1月4日 塩気のあるクリスチャンでなければ。 マタイ5313

新改訳 マタ 5:3-13

5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

5:6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

5:8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。

5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

 キリスト教の集会や論説では、なぜ日本にリバイバルが起きないか、とか日本の伝道の困難さを説くものや、教会の指導者の責任を問うものなど、日本におけるキリスト教の沈滞の理由を探るものが多いのが実際です。私は、そういうことは、アメリカや韓国のクリスチャンに対する言い訳の論理であり好きではありません。国際的な集いで、教会の大きさを問われることが多く、どうしても小さい教会の弁解の中で言ってしまい、またそういう伝道困難な国で牧師をしているという同情を求める感情も働いてしまうようです。更には、そういう日本を自分こそ、リバイバルさせようとして世界中から伝道者が集まってくるようです。

 歴史的、世界的にはクリスチャンというものは、そう多くはなく、いつも迫害の中にいたようです。終末にはリバイバルという説もありますが、十字架を負ってイエス様に従って生きるという弟子が実際にそれほど多いようには思えません。リバイバルと言っても、日本における神社や仏教のように時流に乗ったり、権力に媚びる中で、クリスチャンと自称する人が多いのではないでしょうか。

イエス様の教えは、「洗礼を受ければ天国に行ける。」というほど簡単なものではありません。私には、宗教的権力者が、自分の権力を行使するために「キリスト教」というものに帰依させたようにしか思えません。アメリカや韓国で真実なクリスチャンに多く出会ったことも事実ですが、それでも多くのアメリカ人が「魂の救われたボーンアゲイン・クリスチャン」であるとは思えません。まして、日本でそれほど多くの「魂の救われた主の弟子」がいるのでしょうか。千人以上には会っていますが、教会を渡り歩いて信仰自慢をしたり、目立つ競争をする偽クリスチャンがいるのは事実です。牧師も宗教を商売としている人が一部にいることも事実です。ところが、聖書は神の言葉であり、魂の救われていない牧師からでも救われた信仰者が生まれるところが、神ご自身の業です。

神様に御利益を求め、自分の都合の良いことだけを願い祈るのは、救われていない証拠です。平気でうそを言い、自慢話をして、自己の栄達を求めるのは、偽クリスチャンです。偽クリスチャンは、聖書を読まず祈らすに何日も過ごすことができます。神に感謝することがなく、うまくいかないと不満を言い、人々を批判します。頑固や強情、性欲や食欲などの欲望を自制できないのは聖霊が内在していない証拠です。宗教的熱心さや宗教行為への忠実さ、律儀さや真面目さは、習性であって、魂の救いの証明ではありません。教会に集っているのは、神が導いてくださったからですが、それで救われているわけではありません。義理や興味や習慣で教会に来ても、魂が救われていなければ霊的な奉仕はできません。祈ることもできず、賛美もできないのです。但し、訓練と模倣によって祈りや宗教行為ができますが、聖霊による自発性がないのが特徴です。

魂の救われたクリスチャンの特徴は、罪の自覚と神への讃美です。品性の実りです。クリスチャンになって十年経っても、御霊の実である品性が実っていなかったら、あなたは魂が救われておらず、天国に行くことができないで地獄に行くことになります。

偽クリスチャンが牧師になったので、救いというものを洗礼という儀式的なものとし、教会を経済団体・競争組織にしてしまったのではないかと思います。善良な牧師は、ただそれに従い、自分を愚かで無能力なものと卑下してしまうのです。ところが、万人の前に死というものがあるのですが、救われていない牧師は、天国のことは言えるのですが、地獄のことは言えないのです。そして、魂の救われていない信者は、伝道というものを「楽しく生きがいのある教養人になることへの誘い」としてしまうのです。

 魂の苦しみと裁きを感じ取っている全ての人は、真実な教会とクリスチャンを嫌います。それは、神と地獄の実在を示すからです。そして、道楽で生きている偽クリスチャンを歓迎します。この世的なクリスチャンの存在は、神の存在が偽りであることを意味するからです。彼らにとってはクリスチャンが堕落するのも大歓迎です。私は、大学生の時クリスチャンになりましたが、会計学研究部の合宿で夜中に二時間以上全員にそのことで責められました。内在の聖霊の励ましを感じながら、にこやかに対応しましたが、その後、五〇名以上の者が教会に来て、五名が洗礼を受けました。

 クリスチャン夫婦が仲良くないということはありえません。伴侶を責めて自分を義とすることなど、聖霊なる神が平安を与えるはずがなく、詫びずにはいられなくなるからです。伴侶がクリスチャンでないならば、あなたの謙遜な信仰姿勢が問われます。伴侶が救われなくても構わないという思いになるならば、あなたの働きかけと祈りはなくなり、表面上の争いはなくなりますが、あなたの弱点は攻め続けられるでしょう。家族の中であなただけがクリスチャンであるならば、魂の救いの奥義は、彼らの自尊心を攻撃することになり、平安でいられなくします。もし、あなたがキリスト教を御利益的なものとして説明し、「平安を得られたから、楽しいから、ためになるから」とするならば、あなたの信仰は決して責められないでしょうが、彼らの魂が救われることもないでしょう。

 ローマの総督ぺリクスは、「パウロが正義と節制とやがてくる審判とを論じたので恐れを感じ」(使徒24・25)、話をそらしました。「彼はパウロから金をもらいたい下心があった」(26)、「ぺリクスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロを牢につないだままにしておいた。」(27)というのが、この世の人々のやることなのです。後任のフェストは、本気で神を信じて命をかけているパウロの弁舌に対して「博学があなたを狂わせている。」(26・24)と、命がけの信仰を嘲笑い、アグリッパ王は「あなたは、わずかな言葉で私をキリスト者にしようとしている。」(28)と、この世の理性をもって捉えています。

 世の中の人々は、神の審判と地獄の存在については、考えようとしないで、嘲笑っているのですが、もし聖書どおりならば、それはすべての人の前にある現実です。聖書の教えは、言葉の遊びではありません。神話でも、人生訓でもありません。信じたくなくても、すべての人は死ななければならないのです。その先のことを神は何度も警告されているのです。


1月11日 権力によらず能力によらず神の霊によって。  ゼカリヤ4114

新改訳 ゼカ 4:1-14

4:1
私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。

4:2
彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。

4:3
また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」

4:4
さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」

4:5
私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」

4:6
すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。

4:7
大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」

4:8
ついで私に次のような主のことばがあった。

4:9
「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。

4:10
だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主の目である。」

4:11
私はまた、彼に尋ねて言った。「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」

4:12
私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」

4:13
すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」

4:14
彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」

紀元前539年にペルシャのクロス王は、宰相のダニエルによって自分の名前が一五〇年も前の預言者イザヤによってイスラエルを解放することが預言されていることを知らされ、感動して解放令をだします(ダニエル10・1イザヤ45・1)。イスラエルのバビロン捕囚からの帰還には、神の御手の中で、イザヤ、ダニエル、ゼカリヤ、ネヘミヤ、エズラ、エステル、その他多様な人々が用いられています。

 エルサレムの神殿建設を命じられた総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアの働きは敵の妨害や攻撃もあって困難を極めました。そんな時に、預言者ゼカリヤは幻を見て、天使によって解説されるのです。その幻は四十九の燈心がある燭台であり、なんと傍に植わる二本のオリーブの木からそのまま油が供給されているのでした。

 神殿を建てようとするエルサレムは廃墟であり、ただの山となっていました。しかし、神は。「権勢によらず、能力によらず、わが霊によって」「大いなる困難の山は平地となれ。」そして、困難に悩んでいたゼルバベルは、「恵みだ、感謝だ。」と喜んで神殿建設の礎石を据える、と言われるのです。

 キリスト信者なのに、神を信じないで権力や能力によって、物事を考えて行動する人ばかりのようです。今年のテーマは世の光として歩むことですが、どうも信仰によって生き、輝こうとする人は少ないように思われます。人にとって、困難なことも神様ならば、何でもないのですから、信仰をもって歩めばよいのですが、実際の生活の中で、信仰で生きようとする人がいないのです。

 私も、昨年末は事業の大きさと経費の膨大さに恐怖心をもちました。その上に、諸問題が起こり、また責任や課題は多くなる一方です。私がいつも、信仰と活力に満ちているとか、能力があるとか捉えている人が多いようです。それは、信仰によって歩んだことのない人の考え方です。暮れにゴルフコンペを持ちましたが、私自身の成績は悲惨なものでしたが、実力はそんなものだと考えていますので、あまり気になりません。友人に言いました。「牧師でゴルフがうまいはずがない。そんなことより、どんなスコアでも感謝しているか、喜んでいるか、そして次の一打に最善を尽くし続けているかが大事なんだ。」

 ところが、昨年は生涯で最も忙しく、激動の年でした。暮れになって疲れ果ててしまったようです。普段の祈りでは、力が湧いてきません。恐れと絶望が私を覆いました。アブラハムが祝福の約束の後に「ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。」(創世記15・12)とあるのを思い出しました。そして、大晦日にガンガン祈りました。そして、この「権力によらず能力によらず、神の霊によって」という言葉を言い続けました。おとなしく祈るというよりも、大声でわめいて叫んだという方がふさわしいでしょう。たとえ不況や困難が襲うとも、神を信じて歩み、決して恐れを抱いてはならないのです。恐れが生じそうならば、振り捨てて神を信じ、喜ばなければならないのです。状況や情報などに左右されては、指導者として責任ある判断ができず、神の祝福の声を聞き逃してしまうのです。

 大きな燭台は大きな光を照らすのですが、その油を供給するのは、オリーブの木である二人の信仰者、ゼルバベルとヨシュアであると聖書は言うのです。

 植物が実りを生み出すのは不思議です。土を土台に水と肥料と太陽で、実りを生み出すことを当然と考えてはなりません。それは、神が造り出した機能なのです。オリーブが油に富んだ実を実らすのは、オリーブがその機能を神に与えられたからです。さて、私達信仰者は、神の御霊によって、魂が救われ、そして信仰を維持しているのです。

 先週はあわてて梅や花梨や柿に寒肥を与えました。移植間もない木は冬でも水をやらないと枯れてしまいます。木々に水や肥料が必要なように、信仰には聖書と祈り、そして賛美と聖徒の交わりが必要なのです。暮れに体験した祈りの飢え渇きは、自分がこれまでの祈りや信仰では、維持できないほど大きくなっているのを意識しました。根が大きく張り出さなければ、いくら肥料をやっても実りは多くはないものです。剪定をしなければ、葉が茂るだけで実りはありません。

 あなたが、長い信仰生活を持っていようと、聖書と祈りに基づいた太い根をはり巡らしていなければ、なんの実りも得られないでしょう。肥料をやっても世話をしても花もあまり咲かなければ大きくもならないモクレンがありますが、既に七年になります。あと三年待ってこのままならば、切ってしまおうかと考えています。根付きが悪いのが原因でしょう。移植の際の土壌が気になっていました。

 あなたの生活は、信仰という土壌に根を張っていますか。「ふたりの油注がれた者」ゼルバベルとヨシュアの信仰が、光を輝き出す燭台に供給する油を生み出しているのです。

 今年も既に多くのことが起こりつつあります。もはや一年の計画が成り立たない程に、いくつものことが進展しています。祈らなければいつでも倒れそうなことというのを信仰者は、神からチャンスをして与えられるのですが、気がつかず、また支えられずに取りこぼしているのです。

 捕虜になった数十万の人が、王の権力と財産を与えられ、解放されて、王の財産で神殿を築き上げるべく任命を受けるのです。黙示録によれば、「燭台は教会である」(1・20)。罪の奴隷であった私たちが、解放されて為すべきことは、教会を建て上げることです。困難がなくてできるものなどありません。あなたが信仰に根を張り、祈りと御ことばによって成長するならば、それが世の光として輝く源となるのです。

 聖書を読み、祈っていると自称しても、実を実らせていないならば、イチジクの木のようにイエス様によって枯れさせられてしまいます(マタイ21・19)。「信じて祈り求めるならば、何でも与えられます。」(マタイ21・22)は事実です。


1月18日 御ことばの戸が開くと光が差し込む。  詩篇119129136
新改訳 詩 119:129-136

119:129
あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。

119:130
みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。

119:131
私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。

119:132
御名を愛する者たちのためにあなたが決めておられるように、私に御顔を向け、私をあわれんでください。

119:133
あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。

119:134
私を人のしいたげから贖い出し、私があなたの戒めを守れるようにしてください。

119:135
御顔をあなたのしもべの上に照り輝かし、あなたのおきてを教えてください。

119:136
私の目から涙が川のように流れます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです。


 先週の聖句は、我ながら恵まれました。神殿の燭台に油をもたらすオリーブの木とは二人の油注がれた信仰者であり、神からその油を受けて信仰をもって歩む人こそ、輝きの供給源であるとは、なんという奥義でしょうか。

 さて、それでは、そのような信仰者はどのような人なのでしょうか。或いは、どのようにして育っていくのでしょうか。

 それは、聖書のことばです。わきまえのない人に悟りを与え、信仰者としての成長を促すのは、聖書なのです。ところが、多くの人が聖書を神話や伝記のように捉えているので、神の語りかけを聞こうとしないのです。

 聖書は、特別啓示であり、神がどのような方であり、真理がどのようなものであり、またイエス・キリストが人の罪の身代りとして十字架に掛けられて死んだことを信じる者は救われることを、明確な論理(ロゴス)をもって啓示するものです。聖書なしに、人には救いが必要であることは教えられません。

 詩篇19篇にあるように、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」のですが、そういうのを自然啓示と言いますが、それによって「誰が自分の数々の過ちを悟ることができましょう。」(詩篇19・12)。自然啓示によっては、罪を認識して悔い改め、救われることはほとんどないのです。

 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(Uテモテ3・16)。とありますが、聖書は人に基準を教えます。聖書の基準がなければ、人はそれから離れていることがわかりません。厳しい親と甘い親では躾の基準が全く異なり、厳しい親に育てられると人間的罪責感が強くなります。基準もなく育てられると、マナーも配慮も罪責感もない人間になります。吸殻やゴミを平気で道に捨てる親を見て育った子供が、親孝行で優しい人間になることは殆どないでしょう。 

  聖書の基準があるから、どんな人にもそこから離れており、罪を犯していると戒めることができるのです。日本社会は、このルールや法律の基準があいまいです。言い訳があったり、状況があるとその基準を離れても許されると考えているのです。先日の国会中継で、官僚の天下りを禁じる法律ができたのに、政令(官僚が作る)で但し書きをつけてしまい、抜け道を作ってしまったことが野党に糾弾されていました。保険診療も、原則以外に適用基準というものが、都合によって作られており、一方的に保険審査で支払われなくなることがあるのです。原則とルールが守られない社会に戒めは難しいのです。政府や会社や権威ある人々がご都合で罰を免れるような社会では、人々を真に戒めて悔い改めさせることはできません。

  聖書は、更に矯正の働きをします。聖書には、神の愛と義、その優しさと強さが記されており、私達はイエス様の愛の故の十字架の贖罪を知って悔い改めるのです。これで私達は矯正されるのです。基準がなければ、正しいところに戻ることはできません。信仰者というものは、他の人々には寛容になるけれども、自らに対しては、厳しく律していくようになるのです。これは、聖書が示す清めであり、聖霊がそれを促すのです。ですから、自分に甘くてだんだん基準から逸れていくのは、聖書から聡しを受けていないか、聖霊が内在していないからなのです。

  義の訓練というものは、神様がよしとされることが義であり、社会の慣行でも、人眼でも、自己満足でもない、神の御心を探る動機づけであります。自分が良しとすることは、自己満足で堕落の先駆けですが、神の御心に沿って生きようとすることは、聖書の教えなしには無理です。

  そういうわけで、聖書のみことばを日々読みながら、神からの語りかけを聞き、そして聖書のロゴスを読み取って神の御心を実行することが大事なのですが、その動機はまさに、神のみことばである聖書を読むこと、みことばの戸を開くことから始まるのです。

  人格的に人に接し、応対しない人が多くなっているように思います。自分の言いたいことを言い、やりたいことをやる。そして、人を自分の思うように動かそうとする。他の人と心の通った交流ができない人が多いのです。さらに、たとえば、こういう説教を聞きながら、自分は問題ないとして良いところだけを聞き取る人もいます。大した自己義です。実際には、この教会にはいないとおもいますが。

  御ことばの戸を開くと、その人の中に光が差し込むのです。信仰を持って生きようとする動機が生まれるのです。聖霊なる神は、聖書のみことばを通して私達に語りかけるのです。そして、そのロゴスがわかってきた人は、その人の中から光り輝くようになるのです。「神のみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させない」(133節)ことができるようになるのです。

 聖書を神のことばとして受け入れる人は、そのようにして「神の人」となり、「すべての良い働きのためにふさわしい充分に整えられた者」(Uテモテ3・17)となるのです。逆に言えば、そうでない人は、次第に堕落して信仰の落後者になってしまうのです。毎日、聖書を読み、みことばとして受け入れ、祈る習慣を身につけましょう。


1月25日 世において光り輝くために。  Uコリント3618

新改訳 Uコリ3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

3:7
もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、

3:8
まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。

3:9
罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。

3:10
そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。

3:11
もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。

3:12
このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。

3:13
そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。

3:14
しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。

3:15
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

3:16
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

3:17
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

3:18
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 宗教がこの世のものになると体制的、統制的になります。信者を統制管理して、その宗教に熱心にさせるよう、戒律を厳しくします。宗教的指導者に忠誠して従うことを模範的な信者の条件とします。これはキリスト教にしても、同様であり、そのようにしてキリスト教が体制的になり、世の中に影響力を行使するようになるのです。

 しかし、それは果たして聖書的な教えなのでしょうか。イエス様が教えられた信仰生活なのでしょうか。

 私は、自分があまり立派でない牧師なものですから、「牧師に忠実」とか、「牧師に従って」、などと言う言葉を聞くと、「そんなことになったら大変だ」、と思ってしまいます。しかし、正直なところ、そんなことを言う牧師もまた、私と似たり寄ったりです。「どんな牧師であれ、その牧師を神のように信じ従え。」などという言葉がでたりすると新興宗教になっているな、と感じます。

 キリスト教というのは、そういう教祖的なものを排斥する宗教なのですが、人間の本性というものが、「人を思い通りに支配する」欲望を強くもつ罪性なものですから、どうしてもそのような傾向になってしまいます。長く牧師をするとどうしてもそうなるので、定期的に担任教会を変わる教団もあります。

 また、逆に融和的、懐柔的になって、信者のご機嫌をうかがう宗教団体もありますが、そういうものは殆ど影響力を失って消滅していきます。失礼ながら現代日本の仏教もそういう傾向にありますが、かろうじて死への恐れから、葬式宗教として経済的に守られてきた感があります。

 このようにして、死後への恐れと霊的存在の意識、そして神が与えた信仰心から、人間は宗教に帰依するのですが、殆どの場合、宗教的指導者が、その信仰心を利用して、神への帰依ではなく、指導者への帰依に替えてしまっているのが、現状です。そして、信者自身も、見えず、語られない神よりも、見えて話してくれる宗教的指導者を重視する傾向があるのです。もし、それが適切でなくても、自分は宗教に熱心だったという言い訳を神に言うことができると信じているのです。

 モーセは、神の教えを十戒として石板に書かれたものを人々に提示しました。これは、恐怖・畏怖による宗教的呪縛から人々を解放し、宗教の教えを人々に判断可能なものにし、論理を提供したというもので画期的なことであります。それまでは、ヤーウェの神に対してさえ、人々はただ畏怖をもって仕えていただけで、アブラハムが初めて、人格をもって神と交流することを始めたので、アブラハムを信仰の父と呼ぶのであります。もし、あなたに信仰的平安と確信がないとしたら、それは神が人格的応答をあなたに求めておられることを知らないからです。信仰というのは、宗教行為に拠り所があるのではなく、神との人格的交流に始まりがあるのです。

 ともかく、モーセは神の論理を提示しました。そして、神と交流し、その教えの明文化に感動したのでありますが、実は、それは神の教えを全うできない人間の罪性をも明らかにしたのであります。つまり、明文化により、人の罪は免れることのできない罰をもたらすことを明らかにしたのです。罪に定める務めなのでした。

 ところが、十字架の教えは、その明らかにされた罪をイエス様が全てご自身で引き受けてくださることを示したのです。これを義とする務めと言い、御霊の務めと言うのです。

結局は罪に定め、死を定める務めを行ったモーセも神との交わりの中で、顔が光り輝いたとするならば、罪の許しを告げる務め、御霊の務めをする者が光り輝かないはずがありません。

私達クリスチャンの日常生活は、それではどのようにあるべきでしょうか。

先週もお話したように、人に罪を明らかにするのは、聖霊なる神であって人ではありません。失敗したとき、罪責感を覚えたときに、悔い改めを迫って涙を流したとしても、聖霊なる神が働いていなければ、それは救いではなく単なる懺悔です。懺悔が悪いわけではありませんが、そのような認罪の強制は、死の務めを果たしているだけなのです。

聖霊なる神は、私たちを清めと栄化へともたらします(18節)。つまり、義の務めであり、いのちの務めであり、キリストにある自由への務めなのです。ですから人が伝えているのに、御霊の務めなのです。

悔い改めを何回したところで、救われるわけではありません。ただ罪責感に浸った暗い人が形成されるだけです。そういう人が、罪を責められ、洗礼を受け、宗教行為を熱心に達成したところで、義を受けていないことに変わりはないのです。大事なことは、聖霊に触れて救われることです。「涙を流したから救われた。」などとして、聖霊なる神を涙にしてはなりません。

どんなに世の中が暗くても、問題があなたに山積みになっても、艱難が続いても、聖霊に満たされていたら、あなたはキリストから力を受け続け、主と同じようになって輝き続けるのであります。


2月1日 栄光の神の光の中。  イザヤ6章110節 

新改訳 イザ 6:1-10

6:1
ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、

6:2
セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、

6:3
互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」

6:4
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

6:5
そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

6:6
すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。

6:7
彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

6:8
私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

6:9
すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』

6:10
この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」



イザヤは、ウジヤ王の死んだ紀元前742年頃に預言者としての召命を受けました。イスラエルは分裂して南ユダが正当な王の系図として続いていましたが、信仰的には堕落の一途を辿っていました。ウジヤ王は、賢明な王として良い統治をしていましたが、祭司ザカリヤの死後に高慢になって、自ら神殿の香を焚こうとして神の罰を受けます(U歴代26・16)。

 イザヤ書1章には、牛もロバも飼い主を知っているのに、「イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。ああ、罪を犯す国、咎多き民。・・彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる神を侮り、背を向けて離れ去った。」(3.4)と神の嘆きを述べています。神は、形だけの信仰を嫌い、「もう、むなしいささげ物を携えてくるな。」(1・13)、「悪事を働くのをやめよ。」(16)と忠告し、悔い改めを命じています。しかし、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(18)という有名な神の愛情を告げるのですが、既に心の堅くなった人々は聞こうとはしません。

 その人の信仰の真実さは、年月が証明します。魂の救われている人は、年月を経るごとに清められ、御霊の実としての品性が実ってきます。しかし、魂の救われていない人は、他の人を見て信仰者を演じるのですが、いくら信仰を強調しても、信仰に基づいた人格が形成されません。本人は、救いというものがわからないので、信仰者を演じているという自覚がないのですが、次第に信仰生活に無理が来ます。信仰に喜びがないのです。救われていないから、罪責感が付きまといます。

 イザヤは、国を思い、民の堕落を思い、神殿で祈っていると、神の幻を見ます。神殿には確かに神が居られ、神殿を超えて天に届く栄光の姿でありました。守護天使が、神を見る不敬を恐れて顔と足を覆い、「聖なる、聖なる、聖なる主。その栄光は全地に満つ。」(6・3)と叫んでいました。神の栄光を見る者は誰でも、自らの汚れに恐れおののきます。イザヤは、「ああ、私はもうだめだ。私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(5)。

 私は、いろいろな宗教の信者を知っています。自分の神や御本尊を自分のものとしています。熱心な宗教帰依によって、自分と神を同一化しています。そして、魂の救われていないクリスチャンや、御霊によって導かれていないクリスチャンも、同じように宗教的帰依をしていることに気が付きます。

 パウロは、「神は天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。」(使徒17・24.25)と偶像の信者に諭しています。イエス様も「祈る時、異邦人のように同じ言葉を、ただ繰り返してはいけません。」(マタイ6・7)と忠告しています。宗教的陶酔を、信仰の充実と考える人は、聖霊に導かれてはいません。大げさな宗教行為は、神に嫌がられるものなのです。

神殿には、動物の犠牲が燃えさかっていましたが、その炭をイザヤの口に天使があてました。そして、イザヤは、自らの罪が既に、その犠牲によって購われていることを教えられました。確かに、イザヤは救われたのです。その救いの結果、イザヤは「誰を遣わそう。」という神の召命に応じて、預言者としての働きを始めたのです。

1. 聖霊に導かれて歩んでいるという自覚がない人は、救いを確かめてください。

2. 祈らずに毎日を過ごしている人は、聖霊が内在していないのです。

3. 自分の為に一生懸命、神に祈っている人は、宗教的儀式をしているのであって、聖霊に導かれているのではありません。

4. 聖霊による喜びと自発的献身、伝道の意欲がない人も、救いがないのです。

5. 救われている人は、会話の内容を信仰とその奥義について話すものです。

 先週、モーセが十戒を与えられてシナイ山から下りてきた時に、顔が輝いていたことを語りました。それは、最初に与えられた石板をもって下りてきた時に、民が偶像礼拝をしていたのに怒って、石板を砕いた後、もう一度、山に登った後のことです。自らの身をもって民の罪の身代りを申し出たようなとりなしの人だからこそ、モーセは神の臨在と栄光を自分の内に取り込んだのです。

 あなたが、人々をとりなし、その弱さと罪深さを深く憐れんで祈るなら、神はあなたを助けてくださいます。魂の救いは、あなたを自分の為に祈ったり、神に求めることなどを起こさないのです。

 祈りは、神との会話であり、あなたを神の代理人として、いろいろな働きへと動機づけます。しかし、それを人に言うものではありません。祈りは、神とあなたとの個人的な会話であり、その会話は継続してあなたを導くのです。もし、人に言ってしまうならば、神との会話は途切れ、信頼関係は損なわれます。神を主とするというのは、そういうことです。主人の言いつけを、安易に他人に語ってはいけません。平気で信仰を振りかざす人は、主のしもべとしての、謙遜さに欠けています。

 もう一度、言います。もし、これらの言葉を聞いて、自らが御霊に導かれた信仰者でないことを自覚したならば、謙遜に悔い改めるべきです。モーセが「どうか、あなたの栄光を見せてください。」と願うと、主は仰せられました。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたに宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者を憐れむ。」(出エジプト33・19


2月8日 光は闇の中に輝いている。  ヨハネ1114

新改訳 ヨハ 1:1-14

1:1
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:2
この方は、初めに神とともにおられた。

1:3
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

1:4
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1:5
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

1:6
神から遣わされたヨハネという人が現われた。

1:7
この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

1:8
彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

1:9
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

1:11
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

1:13
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。


 一〇〇年に一度の不況、大恐慌の到来と言われ、繁栄を誇った自動車業界も電機業界も軒並み数千億円の赤字を出しています。数万人規模の大量解雇も多くの会社で行われ始め、これからは未曾有の経済的混乱が起こるでしょう。一部で言われ始めた政府紙幣の発行で、経済インフレが起これば、年金世代の生活も壊滅的になります。加えて、地球温暖化による天候異変や環境破壊が世界を壊滅させ、聖書に預言されているとおりに戦争にまで至るでしょう。更に日本で、大地震まで起こっては、どうしようもありません。

 1923年の関東大震災で死者十万人以上、被害が国家予算の1年4か月分という後に、1929年日本にも世界恐慌が襲いました。今回は、これと前後が逆になりそうです。同じような被害だとすると100兆円の地震の被害となり、とても保険では賄えません。ともかく、日本は壊滅します。

 日本社会の異常さは、まったく宗教がないことです。御利益的な新興宗教はありますが、社会の根本原理たる信仰がないのです。オバマ大統領の就任式の祈りは、私達がテキストにした「人生を導く5つの目的」のリック・ウォレン牧師でした。神の前での祈りと誓約がない結婚が危ういのと同様に、宗教的信念のない日本の政治家たちは危ういと言えます。

 NHKが完全に進化論に立っており、科学も医学も同様ですが、世界では信仰の土台の上に科学が築き上げられております。マタイ7章の砂上の楼閣のように信仰に基づいていない人生は、危ういものです。そういう無宗教の上に、教育を行い、社会を形成しているので、現代日本はどのような型の困難にも弱くなっていると思います。

 さて、今日の聖句は、イエス様が宇宙を創られたことを示しています。熱力学第1法則で宇宙の全エネルギーは一定であり、第2法則で利用できるエネルギーは減少することが明らかになっております。法則から言っても、歴史から見ても地球は崩壊の道を進んでいるのであって、決して進化していません。しかし、日本においては、そういうことは無視して、神はおらず世界は形成され生物は進化してきたと断定するのです。つまり、無神論という宗教に洗脳されているのです。洗脳とは、自己判断ができないということです。

 イエス様は、「ことば」ロゴスであると書かれています。これは、聖書は神の論理、ロゴスであり、神の論理の具現化がイエス様なのです。私達人間の論理は、自己中心であり、過ちが多く、変わり易いものです。神の子の受肉によって、私達は神の人格とその論理を啓示されるのです。聖書は、そのようにして父なる神と御子イエスの人格とそのすべてを啓示しているので、私達が聖書を読む時に、神に聞くように人格的に聞かなければ、そのロゴスを知ることができないのです。

 巧みな伝記や小説を通しても私達は、人物の人格と考えを知ることができます。しかし、それを記録として分析考察しても、研究にはなるとしても、読む人の人格に影響を与えません。聖書を覚えようとしたり、読んで学ぼうとする人が、神の人格に触れなければ意味を持たないのです。聖書は、霊感によって書かれ、聖霊によって導かれて神に聞き、神の論理を悟るものなのです。

宇宙のエネルギーが一定ならば、最初のエネルギーはどこから来たのでしょうか。聖書は、神が「光があれ。」と言われると光があったと記しています。人生もまた、同じです。神を信じる者だけが、暗闇の世においても神から光を与えられるのです。

 神を信じるとは、神が自分だけを特別扱いして祝福してくださるということを信じるのではありません。神の論理を知り、その論理に自分の身と心を委ねて、従うということです。主権は神にあるのです。ですから、自分の論理で生きている者が、神の祝福を得ることは無理なのです。

 神を信ぜず、神の論理に従っていない人はどのように生きているでしょうか。

1. 自分の論理で人を非難し裁いているのです。神を信じる人は、どんな論理でも人を裁きません。

2. 能力や情報で物事に対処します。神の人は、祈りの中で物事をもう一度考え、損得ではなく、善悪で物事を処理します。

3. 物事を比較し、優劣を見ます。神に仕える人は、劣等感も優越感も持ちません。ただ、神の論理に従い、なすべきことをするだけです。

4. 状況に左右されます。御霊に導かれる人は、試練も艱難も弱さも関係なく、喜びと平安と愛情に満たされています。

 神を信じていない人は、世の暗闇に耐えられません。耐えられないことを悟る人は、神を受け入れるのです。自分に固執する人は、神を受け入れません。

 「光よ、あれ。」あなたの心にまことの光が差し込むのなら、虚しさも絶望も、苦さも悲しみも、なくなるのです。


2月15日 身体のあかりは目です。  ルカ112936

ルカ 11:29-36

11:29
さて、群衆の数がふえて来ると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。

11:30
というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。

11:31
南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。

11:32
ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。

11:33
だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。

11:34
からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。

11:35
だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。

11:36
もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」


 「サーバント・リーダーシップ」(R・K・グリーンリーフ)という本を読んでいます。その中で、ガンジーが人を破滅させる7つのものを掲げています。

1. 労働なき富

2. 良心なき快楽

3. 人格なき学識

4. 道徳なきビジネス

5. 人間性なき科学

6. 献身なき信仰

7. 理念なき政治

 「エゴは人を細かい点まで管理し、人から力を奪う。エゴは、否定的な反応やオムとおりにならない人を罰し、すべてのデータに自らの解釈を加える。エゴは、人生のすべてを自分の観点から解釈する。」などとありました。良心の本質は犠牲であり、そういう面で人に仕え、犠牲をもって生きて人々をリードする人にこそ、人間は自分自身を委ねるのであると、記してありました。だからと言って、指導者がサーバント(下僕)であろうとして、部下に優しくするのが真の犠牲ではありません。

 女子レスリングの浜口京子さんがテレビに出ていました。非常に心の優しい子で気取らずに周囲の人に配慮し、謙遜でもありました。頑固で情にもろい父親の強い影響だと思います。「エゴは、すべてに意味づけをする。」と、その本にあったように、論理的に考え、自他を説得する人は、結局はうまく立ち回って、損得で生きます。アニマル浜口のように、「嫌なものは嫌だ。」と情で生きる人々の周りには、善意の人々が集まります。

 私も傲慢な人間で、妻には絶対服従を要求し、言い訳を許しません。そのお陰で(?)、妻の評判はよく、確かに優しい人になりました。私は自分勝手な人間が神に祝福されるはずがないと信じているので、自分と妻にはそれを許しません。子供や教会員、社員には、少し基準を下げて要求します。執事には、当然ながらしもべとしての姿勢を要求します。ですから、私が優しかったら、教会員は堕落すると思っています。皆さんも覚悟していただくしかないでしょう。

 さて、ヨハネ9章に生まれつきの盲人が、その原因をたたりのように思う弟子たちの質問の的になりました。イエス様は、唾で作った泥を目に塗って、シロアムの池に行って洗うように命じました。そういう意味のわからない面倒なことを実行した、その盲人の目は癒されました。そして、イエス様を神の子と信じたのです。人々は、それに反して、イエス様が神の子であるしるしや論理を求めるだけで、信じようとしないのです。

 「この時代は悪い時代です。」(29)。人々は、じぶんにとって気持の良い言葉、面白い話、知識を求めるのです。エゴとして説明したように、他人に対して非常に厳しいのです。そして自分の思い通りになるように人に要求するのです。しかし、神は、ヨナのしるしだけを与え。悔い改めを求めるのです。



 「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119・130)とあるように、聖書の啓示を受けて、神を信じて歩む判断力が与えられます。「からだのあかりは目です。」とは、その人の判断が御ことばの光に照らされて歩むということなのです。

 自分の価値基準を持っている人は、この世の流れや他の人の行為をみて、暗くなります。思い通りにいかないので、悲観的になるのです。私は、人を非難して自分の正当性を主張する人の話は真に受けないようにしています。人を攻撃する人は、そのうちに、思い通りにいかなければあなたをも攻撃するからです。

 ともかく、神を信じる人は、判断が否定的ではありません。他人に対しても攻撃的ではありません。判断の全てに、神の主権と人格を信じ受け入れるならば、暗く考えるものは何もなくなるのです。確かに、私は毎日、神を信じない人々と接しています。病気や問題で苦しんでいる人々ばかりです。しかし、もし私が彼ら以上に暗ければ、私に話しかけ、私に期待することはないでしょう。

 世の中は、能力のない人を馬鹿にします。貧しい人をないがしろにし、けなします。子供、生徒、後輩、部下、自分よりも立場の弱い人々に権力をふるいます。権力を振るわれた人々は、自分よりも立場の低い人々に対して、やはり権力をふるいます。そのような人々に、神が怒りを落とさないことがあるでしょうか。ヨナのように悔い改めを宣言した時に、耳を留め、悔い改める人々は幸いです。

 現代日本は、確かに官僚によって支配され、マックスウェーバーの言うように、利権がはびこっています。ガンジーの警告する破滅を逃れるためには、人と相談して生きるのではダメなのです。信仰とは、信念であり、それは相談によって形成されるのではなく、御ことばと聖霊による感化なのです。光の子供らしく生きてください。


2月22日 神が光を造り出した。  イザヤ45718
新改訳 イザ 45:7-18

45:7
わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」

45:8
「天よ。上から、したたらせよ。雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義も共に芽生えさせよ。わたしは主、わたしがこれを創造した。」

45:9
ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか。

45:10
ああ。自分の父に「なぜ、子どもを生むのか。」と言い、母に「なぜ、産みの苦しみをするのか。」と言う者。

45:11
イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう仰せられる。「これから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか。

45:12
このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き延べ、その万象に命じた。

45:13
わたしは勝利のうちに彼を奮い立たせ、彼の道をみな、平らにする。彼はわたしの町を建て、わたしの捕囚の民を解放する。代価を払ってでもなく、わいろによってでもない。」と万軍の主は仰せられる。

45:14
主はこう仰せられる。「エジプトの産物と、クシュの商品、それに背の高いセバ人も、あなたのところにやって来て、あなたのものとなる。彼らは鎖につながれて、あなたに従って来、あなたにひれ伏して、あなたに祈って言う。『神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない。』」

45:15
イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。

45:16
偶像を細工する者どもはみな、恥を見、みな共に、はずかしめを受け、恥の中に去る。

45:17
イスラエルは主によって救われ、永遠の救いにはいる。あなたがたは恥を見ることがなく、いつまでも、はずかしめを受けることがない。

45:18
天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。「わたしが主である。ほかにはいない。

 信仰というものを、どのように持つか、神をどのような存在と考えるか、これで人生は全く違うものになります。昔から、話をしていて違和感を持つ人々がいることに気が付いていました。私自身は、成人に達してから信仰をもったので、神を信じない人々の考え方や対応を理解し、そういうものとして応対しておりました。

 しかし、キリストに信仰を与えられてから34年がたち、信仰の広さ・深さに驚き、また感動するものであります。陶器が造ったものに抗議をすることはないけれども、自分を造った者に抗議をするのが人間であります。

 人生には、なんと諸問題が多いのでしょうか。そして、未熟さ至らなさに対して人は、なんと攻撃ばかりするのでしょうか。自分の不幸を嘆いて、他人をうらやむのでしょうか。特に、いつも話題にしますが、日本人の攻撃性は、その律儀さや対人的誠実さを全て損なうものでもあります。

 「神が私たちを個々に造られた。」ということは、陶器師がその思い通りに愛情を込めて、個性的に創られたということであります。ですから弱点や欠点と言われるものも、個性であり、デザインであります。

 我が家の愛犬ジョイは、全く番犬にはならない気が良くてオッチョコチョイな犬です。おばさん達には人気があり、通りすがりの人が話しかけますが、気にせずにとぼけています。家内は大好きなようです。生後3週間くらいで見たのですが、4か月経っても店にいたので、娘が「売れないから殺されちゃうよ。」というので、購入したのでした。この思い通りにいかない馬鹿な犬との散歩の中で、夫婦の会話があり、祈りがあり、リフレッシュがありました。

 信仰とは、思い通りにいかず、自他の落ち度や弱点があっても、それを受け入れて神に信頼することです。「粘土は、形造る者に、『何を作るのか』とか、『あなたの作った物には、手がついていない』などと言うであろうか」(9)。

 日本人には年の抱負に弱点克服を上げる人は多いようです。しかし、その年に何をしたいか、どんな希望を持つか、と人生をエンジョイすることを優先する人は少ないようです。実は、私は喫茶店かラーメン屋の店主になることが夢の一つでした。行列のできる店ではなく、のんびりとして人の立ち寄りたくなるような通の店で、自分の好きな音楽を流して、自分の好きな物を、気の合いそうな人に出して、過ごしたいものです。ですからマーサを昨年始められて、非常にうれしく、週に1回くらい、自分でサーブできるようになりたいと願っています。

 牧師としても大教会の牧師になりたいとは思っていません。律法主義的なクリスチャンは嫌いです。プログラムに忙しい教会は、ご免です。魂の救われた優しい教会員と礼拝を共にし、仲良く過ごせたら、まさに天国です。教会には、問題をもった人々、苦しんでいる人々、不器用な人々が来ますが、彼らを変えようとはしないで、仲良く過ごしいたわり合うのです。

 第4週は、礼拝献金を国内の困窮教会に送っています。最近、教会経済も少し厳しいのですが、だからといって援助をやめてはいけません。マリヤ・クリニックが繁栄し、私達も祝福されてきたのは、貧しい人や困っている人々を助け続けてきたからだと思っています。繁栄の原因を私の能力だと思っている人が多くいるようですが、わかっていません。「主の祝福そのものが人を富ませ、人の労苦は何もそれに加えない。」(箴言10・22)とあり、「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」(ルカ6・38)を実行すればよいのです。

 夫婦で家事の担当を決められている牧師が嘆いていました。私達は、あまり決めごとはありません。決めごとをすると不器用な家内の方が不利になるので、なるべく家事を率先して自ら行うように心がけています。しかし、基本的に私の方が勝手です。決まり事で生活をすると潤いがなくなります。料理も皿洗いも一緒にした方が楽しいと思います。しかし、決めごとがない中で仲良く生きるのは愛がなければ無理となります。

 約束や規則などは、互いに自己中心なので、統制して生きないと互いの権利を侵害してしまうからできたものです。十戒や律法の根幹は愛です(マタイ22・40)。愛があれば、律法も信仰も全うできるのです。いくら規則を厳しくしても、その結果は不履行と裁きあいであり、力の強い者が横暴に弱者を迫害するだけなのです。

 「今日の主題「神が光を造り出した」とは、神だけが光を創造でき、世を支配できるのであるということです。私達人間は被造物にすぎず、人間が神なしに能力で世の中を統制しようとするところに、バベルの塔のような混乱が生じるのです。

 人を赦すことの難しさ。無能力、無節制、無秩序、混乱、暴力・・・、現代社会に生き抜きながら、神に委ね、人を愛し、与えていくことは途方もなく難しいように思われます。私は、これらのことを聖霊の助けなしに行うことは人間の能力と罪性では無理であると思います。だからこそ、それが信仰の奥義であり、祝福の源なのであります。


3月1日 あなたの義を光のように輝かせる。  詩篇37119
新改訳 詩 37:1-19

37:1
悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。

37:2
彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。

37:3
主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。

37:4
主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

37:5
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

37:6
主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

37:7
主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。

37:8
怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

37:9
悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。

37:10
ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。

37:11
しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。

37:12
悪者は正しい者に敵対して事を図り、歯ぎしりして彼に向かう。

37:13
主は彼を笑われる。彼の日が迫っているのをご覧になるから。

37:14
悪者どもは剣を抜き、弓を張った。悩む者、貧しい者を打ち倒し、行ないの正しい者を切り殺すために。

37:15
彼らの剣はおのれの心臓を貫き、彼らの弓は折られよう。

37:16
ひとりの正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる。

37:17
なぜなら、悪者の腕は折られるが、主は正しい者をささえられるからだ。

37:18
主は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは永遠に残る。

37:19
彼らはわざわいのときにも恥を見ず、ききんのときにも満ち足りよう。


 人々が自分勝手に生き、言いたいことを言い、そして私達に迷惑をかけ、傷つける・・・、人生とはそういうものかと悟ってきました。そういう中で、信仰一途に生きる自分が馬鹿らしく、人々への労苦と祈りが虚しく過ぎ去るのかと、途方に暮れる時もあります。そういう時は、詩篇を讃美にした歌を口ずさみます。そうすると、同じような苦悩の中で、神を讃え、信仰をもって歩んできた信仰者たちが、私の周りを取り囲み、私を励ましてくれるような気持がします。

 悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。主に信頼して善を行え、地に住み誠実を養え。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。腹を立てるな。憤りを捨てよ。

祈りと讃美の中で信仰の勇者たちが、私に語りかけ、忠告をしてくれます。彼らは確かに、そのように歩んだのです。私も歳を経て、指導者になり、責任も多く与えられています。助言を求められ、祈りとりなし、助けを求められ、まるで私には自由がないかのような日々が続きます。若い時の自由が懐かしく、好きなことを言えた愚かさも思い出となります。人々の悩みは、私の歩んだ道、その苦しみも泣き叫んできたことを思い起こします。

もはや、私の相談は、主イエスと聖霊ばかりであります。自分が強く正しいと思っていた若い時が懐かしく、今や多くの問題と人々の要求にとても耐えられない自分の弱さ、愚かさを思います。「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。」との語りかけが、私を守ります。

8人兄弟の末っ子のダビデが、人々の争いと野心のど真ん中に生きる羽目になった気持ちを思います。ダビデは、ただ純粋なだけだったのです。巨人ゴリヤテに対して、「万軍の主の御名によって立ち向かうのだ。」と信じたのです。殆どの人は、巨人の前で竦むだけで、戦うことなど思いも浮かびません。神を信じることよりも、自分の力の弱さを信じてしまうのです。

将軍となる中で、人々の権勢欲や野心、敵意や攻撃に驚き呆れてしまいます。そして、サウル王に疑われて命を狙われることになります。そのような日々の戦いの中で、ダビデは詩篇を書きあげるのです。だからこそ、詩篇は私達信仰者の励ましであり、祈りであり、賛美なのです。

詩篇に書かれるダビデの言葉は、ダビデの信仰告白なのです。悪を行い栄える者がいるからこそ、「主に信頼して善を行え。」と書き現して、自らを諌め、「主に信頼せよ、主が成し遂げてくださる。」と叫ぶのです。多くの問題がダビデの前に立ちはだかっているからこそ、「主が成し遂げてくださる。」と告白して、主への信頼に身を委ねるのです。

能力によって生きる者は能力によって判断し、能力によって失敗をします。私は、能力によって生きる人はいつでも失敗をすることがあると判断しております。それは神の祝福と守りが、ないからです。

  先週、神だけが光を創造でき、世を支配できることを説明しました。私達人間は被造物にすぎず、人間が神なしに能力で世の中を統制しようとするところに、バベルの塔のような混乱が生じるのです。人を赦すことの難しさ。無能力、無節制、無秩序、混乱、暴力・・・、現代社会に生き抜きながら、神に委ね、人を愛し、与えていくことは途方もなく難しいのです。これらのことを聖霊の助けなしに行うことは人間の能力と罪性では無理であるからこそ、それが信仰の奥義であり、祝福の源であり、義なのです。

  自己中心な罪人が要求し、文句を言うことを平然と受け入れれば良いのです。そして却って、苦しんでいる人々に与え励まし、神の義を全うすれば良いのです。神は隠れたところで、私たちをじっと見守っておられます(マタイ6・4)。隠れたところで見ておられる神を信じ、行動することが信仰なのです。その父なる神が「あなたに報いてくださいます。」これが義人に現れる光なのです。

  ダビデは決して完璧な人ではありませんでした。人間が主イエスの義なしで、義人であることはないのです。ダビデは、いつも自分の罪を認め、基準を神において歩みました。私がダビデの言葉で最も感銘を受けたのは、息子の謀反によって王宮を追われた時に、シムイに呪われた時に語った言葉です。「たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、今日の彼の呪いに代えて、私に幸せを報いてくださるだろう。」(Uサムエル16・12)。ダビデは、人の心の中を神がいつも、見抜いておられることと、本当に悔い改めた者を必ず赦し、祝福して下さることを知っていたのです。このような人を義と言い、必ず光輝くのです。


3月8日 光よりも闇を愛する人々。  ヨハネ3章721
改訳 ヨハ 3:7-21


3:7
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

3:8
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

3:9
ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」

3:10
イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

3:11
まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。

3:12
あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

3:13
だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

3:14
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

3:15
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

3:17
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

3:18
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

3:19
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。

3:20
悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

3:21
しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

   栄養医学が個人差を重視し、同じ症状でも検査結果の分析や体質に応じて必要とする栄養素の違いを指摘するのは、漢方や東洋医学とも同じですが、本来は西洋医学も同じだったと思います。薬の処方が症状に対するものなので、いつしか対症療法と言われてきたのではないでしょうか。

  救いについても、一般的に画一化して方法論的に説明してしまい、例えば「4つの法則」のようなアプローチを取ってきたと思われます。それは伝道会や大規模伝道の決心者の統計には役立ったとしても、一人の魂の問題を解決し、弟子としていく大宣教命令の内容にはふさわしくなかったと私は思っています。治療というものが、薬や手術ではなく、本来的にその人の治癒能力に依存するのと同様に、救いや魂の成長は、本来的に聖霊なる神の業とその人の魂の飢え渇きに依存するからです。

  イエス様は、そのことを風に例えています。風がどこから来て、どこへ行くかを知らないように、御霊によって救われるということも、人間には理解不可能であると教えています。さらに、社会の流れや神の計画も人間にはわからないのです。しかし、イエス様は、奥義的に警告されており、悟る人はその時を悟り、注意をして生きる必要があるのです。

  人間が病原菌に対する世紀の発見、特効薬とされた抗生物質も、腸内の100兆個もある細菌を絶滅させ、免疫力の60%を占めると言われる腸管免疫機能を破壊させてしまいました。そして、今や殆どの人の腸内に抗生物質では効かない酵母菌〔カビ〕が存在します。治療手段というものが、身体を損なう可能性があるのです。いくら治療が進んでも、ガンやウィルスが増えるばかりです。

  社会経済も、投資によって成り立っていますが、その投資によって開発や発明が進み、自然環境が破壊してきています。現在の世界大の経済危機をそのような面からの悪循環の結末と捉え、今や投資の拡大によって解決するには、困難になっているようにも思えます。まるで末期ガンの患者さんに、放射線治療や抗がん剤をむやみに投与して、却って症状を重くしているかのようです。

  自然環境も、悪くなる一方ですから、エコということが流行りになっても、他方で汚染物質を垂れ流し、環境破壊を自分勝手に繰り広げる国や企業、人の活動を今更くい止めることができないものとなっています。人の心や社会の崩壊も同様です。

  私達、クリスチャンは、世が終りを告げていることをしっかりと覚悟しなければなりません。イエス様は、そのことを何回も告げておられます。しかし、魂の救いがわからない人々には、終末のしるしもわからないのです。イエス様は、マタイ24章にあるようなことは、「産みの苦しみの初め」であると警告されます。いちじくの葉が出てくると夏が近いことがわかるように、イスラエルの問題が大きくなったら、その適否はともかく、終末が近いのです。イチジクは、イスラエルのたとえであると言われています。

イエス様が、人の子となってこの世に生まれてくださったのは、世の人々を裁くためではなく、救うためです。しかし、人々の関心は、魂の救いではなく、自分の利得であり、享楽であり、自己実現です。人は、闇や悪を愛するのです。神を信じて規制を受けるのを嫌うのです。そういう人々の言い訳は、次のようなものでしょう。

  「いつか生活が楽になったら教会に行きたい。(楽になるはずはないから行かない)」「「神は信じている。(神がいることはわかっているが、束縛されたくない)」「神様助けてください。(自分の益でなかったら頼ってもしょうがない)」「たまには反省し、献金もしている。(地獄にいかないために、神様にご機嫌をとっておこう)」・・・

  大量伝道法で神を信じる決心をしたから、「あなたはクリスチャンだ。」と認められても、実際に闇を愛していたら、その人は真実には救われてはいません。真に魂が救われた人は、確かに永遠の命を持ち、「真理をおこなう者は光の方に来る。」と言われるように歩むのです。

  さて、それでは私達はいかに生きるべきでしょうか。

  社会や国や歴史を変えようなどと思ってはなりません。今や終末の始まりです。世の中は悪くなる一方です。大事なことは、正しく歩み、経済生活に左右されない生活基盤を打ち立てることです。

会社に勤めている人は、会社がつぶれても生きていけるように、準備をし、自らと家庭を整えておくことです。

しっかりと支え合う家族や友人を確保しておくことです。社会は孤立化してゆき、人を助けるゆとりがなくなります。

節約に努め、おこりうる大災害に対処しておくことです。健康の管理に努め、肉体を鍛練しておくことです。薬や医療器具がいつでも手に入ると考えたら、大間違いです。何でも自分で管理できなければなりません。

  サバイバルの技術を身につけ、災害や戦争でも生きていけるように鍛練しておくことです。なるべくなら、土地を持っておくことです。

  心を強くし、誘惑や犯罪、暴力や迫害に対して対抗できるように備えておくことです。人の言葉や惑わしに騙されてはいけません。

  聖書の御ことばをしっかり覚えておき、賛美を覚えておくとよいでしょう。

  最も注意しなければならないことは、終末には愛が冷え、人々が責め合い、滅ぼしあうことです。闇の中に生きる者に誘い込まれてはいけません。


3月15日 安息に入るという願い。  申命記51215

新改訳 申 5:12-15

5:12
安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。

5:13
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。

5:14
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。――そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。

5:15
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである



  再び、申命記からの説教に戻ります。安息日を持つということは、十戒の一つとして大事な戒めですが、出エジプト記20章の理由とここでの理由が異なります。前者では、天地創造の時に神が7日目を休んだからであり、後者では、エジプトの地で奴隷であった時を覚えているためとなっています。

  創世記2章には、「神は第7日目を祝福し、この日を聖であるとされた。」とあります。これは、他の6日間とは別な、特別な日でなければならないということです。つまり、6日間一生懸命働いたので、心身の休息のために7日目は休むということではなく、この日は神に捧げる日であるということです。神に捧げる聖日を持つということが、十戒の命令の意味であるとすると、労働の休息という人間的な意味合いとは異なってきます。

  申命記の理由からは、奴隷であった時は休息がなかったことを覚えて、神の救いを覚えるために安息日を守らなければならないということになります。従って、出エジプト31章15節にあるように、「安息日に仕事をする者は、誰でも必ず殺されなければならない。」という非常に厳しい教えとなり、神信仰の確認となります。バビロン捕囚を経たマカベヤ時代には、安息日に攻撃を仕掛けてきたシリヤ人に対して、安息日を破るよりは死を選ぶという強固なものとなり、それがイエス様の時代にも安息日厳守は、信仰の基本として厳しく戒められるものとなっています。

  イエス様は、「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」と言って、当時厳しく戒められていたこと、例えば病人を癒してはいけない(マルコ3:4)、麦の穂を摘んだり(マタイ12・1)に対する異議を教えています。

  これらのことの解決が、イザヤ58章の「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『はえある日』と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたがたの喜びとしよう。」です。さらに、へブル書を読むと、「わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことです。」)3・18)とありますが、「神は40年間の間怒っておられたのです。」(3・17)。ですから、前述の安息日を守らなければ死刑だという極端な言葉になるのです。実際には、人間は脅してもなだめても、神と共に過ごす充実した日を週に1回も持とうとはしないのです。「それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」(へブル3・19

人間は、自分の思うとおりに時間も富も人をも使いたいのです。しかし、神が安息日を定めた理由は、週に1日くらい自分勝手な暮らしをやめて神や家族と共に生きるくつろいだ日を持ちなさいということなのです。ところが、自己中心な人間は、自分勝手に生きて遊ぶ日を安息日にしてしまっているのです。ですから、そういう人間は、神が人間を創造された意味合いを無にしてしまっているので、どのように長く生きようと滅びなのです。それを短くいうと、「かしている意味合いがないので、死刑だ。」という怖い律法になってしまうのです。

  神が安息日を定めた理由を人が律法的なものにしてしまったので、キリスト教は、キリストが罪に打ち勝ってよみがえられた日曜日を祝うようにしました。しかし、未だに日曜日を仕事をしないで好き勝手に生きる日と思いこんでいる人ばかりです。このような人々は、天国を何も働かないで好き勝手に生きるところと考えているようですが、「わたしは怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」(へブル4・3)のです。つまり、天国には行けないのです。

  エジプトで、人々は休みもなく働かされていました。それは奴隷としての強制でしたが、自由になっても、自分勝手な利益追求や安逸をむさぼりたいという欲求のために、罪の奴隷となっているのです。

  「彼らは、常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった」(へブル3・10)とありますが、聖霊の働きかけに心を開き、神と共に生きることを優先しなければなりません。「ところが、聞いたみことばも、彼らには駅になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって結びつけられなかったからです。」(4・2


3月22日 自分の父と母を敬う。  申命記516

  516 [新改訳

あなたのを敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。

21: 18 [新改訳

かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、

21: 19 [新改訳

その父と母は、彼を捕え、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、

21:20
町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです。」と言いなさい。

21:21
町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。


  親が子供を愛するということは、不思議なことです。これは、神様が植え付けられた掟、本能でしょうか。動物たちも、自分の命を犠牲にして子供を守り育てます。しかし、人間は他の動物とは違います。聖書によれば、人間は動物の一つではありません。人間は人間であり、動物たちとはまったく異なり、自由意思を持っており、神の御旨を無視して生きることができる存在なのです。

  スキューバダイビングをしてきました。海底28mまで潜り、魚やその他の水中生物が身近に泳いでいました。それぞれの領分の中で生きながら子孫に命をつないでいくのです。海中を自由に泳ぎまわりながら、すぐ近くを怖れることもなくたわむれる魚たちに驚きました。アドバンスコースのテキストに、「彼らは通常、人間に危害を加えることは決してない。攻撃してくるのは、防衛のために必要な時である。」とありましたが、テレビや映画などで見る弱肉強食の世界は、そのように撮影するからであり、普通は大らかに営まれている水中の世界がありました。陸上では、このように動物たちが身近にいることはありません。

帰りの飛行機でキアヌ・リーブス出演の「地球が静止する日」という映画の一部を見ました。地球の環境破壊を守るために宇宙人が人類を滅ぼそうとするものです。海中の自由な環境と、観光で繁栄するグアムの喧騒な社会の対比を見てきたものですから、その映画が妙なリアリティを持って、私の心に入ってきました。

前に取り上げたオランダの社会のように家族が仲良く暮らし、それぞれが人間としての充実した生きがいを求めた生活ができれば、十分であると私は考えております。世界を旅行する時に、日本人観光客の多く訪れる所は、その社会が金に溺れた退廃したものに変容しているのを見ます。日本人のいない所は、落ち着いた暮らしをしているのに、日本人観光は金を提供する享楽の産業を構築してしまっています。

金を稼ぐための生活が日本人の暮らし方の基本です。私は、クリスチャンもまた、その罪の罠に囚われてしまっているような気がします。子供を育てるということは、仕事や金銭よりも優先されるべきものですが、現代世界は、そうではありません。家族としての結びつきよりも、仕事を得、地位を得、金銭を得ることが優先しているのです。

私は、妻との結婚を決めてからは、自分の職業を変えることを覚悟して博士課程に進むことを断念しました。子供が生まれてからは、毎日の生活を自分の思うとおりに生きることを断念しました。買い物をし、子育てをする中で、神学生としての優秀な成績を上げることは、両立させようとしてはいけないと覚悟したのです。仕事や勉強などは、両立することができるでしょう。しかし、家族という命あるものと、仕事などを天秤に掛けることは、ふさわしくないと判断し、それが信仰者の人生の礎であると悟ったのです。

長男が生まれる時は、妊娠2ヶ月で妻は切迫流産になり、出血が続きました。自分の子が生まれようとしているのに、その子に害を与えるかもしれない薬剤を飲ませて治療をするわけにはいきません。私は、断食を始めました。通学を続けているので3日間しましたが、妻は治りません。神学校の間は毎日1食の断食をしていましたから身体は無理がきていましたが、次の週も3日間、更に次の週も3日間断食をして神に癒しを願いました。とうとう私の体力が限界になり、不整脈が起こり、身体が動かせなくなりましたが、子供を犠牲にするわけにはいきません。

  人間の論理や知性は、自らを正当化します。しかし、私達は「仕事のためにしょうがない。」、「努力したがしょうがなかった。」などという自己正当化の罪の論理に惑わされてはいけません。現代社会は、そのような罪による正当化で、それぞれの人が勝手に生きているので、人を愛することができないのです。

 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」(ヨハネ15・13)というイエス様のことばに打たれ、またそれを実践した洞爺丸の宣教師の犠牲に感動したことを覚えています。でも、親ならば、子供のために自分の命を犠牲にすることができるのではないでしょうか。さらに、献身者という者は、他の人の救いの為に、いつでも自分の命を、名誉も、地位も、財産も、献げるという覚悟ができていなければならないと、自分を戒めています。

 私達夫婦は、5人の子供をどうにか育て上げました。これからは、低血糖症の患者の治療に人生を捧げて行きたいと覚悟しつつあります。人生というものは、成功を願って打算で生きても、うまくいくものではありません。生きるということは、いのちの掛かったものですから、命がけであたらなければ決して解決しないものが多くあるのです。

  スキューバダイビングというのは、命がけです。30mの深さから急上昇したら死んでしまうでしょう。また今回の場所は、崖の下は数十mもある底なしの場所でした。妻は、そういう所で管理できる体力がないので、自分は10m以上のダイビングはしないと医師としての責任ある判断をしています。私は、命がけで生きる確認のために、たまにはそういうことをしないと、罪と誘惑に負けてしまいそうなので、定期的にする予定です。

  いかなる理由があっても、親を尊敬しない人に神の祝福はありません。思うとおりにいかない人生を神に文句をいうわけにもいかず、神を信じてきたのは、私が親や上司を批判しないことに決めたからであると思います。そして、神は、すべての艱難を益に代えてくださいました。目先のことで、親に文句をいう人が、真に神を信頼して生きることができるとは思いません。

  最近、納得がいかないと上司や社長にも文句を言い従わない人が増えてきています。そういう人が仕事に熟練し、幸せになることは、無理でしょう。しかし、それも親に愛されたという体験がないからかもしれません。あなたが、人を愛さなければ、誰にも愛されたことがない人が、放置されるかもしれませんね。


3月29日 人を殺してはならない。  マタイ52126
新改訳 マタ 5:21-26

5:21
昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

5:22
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

5:23
だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、

5:24
供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。

5:25
あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。

5:26
まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。


 パスカルは「人間は考える葦である。」と言いましたが、葦とはどんなものでしょうか。水辺に生えてまっすぐに伸び、風情もなく無数にあり、折れているものも多くあります。イエス様は、十字架に掛けられる前に茨の冠をかぶせられ、葦の棒を持たせられました。要するに頼りのないものとしてのしるしになると思われます。イエス様の働きの預言としてマタイ12章には、「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。」と書かれています。

  先週は、生きるということは命がけであり、不確かな人生において、納得のいかないことや不確実なことがあっても、神に信頼する人は、安定した人生を送ることができることをお話しました。その基礎は、尊敬し得ない親であっても敬い従うような習慣によって形成されるのでした。親を非難する人は、決して試練を平安の内に乗り越えることはできないことを説明しました。今週は、人間存在は、簡単に折れてしまう葦のようなものであり、私達はしばしば、傷んだ葦を折ってしまっていることを確認したいと思います。

  「人を殺してはならない。」という十戒を読んで、自ら思い当たる人は少ないでしょう。しかし、イエス様は、人に腹を立てたり、「能なし」、「馬鹿」というようなことは、殺人と同罪であると言われます。

自分の子供の頃を思い出すと、成績が悪かろうが、鼻をたらしていようが、皆が仲良く一緒に遊んでいました。中学になって、成績の良し悪しが、人の評価基準になっていったように思います。前橋高校に入ってからは、他校の友人たちが私と付き合わなくなっていったのを強く意識しました。私がエリートであって、もはや付き合うことができないかのように、逆差別されてきたのを驚きました。我が家は、私以外は大学に行っていませんが、自分だけが特権階級に入ろうとしているのかと驚いたものです。

武者小路実篤の著述に傾倒し、理想主義的な生き方を模索して、学に志し、一橋大学を目指しました。ガリ勉は好きではなかったので、楽しんで学びましたが、浪人時代には旺文社模試などでは県で1桁になったりしました。しかし、肝心の入試の当日に40度以上の熱が出て、滑り止めの横浜市立大学に入学しました。失望は大きく、日本社会における指導者は学歴からも無理と観念しましたが、エリートになろうとしていたのでしょうね。

人間は、努力を重ねて、実力や地位を得ると、権力を持ちたがります。その後も努力を重ねて、リーダーであり続け、大学院にも行って教授になりたがりました。クリスチャンになっても、若いのに長老になり、多くの人を指導しました。努力と信仰で何でもできると考えていたのです。確かに、人あたりはよく、周囲への配慮も十分こなしていたので、評判は良かったと思います。

しかし、献身してからは、全く思うとおりに行かなくなりました。いつも普通の人の何倍も努力をしましたが、挫折ばかりがあったという感じでした。思い返せば、傲慢な人間だったのです。人を助けよう、救いに導こうといっても自分の思い通りに動かそうとしておりました。他の人の人格を否定していたのです。マックスウェーバーが、指導者は善意で私欲がないからといって自らの行動を正当化できるものではない、結果が示すと書いてあったのを見て、なるほどと思いました。信者や自分の子だけでなく、仕事や働きでも、決して人を侮るまい、と決心しました。他の人を思い通りに動かそうとしない、未熟さや罪深さを知ったら、とりなしの祈りをするだけで良い、ということを身につけるのに何年掛かったことでしょうか。

  人を非難することは、人を殺そうとすることと同様なのです。人間というものは、傷付いた葦のようなもので、傷付いたからといって、折って引きぬいてはいけません。葦の根元は肥沃な泥があり、水も浄化し、多くの生物を守っているのです。

  日本社会は、官僚や教員によって、階層社会と目的志向型人生観が定着してしまいました。聖書の人生観は、自らの人生を喜び、人と愛し合いながら、神に仕えていくという、関係志向型であると思います。

  確かに、私の毎日は忙しく、なすべきことは他の人より多いようです。しかも、相変わらずミスも多く、仕事も有能ではありません。借金も多く抱え、課題も多くあり、とりなすことも増える一方です。でも、できなければできないでいい。失敗もあっていい。思うとおりに進まなくても構わない。毎日を主と過ごし、妻と仲良く、家族を愛し、果たすべき課題を少しでもなせば、あとは十分です。

  神は、私と共におられ、私に教えるべき聖書の奥義を常に教えてくださいます。なすべきことに、主の導きと知恵を求めます。人を生かし、その人にはたらく主の導きを見つめるようにします。欠点や未熟さに目を留めると、その人を祝福することも、主の導きを認めることもできなくなります。

  もう一度、言います。他の人を自分の思い通りに動かそうとしてはいけません。それは、人を殺そうとすることです。その人の判断や未熟さ罪深さを変えようとしてはいけません。神がそれをよしとしているのです。主権者は神であって、私たちは、ただの僕なのです。

  お金も時間も節約しようとしないで、ともかく神の導きと幸せを求めてください。あなたを束縛しているものから解放されることが必要です。自分を殺してもいけないのです。