10月2日 苦難の日に私に答えた神。 創世記35110

訳 創35:1 神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」

35:2
それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。

35:3
そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」

35:4
彼らは手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪とをヤコブに渡した。それでヤコブはそれらをシェケムの近くにある樫の木の下に隠した。

35:5
彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。

35:6
ヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょに、カナンの地にあるルズ、すなわち、ベテルに来た。

35:7
ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それはヤコブが兄からのがれていたとき、神がそこで彼に現われたからである。
35:8
リベカのうばデボラは死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それでその木の名はアロン・バクテと呼ばれた。
35:9
こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現われ、彼を祝福された。

35:10
神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。

 神の人との夜通し格闘にも関わらず、決して降参せず、自我を固執し続けたヤコブでしたが、股関節を外されてしまい、ついに自らの弱さを自覚しました。弱さ・罪深さの自覚をしてはじめて、人は神に降参し、救いを求めるのです。多くの人が、自らの能力や持てるものに信頼するだけで、神を信じるには至りません。確かに、救いに至る時というものは、多くの人が、葛藤の中で自分の力では乗り越えられないことを認め、神を信じるのです。

  しかし、実際には、乗り越えることができないような試練の中でも、殆どの人は神信仰には至らず、愚痴や失望だけで済ませ、性格を悪くするか、或いは人間的な能力や幸運で乗り切り、成功者となるか、どちらかですが、神の目から見たら、どちらも愚かな者ということになります。

  激しい信仰体験をしたヤコブは今や行列の先頭に立って進みます。以前は、強靭な体力をもっていたのにオドオドして、一番後ろで悩んでいたヤコブですが、足を引きずりながらですが、覚悟を決めて進みます。それでも、ヤコブの性格でしょう、7回も地にひれ伏してエサウを迎えています。

  このような知恵を否定して実直を旨とする人がいますが、そのような主義主張も自分の態度を変えない高慢な態度であるとも言えます。神にのみ拠り頼むと言って、人に頭を下げないのも、まだ苦労が足りません。断食や祈りを誰よりもしているのに、祝福が少ないと不満を持つ人もいるようです。

  私は、断食や祈りをしながら、食事を作ったり、買い物をしたり、子育てをしたり、クリニックの事務的な仕事などを続けました。私のことを何でもできると感心する人が多いようですが、何でもしなければ生きていけませんでした。聖書を読み、祈りをするだけでは、餓死をしますし、子供は不満を言います。宗教的に熱心なことは良いのですが、宗教だけに熱心では、自己満足な信仰と言えます。

  ヤコブは、大家族を守るために、何度も何度もひれ伏したのです。この行動を「みっともない」という人は、自分の意地のために家族を犠牲にする人です。私たち夫婦は、動けなくなるほどに忙しく、またいろいろと非難されました。でも、そんなことに腹を立てていたら、家庭を守ることはできないのです。人を非難し、攻撃する人は、自分の人生に責任がなく、暇なのです。

 さて、そのようにして無難にエサウとの出会いを乗り切ったヤコブでしたが、また一大事件が起こります。

  一人娘のディナが、地方の有力者の息子にかどわかされてしまうのです。不道徳な異教社会では、性交渉は何でもないことだったのでしょう。族長の息子シュケムは、自分の悪辣な行為を詫びることもせずに、結婚を求めています。しかし、妹を辱められた兄たちは、彼らを騙して、町中の人を殺してしまいます。

  騙す手口は、彼らに同じ信仰に入るためとして、割礼を強いるのです。割礼はユダヤ教徒の印ですが、信仰というものは、形から入ると必ず崩壊します。息子たちは、聖なる割礼を、人を殺す手段にしてしまったのです。割礼の痛みで動けない人々を殺すのは、少人数でもできたのでした。

  このような乱暴な息子たちは、4人も妻がいて、家庭に秩序がなかったからですが、この息子たちも長い時間を経て信仰者に育っていきます。

  ヤコブは、神が自分を祝福したべテルに戻りたかったのですが、不信仰で形式的にヤーウェ礼拝をする家族を引き連れていくことにためらいを感じたのかもしれません。しかし、このような乱暴な事件が勃発するのに及んで、今や家長としてはっきりと指導をします。

1. 異教の神々を取り除きなさい。

2. 身を清め、着替えなさい。(心を入れ替えなさい。)

3. 信仰の祭壇を築く。(信仰生活を確立する。)

 人は、自分の罪には、なかなか気がつかず、悔い改めないものです。しかし、自分のした罪は、必ず償わなければなりません。祝福されず、試練があるのは、自ら犯した罪の結果であることが多いのです。ヤコブは、家族を持ち、その家族の心の荒れ果てた様子を見て、自らの罪の結果であることに気がつきました。自分の家長としての責任を全うしない故に、家族の心が荒れ果てたのです。なんという苦しみでしょう。

  現代日本は、家族に責任を持たない夫がなんと多いことかと驚きます。家族が問題を抱え苦しんでいるのに、テレビを見てゲラゲラ笑っている父親は、歳をとり、自分が何もできなくなった時、誰も相手をしてくれず、見捨てられることでしょう。

  しかし、ヤコブは悔い改めました。責任を持ち、信仰を指導したのです。そのように指導された息子たちは、自らの残虐な行為にショックを感じ、父親に従ったのです。このようにして秩序を回復したヤコブ家は、報復を受けることなく、旅を進め、神の家(べテル)に到着したのです。

  クリスチャンは悔い改めたら許される、何の咎めもない、と思い込んで非常識な行動をしながら、神に許しを乞い、それでケロッとしている人がいます。確かにイエス様が代わりに罰を受けてくださいましたので、神の前では許されます。しかし、それは自らの罪の重さに気がついていなければなりません。地上でのあなたの、過失・罪は全て、自分に降りかかることに気がつき、その咎を覚悟して生きるならば、神からの特別な助けが来るでしょう。神の家には悔い改めた者のみが入ることができます。


10月9日 神の計画と人の志。 創世記37211

新改訳 創37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。

37:3
イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。

37:4
彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。

37:5
あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。37:6 ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。

37:7
見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」

37:8
兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。

37:9
ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」と言った。

37:10
ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」

37:11
兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。



 「これはヤコブの歴史である。」とありますが、実際にはヤコブの物語は二十五章から始まっています。ところが、そこには「イサクの歴史である」と書かれています。このような記録の仕方を考えて見ますと、子供が自立して自分の歩みを始めるようになってからが親の歴史である、ということになります。

 ヤコブはこれまで多くの苦労をしてきて、やっと信仰者になってきました。それは、子供たちの罪深い生活へのとりなしが大きな要因でもあります。つまり、人のとりなしや重荷を背負って始めて、その人の信仰者としての人生が始まる、と聖書は捉えているのではないか、と考えられるのです。

 イエス様は「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ1038)と言われました。族長として、信仰者の系図に連なる者になるために、ただイサクの子として生まれただけではだめなのです。エサウもイサクの子ですが、その系図からははずされます。

 この教会では、理念にもありますように、主の弟子作りを使命としています。具体的には執事になるような人を養成するに重点とします。私は、信仰を求める人々にも、洗礼を受ける際にも、あまり重荷は負わせないように注意しています。なぜなら、信仰というものは、あくまで自発的に主に従い、主に仕えることを願うものだと思うからで、そうしてこそ信仰の真実さが現れてくるからです。ですから、執事や執事補になることは、決して甘くありません。執事補は見習いですが、執事は牧師がその人は主の弟子であることを承認したお免状のようなものです。しかし、教会の働きに重荷を負い、主に従うことを適当にしたら、すぐ執事は辞めていただくことになります。

 さて、そのようにして、ここからはヨセフの物語が始まります。ヤコブにとっては、自分の望んだ妻はラケルですから、正妻として意識していました。その子供のヨセフは、相続人であり、長男であると考えたのでしょう。ヨセフだけに、袖付の長服を着せました。その兄たちには、そんな服を着せたことはなかったので、兄たちは差別として怒っていました。ヤコブ自身がリベカの偏愛を受けたので、子供に対してそのような扱いをすることが間違っているとは気がつかなかったのでしょう。

 神の目には、当然、ルベンが長男ですが、罪を犯したので退けられ、シメオンとレビも先週語った皆殺し事件の犯人なので退けられました。そして、4男のユダが、ヤコブの正当な後継者として扱われ、イエス様の先祖になるわけです。このようにして、私たちは、神の選びは意図的に罪を犯すとはずされることを教えられます。また、ヤコブのように、性格が悪く罪深くても、神を求め続け、次第に信仰者として成熟を遂げていくならば、祝福を受け、選びに入ることがわかります。

  ヨセフが夢を見ます。それは、親や兄弟が自分のひれ伏すというものです。甘やかされていますから、悪気はないのですが、他の者にすれば、大変失礼で、腹の立つことです。こういう配慮のなさというものは、社会において必ず攻撃され、制裁を受けます。私は、多くのクリスチャンがヨセフのように配慮のない場合が多いと観ています。伝道熱心はいいのですが、「あなたは罪人です。悔い改めなければ救われません。」などと、いつも言われたら、それこそ憎くなってしまうでしょう。

  ヨセフは、大変な試練に遭います。兄たちに殺されそうになり、エジプトに奴隷として売られてしまうのです。そこでも苦労続きです。しかし、結局は、祝福され、エジプトの首相になってしまい、予言の通りになります。このことは父ヤコブにとっても大変な嘆きですが、このような中でヤコブはひいきのしない神の導きに忠実な大預言者になって人生を締めくくることになります。

  ここで、私たちはヨセフのような幻、夢、希望の意味を確認しなければなりません。クリスチャンとは、希望を持つ人のことです。この地上のことより、天国を願い求めるから、神を求め、信仰に導かれたのです。あなたが、人生に意味を求め、神がおられることを求めなければ、信仰者にはなっていないのです。

 ところが多くの信仰者が、信仰も希望も愛もない、信仰なき人になってしまっているのです。夢を見ること、志を持つことを恐れてはいけません。非常識な人になることを恥じてはいけません。「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」(マルコ838

  ある人がクリニックに勤めるはずでした。そこに至る神の超自然的導きは、驚くばかりです。ところが、親の反対に対抗できず、諦めてしまいました。ヨセフのように夢を実現するのには、大変な困難と試練があります。ヤコブもまた、大変な試練の中、この世の人になるのではなく、神の器になっていきました。

 非常識と言われることを恐れてはいけません。夢を見、志を立てて、人生を生きるのです。「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル111)。私が、博士課程を諦め、牧師になることを決意したとき、多くの人々から呆れられ、馬鹿にされ、攻撃されました。今、当時夢見たことの2割くらいが実現しました。現実には、まだ困難は一杯あります。しかし、「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(ヘブル1039


10月16日 エリヤのチャレンジ。 T列王記17816

新改訳 T列 17:8-16

17:8
すると、彼に次のような主のことばがあった。

17:9
「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

17:10
彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

17:11
彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」

17:12
彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」

17:13
エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。

17:14
イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」

17:15
彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。

17:16
エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。



10月23日 憎まれ裏切られ。 創世記371828

新改訳 創 37:18 彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。

37:19
彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。

37:20
さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」37:21 しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、「あの子のいのちを打ってはならない。」と言った。

37:22
ルベンはさらに言った。「血を流してはならない。彼を荒野のこの穴に投げ込みなさい。彼に手を下してはならない。」ヨセフを彼らの手から救い出し、父のところに返すためであった。

37:23
ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、

37:24
彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水がなかった。

37:25
それから彼らはすわって食事をした。彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデから来ていた。らくだには樹膠と乳香と没薬を背負わせ、彼らはエジプトへ下って行くところであった。

37:26
すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。

37:27
さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。

37:28
そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。

 祈りというのは、自分の思いを神に委ねて、そして神に聞くということですが、自我の強い人は、決して神の声を聞こうとせず、自分の願いだけを神に注文し続けているものです。こういう人は、聖書を読んでも、直ぐに自分の感情のはけ口となって、自分の都合の良いように解釈し、自分を正当化するところだけを拾い読みすることになります。説教を聴いても、その説教の言わんとすることよりむしろ、自分の感情の中にその中のある一部だけを取り入れて、自分流考え方の中にしまいこんでしまいます。

 そういう人は、人生の流れの中で自分にとって否定的なことや都合の悪いことを受け入れません。良いことだけを神に願い、また良いことだけを受け入れるのです。周囲の人に対しても、自分に都合の良いことだけを聞き入れ、交流し、後は時間の無駄ですから、相手にせず、自分のやるべきことをしようと、別れます。効率的に物事を考えるのです。

 子供というのは、そういうものです。しかし、先々週の説教で語ったように、成熟したクリスチャン、主の弟子というのは、「自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様に従う」ものですから、そのような人が主の弟子、敬虔なクリスチャンになることはありえません。

実際には、人間とは皆、そのような自己中心な存在であって、私たちに内住する聖霊によらなければ、主の弟子となることはできません。牧師という神に任じられた職業は、人間がそのような自己中心であることを覚悟したうえで、神と人とに仕えるべきものであると私は考えています。ですから、牧師たる者が、この世でうまくいかないことを愚痴ったり、腹が立ったりするならば、その職務を全うすることはできません。

このようなことは、「自我に死ぬ。」という体験無しではなしえません。ガラテヤ2・20にある「私はキリストと共に十字架に付けられました。」という体験です。別にこれで罪を犯さなくなるわけではなく、感情がなくなるものでもありません。要するに、自分の思うとおりにいかなくても全然気にならず、キリストの御旨を探って生きられるのです。

パウロは、その体験を語る際に、自分の罪深い経歴を明かします。「私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。」(ガラテヤ1・13)。そして、信仰者が律法的な考え方をすることを厳しく戒めました。自らの内に聖霊による自由がなければ、他の人を責めたり、懲らしめたり、行動を規制したりして、自分の思い通りに動かそうとするのです。自我に死ななければ、キリストにある自由は獲得できないのです。

 さて、今日の聖句に戻りましょう。

1. ヨセフは憎まれました。

人よりもうまくいっている人は憎まれるのです。思い通りでない人は嫌われるのです。

2. ヨセフの夢はうらやまれました。

「出る釘は打たれます。」幸せになると嫌がられます。うまくいくと邪魔されます。

3. ヨセフは自分が恨まれているとは思ってもみませんでした。

   自己中心な人は、他人が自分をどう考えているかなどと考えもしません。迷惑を掛けていることも気がつきません。自分のことしか考えていないのです。

4. ヨセフは突然、皆に攻撃されました。

   油断をしていると突然に穴に投げ落とされます。敵は一斉に襲ってきました。

5. 彼らは復讐すると満足して食事を取りました。

   罪人は悪事を楽しみ、決して悔いたりしません。

6. 彼らはヨセフの兄でした。

   肉親だからといって、悪意を持った人は何をするかわかりません。

7. 父の悲しみによって、自分の悪事に気がついたが、白状をしない。

   責められ諭され、自分が罰を受けて初めて、事の重大さに気がつく。悲しんでいる人や愛を知っても、自分がまずくなるならば、悔い改めはしない。

  人生にこのようなことはつき物です。あなたにもありうるでしょう。でも思いがけないことなどと驚いてはなりません。信仰者である自分に試練がないなどと考えるのは、甘いのです。イエス様でさえ、十字架に掛かったのですから、あなたが苦しみにあっても、驚くにはあたりません。信仰が薄いから試練に遭うのではありません。パウロは、「艱難さえも喜んでいます。それは、艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。」(ローマ5・3-5)と言っています。

  試練や苦しみの中で、私たちが真に魂の救われたクリスチャンであるか否かが明らかになります。私たちには、神に与えられた聖霊が、神の愛を心に注がれるのです。試練によって、なおも信仰深くなっていくのです。なんと驚くべきことではないでしょうか。


10月30日 神の知恵に満たされたヨセフ。 創世記3916

新改訳 創 39:1-10

39:1
ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。

39:2
主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

39:3
彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。

39:4
それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。

39:5
主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。

39:6
彼はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる食物以外には、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、美男子であった。



ヨセフは、特別に甘やかされて贅沢な暮らしを過ごせた父の元から、兄たちに殺されそうになり、奴隷としてエジプトに売られてしまいました。まだ、十七歳ですから銀二十枚です。イエス様は大人ですから銀三十枚で裏切られています。親しい者に裏切られながら、決して罪を犯さなかったので、ヨセフはイエス様の型であるとも言われます。

十七歳で奴隷にされてエジプトの王パロに仕える侍従長の家に売られます。何も世の中のことを知らず、学問も技術も身に付けていないヨセフですが、直ぐに仕事をマスターします。何を任せてもうまくこなすので、次第に家と全財産の管理を任されるようになります。

聖書に出てくるサムエルやダビデ、ダニエルなど神に用いられる人は、皆、知恵に満たされています。その知恵は、信仰があるだけではなく、この世に対しても働く知恵で、勝利者・成功者になっています。

1. 信仰の告白

「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」(3節)とあるように、ヨセフは、はっきりと自分の信仰を示しています。そして、ヨセフの行動の背後には、神の祝福があることがわかるような奇跡的な成功が伴っていることを、誰もが認めたのでしょう。

2. 主人に愛される

主義主張の強い自我をはる人は愛されません。言い訳もだめです。自分勝手も、怠惰も、マナーの悪さも、配慮のなさも、口の悪さも、無口も、おしゃべりも、欲の強いのもだめです。人に愛されようとしない人は、愛されません。

3. 仕事を万全にこなした

  自分のことばっかり考える人は、働き者ではありません。働き者は、自分の仕事のことをいつも考えます。其々の仕事は、神から与えられた賜物です。自分の仕事に誇りを持ち、成果を挙げて、主人に貢献しようとしないで充実した信仰生活を過ごせるはずがありません。

 イエス様は幼い時から誰よりも知恵があるので、人々は驚いていました(ルカ247)。他方、イエス様ご自身、「「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(ルカ1021)と言われています。つもり、この世の知恵と神を信じる者の知恵は違うということです。その22節にあるように、神を信じなければ決してわからない知恵なのです。更に27節にあるように、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

ということを実行しようとしなければ、与えられないのがこの知恵です。

 ヤコブの一章には、「知恵の欠けた人がいるなら」神に求めて疑わずに願いなさい、どんな試練があっても、喜びながら受け入れなさい、とあります。つまり、「思うとおりに行かないことを悲嘆するような人には知恵は身に付かない」ということです。

  よく、愚痴や言い訳、泣き言を言う人がいます。その人は、「心も、力も、知性も尽くして」いないのです。すぐ人に相談したり、助言を求める人も同様です。神に求めなければなりません。「必ず、問題を解決しよう」、「絶対にこの願いを実現しよう」と願う人は、現状に満足しません。その願いを実現しようと、神に願い、知恵を尽くし、力を尽くすのです。

  自慢話をしたり、打ち明け話をするのは、もうそこで満足しているからです。箴言には「愚か者の口には誇りの若枝がある。知恵のある者のくちびるは身を守る。」(143)とあります。全きヨセフの願いは何だったのでしょうか。私は、類推します。必ず、奴隷の身から開放され、遠い祖国にいる父の元に帰ることだったのではないでしょうか。

  家族や周囲の人に関する自分の心配を相手に聞きだそうとする人もいます。愚かなことです。心配を口に出して、相手に自分の不安を伝えてどうするのでしょうか。本人は、もっと不安になり、あなたに信頼されていないことを知るだけです。

  ロッテのバレンタイン監督は、失敗したり、成績の良くない選手をいつも励ますことに注意を払っているようです。日本シリーズで盗塁に失敗した選手を他の選手がハイタッチで迎えたと記事にありました。監督の思いが選手に浸透したのです。

  祈りをしない人は、自分の考えや主張をチェックすることができません。

聖書を読まない人は、神の知恵を教えられません。

教会に集わない人は、神にあって生きるということを知りません。

イエス様を信じない人は、自分の罪や非を認めません。

神を信じ、大きな願いをもって、その実現のために知恵を求める人となってください。


11月6日 神の霊の宿っている人。 創世記413744節 

新改訳 創 41:37-44
41:37
このことは、パロとすべての家臣たちの心にかなった。
41:38
そこでパロは家臣たちに言った。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」
41:39
パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。
41:40
あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」
41:41
パロはなおヨセフに言った。「さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。」
41:42
そこで、パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。
41:43
そして、自分の第二の車に彼を乗せた。そこで人々は彼の前で「ひざまずけ。」と叫んだ。こうして彼にエジプト全土を支配させた。
41:44
パロはヨセフに言った。「私はパロだ。しかし、あなたの許しなくしては、エジプト中で、だれも手足を上げることもできない。」


 エペソ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

「神の霊の宿っている人」と呼ばれたのは、ヨセフ、ベツァルエル、ヨシュア、ダニエルなどです。その特徴は、みな清い人々であり、この世の乱れた生活と一線を置きながら、自らは神に献身して歩んでいた神の人です。

私たちは、ペンテコステ派ですから、聖霊の激しい働きの中で、聖霊に満たされるということはよくあります。しかし、多くの人が聖霊に満たされることを感情的な興奮の時に錯覚してしまいます。聖霊に満たされる時、批判的な気持ちになったり、自分の思いに捕らわれて興奮したりすることは、決してありません。

 悪霊に憑かれた時、人は自分の意思や考えを制御できずに興奮し、予言や占いを教えられることがあります。また、自分の心と霊の調整ができない人もいます。意思が弱いので、霊的な部分に多く影響されます。そういう人は夢を見たり、願望を強く抱くのですが、心が弱いので、生活を秩序立てることができません。反対に、心が強すぎるので、生活に捕らわれ、霊的な部分が未成熟で、祈りや聖書に関心がない人もいます。聖書は、神を信じていない人を「霊的に死んでいる」としていますが、神を信じても心が聖霊に満たされるのが難しい人もいるようです。
そういう意味でも、聖書は『御霊に属する人になりなさい。』(Tコリント2・

12−3・3)と命じています。さて、ヨセフはどのようにして御霊の人になったのでしょうか。

1. 性的な誘惑に惑わされなかった。

 主人の妻が執拗に誘惑します。しかし、ヨセフは決して誘いに乗らないのです。現代社会は性的な惑わしに満ちています。最近私のメールには、毎日六十通以上の性的な誘いのメールが来ています。テレビを見れば、そのような更に多く、雑誌などはあまりもっとひどいでしょう。世の中は、誘惑に満ちていますが、もし皆さんがそれに惑わされれば、直ぐに生活は破壊していくでしょう。

2. 艱難に失望せず、職務を忠実に果たした。

 ヨセフは、その主人の妻によって、無実の罪で着せられ、監獄に入れられます。「主は、ヨセフと共におられ」とは何と感動的な言葉でしょうか。彼は、監獄の中をまるで天国のようにしたのです。だから、監獄の長をも彼を信頼して全てを任せるのです。仕事というのは、本当にその人の真実が現れます。言ったことをその通りに忠実に果たす人というのは、案外に少ないものです。

 Tコリント三章には、建物をどのように建てるかで、「各人の働きは明瞭になります。」とあり、それが御霊の人であることを明らかにするとされます。

 ヨセフは、エジプトのパロの前で夢を解き明かしただけで総理大臣になったわけではありません。彼は、三十歳にして、既に王や重臣の前でも動じないで、なすべきことを言い、また自分の感情を抑えることができ、また謙遜で、権威もあることを示したのです。ほんの短時間でも、多くの人間を知っており、動かすことのできる彼らを信頼させたのは、まさにヨセフが御霊の人であることの証拠なのです。

 私は、この聖書の福音というものは、まさに人に委ねられたものであることを痛感しております。なぜならば、如何に聖書を諳んじ、神学に通じ、多くの祈りに時間を費やせども、それをもって、伝道ができるというものではなく、教会が成長するというものでもないからです。イエス様の宣教命令とは、マタイ28・19にもあるように、主の弟子作りであります。皆さん自身が、主の弟子にならなければ、決して福音は伝わらず、前進しないのです。「伝道した、教会に来るように言った、祈った。」などということで満足することなく、そのようなことを繰り返ししながら、自らが神の僕となり、神に仕え、人に仕えることによってこそ、宣教が前進するのです。

  ヨセフがエジプトに奴隷にならなければ、モーセによる出エジプトもなく、荒野でも十戒もなかったのでしょうか。ヨセフが、艱難に耐え、神の霊に満たされた人にならなかったら、歴史は変わったのでしょうか。そんなことは、ありません。万一、ヨセフが堕落していたら、神は別な器を用意されたでしょう。

  大事なことは、神は人を用いるということです。

  私が打算で、牧師になることを願っていなかったら、どうでしょう。非難されるからといって、千葉に来なかったらどうでしょう。苦難が多かったからといって、牧師を辞めていたらどうでしょう。あなたはクリスチャンになっていなかったのでしょうか。あなたへの神の感化というのは、そんな簡単なものではありません。

  大事なことは、言い訳は関係ない。あなたが、どのような建物を人生で築き上げるかです。キリストを土台にした信仰者の成果を、金銀宝石の価値あるもので、決して焼け落ちないもので、築き上げる必要があるのです。

  神に認められよう、牧師に認められよう、教会で名を挙げようとは、まさか皆さん考えていないでしょう。大事なことは真実な人生を生きるということです。「クリスチャンだから、天国へ行く」などと考えてはいけません。聖書には、「み言葉を聴いても困難や迫害が起こるとつまずく人」、「この世の心づかいと富の惑わしによって実を結ばない人」は、実を結んでいないことによって、神の国が保証されていないことを明らかにされてます。更に注意すべきは、神の言葉を聞いても、悟らない人です。あなたは悟っているのでしょうか。悔い改めているのでしょうか。聖霊なる神の霊は宿っているのでしょうか。


11月13日 和解は無条件降伏から。 創世記421825

新改訳 創 42:18-25

42:18
ヨセフは三日目に彼らに言った。「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから。

42:19
もし、あなたがたが正直者なら、あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。

42:20
そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」そこで彼らはそのようにした。

42:21
彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」

42:22
ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」

42:23
彼らは、ヨセフが聞いていたとは知らなかった。彼と彼らの間には通訳者がいたからである。

42:24
ヨセフは彼らから離れて、泣いた。それから彼らのところに帰って来て、彼らに語った。そして彼らの中からシメオンをとって、彼らの目の前で彼を縛った。

42:25
ヨセフは、彼らの袋に穀物を満たし、彼らの銀をめいめいの袋に返し、また道中の食糧を彼らに与えるように命じた。それで、人々はそのとおりにした。

 ヨセフのとった行動は、かなり陰険で執念深いように見受けられます。普通、日本人ならば、決してとらない行動のパターンでしょう。

 小学五年の時、『モンテクリスト伯』を読みました。復讐を誓い、年月を掛けて、強い意志と忍耐力で生き抜く姿勢に驚きました。フランス文学、フランス人というものを強く意識しました。トルストイやドストエフスキーのロシア文学は、欲望が人を陥れ、絶望への導くことを教えられました。クリスチャンになってからは、トルストイの「懺悔」に感動しました。一度は読むべき本です。シェイクスピアの悲劇も人間の魂というものの存在を意識させるものです。ゲーテの本は、サタンの存在を知らされました。アメリカ文学は、「アンクル・トムズ・ケビン」では、奴隷制の恐ろしさと、人の善意、忍耐をもった努力を教えられました。『怒りの葡萄』では、開拓の苦しさ、自然との闘い、人間の弱さと戦いなどを、嫌な思いで読んだことを覚えています。日本文学では、漱石や実篤、司馬遼太郎、芳川英治、芥川龍之介などの本は殆ど読みましたが、それほど深い人間分析は見られません。

 私は、これまで、本は二万冊以上、雑誌は数限りなく読みましたが、日本のものばかり読んでいると、知識の蓄積や娯楽ばかりで、魂の成長や吟味がなされることがないように思われます。アメリカ社会も、プラグマティズム(実用主義)で軽いと思いますが、日本社会は理念がもともとなかったのに加え、最近は道徳性がなくなって、末期的様相を呈していると思っています。

 実用書ばかりでなく、たまにはゆっくりと外国文学を読むくらいでないと、信仰者として深みのある人間性確立は難しいでしょう。文学について、ゆったりと会話できる人と会ったことがありません。先週も語りましたが、信仰とは人格をもって伝えるものであり、私たち自らが主の弟子として歩むことが大事なのです。目先のことばかりに捕らわれると、神と共に歩むことを損ないます。

 仕事熱心、というのも感心しません。私の子供達は、受験勉強といってもそんなに極端にならないので安心しています。却って、妻のほうが、執筆に忙しく、最近変だと指摘しているのですが、本を書くというのは、そのくらい打ち込まなければ書けないものかもしれません。私自身は、決して何かに没頭しないように心がけています。熱心というものは、平常心を欠き、主に従う、人に従うということを失うものだからです。

  さて、ヨセフですが、彼は非常に聡明で理知的なように思います。彼は、感情的になるよりも、兄弟たちをしっかりと悔い改めさせなければならないことを知っていました。そのためには厳しい行動、態度を示すことも必要なのです。

 ヨセフが泣いたことが記されていますから(24)、決して冷徹な人ではありません。しかし、彼は人が神にあって歩むためには必要なことがあることを知っていたのです。

1. 罪の結果は、必ず罰せられなければならない。

  実は、多くのクリスチャンがこのことに気がついていません。そして平気で嘘をつき、誤魔化しをし、悪を行なっているのです。「悔い改めればよい」などと安易に考えているのです。この地上で行った罪は、必ずあなたに災いをもたらし、祝福を失うのです。祝福されていないのは、あなたが罪人だからで、信仰者として歩んでいないからです。例えば、夫婦仲が良くなく、熱烈に愛し合っていないので、お互いが罪を犯しているからです。日本の夫婦のような仲ならば、多くの国で夫婦ではいないでしょう。あなたが罪を犯しているのです。ヨセフは、そのことを悟らせなければ、祝福がないことを知っているからこそ、自らは祝福された人生を送ったのです。

2. 自らの罰を覚悟したら、神は祝福し赦してくださる。

 言い訳を言うのは、罰を覚悟していないからです。ルベンは、自分の息子を犠牲にしても自分が責任をとろうとしました。でも、罪を犯しているルベンをヤコブは信用しません。しばらく経って、ユダがヤコブを説得しました。四男のユダは、この時には、その人間性により、兄弟のリーダーになっていたようです。ヤコブも覚悟を決めました。普段から責任をとる人が信用されるのです。

3. 和解は、自分の義を主張しない、正義の人とのみ成立する。

  日本は、原爆によってやっと無条件降伏をしました。非を認め、黙って相手に従うことこそ、やり直しの第一歩です。神に無条件降伏をしない人は、自分の行いや努力、品性を主張します。聖書のことばや信仰に納得しないと従わない人は、神の手によって作り直されることは難しいでしょう。自分を主張する人は、そのために平気で人を裏切るでしょう。イエス様やヨセフはそのために、陥れられたのです。

 牧師である私は、皆さんのためにいつも、とりなしの祈りをします。はっきり言って、それは、罪を認め悔い改めて、人生を変えなければ、決して皆さんの祝福はないことを知っているからです。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」、不信仰者のはびこる日本社会です。でも、神は見ておられます。神を畏れる、とは、悔い改めて人生を変えることです。それができなければ、クリスチャンとは言えません。あなたの心にある、敵意、苛立ち、怠慢、好色、悪意、そういったものは、あなたを滅ぼしていくでしょう。


11月20日 天国に入ることは。 黙示録2214節 

新改訳 黙示録
22:1
御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、

22:2
都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

22:3
もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、

22:4
神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

22:5
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

22:10
また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。
22:11
不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」

22:12
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

22:13
わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

22:14
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。

22:15
犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。


11月27日 大いなる救いの計画。 創世記4433節〜458

44:33
ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。

44:34
あの子が私といっしょでなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう。私の父に起こるわざわいを見たくありません。」

45:1
ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「みなを、私のところから出しなさい。」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。

45:2
しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。

45:3
ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。  

45:4
ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。

45:5
今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。

45:6
この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。

45:7
それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。

45:8
だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

話の経過を簡単に説明しましょう。

ヤコブの正妻の長男ヨセフは、兄たちに裏切られ、エジプトに奴隷として売られてしまいました。ヨセフは、奴隷になり、更に騙されて囚人になったのですが、決して罪を犯さず、人に愛され信頼されて神の祝福を表す生活をしていました。エジプトのパロ王の夢を解き明かし、賢明なアドバイスをすることによって、苦労の中で築きあげた優れた人間性を認められ、突然宰相に任命されました。

夢の通りに7年の大豊作の時に収穫を蓄えたエジプトは、続く7年の大飢饉にもヨセフの働きによって国家権力を増強していきます。他方、カナンにも大飢饉は来て、ヤコブはエジプトに食料を買うために兄弟たちを送り出します。宰相になっていたヨセフは兄たちが来たのを知り、その性格が昔のままの罪人なのかどうかを確認しようと、偽りの罪を着せ、最も性格の荒いシメオンを拘束します。

カナンでは更に続く飢饉の為、再度エジプトに食料を買いに行かなければ飢え死にしそうですが、ヤコブはラケルの2番目の子ベニヤミンを連れて行くことになるので、なかなか同意しません。飢えに耐え切れず、一同資金と献上品をもってエジプトに行くのですが、再びヨセフの企みによって、無実の罪を着せられてしまいます。

「大いなる救い」と書かれていますが、それはどのようなものでしょうか。

1. ヤコブの一族のいのちを救うものです。

いろいろなことがありましたが、それは神がイスラエルの一族を飢饉で滅ぼさないために用意された救出の筋書きでした。私たちは、ここに歴史と時間を支配される神の大能を知らされるのです。

2. イスラエルの一族の魂を救うものです。

44
16でユダが「何と言って弁解できましょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。」と答えています。実際には、彼ら兄弟に、全く落ち度はなく、ヨセフの企みと罠であったのですが、彼らは、そのような理不尽な仕打ちをされるのを、自分たちが犯した過去の罪の故であると感じたのです。それを告白し、更にユダがベニヤミンに代わって罰を受けると請願したときに、ヨセフは彼らの悔い改めが真実なものであることを確認しました。

3.イスラエル民族を救うものです。

15
13でアブラハムに子孫がエジプトで4百年の間苦しむことが伝えられています。彼らは、ヨセフに働いた奇跡とモーセの奇跡の故に、自分たちの民族に課せられた特別な任務と使命を気づき、選民としての自覚を持つようになっていくのです。それは、更に後のバビロン捕囚を通しても確立されていきます。ですから、現在のイスラエルの建国にも結びつくのです。

4. 全ての選民を救うものです。

  全ての人が罪を犯します。しかし、試練がなければ、悔い改めることはなかなかしません。聖霊が働かなければ、救われることはありません。更に、クリスチャンでも、このようなしっかりとした悔い改めを忘れ、平気で罪を犯し、選びの中から外れていく人が多いようです。

イエス様は、「狭い門から入りなさい。」と言われましたが、狭い門から入ったら直ぐそこが天国であるとは言われていません。『いのちに至る門』と言われているのであってまだまだ道は長いのです。聖書は、多くのクリスチャンが惑わされ、この世に心を奪われて、魂の破船になることを示しています。

さて、『大いなる救い』とは、自らの魂の救いということに留まるものではなく、国家的な救い、社会的なリバイバルと結びついたものとなるのです。ところが、多くの日本人クリスチャンは、自らの魂の救いに安住し、他の人を伝道しようとか、人々を啓発してキリストに導こうとしていません。

ヨセフの話の中で、はっきりとわかることは、神がヨセフやその家族だけを救い出そうとされたのではなく、ヨセフを殺そうとした兄弟までも救おうとされたことです。更に、神は、このようなイスラエル民族の数千年を掛けた経緯を通して、全世界にご自身を現し、人々を救おうとされているのです。

このような経過を見るときに、私たちは、ヨセフのような一人の人間を通して神は、世界を見つめ、世界に働きかけてることに気がつかなければならないのです。そして、そのような「大いなる救い」に私たちが加担することを積極的に意識しなければ、私たちは、この世の中で自らの救いをも失うことになるのです。

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7・21)とあるように、洗礼を受けたら、教会に来ていたら、天国に入るというものではないのです。ユダと兄弟たちは、自らの罪を神が暴かれたと、悔い改めています。つまり、神の目に気がついたのであります。

神がイスラエル民族を年月を経て、信仰の民に形成していったように、牧師としても信者の皆さんを時間を経て信仰者に形成していきたいと願っております。しかし、実際には、何年も立っても平気で罪を犯し、清めを形成していない信者がおります。脅かすわけではありませんが、神は悔い改めない愛する民を試練に遭わせられます。どうぞ、御注意ください。


12月4日 忌み嫌われる人々。 創世記4628節〜34

46:28
さて、ヤコブはユダを先にヨセフのところに遣わしてゴシェンへの道を示させた。それから彼らはゴシェンの地に行った。

46:29
ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えるためにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた。

46:30
イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。」

46:31
ヨセフは兄弟たちや父の家族の者たちに言った。「私はパロのところに知らせに行き、申しましょう。『カナンの地にいた私の兄弟と父の家族の者たちが私のところに来ました。

46:32
この人たちは羊を飼う者です。家畜を飼っていた者です。彼らは、自分たちの羊と牛と彼らのものすべてを連れて来ました。』

46:33
パロがあなたがたを呼び寄せて、『あなたがたの職業は何か。』と聞くようなときには、

46:34
あなたがたは答えなさい。『あなたのしもべどもは若い時から今まで、私たちも、また私たちの先祖も家畜を飼う者でございます。』と。そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住むことができるでしょう。羊を飼う者はすべて、エジプト人に忌みきらわれているからです。」


  先週は、ヨセフの深謀遠慮によって、青年時代のヨセフを殺そうとしエジプトに奴隷として売ってしまった兄たちが悔い改めに至るまでを語りました。それは、大いなる救いの計画の中にあり、人の罪や弱さを超えて神はその計画を成し遂げられるのであることを学んだのです。ですから、私たちも自分の弱さや未熟さ、そして罪深さに頓着せず、神の業に加担することを心がけなければなりません。

  ところが、多くの場合に、説教を聴いたときは、そのつもりにはなっても、直ぐに忘れて生活の中に埋没してしまうことがあります。今日は、神の計画にのるか、この世の流れに流されるか、どちらかを選ばなければならないことを学びます。

  さて、そのようにしてヨセフに送り帰され、エジプトに移住することを父ヤコブに納得させようとした兄たちでしたが、ヤコブは信じません。兄たち自身も、事の経緯と行く末に不安を持っていたことでしょう。罪を犯した者は、自分が許されることを確信するまで、平安を持つことはできないものです。クリスチャンの平安も、教理的に理解し、神の愛と義を信じても、聖霊の介在なしには、獲得できないものです。ですから、聖霊によってこそ、真実のクリスチャンになれるのであって、奇跡や説得で、或いは利益があるからという理由では、魂の救いは体験できません。

  ヤコブは、自分を乗せるためにとヨセフが送ってくれた車を見て、彼が生きていることを信じました。面白いことです。人生の経験を積んだヤコブは、言葉によっては信じません。しかし、迎えの車の豪華さと快適さに息子の配慮と愛を感じたのです。そこには、父を迎える為の大きな犠牲があるからでした。

  他の人のために犠牲を費やすということは大事なことです。一年で最も忙しいこの時期にクリスマスがあるのも幸です。神が大きな犠牲を人間のために払ってくださいました。その犠牲の大きさを理解するならば、確かに神の迎えに応じる決断をすることでしょう。神の子が人間になって、私たちを神の国に迎えるために、神の愛のすばらしさ、麗しさを示してくださったのです。

  さて、そのようにしてエジプトに行き、感激の対面を親子がしました。そして、一族の者全てがパロ王のもとに参上することになります。そこでヨセフは、彼らに助言をします。職業は何かと、聞かれるから、そのまま「家畜を飼う者である」ことを告げなさい、と教えるのです。それはエジプト人には忌み嫌われる職業でした。なぜ、そのようにアドバイスをしたのでしょうか。47章7節を読むと欄外注に、「ヤコブはパロを祝福した。」とあります。ですから、決して卑屈になっているわけではありません。

1. エジプト人との親しい交流を避けた。

「世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4・4)

「私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ3・20)「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5・13)

2. これから起こる飢饉に備える土地に移り住んだ。

「邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6・13)

 私たちは、この時代をどのように捉えるべきでしょうか。それは、これから更に悪くなるということです。世の人々と同じように生き、何の貯えもしていなければ、私たちは餓え渇き死んでいくのです。試練に耐えられるような家族形成をし、生活の基盤を備えなければならないのです。

3. 家族が結束した。

エジプト人が飢饉の中で財産をなくし、王の奴隷となっていく中で、ヤコブの一族は「所有地を得、多くの子を産み、非常に増えた。」(47・27)。私たちは、今、この時代にあって、助け合い、強め合って協力し、教会を活発にして、神の家族を増やしていかなければなりません。

  ヨセフは、家畜を飼う職業が忌み嫌われるから、それをはっきりと語りなさいと言います。彼は、先を読んで、人々に嫌われようと、これらのことを確保しなさいと

指導するのです。私たちは、この時代にあって強くなければなりません。人々に悪く思われるのではないか、おかしいと思われるのではないか、と心配してクリスチャンらしく生きられない人々が多いのです。

  嫌われることを覚悟して、自分を清く守るべきです。邪悪な日に備えて、力を貯えるべきです。人々が、やせ衰えていく状況の中で、多くの祝福を得て、信者を増やしていきましょう。神を信じることを恐れてはいけません。

12月11日 人の祝福と神の計画。 創世記4815節〜22

新改訳 創 48:15-22

48:15
それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。

48:16
すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」

48:17
ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。

48:18
ヨセフは父に言った。「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、こちらの頭に置いてください。」

48:19
しかし、父は拒んで言った。「わかっている。わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」

48:20
そして彼はその日、彼らを祝福して言った。「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。』」こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。

48:21
イスラエルはヨセフに言った。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に返してくださる。

48:22
私は、あなたの兄弟よりも、むしろあなたに、私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケムを与えよう。」

 親によって祝福されることから人生は始まります。ですから、もし自分の親に祝福を受けなかったとしたら、それは大変な悲劇です。「悪者の家には、主ののろいがある。正しい人の住まいは、主が祝福される。」(箴言3・33)とあるように、もし子供を祝福しないとしたら、それはその人が罪を犯した人生を歩んでいるからであります。

 最近よく、理由を述べて自分が犯罪を犯した経緯の言い訳を言っている人がいますが、神の前ではそんなもの決して通じません。神を畏れるとは、神があなたの全てを知っておられるということを常に意識しているということなのです。ですから、悪人とは、神の存在を全然意識していない人であって、自分の罪の結末を誤魔化せると思っているのです。

 「彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。」(詩篇10917)というように、人に関心を持たず、自分のことばかり考えている人は、祝福から離れます。大事なことは、人を愛するということです。現代社会において、人を愛し、人のために尽くすという人が非常に少なくなっています。ですから、祝福が神からも人からも注がれないのです。

 ヤコブは、エジプトの地でも十七年間生きながらえ、祝福された人生の末期を過ごしました。その人生の前半は人を騙し、自らの知恵と才覚によって生き抜こうとしていましたが、その咎の大きさとその結果が自らに降りかかってくることを悟り、次第に忠実な信仰者に成長していきます。47章では、ヤコブはエジプトのパロ王を祝福しているのですが、神以外の何者をも恐れず、自分を神の僕であると自覚している様子がうかがわれ、私が好きな箇所です。しかし、自らの人生に関する

思い出は、「不幸せで短かった。」(9節)というものでした。

 だからこそ、反省を込めて、ヤコブは人々を祝福し、神との結びつきをもって生きることを願うのです。ヤコブは、死ぬ直前であっても、ヨセフに神の祝福を語らなければならないと「力をふりしぼって床に座った。」(48・2)のです。

 ヤコブはヨセフの二人の息子、つまり孫を自分の息子とします。それによって、ヨセフは他の息子の2倍、つまり、長男としての相続を得るのです。具体的には、彼らには、それほどの相続財産はないでしょう。しかし、その後、数百年を経て、彼らは12部族の一つとして対等の祝福をえるのです。ヤコブに12人の息子がいるのですが、レビ族は相続地を持たないで主に献身する部族になるので、これで丁度12部族になるのです。

 ヤコブが祝福するというので、ヨセフは長男マナセには右手で祝福してもらおうと左側に次男エフライムには右側に寄らせます。しかし、ヤコブは手を交差してエフライムを右手で祝福します。

 私もよく体験することですが、祈りの中でいくら祝福をしようとしても、その人の神にある歩みが祝福を左右するので、なかなか勝手なことは言えません。祝福の祈りというのは、その人の中に積み上げられた神への奉仕、信仰の行いを、表に出そうとするものに過ぎないのです。ですから、罪を犯している人を祝福することはできません。教会に来ていないで、勝手な人生を送っている人を、とりなすことはするのですが、祝福の祈りというのはできません。祝福というのは、神からのものであって、私たちの言葉の問題ではないのです。

ですから、いくらヨセフがマナセを長男として愛し、繁栄させようと願っても、ヤコブはエフライムへの祝福の方が多いと感じ取ってしまうのです。だからこそ、献身的に歩み、神と人と国家に仕えたヨセフの祝福を、他の兄弟の2倍の祝福にふさわしいことがわかったのです。

 祈りの中で、ヤコブは自らの神を「私の羊飼いであられた神」と語っています。後に、ダビデも「主は私の羊飼い」と詩篇23編で語っていますが、彼らは共に、自らが羊のように愚かで弱く、自分では何もできない存在であることを自覚しているのです。そして、神がいつも自分を見守り、助け、導いてくださった方であることを感謝しているのです。

 皆さんは、この神を自覚しているでしょうか。神は、自分など相手にしてくれないのだとすねていることはないでしょうか。神にある人生を送ろうとおもうならば、人を祝福することを心がけなければいけません。

 先ほど、人を簡単には祝福できるものではないといいましたが、人を祝福するということはどういうことでしょうか。それは、その人が神を信じ祝福を求めて生きるように世話をする、羊飼いのように見守るということなのです。自らの信仰をもって、神の祝福を求めて生きるようになるまで、自分勝手な人を世話するということが祝福するということなのです。


12月18日 メシヤ預言と祝福の系図。 創世記498節〜12

新改訳 創 49:8-12

49:8
ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。

49:9
ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。

49:10
王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。

49:11
彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。

49:12
その目はぶどう酒によって曇り、その歯は乳によって白い。

新改訳 T歴 22:9-10

22:9
見よ。あなたにひとりの子が生まれる。彼は穏やかな人になり、わたしは、彼に安息を与えて、回りのすべての敵に煩わされないようにする。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与えよう。

22:10
彼がわたしの名のために家を建てる。彼はわたしにとって子となり、わたしは彼にとって父となる。わたしはイスラエルの上に彼の王座をとこしえまでも堅く立てる。』

  ヤコブは、息子たち一人ひとりを祝福し、預言をして大往生を遂げました。エジプトですから、身体はミイラにされ、ヤコブの希望の通りに、アブラハムやイサクの葬られているヘブロンのマクベラの墓地に葬られました。それは埋葬を大事にするエジプトの威信を掛けた大規模なものでした。

  さて、ヤコブはその残る命の全てを掛けて預言をしたのですが、それは確かにそれぞれの息子たちの形成する部族の姿を現していました。それは、先週説明したように、其々の息子の歩みと性格から派生したものでもあります。其々、確かにその部族の祖の性格を受け継いだものとなっています。

  私たちは、クリスチャンになる前に、それぞれの性格や能力を形成しています。それを自らに固有であって、変えられないものであると考えると、御霊による感化と人格の形成の機会を失してしまいます。

  例えば、スポーツというものは、頭の理解ではだめで、理想的なスポーツの技術・技能が自然と発揮できるまで、練習や実践で繰り返すことが必要です。同じように、聖霊なる神の感化で「主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」(Uコリント3・18)ということも、繰り返し、繰り返し、自らの罪ある姿に嫌悪感を抱き、変えられることを願い努力した結果なのです。

  そして、このように清められることを求め続けるということが、神の民であることの印であり、条件なのです。ですから、クリスチャンは、自分の血液型などを主張し、それに固執してはなりません。

  私の94歳になる母は完全に痴呆であり、もはや息子の私をも認識できませんが、その形成された性格の良さは、老人ホームの人々に愛されています。無理ではなく、御霊によって形成された性格の良さは、たとえ、あなたが痴呆になるようなことがあっても、決して損なわれることはありません。

当然、私は、まだその域には達しておりませんので、今、痴呆になってしまったら、みなさんに大変な御迷惑を掛けることになるのでしょう。しかし、30年の信仰生活の一つ一つの試練は、自らの信仰形成、人格形成に寄与し、今、それなりの神からの祝福を受けていると自覚しております。私は、本当に変わりました。昔の私が預言を受けたとしたら、それは滅びと罰と苦しさの将来であったろうと思います。

さて、メシヤ預言は、主なものを列挙すると次のようになります。

1. アダムの時。

  サタンに対して女の子孫がその頭を打ち砕くと預言。創世記3・15

2.アブラハムに対して。創世記22・17.その子孫が敵の門を勝ち取る。

3.ヤコブに対して。創世記28・14.地上の全ての民族は、その子孫によって祝福される。

4.ユダに対して。創世記49・10.王権はユダを離れず。

5.ダビデの子の祝福。1歴代誌22・10

6.イザヤ預言。イザヤ7・14.インマヌエルと呼ばれる。

           イザヤ9・6.みどりごの主権。

           エッサイ(ダビデの父)の根(末裔)の栄光。

7.ミカの預言。ミカ5・2.ベツレヘムで生まれる。



  その他詳細なものは多数あります。イエス様の誕生は預言されたものでした。そして、実際にイエス様は乙女マリヤから生まれたのです。更に、イエス様の生涯や、人々に裏切られて死ぬことや、その時期までが預言されていたからこそ、博士たちがわざわざ礼拝しに来たのです。

  私たちは、イエス様のことをいつでも十分に知る事ができる立場におります。それであるならば、ないがしろにしてはなりません。心からイエス様の誕生に感謝し、その生涯と十字架を学んで、イエス様の弟子になっていかなければならないのです


12月25日 テントに住まわれる主イエス。 ヨハネ福音書1章14

新改訳 ヨハ 1:1-14

1:1
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:2
この方は、初めに神とともにおられた。

1:3
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

1:4
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1:5
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

1:6
神から遣わされたヨハネという人が現われた。

1:7
この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

1:8
彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

1:9
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

1:11
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

1:13
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。