1月2日 キリストの愛に触れて生きる。 コロサイ1章2728

新改訳 コロ 1:27-28

1:27
神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

1:28
私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。


 昨年の教会標語は「キリストにある成熟」でした。コロサイ3・16

「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」

キリストのことばを生活の中で実践するためには、互いに教えあい、戒めあわなければなりません。自分のことは自分ではわからず、信者同士で御霊に導かれ祈りあいながら、そして聞く耳を持って自らをキリストの弟子として成熟させていかなければならないのです。そのようにしてこそ、感謝があふれてきて賛美をささげられるのです。私たちは、教会としてそのような成熟が確かに成し遂げられたことを体験します。この教会の中心的メンバーは確かに、キリストのことばを体験し実践することが多くなってきたように思われます。

  さて、今年は、そのような「キリストにある成人」として何をなすべきかを確認して実践して行きたいと願っています。それは、キリストを宣べ伝え、戒め、教えることです。

 クリスチャンは、どのようにして神に取り扱わられるのでしょうか。それは、伝道によってです。罪深く、自己中心な人々にキリストを伝え、信じるように導くことは並大抵なことではありません。しかし、福音を伝えることこそ、キリストのなさったことであり、キリストの愛の表れです。私たちは、キリストのなさったように生きることによってこそ、キリストの愛を知り、体験できるのです。

 人間は皆自分勝手なものです。自分は変わらないで周囲の人には変わることを期待します。思い通りに他人を動かそうとし、自分は楽をしようと願います。その典型が子供です。人間はもともと善人であって、社会が人を悪くするという性善説は誤りです。赤ん坊が他人のことを配慮していたら死んでしまいます。赤ちゃんは自己中心なのです。でも可愛いから周囲の人はそれを許すのですが、最近は親も自分勝手ですから、幼子も親に気を使うようになってしまって、健全な成長ができません。

 自己中心で、自分の思い通りになるように要求を繰り返す子供たちが、親の自己犠牲の愛の中で次第に、他の人を助け、自己責任を持って生きるようになり、成人になっていくのです。更に、キリストの愛に触れて、アガペーの愛、つまり自己犠牲をも厭わない愛を身に着けていくのです。ところが、私たちは、自分のことはなかなかつかめないものですから、聖書の御ことばに触れ、信者同士で戒め教えあわないと、自己犠牲ではなく自己満足の愛になってしまうのです。

 例えば、最も身近な存在である夫婦がお互いを愛し労わり交流をしていないということは、自分の愛情や行いが自分勝手なものであることを明確に示しています。このことは、本当に愛しあっている夫婦をみて、自らの愛が見せかけのものであることに気がつくのです。愛するということは伝道なのです。そして、伝道によってこそ、自分の愛が見せ掛けか、キリストに従った生き方かが明らかになってくるのです。伝道をしない人、魂の扱いに責任を持たない人は、自分の生き方について、どうでも良いのです。他人にどのように思われるかに関心がない人は伝道できませんし、人を愛することもできません。「他人に自分のことをとやかく言われたくない」、などと言う人は、伝道ではなくて、周囲を自分の思い通りにしたいだけなのです。

 パウロは「弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」(Tコリント9・22.23)と自分の権利を否定しました。

 さて、これらのことは奥義です。秘密です。つまり、自己犠牲こそ、自己実現の正道なのです。自分勝手に文句ばっかり言っている親に育てられた子供が親孝行になるのは稀でしょう。自分勝手な夫を妻が見捨てるのは当然でしょう。自分の要求を振りかざすクリスチャンに未信者は魅力を感じません。キリストのように生きることは、祝福の奥義です。


1月9日 キリストを宣べ伝える。 コロサイ1章2428

新改訳 コロ 1:24-29

1:24
ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。

1:25
私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。

1:26
これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。

1:27
神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

1:28
私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。

1:29
このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

 伝道とは、個人のものではありません。教会の業です。私自身は信者時代に50名以上、牧師になってから20名以上を個人的に救いに導いていますが、それらの人々で信仰者として残っているのは、しっかりと教会に繋がった人々です。

 キリストを宣べ伝えるとは、教会の働きに人々を参画させることです。このことがわかっていないと、伝道というものが個人的になり、結局は体験的・感情的なものになり、実を結ばないのです。言い換えると、教会の中に組み込まれる人が、救われた人であり、組み込まれることを拒む人は、自己中心なままで御利益的に救いを求めた人であったと確認できることになります。救われた人であるか、救われていないかを吟味することは私たち人間の分限を超えたことでありますが、教会こそキリストの身体であり、キリストの身体を離れた信者はありえないのです。

 教会は、それぞれの地域教会によって構成されるのですが、身近に地域教会のないクリスチャンはどうなるのでしょうか。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18・20)とあるように、複数のクリスチャンがいて祈りあい、助け合うことが必要なのです。先週もお話したように、一人だけで信仰生活を歩むということはクリスチャンとしてはありえないのです。

 魂の救いとその後の成長は、信仰共同体によってこそ、形成されるのです。それは、一人の人を成熟させるために適切な家族関係が必要なことと同様です。もし、適切な家族がいないのであれば、家族に代わる人間、或いは組織、或いは擬似体験をもたらす書物によって影響を受け、まことの父である神に信仰を向けるように、日々の生活を営む必要があります。つまり、それが神の家族である教会の役割であり、健全な教会なくして健全な信仰者は形成されないのです。

 愛され祈られた経験のない人が、人を信じられず、攻撃的になったり、否定的になったりするように、健全な教会で信仰生活を営んだ経験のないクリスチャンは、聖書や祈りによって十分に補完されないと成熟した信仰者になりきれないことがあります。

 このようにして、パウロは教会に仕えると自らを規定したのです。さらに、そのように愛によって教会を形成し支えるためには、自らが犠牲になって困難を甘んじて受けなければなりません。ですから、パウロは、「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」という使命感をもつのです。

 教会が、このように愛によって建て上げられるためには指導者が必要です(エペソ4・11-16)。そのために、教会員としての忠実な歩みを2年以上した人を執事補として推薦し、さらにそれを2年以上した人を執事として教会の指導者として神に推薦するのです。しかし、私たちは自らの教会のためだけではなく、他の教会や未伝の地、新しい教会形成をも支援しなければなりません。

1. 牧師・伝道師になる。

2. 他の教会・宣教師を経済的・物質的に支援する。

キリスト信仰において、明確な奥義は、与えることによって得ることであり、自らを否定することによって自らの願いを実現することです。その究極の生き方は牧師になることで、伝道と教会形成のために自らの人生を献げることです。この教会からもぜひ、教職献身者が出て欲しいというのが、今後5年の願いです。また、経済的な支援も教会として増やしたいと願っています。昨年クリニックとヨーゼフは経済的に祝されましたが、合わせて200万円以上の宣教支援に献げることができたからだと思っております。

教会のために奉仕をする。これもまた、祝福の奥義です。教会の伝道の働きは、個人伝道できる人ばかりでするものでもありません。だれでも周囲の人にキリストを証しすることはできます。また、教会の事務的な働きをする人がいなければ、教会はこの世の中に存続することもできません。周囲の人の救いのために祈り続け、証し続けながら、教会に奉仕し、人を愛し助ける、これがクリスチャンの人生です。


1月16日 聖徒たちを整える。 エペソ4章1220

4:12
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、

4:13
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

4:14
それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、

4:15
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

4:16
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

4:17
そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。

4:18
彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。

4:19
道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。

4:20
しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。

  @聖徒たちを整える。A奉仕をさせる。B教会を建てあげる。この三点が強調されていますが、注解書によると、目的は@であるようです。つまり、奉仕をし、教会を建てあげるのは、クリスチャンを整えるためであるということです。

  したがって、神の御子に関する信仰と知識がそれぞれ、信者の間で一致することが必要とされます。そして、信者が成熟しておとなの信仰者になることが目的となります。「信仰者としておとなになる」ということはどういうことでしょうか。

@ 悪巧みや悪賢い策略、或いは尤もらしい教えや世の中の風潮に呑まれない、しっかりとした知識と判断に基づく信仰を持つことです。

A 聖書に基づいた真理を他の信者や未信者に語るのですが、それが相手に通じるような配慮と愛に満ちたものであるということです。

B 知識、経験、品性、実績、などあらゆる点で成長しようと努力を続ける人であるということです。

 このように、成熟したクリスチャンというものは、当然世の中でも尊敬され、実績を築いていくことになるのです。欧米や韓国では、クリスチャンが確かに多くの実績を上げ、信仰者としての信頼を勝ち得たのです。日本でも、5千円札の肖像になった新渡戸稲造をはじめ、内村鑑三、救世軍の山室軍平大将、社会福祉改革家の香川豊彦、教育化の新島譲、最近では三浦綾子、緒方貞子(国連難民高等弁務官)、日野原重明医師、その他、すばらしい方々がいます。大事なことは、このような方々は、有名になるとか、成功しようとかではなく、誠実に生きた結果、社会が彼らを引き上げたということです。

  今年は英訳聖書を通読し始めていますが、「あなた方は地の塩です。もし、塩が塩気をなくしたら、・・・何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ513)という聖句が身に沁みました。三浦綾子さんや日野原さんは確かにすばらしい信仰者です。しかし、普通のクリスチャンが世に迎合しすぎているのです。韓国では、日本政府の信仰迫害によって多くの殉教者が牧師にも信者にも出たそうですが、日本では信者の殉教者は調査では一人もいないそうです。

  息子が事故を起こしまして、免許を取り上げられるかもしれないのですが、それを覚悟し、賠償の責任を負おうとしているのを見て、おとなになったと、感心しながらも祈っております。人生は誤魔化しでは生きていけません。人々は、私たちクリスチャンが、誘惑にも乗らず、人にも左右されず、ただ聖書のことばに従って、誠実に生きていくのに感化されるのです。

  そのような神を信じる不器用な生き方だからこそ、クリスチャン同士が愛によって助け合い、支えあい、それぞれの能力を発揮しあうことが必要なのです。信仰生活というのは、感覚や判断ではありません。聖書を読み、聖書に学び、神に仕え、神を信じて生きるのです。

  聖書を読まなければ、無知なのです。悟りや自分で考える信仰生活は、いくら努力しても、知性において暗くなったものであり、虚しいものなのです。説教も、説教者の個人の聖書的見解の宣言ではありません。聖句をわかり易く説明するものであり、聖書の繋がりを解き明かすものなのです。この世の知恵や術を聖書から解き明かすものであってもいけないのです。説教の内容を理解しようとすれば忘れます。聖書は神のことばであり、その語りかけを、個人的に聞くことが信仰生活に必要なのです。

  その語りかけは黙想によって得ようとしてはなりません。それは、個人の悟りです。学問というものは、その学問をしっかり学ぶことによって得られるのであって、その学究をしないで悟ろうとするのを無知をいうのです。聖書を何回も読み、解説書を精読し、祈りながら、聖句にある神の語りかけを聞いてください。キリストのことばは、聖書を真剣に学び続けることによってのみ、獲得できるのです。安易なハウツー物を読んでマスターするような姿勢は、身に滅びを招きます。信仰は人にノウハウを教えられるようなものではありません。


1月23日


1月30日 キリストの恵みと知識において成長する。 ピリピ1章1922

新改訳 Uペテ3:14-18

3:14
そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。

3:15
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。

3:16
その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。

3:17
愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。

3:18
私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。


 キリスト教教理とは、聖書の真理を体系化したもので、これを探るのを神学と言います。恩師、弓山喜代馬師は人生を「神学する」ことなくして牧師は生まれない、と言われました。

 神学者ホッジは「人は誰も教理上の誤りを些細な実際悪と思ってはならない。偽教理の道ほど多くの群集を破滅に陥れた道はかつてないのである。誤謬は良心の覆いであり目には目隠しとなる。」と言いました。また、明確な確信は強い信仰を生み出し、強い信仰は良い品性の実を実らせるのです。

  私たちは信仰生活を歩みながら聖書を読むと、生身には辛い神の言葉があります。牧師になったのは「主がお入用なのです。」という言葉があったからであり、虐げに我慢できなくなったときに「あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する」という言葉に、自らを委ねたのでした。このようなとき、「聖書はこう言っているけれど、自分の場合は違う。」と実際生活に聖書のことばを適用することは、自我と信仰の戦いとなります。聖書を毎日読み、折に触れて神の言葉を待つ、という姿勢は、自我を神の言葉の基に変えていくという信仰者にとって必須の過程です。主の下に我と書くと義という文字になります。

  ところが、ここで聖書を読まないで、考えたり黙想したりすることを祈りと称して勝手に歩む自称信仰者がいます。「無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」こういう人は、無節操であって、他の人を誘い込んで自らを正当づけようとします。そういう人の聖書を読む場合の読み方は、聖書に自分を合わせるのではなくて、自分にとって都合のよい聖書の箇所を拾い読みするのです。

  ですから、聖書はゆっくりと、全体を何回も繰り返して読み、わからないところを確認して印をつけるべきです。更に、引用を調べて関連の箇所を読みます。それでもわからない聖句は牧師に聞いたらよいでしょう。信仰年月を経ないとわからない、信仰の奥義もあります。信仰者として神に従い、試練を経て共感ができるところもあるでしょう。ともかく、わからないところを否定してはなりません。私自身は、雅歌や伝道者の書を軽んじているところがありましたが、その奥深さを最近少しわかるようになりました。ともかく、聖書は神の言葉であり、罪深き人間が完全に理解できることなどありえず、信仰の年月を経ないで共感できるほど安易ではないのです。

  ところが、無知な人、愚かな人はわからない箇所を勝手に解釈してしまうのです。「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない」〔Uペテロ1・20〕。異端と呼ばれ、道徳的にも退廃したエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教、統一協会などは、全く似て非なる、恐るべきまやかしの宗教です。その指導者の特徴は自己宣伝欲が強いということでした。

  キリスト教というのは、聖書をそのまま用いるところに特徴があります。実際には、少し教理が変であったり、過激であったり、保守的過ぎたり、知的偏重していたり、いろいろな教団・教派・信仰者がいるものです。人間ですから当然です。ところが、聖書を自由に熱心に読むならば、その人は聖霊によって矯正されていくのです。

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」Uテモテ3・16新共同訳

  聖書は生ける神のことばであり、聖書によって信仰者は形成されるのです。そして、すべての信仰者の誤りを、聖書と聖霊によって導かれるようにと、神に委ね、信仰を共有するのが教会なのです。ですから、聖書に違うものを加えたり(異端の特徴)、その読み方を私的解釈に捕われたり(信仰破綻者の特徴)、聖書を読まなかったり(信仰的に未成熟)しない限り、私たちは「主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長」(3・18)を間違いなくするのです。

  食事を摂らなかったり、栄養が偏っていたら、身体は健全にはなりません。いのちのパンである聖書を継続的に読まなかったら、進行的に健全に成長することはないでしょう。


2月6日 主の召しにふさわしく歩みなさい。 エペソ4章131417

新改訳 エペソ 4:1-3
4:1
さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
4:2
謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:14
それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
4:17
そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。


  主が私たちを召すというのは、人を雇い入れるようなものだと思います。私もクリニックや会社で10人以上を雇うようになりました。雇用してすぐ存分に活躍し任せられるような人はいません。最近の人の特徴は、指導されることに慣れていないということです。自分のやりたいようにやろうとして、指導されると反抗するのです。また、自分の失敗や弱さを認めようとせず、それが明白になると辞めたがるということです。これも人生経験と失敗経験のなさです。更に、上下関係というものをわかっていません。丁寧語を使えば、誰にでも物事を頼めると思っているようです。これらのことは、父親不在の家庭から生じると思われます。
  私たちは、虚しい心で歩んでいました(17)。新共同訳では「愚かな考えに従って歩み」と訳されています。そのような自らに嫌になって、神を信じ自らの罪牲を認めたわけですが、それでも「古い自分を脱ぎ捨てる」(22節)ことは、なかなかクリスチャンでもできません。
  私は、他人を批判し指導してばっかりいて、自らの弱さ罪深さを認めない、つまり、「古い自分を捨て、新しく神にかたどり造られる」ことを否定するクリスチャンの破滅を多く見てきました。自分が清くないことを認めるからこそ、聖めへと歩むことを願うのです。会社でも、自分の弱さを認めようとしない人との人間関係は良くはならないもので、煙たがられます。「医者を必要とするのは、自らを病人と認めた人です。」(ルカ531)。頑固な人は、検査数値で異常が出ても、「自分は病気ではない。検査がおかしいのだ。」と言ったり、医者に文句を言ったりします。また、医者の話を聞かず、言いたいことだけ言って、帰ってしまう人もいるそうですが、何のために病院に来るのでしょうか。教会にも、自分の自慢話をしに来る人や、情報を仕入れにきたり、お金を求めに来る人がいます。教会は、神を求める人が来るところです。
  教会は、弱い人や罪人をそのまま受け入れるところだと主張する人がいます。とんでもありません。イエス様は罪を認め、悔い改めた人を受け入れているのであって、変わろうとしないパリサイ人や律法学者を痛烈に批判します。会社や家族でも、自己主張する人を指導できる人がいません。ですから、彼らは、自分は弱いのに、なぜ家族や会社、社会は助けてくれないのかと文句を言います。未熟な子供を指導し、成長させるのは大人の責任ですが、それを果たす人がいません。
  教会になぜ、指導者が必要なのでしょうか。最近は物分りのいいお父さんが増え、「お前の好きにしていいよ。」として、親の意見を言わず、放任を決め込む親が増えています。他方、自分の考えも持たず、反対したり、批判したりしてばっかりの人もいます。社会的マナーや親の意見を言い、更に失敗したり、罪を犯したりする子供を見守り、成熟へと育て上げるのが親です。同様に、教会の指導者は、聖書の原則とその適用を自ら守り、そして、後輩の信者に教え、諭し、成熟へと導くのです。
  主の召しとは何でしょう。それは、天の御国、神の国へと招いたことです。その招きに応じる道が教会です。教会に組み込まれ、聖書を学び実践し、人を愛し愛されていくことが天国への道なのです。
  会社に雇ったのに、思うとおりにいかなかったり、失敗すると、「もうだめだ。」と思い込んナ辞めてしまう人が多くいます。折角、雇用して、時間を掛け金を掛け人手を掛けて、役に立つ働き人にしようとしたのに、やめられたら大損です。そんなことが多くなると、期待することが馬鹿らしくなり、人を育てようとしなくなる会社も出てきます。そうすると、その会社は活気がなくなり、成長が止まるのです。
  教会は、後輩の信者を見守りながら、信仰を教え、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保」とうとすることによって、成長し、神の国と地上との架け橋になるところです。
  親は子供が自分の失敗や罪深さに失望や絶望をしないように見守り、かつ適切な注意と助言を与え、自らの能力を蓄え発揮して、自分の道を歩みだすように、育て上げる責任をもつのです。子供がいない人は、他の人々をそのように接して成熟させ、自らの神の国への召しの道を歩んでください。それは、まさに「謙遜と柔和の限りを尽く」さないとできないことでしょう。言いたいことを言い、やりたいことをやるような人間では、残念ながら神の国の住民としてはふさわしくないとして、門前で断られることになるでしょう。あなたの行いや実績は、神の国のパスポートにはなりません。神の国のパスポートは、あなた自身であり、「聖霊によって証印を押されているのです。」(4・30)


2月13日 神を信じ地獄を信じるか。 マタイ254046

新改訳 マタ 25:40-46

25:40
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

25:41
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。

25:42
おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

25:43
わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

25:44
そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』

25:45
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

25:46
こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

 一年で最も寒い時期です。寒さに身体が萎縮しているのがわかります。この季節の後は花粉の季節で、それが終わると梅雨と続き、リューマチ、花粉症、痛風の私には試練が重なります。最近は歳のせいで小学生時代以来の喘息的な咳がでるようになりました。老いが身近になってきました。若いのにそんなこと言って、と言われても病気持ちの身には、人の苦労も知らないで、という気もします。

 老いの先には死があります。これも避けては通れない関門です。誰でも、地獄(ゲヘナ)の実在を考えるのは嫌なものです。キリスト教の異端は地獄を否定しています。そのようにして神の愛を強調すると、非常に麗しい教えになります。しかし、聖書は明確に地獄を説明しています。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」マタイ1028

 地獄とは、どんなものでしょうか。

1.永遠の刑罰を受けるところです。

「呪われた者ども、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」マタイ2541.「永遠の刑罰に入り」マタイ2546.「誰がとこしえに燃える炉に耐えられよう。」イザヤ3314.「火と硫黄の池・・・・、永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」黙示2010.

2.火と硫黄の池。

黙示14102010218

3.悪魔、にせ預言者、悪霊、悪人、いのちの書に名の記されていない者、神の御旨を行うことを拒んだ者がいくところ。

「ゲヘナで滅ぼす」ということは、滅びてなくなるのではなくて、永遠に続く刑罰であると書いてあるのが、信者でも腑に落ちないほどの厳しさです。私たち信仰者も罪を認めて、悔い改めはしたものの、それほど未信者と違わないという正直な感想を誰しも持っているのでしょう。罪の赦しを体験した時の喜び、新しい人生を歩み始めたという実感は、過去のものとなってしまいます。しかし、本当に未信者とあなたは、そうかわらないのでしょうか。

そこで、チャックすべきは、第3の点です。1コリント3章を読みますと、クリスチャンの人生は建物作りのようで、キリストの裁きの時に、各人の働きの真価は明らかとなり、金・銀・宝石で建てた建物は残り、安易に作った木・草・わらの建物は焼けるが、その人自身は助かるとあります。ところがここで注意するべきことは、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。」(316,17)です。つまり、自分ではクリスチャンだと思っていても、神の前ではクリスチャンでない場合です。それは、確かに過去、悔い改めて聖霊が宿ってくださっても、罪を犯していると内在の聖霊が去ってしまうのです。

 今回の聖句やマタイ7・21から判断しても、「主よ、主よ」と信仰者の自称が要点でなく、自発的な聖霊に促された善行こそ、信仰者の確認なのだということがわかります。天国に行く条件は、天国にいつでも行けるような人になっているということになってきます。この辺が厳しいので、牧師でさえも基準を「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ81)くらいにしようとするのですが、その後に、「いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した」(8・2)とあり、やはり形式的な信者では、天国は無理だと思わされます。

 「天国に行くことがそんなに難しいのだったら、地獄もなしにしてくれたらいいのに」というのが、実感でしょう。しかし、聖書は、前述のとおり、はっきりと地獄を詳細に語り、それを私的解釈するならば滅びを招きます(Uペテロ3・16)。そして、罪から私たちを解放するために御子イエスがわざわざ十字架に掛かって死んでくださったのです。罪びとは罪を過小評価します。そして、罪を犯すのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3・16

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」使徒の働き4・12

 魂は不滅であり、神はそのようなものとして人間を造られ、永遠に交流しようとされたのです。しかし、罪を犯したアダムはもはや神と共に住まうことはできなかったように、罪びとは天国には住めないのです。それで、神は人を救おうとしてイエス様を遣わされたのです。地獄の恐ろしさを知っている悪魔は、自らが地獄にはいらないために、天国に入れるものを絶やそうとしているのです。

 あなたは救い主イエスを信じ、また同じように地獄の怖さを知って敬虔に地上の人生を生きる人でなければなりません。神を信じないで、自分の主義を主張している者が天国に入る可能性はゼロです。


2月20日 誘惑に対処する。 ヤコブ1章227

新改訳 ヤコブ
1:12
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

1:13
だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

1:14
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

1:15
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

1:19
愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

1:20
人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

1:21
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

1:22
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

1:26
自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。

1:27
父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。

 この世に生きている限りクリスチャンと言えども、欲望があり、誘惑に合い続けます。信仰が深く強くなれば、霊的に高くなれば、誘惑がなくなるかというと、イエス様がそうであったように、決してそうではありません。却って、欲望からの誘惑だけでなく、悪魔や悪霊からの積極的な誘惑があるようになります。

 自分の目的のためでなく、神の栄光のためにと目的をもっても、実際には思うとおりに物事がなることを期待し願います。ここに、誘惑と罠があります。牧師の私だって、祈り願うことが全て適えられたら何と幸いかと思います。祈った人が救われ、期待するように信者が成長し、奉仕したら、もう信仰はいらなくなります!?

 欲求があり、願いがあるから罠があり、誘惑があり、罪を犯すのです。そうすると、人は、この世での願いは全て捨てて、神に身を委ねて生きよう、なんて考えることもあります。実は、それも欲望であり、誘惑なのです。人と関わりあわなければ罪を犯さない、というほど、人間は単純ではありません。魂の救われたクリスチャンが人と関わりあわないのは、福音宣教の命令に違反します。いや、それ以前に、人と関わりあわない人は、殆ど自己中心で常識のない、配慮のない人になってしまいます。

 つまり、人間には、罪があり、欲望があり、誘惑に合うのは宿命なのです。ですから、誘惑に合わないようにと願うのではなく、誘惑に対処することが肝要なのです。また、ヤコブ書の1章13節にあるように、この試練は神からのものだ、とか、この誘惑は神からのものだ、などと言ってはいけません。確かに、創世記22章1節には「神はアブラハムを試練に会わせられた。」とあります。しかし、これは神の直接的な語りかけを通じての及第試験であって、これを確認してアブラハムを通じる祝福が始まるのです。私たちの罪深さや弱さからくる試練を、これと同列において、神からの試練、などと神の器ぶってはいけません。

しかし、確かに神は、私たち信仰者が試練を受けたり、誘惑を受けたりすることを許容しておられます。その理由は以下のとおりかと思います。

1. 試練を通じて、信仰が本物かどうかを明らかにする。

 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。ルカ8・13

2. 試練がさらに人を信仰深くする。ヤコブ1・2〜4.

3.試練に耐えるならば、冠を受ける。ヤコブ1・12

4.試練は人を清める。
 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。Tペテロ1・6

5.試練はキリスト共に歩んでいるしるしである。Tペテロ4・12

 誘惑と試練を混同していると思うかもしれませんが、誘惑は肉欲的なものに関わり、試練は人生上の困難や諸問題とされるでしょう。ところが、その対応方法や問題点は同じようなものであると思われます。私自身のことを振り返れば、試練の連続と思っていたことが、自分勝手な人生の報いであることが後でわかってきました。目の前にある試練を、罪の誘惑の戸口と捉えて、正しく歩んだほうが幸いでしょう。

1. 信仰によって誘惑と戦うべきである。

 イエス様は誘惑に打ち勝たれました。誘惑に負けて「全てが益にはならない。」サタンの餌食になり、聖霊が離れ、傷つき、ざせつしてしまいます。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」へブル12・4)

2. 誘惑や攻撃に対して警戒していなければならない。

 1対1で男女がいてはなりません。誤解も注意しましょう。酒に酔ったり、歓楽街に足を踏み入れてはいけません。身だしなみや言葉にも気をつけましょう。人を躓かせてはいけません。(ローマ14・13)

3. 聖書をよく読み、祈りの生活を営みましょう。

 神は私たちを見守っておられます。「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。」(Tコリント10・13)もし、その試練があなたの耐えられないようなものだったら、神は必ず助けてくださいます。「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」(Uペテロ2・9)


2月27日 罪人が悔い改めるとは。 ルカ151032

新改訳 ルカ 15:17-24

15:17
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。

15:18
立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。

15:19
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

15:20
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

15:21
息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

15:22
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。

15:23
そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。

  多くのクリスチャンが伝道しようとすると、「神は愛なり」とか、「神を信じると祝福されますよ。」、「性格が変わる」などと、人間にとって都合のよいものとして信仰を伝えてしまいます。そして、伝道するためには、相手に合わせて、内容を反発を感じないものにして語ろうとしてします。そうしますと、真の福音ではなくなってしまうのです。さらに、クリスチャン自身が、神の教えから離れてしまい、「神は愛だから」というそれだけの考え方で、信仰を保とうとして信仰的な破局に陥ってしまいます。

 最も初めに書かれたマルコによる福音書は「罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。」で始まり、「悔い改めて福音を信じなさい。」と強調している。マタイも(3・2)、ルカも(3・3)同様であり、ヨハネは独特の書き方で、悔い改めを説くバプテスマのヨハネを冒頭に説明しています。つまり福音書は、悔い改めの宣言から始まるのです。

 教会の発祥も、ペテロが、「悔い改めなさい。」と民衆に叫んだことに対応した人々によって始まっています(使徒2・38)。

 書簡ではパウロがローマ書2・4で、「神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」と説明し、神の愛は、人が罪深さを認めることを望んで、示され実行されることが、わかります。

  このように、救われ、新生し、義とされるという祝福は、悔い改めという人間の側の自発的な行為に基づいて始まるのです。

  悔い改めには、次のことが含まれます。

1. 今まで行ってきたことを、もはや行わないという決心。これは人生の方向と行状の変化を意味しています。

2. 自らの罪に対する深い後悔と敬虔な悲しみ。

3. 全能の神に対する隠しおおせない全面的な罪の告白、時には人に対してもあからさまな告白が必要な場合もある。

4. 悔い改めは、自分勝手な生き方をやめ、神に立ち帰ることを含む。

ルカ書十五章の例えは、イエス様ご自身が語られたことですから、大変重要なものです。九十九匹の羊を置いても捜しまわる一匹の羊を見つけた喜び、銀貨一枚をなくしてしまった女性が、探しまわって見つけた喜び、「一人の罪びとが悔い改めるなら、神の御使いに喜びが沸きあがる」というほど、人が悔い改めるというは難しいことなのです。

  ここに出てくる放蕩息子の父親は、息子のことをとても愛していました。しかし、息子は自分勝手であり、財産わけを強要し、それだけではなく、知らぬ土地で出かけてしまいました。彼は親の愛が近くにいてもわからなかったのです。

  息子は、欲望の向くままに湯水のようにお金を使い果たしてしまいました。そして、ユダヤ人にとって最も汚らわしい豚の世話をするように落ちぶれてしまいました。ひもじくて、豚の餌でも食べたくなるほどだけれども、そんな勝手な生活をして身を崩した彼を誰も親身には思いませんでした。それどころか、人間扱いされなかったのです。

  父の家では、誰もそんな扱いをする人はいません。懐かしく思い返した彼は、自分がどんなに自分勝手であり、罪深いかということが、わかりました。「父の愛を無にし、自分の地位や家族を捨ててしまった。もはや、何の言い訳もできない。ただ、父に謝ろう、そして、父の元にいたい。子としての資格は何もない。」彼は、どんなことをしても父の元に帰ろうと決意しました。

  これを悔い改めといいます。

  この悔い改めなしには父の所に帰れませんし、帰ったところで、以前の同じことになります。悔い改めによって、交換条件で、罪の赦しや救いが得られるのではありません。法廷で、全ての罪を認め、裁きに自分を無条件で委ねるようなものです。委ねるからこそ、キリストの十字架による罪の赦しが、私たちのものとして、確認されるのです。

  悔い改めなければ、神との関係は損なわれています。「死んでいたのが生き返ってきた」(ルカ15・32)とあるように、悔い改めない者は霊的に死んでいるのです。生き返るのは、キリストと共に、自らの罪過を認め、十字架で死ぬことが必要です。この悔い改めがしっかりしていないから、クリスチャンとして中途半端なのです。また、クリスチャンになることを勧誘して、悔い改めなしに洗礼を受けてクリスチャンとして勝手に認めてしまったら、本人が立場を誤解していることになり、大変な悲劇です。救われていないのに、救われているとして、迷っている人を案内して別な所に連れて行ってしまったら責任を問われます。

 イエスはまた一つのたとえを話された。「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。」ルカ6・39


3月6日 救いは聖書に啓示されています。 ローマ10617

 6,7節では、誰が天国に行き、誰が地獄に落ちるか、人間の尺度で考えてはいけない、と示されます。人間の判断や能力で、救いの真実性を考えるものではないと諭されるのですが、実際に、私たちも本当に天国へ行けるかどうか、他の人について心配になることがあります。

 ここで強調されることは、能力や品性、宗教的熱心さなどの自力救済或いは律法主義を否定し、信仰によってのみ神に義とされることです。今日は、この「信仰による救い」について、学んでいきましょう。

1. 人のわざによっては決して救われない。

「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない」(ローマ3・20)。「救い、・・・わたしたちのわざによるのではなく」(Uテモテ1・9)。

2. イエス様以外の義は、神には通らない。

 「私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。」イザヤ64・6)「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに・・・私たちを救ってくださいました。」(テトス3・5)

3. 信仰だけが救う。

 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2・8,9)

 「イワシの頭も信心しだい」という日本のことわざにあるような、信仰心が大事だという、人間側の論理や行いが中心をなす宗教と、神の絶対的な基準を示される聖書の教えとは根本からまったく違います。そこでは、「他の人もこんなものだから、これくらいな宗教心でよいだろう」という、相対的な目安はありません。聖書が示す絶対的条件を全うしなければ、何人たろうと救われることはありません。そこで、次のようなことが告げられます。

1. 信仰には知識が必要である。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(10・17)。神について、福音について、人の悟りや思考では思いつかない神からの啓示なのです。

2.知識を自分のものとして体験しようとすること。

 マタイ8・29やヤコブ2・19から悪霊は、人間よりも神について知っていることが明らかですが、彼らが救われることはありません。大事なことは、神を知っているということではなく、救いを求めて、その知識に自らを適用させることです。

3.神を人格的に信頼すること。

  「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1・12)

 未熟な人たちは、自分は頭で理解しているから自分のものにしていると考えます。でも、例えば、スポーツで実際にやってみると、なかなか思い通りにいきません。救いを理解しても、救われないのです。

A 自らの救いを求め、キリストの十字架を自分のためであると信じる。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」13節

B.自分が救われたことを口で告白する。

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」10節

C.自分が救われたという聖霊なる神の与える確信と聖書を信頼する。

 「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」11節

 人の悟りで、救われることはありません。だからこそ、私たちは必死に聖書を人々に語らなければならないのです。また、聖書をしっかりと学ばなければならないのです。信仰は、聖書のことばを聞くことからはじまり、それを信頼して初めて救われるのです。

 聖書を一度も聞いたことのない人は、その基準で神から裁きを受けます。しかし、現代日本では、すべての人は、聖書を聞く機会があるのです。自らの罪深さを意識し、神を求める人は幸いです。


3月13日 クリスチャンが霊的であるとは。 ローマ12章1〜12

新改訳 ロマ
12:1
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
12:3
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
12:6
私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
12:8
勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
12:9
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。
12:10
兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
12:11
勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
12:12
望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

 霊的であるとは、聖霊に満たされた様子が見られるということでしょう。反対語は「肉的」となって、欲望に囚われたことを意味します。英語でspiritualとなると「精神的な;霊的な,魂の;宗教界の;神聖な.」を意味します。

キリスト教では、呪術的な意味合いがあることを嫌って、長らく聖霊なる神の働きを無視し、「霊的」であることを避けてきたような帰来があります。キリスト教が社会への影響力を失いつつあり、教会に集う人が非常に少なくなった二十世紀初頭に、ペンテコステ派が台頭しました。当初は、彼らが霊的であることによるキリスト教界内部からの批判攻撃が激しかったのですが、次第に教勢を伸ばし、現在世界のプロテスタント人口の半分を占めています。その大多数は、これまでプロテスタントの信者が殆どいなかった南米、アフリカ、アジアに多く広まっており、旧現の共産圏でも多くおります。これは、キリスト教宣教において、「霊的」であったからであると理解されます。私たち、アッセンブリー教団は、そのペンテコステ派の中で最大の教派です。ちなみに、「ペンテコステ派」とは、使徒二章のペンテコステ(五旬節)に起きた教会発祥の事件に由来しています。

キリスト教が「霊的である」(聖霊に満たされる)ことを避けたが故に、力を失ってしまったのです。それでもなお、「霊的である」ということをダイナミックな聖霊なる神に感化された状態であることを無視し、「御霊の実」(ガラテヤ五章にある人格的品性)と捉えようとすることがあります。これは、やはりシャーマニズムに見られる過激な言動と混同されないようにとの消極的な意識もあるようです。

まず、理解されるべきことは、聖霊は悪霊とはまったく違うことです。「悪霊憑き」とは、悪霊がその人を支配して判断能力まで奪ってしまった状態です。「聖霊に満たされる」というと、同じように錯乱状態になると考える人がいるのですが、大間違いです。

1. 聖霊なる神こそが、私たちを神の子となるように働く。ローマ814,15

2. 聖霊なる神は、私たちに罪、義、裁きを悟らせる。ヨハネ168

3. 聖霊なる神は、私たちに真理を教える。ヨハネ1526.

4. 聖霊なる神は、私たちと共にいて助ける方です。ヨハネ1416

5. 聖霊なる神こそ、私たちに実を結ばせる。ヨハネ1516、ガラテヤ522

 そういうわけで、霊的であるということは、自分の判断を常に聖霊なる神に仰ぐということです。信仰者の人生は、神に献げた人生であるべきです。神に献げた人生を生きるためには、この世の生き方を当然と思ってはなりません。テキストの第三節には「思い上がるな」とありますが、それは何でもできる、なんにでもなりたい、とは思い上がるなということであって、自分の特徴、賜物をわきまえて神に献げた人生を忠実に生きることが大事であります。そのことが八節まで続きます。

九節からの言葉は、すべての信仰者に対するお勧めであって、これは実践するならば祝福される課題です。私自身は、「霊的に生きる」とは、これらの実践であると確信しております。

自らを人格者にしよう、クリスチャンだから品性を実らせようと願うのは、当然な思いですが、こういうことはむしろ、日々の歩みの中で、自らの内面に目を向ける偶像追求に陥りやすいのです。

聖霊に満たされるならば、自分の弱さや欠点は気にならないのです。もはや神に委ねているので、どうなろうと結果は気にならないのです。

しかし、覚えていなければならないことは、聖霊に満たされるということは、罪や悪、そして怠惰や欲望に対して繊細かつ注意深くなることでもあるのです。信仰者として年季を経なければ、このことをわきまえることは難しいのです。そういう面で、十四節からの聖句は、しっかりと身につけておかなければなりません。

迫害する者を祝福する(14)。他人の喜怒哀楽に敏感になる(15)。社会的立場の低い人や教養のない人に順応する(16)。悪に対抗しようとせず、独りよがりではなく評判の良くなることを計画する(17)。すべての人と喧嘩をしない(18)。決して悪に負けない、失望しない。

これらのことを心がけるときに尤も大事な箇所は、私自身は「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(11節)であると考えています。

あなたは勤勉でしょうか。聖霊に燃えているでしょうか。主に仕え、主に喜ばれることを願って生きているでしょうか。


3月20日 キリストの十字架の意味。ヨハネ12章1〜72426

新改訳 ヨハ 12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2
人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4
ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。 12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6
しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
12:7
イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
ヨハ 12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
12:25
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
12:26
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。


 「贖う」(あがなう)とは、広辞苑を見ますと「金品を代償として出して、罪をまぬかれる。転じて、つぐないをする。罪ほろぼしをする。」とあります。英語ではAtoneであり、償いを意味します。Redeemを用いることもあり、「)買い戻す;質受けする;(名誉などを)努力して回復する;身代金を払って救い出す;(欠点・罪から)救う(from)」を意味します。

 イエス・キリストの十字架の死は、ご自身を私たちの代価として献げたことを意味します。「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(Tテモテ2・6)

 第2に、贖うとは、覆うということを意味します。「贖罪」(しょくざい)とは、罪と罪人の両者を覆うことを意味し、神の目から罪を覆うことで、神の義の怒りを引き起こさないようにすることと説明されています。ここで、人間中心の論理から考えると、神がそんなことで怒るなら近づかないし、信じたくもない、と勝手に歩みたがることもありえます。それは、神が創造主であることと、神の清さの前には、罪人なる人間は出られないことを知っていないからなのです。

 エジプトでの過ぎ越しの日、「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」(出12・13)と言われたように、犠牲の血が流されているのを見て、裁きの主はその家を通り過ぎたのです。

 第3に、贖いは、身代わりの原理をも意味します。イザヤ書53章には、救い主が私たちの罪の身代わりになって殺されることが預言されています。私たちは、どのような状態から贖いだされたのでしょうか。

 それは罪の奴隷です。「自分は罪の奴隷ではない。自由に生きている。」と言われる方もいるでしょう。でも聖書に、「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。」(ローマ6・20)とあるように、自由に見えても快楽と欲情の奴隷なのです。現代日本は、欲望の嵐の中にいるようです。巷には性的衝動を煽るものが溢れ、人々は娯楽やレジャーに心を注ぎ込んでいます。特に、金銭的な欲求はすごいものがあります。これらの嵐というか、濁流というか、そういう中に私たちはいきているのです。そこから開放されたいと思う人はごくわずかでしょう。

 ヨハネ福音書十二章に、マリヤが高価なナルドの香油300グラムをイエス様に注いだ記事があります。死んでしまった兄をよみがえらせてもらったマリヤは、イエス様への感謝の思いで一杯でした。さらに、イエス様を心から愛する故に、イエス様の話を真剣に受け留めていました。イエス様が死なれるということを彼女だけは真に受けていたのです。そして、多くの人がイエス様を殺そうとしているということにも心から心配していました。

 そういう思いの中で、自らの結婚の準備に蓄えていた香油(現在では約300万円)をイエス様の足に注いで、自らの長い髪の毛でぬぐったのです。なんという驚くべき光景でしょう。それは、イエス様ご自身が説明されたように、葬りの準備の儀式でもあったのです。

 「愛するイエス様が、私たちの罪の身代わりとして死なれる。」マリヤはそれを悟ったのではないでしょうか。そして、その気持ちをくまれたイエス様は、これから起ころうとする大きな苦しみと痛みを前にして、慰められたことでしょう。

 救いの大きな条件は、イエス・キリストの十字架を自らの罪のためであると受け留めることです。教理的な理解や原則的な救いの知識の理解では、魂の救いはありません。

 「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12・25)とありますが、この世に呑まれ、罪の奴隷となっている自らを恥じ、そこからの救いを求める者のみが、十字架の意義を自らの救いのためとして受け入れるのです。そこに神の計り知れない知恵があるのです。

新改訳 Tコリ1:21-23

1:21
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
1:22
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
新改訳 ヨハ 12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2
人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4
ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。 12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6
しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
12:7
イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
ヨハ 12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
12:25
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
12:26
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。


3月27日 復活のイエスとの出会い。 ヨハネ201931

新改訳 ヨハ
20:19
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
20:26
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
20:30
この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
20:31
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。