10月7日 主の御名によって悪に立ち向かう。  Tサムエル記173949

新改訳 Tサム17:39-49

17:39
ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ、

17:40
自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。

17:41
そのペリシテ人も盾持ちを先に立て、ダビデのほうにじりじりと進んで来た。

17:42
ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。

17:43
ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。

17:44
ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」

17:45
ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。

17:46
きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。

17:47
この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」

17:48
そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。

17:49
ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。

 イスラエルの軍の前にペリシテ人のゴリヤテが現れて、全軍の前で一対一の前哨戦を挑んできました。彼は巨人族の末裔で2m80センチもあり、付けている鎧は57キロもありました。こんな怪人と対決する勇者がいるはずもありません。イスラエル軍は意気消沈してしまいますが、40日の間、朝晩脅してきますから、もはや戦いは負けたも同然でした。

 そんな時、サムエルに油注がれていたダビデが、戦争に出ていた3人の兄達の安否を探るために父の使いで出向いていました。皆がおびえている中で、ダビデは「生ける神の陣をなぶるとは。」(17・26)と腹を立てます。民がおびえている中で、悪に対して平気で腹を立てる人間は少ないものです。たちまち目立ってサウル王の所に呼ばれます。しかし、17歳くらいの青年に驚いたサウルは、思いとどまらせようとします。

 信仰に燃え、血気盛んなダビデは、自分が羊を飼いながら獅子や熊をやっつけていることを語り、神を侮るゴリヤテへの怒りを表します。本来は、誰よりも頭一つ背の高いと言われるサウルが対決に応じるべきですが、臆しているサウルにはもとより戦いに出る勇気はありません。自分の鎧を貸して、ともかく誰かを対決させることで表面を繕おうとします。

 このことで、サウルは自らが王としての責任や国が滅んでしまうという危機感よりも、自分の身だけを守ろうとしていることがわかります。実際には、この戦いに負けたら自分も滅びることは明白なのに、そのようには考えておりません。

 恐怖に対して、信仰や勇気を持って対抗する人は少ないようです。R・キヨサキの「経済的自由があなたのものになる」という本を読みましたが、多くの人は損をするという恐怖心からお金を自分の判断で動かすことをしないで、政府や銀行に任せていると指摘しています。そして、一生懸命働けば豊かになると信じて労働しているが、自分の生活や経済について何も考えていない、と言います。

 多くの人が感情によって毎日の生活や人生を左右されています。エラスムスは、感情と理性の力関係は24対1であると指摘したそうです。その比率が24以上になった時に、依存症や恐怖症になるとキヨサキは言います。つまり、日常の生活で理性によって支配される判断は5%に過ぎず、感情が高まった時には、殆ど理性的には行動できないのです。

 私自身も感情的になって失敗したことは多くあります。それで、数年前から自分に掟を課しています。掟というのは、どんなことがあっても破ってはならないという戒めであって、これは感情に勝つことができます。

1. 人を攻撃するな。

2. 人の話を聞け。(何か自分の意見を言う前に)

3. 私は完璧ではない。(いつでも自分の考えを変えろ)

4. 人を祝福するために生きているのだ。

 この戒めを持ってから、かなり自分が変わってきたことに気が付いています。但し、成功率は100%ではありません。ともかく、恐怖、自尊心、敵意、などの感情によって、自分を滅ぼす行動を取るのであって、例えば十戒というものは、神の命令であって、守っても守らなくても良いというものではありません。

 ですから、ダビデが直ぐに気が付いたように、「主は、私たちがこのすべての掟を行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちが幸せであり、生き残るためである。」(申命記6・24)という戒めを守ろうとすれば、ゴリヤテをやっつけなければならないのでした。

 日常生活の中で、当然ながら、敵をやっつけるとか、攻撃するとかはイエス様の教えではありません。イエス様の教えは「善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12・21)です。しかし、心の中のゴリヤテをやっつけなければならないのです。それが、恐怖心であり、自尊心であり、敵意なのです。

 他の人があなたを攻撃し、馬鹿にし、或いは恐怖を与えようとするときに、私たちは、「主が剣や槍を使わずに救うことを知る」(47)必要があるのです。ダビデは、鎧や兜を付けないで、剣も持ちませんでした。普段から持っている自分の杖を持ち、川から滑らかな石を5つ取り、石投げを用いました。そして、唯一の急所の額を打ったのです。

 それらが何を意味しているか、などと説明するのは異端的な解釈です。ともかく、解決は日常生活の中にあるのです。そして、神は私たちが、敵と戦う勇気さえ持つならば、私たちを助け、救ってくださるのです。神の子となった私たちを救い、守るのは、父なる神として当然で当たり前のことなのです。問題は、私たちが自分の立場を忘れ、サウルのように保身に走って、人間的に解決しようとすることなのです。

 あなたの前にゴリヤテはいつでも現れてきます。巨人で、どうにもかないそうもなく、対処できそうもない強敵です。でも、神に助けを求め、神の力によって勝とうと勇気を持たなければなりません。「恐れてはいけない」という戒めを確固として持つべきです。あなたが、弱い分野があると認めるのならば、その弱さに負けないという戒めを持つべきです。負けたなら、国は滅び、自分も滅んでしまったのです。

 多くの人が信仰を持っていながら、用いていません。そして、人生の戦いに負けています。サウルのように惨めな生き方を選んではいけません。サウルは感情に負けて、信仰の人生にも負けてしまったのです。

10月14日 憎むか愛するか地獄か天国か。  Tサムエル記18619

新改訳 Tサム18:6-16

18:6
ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。

18:7
女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」

18:8
サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」

18:9
その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。

18:10
その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。

18:11
サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。

18:12
サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。

18:13
それでサウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは民の先に立って行動していた。

18:14
ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。

18:15
ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。

18:16
イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動していたからである。

18:17
あるとき、サウルはダビデに言った。「これは、私の上の娘メラブだ。これをあなたの妻として与えよう。ただ、私のために勇敢にふるまい、主の戦いを戦ってくれ。」サウルは、自分の手を下さないで、ペリシテ人の手を彼に下そう、と思ったのである。

18:18
ダビデはサウルに言った。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるなどとは。」

18:19
ところが、サウルの娘メラブをダビデに与える、という時になって、彼女はメホラ人のアデリエルに妻として与えられた。



 ガラテヤ五章には肉の行ないが説明されており、以下のように分類し得ます。

1. 性的な罪――不品行、汚れ、好色

2. 異教的な罪――偶像礼拝、魔術

3. 人間関係の罪――敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ

4. 不摂生の罪――酩酊、遊興

 これらは、同列に挙げられ、神の国に行けない肉の行ないとされます。ところが、こういうものは世俗的感覚や風土によって、あるものは軽く見られることがあります。ある人たちは、酩酊や遊興が罪になるのなら、そんな厳しい基準は誰も守れるはずがないと言います。他方、性的な罪は過大に取られるところも、過少に取られるところもあるようです。

 要するに、判断基準が世俗的なのです。この後で、御霊の実が挙げられていますが、愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制などの神の御霊によって満たされて過ごしていない者にとっては、肉の行いの軽重が気になるのです。

 正直言って、クリスチャン同士ばかりか、牧師同士でも争うことがあります。しかし、聖霊に満たされていたら、人を攻撃するとか争うとか、お酒に酩酊するとか、遊興にうつつを抜かすとかあり得ないことです。好色などは論外です。

 以前、自分の正しさを根拠に妻を責めたことがあります。弁解もできず、落ち込んでいる妻を見ながら、ふと気が付きました。「今、この瞬間、空中再臨があったり、自分が死んだら、私は神の国に行く資格がない。」そして、心から悔い改めました。先週、私の自戒の中で「人を責めない。」とあるのは、このようにしてできました。「誰でも、立派でない自分を何か立派でもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」「(ガラテヤ6・3)「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(6・7

 怪人ゴリヤテを打ち倒したダビデをサウルの子であるヨナタンは心から愛しました。そして、武具を持っていないダビデに自分の物を与えました。ダビデは、サウルの遣わす所どこででも大勝利を収めました。神の祝福のしるしは勝利です。私たちは信仰者として、この地上の人生でなるべく勝利を収めるように努力をする必要があります。ただ、それは聖霊に満たされた上でという基準を忘れてはなりません。私たちは、天国に続く道を歩むためにこの人生を生きているのであって、勝利を収めようとして聖霊に満たされないで、肉の行いを犯したら道を踏み外してしまっているのです。

 聖霊と神の祝福に満たされたダビデは人々を喜ばせました(18・6)。ところが、人々は明るいダビデを喜び、陰気なサウルを嫌います。そして、7節にあるようにサウル王を軽んじます。ダビデは、まだ若かった。聖霊に満たされていても、慎重にこの世に対処しないと、まさにこの世の肉の行ないの餌食になります。敵意、憎しみ、憤り、ねたみ・・・・サウル王に命を狙われることになりました。

しかし、多くの人がここで間違いを犯します。「無実なのに攻撃されたのだから、攻撃を返す権利があるし、自分を守るためにも反撃をしなければならない。」と考えるのです。或いは、「相手が悪いのが明確になったから、反省していない彼を反省させることは神の義に通じる。」などと、罪の餌食になるのです。

 妻子が理不尽にも殺害された夫が、犯人の死刑を要求する闘争をしているテレビをニュースで見ました。思わず、可哀相で取り成しの祈りをしました。しかし、その夫自身の心の憎しみが、おそらく彼の人生を破滅させていくのではと思います。 「あなたは自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち、自分で復讐してはなりません。神の怒りに任せなさい。」(ローマ12・18.19)。ここで、「愛する人たち」と呼びかけているのは、自分の愛する弟子たちに、決して人を呪うようなことをして、サタンの罠にはまってはならない、と注意を促しているからです。

 私がダビデに感動するのは、ダビデがサウル王に2度も槍で命を狙われながら、決してサウル王に反撃しないで、その命令を行っているのです。そして、大勝利をしているのです。32年前に聖書を初めて読んだ時、このダビデの信仰と誠実さと勇気に感動したことを忘れることはありません。

 自戒の「人を祝福する」とはマタイ10章13節に、「平安を祈っても相手がそれにふさわしくなければ、その平安は自分のところに返ってくる」とあるので、私は皆さんに「奥義・祝福返し」と名づけて奥義を伝授します。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(Tペテロ3・9)。

 私は自分の祈りが必ず神に聴かれていると確信しております。その確信は、ダビデに教わりました。私を攻撃し非難してくる人を呪ったり、攻撃しなければ、神に自分の身を委ねているという証拠であり、神は必ずその義に掛けて、私を守ってくださるのであります。また、自分の祈りは必ず聴かれるという確信があるからこそ、決して人を呪うことはできません。

 もし、あなたが神の御霊に満たされていたら、右に行っても祝福され、左に行っても祝福されます。聖霊に満たされている証拠は、冒頭に挙げた肉の行ないを一つでもしていないことによって示されます。そんなことが難しいとか、できないとか考えるのは自分の能力によって信仰生活を歩もうとしていたり、聖霊なる神を自分の支配下に置きたいからです。そんなことは考えず、ただ聖霊に満たされることを求めて日々を過ごすべきです。

 聖霊に満たされるためには、自分の理性・感情を信仰の下に位置づけることです。先週お伝えしたように、特に、感情には注意してください。


10月21日 命懸けの友情。  Tサムエル記20717

新改訳 Tサム20:7-17

20:7
もし、父上が『よし。』とおっしゃれば、このしもべは安全です。もし、激しくお怒りになれば、私に害を加える決心をしておられると思ってください。

20:8
どうか、このしもべに真実を尽くしてください。あなたは主に誓って、このしもべと契約を結んでおられるからです。もし、私に咎があれば、あなたが私を殺してください。どうして私を父上のところにまで連れ出す必要がありましょう。」

20:9
ヨナタンは言った。「絶対にそんなことはありません。父があなたに害を加える決心をしていることが確かにわかったら、あなたに知らせないでおくはずはありません。」

20:10
ダビデはヨナタンに言った。「もし父上が、きびしい返事をなさったら、だれが私に知らせてくれましょう。」

20:11
ヨナタンはダビデに言った。「さあ、野原に出ましょう。」こうしてふたりは野原に出た。

20:12
ヨナタンはイスラエルの神、主に誓ってダビデに言った。「あすかあさってかの今ごろ、私は父の気持ちを探ってみます。ダビデに対して寛大であれば、必ず人をやって、あなたの耳に入れましょう。

20:13
もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がしてあげなかったなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰せられるように。主が私の父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。

20:14
もし、私が生きながらえておれば、主の恵みを私に施してください。たとい、私が死ぬようなことがあっても、

20:15
あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。」

20:16
こうしてヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「主がダビデの敵に血の責めを問われるように。」

20:17
ヨナタンは、もう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。


 私には、親友に裏切られたことが一度、普通に付き合っていた友人に酒に酔った勢いで毒づかれたことが一度、そしてある程度親しかった友人に真摯に助けられたことが一度あります。何れも大学までの出来事で、今思えば、そういう行動に出る人間であったのを見抜けなかった私の未熟さであることがわかります。しかし、人間関係に躓き、吹奏楽部を辞めようとした私を決して放さずに、部室まで引きずりこんだ品川君のお陰で、音楽に親しむ習慣を身に付けました。部はその年、私の出ない県大会で2位でしたが、参加した関東大会では県一位をしのぎ、優勝同点の2位でした。人に躓くことの愚かさを身に染みた中3の出来事でした。彼の誠実さがなければ、私の人生はつまらないものになっていたかもしれません。そして、その後の友の裏切りの傷を覆う程の友情の思い出を形成しておりました。

 誠実に仕えても、多くの成果を挙げてもサウル王からは嫌われ、裏切られ、殺そうとされ、そしてついに、王の命令でダビデ殺害命令が出てしまいました。ダビデには、王に対する敵意もなく、反抗もしていないのに、一方的に無実なのに殺そうとされるのです。

 私が、最初にこの記事を読んだ時、ダビデの正義に興奮し、サウルの愚かさと暴力に腹が立ちました。信仰の年限を積む中で理由なき中傷、攻撃、そして意味のわからない試練や苦しみが何十回となく、私に押し寄せてきました。そんな時、ダビデの苦しみ、ダビデの正義を思いました。そして、さらに無実の罪で十字架に付けられ、それでもなお、自分を殺そうとする人々をとりなすイエス様の愛を覚えました。

 さらに、それをもがき苦しむならば、決して福音は伝わらないこと、試練や裏切りをも全て受け入れ、反って喜んでしまうのが福音の奥義であることをパウロの教えによって知りました。パウロは、福音宣教ゆえに投獄され、死刑がまじかになっていることを知ったときに、「たとい私が、注ぎの供え物になっても喜びます。」(ピリピ2・17)と教えます。

 神がおられなければ、正義はありません。神を信じる者は、正義を神に委ねるのです。自分の正しさは、神が知っておられます。自分の信仰と正しさに確信がない者は、神の義に自らを委ねることはできません。

 人は自らの言動が正しいと思うから、断固とした行動を起こします。傍から見れば、サウルには分がないかもしれません。しかし、彼としては、王権を揺るがず敵がダビデだったのです。王権を神からのものと捉えることができず、自分に固有なものと考えてしまったサウルにとって、神の預言者サムエルも、忠実な部下ダビデも敵になってしまったのです。

 なんと多くの人が、キリストの義を土台とせずに自分の義を土台として行動し、自分の王国を立てようとすることでしょうか。未信者然り、信者然り、そして、牧師にもそういう人はいるのです。怖いことです。人は、誰も自分の義では神の国には入れないのです。サウルの愚かさを責めることができる人は、どれだけいるのでしょうか。

 神の義を旗しるしにする人は、試練の中でも喜ばなければなりません。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみに預かることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ3・10、11)。自分の力で勝利しよう、義を立てようとする人は、苦悩します。しかし、真に神に委ねる者のみが、神の大能によって勝利をするのです。そして、自らの人生を委ねているか否かは、人生における幾多の試練・苦難を喜んで受け入れているか否かによって証明されるのです。

 ヨナタンの助言によってサウルは反省しました(Tサムエル19・5,6)。しかし、人の諭しや教えによって心を変えるほど、人間の罪は簡単なものではありません。直ぐにダビデを殺そうとします(19・11)。神の霊が臨み、聖霊に満たされて、理性を忘れても、しばらくすると敵意は戻ります(19・23)。

 私は権力を持ち、地位を得た多くの人が初心を忘れ、謙遜な霊性を失ってしまうのを見てきました。彼らは、地位を得ても神の国を得ることはできないでしょう。イエス様が「金持ちが天の御国に入ることは難しい」(マタイ19・23)と言われたことは事実です。神の国は、種蒔きのようです。(マタイ13章)

 神を信じ罪を悔い改めて救われます。しかし、多くの人が「自分のうちに根がないため・・・、困難や迫害が起こると直ぐに躓いてしまいます。」また「この世の心遣いと富の惑わしとが、みことばを塞ぐため実を結ばない。」実際に、神の国の実を実らせている人は、100倍、60倍、30倍の実を結ぶ人です。ここでは、自分自身が実ということですから、自分の生涯で多くの人を救いに導くということです。伝道をしようとしていない人は、躓いているのです。或いは、みことばを塞いでいるのです。

 ダビデはヨナタンの友情によって、誠実な人間でいられ続けました。「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」(Tヨハネ4・10,11

 供え物とは、私たちの罪の身代わりとしてイエス様が罰を受けたことを意味します。ヨナタンが自分の命を掛けて、ダビデを愛し、救おうとされたことは、実はイエス様の予表なのです。あなたも、キリストの愛を受け入れてください。


10月28日 戦う覚悟をするか否か。  Tサムエル記221319


新改訳 Tサム22:13-19

22:13
サウルは彼に言った。「おまえとエッサイの子は、なぜ私に謀反を企てるのか。おまえは彼にパンと剣を与え、彼がきょうあるように、私に、はむかうために彼のために神に伺ったりしている。」

22:14
アヒメレクは王に答えて言った。「あなたの家来のうち、ダビデほど忠実な者が、ほかにだれかいるでしょうか。ダビデは王の婿であり、あなたの護衛の長であり、あなたの家では尊敬されているではありませんか。

22:15
私が彼のために神に伺うのは、きょうに始まったことでしょうか。決して、決して。王さま。私や、私の父の家の者全部に汚名を着せないでください。しもべは、この事件については、いっさい知らないのですから。」

22:16
しかし王は言った。「アヒメレク。おまえは必ず死ななければならない。おまえも、おまえの父の家の者全部もだ。」

22:17
それから、王はそばに立っていた近衛兵たちに言った。「近寄って、主の祭司たちを殺せ。彼らはダビデにくみし、彼が逃げているのを知りながら、それを私の耳に入れなかったからだ。」しかし王の家来たちは、主の祭司たちに手を出して撃ちかかろうとはしなかった。

22:18
それで王はドエグに言った。「おまえが近寄って祭司たちに撃ちかかれ。」そこでエドム人ドエグが近寄って、祭司たちに撃ちかかった。その日、彼は八十五人を殺した。それぞれ亜麻布のエポデを着ていた人であった。

22:19
彼は祭司の町ノブを、男も女も、子どもも乳飲み子までも、剣の刃で打った。牛もろばも羊も、剣の刃で打った。


  今回の訪米は非常にメモリアルなものになると思います。私は、どんな時でも『人生を味わう』ということがモットーなので、団体で研修旅行に行く時も、抜け出て何かしらの個人的なエンジョイをします。今回は、途中シカゴ美術館に二時間ほど寄れたことがうれしかったのですが、旅全体が『味わい深い』ものでした。

 ショー博士もローリー社長もそれぞれ家族に自閉症の患者を抱え、その治療に生涯を掛けておられる、私たち夫婦にとって同志のような意識を感じた誠実な方々でした。二日後にブラジル講演を控えているのに、昼食を市内のテラス・レストランに導いたりして一日を共に費やしてくださりました。今後、マリヤ・クリニックでは、日本で最初の精神疾患と自閉症に関する本格的な栄養治療を始めようと決心しました。製品の輸入についての打合せもできました。

 米国教団は1万3千教会の本部と全世界に送る2700人の宣教師の本部として広大な施設と多くの職員を抱えています。顧問弁護士に米国の教規や内規そして組織のことを聴き取るために訪米したのですが、総理や総務局長とも会談し、全理事にも紹介されるという非常に名誉な機会を得ました。1914年に531名の牧師によって創立された当教団が、異端や諸問題と戦いながら解決をなし成長を遂げてきた成果が、教規や内規として形成され、そして何千頁に亘る事例集となっているのです。

 戦いを恐れては前進や成功はありません。私は、日本における分子整合医学の医療機関と施設を建て上げていこうという願いと、日本の教団の強力な組織・体制作りに仕えてリバイバルに貢献したいという思いを強くしました。ハマー弁護士は、世にある働きを辞めて教団のスタッフとして奉仕し、アメリカ中の教会の法律・税の問題解決に貢献しています。同行した息子のモンドが、税理士として教会の諸問題に対応する働きをして欲しいという願いも持てました。日本では、専門職の信者が教会の働きに関与することがなく、教会と信者が社会の攻撃にさらされています。

 さて、今日の聖書箇所は、ダビデがサウル王に命を狙われ続けるところです。ダビデをかばう息子ヨナタンに対して、王権を危うくするダビデを殺さなければならないことをサウル王は、怒って教えます。人は自らの地位保全に固執し、醜態を晒して罪を犯すようです。

私自身は、いつも神の義の前に自らを委ねる決心を絶えず心掛けています。例えば、海外旅行の前は常に死ぬことを覚悟するように妻に語って旅立ちます。現代のような日常生活では変に思うかもしれませんが、実は『いつでも死ねる、何でも委ねる』という覚悟は信仰者として大事なものであると私は考えています。心臓を悪くし、主の臨在と恵みを体験した1987年以来、疲れて体調を悪くすると起こる、そのような不安が自分の信仰と謙遜を守るものとなっています。

サウルの場合、自分の不安を神への信仰によって覆うことをせず、人を攻撃するものとなっています。他方、息子ヨナタンは自らへの王位継承を問題にせず、信仰と友情を強くしています。危機や困難、諸問題が起こる時に、その人の真実な姿勢が表に現れるのです。信仰を口にしても、神が問われるのは、そのような時の姿です。当教団が抱える問題も、対応の仕方によって祝福されるか否かが、現れてきます。

  ダビデを助けた祭司アヒメレクは、サウルによって一族皆殺しに遇いました。それを実行したのが、異邦人ドエグでした。牧師や信者は、通常、保守的なものです。アヒメレクは「恐る恐る」ダビデに対応したことが記されています(21・1)。日本では、クリスチャンというのは保守的であり、消極的であり、意見をはっきりしないで日和見になる傾向があります。私は、それは聖書的でないと確信しています。聖書をよく読んでください。世は悪であり、戦わなければ悪に負けるのです。多くの信仰者が、そのようにして弱虫・役立たずになっているのです。「主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神の全ての武具を身に付けなさい。」(エペソ6・10,11)。

院長自らが低血糖症であったことを語った時に、ショー博士たちは私たちを信頼してくださったと思います。多くの人が問題を抱えた時に、言い訳を言って不信仰な行動をとります。神が祝福することはできません。私たちがここまでやってこれたことを、神の祝福以外に理由付けることはできないと思います。しかし、高慢になり人為的な方法を用いた時に神の祝福はなくなります。私は、心から精神疾患と自閉症を解決する医療機関を築き上げたいと願っています。私たちと重荷を共有する人は、いないでしょうか。ただ、その人は自らの人生を信仰によって歩んだ人でなければ、必ず暗礁に乗り上げ、私たちの同労者とはなれないでしょう。

ダビデのもとに集まったのは、@彼の家族でした。家族だというので殺されるので、覚悟を決めてきた人々です。また、A困窮している者でした。神やダビデにすがるしかない人々です。B負債のある者は、金によって縛られて自由にならないのを嫌いました。C不満があるだけでは行動しません。サウルの王制に不満を感じ、命を掛けてダビデの下に集まった人々です。

はっきり言ってゴロツキと言われるかもしれません。ところが、彼らこそが、この後に続く大変な苦難をダビデと共にしたのです。軍隊というのは、弱虫を強くするところです。大事なことは、彼が兵役を志願するということです。全ての教会員が、主の軍隊になることは難しいでしょう。しかし、戦わなければ、人生の諸問題に勝利することはできません。ともかく、ここまで戦ってきました。これからも戦っていく覚悟です。皆さんはいかがでしょうか。


11月4日 自分の都合で信じる人々。  Tサムエル記241222


新改訳 Tサム24:12-22

24:12
どうか、主が、私とあなたの間をさばき、主が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。

24:13
昔のことわざに、『悪は悪者から出る。』と言っているので、私はあなたを手にかけることはしません。

24:14
イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。あなたはだれを追いかけておられるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。

24:15
どうか主が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」

24:16
ダビデがこのようにサウルに語り終えたとき、サウルは、「これはあなたの声なのか。わが子ダビデよ。」と言った。サウルは声をあげて泣いた。

24:17
そしてダビデに言った。「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。

24:18
あなたが私に良いことをしていたことを、きょう、あなたは知らせてくれた。主が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかったからだ。

24:19
人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように。

24:20
あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。

24:21
さあ、主にかけて私に誓ってくれ。私のあとの私の子孫を断たず、私の名を私の父の家から根絶やしにしないことを。」

24:22
ダビデはこれをサウルに誓った。サウルは自分の家へ帰り、ダビデとその部下は要害へ上って行った。


 サウル王が多くの祭司を殺した中で、アヒメレクの子エブヤタルがダビデの所に逃れてきました。彼は、エポデという祭司用の衣装をもっており、神意を伺うことができました。無論、サウル王は祭司を殺したので、もはや神の御旨も助けも得る手段を失いました。自らが罪を犯し、神に伺うことができなくても、祭司、今で言えば牧師に助けを求めることができるのですが、その交流を切ってしまったのです。

ダビデはケイラの町をペリシテ人から救ったのですが、祭司に伺うとケイラの町はダビデを裏切ることがわかります。サウル王は軍隊を率いてダビデを追い続けますが、どのように調べ上げ探し出してもダビデを捕まえることはできません。ジフの人々の通報により、危うく捕まりそうになっても、その寸前にペリシテ人の侵入の知らせが届いて、サウルは転回します。このときは、岩一つを挟んで辛うじて助かったので、この場所は「仕切りの岩」(23・28)と呼ばれます。

そういう中で、ヨナタンは危険を賭してダビデに会いに来ます。試練の時に友人がわざわざ来訪して励ましてくれるのはうれしいものです。私の母教会の船津牧師は、私が試練にあると聞くと直ぐに励ましに来てくださいました。そのような恩師を持つということは人間として、大きな基盤・錨になると思います。昨日も後輩の牧師の献堂式に参加しましたが、一番遠方だったので大層喜ばれました。

ヨナタンは、自分が王の息子であるのに、ダビデに王権が移ることを、信仰によって告白します。そして、父のサウルも神の祝福がダビデにあるので、王権が移ることを悟っているけれども、受け入れられないで人間的な手段をとっていることを伝えます。人生の幸せを神の祝福を基とするか、人間的な努力の産物と考えるかの違いです。そのような人の企みと攻撃の直中におけるダビデとヨナタンの、「主の前で契約」は感激的なことであったでしょう。

教会との交流を自ら切ってしまったり、洗礼を受けなかったり、転入会をしない人々がいます。信仰生活を人間関係と思ったり、或いは、それを必要ないものと思う人々もいます。信仰を自由なものとしたいと考えているのでしょうか。

人間関係がきちんと取れない人に神との関係が親密になることはありません。人を信頼できない人が神を信頼できるわけがありません。「神様だけを信頼する。」とか、「人は信用できない。」とか、友人がいない、夫婦関係が悪い、という人々の信仰は、失礼ながら独りよがりの信仰です。

ひどい牧師もいるかもしれません。ひどい妻、夫、親、子、上司、同僚・・・。他の人に注文をつける人、非難をする人は、自分の中に平安をもっていません。そういう人は、試練があると神をも呪います。自分にとって、都合の良いことだけを望んでいるならば、人々は寄り付かず、神もあなたを取り扱いようがありません。

 サウル王は、ついに3000人の精鋭部隊を率いてダビデ討伐に乗り出しました。途中、大便を催してきたので王である手前、人々の前を避け、洞穴に入りました。ところが、そこにはダビデとその部下たちが潜んでいたのです。サウルの軍隊が来たので隠れていたダビデたちの目前にサウル王がしゃがんで用を足しています。部下たちは、「今こそ神があなたに味方され、サウル王を打たせてくださるのだ」、と殺害をけしかけますが、ダビデは決してしません。

 モーセの後継者ヨシュアが初めての戦いに向う時、御使いが剣をもって前方に立ちました。ヨシュアは「あなたは味方か、敵か」と問います(ヨシュア5・13)。ところが、彼は、「わたしは主の軍の将として来たのだ。」と答えます(5・14)。大事な事は、私たちにとって都合が良いかどうかではなく、私たちが神につくかどうか、なのです。私たちは、自分の人生がうまく行くかどうかを考えますが、それは他の人にとっても社会にとっても歴史上でもどうでもよいことなのです。しかし、もし、神の御心に中に私たちが歩むならば、神の御業に参画し、歴史に参加し、社会を変えるのです。

 ダビデは、短期的な自分の利益ではなく、神の御心の中を自分が歩むか否かに目を向け、サウルを殺害せずに、その衣のすそを切るだけにしました。そして、離れていったサウルに向って、自分の無罪と誠実さを示したのです。善をも悪をもすることができる機会に、ダビデは善を選んだのです。善を選ぶならば、ダビデには試練が続き、困難は解決しません。しかし、「悪は悪者から出る。」(自分は悪には染まらない。)と信仰による誠実を選びました(24・13)。

 マリヤ・クリニックが20年前から手がけた低血糖症の治療も、今は商売・宣伝上手な医療機関に患者を取られてしまうようになりました。妻とは、「神の前に恥じない医療をして、一人ひとりを治していこう」と語り合っています。私は経営者でもありますが、唯一の経営理念は「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10・22)です。そうしたら、なんとまた新しい治療を始めることができるようになりました。本の出版も後押しするでしょう。

 私たちの真実、誠実はいつも神に問われていると思います。多くの人が、父として、牧師として、経営者としての成功を私に褒めてくれます。しかし、私は、褒められたり、自慢するために生きているのではありません。神に仕え、神の業を行ない、人々をキリストに導くために生きているのです。楽をしたいという誘惑はあります。歳も取ってきました。でも、ここまで主に仕え、主も祝福してくださったことを台無しにするわけにはいきません。自分の都合で、人生を生きようとするところから堕落が始まるのです。


11月11日 からだの品格を保つ。  申命記13911節 櫻井圀郎師

新改訳 申 13:9-11

13:9
必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。

13:10
彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。

13:11
イスラエルはみな、聞いて恐れ、重ねてこのような悪を、あなたがたのうちで行なわないであろう。




11月18日 愚か者と聡明な人。  Tサムエル252331

Tサム25:23-31

25:23
アビガイルはダビデを見るやいなや、急いでろばから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏した。

25:24
彼女はダビデの足もとにひれ伏して言った。「ご主人さま。あの罪は私にあるのです。どうか、このはしためが、あなたにじかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばを聞いてください。

25:25
ご主人さま。どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの人は、その名のとおりの男ですから。その名はナバルで、そのとおりの愚か者です。このはしための私は、ご主人さまがお遣わしになった若者たちを見ませんでした。

25:26
今、ご主人さま。あなたが血を流しに行かれるのをとどめ、ご自分の手を下して復讐なさることをとどめられた主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。どうか、あなたの敵、ご主人さまに対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。

25:27
どうぞ、この女奴隷が、ご主人さまに持ってまいりましたこの贈り物を、ご主人さまにつき従う若者たちにお与えください。

25:28
どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください。主は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう。ご主人さまは主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。

25:29
たとい、人があなたを追って、あなたのいのちをねらおうとしても、ご主人さまのいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれており、主はあなたの敵のいのちを石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。

25:30
主が、あなたについて約束されたすべての良いことを、ご主人さまに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、

25:31
むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように。主がご主人さまをしあわせにされたなら、このはしためを思い出してください。」


  人が愚か者に陥るのは、案外容易いことであると最近感じるようになりました。箴言から「愚か」という単語のついた聖句を印刷したので、よく味わってください。これを読んで他の人のことを思う人は、「自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。」(箴言26・12)ということになります。

 ナバルという名前の意味は「愚か者」ですが、よく自分の子にそのような名を付けたものです。親は金持ちだったようですが、やはり愚か者だったのでしょう。ナバルは羊3千頭、ヤギ1千頭を持っていたそうです。そこで働く者たちの助けをダビデと部下はよくしていたようです。羊の毛を刈り入れる時は、祝いの宴を持つのでダビデは、部下を通じてその宴への参加を申し出ます。

 ところが、ナバルは、ダビデの丁重な申し出に対して侮辱をもって返します。ダビデもまだ若いので、逆上して彼らを皆殺しにしようと部下を率いて出てきます。その前にナバルの対応を知った若者が、夫人のアビガイル(我が父は喜ぶ、という意)に、経緯を伝えます。「今、あなたはどうすればよいか、よくわきまえてください。災いが私たちの主人とその一家に及ぶことはもうはっきりしています。ご主人は、よこしまな者ですから、だれも話したがらないのです。」(17節)

1. 聡明な人は、どうすればよいか、良くわきまえて行動する。

この若者も聡明でしたが、アビガイルは直ちにパン200個、ぶどう酒を皮袋2つ、料理した羊5頭、炒り麦38リットル、干しいちじく200個をとって、それらを先にしてダビデに詫びにでかけました。愚かな人の特徴は、行動が遅い、けちである、反省しない、などです。「愚かな者の口は愚かさを吐き出す」(箴言15・2)とあるように、世間話ばかりして行動を取らない愚かな人は多いものです。アビガイルの速やかな行動と贈り物の多さは、彼女の聡明さを示しています。

先日、教団の総会がありましたが、私は資料を一通り見て調べ、自分の考えと一致しているかを確認し、そうでないものは対案を考えて参加しました。無論、他の人の意見もよく聞いてから、発言するべきかどうか、吟味しました。他の人の意見に対して感情的になって直ぐに発現するのはみっともないものです。私は、自らが議員として監事としてあと10年続いたら謙遜でいられるか自信がありません。指導者というのは、謙遜であるためには非常に危険な地位です。自分の行動を客観的に吟味できる人は殆どいないのです。「自分はだれによってもわきまえられません。」(Tコリント2・15)、「舌を制御することは誰にもできません。」(ヤコブ3・8)とあります。

それではどうすれば、よいのでしょうか。「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえます」(Tコリント2・15)とあるように、聖霊に自分の行動を委ね、神の御心を常に意識して行動するのです。いつも自分の愚かさと罪を自覚し、神に焦点を当てて行動するのです。

2.聡明な人は、直ぐに反省し、詫びることができる。

  アビガイルは、ダビデを見るや、直ぐに地にひれ伏して「あの罪は私にあるのです。」(24節)、「このはしためのそむきの罪をお赦しください。」(28節)と詫びています。「ホントにうちの亭主はだめなんだから」と夫の責任にしてはいないで、自らの妻としての責任を認めているのです。人に責任を負わせても問題の解決にはなりません。私は議論の場で、問題点を見出す人は多いのですが、解決策を探り出す人が殆どいないことに気がつきました。そのようにして組織は、次第に膠着化していくのです。

3.聡明な人は、祝福が神の義に適っている人に注がれることを知っている。

 「ご主人様は主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、災いはあなたに起こりません。」(28節)はすごい真理です。私は、主の戦いに参戦することをためらい、怠惰になったら、「災いが起こる」という戒めとして受取りました。

 さらに「無駄に血を流したり、自身で復讐したことが、つまづきとなり、心の妨げとなる」(31節)ことをアビガイルは知っているのです。自分の面子を守るための感情的な行動は、神の祝福を失うのです。面子や自尊心は、脳梗塞のようなもので、必要な血液や酸素を流れなくさせてしまうのです。

4.聡明な人は、他の聡明な人に気がつくものである。

 アビガイルは、ダビデが聡明な人にあることに気がついていたので、愚か者のナバルを相手にせず、ダビデに語ったのです。ダビデもまた、「私が血を流す罪を犯し、私自身の手で復讐しようとしたのをやめさせたあなたに、誉れがあるように。」(33節)とアビガイルの聡明さを褒め称えています。

 私の経験では、自分の聡明の程度にしか、聡明な人の思いと行動はわからないもので、愚かであるならば、聡明というのは理解できないものであると思います。自分が聡明なのかどうかはわからないのですが、自分以上に聡明な人の聡明さは、自分の基準において理解できるようです。そして、そういう人とは親しくなりたいと心掛けて、多くの知己を得ている幸いに感謝しております。また、キリスト信仰のすばらしさを知ってからは、この信仰に歩む人の基準の高さに感動をしております。

11月25日 正しさと真実に報いる神。  Tサムエル261825

新改訳 Tサム26:18-25
26:18
そして言った。「なぜ、わが君はこのしもべのあとを追われるのですか。私が何をしたというのですか。私の手に、どんな悪があるというのですか。

26:19
王さま。どうか今、このしもべの言うことを聞いてください。もし私にはむかうようにあなたに誘いかけられたのが主であれば、主はあなたのささげ物を受け入れられるでしょう。しかし、それが人によるのであれば、主の前で彼らがのろわれますように。彼らはきょう、私を追い払って、主のゆずりの地にあずからせず、行ってほかの神々に仕えよ、と言っているからです。

26:20
どうか今、私が主の前から去って、この血を地面に流すことがありませんように。イスラエルの王が、山で、しゃこを追うように、一匹の蚤をねらって出て来られたからです。」

26:21
サウルは言った。「私は罪を犯した。わが子ダビデ。帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えない。きょう、私のいのちがおまえによって助けられたからだ。ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。」

26:22
ダビデは答えて言った。「さあ、ここに王の槍があります。これを取りに、若者のひとりをよこしてください。

26:23
主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そそがれた方に、この手を下したくはありませんでした。

26:24
きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」

26:25
サウルはダビデに言った。「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功しよう。」こうしてダビデは自分の旅を続け、サウルは自分の家へ帰って行った。


 洞窟における出来事でサウルはダビデの潔白を認め、王権がダビデに移ることを承認したのにも関わらず、しばらくするとサウルは3000名の精鋭を率いてダビデ討伐を再び始めました。しかし、その頃にはダビデと部下たちも野戦に慣れてきて、自由にジフの荒野を駆け巡っていました。

 サウルの軍勢を偵察してみると、サウルと将軍アブネルが寝ている場所を見つけます。大胆にもダビデは甥のアビシャイと共に二人で、夜に彼らの寝ている所に出向きます。12節には、「主が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠りこけていた」とありますが、ダビデはこれまでの経緯から自らに対する神の守りと祝福を確信していたようです。多くの人が信仰によって歩むということを経験したことがないので、こういうことを無謀であるとか、ラッキーという言葉で理解しようとします。

 先月レックス・ハンバード師が召されました。テレビ伝道の先駆けで日本の宣教にも重荷を負い、多くの労費を掛けて日本で最初のテレビ伝道を続けました。全米にテレビ伝道を始めようとした時、その莫大な資金のあてもなく、また宗教番組というものをテレビですることもなかったそうです。テレビ局へレックス師は12回も行ったけれど断られ続け、ついに21日間の断食をしました。13回目の訪問の時に、エンジンを掛けると聖書の言葉と共に「まだだ。」という声を聞いたそうです。神の導きがある時まで待って出かけると、その入り口で母親がレックスの教会で信仰をもったオーナーに出会いました。そして、全ての道が開けたのだそうです。

 教区聖会の講師の宣教師夫妻は、ブリュッセルで哲学博士課程在学中に信仰を持ち、直ぐに退学してアッセンブリー教団の神学校に入られたそうです。神学校在学中から伝道を始め、1979年にアメリカに留学されて神学博士を取得しました。その教会は今やヨーロッパで一番大きな中国人教会になっているそうです。スプリングフィールドでも中国人教会を始め、また1985年に日本に来て中国人教会を始め、現在まで数千人の留学生を信仰に導いているそうです。今、ご夫妻は世界的な働きをされています。

 私自身も25年前に全然知らなかった千葉市で信者無し資金なしの状態から開拓伝道を始めたことを思い起こします。神の御霊が私を動かしたという以外説明できないように他のことができないで千葉市に引っ越すことを無謀にも始めたのでした。しかし、その時だったからこそ、千葉大の医局も入れて開業後の出産にも医局からの援助があったり、家内の祈りで癒されたりした患者もいたのです。全ては神の導きと時であったと思わずにはいられません。

 さて、いくら主の導きであるといっても悪いことをしてはなりません。二人がサウルの陣営に行くと皆が寝ています。やすやすとサウルの幕営に入ることができました。将軍アブネルも寝ています。サウルの枕元には槍が突き刺してあり、アビシャイは「神は今日あなたの敵をあなたの手に渡されました。」とサウルを殺そうとします。しかし、ダビデはやはり「悪は悪者から出る。」という自らの信念を通します。そして、「主は各々その人の正しさと真実に報いてくださいます。」(23節)と言ってサウルに回心を迫るのです。

 今回の聖会には杉本夫婦が体調の悪さを理由に欠席を言ってきましたが、私は「献身を決心した者に全ての状況判断は認められない。ただ神に従い、参加のみ。もし参加しないなら神学校入学は辞退しなさい。」と伝えました。彼は従い、夫婦で本当に祝福されたようで、講師夫妻にも特別に名前を言いながら手を置いて祈っていただきました。聖会では、献金のも強調されました。「もし真摯に神を求め生きるなら精一杯献金をし、精一杯奉仕をするべきである。私たちは、ある働きのために求めたら600万ドル与えられた。他にも本当に祝福されている。」と証しされました。

 実は、私も悔い改めをしました。米国本部訪問、櫻井師の説教、教団総会、そしてこの教区聖会を通して、自らの賜物を神の為に献げてさらに邁進しなければならないことを示されました。他の人との比較は罪深いものです。確かに、私は他の人の数倍働いており、多くのことをしております。しかし、未だ神の目の前に出るならば、「真実」ではありません。自分の能力の半分も出しておらず、祈りと献身も不足していることが示されました。

 確かに身体が衰えてきました。しかし悔い改めてみれば自己管理の不足です。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40・31)。もし私が真実に歩めば、「主は私のいのちを大切にして、すべての苦しみから私を救ってくださいます。」(24節)と主の御言葉が私に語りかけます。

 来年の教会標語は「伝道に燃え、新しく力を得る。」(イザヤ40・31)です。青年伝道に力をいれます。特に、問題をもった青年たちを助け救いに導くことを始めます。祈り、求めていきましょう。


 

12月2日 恐れと悪霊と挫折。  Tサムエル28919
新改訳 Tサム
28:9
すると、この女は彼に言った。「あなたは、サウルがこの国から霊媒や口寄せを断ち滅ぼされたことをご存じのはずです。それなのに、なぜ、私のいのちにわなをかけて、私を殺そうとするのですか。」

28:10
サウルは主にかけて彼女に誓って言った。「主は生きておられる。このことにより、あなたが咎を負うことは決してない。」

28:11
すると、女は言った。「だれを呼び出しましょうか。」サウルは言った。「サムエルを呼び出してもらいたい。」

28:12
この女がサムエルを見たとき、大声で叫んだ。そしてこの女はサウルに次のように言った。「あなたはなぜ、私を欺いたのですか。あなたはサウルではありませんか。」

28:13
王は彼女に言った。「恐れることはない。何が見えるのか。」この女はサウルに言った。「こうごうしい方が地から上って来られるのが見えます。」

28:14
サウルは彼女に尋ねた。「どんな様子をしておられるか。」彼女は言った。「年老いた方が上って来られます。外套を着ておられます。」サウルは、その人がサムエルであることがわかって、地にひれ伏して、おじぎをした。

28:15
サムエルはサウルに言った。「なぜ、私を呼び出して、私を煩わすのか。」サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」

28:16
サムエルは言った。「なぜ、私に尋ねるのか。主はあなたから去り、あなたの敵になられたのに。

28:17
主は、私を通して告げられたとおりのことをなさったのだ。主は、あなたの手から王位をはぎ取って、あなたの友ダビデに与えられた。

28:18
あなたは主の御声に聞き従わず、燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったからだ。それゆえ、主はきょう、このことをあなたにされたのだ。

28:19
主は、あなたといっしょにイスラエルをペリシテ人の手に渡される。あす、あなたも、あなたの息子たちも私といっしょになろう。そして主は、イスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡される。」

  サウル王は軍隊の精鋭を率いてダビデを追っていました。しかし、実は、追い込まれていたのは、サウル王自身でした。聖書をよく読んでみると、サウル自身が戦いの先頭に立っていることはありません。ダビデやヨナタンは単身でも戦いに出ていますが、サウルは部下に戦わせて自分自身は危険なことを避けています。ゴリヤテの脅しの対象は、誰よりも背の高いサウル王自身でしたが、決して表に出ようとはしていません。ダビデ追討だけにサウルは先頭に立っているのですが、それは他人には任せられないことと、ダビデとの兵力の差が圧倒的に優位に立っているからです。ところが、それでも二度までも危ない目に遭い、ダビデの信仰と勇気を知らされることになります。

 サウル王は実は、かなり臆病で気が弱く、空威張りをしているだけの人物であることがわかります。気の弱い人ほど、威張ったり、気勢を上げると言われますが、サウルは、誰よりも威丈夫であったのにも関わらず、心は弱かったのです。ペリシテ人が軍隊を整えて、戦いを挑むと「陣営を見て恐れ、その心はひどくわなないた。」(五節)とあります。それで、「苦しい時の神頼み」、サウルは主に伺いますが、主は答えてくださいません。

  インターネットで「神頼み」と牽くと、こんな宣伝がありました。“人生は悩みが多く、様々な困難や苦境に出くわします。自分の力だけではどうしようもない事だってあります。そんなときは迷わず神社仏閣に出かけ「神頼み」しちゃいましょう。神頼みこそ開運の鍵。きっと神様は素敵なご利益を与えてくれます。また自分の未来や恋愛運・結婚運・金運・仕事運・健康運など将来について知りたいときは迷わず占い。”

 日本にはこういう神頼みや占いが現在、かなり流行っていることを皆さんも感じていることでしょう。しかし、本当になんだかわからない神に御利益を求めて安易に拝んで良いのでしょうか。

 聖書は、はっきりと「あなたには、他の神々があってはならない。」「自分のため偶像を造ってはならない。」(出エジプト20・3,4)「主の名をみだりに唱えてはならない。」(20・7)とも十戒で宣言しています。つまり、自分の都合で、神を作ったり、願いをしたりしてはいけないのです。なぜでしょうか。

 本来、戒めというのは、なぜと問うてはいけないものです。戒めの理由を知ると、人間は、戒めの理由はこれこれだから、正当な理由があれば、それを破っても良いと考えてしまうからです。現代人は、正当性を求め、その理解の中で行動することが多いようです。しかし、実は、正当性などというものは、頭の良い人間はどのようにも言いつくろうことができるのです。政府や役人の論理というものは、非常に巧妙です。詐欺師や誤魔化しをする者も、非常に言葉巧みです。「剛毅木訥、仁に近し」と言われるように、言い訳などせず、言葉巧みでない人のほうが、誠実であり、人の益となるように取り計らうものです。

そういう面でクリスチャンたる者は、言葉巧みであったり、正当性を求めるようであってはなりません。神に仕え、神を信じるということは、信仰者にとって、御利益や品性の向上に良い、などという自分の利益に結びつくものであっては成らないのです。現代クリスチャンの品性が低いのは、品性を求めるような打算的なものであるからでしょう。聖書の戒めを堅く守るということが、ともかく大事なのです。

  サウルは、神が返事をしてくれないので、なんと禁じられている霊媒に会って、サムエルの助言を聞こうとします。自分の利益を求めて、偶像や占いに頼る人間は、魂をそれらの背後にある悪霊に委ねてしまったのです。その助言がいかに正しく、また利益や癒しをもたらしても、それを代償に悪霊に魂を売ってしまうことになるのです。そういう人の魂が天国にいくことはありません。神がいかに、私たちを愛し、救おうとされていても、私たち自らが、罪を重ね、魂を悪魔に売ってしまっては、神の聖と義にあって私たちに関わることはできないのです。

  そもそも、サウルがおかしくなったのは、「主の声に聞き従わず、燃える怒りをもってアマレクを罰しなかったからだ。」(18節)。論理や理屈は、現代も繋がる大きな偶像です。罪を犯すのも、人を攻撃するのも、みな自分勝手な理由を付けて、正当化します。理屈は、信仰者をダメにします。そして、偶像に自分の心を委ねた人間は、心が弱くなり、自己弁護に明け暮れます。

  神を信じ、神に従い、神の命令に忠実な人は、何をも恐れません。

  真の指導者は、人々の了解を求めません。人の考えることは自分の保全であり、利益だからです。しかし、人の心の中には、神を愛する心、献身、正義が植えつけられているのです。人々を納得させるようなことは、正当性があることです。しかし、世界は、信仰により、正義により、愛によって築き上げられてきたのです。

 神は、一人子を人間として生まれさせ、人として歩ませ、人として人々の代価にならせたのです。それは、不合理なことです。損得や理屈では、あり得ないことです。しかし、そこに神の義があり、愛があるのです。

  私たちが信仰に生きるということは、決して損得や理屈であってはなりません。人に伝え易い福音などいうものは、薄っぺらなものです。だれでも、キリストにあって生きたいと願う者は、「自分を捨て、自分の十字架を負って生きなければならないのです。」(マタイ16・24)。自分の命を惜しみ、損得で生きる者は、サウルのように一生おびえて暮らさなければならないのです。


12月9日 主によって奮い立つ。  Tサムエル30110

新改訳 Tサム30:1-10

30:1
ダビデとその部下が、三日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人がネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らはツィケラグを攻撃して、これを火で焼き払い、

30:2
そこにいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこにし、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れて去った。

30:3
ダビデとその部下が、この町に着いたとき、町は火で焼かれており、彼らの妻も、息子も、娘たちも連れ去られていた。

30:4
ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。

30:5
ダビデのふたりの妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。

30:6
ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。

30:7
ダビデが、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに、「エポデを持って来なさい。」と言ったので、エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。

30:8
ダビデは主に伺って言った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」するとお答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」

30:9
そこでダビデは六百人の部下とともに出て行き、ベソル川まで来た。残された者は、そこにとどまった。

30:10
ダビデと四百人の者は追撃を続け、疲れきってベソル川を渡ることのできなかった二百人の者は、そこにとどまった。



ダビデはサウルに追われているうちに次第に疲れてきました。いくら信仰をもって歩んでも、サウルには通じず、命を狙い続けられます。「主はその人の正しさと真実に報いてくださいます。」(26・23)と確信しても、気候の変動の激しい荒野で仲間たちを率いて何年も逃亡生活を続けるのですから、心身共に疲れきってしまいます。そして「いまにサウルの手によって滅ぼされるだろう。」(27・1)と弱音を吐いてしまい、敵地に逃れて サウルの追っ手を逃れようとします。そして、自分の家族や仲間と住む場所をようやく確保するのです。

 しかし、ダビデ自らが語っているように、誤魔化しやその場しのぎの手段は結局のところ、その人自身を不利な立場へと至らせます。ペリシテ人の王アキシュに取り入ってみたものの、イスラエルとの全面戦争に参加しなければならなくなります(28・1)。その際にサウルのほうは、先週お話したように恐れから占いや霊媒に委ねて身を滅ぼすこととなっています。

 ダビデは、他のペリシテ人の領主の反対で対イスラエル戦争に出向かなくてよくなりますが、安住の地かと思っていたツィケラグに帰ってみると、アマレク人に荒らされて妻子が連れ去られていました。ダビデたちは、アフェクから約40キロの道を帰って来て、妻子が待っている家で疲れを癒そうと思っていると、そのような有様ですから「声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。」とあります。

 最近、牧師の心身症も多くなってきました。今年、数人の人々の改善に手を貸すことができましたが、ダビデでさえ、このような有様ですから、生身の牧師が悩んでしまっても当たり前です。私自身もそんな時がありましたが、一生懸命伝道と牧会の為に働き、少ない牧師給を補うために社会でも稼ぎ、その挙句が教会で問題が起きたり、教会員が引っ越してしまったりします。地方では、牧師が一生涯掛けても十数人しかクリスチャンにならないというケースもあります。弱音を吐き、打算に逃げても、誰が非難することができましょう。この教会の第3礼拝の献金は、海外伝道に献げられていますが、第4礼拝はそのような困窮した教会のサポートに献げられています。必要に比べたら少額ですが、助けというのは、失望し落胆している人々を励ますことができます。それらの週の献金当番の方は、そのことを覚えてお祈り下さい。

 部下たちは、悲嘆のあまりに全ての責任をダビデに押し付け、殺そうとします(6節)。指導者や代表者というものは、一生懸命働いたとか、悪いことはしていないとか、失敗をしていない、などという言い訳を言うことはできないものであることを自覚していないと大変なことになります。うまくいかせるのが大事であって、敗北したり、倒産したり、業績が悪化したら、全て指導者の責任なのです。そういう面では、些細なことにこだわっていたり、自分の主張に囚われたり、安逸を貪っていては、滅びることになります。リーダーでなければならないのです。ダビデは、そういう危機一髪の時に、「彼の神、主によって奮い立った。」(6節)のです。


 私は9人兄弟の末っ子ですから、甘えん坊で人の目を気にする小心者でした。しかし、人生を振り返ると、キリストに出会うずーと前から、主に導かれ訓練されていたように思います。そして、牧師になってからの多くの試練は、私を全く作り変えたようです。でも、それは自分の力ではありません。主の御霊が私を奮い立たせたのです。

 経済、病気、家族、攻撃、暴力、批判、諸問題、過労・・・・。パウロ(Uコリント11・23-28)ではありませんが、死に直面したこともしばしばでした。しかし、負けるわけにはいかないのです。自分の弱さや罪深さ、人々の罪にも囚われているわけにはいかないのです。勝つしかないのです。直面している問題や敵に勝利するしかないのです。

 人々は、私が強いとか、能力が違うとか、自分とは違うと言います。しかし、「誰かが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。」(Uコリント11・29)。

  私もまた、キリストに出会っています。自分の苦しさに胸が裂けそうになったことは、数知れずあります。しかし、十字架に掛かったキリスト・イエスの幻を見ました。主は、「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23・34)の声を聞いたのです。主のお苦しみに比べれば、私のことなど苦しいなどと言えるでしょうか。自己中心に物事を考える自らの罪を悔い改めました。そして、私の魂が讃美を始めたのです。「十字架の悩みは我が罪のためなり。」(聖歌402番)

 この罪多い日本社会で、悩んでなどいられません。主のために奮い立ち、勝ち抜かなければならないのです。疲れきっていた彼らですが、奮い立って敵を追いかけたのです。そして、酔っ払って寝込んでいた敵をやっつけ、妻子と財産何一つ欠けたものなく取り返したのです。それだけではなく、多くの物を分捕ったのです。

  人生は、自分の信仰の中にあります。何を信じるかです。

  先月、私は誓願を掛けました。自らを低く捉え、平凡に生きようとすることはやめました。これからは、神の業を行なおうと思います。主は、あなたと共におられ、私と共におられます。


12月16日 死から救い出してください。  ヨシュア記2818
新改訳 ヨシ 2:8-18

2:8
ふたりの人がまだ寝ないうちに、彼女は屋上の彼らのところに上って来て、

2:9
その人たちに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。

2:10
あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。

2:11
私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。

2:12
どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。

2:13
私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」

2:14
その人たちは、彼女に言った。「あなたがたが、私たちのこのことをしゃべらなければ、私たちはいのちにかけて誓おう。主が私たちにこの地を与えてくださるとき、私たちはあなたに真実と誠実を尽くそう。」

2:15
そこで、ラハブは綱で彼らを窓からつり降ろした。彼女の家は城壁の中に建て込まれていて、彼女はその城壁の中に住んでいたからである。

2:16
彼女は彼らに言った。「追っ手に出会わないように、あなたがたは山地のほうへ行き、追っ手が引き返すまで三日間、そこで身を隠していてください。それから帰って行かれたらよいでしょう。」

2:17
その人たちは彼女に言った。「あなたが私たちに誓わせたこのあなたの誓いから、私たちは解かれる。

2:18
私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。


 先週はダビデが絶体絶命の時に、「主によって奮い立った。」ことをお話しました。実際、いくらまことの神を信じていても、信仰によって歩むことをしていなければ信仰者とは言えません。

 牧師はテレビや映画は見ないのではないか、と思っている方もいるのかもしれませんが、私はよく見ます。ただ、テレビを見ながら、自分との違いを確認し、或いは説教を考えているときもあります。新聞や雑誌もよく読みます。そして、世の中の考え方を分析しながら、これは聖書的には間違いであり、この辺りは悪霊的な惑わし、或いは世の罪性による偏見なのだ、などと考えております。

 最近、危ないなと思わされていることは、世の中が否定的になっていることです。今年を一文字で表すと「偽」となるということですが、そういうことで批判的攻撃的な会話が多くなっているようです。私たち夫婦は、子供たちの前でその種の会話を言わないように注意しています。

聖書研究会でも学んでおりますが、感情に左右されるのは愚かなことです。「もう夫を愛せない。偽りの生活をしたくないから離婚する。」などという言葉がまことしやかに正当化されています。人だけでなく、社会や国家が感情的なものになっています。非常に愚かで危険なことです。

さて、いよいよクリスマスが近づいてきましたが、イエス・キリストが処女マリヤから生まれたことは、御存知のことでしょう。未だ結婚していないのに、聖霊によってマリヤの中に神の子の命が宿り、生まれたのです。クリスマスは神が人間となって生まれてくださったことの感謝を祝うと共に、勇気あるマリヤを褒め称えるものでもあります。

ところが、そのマリヤの祖先には、同じように勇気ある女性たちがいるのです。ルツのことは7月にお話しましたので、今日はラハブのことを語ります。ただ、大事なことは、そういう聖書の箇所を理解したり覚えたりするのではなく、自らも勇気をもって境遇に立ち向かっていくことであるということです。それを願い、祈る中で、その人に聖霊が働き、神の業を行なって御心のうちに生きることができるのです。この聖霊なる神が働くように生き、聖霊に導かれて歩むのが信仰生活なのです。ただ教会に集えば信仰者というわけではありません。

ラハブは、エリコに住む遊女でした。エリコの状況は、9節から11節の中にあるように、イスラエル民族が神の超自然的な助けによってエジプトから出て、エリコ含むカナン地方にやってきたので、恐れおののいているというものです。王をはじめ皆が恐れ、怯え、否定的になっている中で、ラハブは何を考えたのでしょうか。

「遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したために、その行いによって義と認められたではありませんか。」(ヤコブ2・25)とあります。ラハブは、どうにかして助かろう、と思い、イスラエルの神に助けを求めたのです。

 他の人々は、もうだめだ、と思う中で、ラハブは敵の神に助けを求めたのです。それは、ラハブが誠実な人生を送っていたからだと思います。聖書でも「遊女ラハブ」という嫌な肩書きがついています。しかし、これは「遊女であっても神は差別しない。」という説明の肩書きなのです。最も差別され、軽んじられてきたと思われる遊女でありながら、神に対する健全な考え方と真摯な行動を取っていますラハブは、主(ヤーウェ)という神の名を自らの誓いの中で言っており、また「主は、上は天、下は地において神であられるからです。」と創造主であり唯一神であることを告白しているのです。

 当然人々は、イスラエルに対して注意を払い、見張っていたでしょう。そういう中で、神は二人の斥候がラハブのところに行くように、取り計らったのです。そして、様子をいつも伺っていたラハブは、斥候を招き入れたのです。そして、二人を命懸けでかくまい、逃がしたのです。「私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主に掛けて誓ってください。」と言える人がどれだけいるでしょうか。

 この斥候の一人は、ラハブと結婚したサルモンであると言われています。ラハブは、亜麻の茎の中に隠したのであるから、よほど大量の亜麻が干してあったのでしょう。理由あって遊女にはなったものの、働き者のラハブは、結婚後、誠実な主婦となり、異邦人ルツを大事に扱う誠実かつ懸命なボアズの母となるのです。そして、この二人がイエス・キリストの系図の中に入ってくるのです。

 さて、ラハブが家族を救うためにしたことは、窓から赤い紐をつりおろしたことです。この紐は、天から引きおろされたイエス・キリストの十字架と血を意味しています。ラハブと家族の者は、どんなことがあってもその家から出てはならないことを教えられます。大地震が起こり、イスラエルの軍勢がエリコを襲います。そして、町の人々は皆死んでいきます。しかし、赤い紐を窓から垂らした家の者は、救われたのです。

 これから後、世界でも日本でも天変地異が起こり、人々の愛は冷めていき、不正がはびこり、偽宗教が惑わる時代が来るでしょう。私たちは、その中にあって、決して愚痴を言い、批判的・消極的になって、ただ怯えていてはいけません。時代を見抜き、神を見つめて、キリストの十字架と血潮の下で、教会に留まらなければならないのです。


12月23日 民を罪から救う方の誕生。  マタイ1章1825
新改訳 マタ 1:18-25

1:18
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

1:19
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

1:20
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

1:21
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

1:22
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。

1:23
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

1:24
ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、

1:25
そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。


 マリヤ・クリニックの聖書を読む会で、なぜ天使が羊飼いに語りかけたのか、とお話しました。ナザレの町中を巡って救い主の誕生を告げようとしたのに、神を想い、真理を求め、人を愛する人が誰もいなかったので、町外れに来てようやく天使は羊飼いに語ることができたのです。その状況は今も昔も変わりありません。世界中でクリスマスを祝っていますが、それは自分たちの楽しみのためであって、神を求め救いを求めて生きる人々のなんと少ないことでしょう。

 世の中は享楽と利益追求の打算の中で動いています。先週は、一生懸命祈り世話をした当事者から非難を受け、がっかりしてしまいました。牧師になって24年間こんなことばかりです。最近多くの牧師がノイローゼになり、うつ病になっていると聞きますが、真心の通じない世の中になっていっているので、そういうこともありうるでしょう。しかし、だからこそ、福音が必要なわけで、自分の努力や誠意が通じない、などと悩んでいるのは、伝道を自分の能力で行おうとするからであります。

 興味深いことに、人間は祝福や恵みを受けられると聞いても、それを素直に受取ることをしません。それは、その人の人間性がそのまま現れるからです。罪深い人は、自らが人を欺き利用する習性があるので、他の人もそのように行動するに違いないと疑ってしまい、祝福を受取ることができないのです。ですから信仰生活というものは、不信仰な人にはどうしても無理なのです。

 クリスマスは、神の言葉をそのまま信じ、受け入れたマリヤとヨセフによって達成された神の偉大な祝福の業です。天使によって語られた自分の身に起こることは、普通の人であれば、大変迷惑なことです。しかし、マリヤは「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1・38)と答えました。ヨゼフも、自分の婚約者が神の霊によって妊娠しているということを聞いて、そのまま受け入れ、妻子を守ろうと覚悟しております。

 神を信じているという人は多くいます。しかし、サタンや悪霊も神がおられることは知っています。信仰者であるか否かは、神を信じ神に従って生きているか否かで明らかになるのです。

 それでは神に従って生きるとは、どういうことでしょうか。マリヤやヨセフのように生きるということです。自分の身に起こる試練を覚悟し、受け入れ、そして祝福を信じて喜んで生きるのです。毎年のクリスマスに感動するのは、マリヤ賛歌です。「わが魂は主を崇め、我が霊は我が救い主なる神を喜び讃えます。」(ルカ1・46,47)とは、未婚の妊娠ゆえに大変な苦労をしている乙女のものなのです。彼女の苦労を偲ぶことができるでしょうか。マリヤは、身重の身なのに、一人で100キロの山道を往復し、そして出産間近になってまたその道を歩むのです。その労苦を思うと涙が出てきます。それでも、彼女は信仰によって喜んでいるのです。信仰者は、苦労があっても愚痴は言わないのです。悩まないのです。神を信じているからです。

 ヨセフもまた、神を信じ、忠実に喜んでいる純粋な妻と幼子を守り育てるのは、苦労の連続だったでしょう。ヘロデの追っ手から逃れるために見ず知らずのエジプトにも逃れていきます。結婚後十数年で若死にをしていますから、長年の無理がたたったのかもしれません。しかし、当然ながらヨセフは苦労を喜び、妻子を優しく育てたのです。12歳になったイエス様が祭りの時にいなくなったのを3日間探し回ったことからも、父親の愛情の深さを知ることができます。

 現代社会では、愛しあうということが本当に難しいのです。仕事や雑務に追いまくられます。教会でも行事に忙しく、伝道に明け暮れるということもありがちです。しかし、私は、牧師としてみなさんにゆっくりと過ごして欲しいのです。明日は、幸いなことに祝日です。他教会の信者さんが、24日になんの教会行事もないのに呆れていました。明日は、夫婦でゆっくり散歩をし、一緒にお茶を飲みましょう。クリスマスの歌を一緒に歌うのも良いでしょう。そして夕飯は一緒に作るか、落ち着いたところで食事をしましょう。独身の人は、この週報を読み返して神を思い、くつろいでください。

 忙しいとは、心を亡くすと書きますが、忙しく働いても多くを得るものではありません。かえって、罪に囚われるゆえに多くを亡くすことがあるでしょう。私は、自分の牧師としての働きに報いがないことも覚悟しております。しかし、私が人々を愛したことは、私の中に大きな喜びとして私を形成しております。

 イエス・キリストは神の子なのに、人々を愛して裏切られる人生をあまんじて過ごしました。そして十字架に掛けられました。それでも人間を愛したのであります。そのすべての罪を自分の身にお引き受けになられたのであります。ありえないことです。申し訳ないことであります。

 キリストが私の中に生きておられるということは、キリストに従い、キリストのごとくに自己を犠牲にして人を愛することができるということです。それができなければ、あなたの中にキリストはおられず、あなたもまたキリストの中にいない、ということです。

 「あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネ14・20,21


12月30日 古いものは過ぎ去って。  Uコリント5章1220

Uコリ5:12 私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。

5:13
もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

5:14
というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

5:15
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

5:16
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

5:17
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

5:18
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

5:19
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

5:20
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい



 今年を振り返ると、個人的には精神疾患への対応ということでまとめられると思います。1月に「低血糖症治療の会」の理事長に就任し、4月には家内と「低血糖症と精神疾患治療の手引」を出版しました。その間、精神疾患の女性を我が家に同居させ、大変な苦労をしました。教会にも男性が泊まったことがあり、痙攣を含めた大変な症状の対処を経験しました。

 しかし、次第に成果を上げてきて、「治療の会」は定着して患者さんとの交流会も実りあるものとなり、治療実績も確立してきました。家内は精神疾患に関する論文を幾つか書き上げて投稿しました。更にいろいろな試みをしています。

 現代社会では、それぞれの人が特徴ある働きをすることが大事です。神は、一人ひとりをユニークな存在として造られておられるので、他人の真似をする必要はありませんし、してはいけません。

 私は、これまで教会成長とか、クリニックや会社の拡大とかを願ったことはありますが、どうもしっくりいきませんでした。私には、そのようなことよりも、病める者、苦しんでいる者、弱い者を助け励ますほうが向いているのです。そして、確かにそういう面で神は私を祝福してくださいます。

 男性には、成功思考があり、組織や人々をぐいぐい引っ張っていきたい、という思いもおこります。しかし、それは排他的な思考にもなり、弱者よりも強者の論理であります。治療というものに真正面から取り組んでいることもあり、いつも健全性という基準が考えの中心にあります。だから、自分が興奮するとか、夢中になるということに警戒しています。

 忙しくなると、これで良いのかと、落ち着くことにしています。暮れの忙しさの中では、自分よりも忙しい妻のサポートに回り、掃除・買い物・料理をすることを意識的に選びました。黒豆を煮たり、小豆でお汁粉や餡を作ったり、また自家製どら焼きを作りました。そういうことをしながら、神に問い、自らを吟味します。興奮して失敗する人々のことを思い遣りながら祈ることもできます。

 無論、師走ですから牧師は忙しく、クリニックも決算であり、原稿書きも80頁ほど果たしましたし、縁談も進めました。しかし、私のモットーは、「労苦は人を富ませず、仕事を進ませず、ただ主の恵みが事を成す。」ということですので、聖霊なる神が私の内に働かれて、事を成してくださいます。

 今日の聖句「自分自身をあなた方に推薦しようとするのではありません。」というのは、自分の働きに囚われない、自分の感情や思いに左右されない、ということではないでしょうか。「キリストの愛が私を取り囲んでいる」から、その愛を感じ、確保しながら生きれば、それで人生はなすべきことをできるのではないでしょうか。多くの人が、自己主張に囚われ、自己確保・生存に思いを向けます。しかし、それは神の守りと祝福を信じていないからなのです。

 「人間的な標準で人を知ろうとしません。」ということは、どういうことでしょうか。

1. 過去の行いで人を見ないということです。

2. 能力で人を見ないということです。

3. 立場や仕事で人を見ないということです。

4. 何にも縛られないで人を見るということです。

5. 神の目で人をみるということです。

 人とは、誰でしょうか。まず、自分自身です。「古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」自分の過去に、能力に、状況に縛られて自分の明日を考えてはなりません。

 私は、来年、どのようなことをするのか、正直よくわかりません。ただ大事なことは、習慣で生きてはいけないということ、失敗を恐れないこと、自分の罪深さと神を恐れることです。毎年、自分が変わってきていることがわかります。皆さんは、私のことをどのように把握されているでしょうか。

 「これらのことはすべて、神から出ているのです。」このようでなければ、すべて虚しいと思います。神から出ているかどうかを、いつもチェックしていなければなりません。だから、祈り深くなければ、何もできないのです。

 神は「違反行為の責めを人々に負わせない」のです。あなたは、今年犯した罪を一々悔い改めているでしょうか。神の前に悔い改めないで、適当に過ごす人には、新しい歩みはあり得ません。なぜなら、罪がその人を追いかけてくるからです。

 「和解のことばを私たちに委ねられたのです。」正義の神は、罪に対してあいまいさを許しません。しかし、多くの信仰者が罪に関して、あいまいに対応して生きているのです。そんな人が神の祝福を得ることはありません。

 私たち自身が明確に神の許しを体験しなければ、伝道をする気持ちをもつことはないでしょう。許しのすばらしさを伝えようとは思わないでしょう。「私たちはキリストの使節」にならなければなりません。許しの福音を伝えなければならないのです。ですから、お願いします。「神の和解を受け入れなさい。」