10月1日 天使はクリスチャンを守っている。 ヘブル書1章514

ヘブル1:5 神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」

1:6
さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」

1:7
また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、

1:8
御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。

1:9
あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」

1:10
またこう言われます。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。

1:11
これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。

1:12
あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」

1:13
神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」

1:14
御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。


 天使はどのような働きをするのでしょうか。最初に記されたのは、アブラハムの時で、まさに主の使いであって、神を認識しないけれども重要な役割を持った人間に、神の思いを伝えたり、導いたりする役割を果たしています(創世記16章・ハガル、19章・ロト、22章・アブラハムにモリヤの山で)。

 アブラハムは、自分の僕をイサクの嫁探しに行かせる時に、「主は御使いをあなたの前に遣わされる。」と教え、既に信仰者には神が天使をつけていることに気がついている(24・7)。ヤコブは、夢の中で神の使いが天と地を往復していることを示される(28・12)。ヤコブは、自分に神の使いがついていることを何度も経験してる(31・12,13、32・1、48・16)。

 出エジプトの時には、イスラエルの民を守るべく雲の柱に見えるほどの無数の御使いが現れたことが記されている(14・19)。「見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。」(23・20.21)。モーセには、いつも主の使いがついていたことも記されています(32・34)。

 主の使いは、信仰者の敵に警告するために働いていることも記されています(民数22・22)。見えない神の指示にがわからない人々を神が特別に用いる時にも天使は現れています(士師記6・20、13・3)。天使は、自分が礼拝や接待の対象にならないように教え、主に献げるべきことも記している(13・16)。エリヤが心身共に疲れ果てている時に食事と水を用意して励ましたのも天使でした(列王T19・5)。

 天使は完全ではなく、誤りもあると記される(ヨブ4・18)。

「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」(詩篇34・7)

「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」(詩篇91・1)。

ダニエルがライオンの穴に投げ込まれた時に守ったのは天使でした(ダニ6・22)。ダニエル書には、神の言葉を伝えるための天使ガブリエル
9・21)とイスラエルという国を守る大天使ミカエルの名が記されています(10・21、12・1)。

ゼカリヤ書には、天使が世界を巡回していることも記され(1・11)、天使が神に質問しているところも記しています(1・12)。

新約に入ると、マリヤに伝達天使ガブリエルが受胎告知をしていますし(ルカ1・19)、ヨセフにも、ザカリヤにも現れています。

イエス様は、世の終わりに天使が「正しい者の中から悪い者を選り分けると指摘します(マタイ13・41,49)。

 神を信じている信仰者がたとえ人の目には小さい者であっても、彼らには天使がついており、父なる神の指示に従って、その信仰者にとって害となるものから守っているので、彼らを軽んじてはならない、とイエス様は語ります(マタイ18・10)。

 天使には性別はありません(マタイ22・30)。イエス様の復活の時に墓石を動かしたのは天使です(マタイ28・2)。究極的に人を信仰者かどうか判断するのは、イエス様であって、御使いはイエス様の指示に従って、その人につくことになるのでしょうか(ルカ12・9)。

 牢獄に入れられていたペテロを助け出したのも天使です(使徒5・1912・7)。

 さて、「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。」(コロサイ2・18,19)とあるように、天使の働きが著しいと天使を礼拝したりする者が起こります。実は、今日のテキストは、このような異端がはびこり始めたので、イエス様は、神の御子であって、天使はイエス様に仕えているだけなので、幻を見たり、超自然現象が起こっても、天使を礼拝してはいけない、という教えなのです。

 その後にあまり具体的に天使の働きが目に見えるように起こっていないのも、この天使礼拝の間違いの故かもしれません。ともかく、信仰というものは、奇跡を起こしたとか、幻を見たとか、超自然の体験をしたとか、そういうものに囚われてはならないのです。神の御心に中に歩むためには、神のみことばを受け留め、聖霊に導かれて生きることが肝要で、そのような忠実かつ敬虔な信者には、確かに天使がついて守ってくれているのです。

 それは、その人が神の僕として神の業をしているからであって、自分の関心の中で気ままに生きて、何も神の業をしようとしていない人に、神が天使を送って守るべき理由はないのです。戦国時代にも、武将は大事な人には守護の兵をつけました。また勇敢な武将は、多くの責任があるので、多くの優秀な部下がつきました。

 信仰生活というのは、なにもしないで安逸をむさぼるものではありません。エペソ書には、信仰者は血肉のものとではなく、悪霊と戦うのであると記されています。戦いに勝つためには、しっかりと武具をつけていなければなりません。そして、そのようなものには確かに天使がついて守ってくれているのです。


10月8日 押し流されないように。 ヘブル書214

新改訳 ヘブ 2:1-4

2:1
ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。

2:2
もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、

2:3
私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、

2:4
そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。


 新しい首相も国会答弁では批判にさらされ、たじたじのようです。これまでは脇役で好きなように言えましたが、責任者となるとつじつまが合わなければなりません。 国家の将来が、その判断に掛かるのですから、全体を見渡した上で、適切な指導性を表さなければなりません。

子供の非行や問題行動が起こるのは、対応する親が首尾一貫していない場合に多いように思われます。どういうわけか、その母親は優しくて子供の要求に応じてしまうようです。親が勝手気儘でも、首尾一貫していて子供にも自由に許している場合には、それほど問題になっていないと思います。

農耕社会で集団の和と協力が重要であった日本では、変わったことをせず、こつこつと同じことを忠実に行い、人に迷惑を掛けないことが最も大事であるとされてきました。失敗に対するけん責も、あり得ないほど重大で、簡単に切腹・辞職などがあったわけです。

最近は飲酒運転に対するペナルティーが異常で、即解雇となっています。私は、飲酒運転はそれ自体の罪を重くするべきで、仕事の解雇や上司の責任などは論外であると思います。つまり、重大な事件が起こり、社会で問題であると認知されると、急にその組織が非難されるので、組織防衛がおこるのです。それらは、全て個人の問題であって、個人が罰せられれば、それ以上の会社や家族への攻撃はするべきではないのです。

ですから、子供が問題を起こすと、その家族が社会から攻撃されるので、自己防衛の為に子供に対処するのです。親としての自覚、責任をもっての対応や行動ではなくて、子供の非行によって世間に迷惑を掛けて自分たちが非難されるのを恐れる親が多いのです。

そういうわけで、日本のクリスチャンの理想も、「人々に尊敬される立派な人になる」、というのが多いのです。つまり、自分の信念ではなく、人々にどう映るかが関心なのです。そして、人々に自分が覚えられているか、自分が何をしたか、ということに注目しています。ですから、彼らは、歳をとると自慢話か苦労話しかできず、相手に関心をもって会話を進めることができないのです。(1テモテ4・7

聖書の教えで大事なことは、自らを形成することです。福音を信じて歩むことです。そこには、失敗も成功もあるでしょうし、試練や喜びもあるでしょう。その苦労や成功に重点を置いてはいけません。苦労話など、天国に持っていけるものではありません。その体験から、あなたが清められ、作り変えられて神の器になっていくことが大事なのです。

モーセがシナイ山から十戒が彫られた石の板を持って降りてきた時、モーセの顔は光り輝いていました(出エジプト34・29)。それは、神と会い、話をしたからです。しかし、それは戒めであり、それに従わなければ、罰を与えるという死の務めをモーセはしたのです。その戒めは、結局は果たされることなく、実際には違反を宣告するだけのものでした。(Uコリント3・6

 然るに、イエス様が伝えたのは、「生ける髪の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたもので」(Uコリント3・3)、それは人を戒め裁くのではなく、人を許し、いのちを与える御霊の務めでした。そして、それは、私たち信者が「キリストの手紙」(3・2)になるのであって、そのように弟子たちを栄光の状態にすることが、パウロの推薦状なのでした(3・1)。

 それでは、どうして信者が栄光に輝かないのでしょう。それは、律法を見つめているからです。彼らは、日常生活に追われていて、日常生活に対する方針を決めていないのです。まるで、国会対策に追われる新首相のようです。まるで、神を知らない人のように生きているのです。

 人生の諸問題を、罪ある未熟な私たち人間が、全てうまく対処できるはずがありません。うまく対処しようとすること自体が、神なき人、不信者の論理なのです。彼らは、そのようにして自分の失敗に嘆き、苦しみ、そして責任転嫁の為に人を批判するのです。

私は多くのクリスチャンが、全く同じ行動をしていることを知っています。彼らは、問題が起こると自分の力で問題を解決しようと画策します。人をなだめ、理解しようとします。人々の感情や考えをまとめようとします。まるで、自分が全能の神になったとでも思っているのでしょうか。神を信じ知っているからといって、何でもできると思っているのでしょうか。

これらは、この世の論理であり、結局は徒労に終わり、自らと周囲を破滅させていきます。私たちは、神を信頼するクリスチャンとして、私を助け見守り、いのちを与えてくださる聖霊に委ねて生きなければなりません。完全や完璧を自他に期待するのは、死の務めであり、人を赦し、自他の弱さを許容して聖霊に委ねるのは、いのちの生き方です。「主の御霊のあるところには、自由があります。」(Uコリント3・17)。

私たちは、赦され、助けられ、救われた者として、人生を全うしていくべきです。苦しめられ、途方にくれ、迫害され、倒されることがあるかもしれません(Uコリント4・8.9)。でも、いのちの御霊はあなたを決して離れることはありません。大事なことは、人生を自分の力で解決しようとしないことです。祝福を祈ります。


10月15日 救われた人を栄光に導く。 ヘブル書2510

新改訳 ヘブ 2:5-10

2:5
神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。

2:6
むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。

2:7
あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、

2:8
万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。

2:9
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

2:10
神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。



 5節に、「後の世を御使いたちに従わせることはなさらなかった」とありますが、それでは、この世はだれが支配しているのでしょうか。イエス様は、「この世を支配するものが来る」(ヨハネ14・30)と御自分が捕らえられる前に言っています。

申命記328節は、ある訳によると後半は「神の御使いたちの数に従って民の境を定められた」とありますが、ダニエル書を見ると「ペルシャの君、ギリシャの君」(10・13.20)、イスラエルを守る大いなる君、ミカエル」(12・1)という言葉があります。つまり、地の境には、それぞれ固有の御使いが付いているけれども、またサタンの僕である悪霊も支配系統をもって、その領地をもっていると理解できます。こういう解説は、福音派の牧師は嫌い、過激なカリスマ派の牧師は夢中になりますが、節度をもって理解し、対応することが大事でしょう。

確かに、神ならぬサタンはその情報収集は限定的であり、地域的な支配系統を作って、人々を支配させているようです。エペソ書には、「全ての支配、権威、権力、主権の上に(キリストを)置かれ」(1・21)、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」(2・2)、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(6・12)とあります。

 天地を造られた神は、なんと人の堕落以来、絶対的に支配権を行使せず、サタンの支配下に人が歩むことを是認されているのです。しかし、同時に、女から生まれたイエス・キリストがサタンを打ち破ることを宣言してもいます。ですから、創世記三章15節は原福音と呼ばれるのです(原始福音ではありません。それは異端の宗派名です。)。

 パウロは、自分の使命を「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(使徒26・18)と説明しています。

 天地創造の神は、サタンの謀反に遭い、人間の堕落をも遭いながら、その人間が自由意志の中で、サタンの支配下から脱し、救い主なるキリストを求め信じ救われることを計画されたのです。その広大な計画の中で、真に救われキリストにあって神の民となった者のみを神の子とし、神の国を継がせようとされたのです。

 それは映画「ナルニア国物語」で、氷の女王に支配された国を解放するのには、希望を持ち神を信じて戦う少年少女たちが必要だったようなものです。あの本はそれを説明するために書かれた本です。正義というのは、自分で正義をかざすだけで正義になるのではありません。正義を行い、正義に従う者のみが正義とされるのです。ですから、あのライオンは身代わりに死ななければならなかったのです。

イエス様は、「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出される」(ヨハネ12・31)と預言し、「この世を支配する者が裁かれた」(ヨハネ16・11)といっておられます。つまり、自分勝手で罪深い人間の世界に、その人間の罪を身代わりに負い、十字架にかかって罪なき神の御子が死なれるということが、その自分勝手なこの世に対する正義の神の大勝利の業なのです。ところが、罪深いサタンには、この奥義は理解できず、かえって目先の勝利に目がくらんで、イエス様を十字架に掛けたのです。

そのような神の愛の結果、単に被造物に過ぎない、罪深い人間が、その信仰によって神の子とされる特権に預かるのです。ヘブル2・6は、そのようにして未熟でどうしようもない「人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。」とその恵みを感謝しているのです。

イエス・キリストの昇天の後、キリストは、主権を持ちました。(エペソ1・21、ヘブル2・8)。「それなのに、今でもなお、私たちは、すべてのものが人間に従わされているのをみていません。」(ヘブル2・8)。

それは、「救いの創始者が多くの苦しみを通して全うされた」(ヘブル2・10)ように、神の子となる者も、しばらくの間、この世を支配するままで残されたサタンの影響から信仰で抜け出し、戦いに勝利することが必要なのです。そして、その戦いとは、血肉のものではなく、まさに信仰を守る戦いなのです。

無論、「今は恵みの時、救いの日です。」(Uコリント6・2)。キリストの十字架と復活以後、信仰者は、キリストに助けを求めれば助けられ、救われ、恵みを受けるのです。先週、お話したように、義とする福音、恵みの福音を律法的に理解するならば、救いを求めることはできません。「神は言われます。わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」(同)。


10月29日 主は試みを受け苦しまれたので。 ヘブル書21018

新改訳 ヘブ 2:11-18

2:10
なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。

2:11
聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。

2:12
「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」

2:13
またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。

2:14
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、

2:15
一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

2:16
主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。

2:17
そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。

2:18
主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

  アダムとエバが罪を犯すことは神の失敗だったのでしょうか。彼らが罪を犯さなければ、その子孫は皆、幸せに永遠に暮らすことができたのでしょうか。そのように考える人は、失礼ながら浅はかであり、神の国の奥義が理解できない人です。実際には、そのように考え、教える人も多くいるように思われます。

 神の国は、地上の思い出も罪深さも忘れて、ただ神を賛美しているだけと考えている人もいるようですが、そんなこともありません。ロボットは神を讃美することはできず、罪を意識できない動物も神を讃美することはできません。地上のことを忘れて、一体どのように神を讃美するのでしょうか。

 神の国の人々は、自らの罪の思い出があり、そこから救われた自覚と感謝があるのです。ですから、彼らは救いを感謝し、神の恵みと栄光を褒め称えるのです。(黙示録5・912、7・1012)。そういう面で、神の国の人に最も必要なものは、人格です。そのことは、これまで語ってきました。品性とか、御霊の実というだけでは、少し足りないでしょう。コリントT3章では、それを自分の建てた建物、或いは神殿と言っています。

 つまり、神の国に行くには、それにふさわしい人格が形成されなければならず、それが神の国の栄光の違いになるのです(Tコリント15・40,41)。それでは、魂が救われていないけれど、人格的な人はどうなるのでしょうか。

 この地上に罪がはびこり、死が訪れました。人々は、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷になっていた」(2・15)のであり、「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については自由にふるまっていました。・・・その行き着く所は死です。」(ローマ6・20,21)。罪という問題を解決することは誰にもできません。いくら善行をしても、罪性の解消にはなりません。また罪を犯すからです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」(ローマ3・23)のです。ですから、真に人格的である基本は、罪の是認であり、解消から来るものでなければならず、罪の問題が解決していない人の人格は、神の目から見れば、ごまかしなのです。ですから、頭の良い人は、人格的を装うことができるでしょうが、自らの試練の中で罪人である正体を現してしまうのです。

 ですから、「聖とされる」(2・11)ということが、神の国に入る必須な条件となるのです。そして、それは「聖とする方」が必要なのです。行いによって、義とされる人はいない、と聖書は言っています(ローマ3・20.28.4・2)。

 人の存在は、根本的に罪であり、死ななければならないような自己中心な存在です。しかし、「主イエスは私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために、よみがえられたのです。」(ローマ4・25)。イエス・キリストは、私たちの罪をすべて、その十字架の死によって、身代わりに受けてくださったのです。

 もし、私たちが自らの罪を認めないのであれば、イエス様の十字架は私たちには関係のないものとなります。しかし、もし自らの罪に苦悩し、それを真に解決しようと願う者は、自らの行いや善行が何の意味も持たないことに気がつきます。そして、その時こそ、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりに死んでくださったことが分かるのです。「こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3・26)。

 「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」(ヘブル2・10)。神が、その神の国の栄光に入るのにふさわしい者を得るのに、このような自らの罪性、弱さ、愚かさを知り、悔い改めた者を条件としたのです。だからこそ、御子イエスをまさに、そのような人間の中に住まわせ、体験させ、取り成しをさせるようになされたのです。

 しかし、それは、前に述べたように神がご自身の存在を掛けた壮大な計画であったのです。神が神としての自己存在を、このちっぽけな人間の救いに掛け、被造物である人間を、実に神の子とするという大事業をこの創造の目的にされているのです。

 母親が自分の命を掛けて子を生み、父親がその命を掛けて家族を守るということは、偶然ではありません。神が、その見本なのです。

 ところが、神はさらにすごいことを約束されているのです。それは、いのちを掛けて神を信じ、その救いを全うする信仰者に永遠のいのちを与えられるのです。もはや、死は、私たちを脅かすものではないのです。

 日本にキリスト教が定着しないのは、人々がいのちがけで信仰を全うしないからです。キリストが命を掛けて、私たちを救ってくださったのに、多くの日本人クリスチャンは、打算で信仰を全うしています。戦争などの迫害下で、時の権力者に迎合して命を惜しんだのは、日本くらいでしょう。戦国時代の天草四郎らの聖書指導をきちんと受けていないキリシタンでさえ、殉教を覚悟しました。

 「死んだらおしまい」とは、不信仰者の考えです。「死ぬ覚悟をしてこそ天国」と覚えてください。人々の目をうかがったり、打算を考えるようでは、神の壮大な救いの計画に加えられる資格はありません。

 それでも主は、自らこの地上で人として過ごされ、苦しまれたので、そのような試練の中で葛藤している私たちを非難することなく、哀れみ助けようとされているのです。大事なことは、現状に悲観することなく、主イエスに助けを求めることです


11月5日 確信と希望の誇りを持ち続ける。 ヘブル書3619

新改訳 ヘブ 3:6-19

3:6
しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

3:7
ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、

3:8
荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。

3:9
あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。

3:10
だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。

3:11
わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」

3:12
兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。

3:13
「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

3:14
もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

3:15
「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。

3:16
聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。

3:17
神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。

3:18
また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。

3:19
それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。


 先週は、人が神の国にふさわしいものになるためには、自らの善行や人格は何の意味も持たず、自らの持つものではなく、神に願うということこそ、必須なことであることを説明しました。そして、願うときに神の前の自らの醜さ、罪性に気がつき、助けを求めるのです。ところが、実際には人は、自分の目や人の目を意識して行動しても、神の人格を意識することがありません。そして、人生における神の沈黙こそが、人の信仰を表す試金石となるのです。

 イエス様は、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3・3)と言われました。このことは、神の子となること、魂が救われということは、その人自身の理解や努力、決心の結果でないことを示しており、当時の宗教的指導者ニコデモにも不可解なことでありました。イエス様はその説明としてイスラエルの民が荒野で神に不満を言って逆らった時に揚げられた青銅の蛇のことを示しました。

 イスラエルの民は、奴隷とされていたエジプトから、神によって救い出されました。エジプトは、罪の奴隷であった以前の生活を示し、紅海の水を通るのは洗礼を意味すると説明してあります。そして、荒野の生活は、その後の信仰生活です。カナンとして説明される地は神の国の型であり、それまでの実際の生活は、荒野であると聖書は示すのです。

 モーセはカナンの調査を部族の代表十二人にさせました(民数記13章)。偵察するとカナンの肥沃さと共にそこの住民が大きくて強そうでとてもかなわない、と人々に言いふらしました。人は否定的なことや批判的なことが好きなようです。彼らに比べると「自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」(民数13・33)。そうすると、「全会衆は大声を上げて叫び、民はその夜泣き明かした。」(14・1)。そして、神を否定し、モーセに逆らうのでした。

 罪というのは、人を否定的にします。その人にどのような正統的主張があろうとも、人を非難し、攻撃する人には、神の聖霊は内在しません。私は、三十一年間の信仰生活の結果として、批判的な人や攻撃的な人とは行動を共にしないことを身に付けました。いかに正論を言い、例えば聖書を駆使しようとも、否定的な人に神の御霊は臨在しておりません。皆さんにも忠告します。批判に同調してはいけません。そういう人を気にしてもいけません。和解の福音を携えているべきです。

 昔、愛を説明するのに、「こういうのは愛でない」などと否定的なことを列挙するのを聞いて、愛を分かっていないと感じたことが印象深く残っています。「愛は、すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(Tコリント13・7)。愛は非常に、人格的なものです。愛とは非常に肯定的なものなのです。どんなに苦しくても諦めないものなのです。

 ですから、確信をもち、希望をもって歩んでいない人は、信仰もないのです。神を真に信じれば、問題の大きさ、困難の多さは、たいしたことではありません。彼らは、カナンに入ることで予想される困難におじけたのです。そして、自ら、自分に信仰がないことを明らかにしたのです。

 先ほどのヨハネ3章で、聖霊によって神の子として生まれることは、風の音は聞こえるが、それがどこから来てどこへ行くのを分からないようであると、イエス様は教えています。ある人が、神を心から信じ救われ、ある人は信仰生活を全うしていると思い込んでいても、実際には神の子ではない場合もあるのです。

 荒野では、イスラエルの人々には毎日天からマナが降ってきて彼らを養いました。最初は感激した彼らも「この惨めな食物に飽き飽きした。」(民数21・5)と不平をもらし神とモーセに逆らいました。すると猛毒の蛇が現れ、多くの人々を殺しました。民は、反省して神にわびたのですが、神は猛毒の蛇をかたどった青銅の蛇を作らせ、旗ざおの上に掲げさせた。そして、その青銅の蛇を仰ぎ見た者だけが、かまれても癒されたのでした。

 これはどういうことを意味するのでしょうか。青銅の蛇は、自分を殺そうとする蛇の型であり、醜く恐ろしいものです。しかし、救われるためには、その醜く恐ろしい自らの罪を直視しなければなりません。反省して詫びるということは、誰でもするでしょうし、それをもって魂の救いとすることはできません。自分を滅ぼそうとする醜い罪を直視して、神の約束を信じなければならないのです。

 神は感情的に怒る方ではありません。また、神はすべての人が救われることを願っています。ここで「怒りをもって誓われた。」とあるのは、先週説明したように、聖なる神の国には、聖なるものしか入れないのだ、ということを罪をごまかして生きようとする人間への、再度の警告なのです。

 私にとって、罪を認めず、自らの主張を繰り返して教会や牧師を非難し、教会を去っていった人々のことは未だ気がかりです。彼らの異常な言動を覚えていますが、怒りの気持ちは少しもありません。「彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。」(3・10)のです。そして、やはり彼らは安息に入れていないのです。

 不信仰をどのように正当化することもできません。信仰がなければ救われない、ただそれだけのことなのです。自分の正しさを主張し、忠実な信仰者の愚かさを非難したところで、神の前には申し開きできないのです。安息というのは、神を信じ、信頼して、その愛の中に生きる者にのみ、約束されたものです。信仰は、たとえ、この世が荒野であろうと、神にある安息を見出し、平安の中に人々を導くのです。私自身は、この確信と、希望による誇りを持っております。皆さんはいかがですか


11月12日 不従順な者は安息に入れない。 ヘブル書4111

新改訳 ヘブ 4:1-11
4:1
こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

4:2
福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

4:3
信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。

4:4
というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。

4:5
そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。

4:6
こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、

4:7
神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。

4:8
もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。

4:9
したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。

4:10
神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。  4:11ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

神の国に入る条件について連続説教をしておりますが、わかっているでしょうか。但し、分かっていることと実際に天国に入ることとは違います。ゴルフのテレビを見ていて、スイングの解説をし下手な選手を批評していた人が、実際にクラブを振ってみるとボールにかすりもしない、ということがあります。うまくなろうと実際に努力をする者こそ、その難しさがわかるもので、決して批判などしなくなります。

 この2節にあるように、福音の言葉を説き聞かされていても、信仰によってそれが自分に結び付けられなければ、救いにはならないのです。

 信仰とは、行いや実績、クリスチャンとしての立場ではありません。

 信仰とは、洗礼を受けたとか、聖書を読んだとか、講座を受けたというものではありません。

 過去に聖霊に満たされ涙を流した経験があるとか、悔い改めたとか、神の言葉を聞いたとか、奇跡を体験したとかで、現在の信仰が保証されるものではありません。聖書には、信仰から離れた人が多く記されています。

 信仰のない者は、自分の信仰を証明しようと努力します。

 信仰とは、神との人格的な結びつきです。この結びつきを確固としたものにするために、人生の栄枯盛衰、喜怒哀楽があると言えましょう。人は、これらを通して、神としっかりと結びつくか、或いは自分の歩みや行いをもって神の国に行く資格があると誤解する罪の生活を送るかが、はっきりとしてくるのです。

 先週は、「低血糖症の治療の会」を正式に発会させ、また自閉症の治療を進めることを決めました。ますますいろいろな困難があるようですが、自己満足に陥らず、また過激にならずに、主に仕え、人々に仕える人生を歩みたいと願っております。今週は教団総会がありますが、なるべくなら何の役にもつかず、平穏に過ごせることを祈っております。

私たち夫婦は、既に生活は安定し社会的地位は確保しています。歳もとり、体力も気力も衰えてきました。しかし、そのすべてを犠牲にしても、神には従わなければなりません。罪というのは、自分を正当化させて怠惰にします。それは思うようにならない人生に不満を持たせ、他人を批判し非難させます。信仰は、自分の内に何の良いものもないことを認めさせ、ただ神に仕える道を選ばせるものです。自分の幸せを願うだけの人生には、神の祝福はなく、いのちの道ではないことを、信仰は悟らせるのです。

ローマ十一章には、「神はすべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められた」(32)とあります。私は、自らの信仰生活を振り返るならば不従順の連続であり、神にも人にも自分の要求を突きつけていました。そして、多くの苦難の中で神に不満を叫んでいました。挙句に心臓を悪くし、それでも神に悪態をつく有様でした。とても信仰者とは言えません。そのときに、十字架に掛かるイエス様の姿を見、語りかけを聞きました。「父よ、彼をお赦しください。彼は何をしているのか、分からないのです。」私は、既に自らの罪を認め、悔い改めてはいました。しかし、自分勝手な道を歩んでいたのです。そこにはいのちがありませんでした。

 実際には、十字架のイエスを仰ぎ見ることは、何度もありました。いつのまにか、「自分を捨て自分の十字架を負ってイエス様についていく。」(マタイ16・24)ということを忘れてしまったのです。イスラエルの民が、不従順のうちに歩み、神の哀れみを体験していったのと同じようです。そして、自己中心の歩みは、私に多くの問題を起こすこととなったのです。

 「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。」〔テトス3・3〕。自らを、そのような者だと認めるからこそ、主に従うのです。自分を誇る人は、未だ神の恵みと哀れみを体験していないのです。自分の力で生きられると誤解しているのです。

 「心を頑なにする」とはどういうことでしょうか。自分の判断で生きるということです。私には、殆どの人がこのようにして生きていると思われます。自分というものに、何の保証がありましょう。富や財産は、あっという間に失せてしまいます。知恵や知識も自分を切り開くには、あまりに未熟であります。歳はとり、体力や気力も衰えるでしょう。家族もまた、主にあらずして、いかに愛し合うことができましょう。ですから、そのような頑なな人は、決して安息に入れないのです。

 自閉症の子を持つ親の献身に感動しています。どうにかして我が子を治そう、元気にしようと、あらゆる情報を集め調べ、そして取り組んでいるのです。悲観をしてはいられません。子供は、生きており、このままでは悪くなる一方だからです。それでも日本の医者を信じられなくなっているようです。彼らは、そんな治療をしなくても暮らしていけるからです。

 地上の社会では、頑なに自分の幸せだけを排他的に願ってうまくいっても、神はそれをお赦しにはなりません。神がお赦しにならないというよりも、罪がその人を天国に行かせないのです。そして、地上の人生も安息には程遠いものとなっていくのです。


11月19日 神の前では隠れおおせない。 ヘブル書41016

新改訳 ヘブ 4:11-16

4:11
ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

4:12
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

4:13
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

4:14
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

4:15
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

4:16
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。



 普通に暮らす人々でも、その実態は極端に違うようになっているように思います。酒癖の悪い職種というのもあるそうで、公務員、教師、警察官、銀行員、医療関係、など普段まじめな仕事をする職業の人は、失礼ながら宴会では酒癖が悪いという評判です。また、宴会などでは、社会的地位のある人の非常識かつ淫らな行動も見られるそうです。

大学時代も酒を飲むと非日常的な行動が見られました。私の大学は、よく勉強をして入学した真面目な学生が多かったのですが、他大学との交流会で酒を飲んだ時、私立大学の学生の猥雑さには呆れて嫌な感じがしたことを覚えています。夜に電車に乗ると、酔いつぶれてみだらな格好をした勤め人をよく見受けますが、こういう人々の家庭は、果たして健全に形成され得るのかと心配になります。女性も、金銭的・性的にふしだらになると、結婚してもうまくいかなくなります。

そういうのを堕落と言います。こういう生活をした人が悔い改めて、自らの欲望を恥じ、清新な人生を望むということは実際には難しいものです。女性を尊重せず、年下の者や部下をこき使う人間は、決して幸せにはなれません。高齢者や障害者をぞんざいに扱う者は、神の裁きが下ります。人を差別する者は、実際には人を愛せません。

牧師というのは、現代社会では特異な職業で、酒は飲まないタバコは吸わない賭け事はしない金はない、という人々が多くて、殆ど遊んだこともなく、教会という狭い社会の中で過ごしています。先日の総会では、神学生にカラオケを誘った教師に怒っていた牧師もいました。テレビは俗悪だから見ないという牧師もいて、私は隠すのも恥ずかしいから、テレビはよく見ていますと明言していますし、映画も好きです。

その牧師が、論議の場では興奮して、相手を非難し異常行動を起こします。私がクリスチャンになったのは、酒癖の悪い同級生が評判の良い私に嫉妬して悪態をついたのに唖然として、世の中の虚しさを悟ったからでした。ところが、そのように人を非難することを嫌い、神を信じ求めるようになった私自らが、いつしか自分と主義主張の合わない人を非難するようになっていたのです。

「神のことばは生きていて」とありますが、まさに神の前で隠れおおせるものではありません。クリスチャンになり、牧師になった私自身が、自らの罪深さを棚に置いて人を非難しているのです。神のことば、聖書は生きていて、「心のいろいろな考えやはかりごとを判別」します。そこに、先週語ったように、不従順が示されるのです。不従順を正当化して悔い改めない者に、神の聖霊は留まることがありません。罪人のうちには内在できないのです。

 「大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。」ところが、私たちのほうが、意地を張って、「折にかなった助けを受け」ようとしないのです。まるで、子供が意地を張って泣き叫んでいるかのようです。

 私も歳をとり、いろいろな肩書きがついてきました。牧師、社長、事務長、理事長、監事、会長、・・・。非常に危ないものです。高慢になって、自分がそのように待遇されないと不満を持つようになったら即、私の内に住まわれる聖霊なる神の小さな声を聞けなくなるでしょう。失敗を恐れて謙遜ぶるのもいけません。「謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」〔コロサイ2・23

 たとえクリスチャンであっても、牧師であっても「もし罪はないというなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Tヨハネ1・8.9)。ところが、一般論では罪を認め、「罪を赦してください。」と祈りながら、毎日の歩みの中では、自らの非を認めず、悔い改めることなしに、人や社会を責める人も多いのです。

 先週、親友に頼みました。「私が高慢になり、おかしくなって、人を責めたり、非難をしたら、私に忠告をしてくれ。もし、その忠告を受け入れなくなったら、お願いだから取り成しの祈りをしてくれ。」

 人は歳をとり、自分の考えも確立し、地位も評判も高くなります。私は、そのようにして高慢になってしまった人を多く知っています。そして、多くの友人を失っています。「そんなことはない。自分が誘惑に陥ることはない。私は聖書を読み、いつも祈っている。」と言ってしまっていたら、もはや危ない、と思ってよいでしょう。もう一度、Tヨハネを読んでみてください。

 人が過ちを犯した時、私たちにはその人を責めるほどの義をもっておりません。自らが成功を遂げた時、自らの内に誇るべき能力を持っていないことを認めなければなりません。しかし、そういう謙遜さを失った時、神の恵みの御座から離れてしまうのです。

 「あの不従順の例にならって落伍する者がひとりもいないように」力を尽くして務めなければなりません。落伍とは、堕落です。性的な堕落は、いつも皆さんに手を拡げています。高慢も同様。わざわざ飲み屋に行って、酒を飲まないのは難しいものです。夜も街をさまよいながら、誘惑を警戒するのは、愚かです。堕落した者と親しく付き合うならば、あなたの品性は間違いなく悪くなるでしょう。なるべく多くの時間を謙遜のために費やすべきです。


11月26日 コンプライアンスと組織の繁栄。 申命記1189

説教;櫻井圀郎師

新改訳 申 11:8-9

11:8
あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、

11:9
また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。


12月3日 クリスチャンの品格。 ルカ1章6780

新改訳 ルカ 1:67-80

1:67
さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。

1:68
「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、

1:69
救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。

1:70
古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。

1:71
この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。

1:72
主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、

1:73
われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、

1:74
われらを敵の手から救い出し、

1:75
われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。

1:76
幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、

1:77
神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。

1:78
これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、

1:79
暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

1:80
さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。


 今年の流行語大賞は「イナバウアー」と「品格」でした。品格は藤原正彦氏の「国家の品格」というベストセラーからきたものです。著者は、「日本人は、世界に誇るべきわが国古来の『情緒と形』をあっさり忘れ、市場経済に代表される欧米の『論理と合理』に身を売ってしまったのです。日本はこうして「国家の品格をなくしてしまったのです。」と嘆いています。

 著者は、@論理や理性には限界がある。A最も重要なことは論理では説明できない。B論理には出発点が必要。C論理は長くなりえない。と論理優先の社会を批判します。例としては、日教組の集会で高校生が「なんで人を殺しちゃいけないんですか。」と質問したところ、誰もそれを論理的に説明できず、その模範解答を文部省が作成したということです。「一番困るのは、情緒に欠けて、論理的思考能力はばっちり、というタイプです。」とも、著者は論破しています。

 更に、藤原氏は天才の出る風土として、@「美の存在」、A「ひざまずく心」〔信心深さ〕、B「精神性を尊ぶ風土」(金銭や世俗的なものを低く見る)を揚げています。

 これらのことは、私自身も強く同感するところで、実は来年の教会のテーマは「品格ある信仰者になろう。」としようかと、教会員の同意を求めるものであります。ついでに私の牧師としての心構えを挙げましょう。@「歌いつつ歩まん。」、A「信仰を趣味のように持つ。」、B「ひまそうに、つまらないものを大事に。」、C「自分にできないことを人に要求しない。」。D「受けるのも与えるのも幸いです。」。あまり品格がありそうもないものばかりですが、自分としては、これらを守るためには決死の覚悟が必要であると信じているのです。

 さて、今日の聖句は、バプテスマのヨハネの父ザカリヤが、その息子の誕生に感動して聖霊に満たされ、預言したものです。祭司ザカリヤとエリサベツの夫婦は「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行なっていた。」(ルカ1・6)。歳をとっていましたが、子供がありませんでした。しかし、敬虔な二人は、イエス様の先触れとなるバプテスマのヨハネを生む夫婦として選ばれたのです。

 御使いにそのことを預言されたザカリヤは、人間的、論理的な不可能を信じて、神の言葉を信じませんでした。そこで、神殿の中で言葉を言えない状態にされてしまうのです。直ちに老妻エリサベツは身ごもりましたが、その十ヶ月の間、ザカリヤは自らの不信仰を心から悔い改めたに違いありません。

 その六ヶ月後、マリヤが聖霊によって妊娠し、親類のエリサベツの家に三ヵ月ほど滞在して、神の奇跡と御使いの預言を二人に明かすのでした。二人もまた、自分たちへの御使いの預言と奇跡を語り、神の子の誕生の経緯に感動するのです。

マリヤの預言(1・48-55)には、マリヤの確信と勇気があふれています。私は、マリヤはこの類まれな品格によってこそ、神に選ばれたのだと思うのです。連なる奇跡的な妊娠によって、マリヤは神がいよいよ正義を行なうために自分の息子を用いることに感動するのです。そして、乙女でありながら、決死的に自らの使命に順じようとするのです。

 そういう経緯を体験しながら、祭司ザカリヤは、自分の子供を如何に育てるべきかを模索します。祭司の長男ですから祭司になるのが当然ですが、なんと荒野で育てるのです。おそらく、祭司という職業の堕落ぶりと世俗的な環境の中で、神の子の先触れとなるべき我が子を大事に育ててはいけないと判断したのでしょう。神の導きと言えば簡単ですが、自分の子を溺愛して訓戒も言えない当世の親から比べれば、大変な決断です。

 68節から75節までは、契約の成就であり神の正義の実現を褒め称えるものです。76節からは、息子への語り掛けであり、「雄雄しく強く使命の為に生きよ」と、主のために献身することを命じるものであります。父のして何とすごい品格に満ちた言葉でしょうか。

物分りの良い男性が多くなっているようです。「国家の品格」の中に、会津藩の教えが載っており、その末尾に「ならぬことはならぬものです。」とあるそうです。教会が「だめなものはダメ」とはっきり教えなくて、どうして教会の使命が立ちましょう。最近は、「厳しいことを言う教会には、人が集まらない。」「愛し合いましょう、というと人が喜ぶ。」などと言われています。

神の愛は、御子を十字架に掛ける厳しいものでした。祭司ザカリヤの息子への愛は、「親と一緒に住むと環境によって堕落し、使命を全うできないから、荒野に自分の力で成長しろ。」と突き放す厳しいものでした。私たち一人ひとりの「品格」は、それぞれ固有のものであり、人の真似でできるものではありません。自らの、この社会への使命に目覚めて形成するものかと思います。品格あるクリスチャンになっていこうではありませんか。


12月10日  神への信頼と勇気。 ルカ1章2638

新改訳 ルカ 1:26-38

1:26
ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。

1:27
この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。

1:28
御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

1:29
しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

1:30
すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。

1:31
ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。

1:32
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

1:33
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

1:34
そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

1:35
御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

1:36
ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。

1:37
神にとって不可能なことは一つもありません。」

1:38
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。


 私の母は結婚式まで、父と会ったことがなかったそうです。大宮に住んでいましたが、親同士が決めてしまい、嫁に来たのです。父の生まれは小山で、当初は尾久で下駄屋をしていて人も雇っていたようです。戦前にどういうわけか前橋に引越し、工場で働き、後輩の不始末の責任をとって辞めたそうです。そして職人用の草履の製造販売を始めたのです。9人の子供を育てながら頑固な職人の父に従った母の性格の良さは、現在96歳で完全に呆けてしまっていても消えることはありません。空っ風の寒さの中でもよく働いていました。愚痴や人の批判をいうのを聞いたことがありません。9人の子供もそれぞれ個性がありましたが、そのまま受け入れて大事に育ててくれました。自分の苦労は考えず、子供の幸せだけを考えていたようで、母のことを考えるといつでも涙が出てしまいます。

 イエス様の母マリヤの人生は、苦労の連続だったと思われます。大工のヨセフとの婚約をしたのは16歳くらいでしょう。1年くらいの婚約期間は、夫婦と同等の関係となり解消には正規の手続きがいたようです。天使によって受胎が告知され、彼女はそれを受け留めます。それには、親戚のエリサベツの奇跡的な懐妊のことが知らされていたことも影響しているでしょう。しかし、未婚の母になるのです。石打の刑が予想されます。マリヤは、全ての困難を覚悟して「私は主の奴隷です。神の御旨のとおりに自分を用いてください。」と応えました。

 しばらくして、マリヤは妊娠を確認します。誰よりも自分が神によって超自然な受胎であったことを知っています。そのことが知られ、妨害されないようにと、マリヤは100キロも離れたエリサベツの所に密かに行く決心をします。親にも言うわけにもいきません。ユダの山地まで歩いて何日かかるでしょうか。エリサベツならば理解しかくまってくれると信じて、出かけたのです。

 エリサベツは、胎児の成長と共に聖霊に満たされて過ごしていましたが、或る日、特別な聖霊の充満を感じていました。そこに突然現れたマリヤを見て、胎児が激しく喜び動くのに驚きましたが、その時マリヤの妊娠をも悟ったのでしょう。そして、42節からの言葉を語っていますが、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」と叫んでいます。

 エリサベツは、一人で遠くまで歩いてきた妊婦のマリヤの苦労と決心に感動しました。この人は、社会的な外聞や偏見による非難や迫害を覚悟して、神によって与えられた子を産もうとしているということがわかりました。自分にどんなことがあっても、神の御旨を実現するために最善を尽くそうとマリヤはしていたのです。愛する婚約者ヨセフとの結婚がダメになっても構わないと決心していたことでしょう。だから、家族を捨てて、天使によって告げられたエリサベツの所に逃げ込んだのです。

 エリサベツの取り成しによって3ヵ月後、家族の元に帰されたマリヤを見てヨセフは驚きました。何と妊娠しているのです。愛するマリヤが突然いなくなり、そのような姿で帰ってきたのですから、姦淫としてマリヤは石打の刑になります。ヨセフはマリヤを愛しており、また謙遜な人であったので、婚約を内密に解消し、その父親と結婚できるようにしてやろうと覚悟を決めました。ところが、彼にも天使が語りかけ、神の子であることを示しました。直ちにヨセフは、マリヤを自分の妻とし、他人の妨害や迫害が起こらないように決心しました。当然、ヨセフは、婚約中に相手を妊娠させてしまったと誤解されて非難されますが、黙ってそれを受け入れます。そして、自分の元でマリヤをかくまい、夫婦として暮らすのですが決して性的にマリヤを汚さないように気を配るのです。

 ところが、そのような二人に皇帝の勅令によるベツレヘムでの登録が命じられます。なんと出産の予定日です。マリヤは身重の身で同じ道をまた辿るのですが、今度は優しいヨセフが一緒にいます。でも、出産間近なのに、野宿を続けて何日も掛けて山道を歩くのは、大変なことだったと思います。そして、とうとう出産までも家の中ではなく、辛うじて場所を得た家畜小屋ですることになってしまいます。人間的には、これほど可哀相な出産はないかとも思います。

 ところが、私は12歳の時に強姦されて妊娠し川原で一人で出産した女性を知っています。彼女はその男性に強引に同居させられ、二人の子供を生み、男性の死後18歳で日本に働きに来ました。そして、クリスチャンになり、神に感謝しているというのです。信仰というのは、恵まれた環境で生まれるものではありません。恵まれても恵まれていなくても、その人が何に人生の拠り所を置くかということが大事なことです。

 私の母は、何の宗教も信じていませんでしたが、72歳の時、神を信じました。人の幸せは、それぞれの人の基準によるのでしょうが、多くの人が求める幸せを獲得していません。マリヤは、その後も多くの試練があり、エジプトに逃れたり、ヨセフが早死にしたり、ついには愛する息子イエスの十字架の死まで体験するのですが、神を信じて幸せであったことは間違いありません。

 私の妻は、医者よりも伝道者に価値を見出し、生涯を神に献げる決心をしました。私は、それを知って、この人を助けて生きることに価値を見出し、大学教員の道を捨て、牧師になりました。結婚を決めてから27年間、苦労は多いのですが、魂の幸いを得ています。信仰者にならなかったらと思うとぞっとします。牧師にならなかったら、私の人生はつまらないものになっていたでしょう。そして、この人生をいつでも、神に委ねて、違う道を歩む覚悟はできています。名誉はいりません。富もはかないものです。このことは、夫婦共に同じです。神を伝え、神にあって生きるためには、命がけでなければならないことを知っています。

 マリヤやヨセフと同じ信仰を私たちも持つ必要があります。自分をつまらないものと思うことが、聖霊の導きを否み、罪の誘惑に導くのです。勇気を持ちましょう。神を信頼しましょう。


12月17日 人の心の思いが現れる。 ルカ22135

新改訳 ルカ 2:21-35

2:21
八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。

2:22
さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。

2:23
――それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあるとおりであった。――

2:24
また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。

2:25
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。

2:26
また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。

2:27
彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。

2:28
すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。

2:29
「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。

2:30
私の目があなたの御救いを見たからです。

2:31
御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、

2:32
異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」

2:33
父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。

2:34
また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

2:35
剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」

 イエス・キリストの誕生の時のことは来週話すので、今日はその後の経緯を話します。割礼は男子の誕生後8日で行なうのですが、質素にベツレヘムで行なわれたようです。さらに男子の場合33日後(誕生後40日)に、出産した母親の清めの儀式を神殿で行ないます。献げる物は全焼のいけにえ(神への全き献身を表す)として子羊を一頭、罪のためのいけにえとして鳩を一羽献げて焼くことになります。貧しい者は二羽の鳩でよいとされますが、ヨセフたちは後者でした。

 なぜ、めでたい出産に清めが必要なのでしょう。聖書は、原罪を主張しており、人間は本来、罪深いものであるとしています。罪深いものだからこそ、神に従って生きなければ、決して幸せはないと教えます。子供たちを育てるのに、しっかりと聖書教育をしなければ、子供は必ず罪と誘惑に負けて退廃すると、親を訓戒します。そういう面で、子供の誕生の時に親に対して、あなた方は穢れていると教えるのは、すごいことです。子供を甘やかして育てるのは、過ちです。最近は、悪いことを悪いと言えない親が多いようです。子供を育てるには、「神への全き献身」が必要なのです。子供を持っていない夫婦、結婚していない人にも、「神への全き献身」は幸せの条件であると聖書を言っています。

 イスラエル人が奴隷であったエジプトから逃れた時に、男子の初子が犠牲になり、イスラエル人は、子羊の血によって死を免れました。その時から、長男は神のものであるとされ、その購い代金として銀5シェケルを納めることになっていました。跡継ぎのなるべき長男を神からの預かりものとして捉えるということもすごいことです。このような親子関係、意識からユダヤ人の比類なき優秀性が生まれたのかもしれません。

 さて、イスラエルにはマラキの後、400年以上も預言者が現れず、人々には切迫した真摯な信仰は見られなくなっていました。確かに、東方の博士たちがヘロデに問うた時に、学者たちは直ぐに、キリスト誕生の地は、ベツレヘムが預言されていると答えましたが、実際には、それを具体的に求める人たちは殆どいなかったと思われます。

 信仰とは、理解ではありません。ヤコブ書には、悪霊も神を信じているから、行いのない信仰は価値がない、と断定しています。私は、「神がおられる」と最初に聞いた時、「それでは人生を考え直さなければならない」と、まず考えました。実際には、神の実在を信じるには、キリストとの出会いがあったのですが、神が折られるという前提に立つと、人生は全く生き方が違うものになるはずです。

 シメオンは、そのような中で、神を待ち望み、聖霊に満たされた人でした。聖書外典を読むと、この400年間のイスラエル人の信仰的艱難、民族的試練は大変なものだったようで、その挙句にローマに支配され、ユダヤ人ではないヘロデ王に統治されていたのです。しかし、詩篇23編にあるように、信仰者は「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。」と言えるのです。試練や不幸を、不信仰の言い訳にはできないのです。

 註解書には、「正しい」(人々に対する正しい行為が神に認められ)、「敬虔」(神に対する正しい行為が神に認められ)、とありました。それでなくては、聖霊に満たされることは難しいでしょう。シメオンは、「キリストに会いたい」と切望し続けたのです。そして、「必ず会う」と神に語られたのです。

 救いとは、救い主に会うことです。キリストに出会ったシメオンは、もはや死の恐れを覚えず、安らかに天国を迎えるのです。キリストとの出会いは、イスラエル民族の慰めに留まらず、異邦人を含めた万民への招きであることを悟らせるのです。

 シメオンは、神が人となって世に生まれたことの喜びと感謝を歌います。しかし、さらにその現実の怖さをも覚えるのです。神が人となって、救いをはっきりと伝えるということは、人々に決心を迫るものともなるのです。神を信じるか、神を信じないか。キリストが真理と救いをまっすぐに示され、十字架に掛けられるとき、「多くの人の心の思いが表れるためです。」

 シメオンは、神が人となったことの意味を正確には理解していないでしょうが、偽の信仰者が剣をもって攻撃してくることを予感するだけの人生の経験を積んできているのでした。真剣に神を信じて生きようとする者を、この世は攻撃し迫害します。なぜなら、それは神の実在を証明すると共に、悪人や偽善者の滅びをも証明するからです。ですから、人々は、真実な信仰者を喜びません。堕落したり、形式的な信仰者を喜び、受け入れるのです。

 イエス・キリストの誕生は事実でした。しかし、世の中は、クリスマスをサンタクロースの日に変えて、その真理をごまかそうとしています。神を信じ、敬虔に生きることなしに、人は愛しあうことはできません。しかし、プレゼントを贈りあい、楽しく過ごすことで幸せになると信じさせようとしています。

 実際には、人の心の思いは神の前に明らかであり、また人の目にも判るのです。ごまかせるものではありません。私は、この神の前に生きようと願っています。あなたは、いかがでしょうか。


12月24日 御心に適う人々。 ルカ2420

新改訳 ルカ 2:4-20  2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、

2:5
身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。

2:6
ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、

2:7
男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

2:8
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

2:9
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

2:10
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

2:11
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

2:12
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

2:13
すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。

2:14
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

2:15
御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」

2:16
そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。   2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。

2:18
それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。

2:19
しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。

2:20
羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 イエス様は、神の子として永遠の昔から父なる神と共に栄光の中におられました。九節にある「主の栄光」とは、神の臨在を現わす輝かしい光のことで、イスラエル人が荒野を旅した時に、幕屋のうちにいつも現われていました(出エジ161024.164034)。ソロモンが建てた神殿の至聖所にもいつも主の栄光が輝いていました(T列王8・11、U歴代7・1)。それは、天にある神の栄光の現われでした。そして、イエス様は、その栄光の中におられたのです。

 しかし、「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2・6.7)。天使は、むろん、神の子イエス様の天におられた時の栄光を知っていました。その栄光の神が、ご自分の属性を捨て、本来、神に仕えるべき卑しい人間の赤子に自らを閉じ込め生まれたのです。

 天使にも人格があり、考えることはできます。しかし、考えに及ばないことが起こったのです。神が人間になったのです。人間は本当に罪深く高慢な存在です。自己保全のことばかり考え、決して自己犠牲など考えません。地位を保つこと、面目を保つことに躍起になっています。だからこそ、金持ちが神の国に入るのは難しいのです。

 クリスチャンでさえ、この面目を保つことに捉われ、弁解や自己義を主張する人が多いのです。だからイエス様は、「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。じぶんのいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカ9・23.24)。つまり、自分の面目を重視している者は、その救いを失う、と書いてあるのです。私たち夫婦が常に口にしていることは、「自分たちの思うとおりになることを願わない、人を思い通りに動かそうとしない、自分の面目を守ろうとしない。」ということです。なぜなら、それが人間にとって、日常的な罠であり、人の反発を買い、自らを堕落させる危険なものだからです。そして、実は多くのクリスチャンが、信仰に熱心でありながら、この罠によって罪に支配されているのを知っているからです。

 自分の経験、実績、信仰体験、などというものは大したものではありません(コロサイ2・18)。イエス様が、神の栄光を取るに足りないものとされたのですから、私たちは、自分を何ほどの者と思ってはならないのです。むろん、同じコロサイ書にあるように、自己卑下することも罠です。大事なことは、自分に捉われることなく、神の下僕として神に仕え、神の業をすることなのです。

 私はしばしば自分のことを語りますが、それは、すごいとか優秀だとか思われている自分の未熟さ、罪深さと神の栄光を語るためのものであって、もし自分の自慢話をしているのだったら、たちどころに神の祝福を失うのです。終末には「見えるところは敬虔であってもその実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」〔Uテモテ3・5〕とあるのを忘れてはなりません。

羊飼いは、その仕事のゆえに律法を厳密に守ることはできず、自他の所有もきちんと判別しないために、不信仰者であり、信用の置けない者として、法廷での証言能力を認められていない存在でした。しかし、実際には自らの罪深さと弱さを正直に認め、面目や見栄などを持たない人々でした。天使が、その地を見渡して、この貧弱な救い主を語っても、信じるのは羊飼いだけであると気が付いたのです。

 しるしとしての布は、死体を埋葬するときに包む布であると中川健一先生が説明しています。何も持っていない夫婦には、急な出産に対処するには、家畜小屋においてある埋葬用の布しかなかった、ということが、十字架に掛かるために生まれてくるイエス様にふさわしいしるしであります。

 飼い葉おけがきれいなものであるはずがありません。我が家のジョイの餌用の皿は金属製ですが、よだれと汚れがついて決してきれいではありません。居心地が悪く汚い飼い葉おけに寝かされているのが、救い主である、と言われて、誰が信じるでしょうか。天使が語っても、そんなことがあるはずがない、馬鹿にするな、と疑うのがおちです。

実際、このクリスマスのときに、わざわざ教会にきて聖書の話を聞いたり、献金をして礼拝をするという、風変わりな人々はあまりいません。クリスマスは、にぎやかなところに行って遊び、酒を飲んで馬鹿騒ぎをし、高価なプレゼントを贈ったり、もらったりするものだと考えている人ばかりです。そういう人々には、いくら真理を語っても、救い主が生まれても、関係ないのです。御心に適う人々にしか、平和も平安もないのです。

羊飼いの知らせを聞いても、実際、人々は驚いただけで、御子を礼拝に来てはいないようです(18節)。しかし、羊飼いたちは、羊の番をやめて、わざわざベツレヘムに訪れているのです。礼拝というのは、犠牲なしには神に喜ばれません。忙しいとか、仕事がある、とか理由をつけて礼拝を休む人々には、もともと礼拝心が少ないのです。

人間の存在理由は、神を礼拝するためであります。そして、人間の人としてのいのち、力、喜びは、神から来るのです。イエス様は、なぜ、わざわざ人間になったのでしょうか。自己中心な人間に真理を伝えるために、神は自らの在り方、権利、主張を捨てられたのです。礼拝というのは、全てをおいて最優先にすべきものです。ただし、教会の礼拝に参加したから礼拝をしているというわけでもありません。「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時がきます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」(ヨハネ4・23


12月31日 主にあって喜び、楽しめ。 詩篇32111

新改訳 詩 32:1-11

32:1
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。

32:2
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

32:3
私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

32:4
それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ

32:5
私は自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ

32:6
それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。

32:7
あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ

32:8
わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

32:9
あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。

32:10
悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。

32:11
正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。


 実は、三十四年ぶりの十二月の大雨となったすさまじく寒いこの火曜日に友人と息子でゴルフをしました。三十九組の予約者で当日来たのが二十四組、そして最後までプレーしたのが五組、それも大雨となった遅い組だったのですから、もう下着までびっしょりで寒さに震えて終わりました。ところが、私たちは楽しくて仕方がなかった。私はつくづく、友がいれば状況には左右されずに、楽しく過ごせるのだと若い時を思い出し、また当教会の理念を思い返しました。

 逆に、スコアを気にして自分だけのプレーに終始する人とは晴れていても楽しくありません。妻は、そんな私にも慣れ、どんな天気にも状況であっても私についてきます。私は妻の健康を気にしながら、無理をせず、毎日を過ごします。うまくいかないからといって、不機嫌になることはありません。結果を良くしようとすることは、健全でないことに気が付いてきました。ただ次善を試みて、無理なく、人と仲良く付き合うことを心がけています。

 問題に苦しみ、自分の弱さに葛藤する人が多くいます。他方、万事、自分に都合よく解釈し、悩むことなく言い訳を言いのける人もいます。快楽にふけり、他人のことなど気に掛けない人もいます。仕事や趣味など、目標や意義を見出して、ただひたすら生きている人もいるでしょう。

 ある女性は、懸命に仕事をしてもミスばかりして、職場で迷惑を掛けていました。どうにかしてミスをしないようにと努力しましたが、あせってミスを繰り返すだけです。そのうち、自分はどこかおかしいのではないか、注意欠陥障害ではないか、と思い初めました。

 現代は、人の定義づけがまかり通っています。それが人の性格や能力にまで至り、統合失調症、うつ病、ADHD(注意欠陥多動性障害)などと診断されると、その人は、もう治らないと思われます。一度病名が付くと、病名が先走りをして、そのように扱われ、薬剤の投与が始まります。

 私は、これも現代人の特徴の言い訳かと思います。そのような症状や障害がないと言っているわけではありません。しかし、人には皆、苦しみがあり、悩みがあり、動揺があり、欠点も弱さもあります。欠点のない人間なんていないのに、ある人は自らの欠点を認めたがらず、ある人は欠点に苦しむのです。

 若いということは、異常が当たり前だと私は思っているのですが、自分の若い時をまともだったと錯覚し、若い人に正常を要求する大人が多いようにも思われます。人間なんて、罪びとなのですから、正しく清く、なんて若い時から生きられるはずがないのです。

 しかし、もはや自分を諦め、限度が分かってきた大人は、若い人の未成熟を指摘し、攻撃します。批判された青年たちは、異常がわかっているので、どうにかして正常になろう、性格的・能力的に成熟しようと心がけるのです。ところが、誠実すぎて、世間知らずの青年たちが、過度に反応して自分の異常性を完璧に治そうとします。そういう葛藤に対して宗教が解決を与えてきたのですが、現代はキリスト教でさえ、人間中心の問題志向、御利益志向のものに堕してしまいました。つまり、「神を信じれば願いがかなう」などといったものです。

 聖書の教えは、神中心であって、「神に信頼し、神と共に生きなさい。」というものです。「神に信頼したら、あなたの問題はあなたの思い通りに解決する。」というものではありません。後者は、神を信じるのは自分の利益のためなのです。つまり、何でもうまくいくことを求める考え方、人生には平安はないのです。クリスチャンでさえ、このような誤解に立って、信仰生活を送っているならば、喜びも楽しみも束の間でしょう。

 「そむき」とは、逆らうこと、違反することです。罪とは、自己中心ということであって、自分中心に考え、利益を求めて生きることは、罪であり、神へのそむきなのです。人間というのは、神に従い、神をあがめるために創られたのです。ですから、罪を悔い改めるということは、自分中心ではなく、神中心に生きることべきことを認めたことなのです。神は、悔い改めた者を直ぐに赦し、救いの業をなしてくださいます。悔い改めない者は、二節、三節のようにうめき、苦しむことになります。

 先ほどのように自分を誤魔化して平気でいる大人は、自ら罪に苦しむことがなくなるのですが、それは九節の「悟りのない馬やラバのようで」、「くつわや手綱の馬具で押さえ」られる、つまり、問題が起こって神の前にでなければならないような苦しみにあうことになります。私の印象では、問題が起こっても、苦しみが増しても、言い訳を口にしたり、他を非難して誤魔化して生きる人々が殆どのように思われます。ですから「悪者には心の痛みが多い」(10節)のです。

 信仰者とは、「自分の罪を神に知らせ、咎を隠さない」(五節)のです。神に従い、自分の利益・関心を重視しないで過ごすならば、神は私たちに「悟りを与え、行くべき道を教え、助言を与え」〔8節〕てくださるのです。

 冷たい大雨の中、最終ホールを目指して助け合いながら、冗談を言い合い、失敗を反省しながら共に進んでいくのは、あたかも神の国を目指す歩みのようで、充実したものでありました。

 自分や家族に全く問題がないわけではありません。教会員の一人ひとりを心配しないで済むはずはありません。まったく馬鹿な連中です。でも、そういう中でも「主に信頼する者には、恵みがその人を取り囲む。」(十一節)のです。

問題を自分で解決しようと思ってはなりません。思い通りにしようと思ってはなりません。誤魔化したり、言い訳を言ってもなりません。ただ黙々と、家族や友と語らいながら、楽しく歩んでいくのです。嵐もあれば、風も吹く。満点など取ろうと思わず、人を愛していけば充分です。思い通りにならない人を、非難したり、切り捨ててはいけません。精神病者であっても、障害者であっても、神に愛された価値ある人間です。