1月6日 新しく生まれ聖められて。    Tペテロ1章29

新改訳 Tペテ1:2-9

1:2
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

1:3
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

1:4
また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

1:5
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。

1:6
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

1:7
信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

1:8
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

1:9
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。


 三人目の孫が、年末に生まれました。父親にも母親にも似ております。私たちの五人の子供も、微妙に両親の特質がそれぞれ混じりあって形成されております。身体の体質も、性格もそれぞれ遺伝素因があり、その人を形作ります。

 そういう面で、「親なくしては生まれていない。」とされ、また先祖を大事にしろと言われます。しかし、アジアに定着している仏教の教えでは、霊魂は輪廻転生をするとされるので、親子の関係よりも輪廻からの解脱に強調点が置かれるようです。従って、先祖礼拝的な仏壇や戒名は、日本仏教の独自なもので、儒教や神道が混じりあったものではないでしょうか。

 聖書の教えでは、「父なる神の予知によって」クリスチャンになるように、「選ばれた人々」と2節にあるように、前もって定められていたことが示されます。エペソ1章には、「神は私たちを世界の基のおかれる前から彼にあって選び」とあり、天地創造の前から、誰が魂を救われるか、計画の中にあったと説明されます。

 日本人のクリスチャンが、社会や風潮に左右されることが多いのは、このような絶対神の全知全能性が理解されていないからだと思います。神は、ある家庭から生まれて、その特性を保持し、ある環境の中で育つように、私たち一人ひとりを、用意し、配置し、備えたということです。先祖礼拝的な発想は、それらがあったから、私たちが生まれ育ったということですが、絶対神的な考え方は、ある個人のために、用意されたということで、観点が全く異なるのです。

 そういう面で、「親や環境が良くなかったから、こういう人間になってしまったのだ。」という弁解は、キリスト教的な論理の中には通らないのです。また、子供を道ずれにして自殺することなどはあり得ないのです。キリスト教的な人間観は、「神がそれぞれの環境を与えられたのであって、どのように生きるかは、本人次第である。」というものです。

 「努力すれば、何でもできる。」という考え方は、聖書的なものではありませんし、人間の限界を無視したものです。但し、「聖霊に導かれるならば」とか「信仰によって」という言葉を付け加えると、ありうることになりますが、基本的に人間力に重きを置いた思考法というのは、聖書的ではありません。むしろ、与えられた環境の中で、「神に喜ばれ、神を喜んで生きる。」ことのほうが重要なものとして考えるべきです。

 6節からの試練というものは、その与えられた環境でもあります。人それぞれに試練が与えられるのです。ある人はそれに主体的に対処するのですが、多くの人が、その試練に対応しないで逃げてばかりいるのです。そして、「自分は弱い、能力がない、環境が悪かった、無理だ」などと、せっかくの精錬の時を逃してしまうのです。だから、賞賛を得ようがなくなってしまって、挫折と言い訳の人生を過ごすことになるのです。神は、私たちを助けようと待ち構えておられるのに、私たちが、逃げてしまうのです。

 しかし、神は、私たちを選ばれただけではありません。「御霊の聖めによって」とあるように、聖霊なる神が私たちの内に働いて、試練を打ち破ろうと励まし、また力を与えてくださるのです。大事なことは、この聖霊なる神の働きかけに応じるということです。そのためには、前述のように神は、全ての人が信仰によって生きなければならない試金石を置いておられるということを知っていなければならないのです。

 信仰者の人生は、信仰がなければ生きていけないように神が整えておられるのです。努力や能力で成功しようという、この世の考え方を捨てて、自分に与えられた(あなたのための手作りの)試練を、「大いに喜んで」(6節)、平安をもって対応すれば良いのです。自分の試練を、苦しそうに精一杯努力して解決しようとしてはならないのです。

 「新しく生まれた」赤ちゃんは何をしているでしょうか。ただ。ひたすらミルクを飲み、水を飲み、ウンチをして眠っているだけです。その上の孫は1歳半ですが、いつも食べまくり、いたずらを探し回っています。本人はいたずらとは思っていないで、何にでも関心をもっているだけでしょう。一番上の孫は、自分のやりたいことを探して、これもよくいたずらをします。

 五人の子供たちも、まだ成長過程で、それぞれ葛藤しています。教会員も一人ひとり葛藤して人生を戦っているのがよくわかります。私は、子供にしても教会員にしても、ただ神から預かっているだけです。信仰で対応するという「生まれ変わり」を何度も体験しなければ、金の器になっていくことはありません。

 「新しく生まれる」ということは、キリストを自らの救い主をして信じ受け入れて自らの罪に対して死んだことによって、達成される救いの業です。しかし、それでは足りません。「聖化」(聖め)ということが、日々の歩みには必要なのです。この聖めというものがなければ、充実してクリスチャン生活を送ることはできません。私たちは、「日々新たにされて」(Uコリント4・16)いくことが必要なのです。

 聖めは、努力の業ではありません。一生懸命、自らを聖めようと努力しても、達成できるものではありませんが、日本人クリスチャンは、これを努力によって治めようとして精進する人が多いのです。聖めとは、努力の先にではなく、神への信頼の先に、祝福を見いだすことです。


1月13日 神の国に新しく生まれる。  ヨハネ福音書3316
 

 長男夫婦が孫の志穂の出産後、しばらく同居しています。二人で仲良く子育てをしているのを見ながら、私たちの子育ての頃を思い出しています。思い出すだけで涙が出てくるほど、苦労の連続でした。自分の子供を見つめ、世話をしながら、どれだけ心が癒されたことでしょう。無邪気に笑いかけてくる赤ん坊を育てながら、妻はうつ病から癒されていきました。

 結婚した時は、完全なうつ病でしたから、大学も卒業できず、妻はただボーとしていました。一年が過ぎて、長男が生まれ、何もできない妻は、赤ん坊が泣くとどうしようもできなくて、おろおろするような始末でしたが、子供に母乳を与え、笑いかけながら、次第に元気が出てきました。祖父母からは、医師国家試験にも受かっていないのに、子供を産んでしまってと呆れられましたが、なんと出産後半年の試験に受かってしまったのです。

 人生を生きるということは、理屈や打算ではなく、実際には希望とか、愛などで築き上げられます。「見えるものが目に見えるものからできたのではない」(へブル11・3)のです。五人の子供、それぞれを産み、育てることに関しては、普通の人の数倍の苦労があったと思います。共働きなのに、夫婦だけで育てたのですから、想像はつくでしょう。そして、開拓伝道の苦労と経済的な困難は、いつもありましたが、子供の前で悲しいそぶりはしてはならない、敗北者になってはならない、神を信じる生活は楽しいものだということを示さなければならない、と自らを戒めていました。

 確かに、子供がいなかったら、あの試練を乗り越えられなかったでしょう。自分たちだけだったら、夫婦喧嘩をし、互いに自分の主張を言い張っていたでしょう。さらに、牧師夫婦というのも、良い自己規制でした。私たち夫婦は、「すべては神のため、伝道のため」という強い共通項がありました。献身者というのは、そういうものです。

 それは、私たちが魂を救われて、新しく神の子供として生まれたからです。私どもの年賀状をご覧になって、神が私たち家族を祝福されたことを感じたという感想を多くの方が寄せてくださいました。幸せになるということは、戦いを覚悟し、勝利を目指して努力することが必要です。

 受験勉強も、仕事も、結婚をするということも、子供を持つことも、家庭を保つことも、すべて実は、目に見えないものによって左右されるのです。多くの人が、恐れによって、前進や勝利を諦めてしまっています。

 例えば、なぜ子供を産むことを制限するのでしょう。それは、これ以上、育てられない、と恐れ、諦めてしまうからです。なぜ、仕事を変えたり、引退を考えるのでしょう。それは、自分の能力や年齢に限界を感じているからです。今年の教会の標語とその前を読んでください。「若者もつかれ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は、新しく力を得」とあります。神を、信じるならば、力を得ることができるのです。

 新しく生まれた赤ん坊が、どのように育つか、わかりません。しかし、柏崎家に生まれ、育ってよかった、と思えるような祝福と愛情を注いでいきたいものです。私は、批判や干渉が日本の家庭では、多すぎると思っています。神なき民は、神の祝福と導きを信じないので、すべてを思い通りにしようとします。しかし、それは間違っています。

  神の国に新しく生まれた私たちのことを、父なる神様は心から愛してくださっているのです。神様は、私たちが罪を犯し、失敗しても、怒って罰するような方ではなく、心から心配して助けようとされる方です。

 ところが、毎日の生活で、人の干渉したり、批判したりする人々は、神様がそのような方であることを信じられないのです。思い通りに人生を生きられる人はいません。もし、そのような人がいたとしたら、よほど傲慢な人でしょう。思い通りに生きられない中で、神を信じ、神を信頼して生きるのが、クリスチャンなのです。

 そういう面で、理想を思い描いて信仰者になろうとしても、そういう人は、教会にとどまることができません。すべての人は罪を犯し、失敗をしてしまい、落ち度なく生きられる人はいないのです。しかし、父なる神が、見守り育ててくださるのが神の家族なのです。

 それでは、神の家族になるためには、どうしたらよいのでしょうか。

 聖霊によって、新しく生まれなければならないのです。それは、努力でも、考え方でも、悟りでもありません。人間の側の努力ではないのです。ですから、自分は、悟りや信仰告白でクリスチャンになったと思った方も、もしかしたら、神の国に聖霊によって生まれてはいないかもしれません。3章8節を読んでください。

 教会に来ているから、自分はクリスチャンだと思ったら違います。塾や親睦団体の会員になることと、神の子になることとは、まったく異なることなのです。献金は会費とは違います。また、牧師が指導者なので、牧師の了解を得たら、会員になれるなどと思っている人は、考え違いをしています。

 魂が救われ、永遠のいのちを持っていることを自覚しているでしょうか。

 私は、自分が新しく33年前に救われたことと、今も神の子として成長していることを強く自覚しております。そして、父なる神のことをよく知っており、いつも交流して助けを頂いております。だからこそ、神に祝福されるのです。皆さんも、はっきりと神の子として新しい命をいただいてください。


1月20 日 ただこの一事。  ピリピ書31215


1月27日 神の国まで生きることができるのか。  申命記8章16

新改訳 申 8:1-6

8:1
私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。

8:2
あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

8:3
それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

8:4
この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。

8:5
あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。

8:6
あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。

  モーセはイスラエルの民がいよいよ約束の地カナンに入ろうとする時にモアブの地で、訣別の説教を語りました。それが申命記です。自らは40年間裏切られ続けながら民を指導し教えてきました。どんなに苦労したことでしょう。罪人の考えることは自分勝手なものであり、指導者の気持ち、親の気持ちなどは、なかなかわからないものです。
ネボ山、ピスガの頂に登ってモーセは、カナンをはるか遠くに見ます。しかし、自分はそこに入ることができないことは神に知らされています。そこに人々を導くために日夜苦労してきた約束の地に自らは入れないということは、なんと悲しいことでしょうか。しかし、モーセは悟っています。神の国に入るために、民は自らの力でそこを開拓し、自分の所有としなければならないのです。それは、指導者の力、問題ではなく、自らの問題なのです。

人々は、モーセに従っていれば、約束の地に入れると思っていました。そうではないのです。約束の地に入れても、神の国にはそれでは入れないのです。「

  気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。あなたが子を生み、孫を得、あなたがたがその地に永住し、堕落して、何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、御怒りを買うようなことがあれば、私は、きょう、あなたがたに対して、天と地とを証人に立てる。あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅びうせる。そこで長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされるだろう。主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。(申4:23-27

 怖いことです。信仰とは惰性や習慣では保てないものなのです。教会を移り歩いて、自分にとって都合の良い教会を探すような信仰者が祝福された話を聞いたことがありません。親や上司や牧師に、不平を言い、異議を唱える人は、聖書では呪われるとあります。先日、ある教会で牧師に対して何度も逆らい攻撃した人が発狂したと聞きました。それが事実かどうかわかりませんが、聖書は「親を罵る者は死刑に処せられる」(マタイ15:4)とあります。

 そういう面で牧師や親、指導者は罵られないように注意しなければなりません。それは、自らの弱さ、罪深さのために信者や子供たちから罵られたら、彼らが滅びに行ってしまうからです。

ところが、いくら努力をし、節制をしても罪を犯し、人を躓かせてしまうものです。聖書の教えは、「躓きが起こるのは避けられない。だが、躓きを起こさせる者はわざわいだ。」(ルカ17・1)と、自らの罪や弱さを正当化する人々に強く警告しています。また、申命記9・4には「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ」と言ってはならないとあります。つまり、信仰生活とは、自らの罪深さを自覚しながら、神を恐れて生きることです。

  すると、信仰生活とは神を恐れてびくびくして生きるということなのでしょうか。そういうことではありません。テキストの2節に「あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたが主の命令を守るかどうか、あなたの心の内にあるものを知るためであった。」とあります。つまり、人がその子を訓練するように、あなたの神はあなたを訓練されるのです(5節)。そして、命令を忠実に守る訓練された神の器になる必要があるのです。

 今年に入って、新しく生まれること、新しく生きることを語っていますが、「自分はイエス様を信じて新しくなったのだから、もう罪を気にしなくていいんだ。間違いなく、天国に行けるのだ。」と考えたら間違いです。基本的には、罪を認めてイエス様の救いを信じた者は、天国へのコースに入ります。しかし、脱落する人も当然いるのです。それは、自らの行動と人格をチェックしない人です。

 この人生では、苦しみ、飢えて、神の祝福を体験することでしょう。それは、「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべてのもので生きる、ということをわからせるためです。」(3節)つまり、人生を自分の能力や努力で生きることを当然とするならば、それは天国へのコースから外れるのです。神に導かれて生きることを選ぶ人が、神の国への道を歩むのです。

 そういう面で私たちは、

1. 自らの言葉に注意して、神の御心にあった発言をする。

2. 神の御心をうかがって、計画し行動をする。

3. 人生の目的を神の国におく。

 「あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。」(6節)とあるように、「新しく造られるということは、新しい歩み方をする」ということなのです。つまり、歩むコースを変更しなければ、神の国には着かないのです。


2月3日 ヨルダン川を渡る。  ヨシュア31443

ヨシュア3:14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。

3:15
箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、――ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが――

3:16
上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。

3:17
主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

4:1
民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに告げて仰せられた。

4:2
「民の中から十二人、部族ごとにひとりずつを選び出し、

4:3
彼らに命じて言え。『ヨルダン川の真中で、祭司たちの足が堅く立ったその所から十二の石を取り、それを持って来て、あなたがたが今夜泊まる宿営地にそれを据えよ。』」


 先週は指導者としてのモーセの無念を語りました。自ら率いて約束の地へと入れないのは、新しい歩みをするのは民それぞれのものだからです。もはや個々の所有と祝福は指導者の関われないことであって、神の国に入るのも、牧師の関われない個々人の信仰の問題なのです。

 今年からの教会の教育と指導は、「聞く耳があり、主に従う者は祝福されるけれども、体裁を繕い、適当な信仰生活を送る者は、持っている物さえ取り上げられる」というイエス様の教えに沿ったものに変えていく方針です。播かれた種も、道端や岩地や茨の心では実ることができず、良い地にだけ実りがあるのです(マタイ13章)。「役に立たぬしもべは、外の闇に追い出」されてしまうのです(マタイ25章)。つまり、天国に行けない人を、そのままあたかも行けるかのように教えては牧師の責任が問われるのです。

 エジプトにおいて奴隷となっていた人々には、カナンの占領と所有は想像できないものでした。神を信じず、奇跡も祝福も信じない人々に律法を教え、神の祝福の道を教えるのは、いくらモーセといえども大変なことでした。しかし、彼らは約束の民であり、カナンを所有することが決められていたのです。

 イエス様よりも父や母、息子や娘を愛する者は、主の弟子ではないと言われました(マタイ10・34-)が、主の働きに一生懸命になると、家族からも批判攻撃されることもあります。私たち夫婦は教会最優先であり、献身者ですから、自分や子供の都合も関係なく、ただ奮闘してきました。夫婦だけの激論や興奮も子供たちにはわかるはずもなく、躓かせたことも多いと思います。それらは、みな神にある献身と熱意であり、弁明も説明もしようもないものであり、子供も家も財産もただ神に委ねて奮闘するだけでありました。

 そのようにして未知の地、千葉でゼロから無支援で教会を立上げ、クリニックを始め、会社も始めるようになり、低血糖症や栄養医学では大きな成果を挙げ、教団でもある程度、貢献できるようになりました。地歩を占めるということかと思います。告別説教のようですが、まだ召されるわけにはいきません。しかし、自らの無謀な足跡を思い返すことが多くなる年齢になってきました。

 普通ではない人生、やはり理解されることが難しいような歩み方であります。最近、モーセのことが思わされます。指導者というのは、理解されることを求めていては指導できないのです。これまで、牧師に反発したり、攻撃する人たちの声を聞いて、「まあそれも仕方がない。」と理解していましたが、それを許し認めることは、その人たちの祝福にならないことに気が付きました。はっきりと悔い改めさせなければならないのです。こういうことは人間的には嫌なことです。神ならぬ身としては、煩わしいことです。

 説教というのは、聖書研究会でも、講演会でもありません。最近、説教をしないで聖書を学び、交流するという教会ができているようですが、それでは悔い改めはできないでしょう。説教とは神の言葉の宣言であり、悔い改めと献身を促すものなのであって、それでこそ霊的な礼拝となるのです。

 イエス様は言われました。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1・15)。ペテロは、悔い改めて洗礼を受けなさいと命じています(使徒2・38)。つまり、悔い改めることや洗礼を受けることは、神の命令であって、理解するものではないのです。

 ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、契約の箱に従ってヨルダン川を渡ることを命じられました。そして、従った時に奇跡は起こり、ヨルダン川の水は堰となって止まったのです。そして、彼らは再び、乾いた地の上を歩いて、約束の地に入ったのです。

 私たち夫婦は、今は多くの祝福を得ています。それを能力や才能であると誤解する人もいるでしょうが、全くの誤解です。ただ真剣に神に従っただけです。神に従うとは、人々の理解や了解を超えたものなので、誤解や批判、攻撃を受けたことは事実です。そして、多くの困難と闘いがありました。それを嫌とは言えなかっただけのことです。自分の十字架を負ってイエス様に従うということは、そういうことなのです。了解や理解を受けることを求めていたら、神に従うことはできないのです。

 そんなに厳しいのなら、クリスチャンになるのは嫌だ、と思うかもしれません。しかし、罪の世の中で安逸を貪り放漫に生きて、何の祝福と喜びがあるでしょうか。そして、行きつく先は、地獄なのです。

 ハッキリ言います。神を信じてもいい、ではなく、神を信じなければ天国には行けません。天国に行かなくてもいい、という人がたまにいますが、天国に行かなければ地獄なのです。魂は不滅です。ですから、命がけで福音を伝えなければならないのです。神はあなたを裁こうとしているのではなく、救おうとしているのです。そのために、イエス様を神は地に遣わされたのです。

 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は神の御子を信じなかったので、すでに裁かれている。」(ヨハネ3・18


2月10日 恐れるか戦うか。  民数記132533

民数記13:25 四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。

13:26
そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。

13:27
彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。

13:28
しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。

13:29
ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」

13:30
そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

13:31
しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」

13:32
彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。

13:33
そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

 皆さんは外国に行ったことがあるでしょうか。行ってもツアーなどでは全く現地の人と交流することがなく、ただ建物や自然を見て食事をガイドさん任せでするということが殆どのようです。他の国の人との交流が全くなく、毎日を過ごしているようです。

 私は外国旅行が大好きで、なるべくその国の人と一緒に過ごし、交流するように努めています。そうすると仕事にしても、家庭にしても、時間の過ごし方にしても、日本人とはかなり違うことに気が付きます。特にアメリカには17回、カナダには4回、韓国には7回、その他に8回行っています。それぞれの国が違い、良いところも悪いところもあります。そして、日本人の長所や欠点も気が付きます。

 日本人の欠点は閉鎖的なことと、枠組みを決めているということ、そして視野が狭いということでしょうか。基本的にアメリカ人と正反対なのですが、アメリカ人にもそういう人がいて低く評価されますが、その価値観から見ると日本人はアメリカ人にはマイナーかな、と感じさせられます。日本人一般の長所も多くあるのですが、危機管理や社会の変化には対応が難しいことは事実です。

 また、最近の日本の特徴としてはカリスマ的リーダーがいなくなった、民主的(談合的)なまとめ役はいるけれども、理論や利益や妥協で判断するので、日本社会が閉塞状態になっていると言えましょう。幕末や戦後にそういう人々が日本を変革していったことを思い起こすと残念です。さて、そういうことでクリスチャンとして、神の御旨に従って生きられるのかと昨年あたりから自問しておりました。そういう意味合いで今日の説教を聞いていただきたいと思います。

 イスラエルの人々は、エジプトを脱出してしばらくして、自分たちが占領しようとしているカナンの地を探りに、それぞれの部族から一人ずつ選んで12名の斥候を送りました。そこは肥えた地であり、彼らは「乳と蜜が流れている」と形容したほどでした。

 ところが、彼らの判断は「そこには強く大きな人々がいるからだめだ。私たちは殺されてしまう。」というものでした。「エジプトで奴隷として暮らしていたほうが良かった。荒野で野たれ死んでいたら、まだ良かった。」という驚くべきことを言うのです。

 それは彼らに信仰がなかったからです。ローマ書5章には、信仰者は艱難さえも喜んでいるとありますが、信仰がその人に本当にあるかどうかは、希望があるかどうか、愛の行動を行っているかどうかによって証明されます。せっかく、すばらしい土地があり、神様がそこを与えると言っておられるのに、戦うということが怖いのです。自分のことだけを考えると、巨人と戦うのは確かに怖いでしょう。ゴリヤテがイスラエル軍を脅してきた時のことをお話したことを覚えているでしょうか。本当はサウルに対して挑発してきたのに、サウルは逃げて、ダビデは戦ったのです。そして、サウルは王でなくなるだけでなく魂の滅びに至り、ダビデは王となり、イエス様の祖先となったのです。同様に、恐れてモーセばかりでなく、神をも否定したイスラエルの人々は、カナンにはいることはできなかったのです。

 私たちにとって、カナンの地とは何でしょうか。それは神の祝福です。幸せです。もし、あなたが自らを既に十分幸せだ、もう何もいらない、と考えていたとしたら、残念ながら、あなたの魂はカナンにはいかないのかもしれません。

 私たちにとっての祝福や幸せは、魂の救いです。家族が、友人知人が救われていないことをないがしろにしているとしたら、それは放漫です。家族に伝道する、友人に伝道する、ということは、あなたにとって巨人との戦いのように勇気がいることかもしれません。しかし、カナンに入らないということは、荒野で死ぬか、エジプトで奴隷として死ぬかしかないのです。それなのに、決断を迫られて嘆いていたら、やはり祝福は遠のいていくのです。

 新しくされる、ということは神の業です。その神の業に乗り、ただそれを信じて従って行けば、カナンに入ることができるのです。家族や友人・知人の救いを信じ、それを願って伝道していけば、あとは神が導いてくださるのです。

 私はすでに100名以上の人を救いに導いています。はっきり言えることは、救いは神の業であり、ただ私はそれに関与したにすぎないということです。でも、いつも魂の救いを願い、祈り、そしてチャンスを狙っています。

 私が立派だったら伝道できて救いに導けるとは、考えてはいません。経験から、私に躓いて、反発し攻撃して失敗し、却って悔い改めに導かれたことも多いのです。うまくいかないことがかえって、悔い改めに導かれることもあるのです。

 私が導いた友人の彼女が、勝手に洗礼を受けたことに怒り、教会に怒鳴りこんできたことがありました。彼女は、牧師に文句を言い、腹を立てて教会から出ようとして階段から落ち、そのとたんに悔い改めて、洗礼を受けることになりました。私は、その話し合いの間、ずっと講壇の前で祈っており、彼女の興奮の声を聞いた途端、「主よ!」と叫びました。すると彼女が落ちたのでした。

 救われるということは、全くユニークなものです。全部、そのケースが違います。ただ、宣べ伝える人がいなければ、信じる人はおこらないのです。あなたが、福音を伝えなければ、人々は福音を知らないのです。恐れずに伝道しましょう。


2月17日 主の御心にかなえば。  民数記14110


民数記14:1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。

14:2
イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。

14:3
なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」

14:4
そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」

14:5
そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。

14:6
すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、

14:7
イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。

14:8
もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。

14:9
ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

14:10
しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われた。


 
自分の心は御し難いものです。Tコリント2章には「自分は誰によってもわきまえられません。」とありますが、どの訳を見ても解説を見ても要領を得ません。牧師としていろいろな人に接し、多様な感情や興奮をみますが、25年もやると人に理解されようとは思わなくなり、人を理解することも難しいと思います。勝手に攻撃されたり批判されたり誤解されたり、そういう人の心の動きを罪のなせる業として、ただとりなしをするだけです。そして、聖霊に委ねて福音を語り、神に仕えようと思うばかりです。

 ところが、それでも自分が高慢なのか、無理をしているのか、わからないものです。10日前に突然、大きなプロジェクトが浮かび、とんとん拍子に進んでいます。生涯最大の投資になるかとも思います。祈りの中で詩篇131編を読み、「及びもつかない大きなことや、奇しいことに深入りしません。」と戒め、「自分の魂を和らげ、静め」ようとしましたが、そう興奮しているとも思えません。支払える額を提示し、神に委ねています。

 クリスチャンになってから実は、25年間は苦労の連続でした。前記の詩篇にあるように「大きなことを考えるから苦労するのだ。」と自らを戒めても、結局は苦労ばかりで、どんなに涙をこぼしたことでしょう。性格はかなり変わり、穏やかにもなったと思いますが、それでも誠実に生きることと、主に従うことは守り通したと思います。21世紀になってから、苦労は増える一方ですが、やることが祝福されるようになってきました。「桃栗3年、柿8年、久雄の馬鹿は18年」と自らを戒めていたのが、25年ですから大馬鹿なのでしょう。

 この歳になって「神に従うことは、人の理解や了解を求めることは無理だ。」と悟るようになりました。神は、私に語りかけるのであって、祈っていない人は、それを聞くことはできませんし、当然私個人へのものです。

 今日の聖句で、ヨシュアとカレブは、イスラエルを素晴らしい神の祝福と取ったのに、他の全会衆は不幸であり禍であると思ってしまいました。二人は「主の御心にかなえば」と祝福と勝利を語ったのに、人々は彼らを石で打ち殺そうとしたのです。信仰で生きるということは生身の人間には恐怖なのです。

 金もないのに病弱な妻と結婚して神学校に入ってしまったこと、学生中に子供を産んだこと、誰も知らない千葉に引っ越したこと、2年後に権利金1千万で家賃30万円の会堂を借りたこと、持ち金30万円でクリニックを開業したこと、その9ヶ月後に子供を産んだこと、非行した息子を大金をかけて海外留学させたこと、息子のために死を覚悟して後任の牧師のために安い家賃の部屋に移ったこと、非行の最中に弱音を吐いてはいけないとクリニックを大きくしたこと、そして勇気をもってこの会堂の競売に入札したこと、他にも経過中なので書けない多くのことがあります。人の了解や理解をもって進めたことは何ひとつありません。了解は最初から得られないようなことばかりでした。しかし、私の内におられる神の御霊が、私を導びかれたという確信はありました。

低血糖症治療の会を作るということも、大きな犠牲と信仰がいりました。今週もたれますが、既に申し込みは九州や関西など全国から90名以上あります。この方々は人生を私たち夫婦にかけておられるのだと思っています。私たちは、神が私たちを用いておられるという実感があります。そして、その治療を進展するには、今度の投資が必要です。先週、資金計算をしました。そして、すべての余地を残さず、資金を投じる覚悟をしました。そしてひざまずいて神に請うたのです。

 「ただ主にそむいてはならない。人々を恐れてはならない。」この投資話の前に、非常に悲しいことがありました。今でも夜は悲しくて涙を出しながら祈っております。心の痛みは、人を絶望させます。しかし、神に委ねて何もないかのように過ごし、働き、そして夜は祈りの中で心を癒します。私の心が悲しみで占められるならば、神に仕え、神の業をすることはできません。そういう中で今度のことが始まったのです。神を主とする者は、自分の心に左右されず、主を見ていなければならないのです。

 それでも私は罪人であり、自分の心を御しているか、わかりません。とりなしの祈りというのは、不思議なものです。人をとりなすと、その人の弱さや過ちがよくわかり、自分は同じような過ちを犯さなくなると思います。私は、祈りの中で多くの人が、他の人のためにとりなしをせず、心を神の前に注ぎ出して祈らないで、請願の項目を繰り返しているに過ぎないことを知らされています。皆さん、もっと人のために祈らなければなりません。考えたり、憂慮することなどしないで、祈るのです。

 時間がない、忙しいというのは、言い訳です。私よりも忙しくいろいろな仕事をしている人を私は周囲に知りません。しかし、いつも主に語りかけ、主に聞き、そして人々のことをとりなしています。主の御心にかなわないことは、何をしても無駄です。虚しく過ぎていくだけで、自分の満足でしかないのです。


2月24日  つぶやいてはならない。  民数記142635

新改訳 民 14:26-37

14:26
主はモーセとアロンに告げて仰せられた。

14:27
「いつまでこの悪い会衆は、わたしにつぶやいているのか。わたしはイスラエル人が、わたしにつぶやいているつぶやきを、もう聞いている。

14:28
あなたは彼らに言え。これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。

14:29
この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。

14:30
ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決してはいることはできない。

14:31
さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。

14:32
しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。

14:33
あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。

14:34
あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。

14:35
主であるわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ず次のことを行なう。この荒野で彼らはひとり残らず死ななければならない。


 スヌーピーの漫画の中でルーシーがベッドで祈り終わってライナスに言います。「もっと寛容な心と理解力が与えられるように祈ろうと思ったけどやめたわ。」「本当に手に入ったら困るから」

 私たちは何の苦労もなく聖人になりたがります。そうでなくても金持ちになりたがり、しあわせになりたがり、或いは社長に、成功者に、愛される人物になりたがります。そして、他方、そういう状態になっている人々を羨み、そねみ、欠点や問題を見つけ出して非難します。実際に責任を持つことは大変であり、幸せになることはラッキーではできません。

 例えば結婚するということも大変です。難しいことをせずに同居してしまえばよいとか、籍を入れてしまえば、と思う人がいるようですが、そういう結婚は必ず破綻します。なぜなら、二人の人がいつも一緒にいて暮らしていくということは、責任と義務なしでは無理だからです。

 ある国では結婚するには年収の何倍ものお金が必要だといいます。日本でも通常、結婚の準備は大変で、当人たちはその準備の過程で社会のしきたりに最初に対面します。それまでは勝手にやっていて難しいことは親任せにしていたのが、これからは自分たちで対応しなければならないからです。こういう時に、社会的責任を自覚しなかったり、対面だけ繕うと後々の結婚生活に支障が生じます。

 なんでもうまくいっているうちは良いのですが、人生は楽あれば苦あり、伴侶が病気になったり、家族に問題が起こったり、子育てで苦労したり、節制を強いられたり・・・・・。夫たちの家庭への協力がないのは、結婚までを形式的にした場合に多くみられると思います。

 神様は人間の思いの中に、いろいろな動機づけを与えられます。「幸せになりたい」「すばらしい人と結婚したい」「お金持ちになりたい」・・・。ところが、最近はあまり多くを望まない人々が増えてきました。冒頭のルーシーのようです。無理をしたくない、苦労は嫌だ、責任を負いたくない、・・・。「自分が生きるだけでも苦労しているのに、他の人とかかわったらもっと大変になる。」こういう消極的、厭世的、利己的な人々が増えているのです。

 神様は、人間を支配者として創られ、「生めよ、増えよ、地を満たせ、地を従えよ」(創世記1・28)と命じられました。人間の中から、夢見ること、創造的なこと、人を愛することをなくそうとするのは、サタンです。今年のテーマ聖句「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40・31とあるように、信仰者は新しく神から力を与えられ続ける者なのです。神を信じ、自らに希望を持ち、人を愛する、という教会テーマのとおりでなければ、私たちの信仰と思いは罪によって左右されているのです。

 人には、それぞれ人格と個性が与えられています。ですから、すべての人が同じことを考えるのではなく、また立場や状況が違います。同じことができないことは当然で、正しいとは思えません。しかし、否定的になったり、人を非難してはいけないのです。ましてや神に対して、つぶやくのは罪です。

 神につぶやくとは、どういうことでしょうか。皆さんは、祝福を願ったり、幸せになろうとします。そして、神は、私たちの願いを聞いて、その配慮をされます。その時に、必ず困難や諸問題が起こるのです。それは、祝福を自分のものとするための訓練のようなものです。その諸問題に躓いて、「こんなことをするくらいなら、何も望まない、いやだ。」などと否定することが、神につぶやくということなのです。

 子どもたちが、自分の思い通りにならない時に、「もうやだ。」などといじけてしまうのを笑いながら見守ることがあるものです。大人の場合には、もう少し現実的ですが、苦労が多くていじけてしまうこともあるものです。しかし、どんなに大変であっても否定したり、神や人を攻撃してはいけないのです。

 牧師としてとりなしの祈りをする時に、思い通りにならない人や心配な人、ある場合には罪を犯す人もいるものです。しかし、だからといって、その人がもうだめだ、などと牧師に思われたら嫌なものでしょう。ましてや、私に避難や攻撃をされたら、どんなにか心が痛み、落胆するかと思います。

 しかし、実は、牧師が神からの語りかけを真摯に言うが故に、牧師に対して反発をし、批判をし、呟くことも多くの信者にありうるのです。牧師としては、そういうことを信者が思わないように、安易な語りかけをしようとする場合があります。エゼキエル33章には、警告をしないなら、その血の責任を見張り人に問う、とあります。正しい人がその正しさに拠り頼み不正をするなら、罰せられるとあります。

 牧師は信者に悔い改めを迫り、信者は世の中の人々に悔い改めを語る、それは多くの反発を受けることですが、それをしなければ、魂の救いはなく、祝福はないのです。愛するが故に人の罪を黙認し許容しようとしても、その人の罪は神の前には明らかなものであり、私たちが補えるものではありません。

 あなたが幸せになりたいのなら、神に祝福されるしかありません。そして、祝福されるためには、神の前にすべての人が悔い改めるしかないのです。注意をしてください、罪、罪と人々を糾弾するのではありません。避難や否定はいけません。愛するが故に、その人の悔い改めを導くのです。それを十字架の道というのです。


3月2日 誓願の献げ物。  民数記15111

新改訳 民 15:1-11

15:1
主はモーセに告げて仰せられた。

15:2
「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えて住ませる地にあなたがたがはいり、

15:3
特別な誓願を果たすために、または進んでささげるささげ物として、あるいは例祭のときに、主へのなだめのかおりをささげるために、牛か羊の群れから全焼のいけにえでも、ほかのいけにえでも、火によるささげ物を主にささげるときは、

15:4
そのささげ物をささげる者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパを主にささげなければならない。

15:5
また全焼のいけにえ、またはほかのいけにえに添えて、子羊一頭のための注ぎのささげ物としては四分の一ヒンのぶどう酒をささげなければならない。

15:6
雄羊の場合には、穀物のささげ物として、油三分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の二エパをささげ、

15:7
さらに、注ぎのささげ物としてぶどう酒三分の一ヒンを主へのなだめのかおりとして、ささげなければならない。

15:8
また、あなたが特別な誓願を果たすため、あるいは、和解のいけにえとして、若い牛を全焼のいけにえ、または、ほかのいけにえとして主にささげるときは、

15:9
その若い牛に添えて、油二分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の三エパの穀物のささげ物をささげ、

15:10
また注ぎのささげ物としてぶどう酒二分の一ヒンをささげなければならない。これは主へのなだめのかおりの、火によるささげ物である。

15:11
牛一頭、あるいは雄羊一頭、あるいはどんな羊、やぎについても、このようにしなければならない。



先週、つぶやくことが罪であることがわかりました。私たちは、気分や感情に左右されて言いたいことを言ってはならないのであり、口にすることには責任があるのです。そういう面でも祈りは、言葉に出して言うことが大事なのです。私たちは人との交流も慣れていないと勝手に人の心の内を判断して誤解してしまったり、不信の念を持ってしまったりします。会話や交流のできない人の祈りは、そういう面で神との適切な交流を欠いていることが多いでしょう。

 つぶやいた者はカナンに入れないと、神の裁きがされた後、今日の聖句は不思議な内容です。「神があなた方に与えて住ませる地に」と入れないと怒っていながら、約束の成就の後の生活を指導しているのです。

 そして、特別な請願をする献げ物として、現在は持っていない小麦や油、ブドウ酒を指定しているのです。聖書を読む時に、こういうニュアンスというか、心理的な神の配慮というものを気づいて読むと、非常に読み応えのあるものとなります。まるで、父親が起った後、子供にご機嫌をとって励ましているかのような文脈ではありませんか。神は、決して怒るだけの方ではありません。

 信仰を浅薄なものにするのは、神や聖書の問題ではなく、信仰者自身の人間性に原因があります。信仰とは神への信頼であり、信頼するというのは人格的な行為なのです。神の国へ私たちが携えていけるのは、自らの人間性だけであり、そういう面で人格を形成するということが信仰生活の究極的な目標でもあります。ところが、何度も申し上げているように、自分の意見を主張し、理性や論理に頼る者が信仰に入ることは難しく、愚かさを認めた者のみが、信仰生活に入ることを神に認められるのであります。こういうことは利休の教えた茶道や禅の境地にも通じるところがあり、彼らをクリスチャンではなかったか、と指摘する理由にもなります。

 ともかく、特別な請願をするということは、なんとすばらしいことではありませんか。この教会のモットーの一つが、「自らに希望を持ち」と語っていますが、皆さんは祝福の請願をしているでしょうか。箴言29章18節には「幻がなければ、民は欲しいままにふるまう。」とありますが、願い事をもたなければ、人は堕落していきます。ましてや、信仰者たるもの、神にある大いなる請願を常に抱いて生きなければなりません。

 クリスチャンたる者、その願いは神に仕え、神の業をするとか、伝道をするとか、愛に基づいた請願を常に持つべきであって、自己中心的な願いをするのは、愚かというか、みっともないことです。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」という規範を守るならば、それに加えて、衣食住のことはすべてプレゼントとして与えられるのです(マタイ6・33)。

 結婚をする者は結婚を通して何をするか、できるか請願をもつべきであります。洗礼を受ける者は、自分の信仰生活を通して何を果たすべきか、祈ることが大事でしょう。学校に入学する信仰者も然り、仕事に就く者も然りです。

 その誓願に献げる物が子羊でも雄羊でも、若い牛でも、それぞれの請願の大きさと犠牲の大きさは自らの選択でできます。しかし、そこには穀物の献げ物や注ぎの献げ物も必要です。イエス様は、私たちの罪とための犠牲となってくださいましたが、それで足りるというものでもありません。私たち自身の献身や犠牲が必要なのです。パウロは、ピリピ人の信仰の完成のために、自らが「注ぎの供え物となっても、私は喜びます。」(2・17)と殉教を覚悟しています。

 犠牲なしの請願というのはありません。たとえば、大学受験でも希望の大学に合格するために受験生は必死の努力をします。偏差値が高い所を選ぼうとするのは、愚かですが、より良い大学を目指して努力を積み重ねた数年間の経験は、その人の人格を形成するのです。職員の採用面接を多くしてきましたが、資格試験の受験とか、そういう努力を繰り返したきた人や、運動部の厳しい練習を経験してきた人々は、やはりそれだけのものを持っているということがわかります。

 つまり、強いられてではなく、請願のために自らの意思で、犠牲を払い努力を積み重ねるということが大事なのです。ヨエル書には、聖霊に満たされたならば、「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る」(2・28)とあります。

 私も多くの夢を見、ビジョンを描いています。多くの願いを誓願として、犠牲を払ってきました。耐えられないと思うような時もありましたが、1983年12月に会堂を願って15日間断食をした時に語られた神の言葉を忘れることができません。「あなたが、それを欲しいならば本気で願いなさい。あなたの信じるとおりになる。」

 庭にたたずみながら、咲き誇る梅の香りを味わっています。咲き出ようとする花芽や若葉の芽を愛でながら、神の恵みをほめたたえています。確かに、神は、願った以上のものを与えてくださいました。花粉の季節が嫌いになったと言っていましたが、やはり春の息吹は私には刺激的です。負けてはいられないと神に誓願を立てています。


3月9日 信仰とは信頼、そして従順。  民数記16110節 

新改訳 民 16:1-14

16:1
レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、

16:2
会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。

16:3
彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」

16:4
モーセはこれを聞いてひれ伏した。

16:5
それから、コラとそのすべての仲間とに告げて言った。「あしたの朝、主は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。

16:6
こうしなさい。コラとその仲間のすべてよ。あなたがたは火皿を取り、

16:7
あす、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が聖なるものである。レビの子たちよ。あなたがたが分を越えているのだ。」

16:8
モーセはさらにコラに言った。「レビの子たちよ。よく聞きなさい。

16:9
イスラエルの神が、あなたがたを、イスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださったのだ。あなたがたには、これに不足があるのか。

16:10
こうしてあなたとあなたの同族であるレビ族全部を、あなたといっしょに近づけてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。


 パウロは、使徒としての務めは、弟子たちに「信仰の従順をもたらすためです。」(ローマ1・5)と言っています。さらに、そのローマ書の巻末に「信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなた方を堅く立たせる。」(ローマ16・26)とあります。

「信仰の従順」というのは、「信仰つまり従順」とされたり、「信仰をもてば従順になる」とされたり、「信仰者がもつ従順」とされたりしますが、信仰に従順というものが堅く結びついているということに変わりはありません。大事なことは、それが信仰者にとって目標であり、奥義であるということです。もし体得するならば、堅く信仰に立つことを信仰者にさせるが、奥義である限り、簡単に取得できるものではなく「隠されていたもの」であり、啓示されていたものであるということです。

 民数記から連続説教をしていますが、イスラエルの人々の不従順は、すさまじいほどのものです。事ごとに、神に逆らい、モーセに逆らっています。皆さんは、読んでいて、まったくひどい不信仰な民であると、思われることでしょう。モーセも、手に負えなくなって「やってられない」と自分を殺してくれと、神様に願っているほどです(民数記11・15)。

 わたしが牧師になってしばらくして、やはり「やってられない。」と鬼怒川の山に登り、神に文句を言おうと思ったことはお話ししました。神は、何も答えてくださらず、夜中になっても湿った枯れ木は燃え上がらずに、寒さの中で凍えていました。夜通し祈って神に答えをもらおうと思ったのに、焚火の世話だけで夜中を過ぎた時に、日本人の魂は、この芯まで湿ってしまった枯れ木のようなものなのだと、ふと思わせられました。夜中の2時を過ぎるころ、やっと燃えだしてきた枯れ木に喜んでいたら、雨が降って来て、あわてて闇夜の道なき道を下山して遭難しかかったのです。「神様、二度と牧師としての苦しさに文句を言いません。どうぞ、私の命を助けてください。」と悔い改めたのです。

 私などは、うまくいっているほうで、愚痴をいっては申し訳ないですが、日本の殆どの牧師は大変辛い情況にいるでしょう。求道者が起こるように一生懸命伝道したものの、教会に来たからといって、簡単には洗礼を受けるものではありません。祈り教え世話をして教会員になっても、大して献金もしない人が殆どです。牧師が世の中で働いて収入を得て、教会を維持している場合も多いようです。そして、説教が悪いとか、牧会ができないとか、事務能力がない、などと言われて、勝手に教会を去っていってしまう人もいます。傷ついている心に、非難までされて、経済的にも苦境に陥る、・・・・やってられない職業です。

 殆どの牧師がしばらくすると自分が、それほど牧師の能力がないことに気が付きます。しかし、時既に遅し、牧師という職業は、一度なったら辞めることは殆ど不可能な職業です。転職が流行っている時代で、高級官僚や医者でさえ、転職をするようです。しかし、キリスト教の牧師が、牧師を辞めるというのは難しいことです。4月から神学校に入る人がいますが、思い直すときはかなりなくなっています。人から馬鹿にされ、言いたいことを言われ、報いはなく、労働は激しく休む暇もない。収入もないのに、勉強をしなければならず、みっともない格好もできない。腹がたつことは許されず、笑顔が要求される。

 聖書の言葉は、麗しいことばかりではなく、悔い改めや献身を促すことも多くあり、信者に聞きやすい優しいことばかり言っては、牧師としての責任が神に問われると聖書にあります(エゼキエル33,34章)。それなのに、「あなたは分を越えている。なぜ、上に立つのか。」などと非難される(3節)。

 牧師が牧師であり続けることが、信仰の従順であると思っています。無能力な牧師を非難する人もいるでしょうが、彼らに代わって弁護します。彼らだって、自分が牧師にふさわしく、素晴らしいとは思っていない。しかし、神が牧師として召したから、牧師になったのであって、神に従っているのです。

 皆さんは、クリスチャンである、旗印を明確にしているでしょうか。立派でなかろうと、祝福されていなかろうと、この世の恥であると思われようと、クリスチャンであることを明確にしてください。

 「信仰者として証しが立つように生きたい。」と考え、立派であろうとすることは、従順の信仰ではありません。私が牧師として、信仰者として立派でない証拠をつかんだとしても、つまらないことです。わたしは、そのようなことを気にしておりません。責めるならば、謝るだけです。しかし、私は、神に愛され、神を愛し、人を愛し、そして神に従っているのです。

 多くのクリスチャンが、神に従うのではなく、自分の信仰像を描いて、そのようになろうとしています。「立派なクリスチャン」などになろうとしてはいけません。神に従えなくなってしまいます。立派でない人を裁いてしまいます。

 多くの苦しみがあり、葛藤があり、判断にも悩みます。そして、祈り、求め、神の御心を探りながら毎日を過ごします。失敗や恥など気にしていたら、道を誤ってしまいます。神の道が、人には愚かと見えるものであることも経験してきました。悔い改め、神に従って行きましょう。


3月16日 讃美隊となったコラの子孫。  U歴代誌201521
U歴代誌
20:15
彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。

20:16
あす、彼らのところに攻め下れ。見よ。彼らはツィツの上り道から上って来る。あなたがたはエルエルの荒野の前の谷のはずれで、彼らに会う。

20:17
この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』」

20:18
それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して主を礼拝し、

20:19
ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。

20:20
こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」

20:21
それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」



 指導者モーセへの反逆で神の怒りをかい、一族が皆、地が割れてそこにのみ込まれることになってしまいました。レビの子孫は、アロンの家系だけが祭司であり、その他のレビ族は献身をしていても下働きだったのでアロンに反発をしたのです。ルべン族もヤコブの長男だったので、指導権を主張したのです。

 先週、説明したように信仰の極意は従順であり、自分の能力や立場に関わらず、それぞれの歩みをすることが大事なことです。時には、うまくいかないこともあり、みっともないことや失敗もあるかもしれませんが、そういう時にこそ、従順が問われるのです。

 コラの主張は全員の聖であり、平等であり、最もだと思う人がいるならば、現代の平等主義という惑わしに染まっています。人間は平等ではありません。子は、親に対して文句や正義を言うことは、神によって許されていません。親の性格や行いの悪さを訴える者は、神によって罰せられます。人間の能力や性格には、神の前では違いはさほどありません。ただ、忠実であることによって、その人の親に対する義が証明されるのです。そういう面で、現代は、真理が頭脳的な理解の水準に損なわれています。真理は、どのように実行したかによって、審査されるので、人の考える論理などは神の前に通じません。

 さて、神の怒りによって滅びたかに見えたコラの子孫ですが、「しかし、コラの子たちは死ななかった。」(26・11)。神が、反逆する者を懲らしめ、罰するということを私たちは知っていなければなりません。すべての人が神の裁きの前に生きているということを意識しなければ、それぞれの論理や主張が幅をきかせます。自分を自分の論理によって義として、人々を非難・批判する者は、神が容赦しないことを悟っていなければなりません。そういう面では、聖書を知っている私たちクリスチャンには、人を裁く権利は一切与えられていません。

 モーセに反逆し、神の怒りをかって地にのみ込まれた先祖を持つコラの子孫の肩身の狭さは、信仰国家のイスラエルではどんなにか苦しいものだったでしょう。ましてや、レビ族に属する彼らは、自らの所有地がないので神殿に仕えるしかなかったのです。周囲は、宗教的儀式を執り行い、神殿に仕える信仰熱心な同族ばかりの中で「反逆者・神の怒りをかった人々」というレッテルは、厳しいものでした。

 T歴代誌9章には、サムエルとダビデがコラの子孫を神殿の門衛として彼らを定めたと記されています(22)。31節には穀物の献げ物を作る手鍋の仕事、つまり献げ物の料理人の仕事が彼らに任せられているとあります。穀物のささげ物は日々の行いの清めであり、祭司に残りが与えられます。こういう地道な仕事に仕えながら、彼らは年月を経て癒されていったのではないでしょうか。

 ところが、更に時代が過ぎ、ヨシャパテ王の時代にアモン人とモアブ人が大挙して攻めてくることが起こりました。おびただしい敵の軍を前に、神の霊が下ります。「恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いは、あなた方の戦いではなく、神の戦いであるから。」と語られます。「しっかり立って、動かずにいよ。あなた方とともにいる主の救いを見よ。」と主は言われるのです。それに応じて、ヨシャパテ王は地にひれ伏し、コラの子たちが立ち上がり、大声を張り上げて主を賛美するのです。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」(U歴代20・21)。

 詩編の第一巻41章まではダビデの賛歌がですが、42編からコラの子たちの賛歌が続いています。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。42:1-5

 なんという麗しい詩でしょうか。なんと多くの人々がこの詩によって慰められ励まされていることでしょうか。私もまた、この詩を詠んでいると涙がでてしまいます。

 コラたちの犯した罪は大きかったのですが、その祖先をもった人々の罪を自覚した真摯の信仰は、神を動かし歴史をも動かし、そして私たちに感動を与えているのです。

 毎年、大きな戦いを経験してきました。今年もまた、大きな戦いが起こりました。気落ちしかける時、「気落ちしてはならない。」というこの聖句が浮かびます。私とて、普通の人間ですから弱くないことはありません。しかし、気落ちしてはいけないのです。気落ちしたり、失望する人は、神を信じていないのです。勝手に、自らの歩みを止めてはならないのです。

 主が働いてくださることを信じ、「主に感謝し、その恵みを喜びましょう。」


3月23日  キリストとの同行二人。  マタイ2820  櫻井圀郎師

聖 書: マタイ2820b    

直 訳: 見よ。我、汝らと共に在り。世の完成までの全ての日々。アーメン。


 序

 日本社会は大きく歪んでいる。原因は、戦後60年の無神論、唯物論、進化論、自立・自律教育。

 「無神論」とは、神を否定するだけでなく、己を神とする「自己神論」である。

 人間が神となり、自己中心の勝手気侭な生き方、正義も善悪も自分次第だから、これが問題。


   ■ 基督の同行

 「我、汝らと共に在り」⇒人間の自立・自律ではない。共にいる我=基督が強調されている。

 自立志向・自律思想では「一人ぼっち」、困難な人生。一方、基督者は「基督と共にある者」。

 全知全能の神が立て、支え、律し、導くのだから、基督者の力は強く、働きは大きい。


   ■ 基督の復活

1 基督の復活と時間

 2000年前に死んだ基督がどうして私たちと一緒にいるということがあるのか?

 基督は十字架で死んで(金曜日の午後)、復活(日曜日の朝)。復活記念の礼拝を続けてきた。

 映画『黄泉がえり』:阿蘇で数千人の黄泉がえり。死人の生き返りなら、また死んでしまう。

 基督の復活は、人間の生き返りではなく、永遠の神への復活。それは人間の救いのため。

 唯物論・進化論では人間の生きる意味がない。「なぜ人を殺してはならないのか」が難問となる。


2 基督の復活と空間

 中東・地中海の基督が極東・日本の私たちとどうして一緒にいることができるのか?

 基督の復活は、死人の生き返りではない。幽霊でなく、肉体のある復活だが、物質的ではない。


3 基督の復活と永遠

 基督の復活は、時間と空間を超越したもの、超時空。「永遠」とは、神の存在のこと。

 永遠とは、時間が長い事ではない。時間下にないのだから。永遠とは、神の栄光の表現。


   ■ 世界の完成

 基督の言葉「世の完成までの全ての日々(我、汝らと共に在り)」。一般には「世の終わり」。

 「世の終わり」だと、悲惨な光景が思い浮かべられる。現世中心の唯物論・進化論の考え方。

 「世の完成」が未来ということは、現在が未完成ということ。世は完成を目指して歩む途上。

 人間の死とは、神からの離反。人間の生命とは、神との関係にあること。

 洗礼は、基督を信じ、基督と一つになる儀式。基督と共に死に、共に復活する。共に勝利する。

 仏教「南無阿弥陀仏」、遍路「南無大師遍照金剛」、基督教「南無基督」。「南無」=「我、信ず」。

 基督の「我、世の完成に至るまで、汝らと共に在るなり」に、「アーメン!」と応答しよう


3月30日 祭司職は賜物の奉仕。  民数記2017 
新改訳 民 18:1-7

18:1
そこで、主はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。そしてあなたと、あなたとともにいるあなたの子たちが、あなたがたの祭司職にかかわる咎を負わなければならない。

18:2
しかし、あなたの父祖の部族であるレビ族のあなたの身内の者たちも、あなたに近づけよ。彼らがあなたに配属され、あかしの天幕の前で、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちに仕えるためである。

18:3
彼らはあなたのための任務と、天幕全体の任務を果たすのである。しかし彼らは、聖所の器具と祭壇とに、近づいてはならない。彼らも、あなたがたも、死ぬことのないためである。

18:4
彼らがあなたに配属され、天幕の奉仕のすべてにかかわる会見の天幕の任務を果たす。ほかの者があなたがたに近づいてはならない。

18:5
あなたがたが聖所の任務と祭壇の任務を果たすなら、イスラエル人に再び激しい怒りが下ることはない。

18:6
今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエル人の中から取り、会見の天幕の奉仕をするために、彼らを主にささげられたあなたがたへの贈り物とする。

18:7
あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、祭壇に関するすべてのことや、垂れ幕の内側のことについてのあなたがたの祭司職を守り、奉仕しなければならない。わたしはあなたがたの祭司職を賜物の奉仕として与える。ほかの者で近づく者は死ななければならない。」



 民数記16、17章にあるように、神の幕屋や神殿に仕えるのは、レビ族であり、祭司だけであると定められます。他の人々が、それをすると罰せられ、滅ぼされるとあります。18章には、レビ族が聖所に関わる咎を負い、アロンの子孫が祭司職に関わる咎を負うとあります。これは、聖所が汚れると、その責任をレビ族が負わされ、祭司としての働きが損なわれると彼らが責任を問われるということです。

 このような悪いことをしてなくても、物事がうまくいかなかったり、問題が起こったら責任を問われ、罰せられる、ということを理解しない人が多くなってきたように思われます。日本という国がうまくいかなくなり、問題が起こってきたら、首相が責任を問われます。家族が問題を起こしたら、父親の責任が問われます。責任者というのは、自らが悪いことをしたかどうか、ということではなくて、あるべき姿、方向に進めていき、成功させるという責任を負うているのです。

 親は、子供を幸せにするという責任を神から与えられています。子供を放置して死なせたら罰せられるのは当然ですが、子供を放置して霊的に堕落させても、神から罰せられるのです。子供に対しては、親を敬いなさいという十戒(申命記5章)がありますが、実は、それ以上に重い戒めが親に課せられているのです。子供を養い、育て、愛し、祝福するという当然なことがあるのです。

 親子関係は、能力に依存するものではありません。牧師職というのも、能力に依存するものではありません。7節には、祭司職を賜物の奉仕として与えると、ありますが、親ということも、牧師ということも、神から与えられた働きなのです。ですから、いやだとか、向いていないとか、能力がない、とか言ってはならないのです。大事なのは献身なのです。

 そして、家庭に問題が起こったら罰せられるのは親であり、教会に問題が起こったら牧師であると自覚することが大事なのです。だから親は子を罰することができるのです。それは、論理や善悪を超えたものであって、子が親に従わなかったら、罰せられるのです。

 牧師の語る言葉も、権威あるものなのです。牧師も生身の人間ですが、神にあって祈り、とりなし、祝福する者であり、教会の構成員の祝福の鍵を握っているのです。ですから説教として語られる言葉は、聞いても聞かなくても良いものではなく、聞き従うことが求められるのです。何度助言しても、言い訳を言い、自分の状況を変えようとしない人々もいます。しかし、その人々を見捨てることは許されません。

 最近の親や指導者に欠けているのは、そのような所属する者への究極的な責任です。国を良くし、発展させるという気概が首相には必要であって、多数決や与党の論理で動かそうとしてはなりません。従わない者の声を聞き、その人を含めた全体を祝福しなければならないのです。

そういう面で、指導者は、一生懸命働いているとか、悪いことをしていないとか、命令を守っているとか、善意であるとか、しょうがなかったのだとか、言い訳を言うことは認められていません。結果責任なのです。

 信仰者で、神に言い訳を言うか、持っている人によく出会います。神の基準は絶対的であって、相対的なものではありません。すべてを見抜く神の前に、どのような言い訳も通じないことを、私たちは自覚していなければなりません。

 Tペテロ2章13節からの聖句を見てください。「すべての制度に、主の故に従いなさい。」「善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」「不当な苦しみをうけ」、「悲しみをこらえ」、「罵られても罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず」正しく裁かれる方にお任せするのです。信仰者というのは、そういうものです。

 日々の仕事をコツコツと果たし、愚痴を言わず、感謝をもって人と接し、労力を惜しまずに神と人とに仕える。それが献身者の人生です。そして、クリスチャンというのは、この祭司に任命されたのです。

あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。(Tペテロ2:9-10