10月3日 試練への対応の仕方。 創世記12520

新改訳 創 12:5-20
 12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。
12:6
アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7
そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
12:8
彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。
12:9
それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。
12:10
さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
12:11
彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
12:12
エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。
12:13
どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」12:14 アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。
12:15
パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。
12:16
パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
12:17
しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。
12:18
そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。

 アブラハムは、まだアブラムという名でしたが、主に従って見知らぬ地に旅立ちました。親のいないロトも、子供のいないアブラムのようについて行きます。

私たちは、親族の扱いに苦慮します。でも、信仰に反対したり、攻撃する親族に対しては、気にしないことも已むを得ないでしょう。アブラムも父や親族のいるカランには帰っていません。イエス様は、家族を気にして信仰生活に躊躇する人に対して「「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8・22)という激しい指導をしています。

信仰生活というものは、あまり家族や生活のことを考えすぎると、うまくいきません。日本人は、妥協と曖昧さを重視し、いざと言うときにどのようにも対処できるように誤魔化すことが特徴ですが、唯一神、絶対神の世界は是か非か、黒か白か、敵か味方か、の旗印を明確にすることが要求されます。しばしば、「日本的キリスト教」と言われ、聖書的ではない日本人クリスチャンが指摘されます。戦時中、政府の指導に妥協し、天皇神格化と神社参拝を是認したキリスト教指導者の姿勢は、多くの信者にも見られます。神を信じようとするとき、同時に多くの人々に気に入られようとする気持ちは捨てなければならないのです。

カナンに入ると、主が現われ、「この地を与える」と約束してくださいましたが、それは「あなたの子孫に」であって、「あなたに」ではありませんでした。アブラムはカナン中を流浪しました。た。そのようなとき、カナンに激しい飢饉があり、アブラムは、その率いる家族、郎党、家畜のためにエジプトに避難することにしました。

 「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(ヘブル 10:36)と、あるように、神の祝福を得るためには、試練が必ずあり、その試練によって、私たちの罪深さが現われ失敗をし、悔い改めて信仰が強化され、そのようにして祝福の道が始まるわけです。ところが、多くの人が、この試練に耐えられないで、逃げたり、失望したり、罪を犯したりするのです。アブラムも、「この地を与える」と主が言われたのに、飢饉があると逃げ出してしまうような初期の状態に私たちも、ホッとすることもあります。

  アブラムは、更に、その非難したエジプトで、自分の妻サライを妹と誤魔化してエジプトの王の宮廷に召し入れさせてしまうのです。罪を犯すと、更に多くの罪を犯して逃げようがなくなってしまうのです。

  それでも、神はアブラムを特別扱いして、守り、却って、そのような経緯で富を増やすこととなってしまいます。私たちは、神の祝福や選びを、良い子や善行の故のものと勘違いしています。私たち、信仰者が罪を犯したり、失敗をしたり、信仰を弱くしたら、神は私たちを捨てるのでしょうか。多くの日本人クリスチャンは、そのような誤解をしています。神の選びとは、そんな安っぽいものではありません。

  「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ1516

  神はアブラムを選び、祝福されました。アブラムは、神の愛と導きに応え、「実を結び、実を残した」のです。無償の愛を知らないし、信じない多くの日本人クリスチャンは、せっかくの選びと祝福を、それを受けるに値しないと勝手に判断して、祝福の旅路に出発しないのです。まず、この世に決別してみることから、始められるでしょうか。


10月10日 神か富に仕えるならば。 創世記13118

13:1-18
13:1
それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。
13:2
アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。
13:3
彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。
13:4
そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。
13:5
アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
13:6
その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。
13:7
そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8
そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
13:9
全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
13:10
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11
それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12
アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
13:13
ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。
13:14
ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15
わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
13:16
わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
13:17
立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。

 
 収穫の秋ですが、私にはミレーの「落穂拾い」が印象に残ります。レビ記199.10には、収穫を隅々まで刈ってはならない、取り尽してはならない、とあります。それは貧しい者のものであるとあります。
現代社会は、効率を上げ、収益を上げるために、まさに労働者を搾取しようとしてきました。経営学で言うと、20世紀初頭に「科学的管理法」が唱えられ、「従業員は経済的報酬によって動機付けられる」とされました。その後、いろいろと研究が重ねられましたが、アメリカ経営学は利益追求が目標であり、アメリカ社会は功利主義的社会であると言われます。他方、ドイツ経営学は、労働共同体としての経営の維持が経営の目的であると考えられ、企業は資産の組織ではなく、人間の組織であると考えれています。アメリカでも、社会の安定、経済水準の高まりと共に、賃金だけでは従業員を動機付けられないとして、人間関係論や行動科学が研究されました。それでも、それは利益追求の手段としての科学であるという意識はあります。

ともあれ、私たち日本の教会、クリスチャンはアメリカのクリスチャンの影響を多く受けています。しかし、それが聖書的であるかどうか、きちんとチェックしなければなりません。日本的な、「和をもって尊しとなす」という聖徳太子が17条憲法の最初に掲げた言葉に捉われて聖書的な考え方を損なわさせるのと同様です。

つまり、経済的繁栄や社会的成功を神の祝福の現われと定義するのは聖書的ではないのです。それはそれぞれの能力の反映であって、敬虔なクリスチャンが社会的成功を収めることもあるし、悪辣な人が成功する場合もあるのです。成功しようとしまいと、それはこの世の結果であて、大事なことは、神の国の基準に生きることです。その大きな基準の一つが、働きすぎない、搾取しない、持っている物、得た物を必ず他の人にもおすそ分けするという生き方です。

アブラムは、結局、大きな罪を犯した後、主の祭壇の場所に戻ってきました。人は皆、失敗を犯しますが、大事なことは悔い改めて、過ちを繰り返さないように心がけることです。失敗にも関わらず、アブラムの財産は増えています。ただついて来ただけのロトも多くの所有物を持つようになりました。神の人と共に歩めば祝福されます。でも、その祝福は、自らの信仰によるものではありません。アブラムの従者とロトの従者の間で争いが起こるようになりました。敬虔なアブラムに従う者にとって、欲に目のくらんだロトの下にいる牧者たちの行状に腹が立たないわけがありません。そんな中で、アブラムは、家長でありながら、ロトに選択権を与えて肥沃な低地と荒れた山地のどちらかに分かれることを提案しました。

  「神が万事を益としてくださる」(ローマ8・28)は、神を愛し、従う人に対してであって、アブラムのエジプトにおける失敗は、神に委ねて生き、この世の利益を貪らない決断をするように成長させたのです。

  ロトは、頭の計算で自分の財産を増やそうとし、また安逸な生活を求めたのです。でも結局は、俗悪な町、ソドムに住み、従者もバラバラになり、家庭も崩壊するのです。

  「狭き門から入りなさい。」(マタイ7・13)とイエス様は言われました。滅びに至る門は大きい、とありますが、クリスチャンは、いつも意識して、自分の利益ではなく、他の人の利益になるような生き方を心がけなければなりません。私自身は、経済的な収入の10分の一を神様に返すだけではなく、与えられた物はなるべく、他の人に回すように注意しています。当然、自分の時間、能力、趣味も、自分の為にだけ使うことはいけないと自制しています。教団への奉仕、神学校の授業、教会の奉仕(殆ど無給ですし、それ以上献げています。)、クリニックの仕事、家庭での作業、友人たちとの交流・・・、自分への報いがなるべく来ないように心がけます。

  目を上げて、自分のいるところから、全地を見渡し、その地を歩き回ってみてください。あなたが、人に祝福を与えたところは、確かに、あなたの祝福の証となっているでしょう。神と共に生きることを悟るならば、目立ちたくもない、高ぶってはならない、誘惑や欲に注意しなければならない。謙遜な人生には、主がいつもついていてくださいます。



10月17日 あなたが元気になることが私の喜びです。 
           イザヤ5316節 使徒の働き3章1〜10節

説教;角田誠師
新改訳 イザ 53:1-6

53:1
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。

53:2
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

53:3
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

53:4
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

53:5
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

53:6
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。


新改訳 使 3:1-10

3:1
ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。

3:2
すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。

3:3
彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。

3:4
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。

3:5
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。

3:6
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、

3:7
彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、

3:8
おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

3:9
人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。

3:10
そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

10月24日 戦いへの組織化と動員。 創世記13章1〜10節

新改訳 創 14:8-17
14:8
そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。

14:9
エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。  

14:10
シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。
14:11
そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。
14:12
彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。
14:13
ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。  14:14 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。

14:15
夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。
14:16
そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。
14:17
こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。

 日本上陸の台風が十という新記録を出しました。また昨日は新潟に大地震がありました。今後、関東にも地震があるでしょう。マタイ24章にあるように、飢饉、地震、戦争、偽預言者、不法、愛の欠如などが起こってきます。私たちは、それに備えなければなりません。そして、クリスチャンは非難しあうことなく、助け合わなければならないのです。

 アメリカの大統領選が行なわれようとしていますが、印象的なことは、多くのクリスチャンがブッシュ大統領の弱さや過ちを認めていますが、「誰にもミスはあるから」という理由で、信仰を告白するブッシュを支援し続けていることです。この判断は非常に大事です。日本では、「失敗をしてはならない。」と社会と人々が互いに牽制しあい、ミスを赦さないのですが、実際には必ずミスがあるので、言い訳を探すのです。そして、その言い訳が的を得ていた場合には、ミスを赦すのです。ところが、欧米では、人がミスを犯す、罪を犯すことは、常に在りうる、という立場を取るのです。そこで、大事なことは、自分の過ちを認め、素直に謝り、ペナルティーを受けるということです。このペナルティーも日本では、情状酌量があるようです。

 さて、神学校の授業では、管理を教えています。資産を形成するのは、資本か負債によります。トヨタは無借金経営ですから、七兆円もの資本を備えていますが、ダイエーは1千億円の資本に1兆円の負債を抱えて倒産しようとしています。つまり、資産が負債によって形成されていたら、経営は成り立たないのです。同様に、私たちも負債を抱えていては、行動も成り立ちません。信仰者としての負債とは何でしょうか。

1. 神への罪。(神)

2. 自ら犯した他の人々への過失、与えた負担。(他の人)

3. 自分の悪い習慣、悪い性格、感情的な言動。(自分)

4. 以上からくる自らへの低い自己評価。(存在)

 これらの負債を抱えたままでは健全な信仰生活を行なうことはできません。「自分は、こういう人間なんだ。」と、悪い生活を個性として、変えようとしないのでは、人生に破綻がきます。最近、血液型分析が流行して、ダイエット法にまで、その違いを説明しています。しかし、とても科学的とは言えない論理です。自らの欠点を、昔は星座のせいにして、最近は血液型のせいにし、責任をとらないのです。

  負債は、その相手が経営に加わると、突然、資本に変わります。しかし、経営を自分のものと主張し続けると、負債は利子も元本も返せなくなり、倒産します。自分の弱さも欠点も過失も全て、主に主導権を明け渡すのです。そうすると、それらが負債ではなく、資本に変わるのです。そうなると、私たちには資産を拘束されないで用いることができます。「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(Tペテロ4・10)

  五人の王たちが協力しても勝てなかったケドルラオメルを、アブラハムは318人の部下と一緒に戦って破ってしまいました。それは、彼らがアブラハムに忠実であり、献身して互いに助け合っていたからです。山地の困難な生活を生きるには、互いの能力を出し合い助け合わなければなりません。そして、命がけで生きなければなりません。更に、彼らには信仰があったのです。

  聖研でTコリント12章より、御霊の賜物、奉仕の賜物、働きの賜物が教会の中でそれぞれ発揮され、キリストの身体の器官の一つとして互いに機能しあって教会を形成することが説明されました。

1. 自分の罪深さ、弱さを個性として正当化しない。(負債を認める。)

2. 自分の主導権を神に明け渡す。(負債の資本化)

3. 自分の賜物を見出し活用する。(資産の自由な利用)

4. 教会の中で賜物を発揮しあい、協力する。(経営統合)

5. 困難に立ち向かい、目的に向かって進む。(危機の克服と勝利)

 アブラハムは自分の失敗を踏まえ、コツコツと僕たちを訓練してきました。皆さんに、注意しておくことは、遠慮なく、教会に助けを請うべきである、ということです。信仰者こそ、教会にのみ勝利があることを知っているのです。


10月31日 誰に祝福を受けるべきか。 創世記141724

新改訳 創 14:17-24

14:17
こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。

14:18
また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。

14:19
彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。

14:20
あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。

14:21
ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」

14:22
しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。

14:23
糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。

14:24
ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」


 人生うまくいく時とうまくいかない時があります。うまくいかない時は、自分を反省し、吟味し、いろいろと考えます。失敗や失望は信仰者の糧のようなものです。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71

  ところが、試練の中にあっても、反省せず、自分を吟味しない人もいます。こういう人は、少しずつ自分を破滅させていきます。しばらく前に積極的思考というものが流行りました。何事も積極的に考えようというもので、これを聖書信仰と結び付けようとする人々が多かったのも事実で、R・シューラー牧師やノーマン・ビンセント・ピール牧師が著名で多くの本を出し日本でも出版されました。このような考え方は大事で、成功する人は皆、積極的な考え方をします。しかし、聖書以上に、聖霊の導き以上に、ある考え方を重要視してはなりません。例えば、試練の意味を知ろうとすることは、自らを服従ではなく神と同等の位置まで置こうとする考え方です。自分を中心として世界が回っていると考えてはならないのです。大事なことは、うまくいこうといくまいと、神を信頼し、神の御旨の中を生きることなのです。

  実際には、多くの人が、うまくいった後に失敗し、誘惑に負けるようです。自分の力・能力で勝利し成功したとうぬぼれて、自制心をなくしてしまうのです。アブラハムがケドラオメルを打ち破って帰ってきた時、迎えたのはソドムの王でした。ソドムは快楽に溺れた堕落した町であり、その王から「財産を取ってください。」と言われたアブラハムは、「糸一本でもあなたからは取らない。」とはっきりと否んでいます。

  クリスチャンは、ギャンブルから富を得てはなりません。不正な利得もだめです。先週語ったように、自分の資産は固有の能力・賜物なのです。あなたの負い目、弱さ、過去の失敗や罪過である負債は、速やかに返済して資本を蓄積しなければなりません。

 ブラハムは戦利品の十分の一をメルキゼテクに献げました。給料、収入、利得の十分の一を神に献げ、更にその他、献げたり他の人に分け与えることは重要です。消費することによって経済が活性化するように、信仰の働きは、神に献げることによって活性化するのです。教会や個人が、「自分は神の働きをしているのだから」として、献げる対象を持たなければ、それは自己中心の典型的な罪なのです。

  メルキゼテクは、イエス・キリストの型であるとヘブル書で説明されますが、パンとぶどう酒を持ってきたのですから、まさに聖餐式の型でもあります。ともかく、アブラハムは、「自分の戦利品を全て自分の所有にしてはならない」という、神の法則を律法を与えられる前から、信仰によって理解していたのです。

  伝道者になる神学生を生み出したり、他の教会に信徒を成長させて送り出す地方の教会などは、神の祝福を得ます。それは、自分には利益がないからです。什一献金の出来ない信者は、信仰を自分中心に考えているからです。損得を考える人は、献金などできるものではありません。

  自分の働きや自分のためにしか、祈っていない人も同様です。自分の為に祈りなど、一度祈ったら十分です。後は神に委ねるべきで、「祝福してください、祝福してください。」と熱心に祈るのは、御利益を求める偶像礼拝者と同じです。

  「この人が救われたら自分にとって都合が良い。」という状況で、何の自己犠牲もなく伝道しても、実りはありません。一生懸命働いても実りがない人は、自分の為に働いているからです。仕えるということは、利益目的ではないのです。信者でも、牧師でも、損得で行動する人が多いように思われます。そのような人は、自分に実りがない理由に気が付かず、反省をしないのです。そして、「クリスチャン生涯というのは、辛いものだ。」などと、神の祝福を否定するのです。神に祝福を受けるため、自分とは利害のない人に仕え施すことが大事です。


11月7日 それでも主を信じる。 創世記1517

新改訳 創 15:1-7

15:1
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」

15:2
そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」

15:3
さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。

15:4
すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」

15:5
そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

15:6
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

15:7
また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」


 「これらの出来事の後」とは、甥のロトと別れ、後継者無しに山地に暮らすようになり、命がけで強大な王と戦って勝ち、もはや向かうところ敵なしとなった孤独な信仰者アブラハムの心情を窺わせる表現です。長い人生の果てに、人の心の罪深さ・欲望の強さ・自己中心性などを見てきたアブラハムは、跡継ぎのない孤高の偉人として、自分の信仰を語る者も遺産を継承する者もない虚しさを感じていたのではないでしょうか。

  「アブラハムよ恐れるな。あなたの受ける報いは非常に大きい。」と神に直接に語られても、「それが一体なんになるのか」、と疑問を覚えてしまうほどに疲れを覚えていました。現実的には、もはや子孫を残す可能性はないのです。先々週、自分の人生が負債によって拘束されていることがあることをお話しました。

1. 神への罪。(神)

2. 自ら犯した他の人々への過失、与えた負担。(他の人)

3. 自分の悪い習慣、悪い性格、感情的な言動。(自分)

4. 以上からくる自らへの低い自己評価。(存在)

このような負の自己意識の中では、人間は前進することはできません。年老いたアブラハムは、信仰を持ち真実を知ったからこそ、自らの人生の多くの過ちに気が付くものでした。

「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」(コロサイ4・5,6)

チャンスというのは、逃してしまうと取り戻すことはできません。この会堂の購入は、猶予のない一日だけのチャンスでした。我が家の購入も、クリニックの移転も、千葉への移転も、結婚の経緯もみなそうです。悔いることは、息子の火傷の処置法が間違っていたのではないか、自分が傲慢で人を傷つける言葉を多く言ってしまったというこうことなどです。言葉の失敗によって、成すべき行動を果たさなかったので人を信仰から離してしまったかという負い目もあります。自分の負債は、全てイエス様に買い取ってもらうことが必要です。自分というものを、神に明け渡さなければ、言い訳や弁解、自己義で負い目を隠すしかありません。

  聖書の福音とは、救いを伝えることです。救いは「義認」から始まります。義認とは、全き許し、正しい者とされるということです。義認のために必要なことは、

@ 悔い改め    自分が自己中心な罪人であり神との正しい関係にないことを認め、それを悔い、方向転換して正しい方向に歩むことを決心する。

A 信仰      キリストを神の子であり、自らを救ってくださるかたであることを信じ、この方を信頼して人生を送っていくこと。

 アブラハムは、神を信じ、信頼して生きれば間違いはない、という確信を持ったのです。これを信仰と言い、神の応答を義認というのです。

  神からの義認を得た信仰者は、新生を体験するのです。そして、それは、聖化(神への献身)へと進むのです。

  ところが、実際には、多くの信仰者が現実生活で、神を信頼して生きるということを、実践できないのです。それは、イエス様に買い取ってもらわないで隠していた負債が、あなたを脅かすからです。「こんな自分は幸せにはなれない」などと考えていたら、あなたは未だに負債を抱えているのです。或いは、負債に慣れてしまって、負債ではなく、個性であると考え間違いをしている場合もあります。

  神を信じる、とは祝福を信じることです。祝福を信じるとは、現実生活の中で打算を捨てるということです。打算をしてしまったアブラハムは、後で大変な失敗をするのです。しかし、この時は、ともかく信じています。皆さんは、打算を捨てて神を信じるでしょうか。


11月14日 神との契約。 創世記15821

新改訳 創 15:8-21
15:8
彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」  
15:9
すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」  
15:10
彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。  
15:11
猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。  
15:12
日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。
15:13
そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
15:14
しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。  
15:15
あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。  
15:16
そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」  
15:17
さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。
15:18
その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。 
15:19
ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、 
15:20
ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、
15:21
エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」

 13章にも語られたように、神はカナン全土を永久にアブラハムの子孫に与えると約束されました。この実に4千年前の一人の信仰者への預言が世界史を動かし、今もなお、この預言によって世界が動いているのです。パレスチナ解放機構(PLO)とパレスチナ自治政府の議長を兼務してきたアラファト氏の死去が大きく取り上げられていますが、このことの経緯を知る日本人は少ないでしょう。

パレスチナ【Palestinaラテン】 【広辞苑第五版】
[
西アジアの地中海南東岸の地方。カナンとも称し、聖書に見える  物語の舞台。第一次大戦後、オスマン帝国からイギリス委任統治領。以後、シオニズムによるユダヤ移民が進展。1948年イスラエル独立とともにイスラエルとヨルダンとに分割されたが、67年イスラエルはヨルダン川西岸地域とガザ地区を占領。パレスチナ人による国家建設運動も盛ん。]

最初のカナン制服は、孫のヤコブの子等がエジプトに逃れ、結局奴隷とされて400年間苦しんだ後、エジプトに対する神の裁きの奇跡によって財産を与えられて出て、モーセによって実現する。モーセは確かにレビ、ケハテ、アムラムと続いた4代目です(出エジ620)。

ここで、カナン制服は平和なカナン人への突然の略奪と考える人がいるようですが、これは彼らの咎が限界を超えたときであることが示されています(創1516)。つまり、聖書の示す歴史神学は、このように超長期的な視野なのです。

アブラハムの子孫を自認するイスラエル人と国家にとって、「永久にカナン全土を与える」と約束された神の言葉を実現することは正当なことなのです。エルサレムはイエス様が預言されたように紀元70年ローマ軍によって110万人が殺され廃墟となりました。その後、ユダヤ人は流浪の民となり、歴史的に大殺戮の犠牲となり続けました。135年には、エルサレムを命がけで奪還したユダヤ人50万人が殺戮されました。しかし、そんな中で、世界で最も純粋な古くから続く民族として孤立を守り、民族性と信仰を保ち続けてきたのです。そして、ユダヤ人は迫害されながら、商業を営み、世界の富を支配する力を何百年も掛けて築き上げてきたのです。それが、ナチスによって再び迫害され、カナンに帰るシオニズム運動を高揚させ、ついに1948年国家を成立させました。他方、1900年間もカナン地方に定住した人々は、突然自分たちの土地を略奪されたのです。それがPLOとしてテロ活動を続け、イスラエル追い出しをもくろんだのです。

  簡単に、神の祝福を求める人々がいますが、神の祝福とはこのような信仰の試練・人生の苦難を乗り越えて獲得するものです。「それならば祝福はいらない。神も信じないで自分勝手に生きる。」という人も多いようですが、結局、人生とは問題が常に起こるものなのです。それは人間が罪人だからであり、「その心に計ることがみな悪いことだけに傾く」(創6・5)からです。ですから、神を信じても試練、神を信じなければ、暗黒、というのが現実です。

  救い、とはこの悩み多き世界から、私たちの魂を救い出すことです。私たちは思い通りにいかない人生に悩み、腹立ち、苦しみます。神を信じる、信頼して救われる、とは、神に全てを投げ出し委ねるということです。先週、義認について以下のことが必要だと語りました。

@ 悔い改め    自分が自己中心な罪人であり神との正しい関係にないことを認め、それを悔い、方向転換して正しい方向に歩むことを決心する。

A 信仰      キリストを神の子であり、自らを救ってくださるかたであることを信じ、この方を信頼して人生を送っていくこと。

 アブラハムは、神との契約に際して、成長した牝牛・雌ヤギ・雄羊を真二つにして、それを向かい合わせにしました。それは、契約を破った場合には、そのようになってもよいという古代の儀式だそうです。だから、こそひどい恐れがアブラハムを襲ったのでしょう。私たちは、どんなことがあっても神を信頼して歩むという誓いを強く持っていきましょう。安易な打算的信仰は、誘惑にあうと必ず敗北します。


11月21日 この世の知恵と神の知恵。 創世記1616

新改訳 創 16:1-6

16:1
アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。

16:2
サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。

16:3
アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。

16:4
彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。

16:5
そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」

16:6
アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

 先週は一人の信仰者の神との契約が歴史を動かし、現在も続いていることを説明しました。今週の出来事も、イスラエル民族とアラブ民族の闘争として現在に至るまで続いています。それは、妻であるエバの誘惑に負けた行動に起因する罪の問題と同様に、妻であるサラの忍耐のなさと神への従順のなさが原因です。その時、夫は、「あなたの好きなようにしなさい。」という言葉で責任を逃げています。

 自分の罪、自分の責任を自覚しない人は、サラのように自らの提案でありながら「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。」(5)というように、他人に責任を転嫁します。エバもアダムも、アブラハムも同様で、人を指導できないのは、責任を感じてないからです。子ども達にも妻にも、そして部下にも「自分のすきなようにしなさい。」というのは、逃げなのです。彼らから反発されるからといって、指導しないのでは、指導者としての責任が問われ、また祝福ある人生は生きられないのです。

 アブラハムとサラは、子供が与えられるという神からの約束を得ていましたが、既に八五歳にもなり、カナンに住んでから一〇年が経っていました。彼らは神の約束を信じていましたが、それを人間の知恵と方法で実現しようと思ってしまったのです。私は祝福を得られない方法を見出しました。それは以下のとおりです。

1. 神が自分を祝福してくださると信じない。

2. 信じても、忍耐したり、待ったりすることが出来ない。

3. 試練や誘惑があると、直ぐにこの世の知恵や常識で対応する。

4. それらについて言い訳をする。不信仰に言い訳はない。

 ハガルは、アブラハムがエジプトで嘘をついたとき、パロから与えられた奴隷で、「逃げる」という意味の名前です。当時の慣習では、側室として女奴隷が主人の子供を産んだ場合、その子は女主人の子となり、女奴隷は自由になったようです。サラは、自分の老齢を考え、自分が子供を産むことを諦め、アブラハムもまた、そのような行動を神の許容と見たのです。「神は愛」だから、という理由で、罪を犯しても何をしても赦されると、誤解している人が多くいます。この世で犯した罪は、この世で罪の報いを受け、試練や困難に出くわすのです。神の前に罪を悔い改め、信じ救われるとは、そのような出来事を罪の結果として甘んじて受け、それでも神を信じ、謙遜に歩むことを意味しているのです。ですから、信仰者は、艱難に遭った時に、戸惑ったり逃げたりせずに、あわてることなく対処し、真に悔い改めた者に対して、神は必ず守ってくださると信じなければならないのです。

 このような自分の人生と日々についての洞察、悔い改め、覚悟がなければ、成熟したクリスチャンになることはできません。祝福だけを願い、忍耐が出来ず、自分の知恵や努力をもって、願いを実現しようとしてはならないのです。「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」(箴言1921

 そういう面で、思い通りにいかない、ということは信仰者にとっては大事なことなのです。それで、その人の信仰の真実が現れるのです。人生が思い通りにいくならば、それは他の人を犠牲にしてることに気が付かないからであって、決して神が祝福していることではないのです。先日、「月5万円だけで暮らしている。何の不自由もない。」という牧師がいました。実際には、その妻子の忍耐と従順があり、他の人の援助と理解があるからできるのであって、それに気が付かないで神の祝福と自慢しているのは、おかしいと言いました。最初、腹が立っていたようですが、再度指摘すると素直に認めてくれました。

 他の人が自分の思い通りにいかないから、自分の人生が願ったようにならないから、祈りがあるのです。そして、深い祈りは、自らの傲慢と罪を認識させ、謙遜へと私たちを導くのです。その謙遜は、神からの祝福を得る大事な鍵となります。

 「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」ヤコブ112


11月28日 どこから来てどこへ行くのか。 創世記16716

新改訳 創16:7 主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、

16:8
「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」

16:9
そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」

16:10
また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」

16:11
さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。

16:12
彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」

16:13
そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。

16:14
それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。

16:15
ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。

16:16
ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。

 「主の使い」という言葉が初めて使われています。目に見える姿で現れるようになったのは、姿がないと神の語りかけを聞けなくなっている人間の実情でもあります。そして、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねています。分かっていることをどうして聞くのでしょうか。

1. どこから

奴隷であったが、主人に対して高慢に振る舞い、その結果虐げられて逃げてきた、と言う現実を語らなければなりません。

2. どこへ

どこへもいくことはできない。ただ、「私の女主人サライのところから逃げているところです。」ともかく嫌になってしまったのです。

 御使いは「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」と語ります。ここは、ある訳では「女主人の虐待に身を任せなさい。」と訳されています。困難があるからといって逃げていては、人生は始まりません。高齢になるということは、人生の苦難を敢えて受入れじっと我慢して生きていくということに他なりません。信仰者は、その中で神に身を委ね、神に希望と信仰を置くのです。

 多くの人が、私のことを変わったと言います。本当に性格がガラッと変わってきました。生まれながらの自分の性格はどんなものなのか、よくわかりません。小さい時は、末っ子の甘えん坊で神経質、短気で内気、運痴で音痴でした。十代は努力型で理想に燃え、真理に飢えていました。学生時代はリーダーで自分の人生を切り開くタイプでした。信仰者になってからは、まじめで信仰熱心で優秀な学生でした。牧師になることを決意してからは、試練と戦いばかりで、頑張り屋で向こう見ずな人間になり、信念に燃えたようです。献身は、これまでいつも評判が良かったので人に嫌われたくないという意識があったのを、根底から変えるほど多くの人の攻撃にさらされるものとなりました。私は、試練と恥の中に身を置く、ということが耐えられませんでした。それで頑固で自分勝手な

人間になったようです。牧師になってから、却って性格が悪くなったのです。それは、自分の環境を受け入れられなかったからです。

 何度か死に掛けて、やっと神の手に自分を委ねることを学びました。「神の虐待に身を任せる。」と御霊の実としての性格を身につけます。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5・22、23)。牧師としては決して成功した人間ではありません。未だに試練と苦難ばっかりです。でも、自分の変化に感動しております。それでも大したことない、と言われれば、それまでですが。

 ガラテヤ4章に、ハガルは肉にある子を産んだと記されます。確かに、「彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」というように、肉にある人間は自分勝手で、全ての人を思い通りにしようとします。

 「御霊による子」とは、天国を望んだ自由の子であると4・26にあります。それは「子を産まない不妊の女で、夫に捨てられた女の子」とありますが、どういうことでしょう。それは、この世の可能性を諦めたということです。虐待と試練に身を委ねながら、神を信じる自由を得たということです。なぜ、あなたは、愚痴をいうのですか。不平をいうのですか。それは、神を信じていないで、目に見えることに捉われているからです。

 神は「エル・ロイ」あなたを見ておられる神なのです。そして、嘆き悲しむあなたが見ることの出来る神なのです。神が見ておられることを忘れ、自分勝手に人生を進めてはなりません。あなたは、自分の環境から逃げてもどこへもいくことはできません。まず、自分の試練の状況を受け入れ、それを信仰による自由によって乗り越えてください。不平、不満、逃げること、変わることだけを考えていたら、あなたは環境の変わったところでも同じことを続けるでしょう。「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」ガラテヤ419


12月5日 ひとりの男の子を与えよう。 創世記17121

17:1
アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」17:3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。

17:4
「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。17:6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。17:8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」17:9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。

17:10
次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。17:11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。17:12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。17:13 あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがた

 アブラハムの年齢99歳が強調されます。「わたしは全能の神である。」という神の自己宣言に対して、人間は素直に反応しません。魂を救われたクリスチャンであっても、この世に生きるしがらみの中で擦れており、「神の前を歩み、完全に神を信頼する。」ということができなくなっております。そのようなアブラハムとその子孫に対して神は、祝福の契約を立てます。そのための条件は、男性性器の包皮を切り取るという割礼の儀式でした。

 心の無割礼が「理解ない心」を意味し(エレミヤ9・26)、耳の無割礼が「聞かない耳」(エレミヤ6・10)、割礼なきくちびるが「口下手」(出エジ6・12、30)を意味するように、性器の割礼は、性欲を自制し、いのちを神に委ねることを意味すると思われます。神を信じない人々の性道徳の退廃は、異常なものとなり、その人を堕落させ、社会を崩壊するものとなります。ここで無割礼の者は、イスラエル民族から除外されるということは、彼らの存在理由である「神に仕える民族」という意義を否定した者という意味で生きる意味を持たないとされるのです。

 最近のキリスト教は倫理宗教になってしまい、品性や道徳、そして信仰というものが強調されていますが、それらは皆、個人的なものです。しかし、信仰の父と呼ばれるアブラハムに対する神の要求からは、道徳や品性というものよりもむしろ、「絶対神への忠誠」、「神の存在と栄光を伝える使命をもった民族としてのアイデンティティの自覚」といったものが明らかになります。個人の力と意識が強くなった現代では、宗教の存在理由が、損か得か、意義があるかないか、などの個人的相対的尺度によって測られるようになりました。このような時代においては、「献身」、「無私の精神」、「神への絶対的信頼」というよりは、打算、効果、御利益、奇跡、天国、などが重要な宗教的尺度になっています。

 そこにおいて、常識を覆す神の顕現が起こります。「100歳の父、90歳の母に子供がうまれようか。」・・・・。生まれるのです。「処女から子供が生まれようか」・・・・。生まれたのです。まずは、老齢で子供のないザカリヤとエリザベツからヨハネが生まれます。次に、乙女マリヤが聖霊によって神の子を産みます。これは科学的に説明すれば、乙女マリヤの卵子が聖霊の感化によって命を吹き込まれ単性生殖を始めたのです。決してマリヤと父なる神が結婚したのではありません。そして、普通は人間の霊が新しく生まれるところを、子なる神がその肉体に宿ったのです。

 それでは、この神の御子イエスの人間となった使命は何でしょうか。救いの道を伝えることです。

 ここで、私達は人間的尺度で信仰を考えてはいけません。人格の向上とか、日々の歩みなどは、神の尺度で考えたら、どのような人間も50歩100歩なのです。つまり、品行方正な人も、俗悪な人も神の目から見たらどちらも罪人なのです。億万長者になろうが、貧乏であろうが、天の宝と永遠から見たら、大したことではないのです。試練や艱難が続くことも、安逸を貪り放蕩三昧に過ごすことも、或いは幸せに過ごすことも、永遠から比べたらほんの一時なのです。

 大事なことは、神を信じ、神に仕えることなのです。

 牧師になり、伝道者になることはすばらしいことです。しかし、そうしたからといって、神に仕えているとは限らないのです。当然、教会の役員をやっても長い信仰生活をもっても、神を信頼し、神と共に歩んでいるとは限らないのです。

 心に割礼を受けることが大事なのです。心の中にいつも、神を意識し、自らを神の子、神のしもべとして意識することが必要です。そして、それは、あなたが人を愛しているか、どうかによって識別することが出来ます(ガラテヤ5・6)。神の教えは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。信仰を持っていると言いながら、争っているのならば、あなたは神の子ではないのです。人格や品性は、神の子としての結果なのです。信仰によってしか、御霊の子は生まれないのです。あなたもまた、御霊の人として新しく生まれましょう。


12月12日 神には不可能はない。 創世記18119

新改訳 創 18:1-19   

18:9
彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。
18:10
するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。
18:11
アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
18:12
それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
18:13
そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。
18:14
主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
18:15
サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」
18:16
その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。
18:17
主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。
18:18
アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。
18:19
わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」


 暑い日中にボーとなっているアブラハムの前に3人の主の使いが人の姿をとって現れました。アブラハムは、びっくりしながらも、その高貴な姿に対して直ぐに礼を尽くした接待をします。その一人は、受肉以前の主イエスの仮の姿という解説者もいます。復活された主イエスに対して気が付かずに対応していた主の弟子もいた(ルカ24・31)のですから、アブラハムの謙遜な対応は、信仰の故に苦労して老いてきた彼のうちに実った品性のなす業でしょう。

  この老夫婦に主は、男の子が生まれることを約束します。サラは、90歳になっていますから、自らありえないと、天幕の陰で聞いて笑ってしまいます。しかし、「主に不可能なことがあろうか。」と笑ったことをとがめられます。

 この事件と同じことが、2000年後のナザレの町でも起こります。マリヤはダビデの子孫で、年老いた叔父夫婦の懐妊に驚き、神の介入に感動していました。既にヨセフと婚約してたマリヤに、突然天使が現れ、男の子を生むことを告げられます。マリヤは、まだ「どうしてそのようなことに成りえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と応えますが、「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1・37)の言葉に直ぐ反応し、「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と応えています。

  マリヤの応答は、なぜ、このように速やかにされたのでしょうか。

1. アブラハムとサラの信仰の歴史を知っていたし、それを真実と信じていた。

2. エリザベツの懐妊を知り、神の歴史への介入が始まっているのを感じていた。

3. 国と時代を憂えていた。

4. 信仰深く、敬虔に日々を歩んでいた。

5. 試練や苦難を覚悟する勇気と信仰があった。

 多くの人は、信仰が実を結んでいません。それは神を本気で信じていないからです。新聞でアメリカ人の70%以上がイエス・キリストの処女降誕を信じ、クリスチャンの89%が同様であると報告され、それを日本の牧師に聞いたところ日本ではそういう奇跡を信じたり、教える土壌がないと答えたというので、驚くやらがっかりするやらです。アメリカでも、1950年くらいまでは、日本と同じようだったようです。しかし、今や聖書をそのまま信じる福音派が主流を占めまた勢いをつけて、進化論教育を否定し、創造論との並列教育が取り入れられていると報告されていました。

 あなたは、主イエスが処女マリヤから生まれたと本気で信じていますか。神が天地を創造されたと本気で信じていますか。どのような歴史的、科学的資料があろうと、それは神の創造を否定するものではありません。神の業は完全ですから、歴史的経過を創造の業の中に含むことは当然です。宇宙や地学を学んでも、それは神の創造の業の完全さに感動する多くの科学者がいるのです。

 「神には不可能なことはありません。」もんどが生まれた時の奇跡、私の数度の癒し、数限りなく私は信仰体験をしています。主勢の非行の時の体験を証に本を書いてくれと言われました。本人も承諾していますが、数多くの奇跡がありました。でも、非難や批判、艱難、苦労、死や破産の覚悟、そして毎日の涙の祈りがありました。神に向かって叫び、自分はどうなっても良いから、息子を救い出してくれと願い続けました。かなえられ祝福を受けている今、いつでも命を神に委ねる覚悟はしております。でも、その覚悟の中で後任の牧師が来ても教会財政が支えられるようにと計り、家賃の安い部屋を借りたら資金が蓄積され、このような会堂をあたえられています。追い出されたクリニックが今の場所を得て繁栄しています。

 試練を覚悟しなくて、神を信じたことにはなりません。命も名誉も財産も神に委ねたら、神が私たちを通じて、何でもしてくださることでしょう。永遠のいのちを信じましょう。


12月26日 すべてが新しくなった。 Uコリント5章1318

新改訳 Uコリ5:13-18

5:13
もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

5:14
というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

5:15
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

5:16
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

5:17
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

5:18
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

 パウロたちは「気が狂っている」と思われるほど、信仰に生きていました。日本社会では、信仰はほどほどにと言われます。熱狂的な信仰は異常であり人に迷惑をかけると嫌われます。事実、熱心な宗教者というのは、日本では奇人変人が多いように思われます。その中で熱心なクリスチャンは敬虔な人と言われ、尊敬されてきたことが多いようです。カレーショップアンデレが、TBSラジオの毒蝮三太夫の番組に出たとき、「敬虔なクリスチャンである店長の柏崎昭二さん」と紹介されました。仏教徒で尊敬される人は、瀬戸内寂聴さんのような尼さんとか坊さんが多いようです。

 「正気である」とは対人的にパウロが取った行動です。つまり、クリスチャンのあるべき姿は、異常なほど信仰に忠実に生きながら、常識的な生活をすることであると思われます。それでなければ、パウロのように伝道の成果が現れません。パウロは、「正気はあなた方のためだ」と言います。つまり、異常なほど信仰熱心な自分が、あなた方には理解できないだろうから、あなた方に信仰が伝わるように普通の態度で対応し説明するのだ、というのです。

 福音は伝道から始まるのですが、パウロの時代の伝道は奇跡や不思議が一杯あったので、とりわけパウロは気をつけて論理的に信者を養成しています。異常さを強調して伝道すると使徒19章16節のように、悪霊に取り付かれてしまうので、霊的信仰的な確実さや強さが大事なことがわかります。

 それでも、なぜ、クリスチャンはこんなに熱狂的な信仰になるのでしょうか。それは、皆さんご自身がわかっていると思いますが、生ける神キリストに愛されているからです。

先日、ある会合で、「これではだめだ、今の世の中はだめだ。」と否定的なことばかり力説する人がいました。周りの人は当惑して、最初は相槌を打っていたのですが、そのうちに話を変えようとします。ところが、どんな展開になっても、その人が話を引っ張ってしまい、否定的なものにします。途中で、私が良い例や体験を言うのですが、他の人も「どなたか、そういうように物事をリードしてくれる人がいるといいのですが。」と言って溜息をついています。

神の愛を体験し、神が自分を見守っていてくださることを体験(キリストの愛が私たちを取り囲むという実感)をすると、否定的なことはなくなってきます。大変な失敗、挫折、試練、それらが、神を信じて生活しているうちに、すべて益となってしまうのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ロマ 8:28

信仰生活というものは、このように大逆転のドラマです。ですから、神を信頼して生きるうちに「人間的な標準で人を知ろうとはしません。」というようになってくるのです。

そういう面で、クリスチャンは過去に囚われてはいけません。過去の失敗、挫折、試練、攻撃、非難などに思いが囚われていると、キリストに目を留めることができないのです。そういうわけで、自分の考え方や主義主張の強いことも害になります。それは、「キリストのうちに」ないからで、自分の考えのうちにあるからです。

今や2004年が終わろうとしています。年が変わるということは、なんとすばらしいことではありませんか。今年あったいやなことは忘れて、来年はやり直せばいいのです。また、今年あった良いことに囚われて、今年もそれに酔いしれてはいけません。大事なことは、過去何をやったかではなく、今、キリストと共に生きることなのです。自分に囚われる人は、自分が何をやったか、何をやられたか、に関心がいきます。自分を失った人は、社会が悪い、政治が悪い、あいつが悪い、と非難することで、自分の生き方をしていない言い訳をします。

「和解の務め」とは何でしょうか。それは、自分が犯した罪や咎によって、自分は罰せられるのではないか、という恐れを人々から取り除くことです。神が罪を許してくださることを伝えることです。そして、そのためには、私たち自身が、この世のいろいろなことに囚われないで、聖書の御言葉によって判断し生きることが必要なのです。