7月6日 人生の長い旅路。  民数記33114

人生の長い旅路。  民数記33114
新改訳 民 33:1-14

33:1
モーセとアロンの指導のもとに、その軍団ごとに、エジプトの地から出て来たイスラエル人の旅程は次のとおりである。

33:2
モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。

33:3
彼らは第一月、その月の十五日に、ラメセスから旅立った。すなわち過越のいけにえの翌日、イスラエル人は、全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。

33:4
エジプトは、彼らの間で主が打ち殺されたすべての初子を埋葬していた。主は彼らの神々にさばきを下された。

33:5
イスラエル人はラメセスから旅立ってスコテに宿営し、

33:6
スコテから旅立って荒野の端にあるエタムに宿営した。

33:7
エタムから旅立ってバアル・ツェフォンの手前にあるピ・ハヒロテのほうに向きを変え、ミグドルの前で宿営した。

33:8
ピ・ハヒロテから旅立って海の真中を通って荒野に向かい、エタムの荒野を三日路ほど行ってマラに宿営した。

33:9
彼らはマラから旅立ってエリムに行った。エリムには十二の泉と、七十本のなつめやしの木があり、そこに宿営した。

33:10
ついでエリムから旅立って葦の海のほとりに宿営し、

33:11
葦の海から旅立ってシンの荒野に宿営した。

33:12
シンの荒野から旅立ってドフカに宿営し、

33:13
ドフカから旅立ってアルシュに宿営し、

33:14
アルシュから旅立ってレフィディムに宿営した。そこには民の飲む水がなかった。

 与謝野晶子は十一人を産んで10人を育て、夫の鉄幹が大学教授になるまでは原稿料の前払いなどを頼んで奮闘し、数万の歌を詠み、評論や文化学院設立に寄与したそうです。34歳の時に訳した源氏物語に誤りが多いことがわかると、最初から書き直したが、それが関東大震災によって文化学院と共に焼失すると、またも書き直したという根性はすごいものです。朝早く起きて学院で講義し、午後は著作、帰ってからは遅くまで家事をしながら原稿をチェックしたそうです。こんなに子供を育てながら、女性自立論を説き、時の政府に逆らって、「君死にたもうなかれ」と戦争に行く弟の安否を気遣い多くの非難を浴びています。国家の逆族と非難する大町という人の死には、追悼を寄せるという優しさも持っています。

 こんな感想をもったのは、最近の妻の働きぶりに関心をしているからです。先日も、患者の会の講演の準備を朝早くからしながら子供の朝食と弁当を用意し、犬の散歩を済まし、そして1時間の講演をたっぷりした後、患者さんの相談を受け、休み時間もまた相談に親身に応え、他の講義の間にうつらうつらと昼寝をした後は、また患者の相談に応じ、終わった後は、私と一緒にお中元を選びにデパートに行き、帰りにさっとおかずを買って、娘の夜食の用意をし、そのまま明日までという神学生の健診の報告を3人分書いて送り、そして水泳に行ったあと、片づけをして夜の犬の散歩をするという一日でした。

 妻の父は「医者になっても幸せになるとは限らない。医学部に合格になったのはいいが、やはり薬学部にいって薬剤師になれ。」と娘の幸せを願ったそうです。私は、結婚後、体調が悪くノイローゼの妻が食事の最中に数分箸を持ったまま動きが停まっているのを見て、この妻の世話で人生が終わるのかと、涙が出たものです。しかし、その時に、神に叫びました。神は、その祈りを聞いてくださったと、感謝しております。先日、妻の学生時代の状態の悪さを心配していた親戚の医師の叔父から、良きパートナーを得て、充実した人生を過ごしていますね。」という手紙をガイドブックを送った礼状として受けて、うれしさを感じました。

 大きなビルを購入するという人生の一大事業を前に、夫婦で「何もない所からここまで来れただけで感謝だね。どうなろうと、感謝であることには変わりないね。」と感慨を語りあいました。治療の会の患者さんたちの改善と感謝も本当にうれしかったものです。会を持ってよかったです。これまでの個別の関係が、横にも広がり、患者さん同士が励ましあうようになりました。九州や関西からも多くの方が来られたことに感動しました。

 私たちの人生は、キリストイエスとの出会いから始まります。イスラエル民族が神の一方的な介入によって奴隷の地エジプトから紅海の水の中を通って荒野の生活を送りました。私たちも、神の一方的な恵みによってキリストに出会い、多くの奇跡によって救われ、洗礼を受けて人生の旅路にでました。

 イスラエルの人々の不信仰も不満も書いてありますが、残るのはエジプトを出たという事実です。そして、エジプトの軍隊に追われながら紅海を渡って奴隷の身を解放されたということです。さらに、40年間の放浪は、決して放浪ではなく、神の介入と守りの歴史として却って大きく記録されるのです。

 私たち夫婦の人生も、荒野のような苦労の連続でした。私たちの罪深さ、弱さ、不従順を神はご存知です。高慢、傲慢、怒り、・・・恥ずかしい限りです。しかし、確かに「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる。」(ローマ8・28)ということを私たちは知ったのです。

 民数記で記されるように人生には多くの困難があり、艱難があり、試練があります。大事なことは、自分の罪を認め悔い改めて神を信じることです。皆さんは、この民数記を読んで罰を受けて死んでいく人々を見るでしょうが、それは悔い改めないで強情を張っている人々なのです。

 私もまた牧会記を書くことはできます。多くの人の罪を知っており、弱さもわかっています。強情も反抗も不信仰も、またその境遇や状況も知っております。それは、まさに民数記のようなものです。そして、多くの人が罪を犯したままで悔い改めることなく、教会から離れていきます。私は知っています。彼らがどのように正当化しようと、罪を犯してそれを認めないでいるということを。

 そして、神の悲しみも知るのです。私は、牧師として今は殆ど人に怒りを持つということがなくなりました。人の弱さも非難することはなくなりました。しかし、相変わらず、人の罪深さ、弱さ、勝手さには驚かされます。とりなしの祈りをすると、自分自身にもそういうところがあり得ること、あったことを示されます。ただ、見守りながら、祈るだけです。

 しかし、悲しみは、人の罪は罪重なると、もはや悔い改めることができなくなってしまうことです。平気でうそやごまかしを言う人がいます。人を陰で非難する人がいます。不信仰に歩んでいるのに、信仰で歩んでいるかのようにごまかしている人がいます。すべてのことは明るみにでます。

 いくら働いても罪を犯している人には経済的な祝福はありません。どんなに健康に留意しても、病気を免れることはできません。強い信仰を持つ必要はありません。しかし、自分が人に要求した信仰がその人の信仰の量りなのです。

 私は、今や聖書を語りますが、信仰を人に要求することはできません。ただ、自らは罪を犯さず、人を非難せず、神に従っていくだけなのです。むろん、自分の信仰は語ります。しかし、それぞれの人がどのように自らの信仰を持つべきなのか、よくわからなくなりました。それは神がご存知です。ただ、罪を悔い改め、神に従って神の国に共に行く人々が多く起こるようにと、祈り見守り、支えるだけです。


7月13日 あなた方を悩ますもの。  民数記335056 
新改訳 民 33:50-56

33:50
エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げて仰せられた。

33:51
「イスラエル人に告げて彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときには、

33:52
その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳造をすべて粉砕し、彼らの高き所をみな、こぼたなければならない。

33:53
あなたがたはその地を自分の所有とし、そこに住みなさい。あなたがたが所有するように、わたしがそれを与えたからである。

33:54
あなたがたは、氏族ごとに、くじを引いて、その地を相続地としなさい。大きい部族には、その相続地を多くし、小さい部族には、その相続地を少なくしなければならない。くじが当たったその場所が、その部族のものとなる。あなたがたは、自分の父祖の部族ごとに相続地を受けなければならない。

33:55
もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。

33:56
そしてわたしは、彼らに対してしようと計ったとおりをあなたがたにしよう。」

 イスラエルの12部族には、大きいものもあれば、小さなものもあります。それはヤコブが死ぬ間際に子供たち一人一人に預言したとおりになっています。「ヤコブは彼らを祝福した時、おのおのにふさわしい祝福をあたえたのであった。」(創世記49・28)。

 私も按手の祈りをする時に、聖霊の導きに従って祝福をしますが、当然の祝福としての祈りと、欠点や弱さをとりなす祈りが導かれたりします。当然の祝福というのは、たとえばイサクの祝福のようで、神を信じ従っている者への必ずなされなければならない神の守りと祝福です。つまり、献金や施しを忠実にしている者に按手をすると、経済的な祝福は当然なものとして祈ることができます。しかし、計算によって人生を生きようとしていたり(打算)、他の人にけちな人のためには経済的な祝福は出てきません。却って、それを神に委ねるようにとりなしが与えられます。

 癒しについても同様で、神癒を信じていない者の病やけがのために祈る時は、とりなしの祈りであって、神の御心と祝福をとりなすだけです。神に委ねて、それ以外にないと求める人のために祈ると、全身から力が抜けていくほどに、私の健康の祝福をその人に与えなければならないようになってしまいます。ですから、祝福を求める人のために祈ることは、非常に大変です。しかし、「お前を祝福する者は祝福され」(創世記27・29)とイサクのヤコブへの祈りにあるように、祝福された人を祝福すると自らが祝福されます。それは、「与えなさい。そうすれば与えられます。」(ルカ6・38)という奥義と同じです。ところが、人生で信仰の法則を用いる人はまれで、殆どの人が不信仰の法則を用いています。

 ヤコブは誰よりも祝福を求めた人ですから、その祝福の法則を知っており、子供たち一人一人がどのように祝福されるかを見抜いたのです。それは聖霊の業だから、人は関係ない、というのは権威というのを知らない人です。マタイ8章でローマの百人隊長が権威というものを知っており、イエス様の権威に部下の病の癒しを委ねたようなものです。ですから按手の祈りというのは、その人の信仰が注がれるので、不信仰な人の按手を受けてはなりません。また、「誰にでも軽々しく按手をしてはなりません。」(1テモテ5・22)とあるように、不信仰な人を祝福してもいけないのです。

 「祝福は流し素麺のようなもの」と私はよく言いますが、まず謙遜でない人には決して流れません。下にしか流れなのです。まだ頑固な人やかたくなな人は流れてくる祝福を受けとめることができません。ですから長男であっても奔放なルべンは後に領土が無くなってしまいます。シメオンは乱暴で荒野を所有することになり、レビは同様ですが献身して祭司の部族となります。そして4男のユダが祝福を受けるのです。

 今日の聖句では、偶像を破壊し、神への忠誠を求めています。レビ26章を読むと、「自分のために偶像を立ててはならない。」と1節にあります。そして、神のおきてを守り行うならば、祝福と平安と安全は神が保証するとあります。

 ビルの取得のために多額の借入をしますが、銀行はかなり厳しくチェックします。この2か月は非常に難しくなっていると不動産屋が言っていました。支払能力、財産、人間性、家族、職種、継続性、安定性、将来性・・・銀行とのやり取りは自分が吟味されているようで非常に面白いものです。

 私は、自分の弱点問題点をいつも確認しています。その場逃れのことをせずに、将来につながること、そして何よりも自らの弱点克服に重点を置きます。一つ一つの弱点を点検して解決してきました。仕事についても同様です。銀行の質問について、私はすべて対処済でした。対処のできない点について、求めてきた時には、そういうことを求める銀行は、おかしいのではないか、と正面切って答えました。後は、神と銀行に委ねるしかありません。

 偶像を排除するということは、神以外に大事にするものがあってはならないということです。自己を正当化する人が多いように思います。自分を煩わすものは自分の弱さや罪深さから由来し、対応できなくさせているのです。それを面と向かって、一つひとつ丁寧に克服・排除しなければ、決して祝福はありません。 神の祝福を軽んじたエサウは泣いて歯ぎしりしましたが、ヤコブに注がれた祝福を取り戻すことはできませんでした。

 祝福の地に住まう異民族とは、祝福されるべきあなたの中にある欠点や罪深さなど、神の国に住まうには不適切なものです。これを排除しようとしないと、あなたの人生は、戦いに明け暮れ、なんの祝福もなく、また神の国に住まうこともできなくなります。

 私は妻に言い訳を許しません。周囲の人は、そんなに厳しくしなくても、と思うかもしれませんが、決して怒っているわけではなく、その後も優しく接しているつもりです。多くの人は神が見つめていることを忘れて、人眼を気にしています。私は人眼を気にしないで、神の目を気にします。言い訳やごまかしをせずに、はっきりと悔い改めなさい、と妻に言い、自分にも言い聞かせます。

 神を恐れるとは、怖がることではありません。神の目を意識して、罪を認め悔い改めて、自分の中の偶像を排除することです。神には言い訳は利きません。


7月20日 献身者と共に暮らす。  民数記3518

新改訳 民 35:1-8

35:1
エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げて仰せられた。

35:2
「イスラエル人に命じて、その所有となる相続地の一部を、レビ人に住むための町々として与えさせなさい。彼らはその町々の回りの放牧地をレビ人に与えなければならない。

35:3
町々は彼らが住むためであり、その放牧地は彼らの家畜や群れや、すべての獣のためである。

35:4
あなたがたがレビ人に与える町々の放牧地は、町の城壁から外側に、回り一千キュビトでなければならない。

35:5
町の外側に、町を真中として東側に二千キュビト、南側に二千キュビト、西側に二千キュビト、北側に二千キュビトを測れ。これが彼らの町々の放牧地である。

35:6
あなたがたが、レビ人に与える町々、すなわち、人を殺した者がそこにのがれるために与える六つの、のがれの町と、そのほかに、四十二の町を与えなければならない。

35:7
あなたがたがレビ人に与える町は、全部で四十八の町で、放牧地つきである。

35:8
あなたがたがイスラエル人の所有地のうちから与える町々は、大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならない。おのおの自分の相続した相続地に応じて、自分の町々からレビ人に与えなければならない。」


 ポルトガルの修道院が4つも世界遺産になっているのを、どうしても5月の旅では見たかったので、旅程の変更交渉をしました。バターリャ修道院とは、戦いという意味で、スペインに対して独立を守った感謝に1385年に建て、修道士たちがその後、守ってきたそうです。トマールの修道院も同じような意味合いがあります。印象としては、修道院は決して世捨ての隠遁生活ではありませんでした。修道院が町の中心であり、人々は修道院を誇りとし、支えて生きていたのです。

 今日の聖句は、12の部族が所有することになる土地にそれぞれ、4つずつ計48のレビ人の町が備えられるように命じられています。レビ人は、民数記18章にあるように、神ご自身が相続地であり、自らの相続地を持ってはならないと規定されています。そして、イスラエル人は、その収入の10分の1をレビ人に与えることが義務付けられています。

 イスラエル人は、週に一度の安息日を守り、7年に一度の安息年を守り、さらに50年に一度のヨベルの年を守ることが義務付けられています。これらは、農耕民族にとって命がけのことだったと思います。たとえば、49年目は安息年であり、50年目がヨベルだから2年連続耕さないことになるのです。

 さらにイスラエル人に収穫がなければ、レビ人はその10分の一を得られないことになるのでしょうか。これはさらに命がけとなります。神ご自身が相続地とは、信仰的には歯切れがよく、良い言葉ですが、実際には命がけとなるのです。

 今回の契約について、営業日は一日しか残されていません。「わたしはわたしの教会を建てる」と示され、Myビルと命名しましたが、まさに命がけの契約です。神の祝福を得るためには、打算や甘い気持ちではだめなのだ、と気持ちを引き締めています。

 実際の歴史を見ますと、王制になると安息年は保てなくなります。王や軍隊を養うために税金を払わなければならなくなるからです。そして、490年経った時に、「この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は70年が満ちるまで安息を得た。」(U歴代誌36・21)として、強制的な安息、つまり人々が連れ去られて、土地が耕されなくなるのです。

 また、人々が不信仰になれば、レビ人への奉納はなくなります。レビ人がイスラエルの人々の収入の10分の一を得られなくなると、彼らは収入を得る働きをしなければならなくなります。宗教的献身者であるレビ人が神の働きに勤しむことができなくなると、やはり人々の霊性は衰え、信仰はなくなっていきます。そうすると神の祝福はなくなり、争いや事故、問題が起こり、戦争にもなって、多くの働きが徒労に終わるようになります。

 私は、最近の牧師や献身者の霊性を心配しています。牧師たちが自分の教会の成長を強く願い過ぎてると思います。自分の働きの成功を願うということは、神に献身し、従うということと、相容れないことであると考えます。

 パウロは、「主も福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。しかし、私はこの権利を一つも用いませんでした。・・・私は自分の誇りを誰かに奪われるよりは死んだ方がましだからです。」(Tコリント9・15)。この聖句こそ、私の働きや事業の動機づけです。金儲けのために牧師をしているのではありません。名誉や立身出世のために牧師をしてはなりません。

 事業を起こしたのは、教会を支えるためであり、経済的な祝福を信じず、十一献金もできない民族性の日本で、神の祝福を示すためでもありました。私は、牧師ですから祭司ですが、レビ人の10分の一をもらうことによって、生計を立てるのではなく、人々を働かせて、その働きの十分の一を得ようと考えたのです。さらに教会理念にあるように、事業を通してこの異教社会にインパクトを与えようと考えたのです。

 そういう面で、牧師としては、決して教会員を自分の利益や成功、出世のために利用してはならないと考えています。私自身を教会員の利益や祝福のために、献げるのが当然なことです。それが、献身者たるものです。

 さらに教団のあり方について、個教会の利益と助けのためにあると考える人々が多くなっているように思います。確かに、そのような面もあるでしょう。しかし、信仰とは、自分のメリットのために神に祝福を願うなどという打算的なものに堕落してはならないのです。神は仕えるべきお方であると私は考えています。教団も、献げ仕えるべき、神の代行者であると考えます。

 私たちの教団は、20世紀のリバイバルに大きく寄与しました。そして大きく成長し、教会も祝福されてきました。だからこそ、今ここに至って、自らの利益と成長拡大を優先する者であってはならないのです。当教会は、毎月の礼拝献金のうち2回を海外宣教と国内開拓教会の支援のために献げています。しかし、決して献金額は減っていません。却っていろいろな祝福が注がれています。

 献身者の生活が身近にあるということは何とすばらしいことでしょう。レビ人の所有する48の町の総面積はカナンの0.1%に過ぎないそうです。しかし、その小さな町の存在と献身者の姿が、神の存在と祝福を世に証しするのです。

 祭司としての牧師になるのは難しいでしょう。しかし、神に献身しレビ人として生きることは、誰にもできることであると考えます。私は、神を信じる霊的なイスラエルとしての普通のクリスチャンの存在を認めます。それは、他の民族と人々にとっては、変わった存在です。そのクリスチャンの霊的聖さと従順を促すのは、やはり献身者の存在です。


7月27日 キリストの教会を建てる。  マタイ161518  (説教 本田勝宏先生) 
新改訳 マタ 16:15-18

16:15
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

16:16
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

16:17
するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

16:18
ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。


8月3日 過失と犯罪の違い   民数記35章22節〜31節

新改訳 民 35:22-31

35:22
もし敵意もなく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、

35:23
または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、

35:24
会衆は、打ち殺した者と、その血の復讐をする者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。

35:25
会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。

35:26
もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、

35:27
血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。

35:28
その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。

35:29
これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。

35:30
もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。しかし、ただひとりの証人の証言だけでは、死刑にするには十分でない。

35:31
あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。



 人を簡単に殺害する事件が相次いでいます。治安の良さを誇った日本社会も、遂に終末の崩壊の様相を呈するようになってきたのです。こういう社会的な堕落は、もし終末としてのものでしたら、祈りや努力によって回復するというものではありません。私たちは、都合の良いことや勝利だけを祈る傾向がありますが、それは神の摂理を認めて従うという信仰者としての健全なものから逸脱するものとなります。

 例えば、エレミヤはバビロンに降伏することを勧めたが故に迫害され、穴に投げ落とされて、危うく泥の中で死ぬところでした(エレミヤ38・6)。神は、イスラエルの不信仰を既に予知し、その捕囚を何度も預言させていました。つまり、イスラエルのバビロンによる略奪は神の御手の中にあったのであって、それを認めない人々は信仰者ぶったものであり、権力者におもねるだけであったのです。

 現代の腐敗は、既に預言されていることであり、たとえ敬虔な信仰者といえども、手に負えないものであり、また私たちはそれを解決しようなどと努力するのは無益なのです。終末における信仰者のあるべき姿は、自らの信仰を強くして力を貯え、終末の争いや困難に備えていくことなのです。つまり、油を貯えるのです。

 今や、すべての人に伝道する恵みの時代は過ぎ去り、聞く耳を持った者、飢え渇いた者に伝道を伝えて主の弟子にしていく時代であると考えています。そして、信仰者といえども、誘惑や偽の教えによって淘汰される時代になっているのです(マタイ24・4.5)。「人々は大勢つまずき、互いに裏切り、憎み合います。」(24・10)、そしてクリスチャンは「人々に憎まれます。」

 私たちは、こういう終末的社会状況の中で、人々や社会の考え方がどういうものなのかをはっきりと見極めて、惑わされないようにしなければならないのです。神の教える信仰とは、従順です。物事の判断の基準を理性によるのではなく、神への信頼に置きます。

 他方、世の中の一般的基準は理性であり、倫理道徳です。カントの「純粋理性批判」を読んだことがありますが、難解で良く分からなかったというのが正直な話ですが、理性というものの限界を唱え、結局の真理は神認識に至るしかないというのではなかったでしょうか。間違っていたらお許しください。倫理や道徳にしても、人間社会の秩序と営みのための約束事ということになったら、変容するのは当然なものとなってしまいます。つまり、神なき社会では、確実なものはなく、その人個人にとっては理性判断しかないことになります。

 聖書の教えでは、理性や努力など危ういものでしかありません。実際に多くクリスチャンが理性や人間性に重要性をおいて、それをもって福音を伝えようとするのは、間違ったこの世の教えに沿って、聖書を信じているので非常に危ういのです。私たちは、必ず間違ったことを行ってしまう罪ある存在なのです。

 今日の聖句で出てくる「逃れの町」というものは、悪意もなく過失で人を殺してしまった人が、その町に逃れるならば罰せられることはない、という制度です。ここで、聖書は殺意をもって人を殺した人は、死刑であると宣言しています。こういうことに否定的な信仰者がいますが、その人は死の先にある裁きを考えているのでしょうか。

 私は、たとえ死刑になっても、もしその人が悔い改めれば、神は決して黄泉に下らせることはないので、その殺人の理由を吟味して刑を軽減し、その人の犯罪を正当化してしまうよりも、ずっと人道的であると信仰的に考えているのです。

 人にとって、最も大事なことは、聖書によれば永遠の神の国にいくことであります。むろん自分の力や行いでは行くことはできません。人間の決まりや理性など何の役に立たないのであります。

 多くの人が、自分の怒りや憎しみに駆られ、人を殺したり傷つけてしまいます。自分も罪を犯し、人を傷つけることがありうるという可能性に立って、正当化されれば良いなどという勝手な人間社会の理屈をつけても、神の前には無意味なのです。不信仰や犯罪に、何の正当性もないのです。ただ罰を受けるだけです。

 悪意でなく過失によって人を殺してしまったということが認められれば、逃れの町に避難することができます。そして、大祭司が死ぬまで、そこに留まっていれば罪は赦され、故郷に帰ることができます。しかし、それ以前に逃れの町から勝手に出て、被害者家族が彼を見つけたら、彼は死刑となるのです。

 逃れの町に住むということは、被害者の家族への謝罪でもあり、自らの犯した行為への懺悔でもあります。そして、その謝罪と懺悔は、大祭司の死によって、大祭司がその罪を荷なって死んでくれたこととなり、赦されるのです。

 「神の前に言い訳は効かない。」こういうことを知らないで、自分の理性と論理を理由に不信仰の道を歩んでいるクリスチャンが多いのです。失敗や罪を犯したら、言い訳をしないで、その咎を覚悟するべきです。

 「わかっていたけどやってしまった。」という言い訳を言う人が多いように思います。息子の友人が飲酒運転をして罰金100万円を払うことになったけれど、払う金がないので刑務所に入ることを覚悟したと聞きました。ある人が援助したと聞きましたが、罰を覚悟するということが大事なのです。自分の失敗について言い訳を言っている人は、黄泉に行っても言い訳を言って、その理不尽を愚痴っているかもしれませんが、神はそういう人を赦すことはないのです。

 殺人でさえ、悔い改めたら赦されます。親不幸をして言い訳を言っていたら、聖書に照らせば死刑です。理不尽と思っていると、救いはありません。



8月10日 継ぐべき使命に忠実に   民数記36章1節〜9節

新改訳 民 36:1-10 36:1 ヨセフ族の一つ、マナセの子マキルの子ギルアデの氏族に属する諸家族のかしらたちが進み出て、モーセとイスラエル人の諸家族のかしらである家長たちに訴えて、

36:2
言った。「主は、あの土地をくじによってイスラエル人に相続地として与えるように、あなたに命じられました。そしてまた、私たちの親類ツェロフハデの相続地を、彼の娘たちに与えるように、あなたは主に命じられています。

36:3
もし彼女たちが、イスラエル人の他の部族の息子たちにとついだなら、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の相続地から差し引かれて、彼女たちがとつぐ部族の相続地に加えられましょう。こうして私たちの相続の地所は減ることになります。

36:4
イスラエル人のヨベルの年になれば、彼女たちの相続地は、彼女たちのとつぐ部族の相続地に加えられ、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の部族の相続地から差し引かれることになります。」

36:5
そこでモーセは、主の命により、イスラエル人に命じて言った。「ヨセフ部族の訴えはもっともである。

36:6
主がツェロフハデの娘たちについて命じて仰せられたことは次のとおりである。『彼女たちは、その心にかなう人にとついでよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族にとつがなければならない。

36:7
イスラエル人の相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人は、おのおのその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである。

36:8
イスラエル人の部族のうち、相続地を受け継ぐ娘はみな、その父の部族に属する氏族のひとりにとつがなければならない。イスラエル人が、おのおのその父祖の相続地を受け継ぐためである。

36:9
こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人の部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。」



 27章でツェロフハデの娘たちの訴えが通りました。男子のみが相続できるのであれば、娘しかいない家は相続地と家が絶えてしまうということです。ここでは、その娘たちが、他の部族の男と結婚した場合、部族所有の土地が入り乱れてしまうということ、そして他の部族の娘だけの家の娘と結婚すれば、その部族の土地が増えて、娘の部族の土地が減ってしまうことの問題を解決することとなります。

 非常に現実的な問題であり、彼らがまだ与えられていない土地をあたかも与えられたかのように思って、取り組んでいる姿が示されます。モーセは、「その父祖の部族の相続地を堅く守らなければならない」(7節)と語り、約束の土地の所有権こそが、イスラエル民族の神に対する責任であると示しています。

 実は、ここに国家解体を経て1900年後にもなお、イスラエルという人種が存続し、そして国家を命がけで民族総動員で再興した理由があるのです。しかし、そうであるならば、イスラエルは現在の国の領域では満足してはならず、神の約束の地の領有の成就としての国土拡大をするべきであり、ガザやヨルダン川西岸のパレスチナ暫定自治政府の領土を認めてはならないことになります。

 ところが、そうすると実際に住んでいるパレスチナの人々の所有権を侵害することになり、現在のような内戦状態が長く続くことになります。パレスチナ人は、この数百年住んできた土地の所有権を主張し、イスラエル人は3500年も前に神によって約束されたという所有権を主張するからです。

 イスラエル政府としても、アメリカを含めた他の国も、その辺の無謀さは認めていて、自治政府の領土としているわけでしょうか。このような価値観念の違いとうのは、現代社会でも常に起こっていることです。このあたりの現実と信仰の両立というものを、しっかりと身につけていないと社会性のないクリスチャンになるか、現実と妥協した祝福のないクリスチャンになるかのどちらかになるのです。

 先日、聖書研究会で、地に根を拡げた歩みとはどういうものかという質問をだしました。参加者の回答は、「聖書を毎日読んで過ごす」、「キリストを土台として生きる」「よく祈って神の御心を探りながら生きる」などというものでしたが、私は、すべて回答になっていないと、否定しました。

 ツェロフハデの娘たちもかしらたちも非常に実際的です。現実にはまだ起こっていないことなのに、現実的に検討しているのです。ところが、多くのクリスチャンが信仰というものを非現実的なもの、社会に適用しないもの、として宗教的・儀式的なものとしてしまっているのです。

 世界的には、キリスト教信仰は非常に現実的祝福をもたらすものとして発展し浸透してきましたが、日本においては、倫理的なものに変質してしまったきらいがあります。つまり、祈りとか聖書を読むこととか、礼拝を守ることとかは強調するのですが、その目的を失ってしまっているのです。

 オリンピックを見ていて、日本選手は勝つ気があるのかと、ばからしくなりました。戦いを仕掛けなければ相手の動揺は得られず、勝利も得られません。伝道をしようとすれば、どんな人とも個人的に親しくなり、その苦しみ悲しみを理解し助けなければならないのです。

 先週は、すさまじく忙しく、毎日10名以上と話し、業者との決済や注文も数十しました。でも、ある患者さんが様態が悪いので助けてくれというので、我が家に泊まりながら治療することを勧めました。彼女は創価学会の熱心な信者ですが、私には差別する理由は何もありません。病気の自己管理がだらしない宣教師について、このままでは働きを続けることができないことを思って、非常に厳しい指導をしました。彼がどう対応するか、真剣に祈っています。

 忙しいからといって、神に仕え人を助けることを躊躇したら、神は私を助けて下さいません。神学生が私を待つ業者を1時間40分もそのままにしていたので、私は激怒しました。人間を人間として対応できないでいるなら伝道者になることは無理です。注意したら、苦笑いをしながら謝ったので、更に怒りました。

 クリスチャンは、現実の生活の一つ一つを神の約束の成就のために費やさなければなりません。教会に来て聖書を読むだけが信仰の維持ではないのです。神に仕え、この稲毛の地に根を張るために、祝福を増やすために働いてきました。

 イスラエルが約束の地をすべて所有できないのは当たり前です。彼らは、キリストを否定し、信仰的にも現実的な対応を誤ったからです。ローマに面と向かって敵対してしまいました。攻撃されるのは当たり前です。そのような決定的な落ち度を犯しながら、神の恵みにより1900年ぶりに国を復興したのですから、それを感謝して近隣の国を助けるべきでしたが、神の約束を楯に喧嘩をしてしまったのです。

 あなたの伝道の実が実っていないのは、当たり前です。私は、どの業者も見下したりすることは決してしないで、彼らを労り感謝し励まします。ですから、彼らは一生懸命無理をして、私の注文を聞いてくれるのです。大変な大工事ですが、20日間で完成します。私も、睡眠時間も満足に取れない日々でしたが、主は守ってくださいました。工事の他に、記念行事があり、葬儀があり、ニュースの発行や記事の修正、そして、患者や家族のケアもあり、そしてティールームの申請や準備もありました。でも、スタッフが助けてくれ、神が祝福してくれました。

 この間、説教も奉仕も手を抜いたことはありません。家の食器洗いも、片づけも庭の水撒きも、健康管理のために水泳も行っています。主が祝福してくださるならば、聖霊は私のためにすべてを取り計らってくださるのです。自慢のようで申し訳ありません。しかし、主の臨在と助けを強く感じて日々を過ごしております。


8月17日 今日、ただちに従う   ヘブル書3章7節〜19節 説教 杉本神学生


新改訳  ヘブル 3719

3:7
ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、3:8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。

3:9
あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。

3:10
だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。

3:11
わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」

3:12
兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。

3:13
「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

3:14
もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

3:15
「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。

3:16
聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。

3:17
神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。

3:18
また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。

3:19
それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」


 12節「悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者」とはだれのことでしょうか。16節に「モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部」とあります。民数記で見てきたように、イスラエルの民は、多くの不従順と不信仰を繰り返したのであります。そして主はモーセにこのように仰せられたのです。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。」(民数記14:11)

イスラエルの民は、神の声を聞いていました。にもかかわらず、彼らはその声に聞き従わず、不平不満を言い、不信仰を行ったのです。これは神の怒りを買いました。ですから、カレブとヨシュアを除いて彼らは安息の地、カナンの地に入ることはできなかったのです。

神様は私たちのことをすべて知った上で、声をかけてくださいます。それは祈りの中だけではありません。礼拝説教であったり、デボーションの時であったり、町を歩いている時であるかもしれません。神様は、牧師や信仰の友、そして、あなたのまわりのあらゆる人を通して、声をかけてくださるのです。
時には、私たちに困難なことを示されるかもしれません。しかし、神の御声はこのように与えられるものです。

信仰というのは、個人と神との直接的関係であり、個人個人が神に従って歩んでいくということです。神に、自分の生涯をかけていくということです。ですから、本当に自分を神にささげていく時、自分がどのような人間であっても、神は私たちを用いてくださるのです。

13節「日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」とあります。かたくなにならないためには、互いに励まし合う必要があると書かれています。私たちは、一人ではありません。教会には祈り合う仲間がいます。どうぞ、お互いに祈り合う関係を築き上げてください。そして、励まし合ってください。私たちは、お互いに、神によって召し出された者たちなのです。時には励まされ、そして時には励ますために、そして共に祈り合い、共に聖書を学び成熟していこうではありませんか。

信仰を持ち続けるというのは、そんなに簡単なことではありません。信仰生活には必ず信仰が試される試練の時があります。信仰生活は、日々戦いです。しかし、その中に神様の恵みと憐みを見ることができるのです。

信仰の父アブラハムは、神の言いつけに従って、二人の若者とイサクを連れて、モリヤの山に登りました。そのひとり子を神に捧げるために3日の道中です。アブラハムはどのようなことを考えていたでしょうか。引き返そうか、神はなぜこのようなことを、など考えていたのかもしれません。しかし、アブラハムはそれでも躊躇せずに山へ向かい、イサクを殺そうとしたのです。そしてイサクを縛り、薪の上に乗せ、刀をもってまさに殺そうとしたとき、神はアブラハムの手を止め、代わりにいけにえの羊を備えてくださったのです。

それは、アブラハムが何よりも主を恐れ、主に従うという決断を主が見ておられたからです。アブラハムは信仰を試されたわけですが、これによって、アブラハムは祝福を得たわけです。祝福を得るのに、犠牲が伴わないことはありません。

私たちは、楽しいことにはすぐに取り組むのに、困難が伴うこと、難しそうに思えることには、なかなか腰が重くなってしまうでしょう。こんな大変なことを神様が示すはずはないとか、み心ではないとか理由をつけて、わたしたちは、困難から遠ざかろうとするのです。

「きょう」神の御声を聞いたのであれば、その時疲れていようと、忙しい時であろうと、「今日、あなたに従います」と決心することが大切です。今日ただちに従うということが、神を第一にするということに他ならないのです。

最初の確信を保ち続ける(14節)というのは、大変難しいことです。しかし、みなさんが救われた時のことを、思い出していただきたい。初めて自分の罪を認め、イエスキリストを救い主であると認めた時の事を思い出していただきたい。それが、最初の確信です。すべてを神に委ねて、御心のままに歩みたいと願ったはずです。神様にすべてを委ねて従おうと決心したはずです。
そのときの決心を「きょう」も持ち続けることを、神様は望んでおられるのです。


8月24日 モーセの決別説教   申命記1章1〜8節

新改訳 申 1:1-8

1:1
これは、モーセがヨルダンの向こうの地、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフの前にあるアラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。

1:2
ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。

1:3
第四十年の第十一月の一日にモーセは、主がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げた。

1:4
モーセが、ヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホン、およびアシュタロテに住んでいたバシャンの王オグをエデレイで打ち破って後のことである。

1:5
ヨルダンの向こうの地、モアブの地で、モーセは、このみおしえを説明し始めて言った。

1:6
私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。

1:7
向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。

1:8
見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」


 申命記とは、「重ねて命令する」という意味で、ギリシャ語の70人訳聖書(紀元前1世紀にへブル語から訳されたもの)の表題「第2の律法」から取られ、英語ではDeuteronomyと同じ意味で名付けられています。へブル語本来の意味は「言葉」という意味ですが、ユダヤ人には「律法の写し」(ミシュネー)と言われていたのを誤訳したためであるそうです。昔はよくあったようですが、内容的には現在はへブル語本来の意味になっているのは、当然のことです。

 申命記は、イスラエルの民がヨルダン川を渡る前に、モーセによって語られる遺言のようなもので、自らは渡ることができずに天に召されるので、民への戒めと祝福の道を語っています。

 ホレブつまり、シナイ山からカデシュ・バルネアまで十一日かかると二節にありますが、この旅程をイスラエルの人々は、40年掛かったのであります。私たちは長い人生を過ごしても、実は徒労に終わることも多く、神にある真実な歩みに目覚めるまでは、多くの無駄とも思われる日々を過ごしてしまう罪人なのであります。誰が、イスラエルの40年を責めることができましょうか。

 しかし、私たちは言い訳を言っていてはなりません。悔い改めずに神の教えを守らなければ、虚しい人生は40年では済まないのであります。人にとって、厳しい指導を受けた時に、その人の人間性が現れてくるものです。

指導者として間違いを指摘し、反省を促すということは、なかなか難しいものです。もしかしたら、その人から恨まれ憎まれて、交流が損なわれるかも知れないからです。実際に、私は教団の監事という地位におりますが、これは法律に適い組織として適切に動いているかをチェックすることを職務とします。もし、私が「人に嫌われたくない、彼らは一生懸命にやっているのだから、法律に合っていなくてもしょうがないではないか。」などと判断したら、その任を果たすことはできません。

夏季休暇で礼拝説教を聞きながら、自分たちの歩みを振り返りました。決して、正しい歩みではありませんでした。信仰深いかというと、自分勝手であったとも反省するしかありません。妻が、帰国後、「今回は初めて全て仲良く過ごせた。」と人に言いましたが、互いに「これまで相手がよく自分に尽くしてくれた。」という感想を言うことができました。夫婦ともども、自らの罪深さ、勝手さにやっと気がついてきたというのが真実でしょう。

説教の後で、それでは自分たちの祝福の原因は何なのかと、語りあいました。私たちは、確かに祝福を受けています。それを自分の働きや能力の故であるとは、共に考えてはおりません。そして、「主を待ち望む者」であったことは、確認しあったのであります。私たち夫婦は、主を畏れております。もし、物事がうまくいかなかったら、自らの罪を見つけ出し、その咎を受け入れます。そして、恵みを待ち望みます。祝福は神からくることを信じているからです。

神は「向きを変えて出発せよ。」と命じられます。「その地をあなた方の手に渡している。ゆけ、その地を所有せよ。」と命じられたことを実行することが必要なのです。荒野に留まっていてはならないのです。荒野は生産性がなく、働きも虚しいのですが、朝に夕に恵みによって食糧が与えられます。約束の地、祝福の道は、神を信じて自分で勝ち取らなければならないのです。不毛の地で不毛を信じていたら、約束の地に入ることはできないのです。

 ある人は、「自分は祝福されている。幸せだ。」と言われるかもしれません。はたして、それは神の約束の地なのでしょうか。

 多くの人々は、私たちを頑張っているとか、能力があるとか、考えているようです。先日、ある牧師夫人が「ガンになって治療はしているが、治っても治らなくても、どちらでもよい。どうせ、天国に行くのだから。」と明るく過ごして人々を喜ばすために生きているのを見ました。夫婦ともに私達と同じだな、という印象を受けました。

 ビルの改装工事の途中に休暇旅行に行き、翌日に開業するということを驚く人々が当然でしょう。私達にとって、努力してもしなくても、御心に任せるしかない、という心情です。開業して患者さんと接しながら、絵を掛けたり、掲示を考えたりしています。

 アメリカ人と接して、非常に忍耐深いことに驚きます。列に並び、時間がかかっても気にしないで待っています。車でも互いに譲り合っています。子供たちの行動に関して、見守りながら決して干渉しません。子供も青年も大人も、チャレンジするのが好きなようで、したいことをしています。熱い中、ランニングや自転車、そして、楽しく人生を味わっているのを見ました。

 帰国後、パチンコに一生懸命な大人たちを見て、留守の家族をどうするのだ、と呆れました。子供達に干渉する親たちを見ながら、これでは不満がたまるだろうなと思いました。明らかに、罪の奴隷の生活です。自分の人生を自ら掌握していないのです。そして、人に対する批判や不満をいつも口にします。

 信仰者なのに、他人の行動が気になり、思い通りにしようとするのです。「あれが罪深い、これが配慮が足りない。」そんなことは、どうでも良いのです。自らが、神と共に歩めば、その所は、祝福となるのです。

 神を利用してはなりません。祈って、人を変えようとしたり、物事を思い通りに願ってはなりません。主と共に歩めば、どこも御国になるのです。


8月31日 正しく裁きをする指導者   申命記1章918
新改訳 申 1:9-18

1:9
私はあの時、あなたがたにこう言った。「私だけではあなたがたの重荷を負うことはできない。

1:10
あなたがたの神、主が、あなたがたをふやされたので、見よ、あなたがたは、きょう、空の星のように多い。

1:11
――どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように。――

1:12
私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。

1:13
あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。彼らを、あなたがたのかしらとして立てよう。」

1:14
すると、あなたがたは私に答えて、「あなたが、しようと言われることは良い。」と言った。

1:15
そこで私は、あなたがたの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らをあなたがたの上に置き、かしらとした。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、また、あなたがたの部族のつかさである。

1:16
またそのとき、私はあなたがたのさばきつかさたちに命じて言った。「あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。

1:17
さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものである。あなたがたにとってむずかしすぎる事は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」

1:18
私はまた、そのとき、あなたがたのなすべきすべてのことを命じた。

 私は多忙な人間ですが、この2ヶ月ほど忙しい時はありませんでした。ビルの契約購入から1ヶ月で開業し、また新しい事業も2つ始めるのですから、当然のことです。しかし、それが出来たのは良き協力者・担当者がいたからです。

 工事の監督の田中さんは多くの業者を適切に配置し、その働きやすいように資材と時間を調整していました。私の願いを聞いて、それを実現してくれました。荒くれの職人たちが彼のことは聞いて従っているのには感心しました。

 会社のスタッフたちも本当に優秀な指導者・責任者となり、私は安心してハワイに休暇に行ってしまい、引っ越しや開業の準備を任せてしまいました。彼らは既に給料以上の働きをしています。会社というのは、その働き人が給料以上の仕事をすれば、必ず業績が上がるものです。大事なことは、働き人の質と能力を常に高める仕事と責任を与えることです。そして、経営者も会社存在の社会的意義を高めながら、経営の質と力を向上させることです。

 子ども達の協力も見事でした。長男は法律税務的な助けをしてくれ、次男はビルに入居して管理をし、その嫁たちはティールームを営んでくれます。長男・長女は保証人にもなり、長女夫婦は私たちを多様な面でサポートしてくれます。次女も引っ越しは一手に責任を負ってくれました。3女は旅行中の家や犬の世話をしてくれました。

 教会員たちは、何かというとサッと働いてくれ祈ってくれました。結婚以来28年の実りを本当に感謝しております。しかし、今私の内にある思いは、やっとこれから自らの働きができる、という実感です。これまでは、家族の世話や教会員のために尽くしてきたと思っています。私たち夫婦は、自らのことはおいて、彼らの成長を願ってきました。「主が、あなた方を増やされたので」という感謝ですが、それで終わるものではありません。

 神の業は、一人の働きではありません。「教会はキリストの身体であり、一切のものを一切のものによって満たす方の満ち満ちておられるところです。」(エペソ1・23)。「2人でも3人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ1820)とあるように、一人だけでいくら頑張っても、それは神の働きではなく、自分勝手なものなのです。複数の人が協力することが大事であり、それによって、愛しあうという至上命令を全うすることができるのです。

 ところが、人間というのは罪人ですから勝手なもので、戒めや指導者なしで愛しあうということはできないのです。多くの人が、性格が良く優しい人は生まれつきのように誤解していますが、聖書的にはそういうことはないのです。つまり、軋轢がなくて勝手にふるまえるから優しいのか、丁寧に親や指導者に育てられたかのどちらかなのです。律法というのは旧約聖書のことですが、その目的は神を愛し、人を愛するためのものだとイエス様が説明されています。

 人は、訓練なしに成長することはないのです。成長しない人は、訓練されることを拒んで勝手に生きてきたからです。或いは、訓練されるような機会に恵まれなかったのでしょう。そして、訓練の原則や基本やマニュアルは聖書にあるのです。

 Tコリント書12章にはいろいろな賜物・能力によって教会が築き上げられることが記してありますが、その中で最も大事なものは指導者です。「第一に使徒」(13・28)とあります。指導者なくして組織は、規律を持ち、方向性をもって建て上げられ、活動することはありません。

 そして、指導者を支えるのが、その下の指導者なのです。指導者を支えることができるのは、指導者でなければできません。指導者の下に指導者がいなければ、指導者は一人ひとりの「もめごと重荷と争いを背負いきれ」(申命記1・12)なくなります。しかし、指導者というのは、任せたら指導できるのではありません。日本社会は、その辺のことがわかっていないので、指導監督できる指導者がいないのです。

 「知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を」(1・13)指導者として少人数の指導者から体験させなければならないのです。知恵のない人を指導者にしてはなりません。知恵とはなんでしょうか。神を畏れる心をいつも持って、物事の解決に当たることです。自分の判断による人は、計算し吟味し、挙句の果てに消極的・否定的になります。神を信じる人は楽天的でなければなりません。否定的な信仰者に今まであったことがありません。クリスチャンと自称しても、否定的な人には気をつける必要があります。

 悟りとは、自分の限界や罪深さを知っていることです。決して物事を思うとおりにしようとしません。実際には、物事を消極的に考える悟りをもっている人が多いようですが、そうではなくて失敗や恥を恐れない悟りです。

 指導者は裁き司でなくてはなりません。物や人を偏りみてはいけないのです。しかし、実際には多くの過ちを犯し、間違った判断をするものです。それが、経験です。失敗の経験なしに人は成長しません。日本社会は指導者に対して、厳しい要求をし過ぎます。ですから決断のできる指導者が育たないのです。

 失敗や恥を恐れてはなりません。罪を許されているのに、罪に拘泥し、毎日「神様、私の罪や過ちを赦して下さい。」とクリスチャンが祈っているとしたら、本当に魅力のない弱弱しい印象を受けます。自己卑下などしないで、神に愛され、祝福され、罪許されている人間として、大胆にこの世の中を生きることが大事です。あなたも、指導者になろうとしなければなりません。


9月7日 
おののいてはならない。   申命記1章1928


新改訳 申 1:19-28

1:19
私たちの神、主が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。

1:20
そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。

1:21
見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」

1:22
すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、はいって行く町々について、報告を持ち帰らせよう。」と言った。

1:23
私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。

1:24
彼らは山地に向かって登って行き、エシュコルの谷まで行き、そこを探り

1:25
また、その地のくだものを手に入れ、私たちのもとに持って下って来た。そして報告をもたらし、「私たちの神、主が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です。」と言った。

1:26
しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。

1:27
そしてあなたがたの天幕の中でつぶやいて言った。「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる。

1:28
私たちはどこへ上って行くのか。私たちの身内の者たちは、『その民は私たちよりも大きくて背が高い。町々は大きく城壁は高く天にそびえている。しかも、そこでアナク人を見た。』と言って、私たちの心をくじいた。」


 政治的なことはあまり話題にするべきではないと思っていますが、最近の政治の体たらくには落胆します。戦後教育の弊害として、研究し分析するスタッフは多くおりますが、カリスマ的指導者に欠けているかと思われます。人生に難関は当然であり、試練は人を磨きあげますが、磨くと崩れてしまうような軟弱な人が多いようです。

 娘が我が家は受験生を少しも労らないと不満を言っていましたが、当たり前のことです。受験という人生の一大難関に接した時に、大事に労られてしまったら、その後の試練の時に人の助けを求めてしまいます。試練というのは、人を磨くのですから、その経験はうまく行こうと失敗しようと自らの体験になったら、それは大事なものとなるのです。その時に、人の助けを求めるようでは、幸せになることはできません。

 最近は豊かさと共に時間が余っているものだから、ともかく人を甘やかします。ところが、思い通りに従わない年頃になっても、厳しく干渉するものだから、今度は親離れを無理にしようとして、未成熟なまま社会にでることとなります。社会人としての成熟には、多様なアドバイスと交流がいるのですが、それがないので、知識と情報に頼ろうとします。そうすると安全性や確実性を求めるのですが、それでも自己判断や決断を要します。これができない人が多いのです。こういう人々は、仕事でも少し難しいと辞めてしまい、人とも行き違いがあることを恐れるので親友はできません。結婚の決断もできないで、独身のフリーターになるのです。

 こういう人々を教会は暖かく受け入れて、そのままというのは聖書的であると私は思いません。聖書は、「人がひとりでいるのは良くない」(創世記2・18)と言っていますし、「自分の勤労の実を食べる時、幸福である。」(詩篇128・2)とあります。つまり、何でも暖かく受け入れるというのは無責任であり、その人の人生を築き上げられるように成長の苗床となるのが教会であると思います。

 しかし、日本社会では、このような指導性・方向性というのが希薄になっていると思います。先日、ある青年に私の所に来て働かないか、と誘いました。二年ほど祈って、それを言うべき時を探っていました。能力のある青年ですが、すっかり自信をなくし、一人立ちをすることができなくなっています。主にあって、それを促す責任を示されていました。後は、彼がどのように対応するかですが、応じてこなければ、私の責任は神から解放されます。

 「恐れてはならない。おののいてはならない。」と言っても、指導者や仲間、家族がいなくて、孤立していては難しいものです。孤立したのも自分の責任という人がいますが、神は、失われた者を探しまわる羊飼いであることを忘れてはいけません(マタイ18・12.)。恐れ、おののいている者を探し出し、助け、癒して群れの中で成長させる責任があるのです。

イスラエルの人々がカデシュ・バルネアに来たのは、エジプトの奴隷生活からまだ間もない時期でした。領土を得るために戦うなどということは、奴隷にはありえないことでした。その地の住民が大きくて強く、町々の城壁も高いというだけでおびえてしまったのです。

 家族のために戦う、自らの生活のために戦うということは、自由人の条件です。自由な国を守るために戦うというのは、当然なことであり、誰とでも仲良くしていたら、簡単に敵国に占領されてしまいます。自由や勝利、そして祝福の為には戦わなければならないのです。フロムは「自由からの逃走」として現代人を予測していましたが、まさにそのとおりです。

 恐れ、おののくのは、奴隷の特徴です。罪の奴隷であった私たちが、恐れたとしても、当然です。しかし、今や私たちは、神の民、神の子として罪から解放され、自由人として生きるべき使命を帯びているのです。恐れをかなぐり捨てて、勝利を目指して戦って生きなければならないのです。

 それでは、何のための戦いでしょうか。幸せになるための戦いです。

1. 何に対しても恐れはいけません。不信仰の証拠です。

2. 自分が獲得するべき領土、幸せを具体的に目指すべきです。

3. 問題や難関の一つひとつを丁寧に処理していけば、神が助けてくださいます。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えて下さる」(詩篇127・2)。主が勝利をもたらすことを体験するべきです。

4. 「幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。」(詩篇128・1

 ここ数カ月、自称クリスチャンから攻撃を受け続けられました。決して自分の考えを変えず、人々を先導し、迷わせ、干渉してきました。それに対する私の武器は、「恐れずに平然と人生を歩み続ける。」、というものです。決して攻撃的にならず、感情的にならず、物事を思い通りにしようとせず、ただ主に任せるというものです。いまだ、その影響は続いていますが、「神はわれらの避け所、また力、苦しむ時、そこにある助け、それゆえわれらは恐れない。」(詩篇46・1.2)。と口ずさんで勇気を与えられています。

 生身の人間は弱いものです。聖書の御ことばを覚え、口ずさみましょう。自らの確信や信念など当てになりません。神とそのことばに頼ることこそ、信仰者です。


9月14日 全道中、主があなたを抱かれた。   申命記1章2936

新改訳申 1:29-36

1:29
それで、私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。

1:30
あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。

1:31
また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。

1:32
このようなことによってもまだ、あなたがたはあなたがたの神、主を信じていない。

1:33
主は、あなたがたが宿営する場所を捜すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。」

1:34
主は、あなたがたの不平を言う声を聞いて怒り、誓って言われた。

1:35
「この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもいない。

1:36
ただエフネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えよう。彼は主に従い通したからだ。」


 「主が、あなた方のために戦われ、主が全道中、あなたがたを抱かれた。主が先に立って行かれ、夜も昼も道を示された。」というこの聖句を私たちも自らの人生のうちに体験し、感謝を献げています。

 一方的に攻撃され、自ら戦うことができない状況は数多くありました。妻子を守り、教会を維持するためには、敢えて耐えなければならない時がなんとおおくあったでしょう。人々は、自分の考えを是として攻撃をしてきます。私が自らの義を主張して戦ったところで、勝敗はつかず、労力をつぎ込むことはできません。なぜ、戦わないのか。それは家長、牧師、指導者としての責任でした。でも、私たちは守られてきました。思い起こすと涙が出てきます。よくぞ、耐えたと思いますが、苦しみ悲しみの中で祈り叫ぶと、いつも強い神の臨在を体験しました。

 困難の時に、殆どの人が祈っていません。信仰者と言える人は、困難に嘆くのではなく、勝利を願って神に求める人です。エジプトの大軍が追いかけて来た時、人々は恐れてモーセに反発しました。人々は、実際の困難というよりも困難への恐れで負けてしまうのです。

 ティールームも今のところ殆ど客は来ていないので、スタッフは心配しているようですが、私は半年はこんなものだと考えています。大事なことは、力をつけ、サービスの質を高めることです。多くの店やサービス業が、もうけを優先して質を落としています。努力をしないで心配をするのです。大事なことは、質を高めることなのですが、殆どの人が目先の利益や運に左右されて仕事をするのです。

 神が私達のために戦われ、神が私達の道を示し、神が私たちを抱いてくださるのであれば、私たちは何をすれば良いのでしょうか。私たちは、毎日の労苦を心配せず、神の教えを自らのものとすべく戒めを身につけ、神の器になるべく自らを訓練することが必要なのです。

 先週、「主は愛する者が眠っている間に必要な物を備えてくださる。」と語りましたが、「主の愛する者とは、人を愛して自らの時間もなくなるような人のことです。」と説明しました。そして、「信仰とは打算ではない。理性でもない。論理的に説明がつくような生き方を求める者は、信仰者とは言えない。」と諭しました。

 マリヤ・クリニックは、医療で生活を立てようとしたのではなく、「医療を通して人を健康にしたい、幸せにしたい、救いを伝えたい。」という思いで、営んできました。潟ーゼフも、「十分に説明して一人一人に必要な栄養と摂取方法を体得させ、安価で良いサービスを提供したい。」、という思いから始めたものです。世の中は甘くないので、そういうところを吟味してきます。スタッフが定着しないのも、その辺が確立していないからだと、反省しています。

 「神の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10・22)を身につけている人は殆どいないでしょう。ところが、実際には正反対の行動が不信仰の故になされているのです。つまり、労苦に依存する人は、神に祝福されないのです。

 出産のため、主勢の子供たちが同居しています。私が帰ると孫たちが走り寄って迎えてくれるので、私は抱き上げて可愛がります。麻子さんが料理を作り、子供たちを抱いて食べさせます。子供たちは楽しそうにうれしそうに食事を食べます。日曜に家族全員が集まって食事をする時は、本当に喜びです。

 もし、その時に仕事の辛いことや、問題をぶつけたらどうでしょう。或いは、遊んでいる暇はないと言って仕事をしていたら、喜びは得られません。多くの人が、喜び楽しんで生きることを選ばずに、問題の解決を自分の力でしようとして苦闘するのです。安息日を守りなさい、ということは仕事の問題を家庭に持ってこない、ということであり、労働は家庭に持ち込まない、ということです。

 神様は、「不平を言う声を声を聞いて怒り」(34)とあるように、不平や不満を嫌うのです。クリスチャンたる者、愚痴や不平を言ってはなりません。問題に囚われてはなりません。「主を喜ぶことは、あなた方の力です。」(ネヘミヤ8・10)。「主にあって、喜びなさい。・・これは、あなたがたの安全のためにもなることです。」(ピリピ3・1)。神に守られ、抱かれながら愚痴を言ったり、いじけたりするのは、よほどおかしいことです。

 人を愛するということに慣れていないように思われます。何のための家族なのでしょうか。諌め合うためにあるのでもなく、攻撃し合うためにあるのでないことは当然です。人を非難し攻撃するという思いを、あなた方の心と行動の中から全て捨ててしまわなければなりません。

 たとえ、多くの問題が起こり、人が攻撃してきたり、艱難が起こっても、そのことに心を囚われてはなりません。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」(Tテサロニケ5・16-18)。

 


9月21日 戦う勇気がなければ。   申命記1章3746
新改訳 申 1:37-46

1:37
主はあなたがたのために、この私に対しても怒って言われた。「あなたも、そこに、はいれない。

1:38
あなたに仕えているヌンの子ヨシュアが、そこに、はいるのだ。彼を力づけよ。彼がそこをイスラエルに受け継がせるからだ。

1:39
あなたがたが、略奪されるだろうと言ったあなたがたの幼子たち、今はまだ善悪のわきまえのないあなたがたの子どもたちが、そこに、はいる。わたしは彼らにそこを与えよう。彼らはそれを所有するようになる。

1:40
あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。」

1:41
すると、あなたがたは私に答えて言った。「私たちは主に向かって罪を犯した。私たちの神、主が命じられたとおりに、私たちは上って行って、戦おう。」そして、おのおの武具を身に帯びて、向こう見ずに山地に登って行こうとした。

1:42
それで主は私に言われた。「彼らに言え。『上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。』」

1:43
私が、あなたがたにこう告げたのに、あなたがたは聞き従わず、主の命令に逆らい、不遜にも山地に登って行った。

1:44
すると、その山地に住んでいたエモリ人が出て来て、あなたがたを迎え撃ち、蜂が追うようにあなたがたを追いかけ、あなたがたをセイルのホルマにまで追い散らした。

1:45
あなたがたは帰って来て、主の前で泣いたが、主はあなたがたの声を聞き入れず、あなたがたに耳を傾けられなかった。

1:46
こうしてあなたがたは、あなたがたがとどまった期間だけの長い間カデシュにとどまった。

 カレブという人は、勇気ある人の典型として、私は自分の中にその歩みを刻んでいます。カレブの心根はヨシュア記14章に詳しく自ら語っています。40歳の時、カナンを偵察した時に、「私は自分の心の中にある通りをモーセに報告しました。他の者は、弱きになって人々の心をくじいたのですが、カレブは主に従い通しました。

 その時、モーセはカレブの勇気に感動し、誓って宣言しました。「あなたの足が踏み行く値は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。」ヨシュア14・9

 勇気をもって人生を生きる人は、少ないものです。子供を何人も産む夫婦も勇気あるな、と感心します。私たち夫婦は、5人の子供を産み育てましたが、それぞれ、試練の中で産みました。「子供を産まないことにした。」などと言う夫婦は、神の祝福を受けることはできません。私の姉は、42,3歳で初産でしたが、命を掛けて子供を産んだのです。私は9人兄弟の末子ですから、もし親が生計や苦労を考えて、6人で十分とか、8人でもう良い、などと考えていたら生まれていないのです。他国に移るということも勇気がいります。ですから聖書は、在留異邦人を大事にしなさい、と命じるのです。

 カレブは、ここで85歳になっていますが、最難関と思われるアナク人(巨人族)のいるヘブロンの占有を宣言します。自分が踏み行く所は、神が必ず自分のものにしてくださると信じているからです。最高齢にして最難関の道を平然と生きるカレブの信仰は、すごいものです。

 「どのようになることも神に委ねている。」などという人がいますが、信仰を理解していません。それは勇気をもって、祝福の道を勝ち取ろうとする気持ちがなくて、ただ怠惰に生きているのに過ぎません。信仰というのは、祝福を獲得しようとするものなのです。ただ、それは成功思考とは違います。自分が幸せになるという意図ではなく、神に従い通して、神の御旨を全うしようという強い意志なのです。

 そういう面で、信仰者にとって、なすべきことを神に祈り求めることは、必須なことです。カレブは、人々が恐れていることに気がついて、自ら巨人族の根城に乗り込もうとしたのです。あなたは、何を恐れているのでしょうか。

 病気でしょうか。経済的な破局でしょうか。失敗でしょうか。不名誉でしょうか。未知のことでしょうか。

 私たちは、何よりも神を恐れなければなりません。自分の人生の先にある永遠の裁きと報いを考えているのでしょうか。

 ある職場で職員が辞めました。仕事を人に任せることなく、自分で抱え、「忙しい、大変だ。」と文句を言い続けて他の人にも干渉を続けていた人です。この人が辞めて、職場はホッとして仕事は楽になり楽しくなりました。不信仰というのは、否定的ということです。ある人は、良い仕事を提供したのですが、リスクばかりを考えて、勝手に怒り、文句を言ってきました。否定的な人は、自らのチャンスを失うだけでなく、まさに墓穴を掘ることになります。

 「神が私達の味方であるならば、誰が私達に敵対できるでしょう。」(ローマ8・31)とあるのに、勝手に否定的なことを考える人々がいるのです。そういう人々からは、友も親しい人も去って行き、独りよがりで孤独な人生が残るのです。

 母のことを想い出すと涙が出てきます。まさに人の為に生き、それ故に否定的なことを言わない人でした。自分の労力、経済、働き、そしていのちを人のために注ぐならば、その人は多くの報いを受けるでしょう。人々を救いに導くために、私たちはいのちを注がなければなりません。与えられた永遠のいのちを自分のものとした者はそれを失い、神のためにそれを注いだ者は、それを自分のものとするのです(マタイ10・39)。

 先週は、過労で血圧が低くなり動けなくなることがありました。心臓も弱ったような気がします。しかし、私の内にある喜びは、そういう時に大きなものとなります。心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして主を愛し、隣人のために生きている実感があります。いつ召されても悔いなし、と思いがあります。

 実際には、まだ為さなければならないことは多くあるので、23日の祝賀会と29日の支払の後は、少し静養するつもりです。85歳のカレブまで、あと30年。まだまだ長い人生を神に仕えていかなければなりません。信仰生活も33年ですが、同じ長さがあるのですから、なんと多くのことができることでしょうか。

 100歳を超えるまで主に仕えて過ごした弓山喜代馬師に習いたいと願っております。カレブは言います。「今も壮健です。」(ヨシュア14・11)。なんと、すばらしい神の祝福でしょう。健康管理にも勤しみ、自らの使命を全うしていかなければなりません。

 ご高齢のみなさん。余生という言葉は、キリスト教的ではありません。ペンテコステのクリスチャン老人は、「夢を見」、若い人は「幻を見る。」(ヨエル2・28)のです。



9月28日 回り道も主の道。   申命記218
新改訳 申 2:1-8

2:1
それから、私たちは向きを変え、主が私に告げられたように、葦の海への道を荒野に向かって旅立って、その後、長らくセイル山のまわりを回っていた。

2:2
主は私にこう仰せられた。

2:3
「あなたがたは長らくこの山のまわりを回っていたが、北のほうに向かって行け。

2:4
民に命じてこう言え。あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子孫、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。あなたがたは、十分に注意せよ。

2:5
彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからである。

2:6
食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければならない。

2:7
事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」

2:8
それで私たちは、セイルに住むエサウの子孫である私たちの同族から離れ、アラバへの道から離れ、エラテからも、またエツヨン・ゲベルからも離れて進んで行った。そして、私たちはモアブの荒野への道を進んで行った。


 聖書の注釈書を読むと、彼らはこういう罪を犯し、不従順だったからこういうことになったのだ、と戒める説明が殆どです。同じような調子で、礼拝で説教を説いたら誰も、その前に立ちおおせないと思われます。聖書には、はっきりと「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3・10)とあるのに、義人を作り出そうとしたら、無駄なことですが、どうも日本人クリスチャンは、義人になろうとする傾向が強いように思われます。

 「人が義とされるのは、信仰による」(ローマ3・28)のですから、大事なことは神を信じることであって、正しい人になることではないのです。先日、従業員がミスをしました。誰でもミスはするものですから、謝れば良いのですが、何故自分がミスをしたのか、一生懸命考え、そしてその報告もしないでいるうちに他の者がミスを発見しました。そうすると始末書ものですが、その始末書を論理的に書こうとして書けないというのです。日本の現代教育の結果だと思います。

 今日の聖句は、1章の悔い改めにも関わらず、荒野を彷徨うことになったイスラエルの民の迂回の長い道のりが記されています。清め派の解釈を読むと、彼らは悔い改めが真摯でなかったから彷徨うことになったとありますが、何か失敗をすると「本気で謝れ、本当に反省したら、2度と同じ過ちはしないものだ。」などと言われます。そんなことは私に関しては大変なことになってしまいます。

 だれでも罪を犯し、失敗をします。大事なことは、自分がそういう罪深い存在であるという自覚であり、他人もそういう弱い存在であることを認めて赦すこと、とりなすことであります。特に、年老いた親に向かって厳しい要求をすることは、神に間違いなく裁かれることであります。高齢者に対して、障害者に対して、自分よりも立場の弱い者に対して辛く対応することを神は許しません。

 信仰とは、正しい者になることではありません。神を信じ、神に従い、人々を愛することであります。人々と仲良く交流できない信仰者など偽善であります。「クリスチャンにならなければ、祝福はない。」などと人を裁く者にこそ祝福はありません。誰に対しても優しく、求める者には与え、自分の思い通りにならないことを、いつも許容することが大事です。

 教会は20年間の賃貸生活で数千万円の家賃を払いました。信仰生活は効率や理性で営むものではありません。その間、まさに荒野の苦しみがあり、耐え難い諸問題がありました。そんなことは、十字架に掛かった主イエスキリストが福音であることを伝えるためには、当然なことであります。もし、教会と牧師が労苦を惜しんだら、この世において何の存在意義がありましょう。

 クリニックも21年間の賃貸があり、数千万円の家賃と栄養医学に対する迫害や多くの労苦がありました。だからこそ、家内も私も力をつけることができたのです。幼子に高価なコンピューターを与えても用いることはできません。社長室に高価な絵を飾りましたが、その森の流れに咲く一輪の花の美しさに感動するのは、これまでの労苦があったからであります。人間というのは、決して苦難なしに神の器になることはないのであります。

 イスラエルの人々は、荒野を40年間彷徨いました。当時では、一人の人生が終わる長さであり、耐えられないものであったと思います。我が家を購入したのも、千葉移住後20年のことでした。3DK50uの部屋に一家7人が住んだこともあります。恵みにより半分の20年で済みましたが、其々の20年がなければ、今の私はありません。7節を見てください。

@ あなたのした全てのことを祝福した。

A 広大な荒野の旅を見守ってくださった。

B 主は40年の間、いつも友におられた。

C あなたは何ひとつ、欠けたものはなかった。

 千葉で開拓を始めた25年前、私は自分勝手な望みをし、思い通りになることを願い、神が私を特別扱いしてくださると信じておりました。他人を思い通りに動かそうとし、人を変わることを祈っておりました。断食の祈りをしても、徹夜の祈りをしても神は動いてはくださいませんでした。神にも人にも苛立っておりました。失望は、私の思いを乱し、神経を苛立たせ、身体を損ないました。

 十字架のキリスト・イエスの姿を幻で見て、自我を神に献げる悔い改めをしてからも、なかなかそうはいきません。苛立ち不満を言い、苦しみや戦いに葛藤してきました。そして、うまくいくことを全て諦め、神に委ねることができるようになってから、突然祝福が大雨のように降り注ぐようになりました。

 ある人が、「祝福を確信していました。」と言ってくださいましたが、即座に私は否定しました。私の前には、祝福と呪いが前に用意されています。「もし、神の掟に従って歩み、神の命令を守り行うなら、祝福と恵みがあります。」「もし、神に聞き従わず、その命令を行わないなら、祝福はなくなります。」(レビ記26・3-18)。自分とその働きが特別に祝福されるなどと思ったとたんに、神の祝福を失います。

 大きなビルを維持するのだからと働くことで収入を得ようとしてはいけません。私たちが夫婦仲良く散歩をし、楽しく明るく過ごしていることを祝辞で数人の方が話してくださいました。「与えなさい。そうすれば与えられます。」(ルカ6・38)を実践している人は殆どいません。私たちは、救いを得て以来それを実践してきました。神は真実なお方です。神に従う者を祝福してやみません。

 信仰者に遠回りなどありません。遠く、険しく見えても、それは主の道、祝福の道です。疑うことなく、主に従って生きるべきです。