7月3日 伴侶を愛するのが結婚。 創世記246267

新改訳 創 24:62-67

24:62
そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのである。

24:63
イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。

24:64
リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、

24:65
そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。

24:66
しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。

24:67
イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。


 先週のアブラハムの家令とリベカの信仰者の応答には、日常の真摯な信仰生活が実を結んだすばらしいものを感じました。

@ そこには労を厭わない誠実な働き者の姿がありました。

A 神の時に応じる俊敏な勇気ある生きた信仰がありました。

B 自らの行動を抑え、神に委ねる忍耐と希望がありました。

C 世の中の行為の中に現れる人間性を見抜くしっかりとした洞察力と知恵がありました。

D 決断の時には自分の全てを献げる用意がありました。

E 誘惑に陥ることなく、信仰に生きる真実な誠意がありました。

F 自らと職務に対する管理責任を全うしていました。

 私は、人生とは、これらの全てが結果として出てしまうものであることを掴んでいます。神を信じていなくても、これらのうちの多くを果たしていれば、その人は成功者になります。神を信じていても、これらのことにうやむやであるならば、その人は、人生の成功者にはなれません。

 ただ、例えば、Tコリント一章にあるように、この世で自らが愚かであることを認めた者のみが、神を信じるようになります。つまり、たとえ、この世の成功者であっても、神を見出すという一点を欠いているならば、神の前にはこの世の失格者であり、人生の意味を見出していないのであります。それは、人生の機微を悟り、人間洞察に優れ、社会を生き抜く勇気と知恵に満ちていても、神を探り、求めていないということは、自分中心に人生を生きたということの明確な証拠になるからであります。

 他方、私は、クリスチャンが神を見出したということに満足し、神に仕えるという大事な職務を理解していない、或いは軽んじていると思っております。

 例えば、皆さんは冒頭に列挙した彼らの美点を満たしているでしょうか。

 今日の聖句は、イサクとリベカの結婚への経緯でありますが、彼らは現代の風潮とことなり、一度も会わずして結婚を決意しているのであります。最近は、一緒に過ごしてみないとわからないからといって、同棲をしばらくしてから結婚をする人々がいるというから驚きです。「相手と折り合えるかどうか、確認してから結婚する」、なにか、職場体験みたいです。

 「彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して」とありますが、愛しているから結婚ではなく、結婚したから愛するのです。多くの人が、愛するということを、感情的なものとしています。それは、神の愛、アガペーの愛ではなく、欲情であったり、友情のようなものです。

 クリスチャンでありながら、「私はこの夫(妻)を愛せない。」などという人がいるならば、その人は、良い実を結ばなかったものとして、神の国に入ることはできないでしょう。結婚というものは、結婚したならば、それぞれ、伴侶としての勤めを忠実に果たしていく責任があるのです。その伴侶としての勤めを果たすことこそ、「愛する」ということなのです。「自分よりも伴侶を大事にする。」これが「愛する」ということであり、これができないのは自己中心だからであり、魂が救われていない罪の状態なのです。結婚というものが、これほど感情的な要素を要求されてしまったのは、テレビや映画の影響でしょう。でも、昔の映画や小説は、もっと生活に密着した夫婦の愛を記していたと思います。

 ですから、クリスチャンでなくても、相手を自分よりも尊重し、愛するならば、その結婚は祝福されます。でも、私は神を信じないで、真にこれを実現している人に会ったことはありません。

 イサクは、夕方、野に散歩に出掛けました。おそらく祈りと黙想でしょう。私は、実は多くの人が「祈り」と称する「神への注文や要求」があまり好きではありません。散歩したり、寝転んだり、お茶を飲んだり、また無論、聖書や信仰書を読みながら、神の御旨を伺い、黙想することが好きです。当然、いろいろな人のとりなしや助けのための祈りには多くの時間が掛かります。ある人のために祈るとき、やはり長い時間を掛けないと、どうしたらよいか、わからないこともあります。でも、散歩しながら、いろいろなことを黙想すると、思わぬ神の語り掛けを聞くこともあります。

 最近は、妻との会話が本当に喜びになってきました。既に二五年間、連れ添った伴侶です。誰よりも多くの時間と会話を共有してきました。

 事典を見ますと、最近はペットを、愛玩動物とは呼ばず、伴侶動物コンパニオン・アニマルと呼ぶのだそうです。妻や夫、子供はもはや愛玩できないので、ペットを愛玩し、伴侶とするのですから、人生の悲劇でしょう。愛するという自らの務めを果たせず、自分の都合いいように愛玩することしか、他の人に対応できないとしたら、罪の結果以外のなにものでもないでしょう。

 「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ1514)。結婚によって必要とされることを伴侶に対して果たすならば、あなたの愛は証明され、多くの祝福を得ます。信仰によって必要とされることを、あなたが果たすなら、あなたの信仰は証明され、多くの祝福を得ます。

 結婚後、イサクの散歩にはリベカが伴われ、神との交流が果たされたと思います。当時には珍しく、彼らは一夫一婦制を守り通しました。

 


7月10日 信仰と恵みによって生き天寿を全うする。 創世記25111

25:7
以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。

25:8
アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。

25:9
彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地の中にあった。

25:10
この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。

25:11
アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住みついた。

 イサクが結婚してからのアブラハムの人生は余生というべきものかもしれません。それがやっと「平安な老年を迎え」という言葉で反って、その人生の波乱万丈を表わすものになっています。

「長寿を全うして」とありますが、それぞれの人に予定された人生を全うすることは、なかなか難しいように思います。

「自分の民に加えられた。」とは、墓碑の先祖の中に入れられたということではなく、神の国に生きている自らの先祖たちの仲間の交わりに入ったということです。

 アブラハムの生涯を神は「これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」(26・5)と、表現しています。ヘブル書では「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。」(118-10)と書き表しています。

 さて、アブラハムの生涯から、私たちは何を学ぶのでしょうか。

 それは、「自分の人生を自分のものとしない。」ということです。

 殆どの人が自分の人生を自分のものとしているように思われます。自分のものとしている人は、どのような行動を取るでしょうか。

1. 神に聞き従って生きる。

  神に聞き従うとは、どうすることでしょうか。

@. 神があなたの人生に計画を持っておられることを確信してください。

問題や難関に出会ったとき、直ぐにどちらか一方を選んだり、祈らずに諦める人が非常に多いのに驚いています。私たち夫婦は、多くの問題に出会ってきました。その時、問題に驚いて、なすべきことや日常のことをないがしろにはしていません。問題に落ち着いて対処するならば、神の導きを知ることができます。

A. 神があなたの人生を導き、祝福してくださることを確信してください

問題は神に委ねて、自分としてはなすべきことをやればよいのです。思い通りにしようとするから、苦闘が生まれるのです。恵みとは、神の助けを信じることです。

B. 他人を自分の思い通りに動かそうとしない。

  人を非難したり、批判したりする時間がなんと多いことでしょうか。自分自身をも、思い通りに行かないので、悩む人が多いのは驚きです。

  指導者になると、下の者が思い通りに動かないので、怒りいらだちます。また、部下も上司が自分の思い通りでないので不平を漏らします。家庭でも同じで、子供が思い通りに育たないので、怒ってばかりの親が多いようです。牧師でも、教会員の未熟さや不信仰を怒ってばかりの人がいます。

  このような人は、自分が神の御旨通りに生きていないことに気がついていません。あなたの上に神がおられることを恐れてください。他の人に聞き従うことを要求するのではなく、あなたが神に聴き従えば、神はあなたの人生を祝福してくださるのです。

2.神の戒めと命令とおきてと教えを守る。

 これらは律法ということになりますが、律法を要約すると、神を愛し、人を愛するということです。これは積極的な慈善行為を行なえということではありません。

 わたしは、宗教者が命がけの慈善行為を行ないながら、身近な家族を犠牲にするのを見ています。これは、慈善行為ではなく、偽善行為になります。

 社会の全ての戒め、法律は、人が秩序をもって愛し合うために成立しています。しかし、愛というものは、その法律に罰せられても、その人を愛するということです。神がこれを裁かれるはずがありません。

 要するに、神の戒めを真に守るためには、神を信じ、この信仰に立って生きるという自覚、人格が必要なのです。

 「平安に生きる。」ためには、この世のいろいろな出来事に動揺していてはなりません。動揺するな、ということではなく、「神を信頼して生きる。」ということなのです。但し、ここで、もう一度、忠告しなければなりません。問題に直面したとき、安易な方を選び、そのようにして「私は動揺しない。」と言っていてはならないのです。弱者を犠牲にして、私は神を信頼するから、神がこの人々を守ってくれるはずだ、などと決して言ってはならないのです。神を信頼するとは、敢えて、愚かな道、弱者の道、苦難の道を選ぶことである場合が多いのです。

 このようにして、私たちは、神が備え、願われる使命を全うして天の御国に凱旋したいものであります。


7月17日 戦いの中で生まれるもの。 創世記252026

  新改訳 創 25:20-26
25:20
イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。
25:21
イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。

25:22
子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。

25:23
すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」

25:24
出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。

25:25
最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。

25:26
そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。


 アブラハムと同じく、イサクも長い年月子供が生まれませんでした。聖書は長い間、子供が生まれなかった女性たちの、その後の祝福を語っています。ガラテヤ四章には、不妊の女から生まれるのが約束の子であり、自由の子であると語っているのです。これは、どういうことでしょうか。

 不妊では家系が維持できません。また自分が老いた時、世話をしてくれる者がいません。蓄えた財産も人手に渡ることになります。昔から、女性は子を産まなければ、その価値がないとまで、一般には言われていました。日本でも同様です。

 イサク、ヤコブ、ヨセフ、サムエル、バプテスマのヨハネ、これらは、長い間の不妊に苦しんだ女性の葛藤と神への真摯な祈りの中で生まれた信仰者であります。罪は、簡単に私たちの中から生まれ出ます。心惑うことなく、平気で日常生活の中で、罪の生活をしていることを、ガラテヤ書は、肉によって生まれた奴隷の子と比喩するのです。

 他方、信仰を持って生きようとする人々は、いくら経ってもなかなか、信仰の生活を獲得することができません。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5・1)とありますが、罪から開放されて自由に生きるということは、忍耐と信仰と戦いの中で獲得できることなのです。

 テロにあった英国の人々の対応が印象的です。彼らは、自分たちがそのような理不尽な攻撃を受けても、決して防御的にならず、また敵対的にならずに、これまでどおりの日常的な生活を営もうと決心をしていると報道されています。私は、アメリカのような直ぐに報復をしようとする攻撃的な姿勢は、好きではなく、聖書的でもないと信じておりました。

 自由とは、敵意や罪からの自由であります。その他、誘惑や自己憐憫、批判、争いなど、罪から生み出されるものは、なんと多くあるでしょうか。罪は多産なのです。ガラテヤ書は、肉の行ないは、明白であって「不品行、汚れ、好色、

偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」(5・1921)と説明しています。

 多くの人は、心の葛藤がないことを求めています。しかし、生きている限りそれは無理です。さらに、うことを恐れている人も多くいます。なぜ、そのように非現実的な理想を追うのでしょうか。

 「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」(5・17)。正義や平和のためには、戦わなければなりません。日本人は、性善説ですから、「話せばわかる。」などと安易に考えています。戦うことができないので、悪人や攻撃的な人にだまされたり、利用されるのです。自らの主義主張は明確にもち、社会に対応しなければなりません。そのことで、敵や反発が起こることを恐れてはなりません。あなたが自らの判断を明確にし、旗印を立てなければ、必ずあなたは、誰かに占領されるのです。「私たちの神の御名によりを高く掲げましょう。主があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。」(詩篇20・5)

 さて、リベカの悩みを聞いてイサクが神に祈願しました。民数記三十章を読むと、妻の請願は夫が黙認するか許可しなければ、神にきかれないとあります。多くの夫が妻の不満やいろいろな言葉を黙認して放置しています。これは、神ならぬサタンが聞いて、その家を混乱に陥れるでしょう。不満とか愚痴は、「訴える者」である、サタンの好材料になります。「悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(エペソ4・27)「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人のを養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4・29)

 さらに、このようにして生まれた子供が争うことになります。母の驚きと嘆きは大きいものとなるでしょう。ヤコブと兄エサウの争いは長く続きます。しかし、この争いを通してヤコブは神の器になり、また、結局は兄弟はお互いの領分を守り、平穏に暮らすようになるのです。私たちは、戦うことを恐れてはなりません。

・ 「信仰のいを勇敢にい、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」Tテモテ6・12)

・ 「私は勇敢にい、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(Uテモテ4・7

・ 「あなたがたはまだ罪とって血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12・4

・ 「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいにいをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」(Tペテロ2・11)


7月24日 神の祝福とこの世の利得。 創世記252634節 

新改訳 創 25:26-34

25:26
そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。
25:27
この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。

25:28
イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。

25:29
さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。

25:30
エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。

25:31
するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。

25:32
エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。

25:33
それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。

25:34
ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。

 双子の兄エサウと弟ヤコブは全く性格が違っていました。エサウは巧みな猟師で野の人とあります。猟をして野に暮らすのですから、気性は激しく攻撃的であり、人と協調しない孤立的な人であったと思われます。このような人の特徴として、将来のことよりも現在のこと、そして欲望を満たすことに関心があるとも言えましょう。動物とも戦い、自然にも負けない自己訓練をしていたことでしょうし、明日のことなど思い煩うよりも、思い通りの生き方をするだけで十分でしょう。

 弟のヤコブは、後の箇所でもわかるように、穏やかな性格で忍耐深いのですが、巧妙で利得への関心が強いことがわかります。天幕に暮らしながら、家族や家畜と一緒に過ごします。弱い家畜を世話しますから、天候や障害への配慮を身に着けます。自分勝手な生き方をしていたら、家畜は死んでしまいます。後に伯父のラバンに騙されながらも二十年間忍耐して働き、逆に祝福を獲得してしまうように、短期的なことに惑わされない長期的な視野を持っていました。

 性格や仕事、能力の違いは人それぞれにあります。私たちは、そのようなもので神が人を差別しないことを十分知っています。それでは、彼らのどこが違っていたのでしょうか。エサウは父に愛され、ヤコブは母に愛されていました。これもまた、相性の違いです。

私たちの五人の子供も、それぞれ父に似ているところも母に似ているところもありますが、私たちには偏愛はありません。でも、私に似ている子は、私の欠点を継いでいると心配し、妻に似ている子は、妻の欠点を継いでいることを案じます。ともかく、それぞれの長所が神に用いられ、生かされることを願います。そして、現在の状態で安心したり危惧するのではなく、ただ神に委ね、神が用いてくださることを願い祈っているだけです。

ヤコブは、長子の権利を非常に求めていました。後に申命記21・17に長子は他の兄弟の2倍を受けるとありますが、当時はそんなことは決まってません。ヤコブとしては、人のことに無頓着で、家畜の世話などしたことがないエサウが、自分の家を継ぐということが、我慢ならなかったのかもしれません。

或いは、両親と共に住んでいて先祖のことを聞き教えられ、その経緯に誇りを持ち、信仰を大事にしていたのかもしれません。そして、信仰に熱心でない兄に対して不快感を持ち、自らがこの信仰の系図に連なることを切望したのかもしれません。ヘブル十二章から見ると、このことが真実であることがわかります。

そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。(ヘブル12・15-17

 さて、私たちは、イエス様を信じて「神の子たる特権を与えられました。」(ヨハネ112)「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」(ピリピ215-16

  「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」(ピリピ212-14

 私たちが、ここで学ぶことは、エサウは自分の立場を軽んじということです。後に、神は、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」として御自分を現しています。申命記3020には、私たちの前には「いのちと幸い、死とわざわいを置く。」とあり、神に従い、神の教える道を歩むかどうか、を委ねておられます。

 今日は開拓二十一周年記念礼拝です。この四十二頁に及ぶ歩みは、そこに記せないことを含めて戦いの連続です。人々は、自分の論理で私を責め、侵害し、去っていきました。でも、妻を統合失調症の何もできない状態から、ここまで立ち直らせました。今日、妻がテレビに出るということは、神の祝福のしるしです。確かに、私もまた、低血糖症になり、どん底に陥りました。でも、失敗の全てを自らの過ちとして認め、ただ神を信じて、家族を守り、教会を守り、働き続け、決して絶望しませんでした。

 神は御存知です。私は決して立派な人間ではありません。でも、神に従うか、この世に従うかという選択のとき、神に従い続けたつもりです。その結果は戦いの連続でした。今でも戦いの連続です。でも、昔は悩んでばかりいた妻が、今や私の弟子であり、同士でもあります。

教会員にも子供にも、最近は無理や期待を迫ってはいないつもりです。しかし、皆さん自身の前に、この世の論理に従うか、神に従うかの選択肢がいつもあるのです。あなたの能力で人生を処するならば、破滅が始まるでしょう。神を信じ、礼拝を守ってください。


7月31日 イサクの祝福の秘訣。 創世記261222

新改訳 創 26:12-22

26:12
イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。

26:13
こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。

26:14
彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。

26:15
それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。

26:16
そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」

26:17
イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。

26:18
イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。

26:19
イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。

26:20
ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。

26:21
しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。


 イサクが種を蒔くとその年に百倍の収穫を得たと書かれています。マタイ福音書には、良い地に蒔かれた種は百倍の実を結ぶとありますが、まさにそのような祝福を表しています。

 私は庭に実のなる木を植えています。梅、びわ、ブドウ、柿、みかん、ゆず、季節ごとに実がなり、喜びを覚えます。その家に住み始めた年は、柿は4つしかならず、みかんも30数個で梅もたいしたことはありませんでした。私は、それで収穫を得ようといろいろと努力し試しています。まだまだ研究段階ですが、柿は100個以上、梅は20キロ以上、みかんは800個くらい収穫を得るようになりました。今年は思い切って剪定をしたので、どうなるか結果を見たいと思っています。肥料のやり方もいろいろ試みています。
ともかく、創意工夫がなければ収穫を増やすことはありません。現在のところ、収穫の鍵はこのようなものかと考えています。

1. 日照時間の長さ。良い気候

2. 肥料や土の質。アルカリ土壌や有機質の肥料。土が固いか軟らかいか。

3. どのように剪定するか。

4. 害虫や病気から守ること。

5. 水遣り。

6. 育てる人の研究や努力、愛着。

 千葉で開拓伝道を始めた当初、「荒れ果てた千葉にリバイバルを!耕し肥やし種を蒔け!」と標語を書いて、自らを叱咤激励をしたことを忘れられません。当時、吉川英治の「宮本武蔵」を読み、農夫も見捨てた岩だらけの荒地を武蔵が開墾していく部分に感動しました。私もまたそのように他の牧師が諦めた千葉の伝道を諦めずに、一つ一つの妨げの岩を取り除いていくのだ、と自らを奮起させました。

 さて、そのように研究し、取り組んでみると決して、収穫は土壌だけによるものではないことがわかってきます。ところが、人間にできることは、その土壌作りと世話しかないことにも気がつきます。「農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。」(ヤコブ5・7)とありますが、後は耐えて忍んで働き続けるしかないのです。

 私たちは、自分にできることと、できないこととを見極め、できることについては諦めないで続けるしかないのです。一年働き続け、さて収穫という時に、洪水や日照りで収穫を得られないこともあるのです。あるいは、事故や事件、天災が起こるかもしれません。でも、働かなければ、収穫は得られません。

 私たち夫婦の共通点であり、長所は働き者だということだと思います。一日中働いています。夫婦の会話も否定的なことや批判的なことではなく、いつもどうすればよいかと知恵を出し合うことに集中しています。

 もう一つ、戒めあっていることが、自分の思い通りにならないことをいつも覚悟するということです。イサクが井戸を掘ると、その井戸には必ず水が湧きました。そうすると、人々が来て、それを略奪します。するとイサクは争わずに他の井戸を掘ります。井戸を掘るということは、それほど容易いことでありません。でもイサクは井戸を掘ります。そして、水が湧きます。そして、人々が来て略奪します。そして・・・・・・。イサクは決して諦めません。

1. 不平不満を言う人は、心から神を信じていない人です。

2. 思い通りになることばかり考えるのは、自己中心だからです。

3. 実を実らすには剪定をするように、祝福の実は、試練や迫害、問題から実ってくるのです。苦しみ無しに実りを得ようとすれば、収穫は少なくなります。

4. 労を惜しみ知恵を惜しんで、安逸を貪れば、収穫は減ります。多くの人が、自らの安逸、思い通りになる人生を望んでいます。

5. 労働は喜びであり、その喜びを共有する友を得ることは何よりも勝る喜びです。そして、神は私たちが共に働くことを喜びとされるのです。

6. 神と共に歩み、神に愛されることが、祝福の源です。

 ただ働けばよいというものではありません。良い実を得ることを、多くの収穫を得ることを願い、知恵を尽くし、心を尽くし力を尽くして働くのです。そのように神を愛しなさいと聖書は命じています(マタイ22・37)。また、隣人を自分自身のように愛せよとも命じられています。

 自分と自分の人生を心から喜ばなくて、どうして人を愛せましょう。自分の人生を喜ぶためには、自分の人生の収穫を喜べなければなりません。自分の罪や快楽のために時間を費やす人がどうして、多くの収穫を得られるでしょうか。

 高校、大学、大学院と勉強が楽しくてしょうがありませんでした。競争的に良い成績をとるためではなく、知識を身に付けること、知恵を得ることが好きだったからです。例えば、神学校時代、雑草を抜く仕事もやりがいがありました。雑草がなくなり、きれいになることは、本当に楽しみでした。一つ一つのことを楽しみ、成果を喜ぶならば、あなたの人生は、祝福のものとなります。
 不平批判を言い、自らを悲観するならば、あなたの人生は呪われたものとなります。ラッキーでは人生は築き上げられません。


8月7日 神に委ねた人生の祝福。 創世記262433

新改訳 創26:24 主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」

26:25
イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。
26:26
そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来た。
26:27
イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」
26:28
それで彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。
26:29
それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、主に祝福されています。」
26:30
そこでイサクは彼らのために宴会を催し、彼らは飲んだり、食べたりした。
26:31
翌朝早く、彼らは互いに契約を結んだ。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。
26:32
ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。「私どもは水を見つけました。」26:33 そこで彼は、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。

 
イスラエルに行ってみて、気がついたことは水が祝福の鍵であるということです。乾燥した土地で、乾季には雨が降りませんから、生きていくために、家畜の世話のために、収穫のために、水が欠かせません。そのような地で枯れることのない井戸を持っているということは、繁栄の鍵です。

 創世記二十一章には、アブラハムが井戸を持っており、それをアビメレクの僕たちが奪い取ったことが記されています。「あなたが何をしても神はあなたと共におられる。」とアビメレクは言い、アブラハムとの争いを避けて、井戸の権利を認めています。

 イサクの代になっても、その一族は増え、家畜も増え、神の祝福を味わっていった。ところが、そこに住むぺリシテ人にとっては、よそ者であり、天幕生活をしているようなイサク達が繁栄し、自分たちよりも力を持ってくることが面白くない。その祝福の源と思われたアブラハムの掘った例の井戸を埋めてしまった。そうすれば、イサクたちは他に行かざるを得ないし、後で自分達が掘り返せば、アブラハムとの約束を免れることができます。

 しかし、イサクは他のところで井戸掘った。しかし、ゲラルの羊飼いが争ったので、エセク(争い)と呼んで、他のところを掘った。するとまた井戸が出てきたが、また争いがおこったのでシテナ(敵意)と名づけた。彼らの攻撃が、井戸というよりも、イサク自身への敵意から来るものであると気がついたのでしょう。

 最近、私のようなものでも敵意を感じることがあります。繁栄し、祝福されている者がいて、一生懸命努力しても、うまくいかない者がいると、後者は前者を憎んできます。

 「持っている者は、さらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」(マタイ13・12)とあり、その前に、彼らは、神の国の奥義を知ることが許されている人であるとイエス様は語っておられます。

 つもり、ある人が祝福されているとき、その人の幸せをしばらくは喜ぶのですが、自分がうまくいっていないとだんだん腹が立ってきて、憎くなってしまうのです。そして、そのようなときこそ、本音が出て、結果として神の祝福を得るか失うかのどちらかになるのです。 人間というものは、罪があるので、自分中心に全てを考えてしまうのです。

 さて、次に掘った井戸にイサクはレホボテ(開かれた所)と名づけ、自分が人々の争いから解放されたことを感じたのでした。そのような時に、イサクは神から語り掛けれます。「恐れてはならない。わたしがあなたと共にいる。」

 私達は、自分の能力や状態を見ると不安を覚えます。そして、問題が起こると我慢できなくなり、恐れて、恐れの行動を起こすのです。そして、信仰を忘れるのです。

 イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈ったのです。多くの人は、問題が起こると、自分の能力で対処しようとします。そして、祈るのです。これは、似たようで全く違うことです。なぜなら、自分の肉による判断、恐れによって判断したことに固執して神に祝福を願っているからです。

 私達、夫婦も実は今、多くの戦いを覚えています。しかし、大事なことはそれらの戦いや敵の攻撃、世の嵐に目を奪われることなく、主イエスを見つめて前進することです。ですから、私達は、判断をしません。神に導きを求めます。イエス様は、「群集を帰した後で、祈るために、ひとりで山に登られた。」(マタイ14・23)のです。私達は、自らの行動を簡単に決めてはなりません。動揺の中で、自らの人生を判断してはならないのです。

 前回、カナディアン・ロッキーに旅した時は、人生の危機の時で、悩みぬき死をも考えたときでした。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。」(詩篇121・1)と神に訴えるためにそこを旅したのですが、その圧倒的な大自然を前に自分の悩みが馬鹿みたいに小さなものに覚え、心晴れて帰国したのです。

 私達の二十五年の結婚生活は、まさに波乱万丈、戦いの日々でした。これからは、開かれた祝福の人生を生きたいと心期しております。イサクの僕たちは更に、井戸を掘りました。それはシブア(豊かな、多くの、充分な)と名づけられました。

 神の祝福は、思い煩いからも、肉の努力からも生まれません。

1. 人とは、決して争わないことです。

2. 敵意や批判からは何にも創造的なことは生まれません。

3. 自分の判断や思いを置いて、神に御旨を伺うことに集中しなければなりません。

4. 自分のやっていることを、正しいと思ってはなりません。いつも神に問う姿勢を保つことが必要です。

5. 自分の信念、信仰、正しさ、行いによって神の祝福を得ようとしてはなりません。

6. 大事なことは、私達が、神のしもべとして、自らを神にゆだねて生きることです。

7. 神にゆだねた人を神が祝福しないはずがありません。


8月21日 夫婦の不一致がもたらすもの。 創世記27517

新改訳 創 27:5-17

27:5
リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それでエサウが獲物をしとめて来るために、野に出かけたとき、

27:6
リベカはその子ヤコブにこう言った。「いま私は、父上が、あなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。

27:7
『獲物をとって来て、私においしい料理を作り、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、主の前でおまえを祝福したいのだ。』

27:8
それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。

27:9
さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。

27:10
あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」

27:11
しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。

27:12
もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」

27:13
母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」

27:14
それでヤコブは行って、取って、母のところに来た。母は父の好むおいしい料理をこしらえた。

27:15
それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、

27:16
また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。

27:17
そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡した。


  聖書は誤りなき神のことばですが、聖書の記述が全て正しいことを語っているということではありません。例えば、この箇所は、イサクとリベカが夫婦として一致して行動することができないで、信仰を誤って理解してしまう悪い例が記されています。そういう面で、聖書は、人間の陥りやすい自分勝手な歩みを適格に記していると言えます。そして、人間の間違った判断にも関わらず、神の計画は成立し、神の業はなされるということを学ぶことができます。

 信仰者でありながら、人生を自分にとって都合の良いようにしか捉えることができない人がいます。自分が悪いことをしていないのならば、必ず良いことが伴うと考える人々です。その人は、ピクニックに行く時に雨が降ると、神の祝福を疑う幼子のような価値判断をしているのです。雨が降ったら、違うことをして家族の交流をなし、神の導きを待てば良いのです。そうしたら、出掛けるならば会えなかった友や祝福の来訪があるかもしれないのです。

 そういう点で、イサクやリベカだから、いつも良いことをしていると勘違いし、この聖書箇所からこじつけてイサクやリベカの行動を学ぼうとすることには無理があります。聖書を読むときは、新約聖書のイエス様の教えを自分の判断基準に置き、その観点から、信仰者ならばどのように行動するべきか、自らの判断を模索しながら、旧約聖書を読むべきであります。

 まず、第一の誤った状況は、夫婦がよく意見を交換せずにいて、それぞれ違う息子を偏愛していることです。アブラハムは、学んだように息子のイサクの嫁探しに全力を注ぎましたが、イサクはヤコブが高齢になっているのに何もしていませんし、エサウの嫁の悪さにも対応していません(26・35)。そして、妻に無断で、後継者としてエサウを選ぼうとしているのです。また、妻のリベカは、イサクの行動に関して、偽りによって自らの愛するヤコブを後継者にさせようとしているのです。

 クリスチャンが信仰とはこんなものかと理解したら、間違った歩みを覚えてしまいます。このような夫婦其々の謝った行動の結果、息子同士に敵意が生じ、悲劇と苦しみの生涯が始まっていくのです。確かに、信仰者に試練は付き物です。しかし、自らの間違った行いによって試練を生み出してしまうことに気がつく謙虚さを学ばなければなりません。

 皆さんならば、ここでどのような行動を取るべきだと思いますか。

 本来ならば、創世記25・23でリベカに神が語られたことを思い出しながら、二人の息子を夫婦が呼んで、其々に将来を語らせ、また神の導きを求めるべきであります。

 先週までのイサクは、争いを避け、忍耐深い様子が見られました。ところが、そのような消極的な姿勢が、双子の息子たちへの指導不足となって悪影響をもたらすのです。そして、妻の言葉を聞き入れずに、状況に流されるままに、おいしいものを食べることを喜びとするような老いの生活に入ってしまったのです。

 モーセは、確かに、歳をとっても、「目がかすまず、気力も衰えていなかった。」(申命記347)とあるように、神に仕える者として自らを律していました。

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。(ローマ書12・9-12

第二に、リベカとヤコブは、神の祝福を得るために、人を欺いてしまいました。確かに、エサウは神の祝福や長男の権威を軽んじていました。しかし、神の祝福というものは、へりくだった誠実な人生に注がれるのです。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18・12)。

 第三に、ヤコブは、母親の盲目的な言葉に追従してしまったのです。夫がもはや無気力になっていることを知っているリベカは、夫を騙してもたいした罰は受けないと思っていたのでしょう。しかし、神の祝福を得ようとして、神が人格的なお方であることを意識しなかったのです。また、ヤコブも、母が言ったからと、善悪をも判断せずに父を騙すことは言い訳の効かない悪い行いです。

 家族の意思疎通の悪さ、交流のなさが、このように崩壊をもたらします。私たちは、互いに理解し、語り合うことにどれだけ時間を割いているでしょうか。自分の言いたいことだけを言って、家族の声を聞こうとしなければ、間違いなく崩壊は始まります。まず、神の言葉である聖書から、神の声を聞かなければなりません。それだけでなく、時間を掛けて家族の声を聞かなければなりません。

 今回、銀婚旅行で十一日間、妻といつも一緒に過ごしました。私たち夫婦ほど、いつも一緒にいる夫婦は少ないと思っていましたが、今回は妻の健康と体調について多くのことを知りました。どうしたら体調が悪くなり、低血糖状態になるか、よくわかりました。そして、今後の栄養療法についての多くのヒントを得ました。聞く耳のある人は幸いです。あなたが、自分の願うことばかりに関心を持ち、他の人の声を聞くことができなければ、人を欺く罪に気がつかず、過ちを犯すことになるでしょう。


8月28日 神と人間を結びつけるもの。 創世記281022

新改訳 創 28:10-22

28:10
ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。

28:11
ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

28:12
そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。

28:13
そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。

28:14
あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。

28:15
見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

28:16
ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。

28:17
彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

28:18
翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。

28:19
そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。

28:20
それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、

28:21
私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、

28:22
私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」

 年老いて優柔不断となり、妻や息子に愛想をつかされたイサクは、奮起してヤコブを呼び寄せ、兄弟が争いあうことを避けるためにも、言うことを聞きそうなヤコブを義兄ラバンのところに逃れさせます。そして、父アブラハムが自分の妻を捜し出すために下僕に命じたのと同じような言葉を語っています。しかし、もはやアブラハムの時とは状況が全く異なり、何も持たせないでひとりで去らせ、辛うじて必死な祈りによって息子を励ましています。

  エサウは、異教のカナン人の妻たちが両親の不興を買っているのにやっと気がつき、イシュマエルの娘を妻にしています。しかし、妻を増やしただけで、それが形式的なものであって、何の解決にもなっていないことに気がつきません。

  このように、霊性の鈍い人々は、神の祝福の道や神の嫌われる生き方に気がつかず、その生活を堕落させていきます。アブラハムの時に繁栄を誇り、イサクの若き時に更に祝福された財産は、次第になくなっていき、ヤコブには、何も渡さないで一人で去らせるようなことになってしまいました。箴言には「神の祝福そのものが人を富ませ。人の苦労は何もそれに加えない。」(1022)とありますが、まさにその通りです。

  さて、ベエルシェバからカランまでは800キロもあります。べテルまでは90キロですから、数日歩いて疲れたヤコブは、そのまま野宿をします。近くにはルズという町がありますが、寄っていません。お金がないか、知らない町にいくことが心配なのか、ともかく、心身ともに疲れ切っていました。なんでもない、手ごろな石を枕に直ぐに眠りについてしまいました。

  すると、夢を見ました。それは、はしごが天から地に向けて掛けられていたのです。地から天ではありません。これは、ヨハネ1章31節にあるように、天から地に来られたイエス様のことです。このイエス様によって天使が地に遣わされ信仰者のために働いているのです。

  そして、主がヤコブの傍らに立ってヤコブを祝福するのを聞きます。ヤコブは、目が覚めて、ここに主がおられるのを知り、べテル「神の家」と名づけ、石の柱を立てて油を注ぎました。油を注ぐというのは、おまじないというよりは、貴重なものを献げるというところに意味があると思われます。

  ヤコブは、ここで誓願を立てます。

1. 神が自分と共におられるように。

2. 神が自分の旅路を守ってくださるように。

3. 食べ物と着物を与えられるように。

4. 無事に故郷に帰れるように。

5.主が自分を特別に扱う守り神となるように。

 そして、誓願の代価として収入の十分の一を献げると誓っています。ヤコブは、祈りについても、信仰についても、信仰の慣習についても教えられており、よく知っていたと思われます。しかし、それは、身についたものではありませんでした。ところが、一人寂しく旅をして途方にくれたとき、語りかけられた祝福には感激したのです。。

 実際には、調子がよく、小知恵を効かせ、要領のいいヤコブが、信仰の人になるのは、更にこの後、数十年を経てのことです。人を騙したヤコブが騙されることになり、親を困らせたヤコブは子供に困らせられることになり、気を利かせて富を得たヤコブがその富を失うことになります。そのようにして、やっと人生の末期に、エジプトの王をも祝福する権威と信仰を身に付けるようになるのです。ここでは、まだまだ信仰を自分勝手なものとして、自分の利益のために用いようとしていることが明白です。

 それでも、知恵深いヤコブは、霊的洞察力はあります。多くの人は、信仰体験をしても、そのまま喜んで自慢をしてしまうだけです。信仰体験とは、自慢をするためにあるではありません。あなたが神の器になるためにあるのです。神の器になるとは、「神にとって有益なもの、あらゆる良い業に間に合うものとなる」(Tテモテ2・21)ことなのです。

 サタンは人間の魂を天国に行かせないためには、何でも私たちに与え、人生の意味をごまかそうとします。実は、サタンは何も私たちに与えず、私たちを惑わすだけなのですが、人は罪人であり、自分勝手ですから、簡単に利用されます。

 「直ぐに高収入」などと誘われて、キャッチセールスの会社に簡単に入る人がいれば、性風俗に浸って高収入を得たり、浪費を重ねたりする人々が山ほどいます。「金を得れば何でもできる。」と思い込んでいる人々ばかりです。

 神は、あなたの隣にいます。あなたのことを全て知っています。イエス様は、神の国と地との架け橋となって、私たちのことを守り導いてくださるのです。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。・・・・あなた方は、実によって彼らを見分けることができます。・・良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」(マタイ7・14-21

 ヤコブのすごいところは、罪によって失敗を重ねながら、着実に信仰者になっていくことです。若い時アブラハムに教えられ、すばらしかったイサクが何も言えないお年寄りになっていくのに比べ、ヤコブの臨終の祈りは権威ある大信仰者のものとなっています。私たちは、信仰者として、どのように変化しているでしょうか。


9月4日 後悔先に立たず若気の過ち。 創世記29114

新改訳 創 29:1 ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。

29:2
ふと彼が見ると、野に一つの井戸があった。そしてその井戸のかたわらに、三つの羊の群れが伏していた。その井戸から群れに水を飲ませることになっていたからである。その井戸の口の上にある石は大きかった。

29:3
群れが全部そこに集められたとき、その石を井戸の口からころがして、羊に水を飲ませ、そうしてまた、その石を井戸の口のもとの所に戻すことになっていた。

29:4
ヤコブがその人たちに、「兄弟たちよ。あなたがたはどこの方ですか。」と尋ねると彼らは「私たちはカランの者です。」と答えた。

29:5
それでヤコブは、「あなたがたはナホルの子ラバンをご存じですか。」と尋ねると、彼らは、「知っています。」と答えた。

29:6
ヤコブはまた、彼らに尋ねた。「あの人は元気ですか。」すると彼らは、「元気です。ご覧なさい。あの人の娘ラケルが羊を連れて来ています。」と言った。

29:7
ヤコブは言った。「ご覧なさい。日はまだ高いし、群れを集める時間でもありません。羊に水を飲ませて、また行って、群れをお飼いなさい。」

29:8
すると彼らは言った。「全部の群れが集められるまでは、そうできないのです。集まったら、井戸の口から石をころがし、羊に水を飲ませるのです。」

29:9
ヤコブがまだ彼らと話しているとき、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女は羊飼いであったからである。

29:10
ヤコブが、自分の母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石をころがし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませた。

29:11
そうしてヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。

29:12
ヤコブが、自分は彼女の父の親類であり、リベカの子であることをラケルに告げたので、彼女は走って行って、父にそのことを告げた。29:13 ラバンは、妹の子ヤコブのことを聞くとすぐ、彼を迎えに走って行き、彼を抱いて、口づけした。そして彼を自分の家に連れて来た。ヤコブはラバンに、事の次第のすべてを話した。

29:14
ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です。」と言った。こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在した。


 イサクがリベカと結婚する時と、ヤコブがラケルと結婚する時とでは、状況も結果も全く異なっています。

イサクの場合との対比(ヤコブの場合)

・ 自らは約束の地を離れていない。 (自らが逃げ出した。)

・ 下僕が多くのプレゼントを携えて。(一人で何も持たず。)

・ 井戸端での神への誓願と信仰。(土地のしきたりを破る。)

・ 断固とした信仰的な言動。(感情的、短絡的な言動。)

・ 信仰をもって嫁を選ぼうとした。(容姿に囚われた。)

・ 嫁の親族を信仰的にリードした。(親族と折衝し騙された。)

・ 直ぐに嫁入りが決まった。(十四年間を要した。)

・ 信仰的なリベカを得た。(偶像に頼るラケルと弱弱しいレア。)

・ 多くの祝福。(争いの生涯。)

 ともかく、父と兄を騙したヤコブは、散々に伯父ラバンに騙され続けられることになります。

 三つの羊の群れが集まっているのに、全部の群れが集まるまで井戸の蓋である石をどかさず、水を飲ませないことは一見して不合理です。しかし、不合理には、その土地独特の理由があるはずです。それを無視して勝手に石をどけ、遅れてきたラケルの羊に水を飲ませるということは、無法者のすることです。ラケルからそのことを聞いて、諭しもせず、受け入れたラバンもまともな人には思えません。娘だけで羊を連れているのだから、大した数ではないのでしょう。アブラハムからもらった多額な贈り物も使い果たしてしまった浪費性の家族だったのかもしれません。

 私は、クリスチャンが信仰を持っているというだけで、自分を他の人に比べて優位に自分を置き、「神の国に行くために選ばれ救われた者」という意識をもつ人がいることを憂えています。映画「マザー・テレサ」を観ましたが、当時の修道院もカソリック教会もそのような優越的立場をとっていたようです。力を得、宗教的世俗的地位を得ると、信仰者の堕落が始まります。

 「伝道する」ということは、クリスチャンの使命ですが、それは教え込むとか、教会という組織に加わらせるということではありません。クリスチャン一人ひとりが、主に従い、其々に課せられた十字架を負い、神と人に仕えるということなのです。十字架を負うとは、自らの過ちでも責任でもない重荷を敢えて負うということであり、自分だけで好き勝手に生きるということではないのです。そして、伝道とは、そのようにしてこそ、いのちあるものとなるのです。

 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。(Tペテ2:13-16

 私たちクリスチャンは、反社会的な人間であってはなりません。たとえ、現代日本がキリスト教や清貧に反した社会であっても、私たちがそれに囚われて反発的な言動をしてはなりません。

 そういう面で、教会はこの世の在り方を一線を引かなければなりません。例えば、クリスチャンになる前は、巧みな弁舌や冗談で人々の人気者であり、知恵や知識が巧みであったとしても、教会でそれを披露しても、それは愚かなものとなってしまいます。その辺の意識付けをはっきりとしなければ、聖霊に満たされることはなくなるでしょう。

 私自身、クリスチャンになる前は、酒の席や遊び場を含め、いつも一番目立つ人間でした。しかし、魂の救いを受けて、とてもそのようなことはできなくなりました。癖のある言葉、人を引き付ける知恵や個性が自分には醜悪なものに感じました。指導教授の奥様から「あなたはクリスチャンになってつまらない人になったわね。」と言われたとき、そのことに動じないで、却って変えられた自分に感謝しました。今も、その恩師御夫妻とは、交流を続けています。

 自分の思い通りに組織やグループを動かそうという欲望と情熱は去り、人の動向を気にしないで神の御心をうかがう平安が心を占めました。クラブの合宿では、遊びのリーダーだった私の心変わりを責め、酔いが乗らず醒めてしまうと、夜中の二時ころまで十人以上に責められ続けました。しかし、後に友人知人が十名以上、教会に興味を持って来てくれ、五名が洗礼を受けました。

 私は、牧師以外に株式会社の社長やクリニックの事務長をし、さらに多くの友人知人を持ち、いろいろな活動をしています。確かに、私の気力は充実し、多くのビジョンに満ちています。しかし、心がけていることは、「神に仕え、人に仕えること。利益を求めず、人に与えていくこと。」です。クリスチャンになって三十年以上になりましたが、そのことの確信が更に強くなっています。権力や利得に走ってはなりません。ヤコブのように、その時は得したと思っても、結局はあなたに何も残りません。

 現代社会は恐ろしく冷酷で打算に満ちています。損得に走っても、直ぐにあなたの目論見は崩れ、多くを失うことになるでしょう。


9月11日 いのちのパン。 ヨハネ福音書6章51節

新改訳 ヨハ 6:43-51

6:43
イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。

6:44
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

6:45
預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。

6:46
だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。

6:47
まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。

6:48
わたしはいのちのパンです。

6:49
あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。

6:50
しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。

6:51
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」



1 天から下ってきた生けるパン

2 食べれば永遠に生きるパン

3 世の生命のための肉なるパン


9月18日 神に誓願を立てる。 創世記31113

新改訳 創 31:1 さてヤコブはラバンの息子たちが、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ。」と言っているのを聞いた。

31:2
ヤコブもまた、彼に対するラバンの態度が、以前のようではないのに気づいた。

31:3
主はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」

31:4
そこでヤコブは使いをやって、ラケルとレアを自分の群れのいる野に呼び寄せ、

31:5
彼女たちに言った。「私はあなたがたの父の態度が以前のようではないのに気がついている。しかし私の父の神は私とともにおられるのだ。

31:6
あなたがたが知っているように、私はあなたがたの父に、力を尽くして仕えた。

31:7
それなのに、あなたがたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた。しかし神は、彼が私に害を加えるようにされなかった。

31:8
彼が、『ぶち毛のものはあなたの報酬になる。』と言えば、すべての群れがぶち毛のものを産んだ。また、『しま毛のものはあなたの報酬になる。』と言えば、すべての群れが、しま毛のものを産んだ。

31:9
こうして神が、あなたがたの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ。

31:10
群れにさかりがついたとき、私が夢の中で目を上げて見ると、群れにかかっている雄やぎは、しま毛のもの、ぶち毛のもの、また、まだら毛のものであった。

31:11
そして神の使いが夢の中で私に言われた。『ヤコブよ。』私は『はい。』と答えた。

31:12
すると御使いは言われた。『目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。

31:13
わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。』」


 兄を騙し、父を騙したヤコブは、一人で故郷を離れ、伯父のラバンの所に身を寄せるのですが、ここでは騙され続けることになります。母親に大事に育てられ、世の苦労も何も知らなかったヤコブは、口先でうまく生きてきたのですが、よそに行ったらそうもいきません。伯父に使われ騙され、人々に虐げられながら、二人の妻の争いに苦しみ、二十年が過ぎてしまいました。

 戦後日本は、世界に類を見ない父親不在の家庭が形成されるようになりました。旧約聖書を読むと、父なる神の絶対性や怖ろしさが描写されています。ユダヤ人の確固とした宗教性は、歴史を通じて示された父なる神の強い意志への服従を表しています。

 今日は、敬老礼拝ですが、昔は親やお年寄りは怖かったものです。悪いことや生意気なことをすると言い訳も聞かず、怒られ、ぶたれました。そういう中で、誤魔化しは通じないなと、親や社会に従う姿勢が形成されました。相手が年長者であれば、能力がなくて不器用であろうと決して馬鹿にすることは許されません。

 母親だけに育てられた子供は、言い訳を言い、親や上司に逆らう傾向があります。聖書に従えば、どんな理由があっても、親を馬鹿にしてはなりません。「誰でも、自分の父あるいは母をのろう者は、必ず殺されなければなりません。」(レビ20・9)とあります。

 実際には、子供が親に逆らい呪ったからといって、親が子供を殺すことはありません。しかし、手に負えない場合には、それが許されるのです。このような絶対的権威を親が持っているということを身にしみて体験しなければ、人生の苦難を乗り越えることはできません。絶対神に従うということは、自分の都合に合わせてはいけないからです。

 ヤコブは、自分の都合で親を騙してしまった咎で、故郷を離れ、悲惨な目にあってしまったことを身にしみて知ったことでしょう。伯父も信頼することはできない、妻たちは自分の都合で争っている。そんな中で、ヤコブは神だけを信じるしかありませんでした。

 人間は、自分の力でどうにかなるものに頼りたがる傾向があります。それは、人間が罪人、つまり自己中心だからであって、能力、地位、財産、血縁、資格などによって、自分の人生を図ろうとします。ところが、ヤコブには、そういうものがもはやありませんでした。

 頼るものが何もないからといって、神に頼るというほど、人間は信仰深くありません。頼るものがなければ、不満を言い、敵対し、あるいは無気力になります。健康や体力に自信があれば、そういうものに懸けるでしょうが、それがなくても神にすがることはありません。

 イエス様が「決して誓ってはなりません。」(マタイ5・34)と言われたので、誓願をしてはいけないと思っている人もいるようです。これは、自分が何かを必ずすると誓ってはならない、ということです。「あるいは人が口で軽々しく、悪いことまたは良いことをしようと誓う場合、その人が軽々しく誓ったことがどのようなことであっても、そしてそれに気づかなくても、彼がそれを知ったときには、これらの一つについて罪に定められる。」(レビ54

 神への誓願は、強い願いとして多くの信仰者がしています。レビ二十七章を読むと、誓願は、その人の立場によって果たすべき金額が記されています。「祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。」(レビ278)というのは、誓願にはそれぞれの立場によって責任があるということです。パウロは、誓願を立てた時に髪をそっています(使徒1818)。

 ヤコブに語りかける神は、「わたしはべテルの神」と言っています。それは、ヤコブがべテルで神に誓願し、その後、二十年間自分の収入の一〇分の一を神に献げてきたことを意味しています。もはや何も頼るべきものがなくなったヤコブは、神との約束をどんなに貧しくても守り通したのです。ヤコブが後に、イスラエルと改名し、信仰の勇者となっていくのは、このような信仰の筋を通すことが大きな理由でしょう。

 私自身、一九七九年に神に牧師となるように示されたとき、献身者として、生涯を神に献げることを誓いました。そして、自分の献身者人生を祝福し守ってくださるようにと、神学校生活三年に亘る一日一食の断食を誓いました。今もなお、献身者としての意識は変わっておりません。どんなに疲れ、病が重くても、礼拝を守り続け、説教を続けています。どんなに貧しくても、また豊かになっても十分の一の献金は怠っていません。

 確かに多くの試練、苦しみ、戦いがありましたが、神は絶対に守ってくださるという確信がありました。体調が悪いときに50mくらい走ったら、周囲の人が驚くほど顔が真っ黒になり手の平を見たら、ドス黒くなっていました。血液の循環不全ですが、その後、不整脈になりました。それでも、神が私を死なすはずはない、と確信していました。やくざに馬乗りになられて、殺してやる、と脅された時も、「私は死んでも天国だが、あなたは地獄だ。」と逆に脅すことができました。倒産・破産の危機は一〇回以上あったでしょうが、神は超自然的祝福をくださいました。

 妻もまた、献身者です。私たちは自らを、神に献げた人生を生き、そのようにしていくらかでも多くの人を救いに導くのが使命であると考えてます。皆さんも、皆さんなりに、神に誓願した人生を生きることをお勧めします。


9月25日 神をも根負けをさせるヤコブ。 創世記322029

新改訳 創 32:20 そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります。』と言え。」ヤコブは、私より先に行く贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思ったからである。

32:21
それで贈り物は彼より先を通って行き、彼は宿営地でその夜を過ごした。

32:22
しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。

32:23
彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。

32:24
ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

32:25
ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。

32:26
するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

32:27
その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」

32:28
その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

32:29
ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。


 伯父ラバンのもとで二十年間過ごしたヤコブは、よそ者として虐げられた挙句、苦労して築き上げた財産まで危うくなりそうな感じを受けました。ラバンの娘であるラケルとレアも、夫への父の扱いが理不尽であることを感じ、また、後に生まれた弟たちに父が肩入れしているのを不満に思っていたようです。そして、彼らは相談して、財産と家畜を持って、夜逃げをしてしまいます。

 女性たちは、結婚すれば、自分の親よりも夫のことを優先してしまいます。男は、社会的な存在を意識しますから、自分が行動する正当性を必要とします。親は、子供たちの未熟さ、身勝手さを許容しながら、子供夫婦への社会的制約や義務を果たすことを約束させ、社会人としての自立を期待します。ヤコブ一家の逃走事件とラバンの対応には、そのような様子が現れます。

 若さというのは未熟さであり、神はそのようなやり取りを通しても、「事の善悪を論じないように気をつけよ。」と父ラバンに警告します。子供たちに一方的に物事の決まりやマナーを教育し、押し付けようとする親が多いことも事実です。しかし、そのように年長者から、物事の決まりを細かく指導されると、自分のやりたいことや個性が喪失してしまい、臆病で弱気な人間になってしまいます。或いは、それに反発すると、反社会的、批判的、攻撃的な人間になってしまいます。

 神の人間教育というものは、ヤコブへの対応の中に、非常によく現れています。ともかく、時間をかけ、自らの過ちの咎を自らで必ず取らせながら、不安と恐怖の中で神信仰を形成させようとしているのです。

 信仰者としては、「事の善悪を論じない。」ということは、わきまえておくべき、人生訓です。

 私自身は、若気の至りというものが、信仰者になっても非常に多くありました。皆さんは、牧師のくせにと思うかもしれませんが、未だに、私は自分の品性には自信がありません。昨日は、ゼミの先輩や同級生と会いましたが、どうも自分の人間性の方が劣っているのではないかと恥ずかしくなりました。そういう人間ですから、私は牧師として一方的に「このようにしなさい。」「これはしてはいけません。」などと語ることは、とてもできないと思っていますし、聖書からも、そういうことは健全でないと信じております。

 信仰者がそれでは、「事の善悪」をわからないのでしょうか。そんなことはありません。それができないと認めたから、信仰者になったのであって、「事の善悪をわきまえている。」と思っている人は、決して罪を認め、悔い改めることはないのであります。つまり、事の善悪は神の判断に任せればよいのです。

 それでも、ヤコブを「事の善悪」をもって責めたラバンは、三十一章の36節からヤコブのこっぴどい反論に遇ってしまいます。しかし、ラバンの親ですから、親を責める娘たちのことを心配して、ヤコブが娘たちを決して虐げないように神に誓わせます(3143-55)

 旅が進んで兄のエサウのいるエドムに近くなると、ヤコブは兄に使者を送ります。しかし、エサウは、それには答えず、400人の郎党を引き連れて会いに来ようとします。エサウが怒れば、女子供の多いヤコブの群れは、簡単に略奪されてしまうでしょう。ヤコブは非常に恐れ、群れを二組に分けます。そうした上で、ヤコブは神に祈ります。こういう危機の時に、ヤコブが祈るようになるということは大変な変化です。

 祈り、一夜を過ごした後、ヤコブはエサウへの贈り物を沢山用意します。そうして、列をなし、配慮をして上で、やはりヤコブの不安は消えません。彼は途方にくれ、一人、川岸に残ります。自分の知恵や能力では解決できない恐れを感じているのです。

 そこに、神の使いが現れ、ヤコブの自我を打ち砕こうとします。ところがヤコブは決して降参しません。直ぐに敗北を認め、降参する人がいますが、ヤコブはそうでありません。ヤコブは自分の考えを貫こうとするのです。ホトホト呆れた神の使いは、ヤコブの股関節を脱臼させました。性格の強烈なヤコブに対して、肉体的に弱みを与えたのです。

 しかし、ここで、神はヤコブを誉め、イスラエル「神と争っても負けない。神の王子。」という名前を与えます。先週、「神への誓願」ということを語りましたが、信仰者というものは、神に求め、神を信頼する者です。神を本気で信じる人を神は求めているのです。神は、体裁良い人格者を求めているのではありません。そういうものは、人間が自分にとって都合の良いものであって、社会に生きる方便であり、知恵でしかないのです。

 多くの日本人クリスチャンの間違った考え方は、次の通りです。

1. 伝道のためにすばらしいクリスチャンになるというのは、自分本位な考え方です。救いは、人の能力ではなく、神のことばと聖霊によるのです。

2. 良い実としての品性や収穫は、自分で味わうのではなく、神に献げるものです。

3. 信仰者がこの世の賞賛や栄誉を得るということは、歴史上殆どありませんでした。人々は信仰によってではなく、社会的成果によって賞賛したに過ぎません。

4. すばらしいクリスチャンは試練や艱難がないということはありません。却って多くあります。世に迎合すれば、試練はありません。

5. この世での祝福や反映は虚しいものです。神の国の祝福と喜びこそ、私たちの求めるべきものです。