7月1 主のための戦い。 士師記729

 国会も終わろうとし、参議院選挙が始まります。年金は、莫大な無駄遣いの結果資金が枯渇したと思ったら公務員の年金はそういうことがなかったそうです。そして、今度は年金の支払い記録をきちんと管理していなかったということで、政府や政府高官への批判は高まるばかりです。公安調査庁という取締りをする官庁の長官だった人間が不正をするということで、もはや正義も愛国心も建前だけのものになったようです。首相も美しい国づくりなどと言って、抽象的なことを言いながら強引な国会運営や政策を実行しています。

 事件は多発し、精神病は増え、性風俗産業がはびこり、人々はカラオケでストレスを発散しているだけです。しかるに地球温暖化は進み、気候が世界規模で大きく変動しています。もうすぐ東京に大地震が起こるでしょう。そしてついに世界規模で戦争が起こります。これらは、聖書の預言です。

どのように考えても、間違いなく現代は終末です。しかし、聖書を信じているクリスチャンがこれに対して何にも備えていません。聖書には、終末預言が非常に多くあり、福音書はその多くの部分をイエス様の終末への警告に当てています。それは、終末というものが、恐るべきものであって、備えをしていなければならないからです。

 「洪水が来て、全てのものをさらってしまうまで彼らはわからなかったのです。人の子がくるのもそのとおりです。・・・・だから目を覚ましていなさい。」(マタイ24・39,42)。「大地震があり、方々に疫病や飢饉が起こり、恐ろしいことや天からの凄まじい前兆が現れます。しかし、これらの全てのことの前に、人々はあなた方を捕らえて迫害し」(ルカ21・11,12)「あなた方は、やがて起ころうとしているこれら全てのことから逃れ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(ルカ21・36

 士師記6・33で陣を敷いた敵の数は8・10から見ると13万5千人ですが、ギデオンの呼びかけに応じたイスラエルに人々は3万2千人です。「恐れおののく者は帰れ」と言われて帰ってしまった不甲斐ない人は、2万2千人でした。大体3人に2人です。更に心身共に訓練されて戦いに出られる人は、たったの300人ですから100人に一人です。

 「それなら自分は無理だ。100人に1人の勇者にはなれない。」と多くの人が思うかもしれません。しかし、もしこの人々が戦わなければ、イスラエルは敵に略奪されるのです。現代社会の不正や悪のはびこりも、世の光・地の塩であるべきクリスチャンがその使命を果たしていないからではないでしょうか。

マリヤ・クリニックを開業して20年が経ちました。何の力もなかった私たちでした

が、今や大きな影響を日本社会に及ぼすようになったと自覚しております。先日の取材では、「糖尿病の数倍の低血糖患者がいるとアメリカで報告されているが、それならば日本でも数千万人の潜在的な患者がいて、彼らが問題を起こしているのではないか。」と私たちも驚くような指摘がありました。治療成果は、最近大きく、かなり重い精神症状も治せるようになってきました。

 私は12歳の時に学を志してから殆ど毎日十時間以上働き学んできました。大変な時間です。時間をないがしろにせず、誠実に努力してきたのですから、その蓄積は、ごまかしや不誠実に生きている人間に負けるはずがありません。家内もよく努力する人ですから夫婦が協力する私たちの業績は、間違いなく伸びます。不正な精肉業者がばれましたが、不正やごまかしは必ず表にでます。

 信仰者の日々の歩みというのは、信仰と誠意と努力の蓄積です。毎日の生活を節制せずに薬で治そうとしている人が、薬も利かない重病になった時に神に祈って治してもらおうというのは、調子の良い自分勝手な信仰です。病の癒しというのは、未信者には効くのですが、信者には日々の歩みによります。同じように神の祝福も、状況に左右されて信仰を曲げる人には注がれることはありません。「持っている者は更に与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」(マタイ13・12

 こういう違いは、どこから来るのでしょうか。それは「御国のことばを聞いても悟らない」(マタイ13・19)からです。今回、精神疾患ですごく良くなった人が数名いました。彼らか、その親が治ろうとして必死だったからです。そして、院長の言葉を守り、努力したからです。逆に恵まれた環境にいながら、どんどん悪くなっていく人もいます。自分とその環境が思い通りに行かないことを愚痴り言い訳を言って、なにもしようとしないからです。

 精神疾患というのは、最も難しい状況ですが、私は忍耐と努力を重ねてきた親御さんたちを尊敬します。クリスチャンでありながら、「しょうがないんだ。自分は力がないから。」と世と状況に左右される人々が多くいます。私は、ただ取り成しの祈りをするばかりですが、彼らは間違いなく信仰の破船に遇います。妥協した人生に決して勝利はないからです。喜びも平安もなくなっていき、信仰を守ることもできなくなるのです。「この世と調子を合わせてはいけません。」(ローマ12・2)、「世と世の欲は滅びます。しかし、神の御心を行なう者はいつまでもながらえます。」(Tヨハネ2・17


7月8日 愚かな人々と愚かな指導者。 士師記101018

新改訳 士 10:10-18

10:10
そのとき、イスラエル人は主に叫んで言った。「私たちは、あなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルに仕えたのです。」
10:11
すると、主はイスラエル人に仰せられた。「わたしは、かつてエジプト人、エモリ人、アモン人、ペリシテ人から、あなたがたを救ったではないか。
10:12
シドン人、アマレク人、マオン人が、あなたがたをしいたげたが、あなたがたがわたしに叫んだとき、わたしはあなたがたを彼らの手から救った。
10:13
しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。
10:14
行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい。」
10:15
すると、イスラエル人は主に言った。「私たちは罪を犯しました。あなたがよいと思われることを何でも私たちにしてください。ただ、どうか、きょう、私たちを救い出してください。」
10:16
彼らが自分たちのうちから外国の神々を取り去って、主に仕えたので、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。
10:17
このころ、アモン人が呼び集められ、ギルアデに陣を敷いた。一方、イスラエル人も集まって、ミツパに陣を敷いた。
10:18
ギルアデの民や、その首長たちは互いに言った。「アモン人と戦いを始める者はだれか。その者がギルアデのすべての住民のかしらとなるのだ。」

 申命記十一章に、「あなた方の前に祝福と呪いを置く。主の命令に聞き従うなら祝福を。道から離れ、他の神々に従っていくなら、呪いを与える。」とあり、イスラエルの人々はその通りに、主を捨てました。その結果、「非常な苦境に立った。」(9)のです。

 現代の最大の偶像は拝金教です。要するに金、次に快楽、権力、まさに現代社会を動かす悪の権化はこれらに影響されています。日本は今や国を挙げて、その偶像の虜になっており、政治家が悪の限りを尽くしています。そして国中が悪に略奪されています。これでは主が「あなた方を救わない。」(13)となってもしょうがないでしょう。

 このとき、それでもイスラエルの人々は、主の前に悔い改め、救いを求めたので「主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。」(16)。しかし、日本の国が悪の虜になり、国が滅びようとしているのに、人々は自らを悔い改めず、真理を求めようともしていません。それだけでなく、神の前に取り成しをするべきクリスチャンが却ってその虜になっているのです。

 クリスチャンでさえ、日々の労働と金銭に追われ、神の前に悔い改め、取り成しをなすことを忘れているのです。注意しなければならないことは、こういう場合は必ず、信仰者にも災いが及ぶということです。実際に、私には日本の咎を負わずに自らのことばかり考えている日本のキリスト教界から神の祝福が遠のき、呪いが始まっていると考えています。

 さて、このような国難に際して、イスラエルの人々は、ごろつきの指導者(11・3)であるエフタを立てました。敵が攻撃してきた時に対抗する責任を持つ者がいないのです。言い訳を言ったり、先延ばしにしたり、誤魔化したり、ともかく責任をもって対処する人が少なくなってきました。そういう社会、組織は滅びます。

 先日、クリニックの患者さんが問題を起こし、その方は当クリニックに迷惑を掛けては申し訳ないと相手方にお金を払ったのだけれど、更に要求されたことがわかりました。私は、クリニックはそういうことで何の迷惑も受けていない。気にせず堂々と対処し、相手を拒否して構わないと伝えました。ご両親は、非常に心配していたようですが、すっかり安心したようです。

 正義のためには、勇気を持たなければなりません。損失を心配していては、人を励ますことはできません。悪人は、弱みを見せると攻撃してきます。私は、家長として、牧師として、社長、事務長、そして患者の会理事長として、悪と戦い正義を貫き、人々を守るためにどんなに犠牲を払うこともありうると覚悟しております。指導者と言うものは、人々を守るために自己を犠牲にしなければならないのです。皆さんが、社会的に犯罪を犯すことがあり、人々の信用をなくすことがあったとしても、牧師である私は皆さんの味方です。私は、信者が善人であるとか、犯罪人であるとかに関わりなく、皆さんが教会員であるということだけで味方です。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8・31)とありますが、人々が訴えても(8・32)、罪を犯しても(34)、艱難・苦しみ・迫害・飢え・裸・危険・剣などがあっても、神は私たちを愛するがゆえに、神は味方なのです。

 私は、現代社会で、親が子供と利害関係にあるのに驚いています。親と言うものは、子供が問題を起こし、社会や組織から攻撃されても、子供の味方であるべきです。ところが、そういう密接な愛情を確認していないので、簡単に人の愛や神の愛を疑う人々が多く、簡単に信仰からはなれて、この世の惑わしに陥るのです。

 そういう人々であり、指導者ですから、戦に勝利すると安易に人々に犠牲を強いるのです。エフタは、愚かなことに自分を迎えに出た最初の者を神に献げるなどという誓願を立ててしまいました。そして、一人娘を生贄にささげなければならなくなってしまったのです。人間を生贄にするなどということは、律法に厳しく禁じられていることですが、ごろつきの指導者であるエフタは、そういう厳しい戒律を立てて人々を支配するのです。

 「献金をするほど祝福される」とか、「礼拝を絶対厳守して」などという牧師も多いようです。信仰者にとって大事なことは、神の僕として、時も金銭も能力も用いることであり、献金すれば済むというような安易なものではありません。献金されたお金を牧師の給料で費やすことも不健全です。牧師の給料が即、伝道費というものではありません。要するに、信仰者は信者も牧師もごろつきであってはいけないのです。

 前にも話したとおり、士師記の特徴は、「王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」ということであり、指導者がおらず、指導者になったものも勝手な判断で指導していたことが退廃の原因です。クリスチャンと言うものは、聖書信仰という基準にしっかりと従うことが大事です。しかし、その基準は律法となってしまったような堅苦しいものではなく、人々を解放し、自由を得させる基準なのです。

 私は悪と戦い、正義を貫き、信仰を全うして、牧師であり、家長であるということは、ある場合には命を掛けなければならないことがあると覚悟しております。信仰者として、今の日本に生きるには、命がけの覚悟が必要なのではないでしょうか。多くの人が、命を惜しむまでもなく、金銭や欲望に惑わされて、神の祝福を失っております。


7月15日 神は完全な人を用いる訳ではない。 士師記161422 

新改訳 士
16:14
彼が深く眠っているとき、デリラは彼の髪の毛七ふさを取って、機の縦糸といっしょに織り込み、それを機のおさで突き刺し、彼に言った。「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます。」すると、サムソンは眠りからさめて、機のおさと機の縦糸を引き抜いた。

16:15
そこで、彼女はサムソンに言った。「あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する。』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのかを教えてくださいませんでした。」

16:16
こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほどつらかった。

16:17
それで、ついにサムソンは、自分の心をみな彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎内にいるときから、神へのナジル人だからだ。もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう。」

16:18
デリラは、サムソンが自分の心をみな明かしたことがわかったので、人をやって、ペリシテ人の領主たちを呼んで言った。「今度は上って来てください。サムソンは彼の心をみな私に明かしました。」ペリシテ人の領主たちは、彼女のところに上って来た。そのとき、彼らはその手に銀を持って上って来た。

16:19
彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、ひとりの人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。

16:20
彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます。」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう。」と言った。彼は主が自分から去られたことを知らなかった。

16:21
そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。

16:22
しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。

 今日は何度も映画にもなっているサムソンの話です。皆さんは、サムソンの話を読んでどんなことを感じるでしょうか。殆どの説教者が、「サムソンは欲望に負けた。罪の結果惨めな生涯を送ったが、悔い改めて自我に死んだとき(16・30)、生きていた時よりも大きなことができた。」と語るようです。

それは、日本のキリスト教が清め派の影響が強いからですが、「清められ、自我に死ななければ神の業はできない。」とするならば、そもそも罪深い人間は、何もできないで悔い改めるだけになってしまいます。そして、信仰という個人の力量に神の業が依存することになってしまいます。清め派の信仰が、摂理というよりも信仰者の当為行動を重視するところは、このようなところからも伺えます。

サムソンは、マノアとその妻への突然の神の介入から生まれました。13章にあるように、神がサムソンを「胎内にいる時から神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」(13・5)と勝手に選んだのです。しかし、勝手に選ばれても、従うことが求められます。ナジル人とは、「聖別された人」ということで酒を飲んだり、ブドウから作られたものを食べることを禁じられ、髪を切ることも禁じられていました(民数6章)。ナジル人になるというのは誓願のためですが、サムソンの場合には、死ぬまでナジル人であるように神に定められてしまいました(13・7)。

皆さんはオードリー・ヘップバーンの演じた「尼僧物語」を観たでしょうか。尼僧として精神病院やアフリカでの看護婦として働いたヒロインは、ドイツ占領下のベルギーで修道女としての生涯に疑問を感じ、そこを出て行きます。全てを神に委ね、修道院の中で世の軋轢から離れて暮らすことに苦痛を覚えるのです。ヘップバーン自身が、女優としてよりも平凡な妻・母としての生き方を重視し、晩年はユニセフなどの難民キャンプでの援助活動に従事していたプロテスタントの信者だったようです。

この世で生きるということは、きれいごとでは済みません。だからといって、利益や収入から献金を教会にすれば何をしても良いということはありません。水商売をクリスチャンがするべきでないことは当然ですが、離婚された韓国クリスチャン女性が韓国では生きてゆけないので、日本に来て水商売をして働きながら熱心な教会奉仕をしているという本を紹介したこともあります。最近の事情はわかりません。しかし、そのようなことを許した韓国社会の教会が今や異端の蔓延に苦しんでいることも事実です。戦争の時に最も愛国心を持っていたので尊敬された韓国キリスト教が、その後の社会事情への良心であり続けなかったこともあります。日本のキリスト教会は、もっと多くの問題を抱えながら、誠実に対応しておりません。これが日本社会における教会の弱さです。

社会に生きるならば、失敗もし恥じもかきます。父としても家族の問題に真摯に立ち向かえば、怒りもすれば動揺もします。問題に立ち向かうということは弱さをさらけ出すということなのです。私は、日本人クリスチャンの多くが、失敗や恥を恐れ、逃げているように思います。

 サムソンは、欲情に溺れていました。しかし、「それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられた。」(14・4)。エフタによってアモン人を打ち破ったイスラエル人は、その後やはり堕落してペリシテ人の支配下に落ちてしまいました。そういう社会にあって、ナジル人として明確に記されているサムソンの超自然的な腕力は、全能の神の力を示すには充分でした。サムソンは「20年間イスラエルをさばいた。」(15・20)とあるので、サムソンの腕力の前にペリシテ人はイスラエルを恐れたのです。

 欲情に溺れてはいけません。感情的に喧嘩や争いをしていけないのは当然です。しかし、信仰者として最も注意しなければならないことは、信仰を持たないことです。信仰の戦いの時に、戦おうとしないで逃げてしまうことです。敵にとっては、何の恐れもありません。そして周囲の人々にとって、クリスチャンは無害で取り柄のない存在になってしまいます。罪と、世と、悪と、諸問題と、戦うことのできない人は、信仰をもっているのではなく、信仰を知っているだけです。知っているだけの信仰では、戦うことも祝福されることも、まして天国に行くこともできません。

 サムソンは、多くの祝福をイスラエルにもたらし、そして悔い改めて神の国に行きました。世の中を真摯に生きようとしたら戦いだらけです。そして自らの弱さと自覚し、神の助けを呼び求めずにおられないのです。


7月22日 御翼の下に避け所を求めて来た。 ルツ記21016

新改訳 ルツ 2:10-16

2:10
彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」

2:11
ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。

2:12
主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」

2:13
彼女は言った。「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます。私はあなたのはしためのひとりでもありませんのに、あなたは私を慰め、このはしためにねんごろに話しかけてくださったからです。」

2:14
食事のとき、ボアズは彼女に言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る者たちのそばにすわったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。

2:15
彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若者たちに命じて言った。「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。

2:16
それだけでなく、あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女をしかってはいけない。」


 ルツ記を読むと、その叙情的な流れと信仰的な会話に喜びを覚えます。例えば、2章4節の挨拶の言葉にイスラエル人の交流が「主があなた方と共に」「主があなたを祝福されますように」と信仰に満ちたものになっています。士師記の時代で、社会は混乱し「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」という時代考証をおそらくサムエルがしているのでしょうが、ルツ記の場合には、その時代にあって、信心深い人々がいたことが語り告げられています。

 ヨシュアによってカナンを占領してまもなくのことだろうと思いますが、ユダ族のエリメレクという人が飢饉を避けて約束の地ベツレヘムを離れ、あろうことか異教のモアブの地に家族と共に逃れます。その10年の間に、彼は死に、二人の息子も死んでしまい、妻のナオミと二人の嫁が残ります。エリメレクという名は、「私の神は王である」という意味だそうですが、その名のとおりには生きていなかったわけです。ナオミも「快い」という意味ですが、約束の地から離れたナオミは悲惨なことになり、モアブ人の嫁ルツと帰国します。

 男性のいない家族は、もはや土地も財産も持つことができません。ナオミは帰国に際して、嫁たちに里帰りを勧めるのですが、ルツは「あなたの神は私の神」(1・16.17)と語り、どこまでもナオミと共に歩むことを告白します。ルツとは、「友情」いう意味だそうですが、その後の経緯を見ると非常に従順で忍耐深く、また優しく配慮に富んだ女性であることがわかります。私は、異教の生まれであるルツが、ヤーウェ信仰に傾倒していく様子が汲み取れます。そして、現実の悲惨さや困難を越えて、義母の信仰を尊敬し教えを受けて成長していくのです。

 「妻は夫に従いなさい」と聖書に厳しく教えられていますが、そうは言っても不信仰で無能力な夫に従っていたら、問題ばかり起こってやっていけない、と考える女性も多いことでしょう。その夫は、神に従わなければならないのですが、神に従って生きている男性も少ないから女性の心配は募るでしょう。ナオミの悲惨は、不信仰で打算的な夫によってもたらされました。しかし、それでもナオミが日常生活で信仰深く歩んでいたことは、ルツ記から充分理解することができます。ルツはそのようなナオミを見ていたからこそ、試練を覚悟して何の保証もなくナオミと一緒にベツレヘムにまで従ったのです。

 人生をどのように歩んだかで、その人の人格は形成されます。そして、神の祝福は、その人格と結びついた信仰の結果として実ってきます。願うだけで物事を得ることはできません。願い続け、努力をし、困難に耐え、そのようにして人格を形成していくのです。ギャンブルや宝くじ、一攫千金の願いが多いようですが、成功する人々は、そういうことに乗りません。ライブドア、村上ファンド、コムスンなど短期間に才覚で財を築いた人々が、有罪とされて崩壊していきました。

  ルツは、イスラエルの人々に嫌われるモアブの女性でありながら、ナオミに尽くし忠実な信仰生活を歩んでいました。ボアズだけでなく、人々はルツが「神の御翼の下に避け所を求めて来た」(12)ことに気がつき始めたのです。ナオミは、この敬虔な嫁の幸せを求めずにはいられなくなりました(3・1)。

 イスラエルでは土地は売ってもヨベルの年には、戻ってきます。ヨベルの年を逆算して土地の価格が決まりますが、男性がいなければ買い戻せません。親戚が買い戻す場合には、息子などをその家の跡取りとして譲らなければなりません。ナオミは、ルツとボアズを結婚させて、生まれた子を跡取りにしようと願いました。しかし、ボアズにとっては、買戻しのお金が掛かり、財産はナオミのものとなってしまいますので、よほどの好意がなければするものではありません(4・5.6)。

 ボアズは、実はエリコの遊女ラハブの子でした(マタイ1・5)。信仰によってラハブは行動したとヘブル11章31節にあるように、異教の女性でありながら敬虔な信仰をもって歩んだラハブの子であるボアズがルツを同情し愛情を注ぐのは神の摂理です。そして、このルツの曾孫がダビデ王になるのです。つまり、イエス様の祖先には、二人の異教の女性がいるのです。

 苦難と試練の中でも敬虔な信仰生活を歩んだナオミの人生は報われました。不信仰な夫の行動によって破綻がきたと思われた人生でしたが、神は見ておられたのです。

「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない」(箴言10・22

「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」(箴言22・4

「寄る辺のない者に施しをするのは主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」(箴言19・17

 誠実、真実というものは、長い間に必ず祝福の実を結びます。浅知恵に走ってはなりません。敬虔な信仰生活とは、打算をしていては難しいものです。このような社会であるからこそ、敬虔さが重要であるのです


7月29日 主の前に心を注ぎだす祈り 。 Tサムエル記1章1018
新改訳 Tサム1:10-18

1:10
ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。

1:11
そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」

1:12
ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。

1:13
ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。

1:14
エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」

1:15
ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。

1:16
このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」

1:17
エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」

1:18
彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。



 士師時代というのは、イスラエルを勇士や宗教的指導者が治めていた時代ということで、サウルによる王制ができるまでを言います。その末期にモーセ以来の宗教的指導者サムエルが生まれます。今日は、「ハンナの祈り」として語り継がれるその母ハンナのことをお話します。

 人は、不幸がないほうが良いとか、思い通りに人生が進むことを求めるものですが、それでは神の器や信仰者は育ちません。聖書は、「信仰の試練は金よりも尊い。」(Tペテロ1・7)とあるので、皆さんがうまくいかないことのほうが大事かもしれません。誰でも苦労はするのですが、信仰による試練や苦労をした人は、やはり品性が実るようです。なぜなら、信仰による試練というのは、信仰がなければ試練にならず、愚痴ればそれで済んでしまうものだからです。

 先週のルツも義母のナオミを見捨てれば、それでおしまいでしたが、信仰によって歩んだので試練があり、祝福があり、喜びがあり、そして歴史に残ったのでした。今日のハンナも、「子供がいないのだからしょうがない。」と思えばそれだけのことです。もう一人の妻には子供が大勢いたけれども、夫はハンナを充分愛してくれていたので、それで満足すれば、大祭司サムエルは生まれないのです。

 私に電話があり、息子や従業員が電話にでると牧師はなんとなくわかるそうです。少し「普通でない。」人々です。私は、「人生を普通に生きていこうとする人は牧師になんかならない。魂を救われて喜んでいる人は信者に留まり、このことを伝えないでいると心が痛んで苦しむ人が牧師になる。そして、伝道に一生懸命になったら普通でいられるはずがない。だから、牧師というのは、少し変な人なんだよ。」と説明します。

 私の妻は、かなり変な人で、宣教師になりたがっていました。いまでも、聖書を読むと安心してぐっすり眠り込み、お風呂に入っても大声で祈っています。医療をするよりも伝道することに優先順位があります。私は、あまり変な人間ではないと自覚しています。変人の妻が牧師になったら信者が可哀相だと思って、身代わりに牧師になったのです。ですから、変人ばかりいる牧師に苦しみながら、だからこそ牧師たちの働きがうまくいくように神様から使命をいただいているのだと考えるようにもなってきました。しかし逆に、変人になりきれない自分を不信仰な者だと教会員に申し訳なくも思っています。

 ハンナは自分が愛されても、神にあって何もできないでいる自分に苛立っていました(1・6)。「心が痛み、主に祈って激しく泣きました。」(10)。そして、誓願を立てたのです。女性である自分は、神に仕えて生きることができないので、息子が与えられ、神に仕える人生を息子が歩むようにと願ったのです。当時、人々は信仰生活を歩んでいましたが、そこまで一心に神に祈る人はいませんでした。

  私は電車や人前では、声に出さずに唇を動かして祈っています。自分の感情を揺り動かすいろいろな出来事に対して、それを冷静に捉えたり、無視することは信仰者として健全ではないと考えています。自分が見聞きする全てのことに関して、神に祈り、神に聴くこと心がけています。考えていてはならないのです。悟り、考えることは、不信仰者の行為です。信仰者というのは、全てのことを、考えるのではなく祈るのです。祈るためには、唇は動かさなければなりません。

 ハンナは一心不乱に祈っていました。言葉に出せば、自分の声に酔って感情的になり、神の声を聞けません。「私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。」(15)。祭司エリは、その言葉に驚き、その信仰に感動しました。不信仰な歩み・人生は、他の人にも自分にも感動を与えません。エリはハンナの祈りに感動して、はっきりと誓願の成就を宣言しました。明確な信仰、激しい信仰に神は必ず答えられるのです。

 中風の友を癒してもらうために、友人たちは屋根を剥がしてイエス様の前に彼を降ろしました(マルコ2・4)。自分の僕を癒してもらうためにイエス様の処に出向いたローマの百人隊長の信仰にもイエス様は感動しました。叫び続け、拒まれても、イエス様に癒しを求め続けたカナン人の母親にもイエス様は驚きました。ハンナも、エリの言葉を完全に信じて、平安を得ました。「あなたがたが信じて祈り求めるなら、何でも与えられます。」(マタイ21・22)。

 多くの人が神を信じていません。願っても叶えられると思っていません。それでは、無感動な宗教生活をしているだけです。そして、不信仰を口にしながら弁解を言っているのです。「高ぶって多くを語ってはいけません。横柄な言葉を口から出してはいけません。まことに主は、全てを知る神、その御業は確かです。」(2・3)とハンナは信仰を宣言するのです。

このようにして大祭司サムエルが母の信仰によって生まれ、ダビデ王への道備えをするのです。「神は無学なただ人を使う。」と恩師弓山喜代馬先生が語っておられたのを思い出します。学問をしたなどと思い高ぶる者は神に用いられることはありません。自分は偉いとか、目立つことを考え、上席に座ることを考える人は、神の御旨に気がつくことはありません。熱心に主の前に心を注ぎだしたことは、あるでしょうか。神は、その祈りに必ず聴いてくださいます。

 五月の全国聖会で、私は信徒に混じって前に進み出て、神の前に悔い改め、再献身をいたしました。牧師であるので促されて信者の助祷をしようとしたら、そこに義理の息子が献身を表明しておりました。先週は、私のために息子が取り成しをしてくれました。心を神に注ぎだしましょう。神は聴いてくださっています。


8月5日 神を尊ぶ者を神は尊ぶ  Tサムエル記22530
 

新改訳 Tサム2:25-30

2:25
人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころであったからである。

2:26
一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。

2:27
そのころ、神の人がエリのところに来て、彼に言った。「主はこう仰せられる。あなたの父の家がエジプトでパロの家の奴隷であったとき、わたしは、この身を明らかに彼らに示したではないか。

2:28
また、イスラエルの全部族から、その家を選び、わたしの祭司とし、わたしの祭壇に上り、香をたき、わたしの前でエポデを着るようにした。こうして、イスラエル人のすべての火によるささげ物を、あなたの父の家に与えた。

2:29
なぜ、あなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住む所で軽くあしらい、またあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうち最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。

2:30
それゆえ、――イスラエルの神、主の御告げだ――あなたの家と、あなたの父の家とは、永遠にわたしの前を歩む、と確かに言ったが、今や、――主の御告げだ――絶対にそんなことはない。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。

 先週は、真摯な信仰をもって祈り求めたハンナの姿勢を語りました。その信仰の子、サムエルを預けた祭司エリは、子育てに失敗した自己管理のできないダメ祭司でした。世襲制の祭司ですから、二人の息子も祭司になりましたが、全く神を信じず、権威をかさにして勝手なことをするよこしまな人間でした。

 ユダヤ人は優秀で、病人も遺伝的な疾患も少ないと報告していますが、聖書的には、脂肪は食べてはいけないものです。2章の16節にあるように「脂肪をすっかり焼いて」から肉を食べるべきなのですが、やはり肉には脂肪が適度についていたほうがうまいようです。基本的に私は出されたものは食べていますが、この箇所を知っているので買う時は赤身のモモ肉などを選んでいます。確かに、脂身の肉を食べていると健康によくありません。ところが、このエリの息子たちは、神に献げられる前に、勝手にうまい脂身のついた肉を選んで取ってしまっていたのです。

 更に、彼らは神殿の外で働いている女たちと不道徳をおこなっていました。エリは彼らに注意します。「人に対して犯した罪は、神が仲裁をしてくださるが、神に対して罪を犯すと、仲裁に立ってくれるものがいなくなるぞ。」(25節)。その後、この二人の息子は、ペリシテ人に殺されるのですが、その知らせを聞いたエリも倒れて死にます。この時、98歳なのですが、「身体が重かった。」(4・18)とわざわざ書いてあるように、おそらくエリもそのような肉を食べさせられて太ってしまっていたのでしょう。

 私たち夫婦はよく手を取り合っているので、さぞ仲の良い夫婦だと思われるでしょうが、実際はお互いに疲れやすいのでマッサージをし合っているのです。私は低血糖症の上に通風で、最近は前立腺炎で夜起きるようになりました。恵みにより花粉アレルギーは治ったのですが、節制を保たなければ仕事を充分にすることはできません。私をかなり元気だと思われる方も多いでしょうが、最近は休みながら仕事をこなしています。夫婦お互いの弱さを知っているので、本当に助け合い、支え合っています。「自分の身体をもって神の栄光を現しなさい。」(Tコリント6・20)とあるように、70歳までは神に仕えられるようにと、健康管理にいそしんでおります。ゴルフだ、スキューバだと皆さんも驚かれると思いますが、神に仕えることも健康管理も楽しみながらやらなければ、できるものではありません。食事も脂身を食べたり、食べ過ぎたりしなければ、味わって良い食事を楽しめます。

 要するに、いつも神に自らを献げて一生懸命に生きるように心がけ、またその人生を味わって生きることが大事なのです。「わたしの心と思いの中で事を行う忠実な」(2・35)生き方が必要なのです。エリは、おそらく全てを知っていたのですが、それを行うことなく惰性で生きて、子供も自分も管理できなかったのでしょう。

  エリの目はかすんで見えなくなってしまいました。おそらく肥満が進み、糖尿病になっていたのでしょう。そんなエリにも少年サムエルは、一生懸命仕えていました。12歳くらいと言われていますが、毎晩主の宮で寝て神の箱を守っていました(3・3)。そして、夜中でもエリに呼ばれると走っていったのです。

 真摯にする仕事は人格を形成します。誤魔化してやる仕事は人格を損ない、必ずその人を破滅させます。真面目にやっているように見えて手抜きしている人は、真摯に仕事をする人には直ぐに見抜けます。むろん神にはわかります。

例えば、糖尿病は自覚症状がないので「沈黙の殺し屋」と呼ばれています。症状は何もでず、痛くもかゆくもなく、食べ物はおいしく、風邪もひかない、そういう人がよく糖尿病になります。身体というのは誤魔化せないのです。自己管理・節制していない人が、突然なるのです。病後も、食事や運動に注意していれば、それほど悪くならないのですが、多くの糖尿病患者はそれができません。罪や誘惑も、同じようで、必ず破綻がくるのですが、一度誤魔化すとなかなかやめられなくなります。酒やタバコも同じです。「やめるくらいなら死んだほうがまし。」などと言って、身体が回復不能になるのです。

神の戒めを軽んじてはいけません。「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」(2・30)。週に一回の休日を守らない人は、身体に破綻がきます。その病は治るためにより多くの休息を必要とします。ペナルティなのです。多く働いても、その収入は虚しく失われていきます。家族を犠牲にしてはなりません。愛さないでいた咎は、あなたの人生を破滅させます。効率で生きようとする人は、非効率な病や事故で目論見を外れます。

 エリとその息子たちの行いには罰が下り、幼くても真摯に仕事をして一人神に仕えるサムエルは祝されました。「サムエルは成長した。主は彼と共におられ、彼の言葉を一つも地に落とされなかった。」(3・19)。聖書は、はっきりと「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます。」(マタイ6・33)とあります。しかし、神の義を自分の判断よりも世の常識よりも優先する人は、少ないのです。


8月19日 「サムエルの働き」  Tサムエル記12章15
 
新改訳 Tサム12:1-5

12:1
サムエルはすべてのイスラエル人に言った。「見よ。あなたがたが私に言ったことを、私はことごとく聞き入れ、あなたがたの上にひとりの王を立てた。

12:2
今、見なさい。王はあなたがたの先に立って歩んでいる。この私は年をとり、髪も白くなった。それに私の息子たちは、あなたがたとともにいるようになった。私は若い時から今日まで、あなたがたの先に立って歩んだ。

12:3
さあ、今、主の前、油そそがれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを苦しめ、だれかを迫害しただろうか。だれかの手からわいろを取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、私はあなたがたにお返しする。」

12:4
彼らは言った。「あなたは私たちを苦しめたことも、迫害したことも、人の手から何かを取ったこともありません。」

12:5
そこでサムエルは彼らに言った。「あなたがたが私の手に何も見いださなかったことについては、きょう、あなたがたの間で主が証人であり、主に油そそがれた者が証人である。」すると彼らは言った。「その方が証人です。」



 「霊性の神学」の提唱者フーストン博士が「牧会者としての奉仕を自分の職業にしてはいけない。」と述べられたことは以前にもお伝えしました。専門知識を高めることは現代社会における宣教には必須なことですが、だからといって学位や資格で牧師ができるはずもなく、人をうまく操縦することが牧会ではありません。うまくいくことが神の御心であるとも思っておりません。人間は本来自分勝手なものですから、自分の心の勝手さも用心していなければなりません。

23人の韓国人クリスチャンがアフガニスタンで拉致拘束され、数人が殺されました。イスラムの国にボランティアに行くというならば、命懸けでなければなりません。安易な服装が気になりました。あれでは、現地の人々には挑発的であり、その国の宗教と文化を見下しているように思われます。署名運動でどうにかして救い出そうとすることを否定はしませんが、現実は甘くなく、政治的な交渉に利用されるだけです。

生きるということは命懸けのことなのです。昨日、地震の中で仕事をしながら、「主よ、この身を委ねます。」と祈りました。ケアンズでのスキューバも命懸けでした。家内もよく付いてきたと感心しております。海の真っ只中で船から飛び降り、10mも潜るのです。はるか上の水面を見上げ、「下手したら死ぬな。」と思うと家内を一生懸命支えていましたが、そうすると緊張感でうまくいきません。4回目のダイブで「死ぬ時は死ぬんだ。神は全てを治めておられる。」と考えると非常にリラックスできました。自由に水中を巡りながら、魚と一緒に生かされている自分を体験しました。非常に感動しました。

サムエルの人生は、劇的に始まりましたが、平凡に進んでいました。この引用句の中で、@先に立って歩んだ。A搾取をしなかった。B人を苦しめなかった。と語り、民もそれを認めています。「サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。」(7・13)という言葉は、私の好きな信仰生活です。大げさなことをしなくても、右に行けば祝福され、左に行っても祝福される、そういうことが信仰生活だと思っているからです。しかし、そこには極意があります。

何をしても不器用で簡単には身に付けることができない妻が、どこにも私についてきます。この妻を見守り、愛し、教えながら、一緒に生きていく内に驚くべき神の祝福が付いて回りました。人を変えようと思わないで、愛するということは神の業であり、義であります。神は私たちを変えようとしていないのです。そして、受け入れてくださるのです。

人々は、預言者ではなく、王を求めました。人生の戦いや敵に対して、攻撃をすることによって解決をしようとするのです。力や論理で物事に勝とうとするのです。実は、神こそ王であり、私たちを治めておられるのですが、信仰ではなく、権力によって解決しようとするのです。神に王を立ててください、と願いながら王に従おうとしないのが、人間なのです。要するに、判断の主体を自分に置くのです。自分が王なのです。

 サムエルは「私もまた、あなた方の為に祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私は、あなた方に、良い正しい道を教えよう。」(12・23)と預言者としての歩みを示しています。不器用な妻がスキューバをするのを助けるのは、自分ひとりでやる4-5倍の手間が掛かります。しかし、その妻を助け、祈るのをやめるのは、「主に罪を犯すこと」なのです。1日で750キロの道を走るのに妻は地図を読めず、一時間を見ても何もわからず、休憩所で直ぐに私が「良い正しい道を教え」ました。最後の頃は、少し地図が見られるようになりました。そういう何気ないことが、神の祝福される毎日の暮らしなのだと思います。自らの力で問題を解決し、判断し、治めようとするのは、自分が王なのです。

 祭司、預言者というのは、神の言葉を受け、信じ、他の人に語るのです。単に、それだけのことが、非常に難しいということがやっとわかってきました。「ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。」(12・24)。そして、「主がどれほど偉大なことをあなた方になさったかを見分けなさい。」(同)とあるように、平凡な日常生活を信仰持って歩むと、どれだけ神が祝福されるか、わかるようになることが大事です。

 私は毎日の生活に、信仰で生きるべきか、能力と判断で生きるべきかを問われることが、驚くほど多いことに気が付いております。後者で生きる人が、クリスチャンにも殆どですが、私には神の祝福がそれほどあるようにも思えず、ご本人も信仰は魂の救いだけで充分であるように考えておられるようです。

 この世の生活では、誰かを王にしなければなりません。しかし、罪ある人間は決してどの王にも仕えることができず、自分を王として自分の判断で生きようとするのです。神を王とするならば、王はあなたを祝福してくださいます。それだけでなく、人々に神の言葉を伝える預言者であるならば、あなたの行くところどこでも、神はあなたを祝福されるのです。


8月26日 権威に従い、行使する。  Tサムエル記87〜18節

新改訳 Tサム8:7-18

8:7
主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。

8:8
わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。

8:9
今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」

8:10
そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。

8:11
そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。

8:12
自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。

8:13
あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。

8:14
あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。

8:15
あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。

8:16
あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。

8:17
あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。

8:18
その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」



 人がたとえ神を知り、信じていても、自らの人生の判断や主権を自らのものとして生きたがるという習性は、そのまま残ります。そのようなことが罪というものであり、それでは神の祝福を得ることはできません。なぜなら、神を信じるということ、自分の罪を悔い改めるということは、自らの救いを自らの能力ではなく、神に依存するということだからです。

 私は、多くの信者、牧師を見ながら、実はこの点を満たしていないで、自分の判断の中で神を利用して思い通りの人生を生きようとする人が多いことに気がついています。私が自ら、神を信じ従う者として注意している点は以下の通りです。

@ 他人、時間、金銭その他何でも自分の思い通りにならないことを覚悟する。

A 攻撃や非難、問題や試練、うまくいかないことを全て受け入れる。

B 物事の表面に囚われず、神の御心や霊的なことに関心を持つ。

C 勇気を持ち、人生を味わい、主の御心を実行することを最優先する。

 皆さんは、神を主として生きるということを拘束の多いものと誤解していないでしょうか。神を主とも王ともせず、人間を指導者として立てようと考えます。7節8節にあるように、真の神を退け捨てて、偶像の神々を欲望の中に作り上げ見つけ出し、それに仕えようとするのです。

現代社会は理性や論理が幅を利かせています。牧師である私に、「なぜ」と聞いてくる信者や人は多いのですが、なぜと問うことは、そもそも信仰生活には不適切なのです。論理的に納得いく場合に神に従うということは、実は従っていないことの証明なのです。私は、納得いく説明をすることは得意ですが、それは自らが疑問を持って信仰生活を過ごしてきたからです。しかし、それでもこれまで祝福を得てきたのは、明治生まれの両親の影響で、従順を旨とすることを習慣としてきたからだと感謝しております。

人を王とすれば、論理的に王の権利と権威に従わなければなりません。徴兵に応じて労役に服さなければならず、税金も払い、無理な要求にも従わなければなりません。王の奴隷となり、人の立てた権威を神が覆すことはしませんので、理不尽なことでも神は救い出すことができなくなります。なぜなら、人が王を立て、王を要求したからです。(11-18節)。

平等ということがよく理解されていません。教会にこれから子供たちが増えてくるでしょうが、決して子供を甘やかしてはなりません。子供を中心に生きたら子供はダメになります。礼拝の最中に子供に目を向けていてはいけません。子供は自分が主人だと思い込みます。決して大人に対して手を上げさせてはいけません。子供は親に従うべきですが、親は子供の人格を踏みにじってはならず、その判断の中に入り込んではなりません。これをしないと子供は、反抗します。

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」(ローマ13・1)とあります。子育ての中で最も大事なことは、権威に従うことを身に付けさせることです。親や指導者に反抗する人は、幸せな人生を送ることはできません。そして、自ら権威に従う人は、権威を行使して人を従わせることのできる人です。

 イエス様を驚かせた信仰をローマの百人隊長は見せました。彼は権威を知っており、「私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして」と権威をもって部下を思い通りに動かすことができることを語り、神の子のイエス様の当然の権威を認め、病の癒しを命じる権威があることを表明したのです。

 職場や組織を辞める人が多いようです。自分の考え方や判断を第一に置き、上司に納得がいかない時には従わないと辞めるようです。信仰と同じですが、育てられる中で権威に従うことと、その祝福を体験して来なかった人々です。親は責任を放棄して、子供の判断に任せたりしてはいけません。子供に多額なお金を預けてはいけません。学校や会社を辞めるのを子供の自由にしてはいけません。不道徳や性体験を自由にしてはいけません。

 「権威に逆らっている人は、神の定めに背いているのです。そむいた人は自分の身に裁き招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。」(ローマ13・2.3)とあるように、親や指導者は罰を与える責任を持たなければなりません。そして、権威に従う祝福を体験させなければならないのです。

 信仰の指導者である預言者に従うだけでは生きられなくなるのは、しょうがないことです。王などの制度・組織上の指導者に従うということで人は神の祝福の道を理解するのですが、この世の指導者に従うということは、なかなか難しいことでもあります。神は、ここで、そのことを人々に忠告しているのです。そして、真の神を信じ従わなければできないことでもあります。

 Tコリント十一章には、男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であると書かれ、その権威と行使することと従うべきことを記してあります。エペソ5章6章には、夫婦のことと親子のことが記され、従うことが促されています。神の祝福を自分のものにするために、権威に従うことと行使することを身に付けていきましょう。


9月2日 主の霊によって変えられる。  Tサムエル記10613
新改訳 Tサム10:6-13

10:6
主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。

10:7
このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。

10:8
あなたは私より先にギルガルに下りなさい。私も全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげるために、あなたのところへ下って行きます。あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私があなたのなすべき事を教えます。」

10:9
サウルがサムエルをあとにして去って行ったとき、神はサウルの心を変えて新しくされた。こうして、これらすべてのしるしは、その日に起こった。

10:10
彼らがそこ、ギブアに着くと、なんと、預言者の一団が彼に出会い、神の霊が彼の上に激しく下った。それで彼も彼らの間で預言を始めた。

10:11
以前からサウルを知っている者みなが、彼の預言者たちといっしょに預言しているのを見た。民は互いに言った。「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルもまた、預言者のひとりなのか。」

10:12
そこにいたひとりも、これに応じて、「彼らの父はだれだろう。」と言った。こういうわけで、「サウルもまた、預言者のひとりなのか。」ということが、ことわざになった。

10:13
サウルは預言することを終えて、高き所に行った。

 人が神を信じ救われ、そして成長してその賜物を発揮するまでには多くのプロセスがあり、またそれが必要です。子どもは黙っていても大きくなるというのは誤りで、手を掛け愛情を注ぎ、そして教えていかなければ、決して神にも人にも用いられる人になることはありません。

 娘たちをアメリカにホームステイに送ったところ、非常に感心されました。よく気がつき、手伝いも自然にするので、どのように子育てをしたのか、と尋ねられました。ともかく、私たち夫婦が自分たちのことよりも子供の要求に応じることを優先したことは事実です。そして、人に躓かないように気をつけ、非難話を家庭でしないように努力しました。

 雇ったばかりの従業員が簡単に辞めるのに驚いています。理由はあるでしょうが、辞めるということは取り返し・やり直しを否定するということです。これでは、簡単に離婚もするし、物事を辞めてしまうでしょう。仲良しとだけ交流していて親や年長の人のアドバイスや教訓が欠けている日常を過ごしていると思われます。人間的な成長は、忍耐や努力から来るもので、思い通りに生きて好きな人と仲良く生きることを求める人は、決して幸せになれません。なぜなら、人間は本来、罪人であって自己中心ですから、努力なしに人を仲良くすることは長期的には無理だからです。

 学校に嫌な教師、変な教師がいて当たり前、職場にダメな同僚、嫌な上司がいて当たり前です。親だって、完璧な親などいるはずがありません。結婚相手に理想を言ったら、直ぐにふられてしまうでしょう。大事なことは、どんな相手に対しても忍耐と理解をもって愛情をもって接することです。クリスチャンであろうとなかろうと、幸せというのは、そういうことによります。無論、神を信じ救われるということは、魂の救いであって神の国に行く条件が与えられるわけですが、この幸せの条件を満たしていないと、この世でうまくいかず、躓いてしまって神から離れてしまうこともありかねません。信仰にも飽きっぽい人がいて、忍耐ができず、聖霊を悲しませてしまうのです。

 母が死んで4ヶ月が経ちましたが、想い出すことが多くあります。忍耐と努力の人で、決して人を非難せず、良いように捉えていました。理不尽なことも無理に良いように理解し、笑顔をもって過ごしていました。父が死んだ時には、その信念を想いましたが、母には、その愛情が懐かしく、麗しく、寂しくてたまりません。イサクはリベカを愛し、「母の亡き後、慰めを得た。」(創世記24・67)とありますが、サラは優しい母親であって、リベカも優しい妻だったのでしょう。私も、妻の優しさに慰めを得ています。

 本題に入ります。神を信じるためには、

@ 宣べ伝える人がいなければなりません(ローマ10・14)。

A 宣べ伝えるべき真理、聖書が明らかにされなければなりません。(10・17

B 聖書の示す神の愛、キリストの奥義を信じなければなりません。(10・10

C 信仰者であることを公に告白しなければなりません。(10・10

D キリストを信頼して人生を送らなければなりません。(10・11

E それら、全てに聖霊なる神の介入が必要です。そのようにして信仰者は神に喜ばれ、受け入れられるのです。(15・16

 今日はサウルが祭司サムエルによって油注がれ(聖霊の満たしを受け)、王として神に任命されるところです。人が何をするにも、聖霊によって満たされ、変えられることが必要です。神が共におられたら、何をしても祝福されます。しかし、神が共におられなかったら、何をしてもうまくいきません。

 日本人は、納得しないと動きません。理由のついていることをやりたがります。しかし、聖書は、聖霊に満たされ新しい人に変えられたら「手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたと共におられるからです。」(10・7)。人間の理解や能力など、神の力に比べたら何億分の一にもなりません。大事なことは、聖霊に満たされることです。牧師や信仰者でも、理解や納得で行動している人ばかりです。或いは、聖霊に満たされたといって、自分勝手なことをする場合もあります。

 世の人々や「よこしまな者たちは」サウルを軽蔑しました(10・27)。しかし、「神に心を動かされた勇者は、彼について行った。」(10・26)。聖霊に満たされたといって、物事が思い通りになることはありません。しかし、神の御心はなるのです。敵がいても、問題が起こっても、気にしてはなりません。大事なことは聖霊に満たされることです。

 夫として、父として、牧師として、社長として、その他、いろいろな仕事が増えてきていますが、全て聖霊に満たされて行動することを心がけています。そして気がつくことは、殆どの人々が、自分の判断で人生を生きていることです。その判断には、個性があり、限界があり、理解力が不足しています。頑固に主張しても物事は動かず、解決しません。人間の知恵など、愚かなものでしかないと、悟ってしまったほうが早いと思います。

 私はいつも聖霊に満たされているほどの信仰者ではありません。ともかく、自分の判断と能力への自信とうぬぼれを捨てることが大事です。古い上着を脱がなければ、新しい上着を着ることはできません。

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」(Uコリント5・17


9月9日 主の命じられたことを守る。  Tサムエル記14414

新改訳 Tサム13:4-14

13:4
イスラエル人はみな、サウルがペリシテ人の守備隊長を打ち、イスラエルがペリシテ人の恨みを買った、ということを聞いた。こうして民はギルガルのサウルのもとに集合した。

13:5
ペリシテ人もイスラエル人と戦うために集まった。戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように多い民であった。彼らは上って来て、ベテ・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。

13:6
イスラエルの人々は、民がひどく圧迫されて、自分たちが危険なのを見た。そこで、ほら穴や、奥まった所、岩間、地下室、水ための中に隠れた。

13:7
またあるヘブル人はヨルダン川を渡って、ガドとギルアデの地へ行った。サウルはなおギルガルにとどまり、民はみな、震えながら彼に従っていた。

13:8
サウルは、サムエルが定めた日によって、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで民は彼から離れて散って行こうとした。  13:9 そこでサウルは、「全焼のいけにえと和解のいけにえを私のところに持って来なさい。」と言った。こうして彼は全焼のいけにえをささげた。

13:10
ちょうど彼が全焼のいけにえをささげ終わったとき、サムエルがやって来た。サウルは彼を迎えに出てあいさつした。

13:11
サムエルは言った。「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えた。「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。

13:12
今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」

13:13
サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。

13:14
今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。」

 
 先週お話したように、サウルはサムエルによって油注ぎを受け(10・1)、そして聖霊に満たされました。私たちの祈りの中で「油注ぎがありますように。」という言葉は、「聖霊の特別な祝福と導きがありますように。」という意味で使われています。確かに、サウルは油注ぎがあったのですが、その後いつも聖霊に満たされていたわけではありません。

 先週、信仰告白の後に、Dキリストを信頼して人生を送らなければなりません。(ローマ10・11)、Eそれら、全てに聖霊なる神の介入が必要です。そのようにして信仰者は神に喜ばれ、受け入れられるのです。(ローマ15・16)と説明しましたが、実は、このプロセスが難しいのです。

 サウルは王になりました。民は、サウルの王としての実力をまだ信用しておりません。それで、ペリシテ人の守備隊長を殺し、ヘブル人に戦いを喚起しようとしました。人は、新しい職務や地位に付くと何か大仕事をして自分の実力を見せたがるものですが、そういう野望・欲望は危ないものです。物事は、神の御心に従わなければ、多くの場合うまく行かないものです。なぜならば、全ての人が罪人であり、自分以外の人を思い通りに動かそうとすれば、自分以外の人が皆、敵になってしまうからで、よほどの力と運と財産があっても長続きはしないものです。

 イスラエルの民は集まるのですが、ペリシテ人がその支配するイスラエルの反抗を見過ごすはずがありません。戦車3万、騎兵6千、その他無数の歩兵がイスラエルに対して陣を引きます。それに反して、イスラエルの人々で剣と槍を持っているのはサウルと息子のヨナタンだけでした(13・22)。他の民は、鋤や鍬や斧や鎌をもって出てきたのです。どう見ても勝算はありません。イスラエルの人々は、ペリシテ人を恐れて、洞穴や岩間、水ための中に隠れ、或いはヨルダン川の対岸まで逃げたとあります(6.7)。

 こうなると、神頼みしか術がありませんが、頼みのサムエルは約束の日になっても着ません(8節)。民は、サウルを離れて逃げていってしまいます。神へのいけにえは、兵士を聖別し、戦いの勝利を神に誓願する大事な儀式で、10章8節にサムエルは自らそれを行なうと約束しています。7日間待つことだけでも大変だったのに、それでもサムエルが来ないので、ついにサウルは自ら全焼のいけにえを献げてしまいました。

 教会でも執事会のメンバー、また特に祈祷会に来る人はよく知っていますが、この教会や私たち夫婦に起こった試練というのは、大事な時に矢継ぎ早に起こります。慣れてくると、試練が起こるならば、それは祝福の前兆なのだと考えることができるようになります。でも実際はいつも大変で、もがき苦しみ、祈りぬくようです。今年の前半もいろいろありました。でも低血糖症の治療の会を発足させ、クリニックの20周年記念行事を行ない、本も出版し、新しい治療法も開発しています。そんな中でこそ、洗礼者も受霊者も献身者も起こるのです。

実は、そんな時、計画していたケアンズの夏休みをただ夢見て、「試練はいつまでも続くものではない。」と弱音を吐くことをしなかったのです。ですから、真っ青な海の中に潜ってグルグル回りながら、「神は生きておられる。私を見ておられる。私は自由だ。」と感動していたのです。試練ばかりを見ていると却って、乗り越えることはできません。ペテロは、暴風雨の中でもイエス様を見つめたので水の上を歩けたのですが、周囲を見たら沈み始めました。サウルは、王になったばかりですが、この大試練に動揺して、信仰や神への信頼ではなく、自分の判断、人間的手段をもって難局を乗り越えようとしたのです。

 私も献身表明した時は、結婚とも重なり、両家の反対や経済的問題、学位取得の論文作成と大変でしたが、人と折り合うよりも神に従うことを選びました。その後も10年くらいは、そういう戦いが続き、状況は少しも良くなることはありませんでした。しかし、その暗黒時代が私の信仰の礎を築き、妻との一致と努力の姿勢を形成したのです。神を信じる以上、試練が続こうが、物事がうまくいかなかろうが、神に従っていくことには変わりがないと歩んだのです。

 サウルはサムエルに事情と言い訳を語ります。しかし、神に従わなかった事実を受け入れ、悔い改めるべきだったのです。例えば、後にマナセという悪い王が出るのですが、「悩みを受けたとき彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ」(U歴代誌33・12,13)とあるのです。言い訳を言う人は悔い改めていないので、決して祝福を得ることができません。まだ、成りたての王なので、サムエルと神に詫びればよいのに、彼は既に面子を持ち始めたのです。

 神を信じない人はもちろんのこと、信者でも次第に面子、自尊心が価値判断の大きな部分を占めるようになります。そして、それは崩壊の始まりなのです。昔は「桃栗3年・・・・久雄の馬鹿は18年」と唱えて自制をしていましたが、もう牧師24年ですので、「キリストは神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を卑しくして仕える者の姿をとり」(ピリピ2・6,7)を模範として、自分勝手を戒めようと心がけようと願っています。

 ただ、あまり試練と忍耐を堪えていると、やはり一人よがりになりやすいので、人と仲良く過ごすためにもなるべくリラックスして生きることを心がけ、人を余裕をもって愛することが必要です。その後のサウル王の指導は、やはりストイックな(禁欲的で厳しい)ものだったので、息子をはじめ領民が苦しむものとなります。男性は特に気をつけなければなりません。自分の価値観で人を傷つけることや、信仰を外れることは多いものです。気楽な気持ちで、主にしたがっていけたら、奥義でしょうね。そのようになりたいものです。

9月16日 愚かな誓約は身を滅ぼす。  Tサムエル記143745節  

新改訳 Tサム14:37-45

14:37
それでサウルは神に伺った。「私はペリシテ人を追って下って行くべきでしょうか。あなたは彼らをイスラエルの手に渡してくださるのでしょうか。」しかしその日は何の答えもなかった。

14:38
そこでサウルは言った。「民のかしらたちはみな、ここに寄って来なさい。きょう、どうしてこのような罪が起こったかを確かめてみなさい。

14:39
まことに、イスラエルを救う主は生きておられる。たとい、それが私の子ヨナタンであっても、彼は必ず死ななければならない。」しかし民のうちだれもこれに答える者はいなかった。

14:40
サウルはすべてのイスラエル人に言った。「あなたがたは、こちら側にいなさい。私と、私の子ヨナタンは、あちら側にいよう。」民はサウルに言った。「あなたのお気に召すようにしてください。」

14:41
そこでサウルはイスラエルの神、主に、「みこころをお示しください。」と言った。すると、ヨナタンとサウルが取り分けられ、民ははずれた。

14:42
それでサウルは言った。「私か、私の子ヨナタンかを決めてください。」するとヨナタンが取り分けられた。

14:43
サウルはヨナタンに言った。「何をしたのか、私に告げなさい。」そこでヨナタンは彼に告げて言った。「私は手にあった杖の先で、少しばかりの蜜を、確かに味見しましたが。ああ、私は死ななければなりません。」

14:44
サウルは言った。「神が幾重にも罰してくださるように。ヨナタン。おまえは必ず死ななければならない。」

14:45
すると民はサウルに言った。「このような大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはありません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。神が共におられたので、あの方は、きょう、これをなさったのです。」こうして民はヨナタンを救ったので、ヨナタンは死ななかった。

 今日は、信仰者として注意しなければならない愚かな誓約や自他への規制を聖書から学びます。マックス・ウェーバーは、政治家には情熱と責任感と見識の3つの素質が必要であり、虚栄心を警戒し、しっかりとした結果責任をもって行動し、信念の純粋さを正当化するような言い訳をせず、世界の愚かさにも挫けずに対抗する人であるべきである、と「職業としての政治」で語りました。政治の腐敗が社会を混乱させている中で、クリスチャンたるもの、それを非難して茶飲み話にするような愚かさをもっていてはなりません。どんなときにも、世の光、地の塩としての生涯を送るべく、真摯に諸問題に取り組み、人を愛し、希望をもって生きるべきなのです。

 サウル王の息子ヨナタンの勇猛さと純粋な信仰は、「ペリシテ人の手から民を救う」(9・16)という神の約束を信じ、劣勢にも関わらず、たったの二人で攻撃を始め、「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げになるものは何もない。」(14・6)という言葉で明らかです。これは、エリシャが敵の大群を前にして「恐れるな、私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者よりも多いのだから。」(U列王6・16)と神の軍勢を見せたことと共通する信仰の告白です。

 信仰は非常識だなどと誤解してはなりません。ヨナタンは、神からのしるしを求めます。しかし、それは通常登りえない切り立った崖があったのですが、ペリシテ人が「登って来い」と言ったら神の導きのしるしであるというあり得ないことを考えます。ヨナタンと従者は、そのあり得ないことをやり、敵を驚愕させて多くの敵を打ち倒してしまいます。

 私にも若気の至りという思い出があります。神学校に入学したものの、妻は病気で経済的にも苦しい。そこで何をしたかというと、毎日一食の断食をしました。通学は満員電車で往復4時間ですから、5月には過労で全身の蕁麻疹になってしまいました。妻のカウンセリングと掃除洗濯買い物、そして二年目からは子育ても加わり、不整脈や花粉症など断食のせいもあって、心身がボロボロになりました。でも、私は自分の人生の成否は、健康でも能力でもなく、神の祝福があるか否かであると確信しておりました。これで死ぬなら、力足らずでしょうがない、しかし、私の信じる神は、ここまでして神を信頼する者を決して見捨てるはずがない、と信じていました。長男の名前は主人ですが、最も大変な時に生まれた子です。でも、だからこそ神の使いであり主の人であると、名づけたのです。長女は卒業直前に生まれましたが、絶望するような状況だったからこそ、「神は愛のある方だ。」と主愛と名づけました。まさに信仰だけで生きている毎日でした。若さというのは、そういうものです。今日は敬老礼拝ですが、なぜ白髪の老人の前では直立しなさい(レビ19・32)と命じられるのかと言えば、人生とは自らの失敗や弱さを体験し苦労を背負って生きるものであり、老人は私たちの先輩なのです。先人を尊敬できない人は、老いることが絶望になるのです。

サウルは、敵が混乱しているのを見て、攻撃に転じます。ペリシテ人の味方をしていた人々も、逃げていた人々も加わります。そして、ペリシテ人を追撃します。そんな大事な時に、サウルは人々に日暮れまでの断食を命じます。信仰者として、注意するべきは、決して他人を犠牲にしたり負担を掛けてはいけない、ということです。誓願というのは、自分が重荷を負うことで、人に負わせることではありません。

 イエス様は「全て疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。」(マタイ11・28)と言われました。そして、主の弟子たる者は、他の者の重荷を自ら負うようでなければいけません。そういう者の重荷を主は負ってくださるのです。他人に重荷や課題を押し付けるようでは、主の僕とは言えません。その限界で私たちの信仰は強くなり、主の僕となり、そして負えなくなった重荷を主は負ってくださるのです。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」(マタイ22・37)とありますが、「限界だ。」などと言っている時はまだ尽くしていないのです。限界を尽くし続けてこそ、真の力が付くのです。

 サウル王はさらに愚かなことをしてしまいます。神の名を借りて、人を裁き、殺そうとしているのです(14・44)。宗教というものは、恐ろしいものです。世界中で、神の名を借りて、人を裁き、人を殺し、人を非難しております。今や、終末の時代で、宗教戦争の時代です。そういう中にあって、教会が人を裁くようなものであってはなりません。クリスチャンが神の名を借りて、未信者を非難するようではいけません。宗教というのは、熱心になればなるほど、そうでない人を裁くものです。

 イエス様は姦淫の現場で捕えられた女性を石打ちで殺そうとする人々の前で地面に文字を書きました。すると年長者から一人ひとり、その場を離れて行ったのです。誰も人を裁くことができる潔白な人はおりません。そして、その女性に言いました。「私もあなたを罪に定めない。」

 この敬老礼拝で、特に高齢者の方々にお話します。人は長く生きると多くの過失、失敗、罪を犯すものです。あなたの心の中で、未だ癒されていない罪責感はないでしょうか。心の傷になっている過去の出来事はないでしょうか。

 まず、あなたを傷つけた人を赦してください。姦淫の女性をもイエス様の前では、裁くことができる人はいませんでした。あなたを傷つけた人もいれば、あなたが傷つけた人もいるのです。少なくとも、あなたは赦さなければなりません。そうしなければ、あなたは自らの許しを神の前で確認できないのです。主の祈りを確認してください。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」私たちは、自らの罪の許しを体験するのです。


9月23日 聞き従うことは犠牲に勝る。  Tサムエル記151729

新改訳 Tサム15:17-29

15:17
サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。

15:18
主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』

15:19
あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」

15:20
サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。

15:21
しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」  

15:22
するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。 

15:23
まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」  

15:24
サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。 

15:25
どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」  

15:26
すると、サムエルはサウルに言った。「私はあなたといっしょに帰りません。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けたからです。」

15:27
サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルはサムエルの上着のすそをつかんだので、それが裂けた。

15:28
サムエルは彼に言った。「主は、きょう、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。  

15:29
実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」


 日本のキリスト教は、清め派が多いので非常に温厚ですが、消極的であり非戦論が強いようです。イエス様にも温厚で愛情深いイメージを抱いていますが、宮清めの過激な行動やパリサイ人らへの痛烈な批判攻撃は、見過ごされています。私は、日本的な思考の上に聖書の教えを植え付けてはいけないと、いつもチェックを皆さんに示していますが、この非戦論的な思考方法は気をつけないと、私たちをサタンのたくらみと敵の攻撃に対して無防備にさせてしまいます。

 平和な日本で育つと、戦うことが愚かで破滅的なことであると考えてしまいますが、聖書は悪と戦うべきことをはっきりと示しています。日本的な発想では、死んだらおしまいで、誰もが少しは悪いところを持っているけれども、話せばわかる善人なのだというものです。天国と地獄という明確な区別は、人を神の前で黒白はっきりと区別します。悪と戦い、善を行なうことを努力するからこそ、天国に入れるのであって、そうしなければ人は、罪を行ない自らの勝手に生きる存在であって、結局のところサタンに牛耳られているのだと聖書は語ります。

 こういう考え方は、日本人には相容れないものですが、実のところは、悪の支配下にある人々の悪事に犠牲になっています。普通の人の様相を呈していても、不正をし悪事を働く人は多いのです。しかし、年金の不正のように隠れていて表に出ないのです。皆が罪を犯しているので、人を責めれば自分も責められるとわかっているので、隠しかばうのですが、悪と戦う姿勢のない社会では、いくら新しい大臣が頑張っても誤魔化されるだけです。

 サウル王は、砂漠でモーセたちを攻撃した好戦的で野蛮なアマレク人を聖絶せよという神の命令を守りません。そして良質の羊と牛を自らのために残しておきます。サウルは、それを神へのいけにえの為だと弁解するのですが、神は穢れたものから生まれたものは穢れていると、それを拒否します。

 節税などといって借金をして物を購入したり、経費に落とす人がいますが、利益を出さないで税金を惜しむと結局は、蓄えがなくなり、不意の出来事で破産します。何よりも、税金を減らそうとやりくりをすることで平安な人生を過ごせません。ものの損得を考える人は、人生と時間と幸せの損得を考えません。

 私は神へのなすべき献金をした上で、お金をやりくりします。献金をためたことはありません。実際に払えないことはあるのですが、教会に借金として明記してもらいます。家族への義務を、仕事が忙しいから減らすことなども考えません。却って仕事を減らし、能率を下げます。優先順位の確立していない人の人生は、徒労に終わることが多いものです。

 自分や仕事の都合で全てのことをやりくりするというのは、土台も基準も原則もない不安な生き方です。線路のない電車、道のない車は、どこに行くにも大変な努力と知恵と知識を必要とし、目的地には到達できないでしょう。

「聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは」(22)とあるように、道を聞き、従うならば、私たちは楽に目的に向かって進めるのです。いけにえというのは、罪や過失の弁償です。神に聞き従うならば、そんなものはいらないのです。オーストラリアでスピード違反をしましたが、違反金を払うのに大変な手間が掛かりました。法律とマナーを理解していなかったのです。日本では8年くらいしていません。

 そむくことは何故、占いの罪なのでしょうか(23)。占いというのは、将来をうまくやりくりしようということであって、着実に毎日を過ごして成果を積んでいくということではありません。つまり、自分勝手に生きようとする、そむきの心があるからなのです。占いをする人が、誠実に生きることを願うなどということは、ないのです。偶像礼拝は、従わない人がすることでもあります。偶像とは、自分の願いどおりに物事を偶像にさせようとする対象です。クリスチャンでも、神に願い事ばかりする人がいます。祈りとは願いごとだと思っているのです。

 祈りとは、神に耳を傾けることです。聖書を読み、神の言葉と神の御心に自分を従わせるのが祈りなのです。サムエルのサウルへの言葉に「あなたは自分では小さい者に過ぎないと思ってはいても」(17)というものがあります。神への不従順の言い訳は、殆どが「自分はできない。自分の状況は大変だ。これが良いと思う。他にやりようがないのでしょうがない。」などというものです。神に問うとか、神の御心に従うと言うよりも、まず、自分で判断して勝手に神に了解を求めるというものが殆どです。

 日本人クリスチャンの祈りに、「この小さき者」とか、「弱き者」「罪深い者」などというものが多くありますが、神は私たちを「神の御霊に導かれる人は誰でも神の子ども」(ローマ8・14)とし、「キリストの使節」(Uコリント5・20)とされたのです。ひれ下って生きるよりもむしろ、悪と戦い、罪を打ち捨てて生きることを願い、神に喜ばれる人生を願うべきです。

 その場合、注意するべきは、他人を罪人と断定し、悪と思い込んで攻撃しないことです。犯罪に加担しないこと、不道徳や姦淫は神に裁かれる罪であること、などをわきまえた上で、罪を罪と指摘して戒めることがクリスチャンにとって必要なのです。そうするならば、真に人々を罪と裁きから救い出すことができるのです。悪と罪に対して寛容であるということは、その人を救い出すことにならず、堕落させるだけなのです。

 私たちには、神の御心と歴史に現れる神の御業の意味はわかりません。しかし、神が哀れみの心と慈しみを持っておられることは知っております。そして、救うために戒め、断罪するのであることを体験しているのです。あなた自身が、自らの罪に関して鷹揚であるならば、決して神の祝福に預かることはできません。


9月30日 人はうわべを見るが主は心を見る。  Tサムエル記1617

新改訳 Tサム16:1-7

16:1
主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」

16:2
サムエルは言った。「私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」主は仰せられた。「あなたは群れのうちから一頭の雌の子牛を取り、『主にいけにえをささげに行く。』と言え。

16:3
いけにえをささげるときに、エッサイを招け。あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」

16:4
サムエルは主が告げられたとおりにして、ベツレヘムへ行った。すると町の長老たちは恐れながら彼を迎えて言った。「平和なことでおいでになったのですか。」

16:5
サムエルは答えた。「平和なことです。主にいけにえをささげるために来ました。私がいけにえをささげるとき、あなたがたは身を聖別して私といっしょに来なさい。」こうして、サムエルはエッサイとその子たちを聖別し、彼らを、いけにえをささげるために招いた。

16:6
彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思った。

16:7
しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

 地位や立場というものは、不安定なものですが、破局が来るまでは、なかなか信じられず受け入れられないようです。安定多数で強引な国会運営をしていた安倍首相も失意の内に辞任することになってしまいました。アメリカの話かと思っていた離婚も、最近は退職離婚が流行っていると流行になってしまいました。「おごる平家は久しからず」、昔からの格言ですが、世の亭主方も気をつけて奥さんを労わらないと、「覆水盆に返らず」と大変なことになってしまいます。

 さて、せっかくイスラエルの初代の王となったサウルですが、傲慢と不信仰の故に神によって任じられた王座を降ろされることになってしまいます。30歳で王となり、ダビデに油注がれても12年間は王座を守るのですが、実際には哀れな末路です。神の油注ぎによって「新しい人に変えられ」(10・6)たのに、自らの王位を信仰や謙遜ではなく、姑息な知恵と判断によって守ろうとしたのです。

 こういうことは、よくあることです。せっかく結婚したのに、妻に対して勝手に振る舞い、脅したり、怒ったり、誤魔化したりして、怒らせている夫、或いは逆のケースをよく見ます。子どもに対しても、親の権利を主張して勝手なことばかりしている親は、子どもの成長と共に信頼を失います。会社でも、部下に仕事を押し付けて命令ばかりしている上司は、嫌われ疎まれ、その職を続けることができなくなります。学校でも勝手なことをしている教師は多いものです。

 つまり、サウルに限らず、せっかく得た地位や権利を生かすことなく、破滅してしまうのは、うわべを気にして、自分の中身に注意をしていないからです。私は、長年生きてきて、誠意のない人に誠意を期待するのは難しく、救いを語っても徒労に終わることを体験してきました。

 聖書は、はっきりと「不義な者ども」(Uペテロ2・9)がいることを指摘しています。彼らは「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮り、大胆不敵な、尊大な者で、栄誉ある人たちをそしって恐れるところがない。」(2・10)人たちです。「神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。」(Tヨハネ4・7)「愛のない者に神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(Tヨハネ4・8

 日本社会は不義な社会です。人々は、みなうわべのことを気にしています。ですから言い訳とごまかしをするのです。言い訳を言う者は、神の裁きを受けます。なぜならサウルと同じで、悔い改めないで自己弁護をするからです。私は、クリスチャンにも言い訳ばかりを言う人が多いことに気が付きます。謝ることのできない人からは、聖霊が去っていきます。自らの罪に対して鈍感になっているのは、聖霊に導かれていないからです。「自分の目の中の梁に気が付かない」(マタイ7・3)のは、その人の心の中に聖霊が内在していないからです。人の罪を責める人は、既に聖霊に満たされていない明確なしるしです。

聖霊なる神は、「罪について、義について、さばきについて」(ヨハネ16・8)人々に謝りを認めさせます。サウルは罪を犯し、サムエルの忠告にも耳を貸さなかったので、聖霊がその内から去ってしまいました。マタイの12章45節には、神を信じた人から汚れた霊が出て行っても、聖霊が去った後には、戻ってきて、その大きな空間に他の悪霊を連れてきて以前より悪い状態になると書いてあります。
 一度神を信じた人が堕落すると、その人は罪責感や空虚感から自らを正当化しようとして、情緒を失います。そして、崩壊していくのです。サウルは、もはや悪霊に悩まされるようになりました(16・23)。他方、聖霊に満たされたダビデは、そのサウルに働く悪霊を去らせるほど強い霊性をもつようになっていったのです。

 さて、エッサイの8人の息子のうち、末っ子のダビデを神は選ばれました。なぜなのでしょうか。長男のエリアブは立派な容貌と身体を持っていましたが、ダビデはまだ紅顔の青年でした。ダビデの信仰と歩みは、これから語っていきますが、この段階でわかることは、羊飼いであったことと、竪琴を弾いたこと、そして末っ子として育っていたことです。神は、「心を見る。」と言われました(16・7)。

1. 信仰には勇気が必要です。ダビデが後に言うように、羊を守るために獅子や熊とも戦って殺した(1734)とあります。

2. 信仰には優しさが必要です。竪琴を弾いて羊をなだめていたからこそ、サウルの心をも慰められたのです。

3. 信仰には忍耐と沈黙が必要です。羊たちと夜を過ごし、無為な日々を充実したものにしていました。

4. 信仰には、神への叫びが必要です。ダビデは明らかに竪琴を鳴らしながら神を讃美し、神に祈っていたのです。

 一人で祈れない人は、真摯な信仰者とは言えません。状況が悪化し、問題に直面し、攻撃にあう時、殆どの人が祈っていません。神を知っている、信じているというだけでは、問題は解決しないのです。しかし、日常生活において、安逸な信仰姿勢を持ち、言い訳と正当化の中で自らの立場を確保しようとしたら、罪の逆襲に遇うのです。家族を愛し責任を全うしていないとしたらクリスチャンとしては堕落しています。責任をもって仕事をしておらず、職場の人々に信仰を表していないのならば、あなたの信仰はあなたを守りません。

 心を見られる神の前で悔い改め、真摯な信仰を確立していこうではありませんか。