4月1日 自己中心を捨てなければ  ヨハネ122333
新改訳 ヨハ 12:23-33  12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

12:24
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

12:25
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

12:26
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

12:27
今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

12:28
父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」

12:29
そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。  12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。

12:31
今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。

12:32
わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」

12:33
イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

イエス様がラザロをよみがえらせたことを知った群集は、歓喜の中でイエス様をエルサレムに迎えました。今週は受難週と言います。木曜の夜にイエス様は捕えられ、金曜に十字架につけられるのです。今日はシュロの主日と言い、人々はシュロの枝を取って、それを旗のように振りながらイエス様を迎えるのです。イエス様が王となって、イスラエル人の国をつくり、ローマを追い出すと期待するからです。

利益や奇跡によって集まった人々は、メリットがなくなれば去っていきます。イスカリオテのユダは、イエス様に仕えて金持ちになろうとしたので、仕えながら金銭をごまかし、結局は金によってイエス様を売ってしまうのです。群集も、わずか五日後には、「イエスを十字架につけろ」と裏切っているのです。

人生には裏切りはつきものです。私たち夫婦は、何度裏切られたか、と振り返ります。しかし、裏切られたと思ってからが、その人の真価が問われるのです。クリスチャンになって酒を飲まなくなった時の友人たちの批判と攻撃もすごく、牧師になると言った時の家族の態度の豹変は、私の甘えを取り除きました。

正しいことをしたら社会や人は認める、などと思ってはなりません。彼らの利益に合致しなければ、たちどころに攻撃されるのが世の中です。クリニックに対する攻撃は、今でも大きなものです。皆さんは、「クリニックが大きくなった、神の祝福を受けた」と簡単に思っていることだと思います。勝利するということは、戦わなくては決して獲得できません。勇気を持たなければ、戦うこともできません。神を信じることは、世と戦うことであり、その前に自我と戦うことです。

イエス様は、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(24節)と言われました。これは、御自身が人の罪の為に死ぬことを語っておられるのですが、神にある祝福の法則を示してもいるのです。

罪とは自我であり、自己中心であって、自己の正当化であり、怠惰であって、自らを拘束し、臆病であり、自らを閉鎖させます。罪は死によって人を支配するのですから(ローマ5・21)、もし、人が死をも恐れず、神を信じて歩むならば、多くの実を結ぶのです。

多くの人が、キリスト信仰を理念のように捉えています。悟りのためにイエス様は死なれたのではありません。また、イエス・キリストを知っていると思っています。知っているならば、死を恐れないはずです。弟子たちは、イエス様が神であることを知り、死を恐れない伝道をして殉教したのです。

パウロは、「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1・21)と言って、自らの生涯を方向付けました。なぜ、多くの信仰者が、勝利の生活を送ることができないのでしょうか。それは、死を恐れているからです。そして、力を尽くして生きるといのちが消耗してしまうかのような誤解をして、怠惰な生活をしているのです。信仰による人生を送ろうとしないのです。

 ですから、死ぬ覚悟、失敗する覚悟、恥をかく覚悟、疲れきって病気になる覚悟も持たないで、「自分は弱い、愚かだ、不信仰者だ。」などと言い訳を言って、怠惰な人生を過ごしてしまうのです。恐れを取り除かなければ、神を信じて歩むことはできないのです。

 自分の能力や状況を見て、それを信じて歩んではいけません。神を信じ、自分のなすべきこと、人を助けるためにするべきことを、一つ一つ行っていくのです。そんなに多くのことはできないとか、そんなことは恥ずかしくてできないとか、人の目を気にして生きてはいけないのです。罪人の時間は、自己中心快楽と安逸を貪ることで、矢のように過ぎていきます。「歳を取ると、時間が過ぎるのが早い。」というのは、過去の思い出に生きて、なすべきことをしないからです。

 「主を待ち望む者は新しく力を得」(イザヤ40・31)、神の霊が注がれると「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」(ヨエル2・28)のです。信仰生活も32年になりますが、神にあって多くの力と願いをいただき、年毎に充実した時間を増やせるようになりました。30年前の30倍、20年前の20倍、10年前の10倍の仕事をしているという実感があります。それは、今に至るまで働き続けた成果であり、蓄積です。効果がなく無駄のように思えることをただ黙々と続けた時がありました。何をやっても暗黒の時がありました。多くの攻撃と問題が私を襲い続ける時が、なんと長く続いたことでしょう。

 アブラハムに神が語りかける前の75年間は無駄ではありません。その75年を神は見つめておられたのです。モーセに語りかける前の80年は、神の時でした。サウル王に追われ逃げ続けた年月は、ダビデを神の人、主のしもべにしました。

 現代社会で、多くの人が効率的な人生を求めています。自分の働きの効果が直ぐに現れることを求めています。なんと薄っぺらな人生でしょうか。例えば、すばらしい結婚相手を求めるためになすべきことは、自分を磨き、成長させることです。イギリス人の美人の英会話講師を追い掛け回して、それで親しくなれると思ったのでしょうか。

 その殺人犯は、境界型人格障害かと思われているそうです。他人に対する感情も、自分に対する感情や評価も、とても不安定で、人が変わったようになって、他人を攻撃したり自分を傷つけたりします。これには、精神薬も効かず、勝手に行動して、良い時と悪い時があまりに違うので、周囲を困らせるようです。

 これは、神を信じない人の典型的なタイプと思います。信仰者は、自分に対する評価を低くすることはありません。なぜなら、自我に死に、自分に対する評価を神に委ねてしまっているからです。しかし、「委ねた」と言って、何もしない人も多いようです。なすべきことをしないことは、罪です。(ローマ2・18)。


4月8日 死と復活の(キリスト道)宗教  Tサムエル7章113

新改訳 Tサム7:1-13

7:1
キルヤテ・エアリムの人々は来て、主の箱を運び上げ、それを丘の上のアビナダブの家に運び、彼の子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。

7:2
その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。  7:3 そのころ、サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」

7:4
そこでイスラエル人は、バアルやアシュタロテを取り除き、主にのみ仕えた。

7:5
それで、サムエルは言った。「イスラエル人をみな、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのために主に祈りましょう。」

7:6
彼らはミツパに集まり、水を汲んで主の前に注ぎ、その日は断食した。そうして、その所で言った。「私たちは主に対して罪を犯しました。」こうしてサムエルはミツパでイスラエル人をさばいた。  7:7 イスラエル人がミツパに集まったことをペリシテ人が聞いたとき、ペリシテ人の領主たちはイスラエルに攻め上った。イスラエル人はこれを聞いて、ペリシテ人を恐れた。

7:8
そこでイスラエル人はサムエルに言った。「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように。」

7:9
サムエルは乳離れしていない子羊一頭を取り、焼き尽くす全焼のいけにえとして主にささげた。サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。それで主は彼に答えられた。

7:10
サムエルが全焼のいけにえをささげていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来たが、主はその日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた。

7:11
イスラエルの人々は、ミツパから出て、ペリシテ人を追い、彼らを打って、ベテ・カルの下にまで行った。

7:12
そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった。」と言った。

7:13
こうしてペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領内に、はいって来なかった。サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。


4月15日 死の恐怖の解決と平安  ヨハネ201931

新改訳 ヨハ 20:19-31

20:19
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

20:20
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

20:21
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

20:22
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

20:23
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

20:24
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。

20:25
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

20:26
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。

20:27
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

20:28
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

20:29
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

20:30
この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。

20:31
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。


 先週は選挙がありましたが、議員をはじめ肩入れしている人々は、なかなか興奮していたようです。レッドソックスの松坂投手への応援も興奮します。有名人なども会って握手したりすると、それだけで肩入れをすることもあります。

 イエス様のエルサレム入城の際には興奮していた人々も、十字架の死にはショックを受けて、現実の厳しさ、死の恐怖におののいていました。救世主と信じていたイエス様が、あまりにむごたらしい死を遂げ、パリサイ人や律法学者、そして政治的な指導者が圧倒的な勝利を得たように思われました。イエス様に肩入れしていた人々や弟子たちは、報復が起こることを恐れ、密かに隠れていました。

 自分たちも、あのようにむごたらしい死に至るかもしれないということは、今や現実でした。十字架の死の時に全地が暗くなり、死後には地震が起こったのですが、それは死の恐怖を煽るだけで、弟子たちはおびえ、苦しみ、そしてうつ状態になったのでした。彼らが戸を閉め、部屋にこもっていたのは、当然のことでしょう。人生というのは、そう甘いものではありません。

 ところが、そんな時に、イエス様が彼らの部屋に現れました。よみがえられたという他の弟子の話を聞いても、信じられなかった彼らは、本当に驚きました。

 死は現実であり、人々の心を恐れさせます。ところが、むごたらしく死んだイエス様が、目の前に生きておられるのを弟子たちは見たのです。

 死からの勝利が現実のものであることを彼らは見たのです。

 多くの宗教や教えは悟りに導こうとします。現実は悲惨で死は誰の前にもあるからです。そうであるならば、もはや人生を悩むことなく生きるためには、悟りが必要であり、その教えや悟りによって、みぐるしくなく生きることを求めるのです。同じことをキリスト教にも求める人々もいます。キリスト教の教えによって、見苦しくなく、人生を達観して生きようとするのです。

 ところが、キリスト教は、そのような悟りの宗教ではありません。神が現実におられ、信じる者には永遠のいのちが約束されていると、伝えるのです。死は恐怖ではなく、人生は喜びとなるのです。

 イエス様は、「平安があなたがたにあるように。」と語られました。死を克服できるならば、死が終わりではなく、永遠のいのちへの始まりであるとわかるならば、間違いなく平安があたえられるのです。

 そしてイエス様は、もう一度、「平安があなた方にあるように、父が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わします。」と告げました。それは、平安が確信となるためには、自分の中に保っておくだけではダメで、他の人に平和の福音を伝えなければならないことを教えたのです。

 死からの勝利を他の人に伝えないで、自分のうちにしまっておく人は、罪という自己中心性から解放されていないのです。未だに罪の奴隷でいるのです。自分の殻に閉じこもっている人は、救いを体得できないのです。

 救いというのは、悟りではなく、現実です。日本のキリスト教は、理解を深めるために教理や知識を教えようとします。伝道とは、道を伝えると言います。救いというのは、あたかも剣道や柔道、武士道というように、訓練によって体得していく道と言ったほうが適切かもしれません。使徒の働きでは、キリスト教のことを「この道」として、9・2、19・9,23、22・4、24・14,22に記されています。

 私に関しては、牧師ですからこの道を伝え、この道に生きようとしています。そうすると、この道を習得していくのです。つまり、多くの人にこのキリストの教え、救いの道を教え、この道を歩むことが平安の道であり、死の恐怖に打ち勝って永遠のいのちを保証するものなのです。

 そして、それは、23節にあるように、あなたに罪を犯す誰かの罪を赦すことによって、救いが現実となっていくのです。人の罪を赦すことなく、あなたの罪は赦されない、つまりまさに習得の道なのです。

 さらに、それらのためにイエス様は、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」と言われました。これらのことは、あなたの能力や品性ですることではなく、聖霊によってこそ達成できることなのです。

 トマスは最後まで、イエス様の復活を信じない人でしたが、イエスさまは、トマスの前に現れてくださいました。もし、誰かが、神を求め、神に会うならば、生涯を掛けて従う人であるならば、イエス様は、間違いなくその人の前に現れてくださいます。

 私は、今でこそ、神を完全に信じていますが、昔は、信じきることができず、死の恐れから勝利できないでいました。でも、それをそのまま神に訴え、死を恐れることなく神を信じることができるように求めたものです。

 あなたの信仰は、どのようなものでしょうか。死の恐れを誤魔化してはなりません。

 死んでから、やはり神はいて、自分は罰を受けるしかなかったのだ、と気が付いても遅いのです。死ぬ前に、死の問題を解決していなければならないのです。あなたは、いかがでしょうか。


4月22日 働きの報いと人の世話  ヨハネ21315節 

新改訳 ヨハネ
21:3
シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

21:4
夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

21:5
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

21:6
イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

21:7
そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

21:8
しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

21:9
こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

21:10
イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」

21:11
シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

21:12
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。

21:13
イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

21:14
イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。

21:15
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

 復活されたイエス様に出会って感動した弟子たちですが、イエス様が地上で教えを広めたり、王としてお立ちにならないで神の国に帰られたと思うと、何をやって良いのか途方にくれてしまいました。そこでペテロは、三年前までやっていた漁をしようと思いたちました。すると他の弟子たちも、ついてくることになりました。人は何か仕事をしないと虚しくなるものです。昔の仕事を思い出したのです。

 仕事をすると心が紛らわせるものです。自分たちがイエス様を裏切ったことや興奮してイエス様についていった日々の思い出からくる虚脱感をどうにかしようと思ったのです。ところが、夜通し漁をしても何も獲れませんでした。

 人生の意味とはどんなものでしょうか。私のことを言えば、私は牧師という職業にも、会社やクリニックの経営にも、それだけでは意義も意味合いも感じておりません。驚かれる方も多いと思います。

 ジェームズ・フーストン師が「霊性の神学」を提唱し、「牧会者としての奉仕を自分の職業にしてはならない」と説き、現代キリスト教界で考えられている「教会員の数が多い教会こそが良い教会」という教会成長論一本やりのあり方を警告されました。また、「自分が何であるかを職業で定義してはならない。」と唱え、「どれだけ成功しているか」ではなく「どれだけ神に忠実に仕えているか。」で自分を考えるべきであると説かれました。

 アダムは神に反抗して自分の満足を優先し、罪を犯したのですが、人間性というものは、どうしても自分の業績を確認したがり、そこに人生の意味合いを持とうとします。特に日本社会では、社長はどこでも社長として待遇されること求め、誰でも自分が崇められ、仕えられることを求めます。牧師もいつのまにか、信者だけと接していて、社会にでることや未信者との交流を避けるようになります。信者とだけ会っていれば崇められるからです。そういう面で私は牧師という自分の立場、職業に危機感を抱いているのです。特に最近は、牧師としても指導者的な立場にもなり、大事に対応され、自分の言葉が通るようになり、「危ないな」と感じているのです。

 クリニックの二十周年も大きな働きができて賞賛を浴びました。潟ーゼフも成長を続けています。この働きは多くの人々の治療や健康に寄与するでしょう。しかし、自らの事業が軌道に乗ってくると、自らの傲慢さを注意する必要を感じてきたのです。そして、自分にとって煩わしいことをやらないと、自分の魂が危なくなるな、と祈りの中で示されました。

 そして、事業をある程度任せたい、と思い、神の御心に委ねて、ある人に電話しました。その人は、IT関連の会社の役員をやっていましたが、直ぐに訪ねてきて、会社を辞めて私と一緒に仕事をしたいと申し出てくださいました。彼は、「五十年間、この世の中で世知辛く働いてきたが、これからは安心して天国に行けるような仕事をしたい。」と言い、高収入の立場を投げ打って、来てくれました。

 この世の働き、仕事というものは、いくら働いても虚しいものです。それは、自分の業績に目を向ける限り、却ってつまらないものなのです。弟子たちにイエス様が語りかけると、多くの魚を獲ることができました。しかし、それ以上に、彼らは、主に出たった喜びに満たされました。

 主は、弟子たちに食事を与えました。イエス様は、神の子なのに、仕えられることよりも仕える行動を取られたのです。超自然的指導力を持っている者に仕えているという意識は、私たちを誇らせます。でも、そのような方に仕えられているとしたら、どういう意識をもつでしょうか。弟子たちは、イエス様の深い愛を感じました。労わりに気が付きました。

 私たちは、人々を私たちに仕えさせてはいけません。それは、彼らに働き甲斐を感じさせ、意識を満足させ、業績を数えさせるでしょう。

 人々を愛し、彼らに仕え、彼らの心を満たすことが大事です。イエス様は、ペテロに「わたしを愛するか。」と三回尋ねられました。そして、イエス様の子羊を飼い、牧することを命じられました。

 神は、人間に何を求めておられるのでしょうか。神は、全能であり全知です。業績を確認する必要もありません。神は、人間に愛されることを求めておられるのです。人間もまた、神を愛するために存在するのです。

 幼児が母親を求め、愛に応えて笑い、喜びます。そのことで親は自らの存在の意義を確認し、喜びを得るのです。必要とされる、愛される、ということは、大変価値のあることなのです。私たち人間は、人を愛し、人に仕え、その人々に愛されることによって、その神から与えられた使命を果たすのです。

 牧師という仕事は脆弱なものです。しかし、だからこそ尊いのです。もし、安定した牧師の立場があったら、それは霊的には危険なのです。皆さんが、自らの人生を振り返って、誇り自慢するものがあったのなら、霊的には危険です。神の国に入るには、重すぎる罪の加重です。

 私は、自らが尊敬され始めたという感覚を意識し、危険を感じております。神の国には高慢な者は決して入ることはできないからです。そして、私は自称クリスチャンという人々が、神の国に遠い、ということを霊的に感じております。実際、神の国に入る人が、そんなに多くいるとは思えません。物事を軽んじて、後で馬鹿を見ることにならないように注意してください。

4月29日 人々を弟子としなさい。  マタイ281620

改訳 マタ 28:16-20

28:16
しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。

28:17
そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。

28:18
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

28:19
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

28:20
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」


 クリニックに医師や病院関係者が来て、栄養医学について尋ねアドバイスを求めることが多くなってきましたが、基本的に院長の講演はお断りしております。確かに講演というものは、人々を啓発し、教化するのに役立ち、また名誉でもありますが、正確な意味での効果が期待できるか疑問なのです。

私の説教を聴いて感動し、DVDを送ってくれという人もいるのですが、私は一時間の説教の効果に疑問を持っています。実は、福音派というのは、説教を神の言葉の宣言として何よりも重視していますので、本当はこんなことを言うとまずいのです。

 それでも私は、説教に現在の自分の全てを注いでいますし、大げさに言えば命を掛けています。これまで、高熱であろうと心臓病であろうと諸問題が起ころうと、講壇に立ち、説教をすることを最優先してきました。

 説教と言うのは、その聖句に関する私の信仰告白であり、説教者を離れてありうるものではなく、ましてやテープなどで見ず知らずの人に聞かせるものではないと考えています。私は、自分の説教を、茶の間や仕事をしながら聞いてもらいたくはありません。聖書を前にし、神を礼拝する姿勢で聞いてもらうなら別ですが、知識を補充するだけの説教聴講であるならば、その人の人格形成と人生にとって害であるとさえ思うのです。つまり、どんな良いものであっても、利用しようとか、参考になる考え方を求めるという浅薄な態度で接するならば、決して益にはならないと考えているのです。つまり、説教学で言うところのみことばの宣教の意味合いは、現代社会の知識欲求の浅薄さによって、効果を期待できないものになっていると言わざるをえないのです。

医学講演でも同じなのですが、人々は利用しようとして知識を求めるのです。そういう人々を教えても、金もうけや自己満足につながるだけなのです。一子相伝とか徒弟制度などというものは、現代では完全に廃れていますが、人間教育というものは、知識教育ではなく、人格教育でなければなりません。師たる者は弟子に対して、その人生を掛けて、自らの信じ傾倒する信念や知識や技術を教えていくべきものであると考えています。

神は深い効果を持つ、教会というものをこの地上に与えてくださいました。教会はエクレシア「召しだされた者の集まり」でありますが、その語源である荒野の集会ではモーセは「主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者全てを呼び寄せた。」(出エ362)とあります。現代社会では、そのような人は稀有なものとなっています。教会がそういう人を求めていたら誰も集まらないでしょう。

イエス様は、弟子を集めなさいと言われたのではなく、「あらゆる国に出て行って人々を弟子としなさい。」と言われたのです。あなたが弟子になりなさい、と言われたのではなく、あなたが人々を弟子としなさい、と言われたのです。

 先週、「自分にとって世話の掛かる子羊を数匹見つけ出して飼いなさい。」と課題を出しました。私たちは、自らが優れた弟子になろうとしてもイエス様は凄すぎて模範にはならないとも考えてしまいますし、実際には難しいものです。師というのは、弟子がいるからなれるのです。

 日本の親や教師、指導者はいつまでも、弟子を指導していようとします。しかし、弟子に弟子を持たせれば、直ぐに成長します。人を教えることによって、人は教わるのです。無論、直ぐに教えさせてもうまくいきません。

 まずは、洗礼を受けるように指導するのです。洗礼と言うのは、免許皆伝ではありません。入門願いです。入門を願うように、人の世話をし、教えるのです。そして、入門をしたら、聖書を守るように訓練するのです。繰り返しますが、知的理解ではなく、体得できるように訓練するのです。

 訓練に従おうとしない人がいたら、見守るしかありません。神の掟を守らなければ必ず破綻します。その時に、子羊のように救いだして教えるのです。多くの親や指導者が、子羊を助けようとして甘やかしてしまいます。人生は戦いであって、そのように甘やかされた者は、必ず敗北してしまいます。

 親は神の反映でもあり、親に従えない子供は破滅します。イエス様には「一切の権威が与えられています。」神の権威の代行者として、私たちは不服従の者を甘やかしてはならないのです。「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ2・4)

 人の罪性というのは、自己中心であり、自分に都合の良いように物事をしようとします。師というのは、それに迎合してはならないのです。しばしば、私に、「こういう理由で礼拝を休みます。こういう理由で、できないのです。」と了解を求める人がいます。でも、それは、神との関係であって、牧師の了解で済む問題ではありません。言い訳を言ったり、人の理解や了解を求める風潮は、信仰生活には非常に危険なものです。

訓練というものは、条件付けのない従順によって成果を得ます。訓練を受けたがらない人を訓練することはできないのです。そういう意味では、入門を安易にしてはならないのです。しかし、一度、入門したらとことん責任を持たなければなりません。洗礼を受けた人のためには、今でも祈り取り成しをしておりますが、ただの親しい人や求道の人にはついては、教会に来なくなれば、聖霊なる神による祈りの必要を感じておりません。イエス様は、「世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいます。」と言ってくださいました。師は、弟子が失敗しても脱線しても見捨てないで、共にいるのです。皆さんも、弟子を募ってください。あなたの人間性を掛けて、人を世話してみてください。

 5月6日 神の国が私の中に来ますように。  マタイ6913
  説教:柿谷悟師

新改訳 マタ 6:9-13
6:9
だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

6:10
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

6:11
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

6:12
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

6:13
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕


5月13日 血によって繋がった家族。  マルコ33135

新改訳 マコ 3:31-35

3:31
さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。

3:32
大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。

3:33
すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

3:34
そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。

3:35
神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」


 今日は母の日です。多くの人にとって、母は特別な存在であり、懐かしく麗しいものです。ところが最近は、母に対して感謝の心を持たず、何の感慨も持たない人々が多くなっているようです。私自身の判断では、これは次のことによるかと思います。

1. 父親が家庭に不在なため、本来父親の役割である指導や訓戒を母親がするようになって、母親の役割である慈しみ育てるということがなくなった。

2. 家事や育児が楽になり、母親の犠牲がなくなった。

3. 子供の環境が多様かつ複雑になり、母親への依存がなくなった。

4. 母親自身に親であるという自覚がなくなった。

 ところが、人間の中には母性本能と母欲求の本能が神から与えられており、それが満たされないと、精神的な不安定を解決できなくなってしまいます。成人した男性でさえ、母親のような女性に甘えたいという欲求はあるもので、妻がその欲求を満たすと男性の情緒は安定すると思います。現代社会の精神的不安定はこの母性欲求の未解決に大きな要因があると思います。父の日に話す予定ですが、父性欲求もすべての人間に与えられているのです。

 さて、社会というものは人間の罪によって形成されるので、そのような父性・母性欲求を利用した権力構造を、愛に基づかないで強引に作り出します。つまり、人の存在理由を家や血縁集団の保持と繁栄に置こうとするのです。そこでは個人の主体性や自由は顧みられず、ただ家長や父母への絶対的忠誠を要求されるのです。

 聖書が命じる「あなたの父と母を敬え。」という戒めは、子の側の主体的行動を促すものであって、「子供たちを父と母に従わせなさい。」というものではありません。ここでは、子の側に責任があるのであって、「自分の親は悪い親だから」とか「親から何も受けていない」などという言い訳はできず、どんな親であっても父と母を敬うならば「それは、あなたの齢が長くなるため、またあなたの神、主が与えようとしておられる地で、幸せになるためである。」(申命記516)。つまり、父母を敬うことができない子供は幸せになれず、長生きができないのであるから、親は自分の子が自分を尊敬するように育てることが肝要であり、子はどんな親であろうと敬って生きることが必要なのです。

 イエス様が宣教を始め、弟子たちを任命された頃、説教をしていると母や弟たちがイエス様を呼び出そうとされました。色々な評判が立って家族に忠告する者がいたのかもしれません。マルコの六章には、イエス様の教えに感動したけれども、「大工のヨセフのせがれで、大工ではないか。家族もみな知っている。」と素性だけで躓いた人々がいることを報告しています。

葬式や結婚式では、序列や歳が重要なものとなります。そういう血縁社会の中では、イエス様でさえ尊重されず、福音に耳を傾ける者は少なかったのです。だから、イエス様ご自身が「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」(ヨハネ444)と言われたのです。つまり、氏素性だけで判断して、人の言葉や真理などに耳を傾けないで生きる人々が多いのです。そういうところでは、愛し合うとか、敬うなどということは考えも及ばないのかもしれません。

 私は母の葬儀に際して、ガムを噛みながら焼香する人や納棺の献花の際に大きな声で世間話をしている人、死者を携帯電話のカメラで撮る人、がいるのに驚きました。この人々は何のために葬儀に来たのか、と愕然としながら、いわゆる肉親というものの浅薄さに気が付くのでした。彼らは永遠も知らず、真理も知らず、敬うことも敬われることも知らず、その罪を神の前で糾弾されて滅びへの道に行くのです。

 改めて、魂が救われて神の家族となることの奥義、その喜びを知るのでした。人間の罪性の中では、「母だ」「父だ」といっても単なる儀礼の中で営まれるに過ぎません。先日の全国聖会で、娘婿が伝道者への献身を決心・表明しました。私は、その時、自分の親としての存在に意義を感じたのでした。これまで、子供を愛し、慈しみ育ててきました。それは、親として尊ばれるためではなく、私が信じ献身して伝えようとしている神を信じ、神の家族となり、神に仕える人生を歩んで欲しいからでした。

 血縁による家族も、愛がなければ虚しく、形式的な儀礼の組織に堕してしまいます。その愛は、イエス様の血によって救われた神の家族になってこそ、達成されるものであります。


5月20日 聖霊によって力を受ける。  使徒の働き1章311 

新改訳 使1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。

1:4
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

1:5
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

1:6
そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

1:7
イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。

1:8
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

1:9
こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

1:10
イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

1:11
そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」


 復活されたイエス様は、40日の間、弟子たちに現れて神の国のことを語り、ご自分の身体が幽霊のようなものではなく、栄化されたものであって神の国の身体であることを示されました。Tコリント書15章には、「天井のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており」(40)、「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(50)として、「死者はどのようにしてよみがえるのか、どのようなからだで来るのか」(35)という疑問に答えています。

 弟子たちは、その40日間の主との交流を通して、神の国が現実のものであり、そこでは具体的な身体をもって過ごすことを教えられました。更に、「おのおのの種にそれぞれの身体をお与えになります。」(38)とあるように、この地上での歩みがその人の種となり、神の国の身体の元となるのです。

 私たちは、民主主義という教えを正しいと教えられ信じている国民ですが、マックス・ウェーバーに言わせれば、そういうものは官僚制によって牛耳られ、却って一般の人が搾取される巧妙な手段であるのです。まさに現代日本のことを、1919年に予想していたのです。つまり、聖書は民主主義ではなく、神中心であり、私たちが心と知恵と力を尽くして神の御心を果たそうとするところに、幸せや祝福があるという教えです。

 また、平等を誤解して、働いても働かなくても、努力してもしなくても、同じ報いと権利があると考えている人がいますが、そういうことを神がするはずがないのです。例えば、人間の指導者や主人でも、よくやった者にたいして「良いしもべだ。」(マタイ25・21)と褒め、不正をする者を「主人は怒って」(マタイ18・34)罰するのは当然なことなのです。

 ところが、人間は罪人であり、自己中心ですから、どうしてもその働きや努力が自己中心的になり、自分の利益誘導になってしまうのです。そして、自分の思い通りになることを神に願い、またそれが神の祝福であると考えてしまうのです。ここに、しもべであるという自己認識がクリスチャンとしては大事なことになるのです。

 また、多くのクリスチャンが結果を重視し、プロセスを考えていません。「利益を上げたら献金をすれば、少しは悪いことをしても多めに見てくれる。」まるで悪代官のような神様になってしまいます。「教会で一生懸命奉仕し、献金すれば、しない人よりも祝福される。」神様に対するゴマすりが通じると考えている人が多いのです。

 また、逆に結果を気にせずに、プロセスを重視して、成果を上げられない人もいます。罪を犯さないことや清め、或いは人に批判されることを恐れて何もできないクリスチャンがなんと多いことかと思います。

 大事なことは聖霊に満たされることです。聖霊に満たされるというと感情的に興奮することだと誤解する人も多いようです。聖霊なる神は、私たちを冷静にし、理性的にし、勇気を与え、知恵を与え、愛と慈しみを与え、謙遜にし、更に超自然的な助けと力を与えてくださいます。

 多くの人は聖霊に満たされるとは異言を言うことだと考えていますが、異言を言うのは聖霊のバプテスマを受けた証拠であって、それは有効な祈りの手段ですが、実は聖霊に満たされている充分条件でも必要条件でもありません。実際には聖霊のバプテスマは、私たちに力を与え、神の御業を起こす大事な要件ですが、多くの人が異言を言うということだけに満足し、前述の成果を得るということに重点を置かないので聖霊に満たされないのです。

 世界のクリスチャンの増加分は、聖霊のバプテスマを体験する私たちペンテコステ派が担っています。迫害や攻撃、困難のあるところで宣教の実績を上げているのは、聖霊のバプテスマを受けている人々です。しかし、豊かな国のペンテコステ派の人々は、聖霊のバプテスマを、自分たちの特技と才能にしてしまっているのです。

 もう一度言います。この地上での働きが、神の国のあなたの姿かたち、栄光を形成するのです。或いは、この地上でのあなたの信仰と行動が、神の国に行くか否かを決めるのです。

 人々は努力と知恵を重ねて、祝福を祈り勝ち取ろうとします。しかし、聖霊に満たされた人は、聖霊に導かれるままに犠牲を払い、たとえそれが難しいと思われても行動に移します。知恵と計算の結果ではなく、神の御心か否かが判断の基準なのです。

 私は、神に仕えるために先月幾つかの犠牲を覚悟しました。しかし、神はそれを補って余りある祝福を注いでくださり、また予想だにしない導きと力を与えてくださいました。これらは、礼拝に来た人、更に祈祷会に来ている人には詳細に伝えています。

 あなたは聖霊なる神に満たされ、臨在を体験したいでしょうか。

 そのような体験や力を恐れる人が最近多くなってきたことを感じます。社会で祝福や権利を与えられると、責任や努力を強く要求されるためかもしれません。嫌な日本社会になってきたものです。

 神は愛であり、祝福の源です。神中心社会ということは、神が責任をとってくださるということです。あまりご心配をなさらず、ただ祝福を受け取って成果を上げられるようにしてください。そして、神の国で共に大いに祝おうではありませんか



5月27日 聖霊を注がれる。  使徒の働き21724

新改訳 使 2:17-24

2:17
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

2:18
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

2:19
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。

2:20
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

2:21
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』

2:22
イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。

2:23
あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。

2:24
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

2:32
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

 低血糖症や精神疾患の患者さんと交流する時に気が付くことは、彼らの罪責感の大きさです。必要以上に自らの弱さ・失敗・症状・迷惑を掛けていること・金銭や時間を家族に負担させていること、更には、症状が出たときの自分の言動に罪責感を持っているのです。しかし、健康な人々は精神的にタフですから、そんなことを考えもせずに人を責めたり、言いたいことを言うのです。素直で正当な言葉や忠告やアドバイスは、言う側には論理的であり、善意だと思い込んでいるのですが、実は正当な忠告や批判ほど、言われる側にはきついものなのです。

 先週、「ロッキー・ザ・ファイナル」と「グッド・ウィル・ハンティング」という映画を観ました。ロッキーは、言い訳と責任転嫁をしている息子に「人生はそんなにうまくいくものではない、でも倒れても倒れても前進していくしかないんだ。そうすれば少なくとも自分には悔いはない。」というようなことを言います。まさに、アメリカン・スピリットであり、ロッキーファンの痺れるところです。でも、日本人、特に青年には受けないなと感じました。

 後者は、孤児で里親に虐待を受け続けた掃除夫をしている青年が、数学の天才であることがわかるのですが、反抗的な態度と知識を振り回す厭世的な考え方が、同じ境遇に育ったカウンセラーによって変わるというものです。「君は悪くない、君のせいじゃない。」と繰り返されて、涙を流して癒されるのです。青年の名前は、ウィル・ハンティングですが、題名は、良い意思をハンティングするという意味でしょうか。心を獲って殺伐としてしまう人間が変わったのです。

 私は、知識あり、能力あり、不自由なく暮らしている人々が持つ、冷たさ、非情さを考えています。試練に苦しんでいるヨブに友人が非難して、その隠れ持つ罪を白状させようとします。「まっすぐな言葉はなんと痛いことか。あなた方は何を責め立てているのか。」(ヨブ6・25)。能力のない者、心の優しい者は、厳しい非難の言葉に、気力を失せ、生きる希望をなくし、そして言い訳を言い、責任転嫁して生きていくのです。こうして、力のある人、失敗をしない優秀な人、頑固な人、冷たい心の人は、自らの罪を悟らずに人の心を殺していくのです。

 人々は、そのようによってイエス様をも殺したのです。批判的な精神・責める言葉は、人の人生を損なわせ、失わさせるのです。私は、精神疾患と言われている人々と接して、彼らの多くが批判の犠牲者であることに気が付くのです。人間的な正しさなど、何の価値もなく、ただ人を絶望に陥れる悪魔の手先になるだけなのです。ところが、多くのクリスチャンが正しさを神と人々の前に競おうとしています。神の前に罪を認め、悔い改めたのに、それからは二度と悔い改める恥ずかしいまねはしまいとしているのです。実は、それこそが罪なのであり、自己中心であって、自らの力で救いを確保しようとする愚かな行為なのです。

 「どうか、望みの神が、あなた方を信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みに溢れさせてくださいますように。」(ローマ15・13

聖霊なる神は、私たちの心に、喜びと平安と希望を与えてくださいます。聖霊のバプテスマを、何か特別な力を付与される勲章などと考えてはなりません。多くの人が、信仰というものを非人格的に宗教行為をするものだと考え、クリスチャンになってからも、同様に考えて、信仰を形式的なものにしてしまっています。聖霊のバプテスマは、神と語り合うために、まず異言を与えられるのです。確かに、聖霊のバプテスマは、奇跡やしるし、癒しを得るために効果的な体験ですが、私は異言のほうが大事であると考えています。

 「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのために取り成してくださいます。」(ローマ8・26)。異言の祈りをすると、神の御心が示されます。私の心の高慢や不平不満、怒りなどが、異言の祈りの中で消えていくのです。ある人のために不快や不満、批判の思いがあるとしても、異言の祈りをすると、神にある取り成しの思いが与えられ、その人の弱さ、苦しさ、悲しさを示されるのです。

 多くの人が自分の心に縛られ、つまり、罪に縛られて行動し、考えています。そして、異言の祈りの少ない人は、頑なな心や哀れみのない強情さを、変えられないのです。「御霊は、神の御心に従って、聖徒のために取り成しをしてくださるからです。」(ローマ8・27)。

 怒りや不満など、罪による人間的な感情が消え去っていくまで、異言の祈りをしなければなりません。「あなたがたが裁くとおりに、あなた方も裁かれ、あなた方が量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイ7・2)とあるので、あなたの赦された罪も、あなたが赦さずに人を責めるならば、そのはかりで量られて、御国の入り口を通ることはできないでしょう。

 まず、自らの罪と罪深さを認め、悔い改めてください。

 洗礼を受け、自らの罪を認めて生き、弱さや罪深さを覚悟する人生を送ってください。

 あなたが、心から望み、自らの頑なさを捨てるなら、聖霊のバプテスマを受けるでしょう。

 異言の祈りは、おまじないでも念仏でもありません。あなたの罪を聖霊なる神が、取り成しをして清める大事な手段です。罪人であるあなたが、その祈りを理解するには、清めを必要とします。つまり、多くの異言の祈りを必要とします。

 次第に、神の御心を理解することができるようになります。


6月3日 この曲がった時代から救われる。 使徒の働き23647

新改訳 使 2:36-47  
2:36
ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

2:37
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。

2:38
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

2:39
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

2:40
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。

2:41
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

2:42
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

2:43
そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。

2:44
信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。

2:45
そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。

2:46
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

2:47
神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

ペテロは、大胆に「このイエスを、あなた方が十字架につけたのです。」と罪を指摘しています。キリスト教は「罪、罪」と言うから嫌だ、という人がいますが、別に罪を指摘しなくても、人には神が与えた良心があり、また罪責感というものがあります。先週お話したように、現代社会では、親や上司の攻撃的・批判的な言動によって心を傷つけた人々が多く、持つべきではないものにまで罪責感をもってしまっているのです。

 最近の文献では、最近子供たちを安易にADHDという病名を付けて精神病薬漬けにしてしまう精神科医が多いことが報告されています。そのADHD(注意欠陥多動性障害)という病名を付けられると親や周囲は、もはや自分の子供を普通の子として見たり育てたりすることができなくなってしまい、本人の劣等感・罪責感も大変なものとなっています。そして、そのような子供が薬漬けになって心臓発作などで死んでいったレポートがありました。

 罪と罪でないものとを明確にすることが現代社会では必要であり、教会は罪でないものを明確にした上で、神の前での罪の許しを大胆に宣言しなければならないのであります。罪ではないもので罪とされているものは、どのようなものがあるでしょうか。

1. 失敗。 エジソンの失敗の数は有名です。失敗がなければ成功はないのです。どんなに迷惑が掛かろうと、損失が多かろうと失敗は罪ではありません。

2. 病気や怪我。 松井秀喜が怪我をしてすいません、と謝ったことがアメリカでは不思議なものと受け留められました。病気や怪我は、注意不足や管理不足の場合はありますが、罪ではありません。

3. 論争や対立。 主義主張があれば、対立し論争があって当たり前です。正義を守り、求めるのならば、自分の考えを主張し、対立する立場に反対するのは当たり前です。イエス様は、パリサイ人・律法学者を激しく非難しました。

4. 抗議や主張。 弱者や子供、部下が意見を言い、抗議するのは権利です。

5. 失望や落胆。 真実に生きようとすれば、失望はあって当然です。

 さて、逆に、罪の行為が罪とされないのが、罪の社会なのです。イエス様は、当時の社会構造からは逸脱しており、宗教界にも異議を唱える人でした。しかし、実際には人々に真理を教え、病を癒し、奇跡を行って神の愛と義を示す人生だったのです。

 ところが時の権力者たちは、自分の権力が損なわれるのを恐れ、イエス様を攻撃しました。そして、人々も安易にそれに惑わされて、正しい人を殺すことに同意したのです。罪とは、自己中心であると何度も指摘しています。自分勝手に判断して、正しい人を攻撃し或いは攻撃されても同情もしないことが罪なのです。

 しかし、罪人が自らの罪を認めることはありません。イエス様ははっきりと「聖霊が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16・8)と言われますが、聖霊なる神なしに人は、自らの原罪を認識することも救われることもないのです。ところが、多くのクリスチャンが、このことに知らずに伝道をしたり、指導をしたりしております。それは、自分の救いが自分の決心や人間性によるものだと誤解しているからです。

 「この曲がった時代から救われなさい。」とは、そのようにそれぞれが自分の価値基準に従っているから曲がってしまうのです。神の基準をもっていないのです。自分勝手な基準で人を攻撃し、裁き、非難して傷つけてしまうのです。現在の日本政府の政策や判断もただ世論の支持率を上げようとして右往左往しているにすぎません。世論が正しいのではありません。第二次世界大戦の時、私たち日本人は全体として間違った判断をし、自らだけでなく、アジアの人々をも傷つけてしまったのです。このことを警告し、正しい行動を取った人は、クリスチャンでも殆どいなかったのです。

私は、そのように自分の命と立場を守るために神の教えを適当なものとして、時の政府に従い、キリスト教信仰を日本神道に迎合させて生きた牧師や信者たちが、決して神の国に迎えられたとは思っておりません。そして、現代のように戦前の過ちを繰り返そうとしている日本政府の動きに無関心でいるクリスチャンが、自分の信仰を守れるとは思いません。私は別に、右翼でも左翼でもありませんし、ある政党に組しているわけでもありません。しかし、現在の政治は明らかにおかしいでしょう。

更に、現代の企業倫理・理念もおかしい。教育理念・教育者もおかしい。それは、彼らが、社会の動きに左右されない基準を持っていないからなのです。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練との為に有益です。それは、神の人が、全ての良い働きのたえにふさわしい充分に整えられた者となるためです。」(Uテモテ23・16,17

 クリスチャンとして生きるとは、聖書と聖霊に従って生きるということであり、社会の理念、自分の利益に反しても、神の教えに従うということであります。



6月10日 平安な義の実を与える父。 ヘブル12211
新改訳 ヘブ
12:2
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

12:3
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

12:4
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。

12:5
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

12:6
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

12:7
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

12:8
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

12:9
さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

12:10
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

12:11
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

現代社会は利益や富を目標としています。経済社会だけではなく、政治や教育機関、さらには医療や福祉までが利益目標で活動しています。厚労省の金権癒着は以前から知られてはいましたが、ここまでひどいとは思いませんでした。コムスンについては当初から悪い噂があって、バッドウィルだからこそ、あんな名前をつけたのだと思ったものです。

 そして宗教界の退廃も進んでおり、キリスト教会も同様です。韓国では、キリスト教は信用があり、繁栄もしているので、キリスト教を名乗る偽の団体が多いのだそうです。伝道が難しい日本は、偽も起こらないと思っていましたが、退廃は進んでおり、真実なクリスチャンは少ないようです。

 アメリカでの話です。親子で釣りをしていると息子に大きな当たりがあって、何時間もかかってやっと釣り上げると、それは翌日から解禁になるバスでした。あと二時間しかなく、もう夜ですから回りには誰もいません。でも、父は、それを逃がしなさいと告げました。それは、息子の生涯には忘れられない出来事でした。後に会計士になった彼は、不正の誘惑がある度に、父の態度を思い出し、守られたのでした。

 また逆に、萎縮してしまって何もしようとしない子供たちを見ます。或いは、親に対して反抗的な青年たちも多く見ます。子供たち、青年たちがどうして、希望を失い、ノイローゼになり、或いは、享楽的になり、暴力に走るのでしょうか。

 私は、社会に規範がないからだと思います。世の中には、金銭よりも大事なものが多くあります。そういうものは、現実に人と交流しながら、培われていくものです。「政治家がダメだ、ああいう人間や組織はダメだ」と非難ばかりしていて、自分も人生の規範がなく生きる人々が多いのです。

 信念というものは、状況や結果に左右されないものです。私は、昔から、「男らしく生きる」ということは、心がけていました。一度自分の言葉で言ったことは、どんなに損であっても守る。友と決めた人は、どんなことがあっても裏切らない。ですから、信仰に入った以上、どんなことがあっても礼拝は守ることは決めていましたし、礼拝を守れない職業を持たないと、不利益を覚悟しました。ですから会社勤めを諦めたのです。

 そして、自分に与えられた金銭・物品・時間・能力の十分の一以上は必ず、神と人とに流すことを義務にしました。できれば、五分の一を心がけ、できるだけ自らに使わないことを課しました。「キリストに恥をかかせることは絶対にするまい」、と病になろうと、怪我をしようと愚痴を言ったり、否定的なことを言うことを断固として拒んできたつもりです。

 イエス・キリストを自らの人生の主人とした以上、自分の出世や栄達を望むのは、違反であります。ただ主の許しと慈愛の中で、僕として生き、家族や友との交流を持つことは、主の願うことであると信じて、その愛の中に過ごすことを優先しております。

 そういう面で、私は、自らを今は、神に信仰者や事業、富を委ねられた執事のような意識で見ております。執事にとって大事なことは、自らの仕事をなるべく早く優秀な後継者を育て上げて任せ、自らはいつも主人の下にいて、主人の願いを実行すべく新たなことに備えることです。

 聖書を読むと「善悪を問うな」、ということがありますが、最近の悟りは、人の善悪や短期的な観点では物事を考えないようにする、ということがあります。牧師たちの言動を見聞きするにつれ、「愛は人の罪を覆う」(Tペテロ4・8)のが神のみこころであり、どのような人をも暖かく見守るしかない、と思わされるのです。

 つまり、私は自らのうちに平安の義の実が結ばれていることを感じております。そして、多くの人が不安であり、ごまかしの信仰人生を生きていることをも感じております。その理由についても、はっきりと気がついています。

 それは、それぞれに与えられる信仰の試練に直面せず、逃げているからです。「罪と戦って、血を流すまで抵抗する」ことが必要なのです。

 責めと恥じで打ちのめされる時は何年続いたことでしょう。献金を続けながら、飢え苦しみ、葛藤し、頭を下げたことは、自らの働きを否定して神を待ち望む、大きな訓練の場でした。人々の中傷と非難、攻撃が続いても、それらの人を取り成すように主イエスに命じられたのは、人格の中の罪との戦いでした。祈っても、努力しても問題が起こり、試練が続いたのは、神に全てを委ねて生きるための、自我の放棄の道場でした。

 いまだ、多くの戦いがあるでしょうが、主に従い、福音を伝えるためには、当然なことと覚悟しております。この聖句の前の箇所に、信仰の勇者達のことが記されています。人生の生きるべき道と真理を知った勇者たちにとって、この世に報いがなくてもかまわないのです。そして、一節にあるように、このように信仰の先人たちが、御国から私たちを見守っているのですから、「私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」

 私は、皆さんを組織立てることも、教えることもできないことに気がついてきました。ただ、自らが主の僕として生き、取り成しをするだけです。皆さんの魂は、自らの信仰によって、勝ち取ってください。罪と戦わなければ、決して平安は得られません。


6月17日 放蕩息子の父。 ルカ15章11〜32節

新改訳 ルカ 15:11-32

15:11
またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。

15:12
弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。

15:13
それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。

15:14
何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。

15:15
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。

15:16
彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。

15:17
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。

15:18
立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。

15:19
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

15:20
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

15:21
息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

15:22
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。

15:23
そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。

15:24
この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

15:25
ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、

15:26
しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、

15:27
しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』

15:28
すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。

この箇所は、放蕩息子という題で、聖書の中でも最も有名な父なる神の愛を示す物語です。二人の息子がいるのですが、長男は真面目で愛情が薄く、次男は遊び好きで感情豊かです。この次男が、相続財産の生前贈与を要求し、三分の一を得て、遠国に旅たちました。ところが、彼は、直ぐに放蕩の限りを尽くして財産を湯水のように使い果たしてしまいます。

 そうすると身寄りのない所ですから、彼はユダヤ人にとって最も汚らわしいとされる豚の世話をさせられることになってしまいます。さらに、あまりにお腹が減って豚の食べる餌をも食べたくなってしまうほどでした。しかし、その豚の餌でさえ、食べさせてくれないので、豚以下の待遇かと情けなくなってしまうのでした。 そして、父の元で働く雇い人は、こんなことはなかった。父の元では、どんな人も豊かに暮らしていたと、父の力と豊かさ、気前の良さを思い出すのです。

 私は、現代日本のセセっこましさを思います。それは、この次男の寄留したところのようで、人々を貧富で差別し、貧しい人々を人間扱いしない国です。人々を浪費させるように算段をし、金を回収できない人を捨ててゆく社会になってしまいました。そういう中で、見捨てられている人は、現代日本には多くいるのです。

 先週は、ある人々に酷使されました。夜中まで怒鳴られ、責められ、そして命令されて、使いまわされました。更に明け方も問い合わせのや追及の電話で、殆ど眠ることもできず、今日の集会の準備のプレゼンテーションを作り上げるのに、疲れ果てた状況です。他人の時間や労苦を犠牲にするのをなんとも思わないのかと、さすがの私も、取り成しの祈りをしたくない、という気にさせられました。現在、土曜の夜中の二時ですが、心臓が痛くなって、身体が起きてられなくなっています。まるで自分が放蕩息子のようで、自分勝手な人々に酷使され、普通の人間ほども休めないのかと、情けなくなるようです。

 先週は、信念に生きることをお勧めしました。私は、自分がどんなに忙しくても、私に関わる人を私の都合で酷使したくないと決めています。従業員には定時で帰れるように、どんなに気を配っているか、そして、彼らに普通以上の給料を与えようと努力し、社会人としての成長を願い、祈っているかは、神様がご存知です。子供に対して、自分を犠牲にしても彼らが幸せになることを行っています。昨晩は、家内が疲れて私も疲れていたのですが、娘がカレーを食べたいというので、久しぶりに腕を奮いました。

 俳優の高橋英樹が、家族の為に料理をし食器を洗い、細やかに手伝っているのをテレビで放映していました。料理も掃除もできない、という男が多いようですが、そういう人は自分勝手だから、できないと言うのです。そして、妻子を幸せにしようと思っていないのです。

家族の為に、日夜働き続け、それでも子供の要求を聞いてできるだけのことをしようとする父母が、すばらしい子供たちを育て上げるのです。心血を注ぐと言いますが、そのように育てた子供が親の愛情をないがしろにするはずがありません。

 親の都合で子供を強制的に動かし、反抗されても正しいと信じて強引に行動しえて、私たちをも好き勝手に要求するような人が多いようです。自己中心、我儘には、神の愛は伝わらないと諦めながらも、放蕩息子のように悔い改める機会があるのかしら、と祈らずにはいられません。

 さて、問題なのは、この長男です。言いつけも戒めも破ったことが一度もないと自らいうのですから、よほど真面目で堅物でしょう。こういうクリスチャンが多いのが事実ですから気をつけてください。

 人生で大事なことは、神の与えてくださったものを味わうということです。保管してしまっていても何にもなりません。私は、人の数倍忙しく働いています。しかし、妻と一緒に、或いは妻の代わりに食器を洗うのは、何よりも重視しています。中国では、子供を留学させるために財産を殆ど注いでしまうようです。息子に全ての財力を献げ、借金だけが残っても、それを当然とするからこそ、中国人の国際的な活躍があるのだと思います。そういうことは、言葉ではありません。どんな言葉よりも力のあることです。

 自分のやりたいことをし、言いたいことを言って、周囲の人と仲良くするなんて都合の良いことを考えている日本人が多くなっています。この長男のようです。

 人を愛するということは、自分と自分の思い、判断を献げなければなりません。自分のことを考えずに、人を愛するということが日本の美徳でありました。ですから、神を信じずとも聖書的であったと思います。今や、聖書を知っていても、損得や打算で生きるクリスチャンも多くなっているようです。

 報われないことをやり続けると、神が私たちに報いてくださいます。「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(ガラテヤ6・9)。この父親は、従業員たちに良くしてやることに心を掛けましたが、そのようにされた従業員はこころから一生懸命働いて、この主人の愛情に報いたのです。それを弟は悟ったのですが、兄は悟らなかったのです。

 人も、神も、打算では動きません。苦難があなたを精錬します。苦難を逃げる人は、不誠実なのです。

6月24日 勇士よ。主が共におられる。 士師記6614

新改訳 士6:6 それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。すると、イスラエル人は主に叫び求めた。

6:7
イスラエル人がミデヤン人のために主に叫び求めたとき、

6:8
主はイスラエル人にひとりの預言者を遣わした。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、あなたがたを奴隷の家から連れ出した。   

6:9
わたしはあなたがたをエジプト人の手と、すべてあなたがたを圧迫する者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その国をあなたがたに与えた。

6:10
それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」

6:11
さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。

6:12
主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」  

6:13
ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか。』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」

6:14
すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

 
士師記は、モーセの後継者ヨシュアによってイスラエル民族がカナンを征服した後のヨシュア死後の記録です。イスラエル民族は、先住民族と妥協してしまい反ってその偶像礼拝と不道徳に染まっていくのです。40年間に亘って神から直接に教えられ体験してきたヤーウェ信仰は、簡単に崩れていくのです。

信仰にしても信頼にしても地位にしても、形成し熟練していくのに、何年何十年と掛かるのですが、そこから滑り落ちるのには、数秒で足ります。罪や誘惑というものは人生にはつきもので、大事なことは、そのような試練の中で「主の道を歩むかどうか」(士師記2・22)試みられながら、真に救いを受けた者は主と同じ姿に変えられていくということです。

そういう面で信仰者にとって、人生とは武道の修行のようなものです。サタンと誘惑に負けたら死であり、そうならないために普段から修練を欠かさないようにするのです。福音を生ぬるい趣味や教養のようなものに思わせてしまうのも、現代におけるサタンの惑わしです。イエス様は、「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て自分の十字架を負って私について来なさい。・・・・各々、その行いに応じて報いをします。」(マタイ16・24,27)と明言しておられます。

士師記の特徴は、「イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(21・25)ということであり、指導者を置いていないことと、規則をもっていないこと、そして各人の判断によって行動していたので、利害がそのまま現れてしまっていたのでした。それは、現代社会の特徴でもありましょう。組織や指導者に忠実でない人は、間違いなく誘惑に遇い、戦いに負けるでしょう。

そのようなばらばらな民によって成り立つ国の力は、衰える一方です。敵の攻撃を受け、自らの力では何もできなくなりました。「すると主に叫び求めた。」(6節)。わたしの感想では、神に叫ぶ人は少ないように思います。それは、次の人々です。

@ 神を知らない。

A 頑固で神にも人にも助けを求めない。

B 罪と欲望の中に堕落している。

 ギデオンは、どんな人でしょうか。酒ぶねの中で小麦を打っているのですから、臆病であったと解説書は言いますが、私には用心深い人のように思われます。主の使いが現れると、すかさず信仰の疑問を述べているのですから、神とその大能を知っており、神に助けを求めていたことは間違いないでしょう。

  しかし、大きな間違いは、自分が神の働きを行うとは考えていなかった点でした。「今、主は私たちを捨てて」と神に疑問を現しながら、自分に使命があるとは考えていないのです。天使は、「勇士よ、主があなたと一緒におられる。」と言われたのです。ところが、改めて自分の使命を言われると驚いて、「私は弱い。」と繰り返すのです(15)。

 ギデオンが神に用いられたのは、逃げていないで、直ぐに天使にその言葉の保証、しるしを要求したことです。ところが、実際に天使が献げ物を焼き尽くすと、今度はことの重大さにおびえてしまうのです(22節)。しかし、覚悟を決めると、父が祭司を務める偶像を壊してしまいます。自分の信仰と立場を明らかにするということが信仰の第一段階です。この辺があいまいですと、神にも人にも用いられることはありません。

 ギデオンの断固とした信仰表明に、反って父も町の人々も彼に従います。彼は、やはり用心深い性格ですから、こうして指導者として戦いに臨もうとするときにも、神に祝福を保証させています(3640)。

 保証をされた神は、ギデオンの信仰と考え方を強化されようとします。せっかく集まった3万2千人の人々を「恐れおののく者は帰れ」と言わせて1万にします。こうなると残りの者は、もう奮起するしかありません。ところが、さらに吟味して300人にしてしまいます。こうなると人の力では勝ちようがありません。神に従って戦うしかないのです。そうして、13万5千人の敵を打ち破ってしまいます。

 日本の教会や牧師は、クリスチャンを増やそうと一生懸命になっていますが、リバイバルというのは、歴史上何回も、このギデオンの戦いのように少数になってしまった信仰者が、心から神に向かって叫び、神にある勇気をいただいてリバイバルのために用いられたのです。

キリスト信仰というのは、浅薄なものではありません。イエス様ですら、その生涯を掛けてたった12人の弟子を養成することに集中されたのです。あなたもまた、この浅薄な日本社会において、決して惑わされることなく、罪と戦い、神に用いられるギデオンの勇士のようになろうではありません。3万2千人の中から残ったのは、たった300名でした。神に用いられるのは、そのような人々です。