4月6日 神を聖として従う。  民数記20112 

新改訳 民 20:1-12

20:1
イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。

20:2
ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。

20:3
民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。

20:4
なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。

20:5
なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」

20:6
モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現われた。

20:7
主はモーセに告げて仰せられた。

20:8
「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」

20:9
そこでモーセは主が彼に命じられたとおりに主の前から杖を取った。

20:10
そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」

20:11
モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。

20:12
しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」



 荒野を40年間もさまようのですから水が無くなって当然です。旅の最初の頃、水がないのでモーセに逆らい「なぜ、主を試みるのですか」(出エジプト17・2)と怒られています。モーセは岩を打つと、そこから水が湧き出ました。

 旅も終りに近づいている頃、また水がなくなったので、民はつぶやきました。コラの反逆の時に死んだ人々と死んでいたなら良かった、などと言うのです。つぶやくということは、神を信じない人々の特徴です。「死んでいたら良かった。」などは、永遠のいのちや永遠の滅びということを知らない人々であって、神の裁きを知らないから、そんなことを言えるのです。彼らは日夜、神によって食糧や水を超自然的に与えられていながら、「神を信じる」ことができなかったのです。

 先週、クリニックのためにあるビルを競売で買おうとしました。不動産屋は間違いない入札価格を教えてくれましたが、私たちは信仰者として「間違いない金額」ということに不安を覚えました。金額で間違いないと言われることをしたら、神以外のものに信頼してしまうことになると感じました。経済的にも無理がないように、入札の安全価格を下回る額で入札しようと話し合いました。実際は、競売取り消しになったのですが、ともかく金よりも神を信じることを優先することを選んだので、心理的にはホッとしました。

 私たちは、うまくいかなくてもつぶやくことはありません。人々が批判したり攻撃しても、最近は怒ることもありません。ただ、あまり疲れると愚痴がでます。忙しすぎると、平安を失うことがあります。人生は、思い通りにリラックスして生きられるものでもありません。しかし、だからといって、愚痴を言ったり、怒ったりしたら、取り返しのつかない過ちを犯すことになります。

 モーセとアロンの姉、ミリヤムが死にました。その時に、人々が反逆したのです。肉親の死で悲しみがあふれ、動揺している時ですから、モーセもアロンもまいったようです。そして、切れてしまいました。人々を集めて岩に命じれば水が出ると神に言われたのに、10節のような言葉を興奮して言ってしまったのです。「逆らう者たちよ」これは、モーセに逆らうということを意味しています。「この岩から私たちが」と言っていますが、水を出すのは神であってモーセではありません。「岩に命じ」と言われたのを、「杖で岩を二度打った」のです。

 指導者というのは、興奮したり、怒ったりしてはいけないのです。先週、祭司は咎を負うから、人々を罰することができると、お話しましたが、それはあくまで指導者として罰するということであって、感情的に怒ったら、祭司自身が咎を負ってしまうのです。

 2回前の会堂の献堂式を故弓山名誉総理を迎えてした朝に、家内の父が死にました。朝の内に鹿嶋の実家を往復し、何事も言わずに献堂式を済ませ、式後に弓山師に理由を告げて、実家に駆けつけました。昨年は全国聖会の直前に私の母が死にましたが、葬儀を済ませて何も言わずに聖会の奉仕をしました。

牧師になって丁度25年ですが、大事な時に忙しさが重なることに慣れてしまいました。大事な決断を鈍くさせるようなサタンの攻撃かとも思います。しかし、決断は自分がすると思うと興奮してしまいます。

 大事な時に失敗したり、興奮してしまう人がいます。うまくやろうとか、自分の力を見せようなどと考えてはいけません。ゴルフというのは、止まっているボールを打つのですが、力むとうまく当たらないのです。熟練のプロゴルファーでさえ、ミスをするのですから面白いものです。

 父親、母親、指導者、誰でも人を指導する立場の人は、他の人を思い通りに動かそうとしてはなりません。また、自分が問題を解決するのだ、などと思いあがってはなりません。今回のビルは本当に欲しかったのですが、神の祝福が大事なのであって、建物の良し悪しではありません。自分としては興奮せずに対処できたので感謝しています。神は良いものを私たちのために備えてくださいます。

 神を聖とするとは、神が俗世間から、そしてあなたの利害や思惑から超越しているということです。自分の思い通りに神がしてくださる、などと勝手なことを考え、祈ってはなりません。神が私の最善をしてくださるのだから、神に委ねて自分にできる最善のことをすればよいのです。

 ですから人に要求し、不満を持つ人は、神が聖であることを理解していないのです。「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(へブル12・14)とあるように、自分の利害から超越しないと、神の導きを悟ることができないのです。

 そういう面で、クリスチャンは人の目を気にしてもいけません。人からよく見られたいなどと考えると、信仰者としての判断や行動が鈍るのです。また、神を畏れるとは、神の目をびくびくと恐れるということではありません。神が、義であり、愛であり、聖であるからこそ、神の人格に受け入れられ喜ばれるような生き方をしなければならないのです。

 人に躓いても、人に要求しても、人の目を気にしても、聖ではありません。

 自分の思い通りになったら、堕落します。成功しようと努力すると、神の祝福を忘れます。大事なことは、自らを聖として、神に委ねて、最善を尽くしていくことです。イエス様に求め、信じ従う者には、その人から活ける水の川が流れ出てきます。(ヨハネ7・38)。神の力によって生きていきましょう。


4月13日 仰ぎ見れば生きる。  民数記2149 

新改訳 民 21:4-9

21:4
彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、

21:5
民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」

21:6
そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。

21:7
民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。

21:8
すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」

21:9
モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。


大祭司アロンが死んだので、30日間、喪に服して人々は悲しみました。その後、カナン人の王が戦いを仕掛けてきました。3節にあるホルマという場所は約40年前に偵察の否定的な報告を信じたことにより40年の放浪を受けて敗北したところです(14・45)。

 しかし、ここでは彼らは主に誓願をし、神が渡してくださるならば、と祈って大勝利しました。ところが、その後もエドムの地を迂回してカナンから離れていきます。それで、またもや神とモーセに逆らいます。

先週、聖となる、ということを説明して、自分の感情や利益から超越しないと、神の御心の中を歩むことはできないと語りました。何度も申し上げているように、私は日本人の罪意識の欠如、平気で犯罪を犯すことを警告しています。また、日本人ばかりでなく、現代人の責任感のなさも驚くばかりです。

聖書に書いてある掟は、神を信じ知っているばかりでなく、全ての人に適用される神の命令であって、それを破る者は、罰を受けるということを知っていなければなりません。

「自分の父や母を侮辱する者は呪われる。」「在留異国人、みなしご、やもめの権利を侵す者は呪われる。」「彫像や鋳造を造り、これをひそかに安置する者は呪われる。」(申命記27章)主の御声に聞き従い、命令を守り行うなら、どこにあっても祝福される。

このような命令を堅く守っていなければなりません。親や上司、指導者に対して不満をぶつける人は、神に対しても不満を言うのです。すべてに感謝できていないならば、悔い改めなければなりません。祝福の法則というのは、そういうものです。信仰者は、理不尽なことを決してしてはならないのです。聖書を知っているからと言って、聖書を用いて人を避難してはなりません。人が正しくないことを裁いてはならないのです。

聖められるということは、悪いことをしない、ということではなく、自分の価値判断を超越して神の視点を与えられるということです。人の罪や正しくない人に対して、神の目線で対応し、真理を示していくことが大事です。それらは、祈りと聖書の御ことばから形成されていきます。

さて、イスラエルの人々は、再びつぶやきました。荒野において毎日マナが下りてきてウズラが飛んでくる。奇跡の毎日ですから、なんで神を信じないのだろうと思うかもしれませんが、奇跡も毎日続くと奇跡とは思えなくなるものです。

私は、立派な信仰者が年月の中で堕落していくのを見ています。厳しい言葉ですが、人間は苦労の積み重ねの中で、自分の足跡を確認したくなり、財産を形成したくなるものです。報われることのない人生ほど虚しく感じるものはありません。献身というのは、自分の報いを放棄したことですが、難しいものです。

 牧師の仕事というのは、なかなか報われないものです。教会がある程度形成されるまでも大変ですが、教区や教団そして超教派の働きは奉仕と言われるように、報いがなく苦労は多いので、最近やり手がありません。昔は報いがないからこそ奉仕であり、神の祝福があると信じられていたのですが、今は効率の時代であり、経済も優先するので報いがないとやり手がないのが当然です。教会の奉仕や献金も同様で、効果を求める人がいるようです。神は、人に見せたり、報いを求める人々には沈黙します。

 私たち夫婦は、収入の十分の一どころではなく、教会外にも多くの献金をしています。自分と利益のつながらないものに献金することが大事だと信じているからです。そして、神の預けられた富や能力を人々に注ぐことが神に仕えることだと信じているからです。それを報いを求めないで行い続けると、神は私達にその原資を豊かに与えてくださいます。普通の人では考えらえない額を捧げていますが、それを計算したり、効率を考えてはいません。しかし、捧げることをやめたら、与えられることもなくなると知っています。

 つぶやく人々に猛毒の蛇が送られました。確かに、不平を言う人々には、悪事や不運が重なります。それは、神の祝福が途絶えるからです。神が守りの手を抑えるならば、サタンの攻撃が始まるのです。ですから、決してつぶやいてはならないのです。

 彼らは、暴れまわる猛毒の蛇を恐れ、悔い改めます。猛毒の蛇だから悔い改めたのですが、実際には多くの試練でも悔い改めない人々が多くいます。罪による災いであることに気がつかないのです。長く罪を犯していて、不平ばかり言っていると悔い改めることもできなくなるのです。

 主は、その猛毒の蛇を青銅で作って旗竿の上にあげさせました。それは、猛毒の蛇は自分たちの罪の象徴であることを認めさせるためでした。そして、その罪が、そのような災いをもたらしたことを認め、罰を受けたことを悟った者が、悔い改めることができるのです。災いがあっても、自分の責任を認めず、言い訳を行ったり、人を責めたり、却って怒ったりする人がいます。彼らは滅びていくのです。大事なことは、助けを求めることです。救いを信じることです。

 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子によって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3・14)とありますが、イエス様の十字架は、私たち自身の罪の結果なのです。私たちの罪深さは、猛毒の蛇にかまれて死の痛みをするようなもので、十字架刑の罰を受けて当然なものなのです。これを受け入れて、救いを求める者のみが、救われるのです。


4月20日 呪う者は呪われる。  民数記22212

新改訳 民22:3 モアブはイスラエルの民が多数であったので非常に恐れた。それでモアブはイスラエル人に恐怖をいだいた。

22:4
そこでモアブはミデヤンの長老たちに言った。「今、この集団は、牛が野の青草をなめ尽くすように、私たちの回りのすべてのものをなめ尽くそうとしている。」ツィポルの子バラクは当時、モアブの王であった。

22:5
そこで彼は、同族の国にあるユーフラテス河畔のペトルにいるベオルの子バラムを招こうとして使者たちを遣わして、言わせた。「今ここに、一つの民がエジプトから出て来ている。今や、彼らは地の面をおおって、私のすぐそばにとどまっている。

22:6
どうかいま来て、私のためにこの民をのろってもらいたい。この民は私より強い。そうしてくれれば、たぶん私は彼らを打って、この地から追い出すことができよう。私は、あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることを知っている。」

22:7
占いに通じているモアブの長老たちとミデヤンの長老たちとは、バラムのところに行き、彼にバラクのことづけを告げた。

22:8
するとバラムは彼らに言った。「今夜はここに泊まりなさい。主が私に告げられるとおりのことをあなたがたに答えましょう。」そこでモアブのつかさたちはバラムのもとにとどまった。

22:9
神はバラムのところに来て言われた。「あなたといっしょにいるこの者たちは何者か。」

22:10
バラムは神に申し上げた。「モアブの王ツィポルの子バラクが、私のところに使いをよこしました。

22:11
『今ここに、エジプトから出て来た民がいて、地の面をおおっている。いま来て、私のためにこの民をのろってくれ。そうしたら、たぶん私は彼らと戦って、追い出すことができよう。』」

22:12
神はバラムに言われた。「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」


 いろいろなことがありながらも、主の導きは強く、21章にあるようにエモリ人を打ち破り、死海の東の地域を占領しました。そして、いよいよヨルダン川の対岸にエリコを望むモアブの対岸に着いたのです。人生、大事なことは何があろうと決して失望せずに歩み続けることです。ところが、苦労の甲斐もあって、いよいよカナンに入るかと思われる時に、周囲では思わぬことがありました。

 モアブの王、バラクはイスラエル民族が多数であり、奇跡的な神に守られた旅をしているのを知り非常に恐れます。そして、正面から戦闘を仕掛けても勝てないとみるや計略を図ります。王として、その判断に誤りはありません。占い師であり、預言者であるバラムにイスラエルの民を呪わせようとするのです。ここで、バラクは「あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われる」とバラムの超能力を指摘していますが、これは誤解です。

 人には、人や物を祝福する究極的な権威も能力もありません。神の代官であって、神の祝福を流すことができるのです。神は権威を通して人を祝福するというのは奥義です。ですから、聖書によれば、妻は夫を通して神から祝福され、子供は親を通して祝福され、社会においては上司や権威を通して祝福されるのです。これを理解していない人が、不満や愚痴をこぼすのです。

 私たちは、「労苦が人を富ませるのではなく、神の祝福が人を富ませる。」(箴言10・22)の奥義を強調していますが、神の祝福を得るためには、やはりこの権威の法則を用いなければならないのです。親や夫、上司を喜ばせることを当たり前のことと思っていない人が、愚痴や不満を言うのです。そういう人がご褒美をもらうことは難しいのです。

 人には能力もあり、主義主張も違います。だからこそ、その正当性が従順によって確かめられるのです。従順でない人の主義主張は自己中心なのです。ですから、どんな理由があれ、「人を祝福する者は、神によって祝福され、人を呪う者は、神に嫌われるのです。」

 バラムは、このことを十分に理解しており、神が祝福している者を呪うことなどできないことを知っておりました(12節)。ところが、バラクが財宝と共に高官たちをバラムの元に遣わすと、次第にバラムは惑わされていきます。18節に、「たとい私に銀や金の満ちた家をくれても」という言葉を言っていますが、これは密かな要求でしょう。そして、19節のように、今晩泊まっていきなさいと、妥協を示唆しているのです。

 神は、バラムが惑わされてしまったことを悟り、彼らと共に行って良いと告げます。しかし、ロバに乗ったバラムを主の使いが滅ぼそうとするのです。ロバが言ったようにして神はバラムに警告しますが、既に金に目がくらんだバラムには効きません。「もし、神のお気に召さなければ」などと馬鹿なことを答えて、神をもご機嫌を伺って、都合よく対応させようとするのです。

 私たちは自分の方便・詭弁など神に通じるはずがないことを悟っていなければなりません。「神の愚かさは人よりも賢く」(Tコリント1・25)、「神は知恵あるものの知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを虚しくする。」(同1・19)。

 バラムにとっては、一世一代の誉れでしょう。高官が迎えに来て財宝を約束し、バラク王が迎えに国境まで出てくるのですから(民数記22・36)。そして、彼らの見守る前で、多くの高価な犠牲を献げます。しかし、結局、本当のことしか言えません。

「神が呪わない者を、私がどうして呪えようか。」(23・8)。

「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。・・・見よ、祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれを覆すことはできない。」(23・19,20

とうとう、バラク王は呪えと言ったのに祝福するので、もうするな、と命じます(23・25)。そして場所を代えるのですが、「バラムはイスラエルを祝福することが主の御心にかなうのを見、これまでのようにまじないを求めに行くことをせず、イスラエルを見ると「神の霊が彼の上に臨んだ」(24・1)。

「イスラエルを祝福する者は祝福され、あなたを呪う者は呪われる。」(9)。実は、この聖句は、現代の世界でも適用される法則となっているのです。中東戦争もまもなく拡大していくでしょう。イスラエルの建国後、この法則は現実となって、世界を動かしているのです。聖書信仰というのは、単なる個人的なものではありません。歴史や時代、そして国家をも動かしているのです。神は、イスラエルという民族を特別に愛し、その民族を通して自己啓示をされるのです。

同様に、神はクリスチャンを神の子として特別に扱っておられるのです。私たちを愛し、私たちを祝福し、私たちを通して自己啓示をしようとされるのです。ところが、私たちは、イスラエル民族ほど、自己意識が高くなく、神の祝福を受けようとしていないのです。

私達にとって、神の祝福を最優先にするべきです。聖霊による小さな声を大事にして、真実に生き、人を愛し、神に仕えて、なすべきことを果たしていくのです。人の声や権力、富や名誉によって左右されてはいけません。


4月27日 石は取りのけられていた。  マルコ1614節  上原和雄師

新改訳 マコ 16:1-4

16:1
さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。

16:2
そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。

16:3
彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。

16:4
ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。


5月4日 不倫は家庭と社会を滅ぼす。  民数記25118

新改訳 民 25:1-8 25:16-19

25:1
イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。

25:2
娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。

25:3
こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。

25:4
主はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕えて、白日のもとに彼らを主の前でさらし者にせよ。主の燃える怒りはイスラエルから離れ去ろう。」

25:5
そこでモーセはイスラエルのさばきつかさたちに言った。「あなたがたは、おのおの自分の配下のバアル・ペオルを慕った者たちを殺せ。」

25:6
モーセとイスラエル人の全会衆が会見の天幕の入口で泣いていると、彼らの目の前に、ひとりのイスラエル人が、その兄弟たちのところにひとりのミデヤン人の女を連れてやって来た。

25:7
祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、手に槍を取り、

25:8
そのイスラエル人のあとを追ってテントの奥の部屋にはいり、イスラエル人とその女とをふたりとも、腹を刺し通して殺した。するとイスラエル人への神罰がやんだ。

25:16
主はモーセに告げて仰せられた。

25:17
「ミデヤン人を襲い、彼らを打て。

25:18
彼らは巧妙にたくらんだたくらみで、あなたがたを襲ってペオルの事件を引き起こし、ペオルの事件の神罰の日に殺された彼らの同族の女、ミデヤンの族長の娘コズビの事件を引き起こしたからだ。」



 現代社会の性的退廃ぶりは、ひどいものです。「遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。『ふたりの者は一心同体となる』と言われているからです。」(Tコリント6・16)とあるように、不倫や姦淫を犯すと、その人は情緒的に不安定になります。

 逆に、夫婦の間で性的な交わりがなければ、一心同体となることができず、夫婦としての一致が難しくなります。結婚というのは神の奥義であり、夫婦の関係以外で二人の人が仲むつまじく、くっついて一緒に行動するということはありません。もし、あったとしたら、異常であり、友人であっても家族であっても適切なものではありません。

 性というものは、神が定めたものですから健全であり、すばらしいものです。性欲を通して、人は一人の人と結びつき、依存し、愛しあい、助け合って、生活を営むことができるのです。ところが、この欲望を罪によって満たそうとすると、破綻が生じます。結婚以外では、自分を相手に献げ会い、喜ばせあうということができないからです。

 それならば、一緒に生活をすれば良いかというと、権利も義務も子供も共有していないために、やはり自己中心なものとなってしまいます。結婚は、自分の弱さも強さもすべて伴侶にさらけ出して、隠すことなく、委ねなければ、全うできません。そして、自分のすべてを知られている、隠すことがない、という平安が結婚した者の情緒を安定させます。

 結婚したのに、不満を持っていたり、気を使ったり、赦しあえないのは、伴侶に身を委ねていないからです。或いは、委ねさせない頑なさを持っているからです。夫婦は、一体となるために結婚したのであり、それができないのは罪があるからです。信仰生活とは、礼拝を守るとか、伝道するとか、奉仕をするとかいうことよりも、罪から脱却し、清められた生活を送ることが第一のことです。ですから、夫婦仲が良く一体となって生活をすることが、全ての信仰者の第一に規範とするべきことで、独身者はそういう伴侶を求めるのが大事です。

 そういう面で、結婚することを願わなかったり、二の次にする人は、不健全です。結婚している人も、仕事を第一にしたり、趣味を優先する人は、罪に惑わされています。

 さて、イスラエルの人々に魅惑的なモアブとミデヤンの娘たちが誘惑をしてきました。多くの男性が誘惑されて、食事を共にし、不倫を犯して、不道徳な農耕の神バアルを礼拝してしまったのです。その者たちを殺せと神が言われたその時に、シメオンの族長の長男ジムリが、ミデヤンの族長の娘コズピを宿営の中の自らの天幕に連れて、あいびきをしようとしていました。大祭司エルアザルの子ピネハスは直ちに彼らを追いかけ、槍をもって二人を刺し貫きました。

 姦淫や不倫を犯した者を殺せ、とは乱暴であり、無謀であると思うかもしれません。それは、現代のヒューマニズムに惑わされたか、自分も不倫をするかもしれないと思っているからかもしれません。

 不倫や姦淫は、その人の人生と家庭を破壊します。殺人を犯すことと同程度の重大犯罪です。「日本は性的には大らかな国だ。」などという人は、自らの犯した罪を軽んじています。「不遇な女性を助けるために。」などと性風俗を正当化する人は、女性を馬鹿にしています。性というものが、どれほど人格的なものであり、それを商売とすることが、人格の破壊になることを理解していません。

 18節を読むと、これらはイスラエル人を陥れようとしたモアブとミデヤンの罠であったことがわかります。国を崩壊させるのは、性的な堕落です。現代社会の多くの犯罪が性的なことと関係しています。若者たちは、性的に堕落して、人格を破壊させています。

 妻が買い物とか、旅行とか、趣味とか、スターとかに夢中になったら、夫との関係がうまくいっていないのです。夫が、休みを取らず仕事をしていたり、家でテレビや新聞・雑誌を見るばかりであったり、一人で趣味に夢中になったら、怪しいのです。

 夫婦で趣味や考え方が違う、という人が多くいます。でも、夫婦として一緒に過ごすことを優先したら、似てくるのです。似た者夫婦とは、似た者同士が結婚するのではなくて、仲が良いと似てくるのです。罪を犯さないために、心を尽くし、思いを尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、伴侶を愛しましょう。


5月11日 女性の権利と母の強さ。  民数記2659節、2718 
新改訳 民 26:59

26:59
アムラムの妻の名はヨケベデで、レビの娘であった。彼女はエジプトでレビに生まれた者であって、アムラムにアロンとモーセとその姉妹ミリヤムを産んだ。
新改訳 民 27:1-8

27:1
さて、ヨセフの子マナセの一族のツェロフハデの娘たち――ツェロフハデはヘフェルの子、ヘフェルはギルアデの子、ギルアデはマキルの子、マキルはマナセの子――が進み出た。娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。

27:2
彼女たちは、モーセと、祭司エルアザルと、族長たちと、全会衆との前、会見の天幕の入口に立って言った。

27:3
「私たちの父は荒野で死にました。彼はコラの仲間と一つになって主に逆らった仲間には加わっていませんでしたが、自分の罪によって死にました。彼には男の子がなかったのです。

27:4
男の子がなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか。私たちにも、父の兄弟たちの間で所有地を与えてください。」

27:5
そこでモーセは、彼女たちの訴えを、主の前に出した。

27:6
すると主はモーセに告げて仰せられた。

27:7
「ツェロフハデの娘たちの言い分は正しい。あなたは必ず彼女たちに、その父の兄弟たちの間で、相続の所有地を与えなければならない。彼女たちにその父の相続地を渡せ。

27:8
あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。人が死に、その人に男の子がないときは、あなたがたはその相続地を娘に渡しなさい。



 今日は教会発祥の日であるペンテコステの日ですが、それを確認しながらも、当教会では一般的に知られている母の日を優先して、既婚女性に日ごろの感謝を表したいと思います。そして、来週は、聖霊のバプテスマを求める待望会を持ちます。

 さて、26章の途中に突然、モーセとアロンとミリヤムの母ヨケベデの名前が載っています。このレビ族のアムラムと結婚した平凡な女性が歴史上非常に大きな働きをすることになります。そのことから、突然、忘れてはならないとして、ここに記述されたのかもしれません。

 出エジプト記1章と2章を読みますと、エジプトでへブル人の力が強大になったので、エジプトの王はへブル人の男の子は皆殺しにすることになったことが記されています。ところが、このヨケベデは、自分の子供が殺される運命にあることを認めずに何とか生きながらえさせようとします。3ヶ月間、隠しておくのですが、やはり隠しおおせないので、自分の手を離れてもこの子供を神の手に任せようとして、沈むことのない籠を作ってナイル川の川辺に置きます。

 出産直後の女性が、これらのことをやり遂げるのは大変なことだったと思います。昭二兄が生まれた時、父がしばらく家を留守にしたので母はそれを気に病み母乳が出なくなったそうです。それで、昭二兄は体重が増えず、大学病院で症例として教授に片手で挙げられて見せられたと母が嘆いていました。「昭二の身体が小さいのは、私のせいだ」と自分の労苦を嘆くこともなく、息子の身を案じていたのでした。ですから、昭二兄の結婚の時は、本当に喜んで、縁談を持ってきた私に「ありがとうね、ありがとうね。」とお礼を言っていたのを忘れることはできません。

1. ヨケベデは、殺されるような時に産むことになった子を不憫に思い、命がけで救おうとしたのでしょう。

2. 彼女にとって、論理的、状況的に息子を救う手段がないことは関係なく、ただ「絶対に救う」と決めていたのです。

3. 万事を尽くしてダメなときでも、神の超自然的救いを信じたのです。

4. 目を見開き、万事を尽くして神の救いの業に関わりたい、見届けたいと、ねがったのです。

 姉のミリヤムに籠を見守らせていると、エジプトの王女が水浴びに来て、その籠を見つけ、王女の庇護で育てられ、ヨケベデは乳母として、自分の子供を育てることができるようになりました。そして、モーセが愛情深い人となり、また王女の息子として知識と教養を身につけたのでした。

 神は、試練を祝福の道に変えます。私達にとって災いと思えることに、どのように対応するかで、祝福の道を歩むか、悲惨な道を歩むかが決まってしまうのです。同時代の多くの母親は、確かに息子を殺された不幸な母親になってしまったのです。信仰は、状況に左右されないものなのです。現代では、人々が情報や知識に振り回されています。大事なことは、それらに揺り動かされないで、却ってそれらを利用する強い信念と信仰です。

 ツェロフハデの娘たちも、強い信念を持っていました。当時の社会の決まりは、女性には財産権を与えない、というものでした。この5人の娘たちの親は、これで自分たちの財産はなくなり、系図は絶えるということを覚悟していたと思います。

現代でも、キリスト教の定着していない社会では、女性の権利は弱いものです。日本女性は献身的ですが、自分の権利と考え方をはっきり主張しないと、男性というものは勝手な存在ですから、犠牲になるだけです。意識的な犠牲というのは、信仰にとって大事なものですが、犠牲が相手の無理解や傲慢を助長するのであれば、意味のないものになってしまいます。

 また、ここでは、民数記ですから、実際にカナンの土地を所有したわけではありません。所有するにあたって、人数を確認する作業をしているのですが、これは信仰によって、あたかも自分の土地になったかのように手続きをしているのです。36章を読みますと、他の部族の者と結婚したらまずいと、規定が付け加えられているのですが、「彼女たちは、その心にかなう人に嫁いで良い。ただし、同じ部族でなければならない。」とあり、イスラエル民族における女性の地位の高さが充分に理解されます。

 私は、結婚28年ですが、夫婦で会話し、交流し、一緒に過ごしてみると、男性というのは勝手なものだと気がつくことが多くあります。他の夫婦の様子を見ながら、妻に対して失礼な言動が多く、その権利や趣味、考えを全く考慮していない男性が多いように思われます。

 妻を大事にしないと妻からも大事にされません。結局は、男性のほうの損失の方が大きいとおもいます。女性というのは、もともと献身的で、夫や子供のために自分を捧げています。それに報いていないと、逆襲にあうことになります。妻が夫を無視したら、もう家庭は成り立ちません。

 心から、皆さまご夫妻の祝福を祈ります。


5月18日 人の命の果てにあるもの。  民数記271221  

新改訳 民 27:12-23

27:12
ついで主はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。

27:13
それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる。

27:14
ツィンの荒野で会衆が争ったとき、あなたがたがわたしの命令に逆らい、その水のほとりで、彼らの目の前に、わたしを聖なる者としなかったからである。」これはツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のことである。

27:15
それでモーセは主に申し上げた。

27:16
「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、

27:17
彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立ってはいり、また彼らを連れ出し、彼らをはいらせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」

27:18
主はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。

27:19
彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。

27:20
あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。

27:21
彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために主の前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、はいらなければならない。」



 日本人は、能力が大事であって、その能力で金を稼げば、その人は偉い、すごい、とされているようです。しかし、聖書はそういう人を「愚か者、おまえの魂は今夜お前から取り去られる。」してさげすみます。「自分のために蓄えても、神の前に富まない者はこの通りです。」(ルカ12・21)。

 アバリム山脈の最高峰ネボ山に登り、モーセはこれからイスラエルの人々が入ろうとするカナンの肥沃な地を見渡します。殆どの註解者はこれを神の罰と見て、モーセは悲しんでいる、と解説します。そしてたった一つの罪でも犯してはならない、と警告します。

 私は、そうは思いません。パウロは、殉教を聖霊によって示された時、エペソの長老たちを呼んで「私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。」(使徒20・24.25)と語っています。

 人が、その生涯を神と共に歩み、充実したものと感じたならば、いつ天に召されても満足がいくのではないでしょうか。私も、忙しさは増すばかりで、疲れる歯茎から出血して血が止まらなくなって、口の中が血だらけになることが数回ありました。自分としては、非常に充実した生活を送れるようになり、この十年が働き盛りであると自覚しています。ただ、悔いのない人生を過ごしたという満足感があります。そして、いつ召されても、神に出会うことができるという確信があります。そして、今は、神の国を目指してひたむきに進んでいこうという思いが強くあります。

 いまだ罪は多く、未熟さは言いようもありません。しかし、神の人格とその思いを、神に仕えて過ごしてきた今、神が私の罪深さをとやかく言うようなお方でないことを充分知っております。

 「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2・20)とパウロは言いましたが十字架の業を確認した主の弟子は、もはや自分の罪深さなど眼中にないのです。ただ、神の業をしようと思う思いにあるのです。

 ネボ山からカナンを見下ろし眺めた時、モーセは充実感に満ちていたのではないでしょうか。ただ、自分の仕事の困難さを思い出した時、果たしてこの仕事を継ぐ者がいるのかどうか気になりました。人々が勝手なものであり、羊のようにさまようことを知っていました。そして、神に後継者を確認したのです。

 神は、後継者として、「神の霊の宿っている人」ヨシュアを指名しました。指導者に必要なものは神の霊に満たされていることです。どんな能力も聖霊に満たされていることとは、比べ物になりません。

 バプテスマのヨハネは聖霊に満たされていたからこそ、大胆雄々しかったのです。(ルカ1・15

 ペテロは、聖霊に満たされたからこそ、恐れや臆病がなくなり、大胆に国や宗教の指導者に警告をしたのです(使徒4・8)。

 ペテロの説教によって感動した人々が聖霊に満たされて、大胆に語ったのでリバイバルが起ったのです(使徒4・31)。

 ステパノは聖霊に満たされたので、死を恐れず、攻撃する者を祝福することができたのです(使徒7・55)。

 パウロは聖霊に満たされたので、悪を企む魔術師を罰することができたのです(使徒13・9)。

 弟子たちは、聖霊に満たされたので、伝道を続けたのです(使徒13・52)。

 聖霊のバプテスマは、求めるならば与えられます。ところが、すぐに与えられるとは限りません。方法や条件も明確ではなく、感情的になったらよいというわけでもないけれど、神に自我を明け渡さなければ、やはり難しいのです。

 さらに、聖霊に満たされるということは、人格的なことであり、信仰経験や成熟も必要とされると思います。ともかく、自分の判断や感情を優先している人が聖霊に満たされることはありません。

 幸せとは、何でしょう。

 人の地上における業は、三次元で測られるのではないでしょうか。一次元は能力ですが、二次元は愛情の深さ、三次元はその人自身の賜物を用いているかどうか、と考えてみました。能力がいくらあっても、愛が少ないと、その積は小さいものになってしまいます。能力があって愛があっても、自分の賜物と人格でないと、神に与えられた役割を果たしていないことになり、やはりその三次元値は小さいものとなってしまいます。

 自分の好きなことをしていては、神の業をすることはできません。

 先日、非常に忙しい日だったのですが、家内が出かけた後、料理をしようと昨日から剥いてあった野菜に気が付きました。思いあぐねた挙句、これはカレーの材料だろうと、片づけをしながらカレーを作りました。その日は神に祝されて非常にうまく行きました。聖霊に満たされる秘訣は、難しいことではありません。


6月1日 日々なだめの香りを献げる。  民数記28110
新改訳 民 28:1-10

28:1
主はモーセに告げて仰せられた。

28:2
「イスラエル人に命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしへのなだめのかおりの火によるささげ物として、わたしへの食物のささげ物を、定められた時に、気をつけてわたしにささげなければならない。

28:3
彼らに言え。これがあなたがたが主にささげる火によるささげ物である。一歳の傷のない雄の子羊を常供の全焼のいけにえとして、毎日二頭。

28:4
一頭の子羊を朝ささげ、他の一頭の子羊を夕暮れにささげなければならない。

28:5
穀物のささげ物としては、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパとする。

28:6
これはシナイ山で定められた常供の全焼のいけにえであって、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。

28:7
それにつく注ぎのささげ物は子羊一頭につき四分の一ヒンとする。聖所で、主への注ぎのささげ物として強い酒を注ぎなさい。

28:8
他の一頭の子羊は夕暮れにささげなければならない。これに朝の穀物のささげ物や、注ぎのささげ物と同じものを添えてささげなければならない。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。

28:9
安息日には、一歳の傷のない雄の子羊二頭と、穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の二エパと、それにつく注ぎのささげ物とする。

28:10
これは、常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えられる、安息日ごとの全焼のいけにえである。


 ポルトガルの世界アッセンブリー大会に参加してきました。基本的にカトリックの国なので、よくプロテスタントの教団がこのような大会を持てるまでに成長したなと感じ、日本の宗教事情とも似ているような感じがしました。英語も殆ど通じないので、日本だけが話せないのではないと安心したりしました。

 世界遺産を4つ訪れ、その3つが修道院でした。アルコバサの修道院を訪問した時、丁度なにかの儀式をやっており、子供たちも参加させている姿に感心し、儀式の伝承を通じて子供たちを宗教的にも教え育てているのを見ました。

 しかし、他の先生方と合流する当日、一人で地下鉄に乗ったとたんにスリに財布から現金だけを抜き取られ、あっという間の早業に驚き感心してしまったものです。そういえば、他の人は決してバッグを離さず、日本のように棚などはありません。隣のご老人からしっかりと注意されました。人々は、いつも緊張感の中にあり、決して居眠りなどしません。

 今日の聖句は、日々の神殿におけるささげ物の説明です。毎日、朝と夕に雄の子羊を全焼のいけにえとして捧げるという決まりです。それには、2.2リットルの小麦粉と920ccのオリーブオイルを混ぜて作られたパンと920ccのブドウ酒も添えられました。安息日には、同量が追加され、毎月一日には、更に多くの物がささげられなければなりませんでした。

 なぜ、このようなささげ物が神殿で捧げられなければならないのでしょうか。それは、神をなだめるためのものであると説明されています。イエス様は、「『私は憐れみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かしっていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。」(マタイ12・7)と言われています。つまり、この神殿における残酷かつ大量の犠牲は、人々が自らの罪深さを日々認めて生きるために義務化されたものなのです。

 ところが、多くの場合、信仰者となった者が、信仰を持たない人々の罪性や未熟さを批判し、責めてしまっているのです。聖書を読み、信仰を知り、罪というものを自覚した者が、却って人々の罪深さをも気がつくのです。ところが、そのような批判こそ罪の本性で、実は、そのような人々は罪を知っただけで罪から清められていないのです。

 毎日毎日、多くの犠牲を捧げなければならないほど、私たちは罪深い存在なのです。ポルトガルはカソリック国ですからキリストの受難像がよく飾られています。むごたらしいキリストの受難を日々見ながら、人間の罪性を認め合うのかもしれません。ポルトガルでは、盗まれる人が愚かだとされ、また人間とはそういうものだと、認識し合っているように思われます。

 他方、日本では、盗みなどしなくても、マナーが悪い、性格が悪い、などと大したことでないのに、批判され、悪口を言われます。旅行の帰りに日本航空に乗ると安心します。至れり尽くせりで、何をするにも頭を下げられます。でも、何でも頭を下げられ、感謝をされると変な気がします。自分が傲慢になっていくようで、「これは危ない。」と日本的な慇懃無礼」を警戒します。

 へブル書10章8節に、神は全焼のいけにえと罪のためのいけにえに満足されなかったとあります。罪のためのいけにえを捧げる者は、いけにえに手を置き、自らの罪がその動物に注がれることを願います。しかし、実際には、そのような罪責感を持つ人々はわずかで、平気で他の人を裁いているのです。これでは、神はその犠牲を罪の代償として受け入れることができません。捧げる者が罪を悔い改めていないのですから。

 そのように平気で人を裁き、自らの罪を認めない人間のために、父なる神は動物の犠牲では無理だと考えられ、子なる神キリストを遣わされたのです。「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とするでしょう。」(へブル9・14)。動物の犠牲では、効果がなく、人間が犠牲になっても、それはすべての人を救うものではない。それで、罪なき神の子が、一方的に救いを成就してくださったのです。

 つまり、「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物(ご自身)によって、永遠に全うされたのです。」(へブル10・14)。キリストの業は完全です。そうすると鍵は私たちの側にあります。

 「もし、私たちが、真理の知識を受けてのち、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」(へブル10・2629

 私たちは罪人なので、日々全焼のいけにえを捧げなければならない存在です。しかし、キリストはすでに救いの業を成就されたので、大事なことは、赦されたものとして生き、もはや意識的に罪を犯さないことです。そして、決して人を裁かないことです。

 教会はいのちあるものですから、いのちが無くなることも容易です。罪を赦すということは、罪を認めて赦しを願うからこそ可能であって、罪を悔い改めない者を赦すことはできないのです。罪を犯し続ける人は、教会に来ることができなくなります。祈ることもできなくなります。聖書を読むことは苦痛になるでしょう。そして、教会さえも批判し、世の人々と同じように生きていくのです。信仰者とは、たとえ、世の中がそのようであっても、自らは罪を悔い改めて、清めを求めて生きていく人です。


6月8日 労役をしない日を守る。  民数記29112節 
新改訳 民 29:1-12

29:1
第七月には、その月の一日にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたはどんな労役の仕事もしてはならない。これをあなたがたにとってラッパが吹き鳴らされる日としなければならない。

29:2
あなたがたは、主へのなだめのかおりとして、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の傷のない雄の子羊七頭をささげなさい。

29:3
それにつく穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパとする。

29:4
七頭の子羊には、一頭につき十分の一エパとする。

29:5
あなたがたの贖いのためには、罪のためのいけにえとして、雄やぎ一頭とする。

29:6
これらは、定めによる新月祭の全焼のいけにえとその穀物のささげ物、常供の全焼のいけにえとその穀物のささげ物、および、それにつく注ぎのささげ物、すなわち、なだめのかおりとしての主への火によるささげ物以外のものである。

29:7
この第七月の十日には、あなたがたは聖なる会合を開き、身を戒めなければならない。どんな仕事もしてはならない。

29:8
あなたがたは、主へのなだめのかおりとして、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭をささげなさい。これらはあなたがたにとって傷のないものでなければならない。

29:9
それにつく穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパとする。

29:10
七頭の子羊には、一頭につき十分の一エパとする。

29:11
罪のためのいけにえは雄やぎ一頭とする。これらは贖いのための罪のためのいけにえと、常供の全焼のいけにえ、それにつく穀物のささげ物と、これらにつく注ぎのささげ物以外のものである。

29:12
第七月の十五日には、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。あなたがたは七日間、主の祭りを祝いなさい。



 私は外国に行くのが好きで、いろいろと違いを考察してきます。ポルトガルの面白さは、経済活動が社会の中に浸透していない、ということです。スイミングに行くと、開いているのにまだだと言われ、帰ってきました。夕方行くと、コーチが水着も着ないで、太った女の子達に泳ぎ方を教えていましたが、全然うまくなっていません。ホテルの周囲には、若い男たちが座ってずっと話をしています。入国管理も3人がゆっくりと仕事をして1時間もかかりました。能率を感じず、成果も問われず、楽しく過ごしています。大会も8時からというのに、実際には8時半に始まり、現地の人が集まって来たのは9時過ぎです。礼拝が始まっているのに、会場係は知り合いと挨拶をして抱き合っています。全く日本的ではなく、非常に面白かった。そのくせ、スリの早技には驚きました。

 日本は、経済至上主義で日曜日も休まず夜遅くまで働き、一生懸命お金を貯め、几帳面に過ごしています。でも、その結果、家族関係は崩壊し、健康は損ない、国家財政は破綻し、社会保険も年金も保障されないものとなってきました。一生懸命働いた結果が、寂しく貧しく病気を恐れながら過ごす老後となってしまったのです。さらに、経済的繁栄に一丸となった結果は、社会の退廃であり、享楽と個人の孤立であります。助け合う家族もなく過ごす、孤独な人々は、お金がなければ、もはや生きていけなくなってしまったのです。

 聖書研修会で、優しさということを学びました。優しさということがサービスとなって、お金と関わってきてしまったのであるなら、真の優しさとは異なります。そもそも、優しさを含めた御霊の実は、他の人に要求するものではなく、自らの人格に実ることを願うものであります。そういうことが、どうして実らないで実が落ちてしまうのでしょうか。 

 梅雨と言いますから、梅が大きくなってきました。ところが、この雨が降らないで晴れた日が続くと梅の実が落ちてしまいますから、水をやるのを欠かすことはできません。裏の梨の木は、放っておいたら害虫がついて殆ど葉が枯れ果ててしまいました。新しく植えたみかんの木は、いつまでも葉がでません。根が弱いのでしょう。隣の柿は、すさまじく実をつけていて、よほど土が肥沃なのでしょう。

 つまり、実を実らすのは、本人の成熟に依存し、水や肥料や太陽も必要で、更に虫や病気から守られなければならないのです。私たちは、自らの人生の実りを願っているのでしょうか。

 今日の聖句は、毎週の安息の他に、第7の月(10月頃)の第一日、10日、15日から22日までは、どんな労役もしない、と書いてあるところです。旧約聖書の安息日は、土曜ですが、キリスト教では主の復活を記念して日曜日になりました。つまり、第7日ではなく、第一日になったわけです。それは、安息日が律法的な戒めの厳しい日であったことから解き放つ意味もあって、替えたわけです。

 ところが、現代では、日曜日の意味合いは殆ど経済生活の中でないがしろにされています。つまり、買い物をする日であり、寝ている日であり、遊ぶ日であります。しかし、この箇所は、聖なる会合を開け、とあります。第10の日は、身を戒め、とあります。果実もよく注意して世話をしなければ、落果してしまい、一年の成果を得ることができなくなります。

 私たちは、自らを吟味する時を持つ必要があるのです。失礼、時ではなく、日であり、期間です。その時、仕事をしてはならないのです。

 ある人は、言います。「そういう暇はない。金もない。」そういう人の成果は落果してしまいます。自分を点検、吟味しなければ、私たちは悔い改められないのです。

 ポルトガルは、クレジットカードの関係でインターネットが使えず、スリの恐れで夕方以降出かけず、一人で毎日ゆっくりと夜を過ごしました。本を読み、日記を書き、いろいろと自分の活動を吟味しました。木曜も、仕事をせず、家内とゆっくりと過ごします。仕事をしないからこそ、仕事を含めた自分を吟味できます。いつも、仕事をしている人の仕事ぶりは、横から見るとチェックがありません。反省がありません。ゆとりがありません。

 人生の実りとは、何でしょうか。聖書には、クリスチャンは「自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5・13)とあります。そして、「肉の願いは御霊に逆らい」とあり、だから御霊の実を実らすことができないのです。

 肉の行いは、明白であって、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、などです。「こんなことをしている者が、神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ5・21

 自らの行動をチェックしないで、働いてきても労苦は減らず、却って多くの問題を負うものとなってしまっているのです。さらに、神を信じ、クリスチャンになっても、このような安息を守り、自分を吟味しないならば、神の国に入ることができないような肉の者となってしまうのです。

 この世の仕事に一生懸命になり、教会から離れた人々のために、いつもとりなしをしています。しかし、ほとんどの人は、一度欲に引かれたら、もはや戻ることはありません。家庭を崩壊させ、健康を害し、そして、この世の人となって快楽の虜となります。

 安息日を過ごすことは、楽しいことです。そして、人世の喜びと意義、更に主にある恵みを覚えるのです。聖書を読み、自分を吟味してください。



6月15日 責任が問われる誓願。  民数記30111 

新改訳 民数記30:1 モーセはイスラエル人の諸部族のかしらたちに告げて言った。「これは主が命じられたことである。

30:2
人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。

30:3
もし女がまだ婚約していないおとめで、父の家にいて主に誓願をし、あるいは物断ちをする場合、

30:4
その父が彼女の誓願、あるいは、物断ちを聞いて、その父が彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて、有効としなければならない。

30:5
もし父がそれを聞いた日に彼女にそれを禁じるなら、彼女の誓願、または、物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に禁じるのであるから、主は彼女を赦される。

30:6
もし彼女が、自分の誓願、あるいは、物断ちをするのに無思慮に言ったことが、まだその身にかかっているうちにとつぐ場合、

30:7
夫がそれを聞き、聞いた日に彼女に何も言わなければ、彼女の誓願は有効である。彼女の物断ちも有効でなければならない。

30:8
もし彼女の夫がそれを聞いた日に彼女に禁じるなら、彼は、彼女がかけている誓願や、物断ちをするのに無思慮に言ったことを破棄することになる。そして主は彼女を赦される。

30:9
やもめや離婚された女の誓願で、物断ちをするものはすべて有効としなければならない。

30:10
もし女が夫の家で誓願をし、あるいは、誓って物断ちをする場合、

30:11
夫がそれを聞いて、彼女に何も言わず、しかも彼女に禁じないならば、彼女の誓願はすべて有効となる。彼女の物断ちもすべて有効としなければならない。

 人には、いろいろな願いがあり、願いや希望のない人は、信仰を持つことはできません。そういう面で、私は福音を伝えようとする時、その人がどのような価値観を持っており、どのような願いをもっているかを確認しようとします。最近は、希望というと、持っていない人が多く、願いというと、金が入るようにとか、車を買うとか、海外旅行へ行くとか、物質的なものが多いようです。

 私は、中学入学前の一二歳の時、泡のように消える人生は生きたくないと決心し、死ぬ時に自らの生涯を満足するような人生を送ることを願いました。そして、どのような恥や失敗も恐れない、と決心したのです。今から思えば、請願であり、その犠牲は恥を恐れないということでしょう。

 願いには、その願いの大きさに応じた犠牲を払うことが必要です。三〇〇円の宝くじを買って、3億円を当てようというのは、たとえ三千円買ったところで、十万分の一の対価であり、経費などもあるので1000万枚に一つが当たるのだそうです。十万枚(3000万円)買って当たる確率は5.7%だそうです。ところが、多くの人は、対価は少なくして大金を得ようとするのです。

 しかし、願いはあっても、希望がない人が多いのです。クリスチャンでも多くの人が希望をもっていません。確か、しばらく前に自分の希望を確立してその為に努力をしてください、と語ったことがありますが、どうでしょうか。先週のメッセージで「経済生活の中に惑わされないで、そこから離れ安息を持たなければ、自分の人生をチェックすることはできません」、と語りました。

 「幻がなければ民は堕落する。」(箴言29・18新共同訳)とあります。一生懸命働くことに意味があるわけではありません。自分の満足や人の称賛など、すぐになくなってしまいます。

 クリスチャンになってから、私の願いは少し修正されました。「人生は虚しくない、誠実な生き方は必ず神によって報われる」と確信し、「心を尽くし、思いを尽くし、地力を尽くして、神を愛し信じる人生を生きる」というものです。それは、私の生命の目的であり、それによって私には神が共にいて栄光を現してくださるのです。もし、私心を捨て、神のために生きるならば、何をしても祝福されると、信じたのです。

 これは、人生を掛けた誓願です。その犠牲は、自らの人生です。ですからいつでも死ぬ覚悟をしていなければなりません。恥も失敗も敵も試練も覚悟しなければなりません。ところが、これが難しくなってくるのを体験しています。

1. 請願を忘れるからです。  申命記23・21には誓願を果たさないと罪とされるとあります。これは、請願に神は必ず答えてくださる、という前提があるのです。誓願をやめるとすれば、罪にはなりませんが、祈りは誓願でもあります。自分が祈った願いを忘れる人が多いことに、驚いています。叶えられたことに感謝をしなければなりません。

2.犠牲の多さに困難を覚えるからです。  犠牲は年月でもあり、忍耐でも あり、責任を問われるものです。ですから責任を負えず、責任を負うことを知らない独身の女性は、父の了解の下でしか、請願を立てられないのです。

私は、夫として妻の願いを考慮しない男性が多いことを指摘します。ここでは夫が妻の誓願の有効性の鍵となることが記されています。だからといって、妻の権利を認めない夫は、最良の助け手となる妻を奴隷にしているのです。エペソ5章には、自分の妻のために自分を捧げ愛することが夫に命じられています。そういう愛情の中で、夫として家長として権利を行使することが、多くの夫婦において損なわれています。

3.神への請願と社会的な義務との相克に混乱する。 

 マタイ15・4-6は、夫や親に対する従順の義務は、請願よりも優先するとイエス様が言われています。宗教指導者は、神への請願は、両親を敬うことよりも大事だと言いがちなのですが、これは間違っているのです。つまり、神への誓願を忘れないということが大事で、相克するものがある時、神は融通を利かせてくださるのです。

 妻との交流の中で、女性には、このような決断力は難しいと思わせられています。それで、女性の請願は、夫や親との交流の中で保たれるべきだと思います。

4.請願を忘れた咎を負う。 15節に有効な請願を勝手に破棄すると咎を負う、とあります。

 私が牧師として、気になっているのは、祈ったのに、それなりの行動をしていない人々です。たとえば、自分の夫の救いを願うならば、もはや夫に対して不信仰な言動は取らず、救われないで過ごす日を仮定してはいけないのです。成功をねがっているのならば、自己卑下は決して言ってはならないのです。「あなたの信じたとおりになるように。」(マタイ8・13)とイエス様は言われるのです。

 信仰のない者に信仰者の思いや行動は理解できません。しかし、理解させようとしたり、同意できるような歩みは、神の御心に従い、信仰によって歩んでいるとは言えないものなのです。そして、請願に基づいた祝福の人生は、いかに努力しても得られない平安と喜びを伴っているのです。人生の成功が、神の祝福の結果でなければ、それは平安や喜びは伴わないのです。

 私自身は、貧しい草履職人の9人の末子で、教養も能力も環境もない普通以下の目立たない男の子でした。でも、神はあの12歳の請願を聞いていてくださったのだと確信しております。あなたの祈りも聞かれるのです。決して忘れてはいけません。



6月22日 殺戮を重ねるか赦しの人になるか。  民数記31112

新改訳 民 31:1-12

31:1
主はモーセに告げて仰せられた。

31:2
「ミデヤン人にイスラエル人の仇を報いよ。その後あなたは、あなたの民に加えられる。」

31:3
そこでモーセは民に告げて言った。「あなたがたのうち、男たちは、いくさのために武装しなさい。ミデヤン人を襲って、ミデヤン人に主の復讐をするためである。

31:4
イスラエルのすべての部族から、一部族ごとに千人ずつをいくさに送らなければならない。」

31:5
それで、イスラエルの分団から部族ごとに千人が割り当てられ、一万二千人がいくさのために武装された。

31:6
モーセは部族ごとに千人ずつをいくさに送った。祭司エルアザルの子ピネハスを、聖具と吹き鳴らすラッパをその手に持たせて、彼らとともにいくさに送った。

31:7
彼らは主がモーセに命じられたとおりに、ミデヤン人と戦って、その男子をすべて殺した。

31:8
彼らはその殺した者たちのほかに、ミデヤンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバの五人のミデヤンの王たちを殺した。彼らはベオルの子バラムを剣で殺した。

31:9
イスラエル人はミデヤン人の女、子どもをとりこにし、またその獣や、家畜や、その財産をことごとく奪い取り、

31:10
彼らの住んでいた町々や陣営を全部火で焼いた。

31:11
そして人も獣も、略奪したものや分捕ったものをすべて取り、

31:12
捕虜や分捕ったもの、略奪したものを携えて、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原の宿営にいるモーセと祭司エルアザルとイスラエル人の会衆のところに来た。



 今日の聖句は非常に語りづらいところです。何度も飛ばそうと思ったのですが、信仰は綺麗ごとでは済まない、と覚悟して準備を始めました。

イスラエルの敵であるミデヤン人を皆殺しにして、その財産を略奪したのです。それを、主が命じられたというのですから、福音を語るプロテスタントの牧師としては躊躇せざるをえないのです。

マタイ福音書5章には、「悪い者に手向かってはいけません。右の頬を打つ者には左の頬を向けなさい。下着を取ろうとする者には上着もやりなさい。」とあります。これが福音であり、語る者も聞く者も恵まれ、教えを喜びます。

日本人とアメリカ人と中国人の集団の討論をテレビで見たことがあります。中国人は、環境改善に最も責任があるのは、アメリカ人や日本人であって、先進国でない中国には責任がないという人が大半でした。アメリカ人は、多様な意見でしたが、あまり自国の責任を言いません。日本人は、殆ど日本に責任がると発言していました。すべての責任はないけれども、自らの責任を自覚することが大事であるという趣旨でした。途中まででしたが、それではどのようにするかという個人的な自覚はなく、国が責任を負うべき、というものだったと思います。

最近の韓国クリスチャンの日本伝道の熱心さは驚くばかりです。いろいろな教会や伝道団体が日本のリバイバルを願って、数億円規模の働きをしています。ムラサキスポーツの金山会長のバイタリティーも韓国人特有のものでした。講演後の会話で、韓国人は口論はすごいけれど、絶対に暴力を振るわない、と力説していました。日本人の戦争時の責任を何度も問うけれども、日本人を赦すとして日本伝道に一生懸命になります。

聖書の神は善悪、罪と義、信仰と不信仰のはっきりとした行動を要求しておられるのです。旧約の世界では、異教文化との折り合いはありえません。勝つか負けるか、であり、もしミデヤン人を生かしておいたら、再び好色の誘惑を仕掛けてバアル信仰に誘い出すに違いないのです。また、民族が混交したら、イスラエル民族の純粋性や選民性も損なわれるのです。歴史的には、このような聖絶という暴力的な行為を通して、選民としての自覚を与え、神信仰を徹底させたのです。

それでは、日本人は温厚であって、そのような戦いを好まず、残虐性を持っていないかというと決してそうではありません。今日は壮年の祝福礼拝ですから、壮年の弁護をします。男は勝手です。攻撃的です。乱暴で、女性や部下に服従を要求します。優秀な人間ほど、戦闘的です。若い時に温厚で、優しい男性で、成果を上げたり、成功した人を見たことはありません。

内村鑑三、賀川豊彦、弓山喜代馬という神の器も若い時は、神の教えに絶対服従で、人々にも大変厳しく怒ったようです。男の仕事というのは、一生懸命やれば、どうしても戦闘的になるのです。ところが、女性の権利が向上し、聖書の教えも広まって、優しさが大事な基準となってきました。

 昨日の結婚式の祝辞で、ある女性が、「私の主人は理不尽に私に優しい。だから、私も腹が立つことがあるのだけれど、優しく主人に対応することができる。」と言っていました。女性に、論理は通用しません(失礼)。優しいかどうか、喜ばすかどうか、命をかけて愛するかどうか、が大事です。そうしたら、自分を守ってくれる人のためなら、不合理であろうと献身してくれます。

 現代社会は、知識と知恵と合理性が中心です。ところが、そんなものは男社会の言い訳であり、女性には通じません。幸せそうな女性たちに共通していることは、夫が男らしく戦って生きて妻を心配させていないことです。そういう強さに裏付けられた優しさが、壮年たちに要求されることなのです。

 右の頬を打たれて左の頬を出すのは、よほど根性がなければできません。下着を取ろうと訴える者に、上着も持って行け、というのは些細なことに動じない度胸が必要です。世の中は、現代でも死ぬか生きるかの戦いです。

 私は、神と出会ってから、この神に命を掛けました。本当の神であるなら、命がけで信じていくしか、ないのです。真実な神は、真実に神に掛けて生きる者に真実を尽くしてくださると確信したのです。

 破産しかかった時も何度かありましたが、什一献金をしている私が経済的に破たんさせることを神は決してしないと確信していました。不整脈で死にかかった時も、病院にはいかず、絶対に信仰で治すと決意しました。脅され、攻撃され、中傷され、問題はいつも起こっています。しかし、絶対に負けないという決意が自分を守っています。

 教会を建設する時、借金までして献金しました。それは教会の運命が掛かっていたからです。そして、その後、神は祝してくださいました。今回のビル購入に際しても祝福を誓願し、最初の印税はすべて献げました。そして、教会員が合計100冊購入したら、喜びを共にしてもらうために、100名をホテルの食事に招待すると約束しました。ところが、多くの教会員は自分の為に1冊しか購入していません。ご自分の家族を含めて食事を取れるのに、期待もしてないのでしょうか。本の代金よりも高い食事を現実のものと捉えていないのです。

 ものすごくがっかりしました。神に人生をかけていないのではないでしょうか。天国に行けるとしたら、人生が掛かっているのです。祈りの中で、教会員を私が祝福すると決めました。ホテルは止めて、10万冊売れようと売れまいと、今年のクリスマスは、新しいビルのホールで100名のパーティーを開いて無料で招待します。今回のビル購入は、クリニックの浮沈がかかっています。だから、心を尽くして誓願をしているのです。命がけで戦い、不信仰を根絶やしにしたいのです。

 神よ、私の信仰を覚えてください。私が能力で祝福されるのではなく、信仰で祝福されるのを皆さんも見ていてください。


6月29日 神に従い通すかどうか。  民数記32112節 
新改訳 民 32:1-12

32:1
ルベン族とガド族は、非常に多くの家畜を持っていた。彼らがヤゼルの地とギルアデの地を見ると、その場所はほんとうに家畜に適した場所であったので、

32:2
ガド族とルベン族は、モーセと祭司エルアザルおよび会衆の上に立つ者たちのところに来て、次のように言った。

32:3
「アタロテ、ディボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシュボン、エルアレ、セバム、ネボ、ベオン。

32:4
これら主がイスラエルの会衆のために打ち滅ぼされた地は、家畜に適した地です。そして、あなたのしもべどもは家畜を持っているのです。」

32:5
また彼らは言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。」

32:6
モーセはガド族とルベン族に答えた。「あなたがたの兄弟たちは戦いに行くのに、あなたがたは、ここにとどまろうとするのか。l

32:7
どうしてあなたがたは、イスラエル人の意気をくじいて、主が彼らに与えた地へ渡らせないようにするのか。

32:8
私がカデシュ・バルネアからその地を調べるためにあなたがたの父たちを遣わしたときにも、彼らはこのようにふるまった。

32:9
彼らはエシュコルの谷まで上って行き、その地を見て、主が彼らに与えられた地にはいって行かないようにイスラエル人の意気をくじいた。

32:10
その日、主の怒りが燃え上がり、誓って言われた。

32:11
『エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはできない。彼らはわたしに従い通さなかった。

32:12
ただ、ケナズ人エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らは主に従い通したからである。』


 聖書では、「二人の主人に仕えることはできません。・・・神にも仕え、富にも仕えるということはできません。」(ルカ16・13)、とはっきりと言っています。しかし、またその富の使い方が、神に仕えているかどうかの、はっきりとした指標になるとも明言しています。ルカ16章の抜け目のない不正な管理人をほめている意味をわかる人は少ないようです。

 ここでは、この世の富を不正な富と断言しています。その富をどのように使うかで、その人が神に忠実であるか、否かがわかるといいます。実際、多くの人々が金銭に固執しています。たとえ、忠実に献金していても、自分のものとしての管理であり、計算をもってその使途を考えています。

 日本人の金銭感覚には合わないかもしれませんが、私は専門が会計学ですから、この聖書の個所にこだわりました。要するに、「この世の富などは価値がないので、それを神と人を喜ばせるために使ってしまいなさい」、ということです。お金は神様から預かったものであり、それを自分のものとして固執してはいけないのです。わたしは、多くの人々を分析して、その奥義を確認しました。

 どうせ、天国には持って行けないのですから、この世の富はこの世で使ってしまい、神の御心を実行するために用いたらよいのです。あるクリスチャン実業家は為替相場に強くて、数千万円の利益を得るそうですが、得たものは殆ど献金してしまうそうです。先日の金山さんも、貧相な関東祈祷院に数億円の私財を投じて温泉を掘り、素晴らしい物に建て替えてしまいました。

 パワー・フォー・リビングの本の贈呈もデモス財団によるものですが、これは福音を伝えるためにその富を使っているだけで、日本人には不可思議なものです。ただでこの本をプレゼントして良いと言っているのに、それをもったいないとして使わない人々は、ルカ16章で言う「不正な富に不忠実な人」となります。この本をもったいないとして取っておいたり、他の人に与えないのは、不忠実なのです。

 富を用いるのにいちいち意味づけをしたり、計画をしなくてもよいのです。大事なことは、それが人を喜ばせるか、神にあってよい働きなのかどうか、です。大事なことは、あなたを通して多くの金銭を動かすことです。そして、それが人を喜ばせるかどうかなのです。

 ルカ14章には、塔を築こうとする時、完成に十分な金があるかどうかを計算することが大事であると書いてあります。「自分の十字架をおって、キリストに従い通して弟子にならなければ、無理なのです。」(14・27)。ですから「自分の財産全部を捨てなければ、キリストの弟子になることはできないのです。」(14・33)。塔を築くということは、自分の人生を築きあげるということです。その人生を意味あるものとするためには、よく考えなければなりません。キリスト信仰を趣味や教養のものにするか、それに掛けて生きるかを決めなければなりません。



 それは、夫婦の関係でも同じことです。幸せになるかどうかは、伴侶にかかっています。それならば、伴侶のために自分のすべてを捧げるのです。そうしなければ、真に愛しあうことはできません。幸せな結婚生活をおくれない理由を相手のせいにする人が多いのですが、実際は、互いに相手のことを2の次にしていることが原因です。

1995年から2005年まで8回も米国の賞金女王を獲得した女性ゴルファーのアニカ・ソレンスタムが今年限りで現役引退を表明しました。離婚を経験した彼女が、新しい結婚を前にプロ選手では幸せになれないと判断し、「人生で優先したいことが他にも多くある。」と言って、辞めることにしたのです。

今日の聖句では、ガドとルべンの2部族が、カナン入場を前に、ヨルダン以東の領有を申し出ました。これは、その40年前にイスラエルの斥候が偵察に行って戦いを恐れ、自分たちの身の安全を優先した時と同様であるとモーセは彼らを叱責しました。

人は、財産保有においても、何においても自分の身の安全や富の確保を優先します。しかし、それが信仰と相反するのです。信仰とは、祝福の源を神であると確認し、それを実践する生活なのです。

彼らは悔い改め、自分の家族をこの地に残す代わりに、戦士たちは戦いの先頭に立ち、他の部族が自らの土地を確保するまでは帰ってこないことを約束しました。これは却って危険なことであり、家族も自分たちも滅びる可能性があります。つまり、祝福と守りを神に掛けたのです。それをモーセはよし、としました。

私自身は、教会の借屋生活が20年続いた時、自分が計算によって開拓を開始した余地があることを認め、悔い改めました。卒業前に、千葉の地に引っ越して伝道を開始していたのです。それは、確かに、それを望む者がいたし、妻の研修医としての安定にも良かったと思います。他にいくつかの正当性はあります。しかし、それでも打算でもありました。そして、神に依存し、神に願うことを決心したのです。

自らの正当性を挙げるだけでは、神の祝福を得ることはできません。多くの人が自分の行動を勝手に自分で義としています(理由があると確認する)。しかし、神に依存しないで、富や計算で祝福や成功を得ようとすることは、信仰ではありません。主の弟子になるためには、自分の十字架をおわなければならないのです。