4月2日 満ち足りる心を伴う敬虔。 Tテモテ書618

新改訳 Tテモ6:1-8

6:1
くびきの下にある奴隷は、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは神の御名と教えとがそしられないためです。

6:2
信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。

6:3
違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、

6:4
その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、

6:5
また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。

6:6
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。

6:7
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。

6:8
衣食があれば、それで満足すべきです。

 当時あった奴隷制度の中でクリスチャンである主人は、奴隷をも信仰に導きました。そして、神にある兄弟になったのですが、そのように扱われると、奴隷である信仰者が主人に権利を主張し、同等の関係を求めるようになったのでした。それは、世の中の人々には、奴隷の主人は秩序を乱した愚かな者のように見られ、その信仰者である奴隷も、高慢になっただけであって、平安を失うことになります。

教会における平等な兄弟である信者の関係と、社会における階級、立場の関係の違いを守ることが大事です。当然、信者同士でも高齢者を尊敬するとか、振興の先輩を尊重するとかは重要なことです。ところが、教会生活が中心になるなかで、すべての人に同じことを守らせることには無理があります。その人の立場、社会的な地位を認めないと、その社会における仕事を果たせなくなるからです。

 そもそも家内が信者時代に生活に破綻をしたのは、医学生にも日曜学校の奉仕をさせ、礼拝だけではなく祈祷会や大学生会、そして教師会にも参加させて、日曜日を一日中教会に拘束するようなことが当然の信者の義務とされたことにありました。私自身も同じことを要求され、私の場合はそれを果たし、なおかつ大学院で良い成績を修め、また多くの人を教会に導いて実績を出しましたが、正直のところ、疲れ果てていました。とても博士課程や研究生活をこなせないと考え、これでは牧師になるしか道はないとも考え始めたほどです。

専門に勉強をし、仕事をするということは、大変な能力と集中を必要とします。本気に努力をしたことのない人は、どうもそれがわからないようです。「多く与えられたものは多く求められ」(ルカ12・48)は事実ですが、だからといって、同じことをさせるのが平等というものではありません。

私たちは、母教会の熱心さを尊重しますが、やはり価値観や立場が違うと思います。人には、賜物、能力、教養、育ち、価値観、立場がそれぞれあります。家族であっても、それを理解し認めないで、例えば、父親や母親の考え方を強制するならば無理がでてきて、一緒に生活をするのは困難になります。

 先日、息子の結婚式を司式してくれた牧師は私の親友ですが、その説教の中で言ったように、私とは考え方も立場も違うことは多いのですが、お互い友であるという意識では共通です。つまり、友であるという意識だけで仲良くしており、お互いの違いは了解しているのです。

  青年期の友情は、同じことをし、同じことを考えないと保てないものでした。従って、そのような友人は、環境が変わり、状況が変わると、次第に離れ、交流がなくなるものです。多様性を認めないと、教会も排他的なものになります。特に注意しなければならないのが、信仰の先輩たちです。

  当教会では、執事会で、新しく集う人々に信仰生活や教会生活を教えないようにと、注意をしています。大事なことは、方法ではなく、神とのつながりです。その人なりの信仰生活を、ゆっくりと身につけることが大事です。

 日本では、そのような形式や手順を教え込むことが多いようですが、それはまるで信仰を守るために律法を遵守するようなもので、イエス様の教えから離れることになります。教会によっては、その集う人のパターンが全く同じような場合があります。違いを認め、その人の賜物や立場を認めて、アドバイスができるようになれば、真実な教会員同士の交流ができるでしょう。

  パウロは偽教師の存在に手を焼いていたようです。高慢になって、人を思い通りに動かそうとし、また、論理的な矛盾点を指摘する人は多くいます。聖書を用いても人を非難することはできますが、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りなどをする人は、真実な信仰者ではありません。何度も皆さんに語っているように、神にある真実な信仰は決して人を非難したり批判するようにはならないものなのです。

  敬虔ぶって、聖書の論理を振りかざしても、論争や紛争を起こす人を信じてはいけません。注意をしないと、教会に必ずそういう人は現れるのです。この教会はそういう人々によって、多くの嵐のような試練を経てきました。自由であるということは、悪と戦い、油断なく見張らなければ獲得できないものです。最近は、牧師がよく、見張っていますので、そういう人々は教会に入り込むことはできません。

  「信仰とは、こういうものだ」と熱心さを強調したり、強制する人々を警戒してください。イエス・キリストは、弟子たちを力ずくで教え込んだり、強制したりしていません。かえって、弟子たちをいたわり、愛し、その弱さや罪深さを慰め、教え導いたのです。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ」大事なものです。

  そういう面で私は教会成長論があまり好きではありません。ノウハウを教え、教会員を増やそうとしても、まるで会社を大きくして利益を生み出そうとするこの世の論理と同じようです。大事なことは、打算ではなく、愛しあうことです。見返りを求めず、愛することです。そうすれば、自然に家族は増えていくでしょう。

当教会の理念にもあるように、教会には多種多様な人々が神によってこの世から召し出されてくるのです。この信者を整え、神への奉仕という使命を果たすように導くには、キリストの弟子として十字架を負い主に従う指導者層が確立されなければならないのです。そのようにして、整えられ愛し合い一致した教会こそ神の栄光が現され成長するのです。


4月9日 キリストを裏切る者。 マタイ書262535

マタイ26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。

26:26
また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

26:27
また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。

26:28
これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

26:29
ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

26:30
そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

26:31
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。

26:32
しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」

26:33
すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」

26:34
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

26:35
ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。


 テレビや映画などを見ていると、現実の生活を誠実に生きることが馬鹿みたいに思えてくると思われます。それらは、この世のものであって、肉欲を満たすことを当然とさせるサタンの企みです。実際には、麻薬のようなものであって、一度肉欲に溺れたら、そこから抜け出すことは大変難しいと言えましょう。

青年たちが、そういうものに囚われてしまい、努力や忍耐、或いは謙遜や誠実といったものに目を向けることは、今や稀有なことかと思われます。成熟したものには、とても見ていられない愚かな番組を、青年たちが面白がって見ていることを、高齢者は危機感もなく、或いは、自らもその虜になっているのが、日本社会でしょう。とりわけ発達したマスメディアを持つ日本では、そのようにして取り入れられた情報というものが、人々の倫理観を破壊させ、昨今の呆れ果てるような犯罪を生み出すものとなっているのです。

誠実に伝道集会を繰り返す教会には、人々は見向きもせず、ただひたすら娯楽を求めて生きています。それらの牧師や信者は、ただ嘲られるだけで、必死な伝道と清貧な生き方は、何の成果も生み出さず、社会に抹殺されそうになります。多くの教会の牧師たちは、まさにそのような苦しみの中に戦い、苦闘しています。

私は、この受難週の祈りの中で、自らが経済的に楽をし、ただ彼らのためにとりなしの祈りだけをしている欺瞞に苦しみました。今年から、牧師給を毎月もらうようになり、また自宅も改築中なので非常に助かっていますが、経済的に大変だからこそ、神に献げなければと示され始めていました。

会堂建築の時、私は自らの会堂建築以外に多くの献金をしました。自らが祝福されたいからこそ、他に献げたのです。そして、神は会堂を祝福してくださいました。今月から、礼拝献金をすべて、他の困窮している教会に献げたいと提案します。終末に生きることが、これからの当教会のテーマです。それは自分たちのために生きることではないと、思います。労苦が人を富ませるのではありません、神の祝福が、この教会に人を集めてくださるでしょう。

今日の聖句の前には、マリヤがイエス様に、高価な香油を注いだ話が出ています。それは現在だったら三百万円にもなるもので、おそらく彼女の結婚のために蓄えていたものだと思われます。計算高い弟子たちは、その無駄に憤慨しました。しかし、兄のラザロをよみがえらせてくれたマリヤには、感謝の気持ちがいっぱいで惜しいものではありませんでした。マリヤは、イエス様の話を真剣に聞いていたので、その死がまもなくであることに気がついていたのです。そして、それは実際に、その晩しか猶予のない、貴重な時であったのです。

ところが、そのお金を貧しいものにあげたほうがよいと憤慨したユダは、銀貨三十枚、つまり百二十万円ほどで、その後すぐにイエス様を裏切ってしまったのです。お金の使い方は、その人の価値を表します。計算高いユダは、百二十万円で、自分の命を地獄に落としてしまったのです

 罪びとは厚顔無恥なものです。ユダは、密かにイエス様を裏切っておきながら、裏切る者がいると嘆くイエス様に「先生、まさか私のことではないでしょう。」と白を切っているのです。イエス様は、最後の悔い改めを求めて、「いや、そうだ」と言われるのですが、ユダは去っていくだけでした。

 そのユダに憤ったペテロは、自分だけは決してイエス様を裏切らないと誓います。しかし、そのペテロにも、イエス様は、明日の朝までに三度も、イエス様を知らないと誓ってしまうと、教えます。

 イエス様が弟子たちに教えた最後のことは、イエス様の血による新しい契約です。律法による古い契約は、神の命令に従うならば祝福され、従わなければ呪われるというものでした。そこには、動物の血が、犠牲として必要でした。

  しかし、イエス様が自らの血による契約を神と人との間に立てようとされました。それは、イエス様が、その身で私たちの罪の身代わりとして死んでくださるというものであり、それを自分の罪のためと信じるだけで、その契約は有効となるものです。それが、行いによる救いではなく、信仰による救いをなす新契約なのです。

  イエス様を裏切ってしまったペテロも、自分の罪深さにおののきました。まさに救いようがないのです。しかし、事前にそのことを宣言され、ペテロの正しさではなく、神の愛による救いであることをわかったペテロは、生涯イエス様に従い、殉教していきました。

  先週も言いました。理屈や計算で生きる人は、神を信じることはできません。私自身は、銀行や税理士も感心するほど、計算高く、きちんと手続きをとっています。しかし、実は、それは神の祝福を確認するために計算しているに過ぎず、私が殆ど信仰で生きていることは、神以外にはわからないでしょう。

1. 自分の人生を自分で計画してはなりません。洗礼を受け、神に委ねましょう。信じるというのは、神の祝福を信じるということです。

2. 自分の能力で成功しようとしてはなりません。人に仕え、人を幸せにすることで、うまくいこうと考えるべきです。殆どの人が自分の思い通りに物事をしようと考えています。

3. 神が示すことを大胆に行うべきです。マリヤのように時をつかんで物事をなすべきです。自分の持っているものに執着してはなりません。

4. 思い通りにいかなくても決して腹を立ててはいけません。ユダのような取り返しのつかない罠に陥ります。

5. イエス様が勧めたように、霊的に眠らずにしっかりと祈っているべきです。


4月16日 イースターの驚き。 マルコ福音書1618 

16:1
さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。

16:2
そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。

16:3
彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。

16:4
ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。

16:5
それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。

16:6
青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。

16:7
ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」

16:8
女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。


4月23日 信仰は戦いです。 Tテモテ書6921 節

Tテモテ6:9-21 6:9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

6:10
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

6:11
しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。

6:12
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

6:13
私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。

6:14
私たちの主イエス・キリストの現われの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。

6:15
その現われを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、

6:16
ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

6:17
この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。

6:18
また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。

6:19
また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。

6:20
テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。

6:21
これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。恵みが、あなたがたとともにありますように。

 現代は、欲望の世です。金持ちになりたがることが、あらゆる悪の根の一つですが、他にも名誉欲、色欲など欲望には切りがありません。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」(ヤコブ41

  しかし、欲望自体が悪ではありません。神は、私たちに健全な欲望をお与えになりました。男女が伴侶を得たいという意味で性欲は健全であり、その為に未婚の男女は自らを鍛錬し、既婚の男女は伴侶に喜ばれたいと仕事に努めます。もし、結婚したくないという未婚の人がいるなら、それは成長過程で何らかの不健全な体験やコンプレックスを持ってしまったのです。伴侶のことを気にしないで生きているとしたら、結婚生活において何らかの破綻を帰してしまったからです。

  金銭欲も仕事に関する健全な労働意欲と結びつき、その人の能力を生かし正しい行いの上で達成されるものであるならば、適正な収益を上げ、対価を得ることは、正当なことです。ところが、不当な利益を上げようと人を騙し、環境を破壊し、休息をとらずに自らを破滅させていきます。

  カトリックの教えの中で、神父や修道女になることを聖職とし、世の中の職業を俗としました。新約聖書自体の中には、そのような区別はなく、信者自体を清められたものと位置づけています。旧約においてレビ族は聖所の管理を命じられ、聖別(この世から離れ神につく)ものとされました。しかし、それは聖の型を教える存在であって、イエス様は専門的宗教集団としてのパリサイ人や律法学者を非難していました。パウロも、使徒でありながら、天幕作りを職業としていました。

  つまり、聖書は決して禁欲的な教えではなく、過激な宗教者たちが信徒たちを制御するために、禁欲を唱え、社会を統制しようとしてきたのです。ところが、現代はそのような宗教の禁欲的な統制ができなくなった反動として、悦楽的なものになってしまったのです。

  そういう面で、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和というものが、欲望の限度を教え、人間生活を健全に保つ要因となるのです。ですから、金銭を愛するのでも、性欲に囚われるのでもなく、神を愛し、人を愛する日々を過ごすことが大事なこととなってくるのです。

  ところが、実際には、そういうことは唱えることは簡単でも、実際には難しいことです。そこで、安直に禁欲的になったり、或いは悦楽的になるのです。実際には、禁欲的或いは厳しい管理下に育てられた人は、その制約がなくなると、反動として逆に快楽的に暴走してしまったり、あるいは厭世的・無感動な人間になったりします。また、あまりに快楽的に育っても、同じように逆な禁欲的傾向になったりします。つまり、ここで教えられることは、悟りや制度、躾などで人を制御することはできず、結局は、快楽的であれ、禁欲的であれ、欲望に囚われることになるのです。

現代日本では、殆どの人が富んでいる状態にいると思われます。金銭的には貧しくてもテレビは見るし、お菓子は食べるし、好き勝手に生きられています。大事なことは、「富に望みをおかない」「「人の益をはかり、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで人に分け与える」ことです(17,18

  そういうことができるためには、どうすれば良いでしょう。聖霊にいつも満たされることです。信念でそのように生きようとする人もいるでしょう。良い習慣を持っている人もいるでしょう。そういう人に比べれば、あなたの性格は悪いかもしれません。神を信じているかどうか、が実は大きなチェック・ポイントなのです。私は、神を信じていない人の欠点を暴きだそうとしているのでも、けちをつけようとしているのでもありません。

  クリスチャンとは、自らの罪深さを認めている、ということです。自らの弱さ、罪深さを認めたうえで、聖霊に満たされる、これが要するに、神の求めておられることなのです。そして、これが実に困難で、信仰が試されることなのです。

  「霊知」と呼ばれる教えとは、偽教師が唱える信仰上の奥義です。現実を離れたスピリチャルなことを教え、人を一章に見られるような空想上のことに関心を持たせます。そして、現実生活に批判的になるのです。

  さて、このようなわけで、信仰を守るということは、戦いなのです。マリヤ・クリニックで十八年間も続けている低血糖症の治療が急に脚光を浴びました。そしたら、自分こそ低血糖症の治療の専門だと主張する医者が林立し、もはやインターネットで検索してもマリヤ・クリニックなど、ぜんぜん出てきません。ところが、最近、苦情がそのような医者に対して起こっており、説明なしに栄養剤を売るとか、医者が診察をしてくれないとか、言うばかりです。

  大事なことは、興奮しないで健全なことをコツコツとしていくということです。健全で落ち着いた平安な生活を過ごすということが、霊的な戦いなのです。働きすぎてはいけません。それらの医者は、多くの患者を集め、儲けているかもしれません。犠牲者もいるかもしれません。でも、神に委ねて自分の霊性を守るのです。

  牧師の間でも、指導者に対する批判が起こって、徒党を組もうとしている人もいます。確かに正義を行う割合が少なくなっているかもしれません。でも、私たちは皆、罪びとなのです。人の正義を非難するほどのものは持っていません。神の前でとりなしをするだけなのです。

  悪にも罪にも弱さにも、興奮してはなりません。聖霊に満たされ、神に導かれて、自分を保っていかなければなりません。それが信仰の戦いなのです。


4月30日 力と愛と慎みをもって生きる。 Uテモテ書1章17 節

新改訳 Uテモ1:1-7

1:1
神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、

1:2
愛する子テモテへ。父なる神および私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。

1:3
私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。

1:4
私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。

1:5
私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。

1:6
それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。

1:7
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

 パウロは、神の御心により使徒となった、と言っています。私も、神の御心により牧師になった、と考えています。皆さんは、神の御心によりクリスチャンになった、と信じているでしょうか。

 パウロは、使徒の働き九章に述べられているように、クリスチャンを迫害する指導者であったのですが、神の超自然的な干渉により悔い改めて救いを得ました。パウロの回心は、キリスト教を迫害する者にとって脅威であり、何度も殺されようとしました。後のパウロの働きを見ますと、確かに神の御心により超自然的に使徒になったと言えると誰もが認めることでしょう。

 私は、まったくキリスト教には関係無い者でしたが、聖霊の働きによって救いに導かれました。思い返せば、聖霊に取り扱われた六ヵ月間でした。聖霊のバプテスマを体験して喜びに満たされていた良子さんに電車で出会い、酒の酔いも醒めるほどの衝撃を受けました。私にとっては、それからの一ヶ月は神への飢え渇きで、途方にくれたものです。そして十一月二日に会計学研究部の発表者として隣の関東学院大学で持たれた会合に早めに行こうとして、電車でまた良子さんに会い、その途中にある教会まで一緒に歩くことになったのでした。そのとき、通りすがりに見た柴田兄の敬虔な姿がすごく印象的で、さらに信仰へ葛藤が激しくなったのでした。

 何度か、教会の周りを回り、誘ってくれないものかと探ったのですが、まさか通りすがりの者に声を掛けるはずもありません。求道への思いが激しく湧き上がるのですが、女性を追っかけて教会に集ったとは断じて思われたくありませんから、内田さんの教会には行きづらかったのですが、他の教会に行く気もしませんでした。そして、とうとう一時間くらいさまよった挙句、一九七五年十二月十九日に初めて教会に入りました。なんと大学生向けの特別伝道会の終わった後で、ゲストの伝道者を招いたのに誰も来なかったとがらんとしていたところに赴いたわけです。

 何か牧師が私に話しましたが殆どわからず、誘われた翌々日の日曜に公会堂で開かれた日曜学校大会に行きました。これも説教は、あまり感銘は受けなかったのですが、何かに包まれたような不思議な感覚を持ちました。次の日曜には、当時レックスハンバード宣教団で働いていた桜井師の説教で、エペソ四章からの説教には自分への神の招きのような感覚を受け、教会に加わりたいという激しい思いが起こりましたが、伝道会ではないので招きもなく、魂の飢え渇きを体験しました。ところが、その後、聖餐式があり、その説明にも感銘して加わりたいと思っていると、隣の男性が「いかがですか。」と誘ってくれました。そして聖餐式で救いを体験したのです。誰の導きも受けず、私は救われました。

 ところが、周囲のクリスチャンは私の救いに気がついてくれません。私は何のアドバイスも受けずに、正月の研修会に誘われました。ところが、暮れに郷里に帰り、友人たちとマージャンをやるのですが、ぜんぜん楽しくなく、「これは私のやるものではない、教会に行きたい。」という思いが募るばかりです。マージャンに大勝ちしてもうれしくなく、大酒飲みである私が飲みたくなくなってしまったのです。

新年研修会では信仰について西海先生が語ってくださり、多くの感銘を受け、翌日の日曜日にはトランペットで賛美を演奏させられてしまいました。二月に、大学生会でヨセフについて発表させられ、語っていると聖霊に満たされて身体がしびれるようになることを体験し驚きましたが、誰にも言いませんでした。

 三月に何もわからず教団の宣教会議に洗礼を受けていないのに参加しました。その月に内田さんは親の反対で教会に来なくなり、突然私が代役として日曜学校教師にさせられました。洗礼を受けていないのに一人で公園に行って子供達を集めて聖書の話をさせられるのですから横暴もいいところです。途方にくれて、日曜学校教師会に誘われましたが、こんな調子で言われたままにしていたら、宗教に騙されて生活を乱してしまう、と不安にもなりました。

 これで最後、と思って参加した三月末の教師会で内村師の説教により聖霊のバプテスマを体験しました。まったく人生観が変わるようで、信仰を確信しました。そして五月五日に洗礼を受けたのですが、その時は既に後輩を導いていて一緒に洗礼を受けました。もう一人、導いていた友人の彼女が反対するので、心からの取り成しの祈りをしていると、私の祈りの叫びをしたとたん、彼女が階段から落ちて悔い改め、七月には二人で洗礼を受けました。

 最初の二年間は、私が信仰を持って祈ると手から何かが発するようで、人が聖霊を受け、或いは癒しが起こりました。実は、その間、不信仰の誘惑はいつも付きまとっていました。でも、十字架を負う弟子としての決心がつき、天国を確信した頃から、手の先のしびれの感覚がなくなっていきました。

 信仰というのは率直なものです。打算で生きる人には、聖霊は働きません。「与えられた神の賜物を燃え上がらせる」(六節)ならば、その賜物は神の働きに貢献し、あなたを祝福します。

 「臆病」とはなんでしょう。臆する病と書きますが、神を信じない不信仰です。神を信じる人には力があります。自分を信じる人も力がありますが、神を信じる人には、愛と慎みもあります。自分の力を信じ、自分の思うとおりに人を愛する人もいますが、慎みはありません。(七節)

 牧会者にとって涙とはなんでしょうか(4節)。それは、神を信じないで自分の判断で生きる信者への取り成しの祈りの涙です。人は罪深く、いつも自分のやりたいことをして生き、放縦です。しかし、困難に直面すると臆病であり、神を信じないで思い煩い、否定的になり、感情に任せ、或いは興奮して自分の力でなんとか解決をしようと図ります。

 牧会者の涙とは、そのようなものは徒労であることを知っているからです。神を信頼せず、自分の力に任せたものは、結果が如何になろうとも、人生の全体を見れば虚しいのです。母の祈り、父の忍耐は、人生の徒労に気がつくことから、始まるでしょう。

 牧師の涙は、取り成しの祈りすれど悔い改めず、滅びの道を突き進む信仰の脱落者への悲しみのものです。さらに状態は悪くなるでしょう。いつ、悔い改めるのか、いつ教会に帰ってくるのか。これもまた神の御心に、神の恩寵に委ねるしかありません。神の御心によって一度救われ、自らの打算と欲情によって、信仰から離れた人々。自らへの神の働き掛けが真実であり、恵みによって救われたように、ただ神の恵みが、失われた人々にも注がれるようにと、ただ祈るしか術がないのです。



5月7日 福音の為に苦しみを共にする。 Uテモテ書1章712 節

新改訳 Uテモ1:7-12

1:7
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

1:8
ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。

1:9
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、

1:10
それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。

1:11
私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。

1:12
そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。

 わたしは講壇で、大きな声を上げ両手を挙げて「ハレルヤ!」と叫ぶことがあまり好きではありません。クリスチャンになったのが、二十二歳で、それまでいろいろと経験しているし、趣味で映画や音楽も聴くので、大きな声を上げて景気づけをするようで、心を込めてやっているようには思われないのです。学生運動の委員長をやっていた時、「シュプレヒコール」などと叫んで、意味もわからず練り歩いた経験が強いのでしょうか。若いときにクリスチャンになると、あまり傷を負わないので、純粋にできるのでしょうが、私には、ノンクリスチャンから見た目や感覚というのが、いつも気になります。ですから、自分の子や教会の青年たちを見守りながら、視点が偏って、一般社会から「何か変?」と思われて教会漬けになるよりも、普通の交流をしながら魂の救いを経験し、未信者を取り成すことができる信仰者になって欲しいと考えています。

 「福音のために苦しみを共にする。」という言葉に励まされて、自分が差別され、馬鹿にされることを「クリスチャンだから当然」、と思い込み、実は信仰の故でなく、自分勝手で思い込みの激しい不器用さからくることも多いことに気がついていない場合があります。キリスト教がマイナリティーだからこそ、劣等感ゆえに余計変なクリスチャンになっているということもあります。

  欧米はもちろん、私たち日本人が過激で自分勝手としている韓国人(失礼)でさえ、クリスチャンは日本のように閉鎖的で変わり者ではありません。ところが、教会以外で会うと、彼らは普通の日本人である場合が多いようです。ということは、教会における姿と教会外とを使い分けているのでしょうか。本音と建前の使い分けなのでしょうか。

  私は、正直言って、牧師がおかしいのではないかと思ってもいます。ホームページにも出てしまうので注意して書かなければなりませんが、牧師に社会性が無いように思われます。そして、教会とはそんなもの、キリスト教はそんなもの、と信者に思い込ませているように見えます。ですから、現実社会に生きる信者は、使い分けざるを得ないことになってしまいます。

  失礼ながら、酒の酒で性質が悪いのは、教師、警察官、お医者さん、などと言われたのを宴会場の人が言っていたのを思い出します。彼らは日常生活で、立場上言いたいことが言えます。さらに言いたいことを言っても、クビになることはないでしょう。生活の危機が伴っているということは非常に健全であります。

  牧師の生活というのは、日本では殆ど経済的には困難な場合が多いものです。しかし、経済的に困難ということを除けば、他の職業も同じように困難はあるものです。いや逆に、困難がありながらも苦闘するので、経済的にどうにかなっていくということもいえるような気がします。私は、クリニックと会社を経営しながら、五人の子供たちを育て上げたので、いつも困難でしたが、経済的困難は常にあります。この経済的困難を諦めると、人格も信仰も、不健全になるような気がしました。

 クリスチャンだから困難があるというのは、言い訳です。社会人として立派に働き活動しながら、なおも伝道するので、困難であるというのは、当然です。そして、その困難、苦しみこそ、パウロと共に分かち合うものなのです。

  ですから、私たちクリスチャンは、社会人として強く生きられる筋の通った職業を選ぶべきなのです。また、その職場の中で、クリスチャンとして誘惑に負けない強い信念をもって仕事に当たるべきです。クリスチャン弁護士の佐々木満男氏の筋を通した生き方はすばらしいものです。マリヤ・クリニックもそのようにして筋を通し、株式会社ヨーゼフも筋を通して信用を得ています。

 私が気になるのは、仕事をきちんとしないクリスチャンが多いということです。教会が、社会における仕事よりも教会奉仕を優先させるべきであると強調しているからであるとも思われます。

  社会においても仕事をきちんとできない青年たちが増えているように思われます。それは、誘惑に負けているからです。当然、仕事は通勤を含めて朝八時から夜六時くらいに済ませるものにすべきです。ところが、それ以上に働き、なおもテレビを見、映画を見、服装に注意して、おいしいものを食べようとする。これは、まだ力のない青年たちには無理です。

  優先順位を確立しなければ、生活は破綻します。日曜日の礼拝を守る、日々の家族の夕食の団欒を守る、健康管理のスポーツを毎週定期的に行なう、教養と能力を高めるために勉強の時間を毎週五,六時間は確保する。そして、月一回はレジャーを楽しむ。これらのことをこなせるような職業を選び、生活設計をしなければ、必ず人生はうまくいかなくなります。どれかが抜けていても、だめです。

 福音に生きるというのは、伝道だけの人生ではありません。神と共に生きるということは、聖書を読み、聖書以外のものも学び、生活と健康に喜びを獲て、その人の仕事に神にある知恵をいただこうと願うことが大事です。仕事を信仰生活を切り離すならば、プロテスタンティズムから離れてしまいます。

 そういう面で、私はクリスチャンには、独立した職業をお勧めしています。しかし、仕事に呑まれてはいけません。また、そのためには夫婦協力してできる仕事がよいでしょう。そして、これらを最も充実してできるのが牧師職であると信じています。なぜならば、それらをいつもチェックして神に聞かなければ、福音を語ることができないからです。福音の中にいなければ福音を語れません。

 それでは、試練はないのでしょうか。いや、福音とは再臨の主が、私たちの主にある働きに必ず報いてくださるという確信です。試練をぼやくような人は、福音の中にあるとは言えないのです。しかし、それも夫婦が苦労を分け合うようでなければ、とても無理です。夫婦が苦労を共にし、教会が苦労を分け合うことは何という喜びでしょうか。


5月14日 しっかりとした妻に勝る妻。 箴言31131

新改訳 箴 31:1-31

31:1
マサの王レムエルが母から受けた戒めのことば。

31:2
私の子よ、何を言おうか。私の胎の子よ、何を言おうか。私の誓願の子よ、何を言おうか。

31:3
あなたの力を女に費やすな。あなたの生き方を王たちを消し去る者にゆだねるな。

31:4
レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。「強い酒はどこだ。」とは、君子の言うことではない。

31:5
酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。

31:6
強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。

31:7
彼はそれを飲んで自分の貧しさを忘れ、自分の苦しみをもう思い出さないだろう。

31:8
あなたはおしのために、また、すべての不幸な人の訴えのために、口を開け。

31:9
口を開いて、正しくさばき、悩んでいる人や貧しい者の権利を守れ。

31:10
しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。

31:11
夫の心は彼女を信頼し、彼は「収益」に欠けることがない。

31:12
彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない。

31:13
彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、喜んで自分の手でそれを仕上げる。

31:14
彼女は商人の舟のように、遠い所から食糧を運んで来る。

31:15
彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、召使の女たちに用事を言いつける。

31:16
彼女は畑をよく調べて、それを手に入れ、自分がかせいで、ぶどう畑を作り、

31:17
腰に帯を強く引き締め、勇ましく腕をふるう。

31:18
彼女は収入がよいのを味わい、そのともしびは夜になっても消えない。

31:19
彼女は糸取り棒に手を差し伸べ、手に糸巻きをつかむ。

31:20
彼女は悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べる。

31:21
彼女は家の者のために雪を恐れない。家の者はみな、あわせの着物を着ているからだ。

31:22
彼女は自分のための敷き物を作り、彼女の着物は亜麻布と紫色の撚り糸でできている。

31:23
夫は町囲みのうちで人々によく知られ、土地の長老たちとともに座に着く。

31:24
彼女は亜麻布の着物を作って、売り、帯を作って、商人に渡す。

31:25
彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。

31:26
彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。

31:27
彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。

31:28
その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。

31:29
「しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている。」と。

31:30
麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。

31:31
彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。


 しっかりとした妻の値打ちは真珠よりも高いとありますが、真珠と比較したら当たり前かと思います。そのしっかりとした妻の行動は以下のようなものです。

・ 夫に信頼される。11.

・ 生産的な仕事をする。11.

・ 夫のために生きて、夫に尽くす。12.

・ 裁縫や編み物が得意である。13.

・ 食糧を備蓄し、豊富にそろえておく。14.

・ 朝早く起きて朝食を作る。15.

・ 人の扱いがうまく、適切に仕事を差配する・15.

・ 財産を増やすことに関心があり、よく管理する。16.

・ 働き者で頑健な身体を持っている。

・ けちではなく、生活の豊かさを味わおうとしている。18.

・ 地道なこともコツコツと仕上げる。19.

・ 悩んでいる人の悩みを聞き、貧しい人を助ける。20.

・ 家族だけでなく使用人の服にも気を使って揃えている。21.

・ 自らもセンスの良い服を揃え、使い勝手の良い家具を備えている。22.

・ 夫の社会的地位が上がるように心を掛けている。23.

・ 商売も巧みで、付加価値のあるものを生産している。24.

・ 多くの人を助けるので人々は彼女の言うことに従い、指導者としての気品、品格を身に付けている。25.

・ 物事に動じず、思い通りにしようとあせらないで将来を迎えようとする。25.

・ 知恵を求めて生きてきたからこそ、その口からでる言葉は知恵に満ちている。

・ 家族の様子を見守り、自分のためにお菓子など食べない。27.

・ 子供も夫も彼女をほめる。28.

 このような妻は最高の姿ですが、これをそのまま婦人たちにお勧めする牧師が多いのではないかと思います。実際には、そうしたら、教会の婦人たちに、その牧師は総スカンを食ってしまうかもしれません。

 男は、理想の女性像を求めてしまって、妻を愛せなくなっているのではないかと思います。当然、女も理想の男性像を求めて誤ってしまうことが多いのではないでしょうか。女性たちは、前述とはまったく違う自分をも、あたかもそのように思い、受け入れてくれる夫を求めるのです。

 ここで、三十一章の一節を読んでみると、王が母から生まれた戒めのことばとあります。レムレルとは「神に献げる」という意味で、実際にはソロモン王のことであるという説もあります。ともかく、この章は母から王への戒めの言葉なのです。九節までと十節からがまったく違っているので、別なものであるとする説がありますが、それは恣意的な解釈です。

 母は王である子供に忠告します。

それは、祈りの中で生まれた子供に対する戒めであり、王となった者への権威ある唯一の忠告であります。

1. 女性に力を費やすな。女は王をだめにする。

2. 酒を飲むことは王のすることではない。酒を飲んで、勅令を忘れたり、裁きを間違ってしまうからである。

3. 不幸な人、悩んでいる人、貧しい者の権利を守りなさい。

このようなことを率直にいう母こそが、最もすばらしい母であります。人生、神の目から見たら、人の正しさやすばらしさなど、五十歩百歩であります。私たちクリスチャンは、人間的な行ないで、「しっかりした妻になろう、母になろう。」などと惑わされてはいけません。特に、日本は人をそしる社会です。決して、妻や夫、息子や娘、父や母に対して、「しっかりした人間になれ」と自分に都合の良い期待をしてはいけません。

信仰者が守るべきことは、先のことを言い換えると次のようになります。

1. あなたは神にある誓願の子です。大事な人間です。価値のある者として生きてください。

2. 誘惑に負けてはいけない。なすべきことを果たす責任感を持ちなさい。

3. 弱い者、貧しい者、苦しんでいる者の味方でなければならない。

 お母さん方、自分の子供や夫に対して、そのようであって欲しいと願います。最近は、言い訳が非常に多いと感じます。「自分は忙しい。」「自分は弱い。」「他の人が要求した。」そのような言い訳を正当化として聞いてはいけません。母親が、そのような言い訳を受け入れると生涯、子供は言い訳を言って社会を直視せず、責任を負わない人間になってしまいます。

  疲れ、傷ついた子供を迎え入れることは母しかできません。しかし、「戦わなくても良い」とか、「頑張ったんだから、それでよい」、などと子供を外に出さないようなことを言ってはなりません。人生は戦いです。この戦いに出さなくしてしまう母親が多いことを感じます。

 イエス様の母マリヤは、「あの方が言われることは、何でもしてあげてください。」(ヨハネ2・5)と言い、十字架の死にまでイエス様についていきました。イエス様は死なれる前に、母マリヤの悲しさを思いやり、弟子のヨハネに母の世話を頼んで息を引き取りました(ヨハネ1927)。

 親としてできることは、ただ祈ることだけです。そして、このことを欠かしてはならないのです。



5月21日 耐えて強くなりなさい。 Uテモテ2章114

Uテモテ21-14  
2:1
そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。
2:2
多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。
2:3
キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。
2:4
兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。
2:5
また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。
2:6
労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。
2:7
私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。
2:8
私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。
2:9
私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。
2:10
ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。
2:11
次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。
2:12
もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。 2:13 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」
2:14
これらのことを人々に思い出させなさい。そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。

 ダビンチ・コードなどという馬鹿な本が話題になっています。これはフィクション(作り話)の小説で、まったく荒唐無稽なものなのですが、イエス・キリストのことを勝手に人間的に書いているので、世界的にキリスト教に対する冒涜として抗議されています。そもそも、千五百年頃のレオナルド・ダ・ビンチがイエス様の頃の事実を知っているはずはないし、そういう秘密結社があったとしても、キリスト教へのローマ時代の大迫害を経て存続するはずはないのです。クリスチャンは、こういう話に決して耳を貸さないでください。

 「ユダの福音書」発見というニュースとも同じ流れですが、これはキリスト教を形骸化しようとする終末の惑わしの現われです(マタイ24・5、Uペテロ2・1、Tヨハネ2・22)。聖書が真実であり、魂の救いをもたらすものであるからこそ、サタンは、この終末に聖書の偽物に関心を当てたり、イエス様の神性を疑わせようとするのです。聖書研修会では、こういうことに対処するために、六月から「新キリスト教ガイドブック」をテキストにして学んでいきます。

 パウロはテモテに三種類の仕事を引用して強くあることを教えています。

1. 兵士。パウロは獄に繋がれ、毎日兵士と接しているからこそ、兵士の強さを引用したのでしょう。軍隊に入った者の肉体的強さは、スポーツをやる人と比べても格段に違うほど、強固なものです。兵士は、死に直面する厳しい訓練を受けて強くなるのです。また、上の者に服従します。くだらないおしゃべりもしません。犠牲的な行動をして命令を実行します。

最近は状況や損得に左右される人が多すぎます。日常生活に掛かりあわないということは、人のうわさや目を気にしないで、正しいこと、なすべきことをするということです。私は、ゴルフが好きですが、雨や体調に左右されて、その日に断ってくる人は、もう誘いません。彼らは良いスコアを出し楽しくプレーすることに関心があるからです。私は、悪い天候や体調などを調整しながら、それでも人と一緒に仲良く最善を尽くしてプレーすることに関心があります。人生も同様だと思っています。高いお金を掛けるからこそ、自分の素顔がでる方がよいのです。 

2. 競技者。当時のオリンピックの競技者は、長期間の厳しい練習を誓わなければならなかったそうです。自発的でありながら、栄冠を得るために厳しい練習を繰り返すのです。

 スポーツや集団的な活動を厳しくしたことの無い人は、自分勝手な行動が多いようです。言い訳の多い人は、こういう人です。規則を守り、他の人を配慮しなければ、社会で生きることはできません。その上で自らに厳しくして節制をしなければ神に用いられることは難しいでしょう。

農夫。農夫というのは、日々油断なく生育を見なければなりません。どんなに努力しても天候が悪かったり、動物が荒らしたりすれば収穫を得られません。嘆いているわけにはいかないのです。そして、次の種まきのために種を確保していなければならないのです。

 問題が起こり、悩むようなことがあったら、汗を流して働くことです。私は、メンタルケアに肉体労働が最も効果があることを確認しています。考え、悩むことが好きな人が多いようですが、肉体労働とその成果は、人生の喜びを与えます。人生は、収穫を得るために働くのです。自己満足では生きていけません。

 さて、これらのことを「恵みによって強くなりなさい。」とあります。皆さんは、この兵士、競技者、農夫と説明を聞いて、自分にはむずかしい、と考えたかもしれません。能力や努力では難しいのです。自分は、それをできている、しかしあいつはできていない、と考えた方がいたとしたら、恵みによって強くなることはないでしょう。

 「恵みによって」とはどういうことでしょうか。それは、やりながら「耐え忍ぶ」ことです。うまくやれなくても、成果が出なくても、伝道することです。福音の中に生きようと願い続けることです。恵みとは、求めたら直ぐにくることではありません。まず、自分ではどうしようもなかった、と身にしみて悟らなかったら、恵みとは思えないのです。だから、恵みを体験するには時間が掛かるのです。

 そういう、長期的な苦しみのときに、信仰の実体が現れます。神を否むか、信じて耐え忍ぶか。

 兵士のように訓練を受け続け、従い続け、競技者のように自発的に努力を続けて規則に従い、他の人を配慮する。さらに、農夫のように雨の日も風の日も、働き続け忍耐を続ける。それでも、報いが来ない。収穫がない。そのような信仰生活を送る人には、必ず、恵みが降り注ぐのです。


5月28日 用いられる尊い器になる。 Uテモテ2章1526

Uテモテ2:15 あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。

2:16
俗悪なむだ話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔に深入りし、

2:17
彼らの話は癌のように広がるのです。ヒメナオとピレトはその仲間です。

2:18
彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。

2:19
それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」

2:20
大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。

2:21
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

2:22
それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。

2:23
愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです。

2:24
主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、

2:25
反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。

2:26
それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。


 前から気になっているのが、最近の言葉づかいです。言葉を切らないで「〜でぇー」と音を上げて続けるのは若い子の一時的なものかと思ったら、最近は成人男性まで使っています。コンビニなどで「〜円からお預かりします。」という変な日本語もあり、他の人に任せるのに「〜のほう」というのも、どういう日本語だ、と何を言っているのかわからない時があります。職員が上司に向かって「お疲れ様でした。」というから、おかしいと言ったら、そういうように指導された、と言うのです。それは、「一生懸命やったけれど、甲斐がなかったね。無駄働きだった。」、という意味合いです。それが、やはり職場のマナーというテキストに、上司に向かっても良い、と書いてあるのです。最近、その言葉はおかしい、という文に出会って、我が意を得たり、と喜んでおりました。

 ともかく、本を読まず、読んだとしてもハウツー物や軽い小説なので、日本語の丁寧な使い方を学べないのです。核家族が進んでいて、親との交流さえもないので、青年たちの言葉づかいがどう見てもおかしいのです。

私は、別に言葉づかいを指導しようとしているのではありません。その言葉を語ろうとする本人の人格を気にするのです。自分の語る言葉の一つ一つに責任を持ち、しっかりと考えて語らなければなりません。社会に出て、仕事をしている人が、語尾を上げるような変な言葉づかいをしていて、しっかりと他の人や仕事に対応して話すことができているのでしょうか。挨拶も、まともにできない社会人も多いのです。

 私は「プレジデント」誌を定期購読して読んでいるのですが、よい指導者になった人々は、皆なんともいえないゆとりと人格、決断力を備えていると書いてありました。ライブドアの裁判の成り行きを見ても、指導者の人格が欠けていたと言わざるを得ません。そして、そのような人を政治家に担ぎ上げようとしていた現政権も人格が欠けているといえましょう。

 私は今でも月に十冊くらいは本を読んでいるし、雑誌は二十冊以上読んでいます。社会で有能に仕事をしようとする人は、そのくらいは読まなければ、時代に対応できないでしょう。その中には、著者の人生観がはっきり現れているものがなければなりません。社会で強く有能に生きるためには、技術や才覚ではなくて、決断力・判断力などの人格が最も重要なのです。これからは、毎月、礼拝後、五,六冊の推薦図書を紹介しようと思います。

 さて、十五節にある「熟練した者」は、「真理のみことばをまっすぐに解き明かす」人でなければなりません。私が講壇で語る言葉は、すべてその日の聖句を説明するためのものです。最近、面白おかしく説教をして、神は愛だとか、赦すことが大事だとか語る人が増えています。説教というのは、一般論や概念を語るものではありません。「 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル412

 説教というものが、どういうものであるべきか、しっかりと理解しておいてください。説教というのは、聖書のある句に焦点を当て、そのことばが聴く者の心の中に直接語りかけるためにあるのです。礼拝の中心は説教であり、説教の中心は神のことばを生きて働かせるためにあるのです。ですから、説教というのは、頭で聞き理解するものではありません。

 同様に、信仰も神を理解し、聖書的に生きようと心がけるというものではありません。神の語りかけを求め、神の語りかけにしたがって生きるものなのです。しかし、神の人格、その意図するところを知り悟るためには、聖書の論理をしっかりと理解し身につけておくことが必要なのです。そうでないと、自分勝手に神の御心を誤解して行動してしまうからです。
 そういう意味でも、成熟を目指して、自ら節制をして歩むのです。冒頭に上げたような言葉づかいは、十六節にあるような「俗悪な無駄話」を避ける意味でも注意して避けるべきです。二十三節の「無恥な思弁」と言われるような、会話だけを面白がるような生き方をしてはなりません。

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人のを養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4・29)

 神が私たちクリスチャンに望むことは何であるのか、はっきりと理解しておくことが必要です。それは、立派に生きることではありません。非難されないように注意し、人々を配慮することは、罪の世では愚かなことです。人々に牛耳られ、惑わされるだけです。救われて欲しいので相手に優しくするのも甲斐のないことです。罪びとである相手に、あなたの愛などわかるはずがありません。この世を放っておいて、教会にだけ熱心になることでもありません。

 聖書でいう聖とは、俗なるものから離れて神につく、ことを意味します。この世に生きながら、この世に左右されないで神の御心を行なうことです。

 皆さんは、神に嘆きの祈りを注いだことはあるでしょうか。生きたいように生きている人には、人々の取り成しのために神の祈り続けるということはないでしょう。その人は、きよくないから、他の人が気にならないのです。きよくない人は、祈ることがありません。自分の成功のためになど、祈らなくてもよいのです。多くの人が、自分のことを祈っています。それは、神社の願掛けのような罪びとの願いです。

 祈らない人は、祈ることができません。きよくないからです。きよくなるためには、祈り、聖書を読んで神の人格に触れることが必要です。神の人格に触れたら、神と共に歩むようになります。そして神に用いられ、尊いことに用いられます。先週の「恵みによって強くなる」ということを思い出してください。


6月4日 曲がった時代から救われなさい。 使徒の働き2章3240

新改訳 使 2:32-40
2:32
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

2:33
ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

2:34
ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。

2:35
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』

2:36
ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

2:37
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。

2:38
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

2:39
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

2:40
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。


 世の中の人々は、イエス様を神の子であると信じておりません。当然、処女から生まれたとか、十字架に掛かったけれど、よみがえったということも信じてはおりません。それを宗教という枠内のものと捉え、その不合理を信じる単純な人々と考えることもできます。世界的に見れば、神を信じている人の方が、不信仰者よりもはるかに多く、日本人のように神を信じないという人々は、その倫理性が疑われ、かえって信用を得られません。

 しかし、日本でも多くの人々が、霊的現象を信じ、占いや迷信の虜になっていることも事実です。神を信じないのに、占いや迷信を信じる人の方が、おかしいと思われますが、それがまかり通っています。また、人が生まれた時は神社に行き、結婚は教会で、死んだ時はお寺というのも、完全におかしいわけです。これは、利用できるものは何でも利用しようとする人間中心主義の現われですが、こういうことによって、無神論というのも一つの宗教であることがわかります。

 自称クリスチャンという人々も、どちらかというと、キリスト教のほうが論理的情緒的にも納得がいくし、愛の宗教だから、押し付けがなくて都合がよい、という状況でしょう。そういう人々にとって、「ユダの福音書」とか、「ダビンチ・コード」などというものは、面白い話として、問題なく関心を持つのです。

 魂の救われたクリスチャンにとって、そのようなことは、とても我慢できない腹の立つ、神への冒涜です。もし、それが真実ならば、私たちの救いは、偽りのものということになり、「もし、キリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなた方は今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。」(Tコリント1517,18)。

 キリスト教というのは、仏教のように教えや悟りの宗教ではありません。また、多くの日本人が持っている汎神論的世界観とも異なっています。宮崎駿監督の映画「もののけ姫、となりのトトロ、千と千尋の神隠し、ハウルの動く城」などは、全て汎神論的世界観から作られたものであって、クリスチャンが推薦してよいものではありません。ハリーポッターの映画も、同様です。

 他方、ナルニア国物語は、キリストと聖書の奥義を子供たちに示そうとして作られたものであることがわかります。ドラえもんや鉄腕アトムなどは、子供たちに社会や友情、努力の必要などを教えようとしたものです。大人になると小説と現実の区別がつくようになるのですが、子供にはそれが難しいので、大人は適切な解説をしながら、それらを提供することが大事なのです。

 ところが、最近は大人でも、空想と現実、迷信と宗教の違いがわからない人が増えてきています。聖書の話、キリストの受肉や十字架、そして復活を、迷信と同じようなものとして信じている人は、クリスチャンとは言えません。クリスチャンにとって、キリストの十字架の死は、自分の罪の身代わりとしてイエス様が死んでくださったことであり、個人的な関わりがあるのです。イエス様のよみがえりは、死からの勝利であり、私たちクリスチャンに永遠のいのちと罪の赦しの保証なのです。

 当時の人々は、イエス様の十字架の死を知っていました。そして、その死んだ身体が、兵隊の警護にも関わらずなくなってしまったのを聞いていました。だからこそ、この異常な騒動の原因が、キリストの復活に起因していると聞いて、悔い改めたのです。

 人々は、罪なきイエス様が十字架につけられていくのを傍観していました。罪というのは、自己中心ということで、全ての行動を自己保全のためにしています。しかし、それは、人を殺すことになるのです。魂が救われるときの、認罪ということは、自らが死に値する罪人であると悟ることなのです。

 この認罪がしっかりとしていれば、人の罪をあげつらったり、批判することはありません。他人の罪を責める資格がないことを認めることなのですから。クリスチャンでありながら、言い訳を言ったり、ごまかしをしたり、する人々がいるとしたら、「このイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒2・36)と当事者で無いのに言われても、心を刺され、悔い改めた人々のようではないのです。罪を認めることなしに救いはありません。

 「クリスチャンになってもいいか」と決めたから洗礼を受けるのではありません。本当に悔い改めたら、「罪を赦していただくために、洗礼をうけなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2・38)。

 聖霊のバプテスマは、悔い改めた人々に対する父なる神の祝福の約束です(使徒1・4,5)。そして、それは、力を私たちに与えてくださいます。現実の信仰生活に力が与えられます。現在、世界のキリスト教徒の三分の一は、聖霊のバプテスマを体験したペンテコステ派によって占められています。つまり、世界のキリスト教の増加は、殆どペンテコステ派によって、達成されているのです。

 あなたも聖霊のバプテスマを受け、聖霊に満たされましょう。


6月11日 困難な時代がやってくる。 Tテモテ3113

新改訳 Uテモ3:1-13
3:1
終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。
3:2
そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、
3:3
情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、
3:4
裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、
3:5
見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。
3:6
こういう人々の中には、家々にはいり込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、
3:7
いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。
3:8
また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。
3:9
でも、彼らはもうこれ以上に進むことはできません。彼らの愚かさは、あのふたりのばあいのように、すべての人にはっきりわかるからです。
3:10
しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、
3:11
またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。
3:12
確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
3:13
しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。

 若い時には人生は努力次第で開けると思い、また人々は善意を持つならば、必ず助け協力してくれると思っていました。最初に、悪を感じたのは小学2年くらいの時、クラスのガキ大将のような子が、自分の鼻くそを私につけた時でした。力自慢の子でしたが、猛烈に腹が立って抗議したことを覚えています。

  高一になって、非常に親しくしていた友人が、同じ志望校を合格できなかったということで、私を羨んで攻撃してきた時、人間の浅はかさを知って悲しくなりました。その頃には、社会の人々の性格の悪さやずるさを体験してきたので、武者小路実篤などの文学に傾倒したのです。

  大学に入ると、いくら親しくしてもその人の教養や性格が自分とは合わないと交流を保てないことを覚え、友を選ぶようになりました。リーダーだった私は、多くの友人や後輩から交流を求められ、自分をそのために律しないといけないことを自覚しました。青年期が終わる頃、人はそれぞれの人生観や人格が形成されます。そして、人生を共有する伴侶には、同じ人生観や教養レベルの者が必要であると思うのです。

 その頃、クリスチャンになったので、価値観がすっかり変わり、自分が社会の少数派で生きなければならないことを覚悟しました。文学青年であり、生きる目的を探っていた私にとって、クリスチャンになるということが困難な道を歩むことであると洞察したのですが、それは十分意義のあることでした。それまでの欲望に惑わされ、虚しく過ごす毎日から比べれば、神を知って愛のために生きる人生観は満足のいくものでした。それは、新渡戸稲造がキリスト教を知って、武士道と同じようなものとして意識したのと同様でしょう。

 私は自分がクリスチャンとして生きることを願った時、それがこの世とは相容れない人生であることを覚悟したのは、人々がまさにこの2節から5節の人間であることを悟ったからです。「自分を愛する者」が神を愛し、他人を愛することと異なる、罪そのものであることに気がつきました。そして、これが罪を認め、クリスチャンになった人々にも蔓延している信仰的病気であることも悟りました。それは「金を愛する者」と同じように、神の働きかけを拒み、自分の願いを優先して、自己犠牲を放棄する人々です。

 私は小さい時からいろいろな人と接しているので、平気でそのような人々とも交流できました。しかし、一つの教会でも、信仰によって生きるよりも、牧師の説教や考えに従うよりも、自分の考えを優先する人々が、不平不満を持ちながら、形式的に信仰生活を歩むのを眺めていました。日本でキリスト教が停滞する理由はこれだな、と思い、自らは、神を愛し、人を愛することに徹しようと思ったものです。信仰生活30年になりますが、いまだに困難を覚えています。私の罪性は簡単には、清められません。

 「大言壮語」とは、威張りちらしながら、ほらをふくことだそうです。「不遜な者」とは、他人を軽蔑し、自分を高しとする人です。人は比較で生きていますので、かなりいるでしょう。「神を汚す」とは信仰的な道徳性を持たない人でしょう。「両親に従わない者」は不幸を身に招いています。「感謝することを知らない者」というのは、自らの人生を自らの責任で生きていることを気がついていないからでしょうか。「汚れた者」は卑屈な人生を選んだ結果でしょうか。

 「情け知らずの者」は人の情けに気がつかず、体験したことのない人でしょう。「和解しない」で決して譲らない人は孤独な人生を歩むしかありません。いつも人を「そしる」人と親しくしていた時は、その会話が苦痛でした。結局、交流をやめた今は、私がそしられていることでしょう。「節制の無い者」、「粗暴な者」「善を好まない者」は、自己破壊の人生を過ごさざるを得ないでしょう。現代では、食事や飲み物に節制できないと必ず健康を害します。

 孤独で人と交流しない人は、「裏切り」「向こう見ず」「慢心」がありうるでしょう。他の人と十分間なんでもない会話ができるでしょうか。「神よりも快楽を愛する」のは、これまでのものをまとめるとこういうことができるでしょう。

私たちが、これらの人と交流すると私たちの霊性が汚れます。たとえ家族であっても、彼らの関心を得ようと心を赦してはなりません。なぜ、伝道できないかというと、未信者に心を赦し、それで良いと思っているからです。でも、そうすると迫害を受けます(12節)。迫害や試練を避けようとして、世の中の人々と迎合すると「騙したり、騙されたりしながら悪に落ちていくのです。」(13節)。

クリスチャンのこの社会での働きは、祭司のようなものです。つまり、人々のそのような罪性を気づきとりなしをして生きるのです。「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」〔Tペテロ2・5〕。この聖句の続きを見ると、そういうことにつまづくか、つまずかないかで、クリスチャン人生が築き上げられるか、捨てるかになってしまうのです。

 私は、クリスチャンとしての清めの道を生きることを決心して家族から非難され、いろいろなことがありました。それでも、今は、私たちが親戚を祝福し、守るようになっています。信仰者として強く生きるか、それとも世の中に埋没するか、それはあなたの決めることです。そして決めなければならないことです。

 多くの日本人クリスチャンは、その決断をせず、普通の人間として信仰生活を全うしていきたいと願います。でも、罪なる社会はそれを認めません。そして、多くの試練にあわざるを得ないのです。


6月18日 夫の責任を果たす。 エペソ5章25〜6章4

5:25
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
5:28
そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
5:29
だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
5:30
私たちはキリストのからだの部分だからです。
5:31
「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」   5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
5:33
それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。
6:1
子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6:2
「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3
「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。
6:4
父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

 「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記127新改訳第3版)。第3版で「かたちに」から少し替わっています。人間は、被造物でありながら、神の代理者としての使命があると強調されています。また、人間は、夫婦として歩んで初めて、神の代理者としての生き方があることが示されます。

  ですから、「人がひとりでいるのは良くない。」(創世記2・18)と神は言われたのです。つまり、人は、男も女も独身でいるのは良くないのです。しかし、実際には、結婚しても独身でいるかのように勝手に歩んでいる人ばかりです。それは当然、「良くない。」のです。

  アダムには当然、父母はいません。しかし、「男はその父母を離れ」(2・24)と書かれています。この箇所は聖書ですから、後に補完されたのではありません。創世記が記された時に、男は結婚するときには、従属的なものではなく、神の代理者としての責任を負った決断をするものとして命じられているのです。両親と別な所帯を持てば「父母を離れ」というものではありません。経済的に独立しているからそれでよいというものでもありません。家庭に起こる全てのことに、責任を負い、支配者としての決断をしなければならないのです。

  夫がこの責任を負わなければ、それは独身でいるのと同じなのです。また、この責任を負うということができなければ、結婚しても決してうまくいかないのです。このことは、最初の結婚においても起こっています。エバが罪を犯したとき、アダムはそれを自分の責任としてではなく、「あなたが私のそばに置かれたこの女が」(312)と言い訳を言うのです。こんなことを夫に言われたら、妻はどんなにか腹がたつでしょう。妻の罪深さを自らのものとして捉えることができない夫は、「妻と結び合い、一体」とはなっていないのです。

  こういうと、多くのクリスチャンが、自分の夫を非難し、或いはそう思う妻に嫌な気持ちを持つでしょう。「夫婦というものは、互いが罪を犯さず、信仰的になるために注意して警告をしなければならない」、と完全に誤解しているようです。それであるならば、最も身近なところに、監視役がつけられてしまったようで、決して結婚なんかしたくないでしょう。

  この聖句で最も大事なことは、一体になるということです。つまり、かばいあう、ということです。特に、夫は妻をかばい、守り、養い育てなければなりません。

 今回の新築の家のために私たちはベッドを買いました。妻のベッドは私のものの6倍も高価なものです。実際には、妻のほうが熟睡できますし、私は寝つきが悪く夜中に何回か起きます。それでも昨年の銀婚旅行で一緒に過ごした時の妻の弱さ、体力のなさ、その中で必死に健康維持に努めていたことに気がついたことを忘れることはできません。私にとっては、妻が病弱になることは困るし、妻にとっても、私が病弱になっては困るでしょう。ですから、お互いのために、助け合っています。

 子育ては難しいものです。Tサムエル2章には、祭司エリの二人の息子が焼き尽くすべき脂肪を力づくでとり、食べてしまったことが記されています。エリは「人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。」という有名なことばを息子に語ります。「しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。」

  結局、この二人はペリシテ人によって殺されてしまいますが、それを知ったエリも立ち上がった時につまずいて倒れ、首を折って死んでしまいます。高齢でありながら、大変な肥満だったことがわかります。つまり、父のエリも脂肪肉を喜んで食べていたので、息子を注意できなかったのです。

  子供を監督し、注意するのは母親ではいけません。母親は愛情を示す存在でなければならないからです。父親が、真剣に子供を躾けるのです。その場合の基準が、エペソ4・25,26でしょう。「偽りを捨て、真実を語る。怒っても、罪を犯さない。日暮れまで怒り続けてはいけない。」

  神を信じて生きる、ということは、こういうことを実践して生きることです。いつまで経っても、言いたいことを言い、やりたいことをやって、独身のように生きる人々がいます。そういう人は、どのように人に弁解を言い、言い訳を言っても、罪の報いを受ける苦悩の生涯を生きるのです。神がそうするというものではなく、それは罪の結果であって、自業自得なのです。

  もし、あなたが、その罪を認めず、責任転嫁するならば、或いは、その罪がわからないのであれば、あなたは自らを神を信じない人として証明しているのです。聖霊なる神は、あなたが自らを清め、神の命令を実行するように意識付けをしているのですが、それを受け入れるのは、あなた自身なのです。

  具体的には、神がどのようにあなたに働きかけるか、示しましょう。エリの場合であれば、息子に警告し決して自分は脂肪肉を食べないことです。あなたの場合であれば、新聞を読んでいるとき、妻が語りかけたら、新聞を置いて、妻と話をし、必要な場合には、妻を助けることです。自分の今日の予定を考えながら、家族の予定が何であるか、確認することです。自分が健康であるならば、健康でない妻のために自分の健康を犠牲にして妻を助けることです。このようなとき、あなたの家族は、あなたを愛し、あなたを喜ぶでしょう。

 「愛があれば、結婚してもうまくやっていける」、などという愛とはどこにあるのでしょうか。肉欲はあっても愛などという抽象的なものは、ありません。愛とは、具体的な行動を起こした結果、それを愛というのです。Tコリント13章に、愛とは、どういう行動か示されています。信仰も同様で、行いのない信仰は、信仰がないことを証明しているのです。(ヤコブ2・18)。行いのない信仰では神の御前に立ちおおせません。



6月25日 神の霊の宿っている人。 創世記413743

新改訳 創 41:37-43

41:37
このことは、パロとすべての家臣たちの心にかなった。

41:38
そこでパロは家臣たちに言った。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」

41:39
パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。

41:40
あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」

41:41
パロはなおヨセフに言った。「さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。」

41:42
そこで、パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。

41:43
そして、自分の第二の車に彼を乗せた。そこで人々は彼の前で「ひざまずけ。」と叫んだ。こうして彼にエジプト全土を支配させた。