7月2日 全ての良い働きに整えられる。 Uテモテ31417

新改訳 Uテモ3:14-17

3:14
けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、

3:15
また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

3:16
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

3:17
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。



 天地を創造された英知の神は、その御心と目的を、神の形として造った人間に示さずにはいられません。それは、自然においても現われ(自然啓示。詩篇十九編)、理性によっても悟ることができるものとして人間は造られました(ローマ一章)。しかし、それだけでは足りず、特別啓示としての聖書をもってのみ、真理を知ることができるのです。

 宇宙がはるか昔から存在するという汎神論は、既に科学的には否定されています。仏教や日本神道の教えには、科学的には無理があり、宗教としての意味合いのもとに人々に受け入れられています。つまり、人間には、宗教が必要なのです。

 熱力学の第二法則というのは、物質は崩壊の過程にあるというもので、進化論の基本をなす統合と向上というのは、根底から否定されます。つまり、日常の生活でも体験することですが、物は滅びることはありますが、黙っていて構築、統合されるものは、ないのです。

  このようにして神がいるとしたら、それは世界を作り出す意思をもった唯一神しかありえず、もし唯一神がいるとしたら、その方は、自分をその被造物に示さないことはありえないのです。そのようにして、ユダヤ教にしても回教にしても唯一神教は、聖書を根拠にしなければ、自己矛盾に陥るのです。

 さらに、聖書がその宗教を明確に証明していることが、唯一神教の根拠として必須なこととなります。コーランは旧新約聖書を聖書として認めていても、旧新約聖書がコーランを前もって承認していないので、それはまずいということになります。統一協会の統一経典やモルモン教のモルモン教典、エホバの証人の指導書も同様に権威はありませんので、偽の唯一神教となります。それでは、旧約聖書は新約聖書を預言し、前もって承認しているかというと、これはイエス・キリスト預言を含めて数限りなく存在するのです。

 次に、聖書はどのようによって書かれたのでしょうか。これが、今日の三章十六節「聖書はすべて、神の霊感によるもので」す。霊感とは、「神の霊が、人間の精神に超自然的影響を与え、それによって預言者たち、使徒たち、聖書記者たちが、神の真理をいささかの誤りをも混入することなしに提示するための資質が与えられること」と定義されます。黙示録によれば、その霊感は完結しており、もはや新しい聖書が黙示録以後作られることはないと断定されます。

 さて、このように書かれた聖書を実際に神の言葉として受け入れ、実行することは生身の人間には難しいことです。このことがエゼキエル書に預言され、神の霊が与えられて、聖書にしたがって歩み守り行なうことができると示されています。「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」エゼキエル11・19、20.

 つまり、聖書を神の言葉として受け入れ、実行するのには聖霊なる神が働かなければならないのです。聖霊なる神が働かれるということは、その人が自らの罪を認め神の前に悔い改めることから始まるのです。そして、その働きには、やはり聖書が必要なのです。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御ことばによるのです。(ローマ1017)。聖書と聖霊は相関関係があるのです。

1. 聖書は、人を教えます。真理とは、あなたの存在理由を明らかにします。そして神のあなたに対する意思を知らせます。知識を知るだけでは、人は混乱するだけですが、真理はあなたを自由にします(ヨハネ8・32

2. 聖書は、人を戒めます。どのようにして罪を認めるのか、十字架の死が自らのためであったことがわかるのは、それはやはり聖書によるしかないのです。

3. 聖書は、人の誤りを正します。人は皆、自己中心であり、自分勝手です。矯正は聖書を読み、聖霊によって神の語り掛けとして聞くことによるのです。

4. 聖書は、神の目に正しいことを人に教え、身に付けさせます。聖書によってこそ、神の前に人は正しい人になれるのです。

 十七節で「神の人」とされるのは、神を信じるあなたのことです。あなたは、神を信じるならば、神の働きに参画しなければなりません。神を信じるとは、神を知っているということではないのです。ヤコブ書は、悪霊も神を知っていると語り、神を信じた人は、それにふさわしい行いをしなければ、信仰者とは言えない、と宣言しています。

 私たちは、神を信じている者として、聖書に確かめ、聖霊に導かれて、全ての行動を吟味しなければならないのです。一つ一つのことが、神に喜ばれることか、神の御心か、そのように注意深く生きる人が、「良い働き」をするためにふさわしい、十分に整えられた人になるのです。

 現在、家を新築中ですが、大工さんは、設計図に従い、備えられた材料をマニュアルにしたがって、順序良く実行していきます。わからないところは、図面を読み、また監督に聞いて、決して勝手な行動はしません。そのようにして、施工主の意図にあった家が建ち上がるのです。その一つ一つを行なうためには、大工さんの注意深い判断と卓越した技術が必要なのです。

 私たちも、神に従ってこそ、すばらしい自分の人生を達成できるのです。


7月9日 御言葉を宣べ伝えなさい。 Uテモテ414

新改訳 Uテモ4:1-4

4:1
神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。

4:2
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

4:3
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、

4:4
真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

 六月の低血糖症治療の会には、全国から八十一名の参加者があり、専門的な治療のための勉強を五時間半もしました。その中には、これまであまり治療に乗り気でなかった人や勝手に治療をしている人達もいました。このような患者を集めた治療の講習会をしている医療機関は非常に少ないと思います。

 検査をして低血糖症であるとわかった人が、すべて積極的に治療を進めるわけではありません。マリヤ・クリニックの診療是は、「医者を必要とするのは病人です。」〔ルカ5・31〕ですが、自らを病人であると自覚し、治療を受けようとしない人は、医者と言えどもどうしようもありません。これは、三十二節に続き、罪人であることを自覚しない人は、悔い改めないので、イエス様を求めることはない、という真理を示します。

 多くの患者さんが、低血糖症の論理を示すと、わかったと思い込み、勝手に治療を始めます。こういう人が良くなることはありません。まるで、救いの真理を頭で理解し、教会に加わることもしないで自分をクリスチャンであると思い込む人のようです。それは、罪ということと救いということが、全くわかっていないからです。同様に、低血糖症の癒しの結果の健全な状態を、わかっていないので、悪い症状がでなければ、自分は良くなったと思い込むのです。

そういう人は、体力や能力の限界や過度のストレスを体験した時に、自分では対応できないほどの低血糖症の悪い症状を起こします。しかし、その人は、もはや自分の悪い状態を低血糖症の理由ではなくて、自分の能力や存在自体に起因するものであると判断して、よくなろうという思いが起こらなくなります。そして破滅的、破壊的な行動や感情に陥ります。まさに、罪の結果は死であり、勝手な治療の結果も死です。

 先日の親業セミナーを聞いていても同様なことを思いました。月に一回くらいのセミナーに出ているだけでは、良い親になれるはずがありません。そのセミナーにでて、「自分はだめな親だ。これからは、心を入れ替えて、一生懸命親業を学ぶぞ!」という根性がなければならないのです。

 多くの人が、私を変わったと言ってくださいます。それは、そうです。私は、仕事よりも家族を優先します。どんなに忙しくても、妻が疲れていれば食器を洗い洗濯をします。妻や子供の用事や希望を仕事よりも優先します。日本社会で、そんなことはできない、という人は、この社会で世の光、地の塩として生きることを諦めた人です。いいですか、本気で聞いてください。

 PTAで一生懸命働くことが子供のために働いていることではありません。子供自身を心配し、その全てがうまくいくように自分を注ぐのです。それが人を愛するということです。多くの人が「自分は努力しているのだ。」と言い訳を言います。「生きている人と死んだ人とを裁かれるキリスト・イエスの御前」(1節)に出た時、その言い訳が通じるかどうか、考えて御覧なさい。

伝道というのは字のごとく、道を伝えることであって、伝導ではありません。私は、そのために人生を掛け、財産を掛け、時間を掛けています。まじめに教会に来た人の8割が洗礼を受け、その8割が聖霊のバプテスマを受け、その8割が忠実に信仰を続け、その8割が信仰の実りを体験します。その比率は他の教会に比べて高いでしょう。多くの人が、楽をしようと「自分の都合の良いこと」を求めて、「健全な教えに耳を貸そうとせず」(3節)、神に献身しません。大事なことは、時が良かろうと悪かろうと聖書を語り続けることです。相手を選ばず、ただ「寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、勧める」〔2節〕しかないのです。

 低血糖症の治療をしていて感動することがあります。それは、病気の子供を治そうと必死に治療を試みて、マリヤ・クリニックに辿り着いた親に会うことです。精神病と断定され、治療が不可能だと言われ、成人している子供の状態も悪く、親に決して良い態度を取っていないのに、それでもめげずに治そうとされている人々です。私は、彼らを見て、罪人の取り成しを必死にしながら伝道する伝道者の姿を思わせられるのです。

 多くの親が、子供は成人しているので本人の問題だと、責任を放棄します。自分は努力しているのだと言い訳を言います。しかし、その弁解は神の前では通りません。私自身、次男が非行した時に、その弁解をしていて、神の裁きを感じたのです。私は、悔い改めましたが、それでも改善するのに7,8年の月日と、多くの犠牲を強いられました。悔い改めというのは、その労苦と犠牲を受け入れるということです。私にとって、人間性が変わるほどの苦悩の時期でしたが、神は、私の犠牲を受け入れてくださいました。

 低血糖症や慢性疾患、そして生活習慣病については当然なことですが、病気というのは、医者任せでは治らないのです。身体を労わり、病気の原因を知り、改善の努力をする、ということは、人生そのものの意味をつかむことでもあるのです。ルカ福音書を読むと、病の癒しの共に語るイエス様の赦しの言葉、励ましの言葉に気がつきます。

  同様に、信仰者としての成長は、牧師任せ、神任せではなく、その人自身の御言葉への姿勢が問われるのです。御言葉を学びながら、じぶん問題の原因を探り、改善の努力をすることが、その人の信仰者としての賜物、役割を悟らせるのです。そのための労苦や努力を厭う人は、神の前に立ちおおせないでしょう。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」へブル4・12,13



7月16日 自分の務めを果たしなさい。 Uテモテ458

新改訳 Uテモ4:5-8

4:5
しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。

4:6
私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。

4:7
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

4:8
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。


 教会の建物に仮住まいをするのは昨日が最後です。私は、見た目よりも神経が繊細で音や光が差すと熟睡できず、暑さ・寒さにも弱いのです。キャンプ活動の指導者を退いたのも、実は野外のテント生活で殆ど眠ることができず、暑さの中で心臓に負担を感じたからです。梅雨も過ぎ、暑さがひどくなって、金曜は明け方まで眠れませんでした。疲れから筋肉の痙攣が直らず、栄養剤よりも休息と睡眠を必要としていることがわかります。この冬の寒さに閉口し、これでは体力的にダメージを受けてしまい、存分に働くことができないと夫婦で話し合い、我が家を戦いの基地にすべく、建て直しを決めました。会堂の4階に4ヶ月住んでみて、これ以上住んだら身体がぼろぼろになると感じ始めました。

 「身を慎み」の慎むという原語は、「酒を飲まずに自制する」という言葉だそうです。酒が好きな人は、これをやめることは非常に難しいでしょう。新築祝いということで、既にお酒を2箇所からもらいました。どのように処分しようかと考えています。私は、クリスチャンになる前は、日本酒二升も飲む大酒のみでした。信仰を持った後、これは身を滅ぼすと判断し、直ぐにやめました。バイクの運転も同様です。キャンプ活動や山登りも身体を壊してからやめました。

 この梅雨の季節は15年くらい前から本当にきついものとなりました。痛風の身には、湿度は堪えます。週2回のスイミングを欠かさず、甘いものは一切摂らず、好きな食物も食べません。どういうわけか、好きな食物は身体に悪いのです。尿酸値を抑えるための水分を摂るためにはハーブティーを研究し始めています。それでも体力を維持するのは容易ではありません。

 好きなものでも自制しなければ神に仕えることはできません。ガンになった娘と残された時間を過ごす為に、牧師を辞めた人の話を聞きました。カウンセリングや子育ての権威のドブソン博士は息子が問題を起こしてからしばらくは、仕事をせずに息子と過ごしたそうです。

 私は、これまで不器用な家内や成長過程の子供のために、節制に努め、病気や問題に負けてはならないと考えて、ここまで来ました。それが神の導きであり、自分の働き、務めあったと振り返ることができます。今は、低血糖症の患者への洞察と治療への願い、そして、それらからも気づかされる未信者の固い心、さらには、キリスト教の牧師・教職にも見られる心の頑なさ、こういうものを取り成して祈る時に、自らの今後の使命をも覚えさせられます。

 仕事があるから、能力がないから、など献身を拒むいろいろな理由があります。牧師になるか否かではなく、献身的に神に仕えるということは、全てのクリスチャンの使命です。献身していないのは、その気がないからです。例えば、妻を愛するということは、妻に献身するということです。子供を愛するということも同様です。

 自分勝手に生きる者は献身できません。節制することもなく、困難に耐えることもありません。自分の務めを果たすこともせず、言い訳で生きています。工事に二人の監督がいました。一人は、仕事に献身しており、非常に有能でミスに対する対応が的確でした。もう一人は、計画もチェックもせずに仕事をし、ミスをすると謝罪と言い訳で済ましていました。これでは、社内における評価はおのずと違ってきます。

 「自分の務めを果たしなさい。」自分の務めがわかるには、人生を一生懸命生きなければなりません。「楽をしたい。」という人が罪に打ち勝つことも、栄冠を勝ち取ることもできないのは当然です。かえって罪に虜にされてしまい、正しい審判者の前に立ち遂せないでしょう。

 礼拝を守るために真剣になるべきです。聖書を読むために多くの時間を割く努力をしなければなりません。自分のことばかり考えている人は、取り成しの祈りをすることはありません。信仰というのは、罪との戦いです。自己中心の罪をかなぐり捨てて、神に献身しなければ、勝利はありません。勝利をしなければ、その人の人生は虚しく過ぎていくだけなのです。そして、他の人の罪をとがめ、自分を正当化し、言い争いの日々を変わることなく過ごして、審判の日を迎えるのです。

 神に献身してしばらく生きると、自らの務めが明らかになってきます。なぜなら、人々があなたを喜び、あなたの働きが実を結ぶからです。「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」(マタイ7・16.17)。

 あなたの人生によって、今誰かがクリスチャンになっているならば、あなたは良い実を実らせています。クリスチャンになったけれど、やめてしまったのなら、良い実になる前に落ちてしまったのです。一人も、クリスチャンに導いていないとしたら、何によって、良い実を実らせていると考えられるでしょうか。良い品性なのでしょうか。私は良い品性を実らせようとすることは、悪い実を結ぶ結果になると思っています。要するに自己満足なのです。

 子供を生み、育てるということは、生半可のことではありません。あなたも、誰かをクリスチャンとして生み出し、成長させるために、神に献身するべきです。人に関わるということは、本当に大変なことです。しかし、だからこそ、良い実を実らせようとすること自体が、あなたを良い実にするのです。

 自己満足を求める生き方は決して満足をもたらしません。神と人に自分を注ぐべきです。あなたが、一番気になっている人に、自分を注いでください。節制を尽くし、困難に耐え、自分しかできない務めに献身してください。献身というのは、自分を献げるということであって、相手を思うとおりにすることではなく、相手の思うとおりに自分がなることです。


7月23日 旅路の果てに御国へ凱旋。 Uテモテ4922

新改訳 Uテモ4:9-22

4:9
あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。
4:10
デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。 
4:11
ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。 
4:12
私はテキコをエペソに遣わしました。
4:13
あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。 
4:14
銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。 
4:15
あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。 
4:16
私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。 
4:17
しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。 
4:18
主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。
4:19
プリスカとアクラによろしく。また、オネシポロの家族によろしく。 
4:20
エラストはコリントにとどまり、トロピモは病気のためにミレトに残して来ました。 
4:21
何とかして、冬になる前に来てください。ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤ、またすべての兄弟たちが、あなたによろしくと言っています。
4:22
主があなたの霊とともにおられますように。恵みが、あなたがたとともにありますように。

 今日は開拓二十二周年記念礼拝です。パウロではないですが、よくここまで来れたと感謝をせずにはおられません。しかし、私たちだけが大変な思いをしたのではなく、開拓伝道をした牧師たちは皆大変な苦労をしてくるものです。

 さて、そんな中で今日の聖句とは関係ありませんが、ふと思わされました。教会の開拓の歴史が記念誌に綴られ、DVDで記録されます。アナログですと、それを記録するのには、そのデータの長さ分の時間が必要ですが、デジタルですと、あっというまにデータが記録されます。神の創造の奇跡も、数十億年分の歴史を一日で造り上げてしまうことも可能であるということです。プロは、その作品があたかも長い年月を掛けてできたかのように創作します。神の創造の奇跡に関して、神が素人っぽく突然できたかのような自然を造るはずがありません。まるで録画テープでは、その記録に時間通りのタイムが必要であっても、デジタル録画には、あっという間にもっと大容量のデータを詰め込んで作成してしまうかのようです。

 パウロは、テモテになんとしてでもなるべく早く来てほしいと依頼しています。それは多くの困難の中にあって、助けを求めうる信頼する弟子がいるということです。師というのは単なる上司ではありません。個人的な関係であって、その確立された関係が信頼なのです。私も数人の師がいますが、決して批判したり、攻撃することはありません。師であるということは、仕えるべき存在として意識することです。

最近は、このような人間関係を形成できる人が非常に少ないようです。それは、皆が自分勝手に利用できる人を探しているからです。「自分にとって利用できるものがなくなれば交流をやめる」、こういう関係だけの人は、親友も持てないし、夫婦として仲良くもできません。そのことが顕著にでるのが、弟子と師なのです。

 テモテには警戒すべき人々をあらかじめ伝えておきます。

1. 世の中を愛し、師を捨てたデマス。

2. 教会から除名されても、伝道を妨害し続けるアレキサンデル。

 他方、パウロには、すばらしい助け手がいました。

1. 医者としての身分がありながら、パウロを助けるために奴隷としてパウロに仕え、いつも一緒にいて助け、そして福音書や使徒の働きを記録したルカ。

2. 気兼ねせずに何でも頼める弟子のテモテ。

3. 献身的な信徒夫婦のアクラとプリスキラ。

4. 一度は伝道の困難さの中に逃げてしまったが(使徒1538)、バルナバの指導の下で成長し、信頼を回復し、ついには福音書を書いたマルコ。

5. 体力と信頼のあるテキコはパウロの手紙を各地に届けた。

パウロの死は、ローマ皇帝ネロの大迫害の時代であったようですから、紀元68年ごろとされています。このUテモテ書がパウロの絶筆ですから、迫害の中でパウロへの待遇は極端に悪くなり、「使徒の働き」に記された獄中の様子とはかなり違っており、寒さの中で上着が欲しいとテモテに注文しているのでもわかります。

 医者ルカは「使徒の働き」を記した61年頃では、ローマ政府の高官に対して「テオピロよ。」と語っていることからも地位は高かったと思われますが、立場の悪い病弱なパウロに付き添うためにパウロの奴隷と偽って付き添い、世話をしています。福音書や使徒の働きの記述からもわかるように、非常に聡明な人ですが、自らをなげうってパウロに仕えています。自分中心なのはいつの時代でも同じですが、神に覚えられ、人の心を打つのは、このような献身的な人々です。

 アクラとプリスキラは教会を支えるために献身している裕福な信徒夫婦です。彼らは教理を正しく理解し、熱血の伝道者アポロに教理の間違いを正し、聖霊のバプテスマを体験させ、支援して伝道に送りだしています(使徒1826.27)。彼らは、多くの伝道者の世話をし、励まし助け、信者の模範とされています。

 神に自らを明け渡していない人は、他人の短所・弱点をあげつらい、自分の怠惰と勝手の言い訳としています。人は、誰でも欠点があります。しかし、そのことを気にしないで、欠点のある人を支え、助けるならば、神があなたを補い助けてくださいます。「あなたが量るとおりに、あなたも量られます。」(マタイ7・2)「自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのとおりにしなさい。」(マタイ7・12)。

 私は、献身してからいわゆる精神病者との交流が多くなりました。彼らには多くの人格的障害があり、未熟なところも多く、問題を起こします。最初は、何でこんなことを我慢しやらなければならないのかと、不満を感じたことも多くありました。ところが、病む人の理解というのは、非常に自らを優しくします。優しくなるか、批判的嫌悪的になるかは、その人の人生に大きく影響します。

 クリスチャンで、病む人を理解せず、関わりを持とうとしない多くの人を知っています。彼らの人生は、福音の恵みを体験できません。福音とは、貧しい者たちへのものであり、恵まれていない人々への恵みなのです(ルカ4・18.19)。だから貧しい者は幸い(ルカ6・20)であり、哀れみ深くあるべきなのです(ルカ4・36)。

 私は、満たされていながら自分勝手な人々に対して、殆ど魂の責任を感じておりません。彼らは、罪の中に滅んでいくのです。満たされたなら、満たされていない人々への責任を感じるものでなければなりません。パウロは、その生涯最後の公式挨拶を、主があなたの霊と共におられますようにと祈っています。自らの人格の中に主の存在を意識し、そうしてこそ、恵みがわたしたちと共にあるのです。


7月30日 宣教の務めを全うする。 テトス1章1〜5

新改訳 テト 1:1-5

1:1
神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ――私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。

1:2
それは、偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。

1:3
神は、ご自分の定められた時に、このみことばを宣教によって明らかにされました。私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、ゆだねられたのです。――このパウロから、

1:4
同じ信仰による真実のわが子テトスへ。父なる神および私たちの救い主なるキリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。

1:5
私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。

パウロは、自分を「神のしもべ」とまず、位置づけて紹介しています。なぜ、大使徒パウロが自分を神の奴隷と意識しなければならないのでしょうか。

奴隷とは、主人に対して絶対的服従と献身を要求された存在です。福音を伝える対象は、人間であり、人間とは基本的に自己中心な存在、つまり罪人だからです。先週、パウロが牢獄に入っており、いよいよ死刑になるという時に、パウロを捨てたデマスという弟子がいたり、妨害を続けるアレキサンデルという人がいた、ということを学びました。興奮し、自分勝手な行動をとる人々に対して、指導者という者は、自らを「神の僕」と意識づけなければ、決して働きを続けることはできないものなのです。

また、パウロは、自らを「イエス・キリストの使徒」と自覚していますが、「使徒」とは、「全権を委任されて派遣された者」という意味だそうです。女子サッカーで、北朝鮮の選手が審判に対して暴力を働いていました。負けそうになると、審判が悪かったのだと言い訳を考えていないと帰国した時に処分される恐れがあるので、相手や審判の非難をしておくようです。審判は試合遂行の権限をもっているので、相手の批判的行動に左右されないように注意しなければなりません。同様に、人もまた、自らの弱さ罪深さが表に現れる時に、他人の批判をして自分の正当化をしておく傾向があるので、牧師もまた、自らを神の権威の代行者として、そういうことに巻き込まれないように自覚しなければなりません。

一般論で問えば、多くの人が自らの罪深さを認めるものです。しかし、日常生活の中で自らの過ちを認め、正していくということは難しいものです。神様は、信仰生活につまずきの石を置く、と語っておられます(Tペテロ2・8)。神を信頼する者は、いろいろな問題が起こり、自分の都合が悪くなっても、或いは自分が故なき非難をされても、「決して失望することがない。」(Tペテロ2・6)のです。実は、人生というものは、いつもつまずきの石がころがっており、サタンは、私たちを誘惑して、神を信頼するよりもむしろ、現実に落胆し、人の行動に腹を立てさせて、その人生を破壊させようとするのです。

ワールドカップで、ジダン選手が悪口に腹を立てて、相手の選手に頭突きをくらわしてしまいました。どんなにひどいことを言われようとも、テレビを見ていた多くの人々の心を痛め、子供たちに悪影響を与えたことは事実です。今後、悪口を言われたら相手に暴力を振るう行動をとるスポーツ選手が増え、日常生活でも増えていくでしょう。彼の名誉と名声だけでなく、社会が悪影響を受けるのです。

そういう中で、信仰者は神を信じ、人々の悪と攻撃に耐えるのです。それは彼らが「神に選ばれた人々」(1節)だからであり、そのような中で敬虔が身についてくるのです。つまり、神を信じるからこそ「敬虔」になり、敬虔な人々でなければ「真理の知識」である聖書を求めることもないので、真理というのは敬虔な人にふさわしいものなのです。キリスト教の指導者というのは、神に選ばれた敬虔な人に信仰を勧め、真理を教えることを働きとするのです。

「永遠の昔」とは、天地創造の前であり、サタンとそれにつく悪天使が神に逆らった時のことです。神は、霊的な存在のサタンに反逆の後、物質界を創造されました。肉によって誘惑されうる限界を持つ人間という存在を造られ、その人間の救いによって神の義と愛を示されたのです。(ヘブル1章)

 人は前述のように肉欲によって誘惑されやすい存在です。しかし、神はその弱い人間という存在の救いに自分を掛けられたのです。なんと天地を造られた神は、神を求め信じる人を救い、神の子とされる特権を与えるのです。(ヘブル2・6,7)

 罪の中で生きる人間は、自分の判断や考えを是として、神を求めることをしません。それを知っておられる神は、御子イエスを人間として生まれさせ、神の愛と真理を教えようとされました。そして、自己中心な人間の罪をその身に負うべく十字架に掛かりました。イエス・キリストの十字架の死とは、神の敗北ではなく、神の勝利なのです。それは、神がその身に人間の罪の全てを引き受けたということであり、その死が自分の罪のためであると信じ受け入れた人は、もはや罪の罰を受ける必要がないからです。

 ところが、愛されたことのない人間は、赦しを信じられません。神に嫌われていると思い込んでしまうのです。その人間に神の愛と赦しのメッセージを伝えるのが、福音宣教なのです。罪深く、誘惑に負けそうな人間に、神は宣教を委ねるのです。実は、この宣教こそ、神とサタンの大いなる賭けなのです。

 神は霊的な存在であるサタンよりも、さらに罪に弱い人間に、ご自分を掛けられたのです。この罪深い人間が、神を信じ救われて、信仰生活を全うするならば、神の勝利なのです。サタンよりもはるかに弱い人間が、神を信じて死に至るまで忠実であれば、サタンの正当性は打ち破られるのです。神は、その全知全能の全てを人間に託して、正義を証明されたのです。ですから、最後の審判のときに、神の栄光が褒め称えられるのです。神が、その存在を掛けて、福音の勝利を達成するからこそ、神が褒め称えられるのです。神が人を愛するというのは、そういうことなのです。

 人間が救われようと滅びようと関係なく、ギリシャ神話の神々のように人間界を遊びのように見ているのならば、それは愛ではありません。人を愛するとは、その相手の幸せに自分の全てを費やすことなのです。現在、次男夫婦と孫が同居していますが、孫を愛するということは、どうも無責任で、子供の時のように、親の存在を掛けて、躾けや人間教育をするという気迫がありません。これは、あまり同居を伸ばすと、孫の人格教育には良くないぞ、という気がしてきています。

 神は、人の救いのために、御子を人間界に送り、十字架の死にまで至らせて救いの業をされました。そして、その福音の宣教を人間に委ねておられるのです。その愛に応答し、罪びとの取り成しと伝道に仕えて、神のしもべとなる人はいるでしょうか。


8月6日 信者であるということ。 テトス1章516 

新改訳 テト
1:5
私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。

1:6
それには、その人が、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。

1:7
監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、

1:8
かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、

1:9
教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。

1:10
実は、反抗的な者、空論に走る者、人を惑わす者が多くいます。特に、割礼を受けた人々がそうです。

1:11
彼らの口を封じなければいけません。彼らは、不正な利を得るために、教えてはいけないことを教え、家々を破壊しています。

1:12
彼らと同国人であるひとりの預言者がこう言いました。「クレテ人は昔からのうそつき、悪いけだもの、なまけ者の食いしんぼう。」

1:13
この証言はほんとうなのです。ですから、きびしく戒めて、人々の信仰を健全にし、

1:14
ユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。

1:15
きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。

1:16
彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。


パウロはテトスに対してクレテ島にある町ごとの教会に長老・役員を任命させようとしています。このクレテ島は、12節にあるように「うそつき、悪いけだもの、なまけ者の食いしん坊」と言われるひどい人々の町です。そういうところで、町ごとに教会ができるのですから、すごいものです。どのように対処したら良いか、テトスならずとも困惑して当然です。

 それでも、組織というものは大事です。牧師は牧師になることによって、牧師らしくなり、役員も責任を負って役員としての働きをすることによって、役員らしくなるのです。教会にも、「反抗的な者、空論に走る者、人を惑わす者が多くいます。」(10節)。それは、生まれながらの性質を変えようとしないで、それを自分の固有の性格だと思っているからです。

 「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。」(Tコリント2・14)。たとえ、神を信じクリスチャンになっても、「あなた方の間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。」(Tコリント3・3)。実は、多くのクリスチャンが、単に神を知り、聖書を読んだだけで終始し、神の子、御霊の人になろうとしていません。「正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。」(Tコリント6・9)。

 現代社会は、クレテ島の状態よりも悪いでしょう。そういう中で、私たちがどのように生きるかによって、私たちが御国の人であり、神の国に行く者であるか、肉の人であり、神の国を相続できないかが明らかになるのです。

 私は、自分が御霊に導かれていることに感動します。それほど、能力があるわけではなく、性格が良いわけでもないことは、聖霊によって充分に知らされています。それでも、私のうちには、聖霊がおられ、私は、罪びとに接しその罪によって自分の権利が侵害されても、私はその人の取り成しをしているのです。なんという奇跡でしょうか。無論、悪には怒り、正義を志します。それでも、それらの判断を、私は自分のうちに内在される神の御霊にお任せすることを身に付けています。ですから、生まれながらの罪びとである自分ではありえない、神がおられて私を愛し、導かれているという感動を体験するのです。

 聖霊に満たされているとは、どういうことでしょうか。

1. 自分の罪に敏感になっているはずです。「神に生きるために、律法に死ぬ。キリストと共に十字架につけられる。」(ガラテヤ2・19,20)。

2. 行いではなく信仰による義をいただいている。(ガラテヤ2・16)

3. キリストが自分のうちにおられるのを感じている。(ガラテヤ2・20)

 さて、そのためにはどうしたらよいのでしょうか。それは、自分を捨てる(ガラテヤ2・20)ことが必要です。現代社会で、なんと多くの判断をしなければならないことでしょうか。その判断において、自分の判断ではなく、神に委ね、神の益となるように図ることが大事です。(Tコリント6・12)。

 生身の人間が、どうしてこのようになれるのでしょうか。それは、役割です。息子夫婦が、しっかりとした親になっているのに、本当に驚いてます。あんなに自分勝手だった息子が、子供のために眠くても保育園の用意を整え、ミルクを作り、おしめを換え、世話をやくだけでなく、躾けやマナーも教えています。夫婦が子供なしにパートナーとして協力し合っても、なかなか自らの責任を全うできるものではありません。

 言い訳のできない責任を負うということが人間にとって必要なのではないでしょうか。周囲は、誰が一番子供に好かれるかが関心ですが、親は子供を躾けることが関心です。好かれることを求めるより、子供を愛しているのです。こういうことを子供の小さい時に協力してやらないと、良い夫婦はできないでしょう。子供がいるならば、言いたいことを言って伴侶を傷つけることもなくなるものです。このような自制の心のない親は、決して子供に良い影響を与えることもなく、神の前で責められるでしょう。

 同様に、牧師も教会役員も、自分勝手な教会員や求道者に対して根気よく信仰者に育てあげる責任を負わなければなりません。何度も語っているように、仕事や事務に関してだけでなく、人間に対して心のこもった配慮のできる人でなければなりません。教会の執事や執事補というのは、そういう面で尊敬されるべき存在であるという自覚を持つことが重要です。自分のやりたいことをやって強い信仰を身につけようとする人は、神に喜ばれる信仰を履き違えています。

 ある執事が執事補との違いは、自分の思うとおりにならない存在である伴侶を抱えた既婚者であることが条件であると言ったのは言い得て妙であります。ともかく、執事の条件は以下のとおりです。

1. 家庭をしっかりと治めている人。6節

2. 社会性と公正性、しっかりとした生活習慣。7節。

3. 他人に対する配慮と指導性。8,9節。

4. 健全な教理の理解。9,13節。

 教会は、清さを守り、このように健全であるためにいつも努力をしていかなければならないものですから、牧師も、執事もこれを果たせなければ、直ぐに引退しなければならず、問題を起こしたら、自ら辞職をしなければなりません。しかし、そのような困難に関わらず、この責任を全うしたら、神の前で大変な栄誉を得ることができるでしょう。全ての信仰者は、教会における責任ある役割を果たすことを志すべきでしょう。


8月13日  世の終わりに信仰を守る。 マタイ書24314

新改訳 マタ 24:3-14

24:3
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

24:4
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。

24:5
わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

24:6
また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

24:7
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

24:8
しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

24:9
そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

24:10
また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

24:11
また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

24:12
不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

24:13
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

24:14
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。


 ロンドンでアメリカ行きの航空機を対象としたテロが実行されようとしていたというニュースには驚きました。丁度、アメリカにいる友人に、「聖書には終末の記述にアメリカらしいものがない。アメリカは終末が来る前に、原爆のテロで滅んでいるのではないか。気をつけてください。」とメールを出したところでした。イスラエルにおける戦争も治まりそうもなく、もし、イスラエルがイスラム教を敵視して、エルサレムの神殿にある回教ドームを破壊したりしたら、もはや終末は始ったと言って良いでしょう。

 日本でも、暴君の小泉首相に続き過激派の安倍さんが後継者になりそうで、政治的には荒れそうな雰囲気で、社会経済は弱肉強食の時代になってくるでしょう。敗(終)戦記念日が今週ですが、前の戦争は決して日本には教訓となっていないようです。

 「百万人の福音」8月号にあるクリスチャン、片山日出雄海軍大尉の銃殺刑に至る記事が印象深いものでした。戦後帰国していた大尉が新聞紙上で戦犯とされたことを知り、身にやましいもののない大尉は「連合軍の正義と神の導きに任せ」出頭しました。ラバウルに送られると直ぐに裁判に掛けられ、銃殺刑を宣告されました。調べてみると、司令部の上級将校が全ての責任を片山大尉の首謀とデッチ上げていたのです。

 死刑と決まり、投獄されて片山大尉はヨブ記を読み、彼は信仰の奥義を体得します。「正義が苦難を受くるとも、それは神の栄光のためである。クリスチャンはサタンに対し、神への信頼を誇り、全能者の手によって創造された自らの生の意義を示すのである。苦難の底に沈んでも彼は神を非難せず、その生活によって、彼はただ信仰により、神を讃美する。いかなる人の陰謀といえども、いかなる人の憎悪といえども、真のキリスト者のうちに働く神のみわざを損なうことはできない。・・・渡私は、刑務所の暗黒から、明るい日向に出されたような気がしました。神の赦しと希望、聖なる救いと試練を身に感じながら、聖なる光の中に立っていたのです。」(遺書)

 彼は、死刑囚でありながらバイブル・クラスを始め、英語が堪能であるので司令部の翻訳室で働くほど信頼を受けた。彼は部下の減刑のためにも尽力し、また多くの人々を救いに導いた。連合軍の将校たちのとりなしや減刑運動にも関わらず、彼は銃殺刑を受けました。しかし、決して取り乱すことなく、祈りの中で喜びのうちに死んでいきました。

 私たちは、天皇を神とし、それを認めないと捕らえられた戦争時に、多くの日本人クリスチャンや牧師が、妥協して真の神を信じながらも天皇を崇拝したことをしょうがなかった、と言い訳をしています。しかし、歴史上、クリスチャンはいつも、そのような試練を体験してきながらも、決して妥協しないからこそ、キリスト教が広まってきたことを覚えておかなければなりません。

 キリスト教への大迫害で有名なローマ帝国は、実は宗教には寛容であり、多くの宗教が帝国内で自由に信者を増やしていたそうです。ところが、それは、皇帝礼拝をした上で許されることで、人々はいろいろな真理を共有していました。キリスト教は、唯一の神であり、唯一の真理を信じます。156年に殺された大主教ポリュカルポスは、皇帝礼拝を拒み、無神論者として火あぶりにされました。

 サタンは、私たちクリスチャンに妥協するように誘惑します。「天皇が神だなんて、誰も思っていない。ただ、その姿勢を見せることが社会の秩序に必要なのだ。」そして、天皇を神として礼拝した人は、クリスチャンであり続けることが出来ませんでした。サタンの罠は創世記の時代から同じです。「神はそんな厳しいことを本当に言われたのですか。」(創世記3・1、少し変えました。)

 片山大尉もポリュカルポスも死に至るも忠実でした。サタンは人々の後ろで働いて私たちを惑わします。「そんな堅苦しいことを言わなければ、クリスチャンになるのだけど。」「少しは酒を飲んで馬鹿なことをやれよ。付き合いが悪いぞ。そんなじゃ、教会にも付き合わないぞ。」

 或いは、他の人を非難します。そして私たちに同意させようとします。他の人を攻撃し、非難したら、同じ穴のムジナになります。私たちに誘惑の罠が待ち受けます。片山大尉は、決して上官を責めず、むしろ自ら犠牲となりました。キリストの模範に従ったのです。

 或いは、罪を犯した人に同情的になり、悔い改めるよりも言い訳を認めます。それは、自分が罪を犯した場合に備えるからです。そんな人には、もはや聖霊は内在していません。

 現代社会で、教会は倫理的に、信仰的に厳しくあらねばなりません。なぜなら、妥協と言い訳の罠があちこちに仕掛けられているからです。そして、厳しくあるということは、非常に大変なことなのです。自らが、それを律しなければ、決して人に要求できないからです。

 人は元から罪びとなので、自分を甘やかし、罪に対して断固とした対応ができません。自分が溺れてしまったら、人を救うことはできません。罪に惑わされる人は、一緒に溺れてしまうだけです。そういう面で、教会理念に書かれているように、キリストの弟子となった指導者層の形成こそ教会の使命なのです。私は、執事、執事補の数を増やすことこそが、教会の力であると信じております。


8月20日 健全な言葉を用いなさい。 テトス書2110節 

新改訳 テト 2:1-10

2:1
しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。

2:2
老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。

2:3
同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。

2:4
そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、

2:5
慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。

2:6
同じように、若い人々には、思慮深くあるように勧めなさい。

2:7
また、すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、

2:8
非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう。

2:9
奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、

2:10
盗みをせず、努めて真実を表わすように勧めなさい。それは、彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。



 休み中に幾つか映画を観ました。我が家のテレビは4メディアというものがついており、無料で100本見られるからです。その中で、3日後に資産家の一人娘と結婚する予定の男が、ショーガールに魅入られて浮気をするものがありました。彼女の情夫は、やくざであり、有名な大金持ちと結婚しようとする彼に、彼女との結婚を脅してさせてしまいます。資産家と娘に詫びて、騙されたという彼に対して、資産家は3ヶ月の謹慎を命じます。その3ヵ月後、翌日が再び結婚式の時に、彼はまた彼女と出会い、やはり惚れているのだと結婚してしまいます。しばらくして、生活苦の中で別れるのですが、やはり縁りを戻します。その間に資産家の娘も運転手と駆け落ちをし、資産家も失望の中で破綻します。

 他方、妬みから罪を着せられ、苦難の中を歩む父と娘の、神を信頼する誠実な人生を描いた本「花かご?敬虔と真理の勝利」も(チア・にっぽん)から出版されようとしています。先週の片山大尉にしても、そうですが、クリスチャンと未信者との違いは大きいのです。

 ところが、実際は、日本においてクリスチャンがこの世において、良き実り、証を立てていないのは事実です。それは、神を信じるということが、本気でないからです。昨日、10年以上前に洗礼を受けた方が、花を届けに来ました。年に何回か、祝福を求めに、そのように来ます。その方は、他の宗教にもそのように礼を尽くしています。当時、教理的には、きちんと教えたつもりですが、彼女にとっては、それはそれとして建て前と本音を使い分けているのです。私は、まるで本妻と2号さん、3号さん、さらに浮気の相手を使い分けているようで、非常に当惑するのですが、本人としては誠意を尽くしていると思っているので、指導のしようもなく、また殆ど私の語る暇もなく、一方的に報告して帰っていきます。

 聖書の神は、十戒において、「他の神があってはならない。」「拝んではならない。仕えてはならない。」とはっきり定め、厳しい罰則を宣言しています。しかし、イスラエルの民は、その戒めを軽んじて多くの試練に遭ってしまい、バビロン捕囚の末に、決して他の神を拝まない民族に変えられていきました。

 聖書はこのことを、夫婦の関係に例えています。例えば、ホセア書では、偶像礼拝をすることを姦淫として、その有様を厳しく非難しています。夫婦が伴侶以外の者に、伴侶以上に優しくすることは、浮気と同じものです。同等であっても異常です。伴侶以外に、色目を使ってはいけないのです。ところが、日本では仲の良い夫婦が少ないのです。夫婦というのは、いつも相手のことを見つめ、相手の幸せを考え、そのために存在するのです。

 先日、体調を崩した妻が寝ていると、風邪を引いて喉が詰まっているからか、軽いいびきが聞こえてきました。娘は、それを聞いて、「いびき防止の鼻栓をしたら」と言いました。私は、「夫婦というものは、苦しみも悲しみを共にしなくてはいけない」、と諭して、妻の背中や足をもみ続けました。いびきをやめさせようとするのは、自分勝手な考え方です。いびきをかいてしまうほど、疲れている、あるいは体調を崩していることを心配して介抱するのは、優しさです。このような優しさを妻以外に、何人も持つことは不可能です。

  同様に、神を信じるということが真剣であるならば、神に喜ばれないことをするはずが無く、いつも神のことを考えているはずです。私は、特に男性がおかしいと思っています。仕事よりも、妻の方が大事でなければならないのです。そして、その妻と愛し合う先に、神の存在があるのです。神が愛してくださっっていることを知っているからこそ、夫婦が困難や問題、違いを超えて愛し合うことができるのです。

 妻よりも仕事を優先する夫が、神に仕えることなど、できるはずがありません。牧師職でも同様で、「神様が第一」と言って、妻のことをないがしろにする牧師は、自己満足で神に仕えると思っているに過ぎません。それは、未信者の伴侶であっても同様です。未婚の人にとっては、そのような共に神に仕える伴侶を探すということが、一番の課題です。伴侶を失った人にとっては、その痛みを思い出しながら、伴侶に喜ばれるような人生を送ることが大事です。

 神は、人を「男と女に創られました。」一人で勝手に生きることは、罪を助長させ、破滅の人生となるのです。結婚しながらも好き勝手に生きようとする人は、いつも罪の報いの苦しみと苦味を味わっているのです。十字架を負い、苦しみをものともせずに、人を愛する人にのみ、キリストの祝福と喜びは、あふれるのです。

 言葉を制御できない人は、罪の苦味を味わうだけです。人を責める言葉、非難する言葉を決して、口に出してはいけません。失望の言葉も自らを破滅させます。神を信じ、希望をもって過ごすべきです。毎日の終わりに、自らを吟味し、傲慢なことがなかったか、否定的なことがなかったか、他の人に対する行動は、健全であったか、必ず確認しなければなりません。そして、神に助けを乞い、敬虔に振舞えるように祈るのです。

 祈りとは、願い事を列挙するようなものであってはいけません。周囲の人を、祈りの中で確認し、悲しんでいることはなかったか、苦しんでいることはなかったか、神に問いながら、自らのなすべきことを教えられるのです。その祈りを夫婦で共有できるならば、なんと味わい深い人生を過ごせることでしょうか。自己吟味を怠ってはいけません。それができない人は、愚かで無意味な人生を過ごすことでしょう。


8月27日 祝福された望みを目指して。 テトス書21115

新改訳 テト 2:11-15

2:11
というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、

2:12
私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、

2:13
祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。

2:14
キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

2:15
あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。

 先週、クリニックの従業員研修会で寺田姉を講師としてコーチングを学びました。コーチというのは、大型四輪馬車のことで、目的地に向かって乗り合わせた者の状況に応じて自由な道を選びながら、ゆっくりと進んでいくことを意味することができます。他方、トレーニングというのは、トレインから発展し、予め敷かれたレールに沿って、目的地に向かって引っ張っていくことを意味することができます。ただ、コーチングがトレーニングに勝っているということではなく、使い分けが重要であるとテキストにありました。

 コーチングがうまくいくと、自主的な目標設定を行うことができるようになりますが、コーチは評価をしないそうです。トレーニングでは、目標設定と比較した評価が付きものですが、この辺が大きく違います。聖書的な生き方を身につけるには、適切な方法かと思われます。

 カウンセリングとも違うようで、カウンセリングの場合、心理的精神的な病状への対応として、ケアが必要になってきます。しかし、実際には、全ての人が罪びとであり、自己中心な判断をもっていることからすれば、それらすべてが必要かと思います。私としては、多くの人が、これらを受けようとしないで、おのおの勝手なことをしている(イザヤ53・6)ことこそが、問題かと思います。

 十一節にある「神の恵み」とは、神の子が人となって現れ、真理を教え、十字架で贖いをなしたということであり、復活によって勝利を示されたことです。しかし、それでもなお、人は「不敬虔とこの世の欲」(十二節)の中におります。

 創世記の罪を犯したときの誘惑は、「食べるのによく」、「目に慕わしく」、「賢くする」とあり、誘惑の3要素と言われます。現代は、食欲というのが人々を惑わしています。牧師でも、美味しいものには目が無いという人は多いように思われます。食事を自制することはなかなか難しいものです。私も低血糖症になったので甘い物は控え、通風になったので、プリン体の多い物(レバー、イカ、えび、乾物、ピーナッツ、椎茸)などは遠慮するしかありません。それでも、体重が増えてしまい、健康を害してしまっていますので、この夏は一大決心をして減量に努めます。「この世の欲」としての食欲と毎日、戦っていく所存ですが、今日は、我が家でバーベキュー・パーティー。欲と戦う様子をお見せしましょう?

 「目に慕わしく」とありますが、最近の若い女の子の服装は過激です。見るほうも見られるほうも、時間と金を費やし、敬虔など考えたこともない、という状況になっています。精神の成長には、読書や趣味、聖書や祈りは欠かせません。見た目を重視する社会は崩壊を始めています。

 「賢くする」というようなクイズ番組や常識を教える番組が流行っているようです。真の賢さは、判断力や決断力です。いくら知識を身につけても、誘惑にコロッと負けるような人格では、敗北と挫折の人生を送るだけでしょう。クリスチャンとは、簡単に怒ったり、興奮したり、誘惑に負けたりしないように自己形成を図るべきです。

 「慎み深く」とは、積極的に生きようとした私には困難な態度でした。指導者に従い、他人を否定せず、自分の意見を抑え、欲に囚われることなく、慎重に行動する。最近、やっと少しずつ、どうにかなってきたかと思えるようになってきました。自分の弱さ、限界に気が付いてきたのかもしれません。信仰者の年月に無駄はありません。

 「正しく」は、通してきたと自負していたのですが、振り返ると独りよがりの正義も多くあったようです。正しさを守ろうとしない人は、信仰も守りきれないようです。不正を犯している人は、神の目を意識していないので、悔い改めることもありません。人の目をごまかし、言い訳が通ると思っています。

 「敬虔に生活」こそ、クリスチャンの理想です。現代社会の中で、これが現実となるのですから、神の奇跡であり、人々は御名をあがめるでしょう。私は、自分の理想を「敬虔な生涯」におき、これを達成しようと努めています。まだまだ罪深い者ですが、確かに神はこの私の内に働き、清めの業をなしてくださいました。わたしは、自分が神に捕らえられていることに感動し、神に感謝しております。

 福音宣教とは、この福音を伝えながら、キリストのうちに清めの業を自らに成し遂げることに他なりません。そして、それは人々をキリストの弟子となしていくことの過程において進められていくのです。それは、まさに四輪馬車を進めながら、道行く人々を乗せ、神の国を目指して、旅を進めていくようなものかもしれません。次第にその群れは大きくなり、友と助け合いながら、人々をそれぞれの馬車をもって進めるように励ましていくのです。

 教会も大きくなってきましたが、自らの判断と決断力によって、神の国を目指すリーダーがさらに増えていかなければなりません。道は長く、行く手には険しい谷や山が控え、敵やわなが潜んでいるからです。


9月3日 永遠のいのちの相続人として。 テトス書3章17

テトス3:1〜7

3:1
あなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。

3:2
また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。

3:3
私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。

3:4
しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、

3:5
神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

3:6
神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。

3:7
それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。


 3節には、信仰者となる以前の姿が記されています。愚か、不従順、迷っている、欲情と快楽の奴隷、悪意、ねたみ、憎まれ、憎みあう・・・このような醜い心の人間であったことは、信仰者になると分かるのですが、神を信じて救われる前は、決して気がつかないことでした。日常生活を同じように過ごしながら、ある人は自らの罪深さに気がつき、他の人々はそのまま3節にあるような生活を過ごしている。どうしてこのようなことになるのでしょうか。

 5節に、「聖霊による申請と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」とありますが、この聖霊に無しに人は、罪を感じることはないのです。聖霊は「罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16・8)とあります。それでは、その聖霊はどのようによって、人に感化を与えるのでしょうか、また、どの人に働きかけるのでしょうか。

 ヨハネ福音書3章を読みますと、ニコデモというユダヤの議員がイエス様に問いかける場面があります。イエス様は、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と答えます。どういうことだか分からないニコデモに対して、生まれながらのままではなく、水と御霊によって生まれなければならないと説明します。

 水とは、水のバプテスマを意味します。人が自らの罪を認め、洗礼という公の告白をするには御霊(聖霊)が働かなければなりません。「あなたは罪びとである。」と言われて、怒る人もいれば、認める人もいます。そういうことは、その人の性格にもよります。罪を認め、救われるということは、そういう性格的なことや、人の努力によることではありません。ヨハネ3章8節に、「風がその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」とは、神なる聖霊が、誰を救うかは神の随意であるということです。

 イエス様の教えの中で顕著なことは、神は高慢な者は嫌いだということであり、人間の努力やありようは、神の前ではたいした違いはないということです。神に救われたい、と真剣に求める者のみが神に受け入れられるのです。「クリスチャンになってあげる、洗礼を受けてもいい。」などという人は、たとえ洗礼を受けられても、神の前には受け入れられないのです。

 サンノゼの石原先生のレポートに、その地域の教会で教会員に対して、いろいろな教会に通って集会信者になるのではなく、会員となった教会に忠誠を尽くしなさいと語った教会が潰れてしまったそうです。有力な教会員が、そんな面倒くさいことを言うのなら、他の教会に移る、として何人も出て行ってしまったからだそうです。聖書は、そのように自分中心的な信仰は神には受け入れられない、といっているので、その人々は天国では、逆に入ることを断られるでしょう。黙示録1章で、再臨のとき、キリストを否定した人々が、地団駄踏むことが知るされていますが、死んだ後に後悔するよりも、今のうちに、謙虚に救いを求めることが大事です。

 ニコデモに対して、「人々が光よりも闇を愛するのは、その行いが悪いからであり、彼らは光を憎み、光のほうに来ない・」とイエス様は説明されています。しかし、真理を行なっている者は、光のほうに来る。」のです。

 人に好かれる人もいれば、嫌われる人もいます。それには、いろいろな基準があるでしょう。神に好かれる人は、義を重んじる人です。「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」(ヨハネ4・23)。「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」〔ローマ1・17〕

 牧師である私は、大して人格者ではありません。人々は牧師に人格や品性を求めるのでしょうが、そういう人付き合いの良さというか、折り合いの良さは、福音を宣言する者としては、優柔不断になります。神の義を恐れるというのは、人の目を気にしないということもありうるからです。頑固親父がいなくなり、ものわかりの良い父親が増えています。罪や不正を黙認するのが、もの分かりが良いというのであれば、子供たちは間違いなく、不正を犯し、快楽の虜になるでしょう。そして、天国にいくことはありません。このようにして、牧師として一義的に大事なことは、信者を間違いなく神の国に導くということです。

 「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(1コリ6・10

 この世から救われ、神の国に入りたいと願う者は、まず洗礼を受け、公にクリスチャンとなることです。そして、そのようにして信仰者となった者は、さらに自らを清め、神に喜ばれる生き方を志すべきです。反抗的であってはいけません。従順で、全ての良い業を進んでする者となるべきです。(1節)


9月10日 主を待ち望み力を得る。 テトス書3章815

新改訳 テト 3:8-15

3:8
これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。

3:9
しかし、愚かな議論、系図、口論、律法についての論争などを避けなさい。それらは無益で、むだなものです。

3:10
分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。

3:11
このような人は、あなたも知っているとおり、堕落しており、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。

3:12
私がアルテマスかテキコをあなたのもとに送ったら、あなたは、何としてでも、ニコポリにいる私のところに来てください。私はそこで冬を過ごすことに決めています。

3:13
ぜひとも、律法学者ゼナスとアポロとが旅に出られるようにし、彼らが不自由しないように世話をしてあげなさい。

3:14
私たち一同も、なくてならないもののために、正しい仕事に励むように教えられなければなりません。それは、実を結ばない者にならないためです。

3:15
私といっしょにいる者たち一同が、あなたによろしくと言っています。私たちの信仰の友である人々に、よろしく言ってください。恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。


 この世の最上の業は何。

楽しい心で年をとり、働きたいけれど休み、しゃべりたいけれども黙り、

失望しそうな時に希望し、従順に平静におのれの十字架を担う。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても妬まず、

人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、

弱って、もはや人のために役立たずとも親切で柔和であること、

老いの重荷は神の賜物。

古びた心に、最後の磨きをかける。まことのふるさとへ行くために。

おのれをこの世につなぐ鎖を、少しずつ外していくのは、まことにえらい仕事。

こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承認するのだ。

神は最後に、一番良い仕事を残して下さる。

それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌はできる。

愛するすべての人の上に神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、臨終の床で神の声を聞くだろう。

“子よ、わが友よ、我汝を見捨てじ”と。

 この夏は、夫婦で夏風邪を引いてしまい、未だに共に苦しんでおります。あまり体調が悪いのでダイエットを決意したら、余計身体が弱ってしまい、「弱り目に祟り目」と思ったけれど、神は決して祟る方ではないので、弱り目に負い目かと情けなくもなりました。そんな中で、敬老礼拝のメッセージを準備していると数年前に教会員に印刷してお渡しした無名の方の詩が浮かび上がってきました。

 そして、この詩を読むうちに自らの老いを嘆く愚かさを覚えてきました。未だ、老いに至るほど成熟していない自らを恥じ、神に謙虚に仕えていくべきことを悟らされました。

 祈りのうちに、自分が老いを望んでいたことを振り返りました。それは、この世の争いに嫌気がさしてきたからでした。まさに、九節にあるように、愚かな議論、口論、論争が人々の間に飛び交い、分派を起こそうとする者が絶え間ないからです。人々は、自分の都合で、組織や環境を変えようと行動を諮ります。そして、論争をするのですが、それは神を信じ、仕える者には似つかない醜いものです。

 分派を起こす者は、強情さから自分の思い通りに組織を変えようとする者ですが、新改訳聖書では、「除名しなさい」とありますが、共同訳では「関わりをもたないようにしなさい」、口語訳では「退けなさい」となっています。分派を起こそうとするなんて、よくありがちなことですから「除名」では、きりがないでしょう。

 主に仕え平凡な人生を心ざしてきた私が、最近は、そのような分派を起こそうとする者に担ぎ上げられようとしたり、攻撃される歳になっていることに気がついてきました。若い時には言いたいことを言っていたのが、今や責任を負い、組織を動かさなければならない年齢になっているのです。無意識に、それを飛び越して老いの中に逃げ込みたいという願望があったのでしょう。それに決別し、主に在ってあと二十年は主の業に励もうと夫婦で語り合い、我が家を新築したのでした。

 ところが、そうはいっても、世は醜い争いばかり、気が萎えると身体も萎えるものです。牧師が萎えていてはいけないと思いましたが、今年は数年ぶりに気力に衰えを感じました。このテトス書は、牧会書簡であり、若い牧師テトスに使徒パウロが、牧師たる者「神を信じている人々が、良い業に励むことを心がけるよう」「確信を持って話すよう」(8節)指導する手紙です。残念ながら、この夏は久しぶりに、この教会で分裂騒ぎがありました。どうにか収まりましたが、信頼している人に裏切られるということは、いくら我慢しても身体が耐えられないものだと思いました。娘の結婚式の準備がなければ、もっとひどかったかもしれません。

 人生には、いろいろなことがあります。歳をとるということは、それを黙って耐え、「失望しそうな時に希望し、従順に平静におのれの十字架を担う。」ことかとも思わされます。ですから、私は、高齢で忍耐深い方々を心から尊敬します。

 聖書には、「自分は神に見守られていない、私の正しさは神に見過ごしにされている」などと言ってはならないとあります。(イザヤ40・27)。むしろ、

「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40・31)とあるのです。

 失望している人に、神は働きかけることができません。なぜなら、失望とは不信仰であり、神の介入を信じていないからです。失望することがあったら、それを自分の能力で処理したり、対応しないで、神に祈り、神に委ね、神に解決していただくことです。箴言には、「もし、あなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。」(24・10)とあります。決して、気落ちしてはなりません。神を信じてください。


9月17日 彼は私の心そのものです。 ピレモン書

ピレモン1:7 私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。

1:8
私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、こういうわけですから、

1:9
むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、

1:10
獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。

1:11
彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。

1:12
そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。

1:13
私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、

1:14
あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。

1:15
彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。

1:16
もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。

1:17
ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。


 この書は、非常にユニークな内容ですが、パウロの人柄と信仰が偲ばれる麗しい手紙で、私の好きな聖書です。この内容を物語りにすると映画になるのではないかと思うほど、波乱万丈で、いろいろな状況や経緯を想像できます。

 オネシモは、小アジアにある都市コロサイに住む裕福なピレモンの奴隷でしたが、主人ピレモンの物を盗み逃亡しました。二千キロも離れた大都市ローマに逃げ込むまで一体何年掛かったことでしょう。パウロはローマに行くのに船に乗りましたが、逃亡奴隷では船に乗ることはできません。夢中で逃げてエペソにでも行って、船乗りにでもなったのでしょうか。

 当時の奴隷は、征服された異国民か、貧困の故に売られた人です。前者ですと逃げても目立ってしまうため、後者かもしれません。基本的な労働力は奴隷が担っていたようで、逃亡奴隷が逃げおおせるような社会ではないほど、奴隷に対する監視はあったようです。逃げられたのは、主人ピレモンが追っ手を掛けなかったという優しさがあったことでしょう。また、オネシモ自身の知恵や体力も優れていたと言えるでしょう。何よりも神の不思議な導きがあったのです。

 ローマに逃げ込みさえすれば、なんとかなると信じて、多くの困難に耐え、突き進んできたのではないでしょうか。私の勝手な推測では、十年以上は掛かっていると思います。若かったオネシモも、歳をとり、肉体の弱さを覚えながらも、どうにかローマに辿り着きました。六十歳くらいのパウロが「獄中で生んだわが子」と呼ぶのですから、この手紙の時は、三十代後半でしょうか。しかし、ローマでも何もできず、逃亡奴隷であることがばれないかと怯えながら、囚人の世話係りに雇われます。パウロの第一回の投獄の時ですから、比較的緩やかで自由な囚人生活です。

 既に何人かの囚人を世話していたかもしれないオネシモにとって、パウロの世話は驚くべきものだったと思います。普通、囚人は気が荒く、乱暴で、世話係りとして雇われて、いい思いをしたことはなかったでしょう。パウロは、なんと「自費で借りた家に住み、たずねてくる人達を皆迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(使徒28・30,31)とあります。ローマの兵隊も、囚人パウロを大事に扱います。何よりも、オネシモに対する態度が、慈愛に満ちています。オネシモは、パウロが来客に語る神の国の福音に引き込まれてしまいました。

 イエス・キリストを信じ、罪を悔い改めたオネシモは、自分の身の上を告白し、逃亡奴隷であることを明らかにします。それでもパウロは、オネシモをかくまい、自分が雇った人間として尊重します。オネシモは、心からパウロを尊敬し、パウロに仕え、自分の生涯の意味を見出します。オネシモという名前の意味は、「役に立つ者」という意味だそうですが、本当に主人の役に立つ者になったのでした。

  ところが、パウロがコロサイの教会に手紙を出すという段になって、その教会の役員にピレモンという人がいることを聞いて、オネシモは驚き、また当惑します。寛大だった主人は、クリスチャンになっていたのです。パウロは、オネシモを主人のところに返せば、殺されると思い、黙認していたのでしょうが、オネシモの主人が、忠実な信者であると聞いている(57節)ピレモンだというのです。

 私たちは、パウロが人を差別せず、使用人や奴隷にさえ、「愛する兄弟」(16節)として対応していることに、教えを受けます。幼子にも、高齢者にも、障害者にも、犯罪人にも、クリスチャンは、分け隔てなく、丁寧な言葉で、対応することが大事です。さらに、ここで第二に、どんな状況にあっても、誠意を尽くし、正しい行動をとるべきことを教えられます。

 パウロは、自分にとって非常に役にたつオネシモを、主人のもとに返すことにしました。多くの人が、損得で行動をとります。この場合、@オネシモは罰せられるかもしれない。Aパウロの世話をする気の聞いた人がいなくなる。Bオネシモはパウロのもとで非常に役に立っている。ということが在ろうとも、パウロは、本来の状態に戻ることを是としたのです。

 次男のカナダ留学に際して、留学業者が不正なビザ取得をそそのかしました。変だと思いながら、確信をもって説明する業者に従い、金も時間も掛け、大変な苦労をして試みましたが、不許可でした。再チャレンジを促す業者を避け、カナダ大使館に正直に状況を告白すると、もう一度不正な手続きを行なったら、ブラックリストに載るところだったと言われました。

 日本人は、法の裁きを理解していない人が多いようです。言った言葉、為した行動が全てであって、本当はこう言おうとした、とか、こうやろうとした、という弁解が多いようです。どんなに理由があるにしろ、なすべきことをしなければなりません。パウロは、@オネシモを返しました。Aその損害を償うことを約束しました。B裁きを、権利ある者に委ねました。

 場合によって、大事なオネシモが殺されることもあるかもしれません。それでも、相手の判断に委ねるのです。これが従順といいます。パウロは、神からの祝福の法則を知っているからこそ、霊的には指導者の立場にいながらも、今回は従属する立場に身を委ねたのです。それは、パウロには大変な不利益でしょう。でも、自分で損得を考え、不利益を避けた行動は、神の祝福を失う最も不利益な行動なのです。

 明日は娘を嫁に出します。もはや私のもとから離れ、自らの人生を歩むものとなります。今後は、決して親として指導したり、干渉してはなりません。彼らの夫婦としての人生は、彼らが決めるのであって、その判断には、親が関わってはいけないのです。このへんの夫婦観も、多くの日本人が身に付けていないことのように思います。親に対しても、子供に対しても、結婚している者に対して、その判断に口を挟むことは、どんなに正しいことを言ったとしても、基本的に間違っているのです。

 オネシモが殺されるかもしれない。と思う心配に祈りが起こるのです。簡単に言いたいことを言う人は、祈りが湧くことはないでしょう。


9月24日 神の御子イエス・キリスト。 ヘブル書1章1〜4節

新改訳 ヘブ 1:1-3

1:1
神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、

1:2
この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

1:3
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

1:4
御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。


 世界を創造された神は、ご自分のことを創造物に示さないではおられません。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19・1)とあるように、自然は神を啓示しています。それだけではなく、聖書を通して私たちに、ご自分を啓示しています。

 それでは、例えば、創世記の前半はどのようにして記録されたのでしょうか。それは、アダムから何世代も口伝で語り告がれたかと思われます。その口伝が創世記五章の系図によって、忠実かつ正確に伝わったのです。長寿の系図は十一章に続き、アブラハムがノアと少なくとも五十八年は同じ時代を生きたことを示します。ユダヤ教においては、男の子は13歳で成人式「バル・ミツバ」を挙げます。これは「義務を負う人」という意味で、ヘブル語でトーラー(律法、モーセ5書)を暗記することが条件です。これはユダヤ人が、いかに歴史を重視してきたかを示すと共に、モーセ5書は口伝をモーセが書き記したということを説明します。

 神は預言者によっても語りましたが、もしその預言が実現せず、勝手に主の名によって語ったら、その預言者は殺されました。(申命記18・19-22)。それでも偽預言者は起こり続けましたが、神によって彼らは裁かれ、真の預言だけが残っています。このように、聖書というのは、命がけで預言者によって語られ、記録されてきたのです。

 ここでしっかりと覚えておくべきことは、聖書のことばというものを、私たちも命がけで信じ、守る必要があるということです。そして、聖書は神が語ったものであるということを信じる者に、神は語りかけ、導き、祝福をなすのであって、神の主権が優先されるべきものなのです。つまり、「神はいるのだろうか、いないのだろうか」と悩むべきものではないということです。ところが、世の中には多くのエセ宗教があります。それらと真実な信仰とは、どのように区別したらよいのでしょうか。

 そのためには私たちが、真実に歩めば良いのです。実際には、人は真実には歩めません。真実に歩んでいるというのは、偽りで、私たちは自己中心で罪人なのです。ですから、私たちの罪のために身代わりに死んでくださった唯一の方、イエス・キリストに出会わざるをえないのです。

 ところが、十字架のイエスを救い主と信じたら、真実に歩んでいると思い込んでいる人もいます。洗礼を受け、クリスチャンになるということは、これから真実に生きようと決心したということであって、それだけでうまくいくようなおまじないではありません。英会話学校に入学するだけで英語がうまくなると思っている人はいないと思います。指導を受け、テキストを読み、勉強しなければならないのです。

 この指導者が聖霊なる神であり、テキストが聖書なのです。模範は、神の栄光の輝きであるイエスです。ところで、日本人はテキストやマニュアルに捉われることが多いようです。英会話は英語で人とコミュニケーションすることが目的であって、単語や文を覚えることで身につくものではありません。大事なのは、心です。

 パリサイ人は、杓子定規に律法を守ることを要求しました。イエス様は、神が愛であることを示し、その愛の中に生きることが神の願いであることを明らかにしました。イエス様によってでなければ、「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」はなかったのです。

 今年のサブテキスト「人生を導く5つの目的」では、多くの人が間違った5つのものに駆り立てられているとあります。

1. 罪責感。過去の出来事に自分の未来をコントロールさせてしまっている。

2. 怒りと憤り。感情に囚われ、人を攻撃し傷つけ、自らを傷つけている。

3. 恐れ。恐れは自ら作り出した牢獄であり、自らを不自由にする。

4. 物質主義。多くのものを得れば幸せになると誤解している。きりのない物質欲に囚われ、不安になる。

5. 人に受け入れられたい欲求。他の人に自分の人生を支配させてしまう。

  娘の結婚式には感動しました。それは、娘と婚約者が土曜日に教会を掃除したり、式の翌日に片付けにきてゴミ出しをしたり、こまごまと他人に迷惑を掛けないように働いていたからです。自分たちの式が華やかになることなど考えないで、質素にしながら、集まる人々に喜びを与えようと心がけていたからです。台風が向きを変え、土砂降りの雨がやんで太陽が輝きました。

 私の祈りは、いつもかなえられます。今回も、「神よ、私はあなたに心を尽くして仕えてきたつもりです。あなたは、決して裏切らない方です。この土砂降りの雨を止めさせてください。と祈りました。祈りが効かれたと思い、心から感謝しましたが、翌日、娘夫婦が当然のように片づけをしているのを見ながら、雨が止んだのは、私の祈りというよりも、この夫婦への神の祝福そのものなのだ、と感じました。

  大事なことは、あなた自身の心の満足ではありません。心の解決でもありません。なんと多くのクリスチャンが、自らのことに囚われていることでしょう。

 心を尽くして神を愛しましょう。自分と伴侶を心から愛しましょう。そして、隣人を自分と同じように愛しましょう。それで充分です。それ以外のものを求めてはいけません。それ以上のものはないでしょう。

 自らが神に愛されていることを自覚し、人を愛したら充分です。立派な信仰者、などというものはありません。人の目にどう映ろうと、失敗をしようと、試練があろうと、病や障害があろうと、あなたは神に愛されているのです。