1月7日 神による神との平和。 ローマ書51219

ロマ 5:12-19

5:12
そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。

5:13
というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。  5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。

5:15
ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。

5:16
また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。    5:17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

5:18
こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

5:19
すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。


 今年の教会の標語は、「希望を生み出す品格を持とう!」ですが、その聖句の前にあるのが五章一節の、「主イエス・キリストによる神との平和」ということです。神との交流がなければ、艱難を喜ぶことはできません。忍耐をすることもできず、そこから品格が生み出されるはずもありません。

 先週お話しましたように、自分中心の考え方では思うとおりにならない他人や状況に不満や不平をもらすだけです。今年のサブテキストの「人生を変える力」には、状況とはマットレスのようなものだとありました。その上にあると快適だけれど、その下にあると息が詰まってしまうとたとえています。多くの人が、そのように状況に左右されているのです。

 新春テレビドラマで渡哲也が主演する「マグロ」というものがありました。誤ってマグロを引くワイヤーに長男の腕を絡ませてしまい、長男の左腕を切断することになります。でも父親は決して言い訳をせず、もくもくと働き続けます。妻役を演じる松坂恵子との仲は小学生みたいに単純で可愛いもので、それを見ていた長女や次女は、その姿を見て励まされます。母親は、知恵と努力を尽くして東京で働く長女に対して、「人生って単純なものよ。」と語ります。問題を抱えていた子供たちが、いつしかコツコツと単純に働き、助けあうことを身に付けます。

 私の人生訓は次のようなものです。聖書的だと思っているのですが、聖書から吟味したものではなく、神を信じ歩んでいるうちに身に付けたものです。

1. うまくいかないことを当然と思う。人が自分を理解しないことを当然と思う。全ての失敗や誤解を覚悟して最善ではなく、できることをする。

2. 失敗や敗北、事故を神のせいにも人のせいにも自分のせいにもしない。但し、その後どのように対処するかは、自分の責任だと思う。人生は種まきのようなもので、神は人の歩みの全てを見ておられ、祝福したいと思う者を祝福される。人の労苦ではなく、神の祝福が人を繁栄させる。

3. 時間も能力も金も人も、自分のためには用いないで人のために用いる。しかし、それらを生かすのもダメにするのも自分なので、そのような自分作りには、ふんだんに金も時間も注ぐ。

4. 自分の判断や努力を最善だと思わない。むだを惜しまない。自分を価値ある者だと思わない。どのような時も神に聞き、どのようなことも神に従う用意をしておく。いつでも天国に行く心構えをしておく。

5. 人生を楽しみ、妻や家族と愛しあうことが人の義務である。神との交流がなければ決してそれらを行なうことができない。

 これらは私が神との平和を確立しているからで、神と交流していなければ、直ぐに崩れてしまうことを知っています。よく聞いてください。これは自慢ではありません。「信仰によって義と認められ」(1節)とはそういうことなのです。今日の聖句は、この一節を説明するためのものです。

 人は「罪によって死が入り」(12節)とあるように、罪が死という限界と恐れによって人の心を支配しているのです(21節)。あなたの言い訳が、病気とか怪我とか健康上のものであるならば、あなたはまだ罪の中にいるのです。あなたの言い訳が、状況に左右されたものであるならば、あなたは神との平和を持っていないのです。さらに、あなたが他人を非難したり、批判したり、比較しているのならば、あなたは神のことが何もわかっていない不信者なのです。

 「恵みと義の賜物を豊かに受けている人は、いのちにあって支配するのです。」(17節)。恵みを豊かに受けるとは、自分の能力や判断によって生きるのではなく、祝福を受けることです。義とは、神との正しい関係であり、賜物とはプレゼントです。つまり、神との正しい関係は、あなたの努力によってできるのではなく、神からのプレゼントなのです。このことが分からない人は、信仰生活に疲れ果ててしまいます。人間関係も努力の産物ではありません。愛するとは、努力や理性の働きではありません。霊的なものです。神との関係が確立していれば、人は愛せるのです。

 いのちは神からのものです。死とは分離です。「いのちにあって支配する」とは、神と結びついていると、万物は神に従うようにあなたの支配下になるということです。本来、人間はこの世界を支配するように造られたものですが、罪によってその力を失ったのです。それらを取り戻すために神の子イエス様が人間となって、人間のすべての罪を負われたので、もはやそれを信じる者は、死からいのちに移ったのです。私たちが神に義とされるのは、私たちの信仰行為や努力によるのではなく、イエス様の故なのです。ところが、多くの信仰者が、それを信ぜず、自分の祈りや宗教行為や努力によって祝福を得ると思い込んでいるので、神と結びつかず、いのちが流れないのです。

 実際に、皆さんは、うまくいかないことに平然としていられるでしょうか。神を祈り倒してでも、願い事をかなえようとしてはいないでしょうか。それは神と離れている証拠なのです。聖書を読んだり祈ったりするのは、神と結びつくためです。あなたの考えを是正し、神に委ねるためなのです。

 信仰や信仰体験は自慢したり、依存するためのものではありません。過去の体験など、どうでもよいのです。自分にこだわるから、神との交流ができないのです。聖書的でないと、人を非難してはなりません。聖書的になるのはあなたであって、他人ではないのです。世の中が罪深いから、私たちは清められるのです。もし、物事があなたの願いどおりになったら、あなたは堕落するでしょう。

 ですから、信仰によって生き、神との平和を保つことを最優先するべきなのです。


1月14日 神の栄光を望んで喜ぶ。 Uコリント4章615

Uコリ4:6 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

4:7
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

4:8
私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

4:9
迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

4:10
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

4:11
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

4:12
こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

4:13
「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

4:14
それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

4:15
すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。


先週は「神との平和」を話しました。新聞をにぎわす多くの事件が示すように、平和の心、平安は人間の努力によって生み出されるものではありません。何行苦行で得ようとしても、無理です。それは神に与えられることによってのみ、得られるのです。「義の賜物を豊かに与えられる」とは、「良い子だね、と親によっていつも頭を撫でられていること」と説明しました。

 ところが、そのように親に褒められ愛される子が少ないようで、そうすると感情表現のできない、悩み易い性格になってしまいます。昔のレポートで、人にかまってもらわないで育った赤ちゃんは、死んでしまうことが多い、とありましたが、最近は医療技術の発展で、そういう子供も育ち、そして、希望の持てない子供になってしまうようです。

 そういうことからすると、「神の栄光を望んで喜ぶ」などということは、簡単ではないことがわかります。「少年よ大志を抱け」は、「キリストにありて」と結びつかなければ、やはり難しいのです。

 低血糖症、精神病の患者と接し、治そうと思うのですが、治そうと思うあまりに、指導的・批判的になり、欠点や弱点を直そうとして、患者を愛すること、褒めること、受け入れることが少なくなる場合が多いようです。母親の場合には、感情移入が強いので、治そうとするほど、患者の子供から嫌がられることがあります。

 今年の教会の標語は、「品格」なので、常日頃あまり品格のない生活を送っている人には、厳しいプレッシャーを感じる方も、多いのではないでしょうか? 私は、説教していて、どうもお説教のように受け取ろうとする人が多いのを感じます。神が、皆さんを心から愛し、「良い子だね」と褒めようとしてくださると言っているのに、「自分は頑固だからダメだ」「そういうように考えるのは難しい」などと教訓的に捉えてしまうのです。これは、やはり褒め合う習慣が少ないのと、本音と建前の使い分けの習慣が身についているためかもしれません。比較が多く、自分に劣等感をもっている人が多いのは事実です。ともかく、今年もコミュニケーション講座が必要かと思います。

 「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(6節)とあるように、私たちの心を照らしてくださいました。これは、単なる知識ではありません。「キリストの輝いている御顔を見る、出会う」ということです。

 要するに、キリストとの出会いです。キリスト教は、修練でも、教訓でも、ありません。生ける神、キリストと出会い、救いを体験し、そして、聖霊を受けるのです。無論、神学は必要であり、聖書も教会もなくてはなりません。しかし、それは、キリストとの出会いのためであり、キリストとの交流を豊かにするためのものであって、キリストにある救いが必須の条件なのです。

このキリストとの出会い、救いの体験を得たら、土の器である私たちの中には、聖霊が宿り、神が私たちを導いてくださるのです。そして、私たちは、「四方八方から苦しめられても」「途方にくれても」「迫害されても」「倒されても」、どうってことはないのです。神が私たちを導いてくださるからです。

 私どもが毎週の説教で語っていることは、この救いを前提として話です。ですから、救われていない人にとっては、当然わからないのですが、私はそれを分かるように話してしまいます。それは、救いを求めるためであり、救われている人の道しるべになるからです。「私は信じた。それゆえに語った。」(13節)のであって、信仰者にとっては、何があっても万事益になるのです。そして、一度救われ、神の栄光を見た者は、神の栄光である神の国を求めて生きるようになるのです。

 ところが、ここで問題なのは、キリストと出会ってもいず、救われてもいない人が、自分をクリスチャンであると誤解している場合が多いということです。「教会に来ているから」「洗礼を受けたから」「クリスチャンになろうと思った」「聖書の教えを守っている」などというと、「あなたはクリスチャンではない」とは、人間的には言えず、裁きになってしまうからです。

 はっきり言います。あなたの魂が救われていなかったら、あなたは天国には行けません。魂が救われているということは、以下のことで確認できます。

・ 自分の魂が罪から救われ、神の子となったことを確信している。

・ 聖書を理解し、聖霊の導きを感じて生きることができる。

・ 自らの罪を常に自覚させ、清めへと動機づける。

・ 救われていない人々への同情と愛を持ち、違いを意識する。

・ 次第に変えられて、キリストの品性を持つようになる。

・ 信仰者としての悟りと成熟を持つ。

救いの確信がない場合には、自己の歩みや功績が神の前に無価値であることを認めて、神の前にぬかずき、魂の救いを心から求めなければなりません。それは、実は、救われた信仰者の日常にすることであり、それができず、形式的な自己義の確認をするような態度であるならば、救われていないことを証明するものとなります。神の真実や、艱難における神への信頼は、救いの証明となります。

救われている人にも、聖書や祈りの習慣の不足により、未成熟なことがあることはもちろんですが、内なる聖霊は、その穢れをいさめ、取り成し、清めへと導きます。ですから、聖霊は土の器の中に秘められた「宝」(7節)なのです。

信仰者にとって、必要なことは、もし、このような清めや平安のない人がいたら、それは思いをくらまされた「不信者」(4節)なのですから、その救いのために取り成しをすることなのです。そして、自らのうちになされた救いの御業、神の栄光を喜んで生きるならば、恵みがますます及んで、神の栄光が現われるでしょう。(15節)


1月21日 艱難は栄光をもたらす。 Uコリント4章717

新改訳 Uコリ4:7-17  4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

4:8
私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

4:9
迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

4:10
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

4:11
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

4:12
こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

4:13
「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

4:14
それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

4:15
すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。

4:16
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

4:17
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。


 インターネットで調べると、「艱難汝を玉にす。」は今では死語であり、現代は「苦難や忍苦の末に立身出世や人間としての成長があるという期待をもてなくなってしまいました」とありました。艱難などと調べても、キリスト教の説教に用いられるか、古典の詩などにあるくらいのものとなりました。聖書にある「患難」の意味は広辞苑では「うれい、心配、難儀」とあり、「艱難」は「苦しみ悩むこと、つらいこと、難儀」とありますが、実際には「艱」が常用漢字にないので、用いられたのでしょう。

 もはや現代日本で艱難などというものは、取り上げられないものなのでしょうか。このテーマでインターネットで調べると多くの説教があるのですが、どうも聖書の中の論理であって、現実にはなじまない言葉になっている印象を持ちます。そういう私自身も、さて、現代日本人に艱難というテーマで説教して、どこまで分かるかと不安を覚えて調べた次第です。

 山中鹿之介が「我に艱難辛苦を与えたまえ」と月に叫んだという話は有名ですが、現代人は、艱難など避けて、なるべく困難がないように生きようとするのは当然です。しかし、避けようとして避けることができないのが、艱難というのですから、艱難は現代人にもあるのです。

 ところが、昔は、避けられないのが艱難であって、その艱難に立ち向かって行けば強くなり、教訓も得、勝利をしていくのです。どうせ逃げられないのなら、立ち向かってゆこう、と言えば、覚悟を決めたものです。そして、そういう社会でした。戦争とはそのようなもので、戦国時代や世界大戦以前はそのようなもので、侍や特攻隊などは、そのようにして戦ったのでしょう。最近、時代劇が流行ってきており、男の勇気や覚悟が問われるテレビ番組が多くなったのは、甘くなった現代日本の人々に対する意識付けのような狙いを感じております。

 戦争もなく自然災害もなく、平和を謳歌する現代に、危機はないのでしょうか。聖書は、迫り来る大艱難を預言しております。「主の日は盗人のようにやってきます。」(Uペテロ3・10)。大地震は間違いなく来るでしょう。当教会では、具体的な地震に対する備えを更に強化しなければなりません。地震という艱難に備えて、教会が地域の人々を助けなければならないのです。今年は、壮年会を中心として地震対策室を作りたいと考えております。

 戦争も間違いなく起こるでしょう。日本はキリスト教国でないから、イスラム過激派のテロは起こらない、などと安易に考えてはいけません。北朝鮮も危ないし、アメリカは滅びるかもしれません。その時、世界秩序は一挙に崩壊し、世界は大規模な利権戦争になるのです。つまり、資源の枯渇は、国の利権や企業・権力者の利権を増大させ、争いを起こすのです。イラクともアメリカは戦争を起こすかもしれないし、スコットランドはイングランドから分かれるかもしれません。ロシアは、その資源を元に戦略戦争を始めるでしょう。中国は、その人口を抱えながら、もはや温厚に国際社会に立ち回れなくなります。

国内では、企業を支えてきた人々の大量退職により、品質管理や企業管理が立ち行かなくなり、多くの企業が問題処理の不手際によって倒産するでしょう。危機管理のできない無責任な若者が多くなり、精神病や神経症患者は一割を越すでしょう。医療は病気に対応できなくなり、社会福祉は高額なものとなります。

そうです。十年後の社会は暗黒です。教会は、そのもてる人材を動員して、その日に備えなければなりません。皆さんは、金を稼ぐためではなく、そのような社会で活躍できるように、資格や能力、そして勇気を身に付けてください。婦人たちは、介護やヘルパーができるようになると良いでしょう。高齢者や障害者を助けることこそ、終末における最も有効な伝道手段です。

今年の教会の標語は品格です。品格は、困難の中にあっても努力し、人を愛する者に形成される信仰者の結果であり、祝福されたしるしです。この時代にあって、安逸をむさぼってはなりません。努力を惜しんでなりません。あなたの仕事が、金銭のためだけであって、信仰者として働き甲斐のないものであるならば、仕事を代えることを考えるべきです。

私は、先日、自分のやっていることが理解され、苦労が慰められるかと思っていた人から、何を馬鹿なことをしているの、と非難されました。未信者の論理と考え方を改めて、思い知らされました。そして、世の中にあって馬鹿なことで、神の祝福によって功績を挙げることが大事であると考えたのです。

苦しみと犠牲の多い、馬鹿なことをあえてするのは、キリスト・イエスが私たちを救ってくださったからです。勇気を失ってはなりません(4・16)。私たちの能力がなくても、歳を取ってしまっても、聖霊に導かれて生きるならば、内なる人は、日々新たにされて、大きくなっていくのです(16節)。内なる人の成長こそ、品格なのです。


1月28日 からし種ほどの信仰。 マタイ1720

新改訳 マタ 17:20

17:20
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。


2月4日 神は忍耐しておられる。 ローマ書2章4節〜11節

ローマ24神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

2:5
ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

2:6
神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。

2:7
忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、

2:8
党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

2:9
患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、

2:10
栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。

2:11
神にはえこひいきなどはないからです。


 当初、「艱難が忍耐を生み出す」というローマ5・3の聖句をそのまま表題にしようと思いました。しかし、調べていくうちに、神の御性質が忍耐であり、罪人である人間は、艱難の中で悔い改め、自分を吟味していくうちに、神の御性質である忍耐を身に付けていくことが分かってきました。でも、その忍耐は、ただ黙ってこらえる、耐えるということではありません。ご自分の決めたことを果たすために、愛をもって人間を見守り、育てていく決意と実行力をもったものなのです。

 最近、クリニックでも精神疾患の患者さんと多く接するようになりました。教会も開拓から5年くらいは、そういう人や問題をもった人、他の教会から追い出された人が多く集いました。彼らは、異常行動も多く、普通の人は彼らがいると教会には来なくなりました。私としては、彼らを差別するつもりはないので、二者択一となり、残っている彼らに教え続けました。実際には、交流していて教えられるところが多く、後の牧会に教訓となりました。

 マイケル・レッサー博士は「統合失調症は低血糖症の海の上を漂っているものだ。」、「精神症状は病名ではなく、症状である。」と言われました。かねてから聖書の見地からそれを主張し、マリヤ・クリニックの低血糖症治療の根底に置いていた私どもの理念とも一致しました。しかし、その症状が複雑で、治療には困難を要することは事実です。博士は、「統合失調症の患者は、極めて頭脳優秀な人が多く、統合失調ではなく、統合が早すぎるのではないか」とも指摘されました。

一生懸命治療に当たっても、少し誤解があったり、その感情に触ると攻撃され、非難されることがあります。 現在、そのような興奮や短絡、或いは落ち込みの原因などをまとめており、3月には本になると思いますが、画期的なものだと思います。ともかく、その理由を付きとめても、このような人々に対応するときに、自分の人格が試されます。

 しかし、祈るとそのような行動を取る本人や家族の苦しさ、弱さ、絶望を思い見るように示されます。教会に来る人々でさえ、自己中心の人が多く、自分の生活を満足に送ることばかりを考えています。未信者で、精神の疾患における多くの障害を抱えた人が、勝手なことをし、批判的な行動をとっても当然です。人間の罪性というのは、そういう人々を非難し、批判し、差別して関わりあわないようにすること、そのものなのです。彼らを非難し、避けるならば、私自身が神に受け入れられない存在になるのです。

 人は罪深いものです。「ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。」(ローマ9・22)。私は、信仰をもって三十二年となりました。自分で言うのも変ですが、驚くほど性格が変わりました。優しくなり、忍耐深くなり、寛容になりました。自己中心で、自分の成功や満足のことばかり考えていました。今は、いつも人の罪を嘆き、とりなしをし、幸せを求めています。どうなっちゃたんだろうと思うほどに、変わりました。

 もし、神が私を罰していたならば、逆らうことができないような罪深さでした。そのような自らを思うと、とても人を責めることはできません。アブラハムとイサクは何をしても、神は共におられ祝福されました。それを周囲の人々は見ていました。(創世記21・22、26・28)。それは彼らが神の声に聞き従ったからです。

 多くの人が、自らの不従順、自己中心を正当化し、神の声に従っていません。実は、祝福の道というのは、神を信じるとか、献金をするとか、神が教えるというものではありません。ローマ書2章6〜11節を読んでください。忍耐をもって善を行うことが大事なのです。忍耐というのは、「もうだめだ」の先にあります。不従順を正当化している人に忍耐はありません。

 妻も私も、普通の人の3-4倍は働いてきたでしょう。体力の限界、気力の限界、忍耐の限界、そんな言い訳を考えることもできず、子供を育て、教会を守り、人々に福音を伝え、善を心がけてきました。そして、神を信じる以上、意地でも愚痴を言わず、弱音を吐かず、人と争わずに生きてきました。神はご存知です。

 自分を見てはいけません。自分を弱い、愚かだ、能力がない、などと言うのは、神に従っていないだけのことです。うまくいくかどうかは関係ありません。神に従い、善を行うかどうかだけなのです。9人兄弟の末子で、神経質、弱虫、運動がだめ、音楽だめ、成績だめで性格も悪かった自分を知っています。しかし、中学入学の時、天に向かって叫びました。「こんな生き方はしたくない。死ぬときに自分に恥じない人生を送っていたい。神がおられるなら、私を助けてください。」。

初めて聖書を読んだ時、「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(U歴代16・9)を読んで、神が私の叫びを聞いてくださり、私を助けてくださってきたことを悟りました。中学、高校、大学と私は、欲望に負けそうになり、自分勝手に気楽な生き方をしたくなったことが多くありました。しかし、あの12歳のときの叫びを私は忘れませんでした。成績は驚くほど良くなり、性格は全く強くなり、どこに行ってもリーダーになりました。スポーツも趣味も、社会に貢献するためにと、豊かに身に付ける努力をしました。立身出世という意識ではありませんでした。武者小路実篤の「天に通じる道」という言葉が感動するほど好きだったのです。

成功する必要はありません。強くなくても、立派でなくても良いのです。ただ、神の御言葉に従い、忍耐をもって善を行う信仰者であって欲しいと願います。私は、今、多くの祝福を得ています。しかし、それを己のものとし、言い訳をもって、弱者を助ける道を捨てるならば、御国への道を失うと考えております。あなたと共に、この道を歩もうではありませんか。


2月11日  桃栗3年、御霊の実は18年。 ガラテヤ51626

新改訳 ガラ 5:16-26

5:16
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

5:17
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

5:18
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

5:19
肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

5:20
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

5:21
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

5:22
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

5:23
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

5:24
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

5:25
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

5:26
互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。


 先週は、神が忍耐深いのであって、信仰の試練が自己中心の考え方を改めさせて神の御性質である忍耐をもたらすという話をしました。アブラハムもイサクもどこにいっても神が共におられ、祝福されたのですが、彼らは神に導かれるうちに忍耐深くなっていったからでした。

 昨日の夜テレビで、北極グマは夏の間殆ど何も食べない、と放映されていました。皇帝ペンギンの出産前後の数ヶ月に亘る断食を映した映画も感動的でした。「動物は皆、忍耐深い」と思いながら、何で神に似て創られたという人間は忍耐深くないのかと思い巡らせました。神に似ていながら、神と全く違うこと、それが罪であり、自己中心であるから我慢できないのだ、ということは言うまでもありません。

 この我慢できない、ということこそ罪深さであります。動物の子供は、遅くとも一、二年したら独り立ちします。人間は、二十歳で成人といいますが、実はその後が人間としての多くの過ちを犯す歳なのですから、親も大変です。

ヤコブは、最愛の子ヨセフが十七歳の時に、六歳くらい年長のルベンをはじめとする十人の兄たちから殺されそうになり、売られてしまうという苦しみを味わいます。ヨセフが三十二歳の時に、兄たちはエジプトでヨセフに試みられる時に、自らの罪とその咎を認めています。つまり、兄たちは三十三歳から三十八歳でやっと分別が付いてきたのです。これは私が創世記を通読しながら、確認した年齢です。聖書を読む時は、そのように調べながら読むのです。ところが、ヨセフは、十七歳で兄たちに殺されそうになり、エジプトに売られながら、却って神が共におられ、何をやっても祝福される人間になっております。

イエス様は、「主よ、主よ」と言って信仰深く歩んでいると自認している人々に対して、「わたしはあなた方を全然知らない。」と否定しています。つもり、信仰熱心や奇跡を行うこと、癒しを行うことなどは、神の国に入る基準ではないということです。神は自ら「恵もうと思う者を恵み、哀れもうと思う者を哀れむ。」(出エジプト33・19)とあるのです。

先日、ある人が私に取り成しを求めてきました。私は、その条件を言いましたが、その人は「そんなことはできない、私はこういう状態だから。」と言い訳を言い、条件をつける私を責めてきました。私は相手にせず、「取り成しをするのは、私の判断なのだから、私の条件に従わなければ、決してあなたの味方をしない。」と宣言しました。最近、自分の都合だけで判断し、周囲の人に言い訳をしながら、勝手に生きている人が多いように思えます。

牧師でも、会議にラフなシャツやジーパンで出席する人がいます。公式な会議に勝手な服を着てきたら、その人は既にそれだけで受け入れられません。自らが、社会のルールを受け入れていない服装をしているのですから、その人も社会からは受け入れられないのです。最な意見も自分の都合と見られるのです。

ヨセフは、親兄弟を愛していたのに、神に示された幻を言うだけで否定されました。しかし、ヨセフの真実さは、迫害された後に示されました。迫害の後、彼は何をしても祝福されたのです。悩んだり愚痴を言っている人に神の祝福はありません。

 「親や兄弟の愛がなかった、私は愛されて育たなかった。」という人がいます。私の親が良かったから忍耐深いのだ、すれていないのだ、という人がいます。でも、他の兄弟に言わせると父親は頑固でどうしようもなく、母親も愚かだった、となります。精神分析的思考が、性格や能力の悪い人々の言い訳にされています。

 私は、不誠実な人が嫌いです。傲慢な人も嫌いなほど、傲慢な牧師です。神も、ご自分の判断で人を選ぶ傲慢な神であると私は思います。でも、だからこそ、神の基準に合致するために、自分の言い訳は通じないことを知っています。神には服従するしかありません。

 神の国に入る基準は何でしょうか。「あなた方が良いとしている事柄によって、そしられないようにしなさい。なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と喜びだからです。」(ローマ14・16-17)。自分が良いと思っている基準など関係ないのです。神様によって義とされていることが必要で、神と交流していて、その喜びがなければならないのです。ヨセフは、牢獄にいても、そのような人だからこそ、神の国の祝福が流れたのです。

 そうなるためには、どうすればよいのでしょうか。やっと聖句にはいります。「御霊によって歩みなさい。」肉の欲望が自らのうちにあり、自らを支配しようとしていることに気が付かなければなりません。傲慢な人、頑なな人、心の揺れ動く人は、それを認めようとしません。そして、「自分は、すごいことをしたのだ」、「こんなに信仰が長いのだ。」などとして、悔い改めないのです。悔い改めるとは、自分ではなく、神に心を回す、ということを意味するのであって、反省ではありません。悔い改めないと、その人の人生は、十九〜二十一節のようになり、「神の国を相続することはありません。」

 私も教会員の皆さんのことを取り成しながら、見守っています。ですから、ヤコブの試練も他人事ではありません。御霊によって歩もうとしても、御霊の人になど、なかなかなるものではありません。決心してからでも十八年は掛かるでしょう(私の独断です)。「桃栗三年、柿八年、○○の馬鹿は十八年」と自分の名前を叫びながら、信仰者の品格が実ることを待ち望みましょう。そういう意味で、今年の標語は、一年では実現しません。しかし、種蒔かなければ、実りません。今、神に願い、聖霊に委ねて、試練を覚悟し、信仰者の品格が実るように願いましょう。

 一八年後の2025年に、お互い語り明かしましょう。主に従ってきた証しと恵みを。神が共におられて祝福されたことを。或いは、御国に行っていて、振り返っているかもしれませんね。でも、絶対、あなたもそこにいてくださいよ。


2月18日  愛の実が実るために。 ヨハネ15112

新改訳 ヨハ 15:1-12

15:1
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

15:2
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

15:3
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

15:4
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

15:5
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

15:6
だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

15:7
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

15:8
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

15:9
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

15:10
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

15:11
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

15:12
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

 庭に白梅と紅梅が咲きました。妻の好きな梅干が作れるように肥料もやりました。皆さんにも好評だったみかんは、改築の際の移植で枯れてしまったので、苗木を植えました。孫の名にちなんで梨も植えました。ところが、レビ記を読んだら、果樹を植えて三年は食べてはならない、とあり、四年目は自分のものとしてはならない、とありまして、びっくりし、正直がっかりしました。枇杷の木は、植えて三年目で今年初めて多くの実が付きました。でも、まだ幹は細く、大きくなった実を支えきれるか危ないところです。聖書に従って、この実を落とすことにしました。来年は、我が家では食べないで、教会に持参します。

 長年グミだと思っていた木が肥料をやったら実が付き、花梨だったことがわかりました。ともかく、グミから花梨はなりません。梅の木から蜜柑もなりません。今年の課題の品格について、先週、十八年越しに実らそうと語りましたが、その中でも主要な実の愛について今日はお話します。御霊の実は幾つもあるのか、と思うからもしれませんが、愛という実の多様な味わいが、ガラテヤ五章にある、喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制となると言われます。

 それでは、愛を実らすのは、愛の木でなくてはなりません。それが、信仰者なのだ、というのでは、ちょっと難しい気がします。イエス様は御自分が、まことのブドウの木であると言われました。そして、私たち信者は、枝です。ブドウの木の栽培法を調べました。

 土壌は、アルカリ性を好みます。当初の苗木は接木し、三年間は選定を繰り返して幹を太くしていくのだそうです。実は本年枝からなりますが、前年枝を切り取り、接木して、そこから今年の芽を出させると良いのだそうです。「枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じって接がれ、そしてオリーブの根の豊かな養分を共に受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」(ローマ11・17.18

 根を持った基の木はイエス様です。私たちは、接木された枝ですが、実をつけない枝は、実が大きくなる前に刈り取られてしまうのです。そして、幹から養分を充分に取り込んで多くの実を実らす枝が選ばれるのです。多くの実を結ぶことが農夫である父なる神を喜ばせるのです。これは、イエス様が言われた言葉です。実際には、怠惰な者には怖い話ですが、イエス様はタラントの例え(マタイ25・14-30)でも、働こうとしない役に立たない僕を外の暗闇に追い出すということを語っておられます。

 七節に「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」とあります。実を実らすのは、枝が幹から養分を得たら、それで実が実るのですが、同様に、私たちの力で、実りを得るのではないのです。

「私の愛の中に留まりなさい。」(9節)とあるように、現実社会の冷たさ、虚しさ、苦しさの中で、神の愛を信じられなくなってしまうのです。そして、神の戒めを破ってしまうのです。「戒めを守るなら、イエス様の愛の中に留まっているのです。」(10)。さて、戒めというと、なかなか厳しい訓戒や定めを考えるのですが、「イエス様があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあうこと、これがイエス様の戒めです。」(12節)。とあるのです。

 最近は、本の原稿書きや仕事が忙しいので、妻もよく失敗をします。そして、私が「しないでくれ」と言っておいたことをしばしば破ります。ところが、結婚27年というのは、すごいもので、殆ど気にならなくなりました。「まあ、あなたがこんなだから、私が必要なんだものな。」などと言えます。実は、私自身の落ち度にも、気がつく年齢になっているからでしょう。そんなわけで、私の意識としては初めて妻にバレンタインのチョコレートをもらいました。息子に話したら、「お袋がチョコレート!」と驚いていました。決してそんなことを思いつく妻ではなかったからです。

 「互いに愛しあう。」というのは、なかなか難しいものです。愛すると、相手にその見返りを要求するからで、相手はそれに気がつきません。愛されても、それに応じるということは、忙しくしているとできないものです。神の愛に気がついて、それに応じる人は、もっと少ないでしょう。神は、見返りを要求しないからです。

 父となったことは、私の人生にとって、最も幸いなことの一つでした。子供を愛するのは、私の喜びです。多くの人が子供の成長に応じて、見返りを要求してしまいます。そして、無代価な愛を親に要求する子供から、反抗を食らうのです。

 精神疾患になった人々に共通することは、親の愛を受けなかった、ということです。親の愛を受けなかった、という人は、父なる神の愛を受けて欲しいと願います。私は、父として、夫として、牧師として、更に社会人として、自分の働きと努力の報いを受けないように務めて、神の愛の大きさと豊かさに気がつくようになりました。人を愛さなければ、神の愛は分からないものです。代価を要求する愛では、神の愛は分からないものです。

 神の愛を実行しようとするためには、自分の愛や努力の報いを期待しないで、相手を愛し続けるべきです。そして、その人が、愛されていることに気がつくならば、なんと幸いでしょう。愛して相手が変わるように求めてはいけません。愛して、愛されていることに気がついてもらえれば、それでよいのです。

 神を愛し、人を愛するのは、神の命令です。その命令を守る者に、神は多くの祝福と実りをもたらすのは間違いありません。私は、神に愛されています。あなたは、それに気がついているでしょうか。


2月25日 いつも喜びなさい。 ピリピ4章414

新改訳 ピリピ4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

4:5
あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。  4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

4:7
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

4:8
最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。

4:9
あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

4:10
私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。

4:11
乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

4:12
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

4:13
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。  4:14 それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。

 マリヤ・クリニックニュースで、クリニックや院長の忙しい状況、そして精神疾患の患者さんが興奮して強引な診察を要求したり、電話で院長にどなったりするので、非常に疲れていることを知らせました。すると、数人の方に慰めのメールや手紙を受けて、うれしく思いました。

 現代は、過激で急激な社会です。食事も、おいしく早く安くということで、促成栽培やインスタントな料理、そして冷凍食品が用いられます。身体は、悲鳴を上げることもできず、合理化された生活の犠牲となって、ついに異常をきたします。実は、身体よりも精神のほうがデリケートなのに、身体の病気は堂々と治療をするのに、精神の病気は後ろめたいものがあります。

 先日、献身的なクリスチャンが自分の不眠を恥じていました。「平安がないから眠れないのだ、信仰が足りない。」と言うので、対応方法と労わり方を教えたら、すっかり喜んでいました。健全なる精神は健全なる身体に宿る、と考えたとしたら、聖書信仰者としては明らかに間違いですが、実は、そのようなことに囚われ悩んでいる人も多いのです。健康でない者、精神的に健全でない者は、厄介者だと考えているのです。こういう人は、自分が老いたり、病んだり、悩んだり、苦しんだら、恥じ入るのでしょうか。

 確かに、神は全ての面での祝福を語っておられます。しかし、実際に罪を犯さなかったのは、イエス様だけです。私がそもそも、聖書は神の言葉であると受け入れたのは、赤裸々に人の内面と葛藤を記しているからです。ところが、多くの人が、聖書の人物の良いところだけを読んで、そのようになりたいと願うのです。良いものばかりを神に願うのです。そして、罪を犯したり、失敗した人々を見て、あのようになるな、と非難、批判しながら聖書を読むのです。そのように説教する牧師も多いし、殆どかもしれません。ところが、イエス様は自分でできないことを強いる宗教指導者たちに対して「災いだ、偽善の律法学者。・・・お前たちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。」(マタイ23・27.28)と糾弾しています。

 妻が書いている精神疾患の治療の本は、内科的にすごい内容ですから、私もまとめながら、これは評判になるという感触を持っています。ところが、調子に乗って、精神的な症状を内科的な分析ではなく、行動の指導で書いているところがあります。「怒りたくなった人は、怒らないで静かにしてみてください。」とあるから、私は「あなたはおかしい、そんなことができる人は、精神疾患どころか、普通の人でも稀だ。自分でそういうことができると思っているのが、あなた自身の癒されていないところだ。」と指摘しました。

 実は、「信仰者とは、何も悪いことを考えないで、怒ることも悩むこともしないで、罪を犯すことなく歩むべきだ。」と考えている人が多いのです。馬鹿なことを言ってはいけない(失礼)。そんなことができたら、神も教会も牧師もいらない。できないから、神が必要であり、聖霊なる神の助けが必要なのです。

「何も思い煩わないで」とは、思い煩うことは一杯あるけれど思い煩うことを止めて、感謝をすることを選びなさい、という生活上のアドバイスです。しかし、これを未信者に妻がいうから、わかっていない、と指摘するのです。自分だって、信仰33年の結果、やっとそれを身に付けようと悟ったということです。私から見たら、まだ身に付けてはいません。私でさえ、思い煩いの思いは襲ってきます。しかし、聖霊に満たされると、思い煩いは瞬時に消えます。

 つまり、思い煩いの結果何も良いことは起こらず、それは時間の無駄であると悟るのは、聖霊に満たされた時なのです。聖霊に満たされ、導かれなければ、思い煩いの中におり、それは多くなるばかりで、その奴隷になるのです。

 だから、祈りの習慣を身に付けなければならないのです。そして、願い事を人に語ったり、要求するのを止めて、神に願うのです。覚えておいてください。人に要求し願う人は、神には願っていないのです。真に神に願う人は、それがかなえられたと確信するのです(Tヨハネ5・14)。だから、思い煩うことがなくなるのです。そして、喜ばずにはいられないのです。

 聖霊に満たされたら、思い煩いはなくなり、喜びに満ち溢れるのです。聖霊に満たされることは必要条件なのです。しかし、思い煩いがなくなり、喜びに満ち溢れることを実行することは、聖霊なる神なしでは無理なのです。このことに多くの信仰者が気がつかないで、虚しい努力をしているのです。

 聖霊にさえ満たされたら、貧しさも豊かさも、飽くことも飢えることも、富むことも乏しいことも、「あらゆる境遇に対処する」ことができるのです。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(13節)。ところが、信仰者を含めて殆どの人が、自分の力によって、それを達成しようとするのです。そして、それができると考えているのです。愚かなことです。

 或いは、祈りを自分の願いを達成しようとする手段にしているのです。「祈ったら、聖霊に満たされる。」そんな自分勝手な考え方で神を利用しようとする人が、聖霊に満たされるわけがありません。

 なぜ、思い煩うのでしょうか。自分の思い通りにことを動かそうとするからです。神に身を委ねた人に思い煩いはないのです。それが聖霊に満たされた証拠です。

 ところがこう言うと、「私は神に委ねたから思い煩いはない。」と無責任な人が自分勝手に生きながら言うのです。先週、愛という実の、味わいの一つが喜びであると語りました。愛があるなら、思い煩いは起こって当然です。その思い煩いをいちいち、神に委ねるのが御霊に満たされるということなのです。そして、思い煩うような心配が、神にあって解決されると信じられるからこそ、喜びとなるのです。

 あなたの思い煩いを神は聞いてくださいます。それを喜びに代えましょう。


3月4日 平安があるように。 ヨハネ201929

ヨハネ20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

20:20
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

20:21
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

20:22
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

20:23
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

20:24
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。

20:25
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

20:26
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。

20:27
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

20:28
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

20:29
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」


 「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」という挨拶は、新約聖書の書簡二十二のうち、ないのはヤコブ書とヘブル書とTヨハネだけであるというほど、共通の挨拶です。今でも「シャローム」というのは、普通に使われる挨拶ですが、書簡の場合は、信仰者として最も大事なものとしての強調があると思われます。

 平安がある、ことの反対は不安ですが、心に恐れや不安を持っている人が殆どでしょう。それでは、どのような不安が人生にはあるのでしょうか。

@ 健康や能力など自分に関する不安。

  健康に関する不安は、病気や障害を持ったら満足に生きることができないという生活不安から来るのでしょう。社会生活・保障の向上が、その不安をなくすかと思わせていた欺瞞は、今や暴かれて将来不安は老若共に募る一方です。その不安は、蓄財によって解消されると思っているとしたら、それもサタンの欺瞞に欺かれているのです。

A 家族や友人との交流に関する不安。

 人間は、生命が守られるとしても一人では生きていけません。交流や愛を必要とするのです。聖書には、妻は夫を恋慕うが、罪によって報われないことになる、と指摘しています。自分の愛が満たされないという不安をもっているのです。

B 会社や組織、国などによる迫害への不安。

 歴史は、暴力がはびこり、国家も争いを繰り返してきたことを明らかにしています。平和を願うが故に、相手を信じられず攻撃することもあります。

C 自然災害や事故による災難の不安。

 人生なにが起こるかわかりません。家の中に篭っても、外に出ても、落ちてくるものに注意して、落ちてしまうこともあります。

D 人生の意味と死後への不安。

  いくら一生懸命生きても、それに意味がないのなら虚しいものです。死後は、この世の歩み方が問われるものなのでしょうか。死後のことは考えない、で済むのでしょうか。道を間違ったら、いくら一生懸命生きても全く別な場所に着きます。そのことを考えたことはあるのでしょうか。

 イエス様は、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14・27)と言われました。イエス様の平安とはどんなものでしょう。イエス様は、神の子であり、神の国と永遠のいのちを知っておられます。父なる神が全知全能であり、いつもイエス様を守り助けてくださることを知っておられます。

イエス様のそのような平安を与えられたら、わたしたちはもはや、恐れるものは何もありません。不安の材料はないので、不安は作られないのです。

 神の子、イエス様が共におられるので絶対安心だと思っていた弟子たちでしたが、そのイエス様が十字架に掛かって死んでしまいました。彼らは、敵を恐れ、自分に危害が加えられるのを恐れ、今後の歩みの先行きが立たないのに恐れ、これまでの生き方の意義を問われたのです。そして、「ユダヤ人を恐れて、戸を閉めて」いたのです。弟子同士でさえ、疑いあうようになってしまったのです。

 そんなところに、イエス様が現れました。「平安があるように。」。でも、弟子たちには平安がなかったのです。言われて、責められるように感じたかもしれません。

 更に言われました。「聖霊を受けなさい。」

 平安は挨拶ではありません。悟りでも、能力でもありません。人間は、自分の力で平安を持つことはできないのです。金で平安を持つ人は、金に裏切られるでしょう。健康に自信があった人は、病気や老いの現実の前に、おびえる以外にありません。平安は、神からいただく以外にないのです。

 愛には対象が必要です。その対象からの応答を求めます。愛する人を探し求めることは人間の本能なのです。平安もまた、根拠が必要です。勝手に一人だけで平安を持つことはできないのです。平安を与えてくださる神がいなくては、平安は得られないのです。愛を与えてくださる神がいなければ、人は愛することができないのと同じです。

 自分で作った虚構の平安に従って生きてはいけません。

 私は、平安を持っている人と、持っていない人を直ぐに見分けることができます。なぜなら、私は自ら主の平安を持っているからです。神を真に信じていない人は、この平安はありません。そして、上述のように恐れと不安の中に生きるのです。自分の現実を確認してください。人の目を恐れてはなりません。神の目を恐れ、神の前に悔い改めて、神を信じてください。

 トマスもまた、信じることに遅い人物でした。しかし、イエス様によって、イエス様を神の子と信じるものとなり、平安を与えられ、最も試練と戦いの多い、人生を歩み始めたのでした。皆さんのうちにも恵みと平安がありますように。

3月11日  寛容でいられるのか? ローマ2章1〜19

ロマ2:1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。
2:2
私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。

2:3
そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。

2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

2:5
ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

2:6
神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。  2:7 忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、

2:8
党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

2:9
患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、  2:10 栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。  2:11 神にはえこひいきなどはないからです。

2:12
律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。  2:13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。

2:14
――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。

2:15
彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ―

2:16
私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。



 表題に掲げたように、私は自分が寛容かと問うと、そうでもないと思います。でも、昔に比べたら、すごく寛容になりましたから、「このままでは大変な御霊の人になってしまう。」などと妻に冗談に言っています。内心、妻も私に対して、寛容の限りを尽くして、それを聞いているのかもしれません。それは、夫婦の間では、寛容が最も大事な要素であると思っているからです。仲の良い夫婦は、必ず互いに対して寛容を身に付けています。なぜなら、男性の要素を女性は持たず、女性の要素を男性は持っていないので、互いの要求を繰り返したら、仲良くいられるはずがないからです。

 「愛は盲目」とは聖書の言葉ではありません。でも結婚する前の恋愛期間中は、殆ど盲目ですが、結婚すると相手の粗が見えてきます。そこで、教会では前もって、聖書を語っておきます。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、・・・・すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(Tコリント13・4.5.7

 結婚して27年になりますが、15年くらいは妻を変えようとしていました。論理的には、私の方が勝りますから妻は私に従うしかありません。でも実際には、私の思うとおりになどなれるはずがありません。私は、神に従う道は、これなんだと自分でも確信し、自らも理想の献身者・牧師像に向かっていました。これは、子供にも向けられていました。子供にとってはえらい迷惑です。

 辞典によれば、「寛容が問題になるのは、宗教が本質的に、不寛容な性格をもっていることによる。ある宗教を信仰している人間は、自分の信仰している神を絶対の存在と考え、その教えをかけがえのない真理と考える。そのため、自分たちの信仰を世界全体に広めることを神によってあたえられた使命と考え、積極的な布教活動を展開する。そして、教えをうけいれない人間に対しては、神にそむく者として、迫害や弾圧をくわえようとするのである。」(エンカルタ)そして、唯一神教は不寛容であり、多神教は寛容であると説明しますが、多神教であっても、日本社会は欧米に比べて異質性に対して不寛容であると私は思います。

 要するに、ある価値観を強く持つと、どうしても不寛容になるのです。そして、人間は本質的に罪人、つまり自己中心であり、自分の価値観中心に判断するのですから、不寛容で当たり前なのです。ところが、聖書は唯一神教でありながら、寛容を教えるのです。ここで今日の聖句から聖書の論理を教えましょう。

@ 不寛容であり、他人を裁く人は、裁きの基準を持っているからである。1節

A 自らの裁きの基準で、自分を裁かれたら、間違いなく有罪である。2節

B 全知の神は、私たちの罪を全て知っておられ、有罪を逃れられない。3節

C 神は、私たちを罪に定めようするのではなく、悔い改めを待っている。4節

D 神は判決を下すのを猶予し、仮釈放して、私たちが赦免となるだけの善行を積むのを待っている。6,7節

E その仮釈放の時に却って罪を犯し、逃げおおせると思っている。5節。

F 法律を知らなかった、神の忠告を聞いていなかった、と弁解をしても、既に神は人の心に神の法を記している。それが良心である。12〜15節。

G 全ての人は、神の裁きに遭う。

神の寛容とは、人の罪や悪さを知っていても、じっと悔い改めることを待って、忍耐するということです。そうすると、人が人に持つ寛容とは、相手の罪や弱さを黙認して構わないでいることではありません。自分からは、決して相手の弱さや罪深さを攻撃せず、「慈愛と忍耐と寛容をもって」(4節)相手が反省するのを見守ることなのです。自らは、正しいことを行い、相手に愛情を持って接し、その人が「忍耐を持って善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める」(7節)ようになることを期待しているのです。

昔は、家族や教会員に自分の思い通りになることを期待し、語り、また祈ってもいました。今は、皆さんが神の思いを充分に知るようになることを願いながら、皆さんの幸せと祝福のために、自分を注いで生きようとしています。私にできることは、家族の幸せのために自分を献げることです。教会員の幸いのために祈ることです。それ以上のことは、何もできないのです。

人を変えようとしてはいけません。自分の思い通りにしようとすれば、イライラもあせりも敵意さえも起きてしまいます。寛容とは、自分にできないことに気が付くことかもしれません。

「キリスト教徒になれば、宗教的不寛容になる」と辞典は説明します。でも、神の御霊に満たされるならば、自分の思い通りにならない異教徒を愛し、受け入れ、祝福することができるのです。

あなたの人に対する期待は、この世のものです。「愛しているから、厳しくする」とか、「大事だから、干渉する」とは、パウロの熱心とは、次元を異にしております。多くの信仰者が、自分に都合よくなるようにと、自分の宗教を勧誘しております。福音を伝えるのは、すばらしいことです。しかし、自分の都合どおりにならなくなってからこそ、真実が問われます。そして、その先に寛容があるのです。寛容とは、その意味でも、あなたの信仰の真実の証拠でもあります。


3月18日 神の民のコンプライアンス  申命記11章3212章1節

申命記11:31 あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに与えようとしておられる地にはいって、それを所有しようとしている。あなたがたがそこを所有し、そこに住みつくとき、

11:32
私がきょう、あなたがたの前に与えるすべてのおきてと定めを守り行なわなければならない。

12:1
これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。


3月25日 親切な言葉と行ない  Uコリント6章1〜13

新改訳 Uコリ6:1-13

6:1
私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。

6:2
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

6:3
私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、

6:4
あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、

6:5
また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、

6:6
また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、

6:7
真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、

6:8
また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、

6:9
人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、

6:10
悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

6:11
コリントの人たち。私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。私たちの心は広く開かれています。

6:12
あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。

6:13
私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。

 今年の教会のテーマであるキリスト者の品格を強調するために、御霊の実の説明を続けていますが、実を実らすための花は咲いたでしょうか。花が咲き、受粉をすることが必要ですが、それは人が心を開き、聖霊の扱いを受けたようなものかもしれません。我が家の梅は、花の跡に実が付き始めたたものが幾つも見られるようになりました。ジョイのおしっこですっかり樹勢が衰えてしまった梅も、あわてて撒いた生石灰と牛糞のおかげで、やっと今、花を咲かせ始めました。そして、木の芽が出始め、実を実らすための栄養を確保し始めるのでしょう。

 親切とは、「弱い立場にある人や困った目にあっている人の身になって、何かをしてやったりやさしく応対したり すること。また、その態度。」と辞書にはありますが、そういう面では自らに力がなければなりません。実際に力や能力があっても、その人が親切であるとは限りませんが、自らのことに囚われていたり、自分が弱いと思っていたり、劣等感をもっていたら、親切は難しいのかもしれません。

 「キリスト教は宗教ではなくて、真理だ。」と言った人がいますが、私はキリスト教が宗教的な側面を忘れ、自らの生きる原則だけを教えるものだと思ってしまうと、却って、イエス様の大事な教えを怠ってしまうと考えています。

 「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」(ヤコブ1・26)と聖書にあるように、弱者を助け守ることが、神の喜ばれることであり、この地上での信仰者の使命です。イエス様も弱者を守るべきことを多くの箇所で語っておられます。(マタイ25・35-36)。

 しかし、この豊かな日本では、人を助けることも吟味しないと、却って怠けることを助長してしまうこともあります。聖書は、怠ける者や怠惰なことを厳しく戒めています。また、どんな理由があれ、家族を批判したり、放棄した人を受け入れていません。つまり、悔い改める機会を損なってしまうような親切は、聖書的ではないのです。

 日本における大きな社会問題が家族の崩壊かと思います。そして、親子関係の不適切が多くの場合あります。そこでは、親切とおせっかいの違いが理解されていません。辞書の定義に、「その人の身になって」とありましたが、親子関係がうまくいっていないのは、殆ど親の勝手な干渉であり、「子供のためだから」「これは良いことだから押し付けるのもしょうがない。」などと考えているのです。

 先日も、精神病の発作が出ている青年に対して、親が強引に嫌がることを押し付けていて、状態が悪くなってしまうのに直面しました。また、「子供は私の言うことを聞いてくれない。」と不満や愚痴をこぼす親にしばしば会います。

 基本的には、コミュニケーション不足です。礼拝後のコミュニケーション講座には必ず参加してください。なぜ、日本人は交流ができないのかと思います。話をしているのを横で聞いていると、全く話がかち合わないのに、続けているのに出会います。話の主導権を取ろうと競っているのです。親子でも同じです。会話とは、話すことではなく、聞くことです。祈りも同様ですが、クリスチャンでありながら、一方的に話をする人が多いのには驚きです。

 聖句に入りましょう。12節に、「自分の心で自分を窮屈にしている。」とあります。その前には、人の評価の良し悪しを気にせず、神のしもべとして歩むこと、人をだますように見えても、死にそうでも、罰せられそうでも、悲しんでいるようでも、貧しいようでも、ともかく、パウロたちの「心は大きく開かれて」いることを諭しています。自分が、どのように思われるかなどと気にしてはいけません。

自分勝手な人々は、自分が良く思われるために親切にします。自分が必要とされ、頼られることに喜びを見出します。しかし、自分が中心にならず、ありがたがられないと、熱が冷えてしまいます。会話の中心であろうとする人々も同様です。「神のしもべ」であるかどうかは、好評を博さず、効果が出ず、目立たず、苦労があることで、真実が現れます。(8節)。

家族に対して親切でない人の親切は偽りです。なぜなら、家族はあなたを必要とするからです。私は、家族の為に労力の半分を費やしていると思っています。私がすごく忙しい人間であることは、皆さんもご存知でしょうが、私は、家族のために自分を献げることによって、人間としての力が湧いてくるのです。そして、神の祝福を受けるのです。家族を犠牲にして、神や人のために仕え、親切にするなどということは、偽善であり、売名行為です。

「私たちは、神と共に働く者」であり、恵みの中に歩むべき者なのです。パウロは、確かに「非常な忍耐と悩みと苦しみと嘆き」(4節)がありました。しかし、それでも「制約を受け」ず、心を窮屈にせず、心を広くして、結果や状況に左右されないで、神の恵みによって生きたのです。

私は、その日にあった人のことを思い起こします。自分とかかわりのある人、或いは通りがかりの人でも、いつも注目しています。自分の能力や持っているものに囚われずに、何をなすべきか、神に問います。問わなくても、助けたいと思ったら助けます。そして、恵みの神は、その私に、助けたものの何倍もの祝福を注いでくださいます。つまり、自分が神の祝福する管になれば、良いのです。

私たちは、多くの人を祝福し、助け、親切にしましょう。もし、その相手があなたの祝福を受けなかったら、あなたがその祝福を受けることになります。