースやコーラを何度もお代わりしているのに驚きました。親も同様です。そのような糖分の多い飲み物を飲んでいたら身体を壊します。節度と節制のない生活は、堕落であるという考え方が日本から消えたようです。
 イエス様は、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。」(ルカ12・15)と言われ、豊作で倉が一杯になった金持ちが、「食べて、飲んで、楽しめ」と自らに言った時、「愚か者、お前の魂は今夜お前から取られる。」と例話を出して訓戒し、「自分の為に蓄えても、神の前に富まない者は、この通りです。」と警告しました。
 今日の聖句は、神の家族で貧しい兄弟がいたら、その必要な物を惜しげもなく貸し与えなさい、とのことです。更に、7年経って返せない負債は免除しなさい、と命令します。但し、これはイスラエルの同胞に対するものであり、他国人には適用しません。つまり、真に魂の救われている教会員同志のあるべき関係なのです。
 松下幸之助が貧しかった時、道端で二股ソケットを販売していてヤクザに絡まれているところを助けた水戸藩の家老の子孫が、資金のない幸之助のために自分の田んぼを担保として借金をして融通したそうです。白洋舎の五十嵐さんが三浦綾子を助け援助したことは有名な話です。昔は苦学生を助けるという人々は多くいたようですが、最近は経済が豊かになった反動で、貧しい人々を助けるということがなくなったようです。
 神様は、貧しい人には心に未練を持たずに与えなさい、と言われます。そうしたら、神があなたの働きを祝福して下さるのです。多くの人が、信仰を悟りだと思っています。教理を学びます。説教を聞いて、そういうものかと考えます。しかし、実践する人は殆どいません。
 神様は、他の人を祝福し、施す者に祝福をして富を施します。人の罪を赦し、寛大である人を祝福し、その心を成熟させます。「神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Uコリント9・7)。他の人に自分の物を喜んで与えられるかどうかで、その人が本当に神を信じているかどうかがわかります。ところが、祝福されない人は、借金を棒引きにされても、他人への貸し付けを取り立てようとします。
 マタイ18章に、1万タラント(6000億円)の借金を棒引きにされた人が100万円の貸付を暴力的に取り立てたので、免除をなしにして牢獄に入れられた例話があります。その前には兄弟の罪を7の70倍繰り返して赦しなさい、とあり、私たちが、多くの罪を赦され、自由とされたのだから、人を責めたり、脅したりしてはならない、と教えられるのです。人を責めたり、脅したりする人は、間違いなく神の祝福を失い、不幸になるのです。
 貧しい人々がなぜ貧しいか、理由はいろいろあるでしょう。多くの人々が、努力が足りないとか、性格が悪いとか、運が悪いとか、罰があたったのだ、などと裁いています。つまり、貧しい人々を見下しているのです。しかし、神は理由を問わず、貧しい兄弟(他人ではない)がいたら、助けろと命令するのです。神は、天から私たちが、神の命令を実行するかどうかを見守っています。そして、助けた者を祝福するのです。
 「善を行うのに、飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」[ガラテヤ6・10]
 聖書の神を知っており、教理も理解し、礼拝にも参加しながら、人を非難し、攻撃し、腹を立てる人々が多くいます。彼らは、決して神の祝福を体験することはなく、喜びも平安も自己満足なものとなり、人々に愛され、理解され、尊敬されることはありません。自分が認められ、理解され、尊重されるために、発言や主張を繰り返し、目立ったこと、特別なことをしようとするのは、愚かであり、滅びの法則です。そういう面で、神の国は狭き門なのです。狭き門から入ったと思っていても、実際には人の罪を赦さず、貧しい人や困っている人、隣人を助けないならば、滅びの門から入っているのです。
 お金も、時も、才能も、力も、自分の持てる物を神と人の為に差し出すならば、神はそのために多くを補給してくださるのです。


11月22日 いつまでも主の奴隷になる願い。  申命記1512-18 

新改訳 申 15:12-18
15:12
もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。
15:13
彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。
15:14
必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。あなたの神、主があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。
15:15
あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。
15:16
その者が、あなたとあなたの家族を愛し、あなたのもとにいてしあわせなので、「あなたのところから出て行きたくありません。」と言うなら、
15:17
あなたは、きりを取って、彼の耳を戸に刺し通しなさい。彼はいつまでもあなたの奴隷となる。女奴隷にも同じようにしなければならない。
15:18
彼を自由の身にしてやるときには、きびしくしてはならない。彼は六年間、雇い人の賃金の二倍分あなたに仕えたからである。あなたの神、主は、あなたのなすすべてのことにおいて、あなたを祝福してくださる。


 奴隷と言っても、過去のアメリカの奴隷のような非人間的な扱いはされていません。なぜ、奴隷になるかと言えば、暮らしていけなくなったからです。昔は、現在のような経済的支出による享楽はなかったので、経済的にやり繰りができなくなるのは、災害や病気などによるものでしょう。そうすると財産を切り売りすることになり、果てには土地や家を売り渡すしかありません。更に、家族を抱えたりするならば、労働の対価では暮らしていくことができず、自らを売って家族にその代金を渡すことになります。15章前半のような救済措置が適切にとられていれば、殆ど奴隷になることはないでしょうが、現実にはそういうことはありうるのです。
 奴隷になるということは、本人にとっては非常に屈辱的なことです。人は、自分の自慢が好きです。更には傲慢にもなります。そして人を馬鹿にし、侮辱し、命令し、怒り、ひどい場合には罰を与えます。自分の考えを主張し、権利を行使しようとしますが、他人の権利を認めない人が多くいます。こういう人々に自分を売り渡し奴隷になるということはどんなに苦しいことでしょうか。
 職場に勤めるということは奴隷とは違います。法定労働時間は一日8時間、週40時間であり、それ以上は超過勤務手当を払いますが、だからと言って自由に超過勤務を命じることはできません。労働の対価としての給与をもらえることはもちろんのこと、休み時間や福利厚生を受けることもできます。しかし、その対価や労働条件に相応しい仕事ができなければ、解雇されることとなります。つまり、権利と義務が仕事にはあるのです。
 ところが奴隷になるということは、自分を売るのですから権利を放棄するということであり、人間としての休息や衣食は与えられるものの、それ以外は主人に仕えて生きなければなりません。つまり、自由はないのです。好き嫌いも言えません。ただ従うことが要求されます。
 仕えるという言葉は奴隷になるということではありませんが、目上の人の身近にいて、その人の為に働き、かしずいて奉仕することを意味します。イエス様は、「仕えられるためではなく、却って仕えるため」にこの世に来られたとマタイ20章28節にあります。使徒17・25には、神は「何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。」とありますが、ヨハネ12・26には、「わたしに仕えるというなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もし、わたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」とあります。さらに、「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(Tペテロ4・10)と勧めています。
 つまり、クリスチャンは、人を命令し、従わさせるのではなく、仕えて生きなさいとイエス様は、自らを律し、弟子たちに諭すのです。人間はみな、自己中心という罪を持っているので、命令して動かそうとしても、決して神を信じ、従う者とはならないのです。彼らは「主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。」(ローマ16・18)。だから、人が思う通りに信じ救われないことを覚悟して、人々に仕える人生を生きるのが真の信仰者であると使徒たちも教えるのです。
 さて、そのように仕えるだけでなく、奴隷となるというのが、献身というものです。使徒たちは、「この勤めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち、非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で・・・」(Uコリント6・3-10
 現在、多くの牧師が献身者として歩んでいますが、日本社会では殆ど認められず、経済的にも困窮しています。7年目に自由になることもなく、経済的な報いも与えられず、苦しんでいます。第4週の礼拝席上献金は国内の困窮教会に捧げられています。どうぞ皆さん、仕えることの大事さを自分のものとしてください。おいしい食事を少し我慢し、この時のために蓄えて献金してください。支援を始めたある牧師は、子供がいるのに牧師給8千円ということでした。私たちは、自分たちの教会だけが保たれるという意識でいてはなりません。
 今日の後半の部分は、奴隷として7年間献身的に仕えてきたけれど、主人とその家族を愛し、その生活を続けたいと願う場合には、その奴隷の耳を家の戸に刺し通すという自他の証拠が必要になるということです。これは痛いし、怖いでしょう。しかし、それにも関らず、主人を愛するあまりに自発的に奴隷になるのです。
 信者は献身者としての仕える姿勢が、神からの祝福の秘訣として進められています。さらに、牧師伝道者になるということは、この「いつまでも主の家に住まいましょう。」という詩篇23編の言葉の実行ですが、そのためには自分の耳を主人の家に錐で突き刺すという残虐な決心が必要なのです。
 お話しましたように「自分の欲に仕え」ていては、主人と共に過ごすことはできません。耳を戸に刺し通すということは、自分の欲望の声を聞かずに、神のものとして自分を律するということです。できるかできないか、と考えている人は、献身はできません。自分の幸せはそれしかない、主と共に過ごすしかないと決心する人だけが、耳を戸に刺し貫くのです。
 多くの人がそこまではできないでしょうし、牧師である自分もそれができているかと言われたら、自信はありません。ただ、決心だけはしており、覚悟はしております。もし、その覚悟ができない人は、遠慮せず、解放されたらよいでしょう。信仰の自由人として神の祝福を生きることはできます。しかし、それはまた、自ら主の奴隷として歩むことを決心した人々を支え、助けることが必要であり、それが神の家族としての幸せの秘訣であることを知っていただきたいのです。


11月29日 悩みのパンを食べる。  申命記161-8節 
新改訳 申 16:1-8

16:1
アビブの月を守り、あなたの神、主に過越のいけにえをささげなさい。アビブの月に、あなたの神、主が、夜のうちに、エジプトからあなたを連れ出されたからである。

16:2
主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、羊と牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主にささげなさい。

16:3
それといっしょに、パン種を入れたものを食べてはならない。七日間は、それといっしょに種を入れないパン、悩みのパンを食べなければならない。あなたが急いでエジプトの国を出たからである。それは、あなたがエジプトの国から出た日を、あなたの一生の間、覚えているためである。

16:4
七日間は、パン種があなたの領土のどこにも見あたらないようにしなければならない。また、第一日目の夕方にいけにえとしてほふったその肉を、朝まで残してはならない。

16:5
あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたの町囲みのどれでも、その中で過越のいけにえをほふることはできない。

16:6
ただ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶその場所で、夕方、日の沈むころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越のいけにえをほふらなければならない。

16:7
そして、あなたの神、主が選ぶその場所で、それを調理して食べなさい。そして朝、自分の天幕に戻って行きなさい。

16:8
六日間、種を入れないパンを食べなければならない。七日目は、あなたの神、主へのきよめの集会である。どんな仕事もしてはならない。




 五木の子守歌というのは、熊本の辺境の村の出身の子守娘の辛く苦しい思いを歌ったものです。「故郷に帰りたい。ここで自分が死んでも誰も悲しまないし、墓にも来てくれない。」などという嘆きを歌いながら、子守をしたのです。故郷がどんなに貧しく厳しい所でも、自分を心配してくれる人がいるというのは、彼女たちにとって、どんなにか励ましになったことでしょう。

 今日の聖句は、過ぎ越しの祭の意味合いを説明しています。過ぎ越しの祭は、キリスト教の復活祭のことです。過ぎ越しというのは、エジプトを出る夜、イスラエルの人々は子羊を殺し、その血を門柱と鴨居に塗りつけ、その肉と共に、苦菜と発酵菌を入れないパンを食べ、旅立ちの準備をしたことに因ります。9つの災害によってエジプトのパロ王を脅して、神はイスラエルの民を開放するように迫りますが、パロは聞き入れません。そこで、最後の罰を与えます。それは子羊の血を塗っていない家の初子が死ぬということでした。過ぎ越しというのは、その血の塗ってある家を死の使いが通り過ぎたという意味です。

 このことによって、イスラエルの人々はエジプトの人々から畏れられ、多くの贈り物をされて、エジプトから堂々と抜け出したのでした。その時、モーセは「奴隷の家であるエジプトから出て来たこの日を覚えていなさい。主が力強い御手で、あなた方をそこから連れ出されたからである。種を入れたパンを食べてはならない。」(出エジ13・3)と忠告したのです。

 Tコリント5章6節から「あなたがたの高慢は良くないことです。あなたがたは、ほんの僅かなパン種が、粉のかたまり全体を膨らませることを知らないのですか。」と諭されています。つまり、パン種とは、聖書の教えを勝手に膨らません、或いは自分の主観を入れてしまって、自分にとって都合の良い味わいのあるものに変えてしまうものなのです。

 多くの人が信仰や宗教に御利益を求め、自分にとって都合のよいように解釈しています。「神は愛だから、そんなに厳しい信仰は必要ない。」とか、「神様、私を祝福してください。」などと要求を繰り返したりしています。また、人々にも聞こえの良いような教えを語り、快適な信仰生活を送ろうとします。

 確かに神は、インマヌエルなる神であり、共にいて私たちを励まし守ってくださいます。神の国とその義を第一にすれば、すべて添えて与えてくださいます。しかし、それはキリストの十字架が自分の罪の為であると認めて悔い改め、さらにキリストの十字架を負って従って行く人に対してなのです。

 つまり、罪の奴隷であるエジプトから抜け出すことをしなければならないのです。そのためには、次のことをするのです。

@ 神の国に行きたいと願うこと。

A 子羊の血で救われること(キリストの十字架の死を自らの救いの代価であると認めること)

B 苦菜(エジプトの苦難)、パン種(道徳的腐敗をもたらすもの)を入れないパン、子羊の肉(聖書の教え)を食べる。

C 直ちにモーセに従ってカナンを目指す(信仰生活に入る)。

D 追手があっても紅海を渡る(洗礼を受ける)。

E 荒野の生活を送る(神に頼った信仰生活)

F 約束の祝福の土地に入る(祝福された生活)

 毎年、この時期にパン種の入っていないパン、「悩みのパン」を食べるのです。悩みのパンとは、エジプトでの奴隷生活、自由のない生活、道徳的退廃をしていた生活を思い出すためのパンなのです。

 五木の人々は、その子守唄を大人になっても歌いながら、苦しかった子供の頃を思い出し、貧しい山奥での生活に耐えたのでしょう。信仰者であろうとなかろうと、人生とは忍耐と節制のものでありました。ところが、日本人は経済的繁栄の中で、それらを怠り、道徳的にも、社会的にも、退廃してきたのであります。そして、クリスチャンもまた、怠惰な、快楽的な生活を営むようになってきました。そんなことで、神の祝福を得られることができましょうか。

 先週お話ししましたように、自発的な主の奴隷は、耳をその戸に錐で刺しとおし、神に仕えることを願うものであります。その後の欠陥のある物を献げてはならないということは、神には十分に配慮した完全な物を献げるということであって、障害の蔑視ではありません。

 私が神を信じて35年になろうとしています。その間、法定労働時間の倍は働いてきたでしょう。夫婦で、神の為に、伝道の為に必死に働いてきました。収入の10分の2は献げてきました。自分の権利も主張できず、為すべきことをしてきたと思います。誇って言うのではありません。主の奴隷になろうと、覚悟を決めたのでした。

 しかし、今や多くの祝福を受けています。考えてみれば、他の人が浪費する時間を働き、浪費する財を節約してきたのですから、35年で繁栄するのは当たり前です。いつもどんなことも悲観せず耐えて喜ぼうとし、苦しい時や困った時も絶えず祈り、思い通りにならないことを覚悟して感謝し、情況に左右されずに為すべきことをする。そうすれば必ず祝福されるのです。

 面白い計算をしてみました。1.2倍を35年続けると708倍になり、1.5倍を続けると218万4164倍になるのです。労働や苦役をするということではありません。悩みのパンを食べながら、堕落を戒め、神のために勤しむならば必ず祝福されるのです。


12月6日 祝福を喜ぶ祭。  申命記169-17  

新改訳 申 16:9-17

16:9
七週間を数えなければならない。かまを立穂に入れ始める時から、七週間を数え始めなければならない。

16:10
あなたの神、主のために七週の祭りを行ない、あなたの神、主が賜わる祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。

16:11
あなたは、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、あなたがたのうちの在留異国人、みなしご、やもめとともに、あなたの神、主の前で、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、喜びなさい。

16:12
あなたがエジプトで奴隷であったことを覚え、これらのおきてを守り行ないなさい。

16:13
あなたの打ち場とあなたの酒ぶねから、取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。

16:14
この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、在留異国人、みなしご、やもめも共に喜びなさい。

16:15
あなたの神、主のために、主が選ぶ場所で、七日間、祭りをしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての収穫、あなたの手のすべてのわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。

16:16
あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。

16:17
あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。


今日は、イスラエルの3大祭りの2番目、七週の祭(ペンテコステ)についてお話します。夏は暑く、雨が降らないので、種蒔きは一〇月から十一月の「先の雨」が降った後の一月くらいまでに小麦、大麦などを蒔きます。そして、先週お話しした過ぎ越しの祭の後、七週間経った50日目(ペンテコステ)にこの祭りをするのです。来年の復活祭(過越しの祭)は4月4日であり、ペンテコステ(聖霊降臨・教会の誕生)は5月23日です。過越しの祭は、イエス様の十字架を現わし預言するものであり、ペンテコステは聖霊の働き(魂の収穫)を意味します。この収穫の前の春に降るのが後の雨です。

 七週の祭とは、収穫感謝祭であり、そこでは「主が賜る祝福に応じて、進んで献げなさい。」とあります。神が与える祝福に違いがあるのか、差別ではないか、と疑問を持つ人もいるでしょう。日本の教育は画一教育であり、誰もが優秀になれるという建前を持っていますが、実際にはそんなことはありません。数学に優秀な人もいれば、文学や音楽、そして体育に優秀な人もいます。実際には、努力しても学校の成績は全くだめな人もいます。また、病弱な人もいれば、健康で壮健な人もいます。

 クリスチャンである星野富弘さんの詩に「いのちが一番だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのがうれしかった。」とあります。人の観点では、当然ながら能力があった方が良いし、金持ちであったり、良い環境であったほうが嬉しく、それを願うものです。ただ、聖書は金持ちが天国に行くことは難しいと断言しており、貧しい者は幸い、悲しむ者は幸い、とイエス様は言っていますので、この世の価値観と神の御心・配慮は明らかに違うことがわかります。豊作で倉を建てた金持ちに対して、「愚か者、お前の魂は今夜取られる。」(ルカ12・20)と言われた神の基準は、天国と地獄という永遠の違いであります。

 神様は、金持ちで謙遜になる人が少ないので、悔い改めた者だけが神の国に入るという基準に適うことは難しいと言われるのであって、神の国の実在を信じる人にとっては、束の間のこの世の人生よりもはるかに長く幸せな神の国に住まえるならば、地上の艱難辛苦はなんでもないことになります。

 ところが面白いことに金持ちでなくても、ケチな人はケチで自分の金を自分の為だけに用います。教会の献金、特に席上献金は誰がいくら捧げたかは、誰にもわからないようになっています。先週のギデオンへの献金でも或る人は1万円献げ、或る人は数十円献げたかもしれません。これは神が見ているという意識を持つ人は案外少ないのですが、イエス様は「あなたの施しが隠れているならば、隠れた所で見ておられる神が報いてくださいます。」(マタイ6・4)と言われます。クリスチャンになって一年後の大学院浪人の時は奨学金がなかったので、月収二万円くらいでしたが、教会学校の子供たち二〇数人に二万円のプレゼントをしました。そして、その子たちの多くがその後洗礼を受けました。生活が苦しかった私にとって、子供たちに救いを教えたいという気持ちが強く、その為には貧しさを覚悟しなければならないと考えたからです。

 私が信者時代に洗礼まで導いた人は五〇名以上いますが、その殆どの人々に経済的・時間的・肉体的その他の多くの犠牲を払っています。犠牲なしに何かを得ることは、決して益にはなりません。ラッキーで得た益は、アンラッキーで消えていくだけでなく、私たちを駄目にしてしまうのです。

 聖霊の働きなしに人は、神の恵みと導きを理解することはできません。そして、神に感謝することができません。先日は、私たち夫婦を救いに導き、結婚に導いて下さった恩師にプレゼントをすることができました。他の人たちは、御馳走になり、お土産をもらうことを当然と思っていたようですが、私たちは、この恩師の夫婦の祈りと支えがなければ、ここまで来れなかったと聖霊によって示されているので、力の限りで恩に報いたつもりです。犠牲を払った方に対して犠牲をもって報いなければ、信仰者とは言えないと考えております。

 「主が賜る祝福に応じて感謝の捧げ物をすることができる人は、実際にはすくないのです。主の祝福を自分固有のものとして、浪費するのです。「家族、奴隷、牧師や神学生、在留外国人、みなしご、やもめ、これらの人々と共に喜ぶ」ということは、あなたがそれらの人々を経済的にも食べ物にも支えて、助けて過ごすということなしには達成できません。私たち夫婦は、このように支えている人が数十人に達しています。それらの人々を喜ばせること、助けること、支えることをしているから、神は決して私を破綻させないと信じています。

 あなたの収穫を自分のものとするならば、神の祝福は得られません。初任給は、親に献げるべきものです。あなたの働きとその成果が自分のものではなく、親からの祝福のお陰であると認識する人は、間違いなくその人生と歩みが傲慢になることがなく、神にも人にも祝福されたものとなります。私の両親は貧しい中から、毎月三万円を送ってくれました。そして、私は収入を得た時から、どんなに貧しくても親に仕送りを送り続けました。兄弟の中で私だけです。しかし、だからこそ、神の祝福を得ることができたのです。

 マタイ十三章には、刈り入れの時がくるとあります。神の国に収穫される良い麦か、火で焼かれる毒麦かは、神ご自身が判別されます。良い麦ならば、良い実を実らせています。私たちの人生で良い実りを得ているでしょうか。


12月13日 神の御前に正しく歩む人。  ルカ福音書15~17節  

ルカ1:5 ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。

1:6
ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。

1:7
エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。

1:8
さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、

1:9
祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿にはいって香をたくことになった。

1:10
彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。

1:11
ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。

1:12
これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、

1:13
御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。

1:14
その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。

1:15
彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、

1:16
そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。

1:17
彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

 紀元前538年にペルシャの王クロスによって、預言のごとく(イザヤ45・1)解放されたユダヤ人はエルサレムに帰って神殿建設と国の復興にあたりました。しかし、その後ダニエルの預言と警告のごとく(7・6、8・521、11・3)アレキサンダー大王が世界を治め、セレウコス朝シリアによって支配されます。これらのことはダニエル11章に細かく預言されています。

これらのとき、ユダヤ人はしっかりとしてヤーウェ信仰を確立しているのですが、アンテオコス・エピファネスが預言のとおり神殿を汚し多くのユダヤ人を殺します(ダニエル11・31-33)。ユダス・マッカバイオスが反乱を起こしますが、やはり預言のとおり死にます(34,35)が、その子らが立ち上がり、紀元前164年シリアを撃退します。そしてユダヤにマカベヤ家のハスモン王朝ができて独立を確保するのです。

しかし、100年もすると大祭司職を継いできたハスモン王朝も堕落し、エドム地方の領主であったヘロデ家がハスモン王朝に取り入りながら力をつけていきます。大祭司職を争うハスモン家の兄弟の争いの中で紀元前63年にローマ軍によりエルサレムは陥落し、数千人のユダヤ人が殺されます。シーザーの時にヘロデ家のアンティパテル2世が取り入ってユダヤの総督に任じられます。ヘロデ家はユダヤ教に改宗したエドム人なので、ユダヤ人からは軽んじられるのですが、ハスモン朝の王女と結婚したその子のヘロデは、ハスモン家の大祭司を巡る骨肉の争いに乗じ、とうとう紀元前37年にユダヤの王になり、ヘロデ大王となるのです。

しかし、ヘロデ家も王権を握る骨肉の争いとなり、ヘロデ大王は自分の子3人を次々に処刑し、ヘロデの死後(紀元前4年)、アケラオが王位を継承し、アンティパスがペレアとガリラヤを支配し、ピリポが上ガリラヤとシリアの一部を支配して分割統治となりました。こういうわけで、3人の博士が「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおいでになりますか。」(マタイ2・2)とヘロデ大王に聞いた後、ベツレヘム近辺の乳児を皆殺しにした経緯がわかります。

ついでながら、バプテスマのヨハネを殺したヘロデは、ヘロデ・アンティパスであり、後に甥のヘロ・アグリッパにより追い落とされますが、このアグリッパは、使徒12章に演説をして「神の声だ」と民衆に叫ばせて、神に罰せられて死んだと記されています。

 さて、このように権力闘争が繰り広げられて国が荒れる中でも、敬虔な人々はいるのです。祭司ザカリヤも妻のエリザベツも「神の前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた」のです。日本はクリスチャンが少ないとか、キリスト教の影響力が弱いとか嘆く人がいますが、信仰というものは、神の前には個人のものであって、その人自身の信仰の真実さが大事なのです。先週のメッセージのように、或る人は祝され、或る人は艱難の中に生きます。艱難の中に生きる人が信仰が弱いのでもなく、幸せで繁栄した人が神の前に受け入れられるとも限りません。大事なことは、国を変えようとか日本をキリスト教国にしようなどと傲慢にならずに、神に従い、人に仕えながら福音を伝えることです。

私たち夫婦は低血糖症のために30年も苦しみ戦い、そしてその治療を進め、啓発活動をしながら、患者さんを助けてきました。その間、医師も知らない病名をつけるクリニックだと非難されたり、低血糖症などない、などと文句をつけられたり、いろいろ苦労もしてきました。親身になり世話をしたり、祈ったりする患者さんから非難攻撃されることも度々ですが、まさに福音伝道への攻撃と同じだと思いながら覚悟をしてきました。それでも、現在多くの支援者を得て活動が進展していることをうれしく思います。日本におけるキリスト教の福音伝道は、相変わらず報いられませんが、低血糖症の啓発よりも価値のあることですから、反対や攻撃など気にしてはいけないものです。それでも、外国に行ってクリスチャンから、「なぜ日本の教会は小さいのか、キリスト教は伸びないのか、努力と祈りが足りないのではないか。」と言われると、非常に悲しくなるものです。

 ザカリヤ夫婦には子供がなく、報われるものがないように見え、人々はそれを持って神に呪われていると陰口を言っていたことでしょう。しかし、かれらは「神の前に正しく、・・・」過ごしていたのです。私たち夫婦も、ますます報われず、うまくいかないことが重なってきます。働きも多く大きくなってくるのですが、困難も多く大きくなるばかりです。しかし、そういうことに目を留めてはいけません。ただ、神の前に生きればそれでよいのです。

 聖書による歴史認識は、私たちに神の変わらぬ計画と御手を教えてくれます。イスラエルはあれほど祈り神に仕えてきたのに、艱難と迫害の連続でした。ダニエル書にあるように、バビロニア帝国の次には、メドペルシャが起こり、そしてギリシャと4つの国、さらにローマ帝国が起こるけれども、そこに「天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。」(ダニエル2・44

 これらのために私たちは、バプテスマのヨハネのように、エリヤのような強い霊と力をもって、再臨の主の前に先触れをして、福音を伝えつづけなければならないのです。


12月20日 全ての人を照らす真の光。  ヨハネ福音書11~18 
新改訳 ヨハ 1:1-18

1:1
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:2
この方は、初めに神とともにおられた。

1:3
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

1:4
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1:5
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

1:6
神から遣わされたヨハネという人が現われた。

1:7
この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

1:8
彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

1:9
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

1:11
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

1:13
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

1:15
ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」

1:16
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

1:17
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。



永遠の昔に御子イエスは父なる神より生まれ(コロサイ1・15)、 御子は天地宇宙を造られ(1・16)、御子によって保たれてきました(1・17)。箴言8章には、創造の働きを始める前に、父なる神は御子と一緒におられ、御子が世界を組立てられたとあります(30)。エペソ書によれば、父なる神の御心と計画の中で、御子がそれを実行すると書かれています(1・11)。さらに、エペソ書には、私たちを救いに選ばれたのも、御子であり、私たちは御子によって、神の国を受け継ぐ者とされたとあります。

そのような偉大なる立場にある方が、どうして人間として生まれたのでしょうか。ピリピ書によれば、ご自分の神としての栄光、あり方、全能を捨てることができないとは考えられないで、ご自分を無にして人間となられたとあります(2・6-7)。王様と乞食というおとぎ話はありますが、実際には、わざわざ貧しくなる方はほとんどいないでしょう。まして王様と乞食よりも、神と人間との差は途方もなく大きいのです。

なぜ、わざわざ東方の博士たちは、黄金などを携えてわざわざ王の誕生を祝いに赴いたのでしょうか。それは、この世を真に平和にし、人々を喜びと幸せに導くように治める偉大な王を求めたからに他なりません。歴史上の最高の勝利者はアレキサンダー大王でしょう。またたくまに、ギリシャからエジプト、そしてインドの近くまで制覇して現在に至るまでで史上最大の帝国を作り上げたのです。しかし、その命も短命で、王の急逝後、帝国は4つに分かれてしまいました。ジンギスカンもモンゴルの王として中国からヨーロッパまで征服しました。日本では、徳川家康が初めて、全国を支配しました。

しかし、これらの王や支配者が人々に幸せをもたらしたのでしょうか。人々は、自分の国が勝ったということで喜んだとしても、実際には税金の高さや徴兵制によって、搾取と苦役によって却って拘束が強くなっただけなのです。今年は、民主党が選挙で勝利して、長年の自民党支配から代わりました。国民は、政治が変わり、税が安くなると喜んだものの、そうはいかないことを感じざるをえない困難な状況であります。

男というものは、政治が好きで、自分こそ政治家になって社会を変えてみせるという気概を持てと言われ、またそのようになることが理想のように思われています。低血糖症の病名認知の活動をしていますが、確かに政治的な力添えは必要であり、人々の助けになります。しかし、そういうことで生活が改善したとしても、幸せにはならないのです。

昔は、よく勉強して一流の大学に行けば、良い仕事を持てるし、良い結婚もすることができるなどと教えられてきたものです。しかし、現代の子供たちは、社会が豊かになり、高学歴になっても、高収入の仕事についても、名を上げて社会的立場を良くしても、大したことはなく、幸せではないことを悟ってしまいました。それでも、理想がないと努力ができないとして、金儲けのできる職業を目指して努力するように、大人は子供たちに働きかけますが、もはや大人自体が夢も希望もなくなって、生きがいをなくしているのです。

  「光は闇の中に輝いている」とあるように、神を知らない人生は闇なのです。大人も、青年も、子供も、高齢者も、毎日を喜びなく、ただ時間の経過と浪費と空腹をもてあましているのです。それは、「人々は光よりも闇を愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出ることを恐れて、光のほうに来ない。」とある通りなのです。

 神の子であるイエスさまが人間として生まれたのは、人を救うためであります。しかし、自分の罪に慣れ、罪の虜になっている人は、救われたい、幸せになりたいという気持ちを持てないのです。

 この年の暮は、不景気にインフルエンザ、そして環境汚染や地球温暖化、国家財政の破綻と、暗いことばかりです。しかし、イエスさまは「世の光です。」(ヨハネ9・5)。「光の子どもとなるために光を信じなさい。」(ヨハネ12・36)。

  信仰や救いというものは、その教えを理解して努力や意思によって生きる、というものではありません。多くの人が、そのように教えを身につけて生きるのが宗教だと思っています。しかし、聖書の教えは、そうではありません。「光を信じなさい。」というのです。「この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」というように、生きて働く神から、一方的祝福である恵みを受けるのです。

 博士たちは、なぜ、黄金などを捧げたのでしょうか。それは、黄金のために働くことよりも、もっと価値ある人生の目的を求めたからに他なりません。あなたも、このクリスマスの時期に、神を信じる人生を初めてみませんか。