4月4日 いのちの息を吹き込まれた。  創世記2章4〜14節

新改訳 創 2:4-14

2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、

2:5 地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。

2:6 ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。

2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

2:8 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

2:9 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。


  ここは、天地創造のときの経緯をもう一度違う観点から説明しています。潅木とは、ここでは罪の結果として生えるになったいばらやあざみなどを意味し、野の草は人の耕作の結果としての大麦などを意味していると考えられます(ヘブル6・7,8)。また、以前に説明したように、上空の水の層の下にある大気は、常に温暖で朝などは霧が立ち上り、全地を潤していたことでしょう。

  ここから人を造ったときの詳細が説明されます。植物や動物については、神は仰せられるだけでした。でも、人間については、土地のちりで形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれたので、生きものとなったと記されます。土ではなく塵ですから、よくわかりませんが、神が手で造られたのではありません。神を擬人化する必要はありませんが、神がご自身に似るように考慮された様子が見られます。そして、神が息、つまり霊を人間に吹き込まれたので、人間は人間になりました。

  人間が人間であるのは、この霊です。動物にもいろいろと考えている様子は見られます。犬や猫だけでなく、イルカなどを含めて愛情を注ぐとそれなりの反応があります。「癒し」としてそのようなペットを飼う事も流行っていますが、人間よりも素直で従順なので、人とは付き合わずペットだけと交流する人も出てくる始末です。「考える」ということは人格を表わし、霊的なことなのでしょうか。人間の考えるということと、動物の考えるということは、どこか違うのでしょうか。

  聖書は、人間に「霊」、「心(魂)」、「身体」があることを示しています(Tテサロニケ5・23)。「死」とは分離であり、身体から魂が離れることを言います。脳死ということがありますが、魂が身体から離れた状態でしょう。死んだ人の遺体に話しかける人がいますが、クリスチャンはそのようなことはしません。魂と霊はその遺体を離れ、天国か地獄に行っているのです。

  神を信じる前は、人は霊的に死んでおり、霊の感化を知覚することが難しいのです。つまり、人に霊があることを意識していないのです。それは、動物と同じ状態であることを示すでしょう。喜怒哀楽をそのまま表わし、権威に服し、情欲に動機付けられるのです。

  霊的に生きた状態とはどのようなものでしょうか。

悪霊に付かれた状態。「けがれた霊につかれた幼い娘」(マルコ7・25)、「この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。」(マルコ9・22)、「汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。」(ルカ6・18)、「十八年間も病気の霊につかれ」(ルカ13・11)。このように悪霊につかれると、人格を損ない、次第に正常な判断や行動ができなくなります。

  しかし、普通の人は、霊的な感化を受けているのに、それを扱うこと、意識することが出来ないので、いたずらに霊的なことを恐れ、偶像を神として恐れ奉るだけで、触らぬ神にたたりなし、と言いながら、自由を行使できないのです。それはまるで動物のようなものです。確かに霊的に強い人もいますが、それは肉体が頑強な人のようなもので、人間間には強い立場を持つこともありますが、やはり霊を生かしてはいないのです。

  聖霊に満たされた人はどうでしょうか。「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」(ルカ1・47)、「幼子は成長し、その霊は強くなり」(ルカ1・80)、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」ヨハネ6・63)「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(ローマ8・16)

  クリスチャンは、聖霊に満たされ、自分の霊を清め、成長させていかなければなりません。霊的に未成熟であるならば、あなたはいつまでも肉欲や感情に左右され、信念と信仰を持って生きていくことができないのです。聖書を読むのではなく、聖書の中に自分をまかせてください。祈りを自分の意識の中ではなく、聖霊に聞き委ねる祈りをしてください。


4月11日 死人の中からよみがえり。  ルカ24章45〜54節
新改訳 ルカ 24:45-53

24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、

24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、

24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。

24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

24:50 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。

24:51 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。

24:52 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、

24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。



 春の光に輝く桜の花びらの散るのを見て、人生のはかなさを感じる日本人は多いでしょう。どうせ死ぬなら、と国の為に死ぬ覚悟をした特攻隊や戦死者も多いようです。武士道とは死ぬことを厭わぬものとも言われるようです。

  私が人生のはかなさを嘆き、悔いのない生涯を過ごそうと決意したのは中一の春でした。それからの38年間、失敗は多く、失望も多かったけれど、誠意を尽くして人生を生きてきたつもりです。神を知る前は、武者小路実篤の本に傾倒し、義に至る道を求めて頑張りましたが、それでも夏目漱石の草枕のように「とかくこの世は住みづらい」と感じていました。虚しさが心を襲い、自然の中を歩いて堕落から心を守ろうと葛藤していました。神を信ぜず、気を許す友もいないで、妥協の人生を覚悟し始めていた時に、天地を造られた聖書の神を知りました。

  神を知らなかったら、どうなっていたでしょう。

  精一杯努力をして、自分を語り、心をいくらかでも通じる人との交流に慰めを見出していたでしょう。人に認められること、実績を残すことに自己確認をしていたかと思います。

  父なる神を知って既に30年になろうとしています。自分の実績を誇るつもりもありません。自分を語ることも小さなことです。思い通りにならなくても気にならなくなりました。私は神に知られているのです。神の臨在が私をいつも満たしています。乙女マリヤが聖霊によって身ごもったとき、神の霊に満たされ、「わが霊は我が救い主なる神を喜び讃えます。」(ルカ1・47)と語っているように、また、祭司ザカリヤが「神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。」(1・77)と叫んでいるようです。

  罪とは自己中心です。自分のことに囚われている人に、平安はありません。イエス様の弟子たちも、教えを受けていただけでは魂の救いはありません。死ぬことや試練が怖かったのです。ペテロは、3度もイエス様との繋がりを否定して身を守ろうとしました(マルコ14・72)。

宗教で、品性を良くしようとか、善人との交流を持とうとか、天国の保証を得ようとか試みる人は多いようです。自称クリスチャンで教会に来ていても、そのような人は結局あまり品性は変わりません。クリスチャンとして受け入れられようとしても、いつしかメッキは取れてしまい、その人の魂が救われていないことは明らかになります。

自分の力で自分の魂を救うことは出来ません。弟子たちがイエス様に神の国に入ることを聞いたとき、「人にはできないが、神にはできる。」(ルカ18・27)と言われ、自分の立場、あり方、考え方、財産、家族というものを前提にしていて、その上に神を信じていこうという者は、神を利用するだけで、本当には神を信じていないことを示されました。

29年前、私は「父の約束した」方、「いと高きところから力を着せ」る聖霊に満たされました。その時、「まずい、これでは狂信的になってしまう。信仰というものは、生活を乱さない程度にほどほどにしていれば良い。」と考え、その力に抵抗しようとしました。その瞬間、教えを語るのではなく、私たちの罪の為に身代わりに死なれたイエス様の十字架の意味を悟りました。イエス様が自分を捨てられたように、私たちも自分を捨てなければ、神の国に入ることは出来ません。

自分の家族のことを考えるのは悪いことではありません。しかし、自分の家族も自分でさえも、どうすることも出来ないのに、私たちはそれを支配しよう、自分のものだと主張するのです。全てを神の愛の中に委ねなければなりません。

信仰生活や教会に躓く人がいます。それは自分の思い通りにうまく人生を営みたいからです。神は「シオンに躓きの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は失望させられることがない。」(ローマ9・33)とあるように、自分の時間、金、能力、財産、家族を自分の思いどおりに使いたい人は、信仰生活に躓くのです。しかし、神を信じる人は、それを神に委ねるのです。信仰に導かれる人は多いのですが、神を信頼する人は少ないのです。



4月18日 妻は何の為の助け手なのだろうか。  創世記2章15〜25節
 
新改訳 創 2:15-25

2:15 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
2:18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
2:19 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。
2:20 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。
2:21 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
2:25 そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

 これまで創世記を学んできたように、人の神から与えられた使命は支配であることがわかります。信仰問答集(カテキズム)を見ると、人生の目的は「神に栄光を帰すること、神と永遠に交わること」とあります。ただ、そう言われても実際にはどういうことか良くわからないものです。「神の御心に沿って生きる」と言っても、例えば、親の真意を知らないで、失敗ばかり恐れて何もしないで生きようとする子どもたちが成長したときは悲惨です。

  イラクで捕らえられた3人のことで日本中色々な意見が飛び交いました。小泉首相が「こんなに人に迷惑をかけているのに、またイラクに行こうとする気持ちが知れない。」と言っていましたが、私としては、高遠さんの「イラクの人を憎む気持ちになれない。また戻って活動したい。」という気持ちに共感します。NGOというのは、非政府組織であって「たとえ人道・復興支援であっても、国家が主導する実施体制や「軍」主導の活動は、被害を受けた住民の側からの反感もあり、支持・協力が得にくく更なる紛争を助長しかねないこと」(国際協力NGOセンターの声明の一部)というように、「国が何でもやるから口を出すな、余計なことをしたから4億円もかかってしまった」、というような民間を無視した考え方、突然出てきた「自己責任論」は国民の自主性や民間活動を損なうものです。

  私自身、牧師になる時、父から「もっと年を取って社会経験をつみ、人に迷惑をかけないようになったら牧師になっても良いが、まだ無理だ。」と言われた時、宗教、そして愛を知らない人の考え方として印象深く感じました。愛というのは、自分の能力も、失敗の可能性も、損得も考えないで、犠牲的な行動に走る動機付けです。3代目の政治家で、人の苦しさ、悲しさ、弱さを知らない小泉さんには、そういう人の心情は理解できないでしょう。

  人は、一人でエデンの園を耕していました。しかし、一人で労働するのは良くない、と神は言われ、助け手、妻を人に与えましたなぜ、家畜や獣ではいけなかったのでしょうか。人自身が満足しないのです。人格をもった存在、愛する妻が必要だったのです。

 妻とはなんでしょうか。

1. 性的な結合を喜ぶただ一人の存在です。聖書は、性を決して悪とは言っていません。結婚以外の性を禁じているのです。

2. 裸であっても恥ずかしがらないただ一人の存在です。自分の弱さ、失敗、罪、恥を全て見せられる存在なのです。

3. 所有と権利を同一にするただ一人の存在です。

4. 子孫を生み出し、将来を共有するただ一人の存在です。

5. 喜びも楽しみも悲しさも苦しさも共有するただ一人の存在です。

6. あなたを最もよく知っている存在です。

7. その人がいなければ、自分の存在を喜べないただ一人の存在です。

 夫婦とは、労働のために協力するだけのものではありません。人には、伴侶が必要なのです。愛とは何かを説明したことがあります。愛とは、相手を愛することよりも、むしろ、相手から愛されなければ我慢できない状態です。成果がなくても気にしないことや、相手の反応を気にしないのは、愛ではなく自分で満足しているだけです。

  政府や関係者にどんなに迷惑をかけても、それにはすごく感謝し、すまないと思っていても、またイラクに戻っておなじことをしたい、という根性に感心します。私の妻は、非常に手のかかる妻で、私がいなければどうにもならないと思います。そんな妻と一緒に生きるのが私の生きがいです。世の中には多くの女性がいますが、私を最も必要とするのは妻ですし、私が必要なのは妻だけです。夫婦と言うのは、そのような関係に神が置かれた二人なのです。その必要を、仕事の成果や能力、相手の性格のよさなどに置き換えるならば、あなたは決して満足しないでしょう。

せっかく国が多額の金を救出にかけたのだから、そんな額なんでもないと公言したら、国の価値があがるのですが。金勘定に走るとろくなことがありません。



4月25日 罪の誘惑と罪からの勝利。  創世記3113

新改訳創 3:1-13
 :1さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
 :2女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
 :3しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
 :4そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
 :5あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
 :6そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
 :7このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
 :8そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
 :9神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
 :10彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
 :11すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
 :12人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
  3:13そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

  神はエデンの園の中央に、いのちの木と善悪の知識の木を生えさせられ、その他の木を含めてどの木からも思いのまま実を食べてよいとされたが、「善悪の知識の木の実だけは食べてはならない、それを食べると必ず死ぬ」と仰せられました(2・17)。

  私には、一つの木にそのような超自然的効果があるとは思えません。大事なことは、禁断の実というのは、人の自由意志と従順さを確認するためには非常に重要な意味合いを持つと言うことです。神は、自由意志を持った人間を造られる時、人間が罪を犯すとは予想していなかったのでしょうか。私にはそうは思えません。神は、それを予想し、しかし、人間が結局のところ、神に逆らい神を信じないで霊的な死の状態にいることに我慢ならなくなって、神を求め神と共に生きることを求めることを、神は願っておられたのです。そのようにしてこそ、私たちは、主体的に神を崇め、神を讃え、神を信頼して神を愛するに至るのです。ですから、神の国というのは、エデンへの回復ではありません。それは神の愛の完成であり、御心の完成なのです。

  統一協会(キリスト教を模した恐ろしい新興宗教)や、マインドコントロール的な宗教は、私たちの罪深さや弱さを指摘し、努力をして罪を償うことを強調します。その代償として信者に献身的な奉仕や努力を強いるのです。でも、聖書は、はっきりと「行ないによって、義と認められる人はいない」(ローマ3・1028。4・2)と言っています。日本では、キリスト教でも、「罪を認めろ、私たちはだめな存在なのだ」と強調する人が多いようです。

3/21
にこのように説教しました。「神は、そのような人間社会を知っておられ、また予測もしておりました。しかし、神はそれでも、神は、お造りになったものを全て、人間をも含めて、「はなはだ良いもの」と見られたのです。私たちも、子育ての苦労が予想されても、自分の子どもが生まれる時、全く良い子、愛するものとして受け入れてしまいます。神は、そのように罪人になることを知っておられながら人間を愛し、いつくしんだのです。その愛は、人間の罪によって損なわれるほど弱いものではありません。イザヤ書43章をぜひ、読んで下さい。神は私達を造り出した方であり「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」として、いつも私達と共にいてくださると言ってくださっているのです。」
  それでも、罪の誘惑とその結果の悲惨さを私たちは悟らなければなりません。人間に付きまとう課題は、欲望に身を委ねてしまい、神を信じないことです。私たちは、この「快感を与え、見た目によく、知性に訴える」(6節の意味するところ)ことに惑わされるのです。そして、神の祝福の約束を、禁止事項(3・1)として間違って理解してしまうのです。「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」《ヘブル11・1》とありますが、希望をもたない人は、目に見えるものに捕らわれ、誘惑に負けて感情的になるのです。

  「私には希望がない」という人がいるとしたら、神を知らないのです。「パッション」が世界映画史上第一位になったそうです。アメリカでは公開後3週間で3千万人が見て、2億人の人がこれから見たいそうです。監督のメル・ギブソンは、12年前までは、巨万の富と名誉を得ていたのに、アルコール中毒、麻薬中毒、うつ病で何度も自殺を考えるほど、精神的には破滅状態だったのです。どん底で彼が思いだしたのは、子供のころ聖書で学んだイエスのことでした。再び聖書を読み、人間の罪の身代わりとして苦しみ、十字架にかかって死に、3日後に復活したイエスの生きざまを思い描いているうちに、彼自身の心と体の病がいやされ、罪責感がなくなり、神の永遠のいのち(イエスの復活のいのち)に生かされて、見事に立ち直りました。メル・ギブソン自身がこのように、救い主イエス・キリストによって現実に救われることを体験したのです。

  あなたが損得に捕らわれているとしたら、「受けるより与えるほうが幸いである。」と言われた主イエスを知らないのでしょう。魂の救いを体験していないのに、クリスチャンであると誤解してはなりません。


5月2日  幸いなるかな信じる者。  ルカ福音書1章45節

新改訳 ルカ 1:45

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

〔1.感じる心〕ヨハネ福音書2:1-4
ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

〔2.感じて、察知して、信じる心〕ヨハネ福音書2:5
母は手伝いの人たちに言った。
「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

ヘブル人への手紙 11:1
信仰は望んでいる事がらを保証し、
目に見えないものを確信させるものです。

〔3.信じて、委ねる心〕ルカ 1:26-38抜粋

御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

使徒の働き16:31 詳訳聖書

「主イエスを信じなさい。(すなわち、あなた自身を彼に差し上げなさい、自分自身を自分の所有から離して、彼の保有に任せなさい。)そうすれば、あなたは救われます。あなたもまたあなたの家の者も〔ともにそうです〕。」

〔4.幸いなるかな、信じる人。〕ヘブル人への手紙11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、
神を求める者には報いてくださる方であることとを、
信じなければならないのです。


5月9日 呪いから開放された歩み。  創世記3章14〜19節

新改訳 創 3:14-19

3:14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。

3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」

3:17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。

3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。

3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」


 映画「パッション」を見ました。映画を見てやっと、イエス様が「父よ。御心ならば。この杯をわたしからとりのけてください。」と願われた実感がわかったような気がします。これでもか、これでもか、と続く虐待、鉤爪のついた鞭で打たれて血みどろになり、それでも続く尋問と虐待。そして重い十字架を担いで石畳を上り、ゴルゴタの丘まで、鞭打たれ唾されながらの苦しさ。その中で一貫して主は、人を赦し、言うべき励ましの言葉を弟子たちに告げる。もう、涙が止まらず、泣き続けながら映画を見ていました。これほどまでの苦難は、何のためなのだろう、と祈りながら、次の聖句が思い出されたのです。

  キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。(ガラテヤ3・13)

  さて、今日の聖書箇所は、人が罪を犯したために呪われたというところです。女性には、出産の苦しみと夫への隷属が呪いとして宣言され、男性には、労働の苦しみが与えられました。土地も、荒れるものとなったのです。

  十戒には、安息日を守れ、とありますが、安息日に働かないのは、その労働の苦しみから解放されて、神と共に過ごし、罪の生活からの開放を味わいなさいという神の配慮でもあります。ですから、日曜日に働く人は、他の日を休日としてでも必ず、働かない開放の日を持たなければなりません。多くの人が、働かなければ食べていけないと言いますが、それはまさに、罪の産物であり、罪の呪いの中にいる証拠です。そういう考え方をしながら、神を信じるとか、祝福されて喜びの中を歩むということは難しいでしょう。

  更に、安息日を守らない人は、夫婦仲も良くないでしょう。安息日を守るということは、呪いからの開放を求めるしるしなのです。

神の言いつけを守らないで、祝福されるということは無理でしょう。

  ある人は、これは人間に掛けられた呪いであり宿命なのだからしょうがない、労働の苦労と夫婦喧嘩の苦労を負って生きるだけだ、と悟っているかもしれません。でも、それではイエス様が、「私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださ」ったという甲斐がありません。十字架に掛けられたイエス様を知っているだけで、その効果を知らずに過ごしているのです。私たちが呪いから解放された人生をおくる鍵は、労働の苦しみから解放された人生と夫婦仲良く暮らすという2点です。そしてそれは、安息日の過ごし方に掛かっているのです。

  休日に仕事をする人は決して仲の良い夫婦になれません。また、楽しんで仕事をしようとしない人は、神の祝福を得られません。金銭を得ようとして働く人は、呪いの中にいるのです。「受けるよりも与えるほうが幸いです。」(使徒20・35)と言われるように、人を愛し、助けるために働くと祝福を得るのです。こういうことは商売の秘訣であり、儲ける人は皆、商品に付加価値を付け、顧客が「得をした」と思わせなければ、売れないことを知っています。そしてそういう付加価値や知恵は、安息を取らないで働いてばかりいる人には与えられないのです。

  人がその才能を出し合って助け合うということの凄さを最近多く体験しています。また長年連れ添った夫婦が助け合い一緒に働くならば、なんという力を出せるものかとも驚いています。キリストを信じ、日曜日に教会に集い、夫婦仲良く暮らすならば、この呪いは、私たちには関係ないのです。

  それが現実でなければ、それを求め、実行しなければなりません。週に一日は働くことをせず、ゆっくりとくつろいで神と夫婦の為に過ごしてください。絶対に喧嘩をせず、不満を言わず、仲良くなにか一緒にしてください。人生が変わるでしょう。


5月16日 皮の衣を着せられて。  創世記3章20〜24節

3:20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。

3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。

3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

新改訳 ロマ 2:1-3 2:1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。2:2 私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。

2:3 そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。

  罪は端的に言うと、自己中心であると語ってきましたが、層簡単にはまとめられるものでもありません。そもそも、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記1・17)と神が仰せられた言葉をエバは「死ぬといけないからだ。」(3・3)と、変えていますが、罪は、神存在と、神の命令を相対的なものにしてしまう要素があります。

  現代の政治家の当然など聞いていると言葉の絢として護摩化してしまうことが多く、絶対神を信じていない人の節操の無さを感じます。しかし、実際には相対的価値観に慣れた日本人クリスチャンには、同様な傾向を持つ場合が多くあります。それは神の命令の絶対さ、神の尺度の絶対さを理解せずに自らの過ちの正当化をしたり言い訳を言うことが多いことです。

  罪の結果をもう一度見てみましょう。

1. 羞恥心と有罪感。(裸であることを知った。3・7)

2. 自己義(イチジクの葉で裸を覆った。)

3. 神からの逃避(神を恐れて隠れた。)

4. 言い訳と罪の転嫁(3・12,13)

アダムは、その言い訳の責任を神にも帰してのですから呆れますが、神の裁きを信じていない人の特徴が言い訳なのです。「必ず死ぬ」という神の戒めを「死ぬといけない」という状況倫理にして、理由があれば裁きを免れるという人間側の理屈を前面に出しているのが、サタンの惑わしなのです。ですから、真に罪を認め救われた人に、「うそも方便」、「神は私の愛だから私の状況を理解してくださる」、という言い訳は決して無いのであって、そういうことを思っている人は、魂の救いを得ていないしるしなのです。つまり、アダムの言い訳と同じ状態なのです。

ですから、言い訳は自己義なのです。取った時、青々としていた葉もすぐに萎んでしまいます。イチジクの葉を捜し続ける人は、決して

平安がありません。アダムはこの後、沈黙の人となり、その言動は妻の名をエバと名づけたことと、妻を知った(性的な関係をもった)というだけです。エバとは、「いのち」という意味であり、夫婦が互いに慰めあうことによって希望をつないだことを感じさせられます。

  神は、この二人にすぐに萎びる自己義の象徴のイチジクの葉の代わりに、皮の衣を着せました。それは、動物の血を流して与えられた代償の義です。人の罪を贖うのは、状況的倫理や言い訳、謝罪ではなく、犠牲であることを示すのです。

  私たちは、罪を犯したならば、全てを神の前にさらけ出し、許しを乞い、神の義をいただかなければなりません。イエス・キリストの十字架の代価こそが、私たちの許しには必要なのです。

  また、罪の許しを得ていないとして、クリスチャンを含めて他人を裁く人がいます。ローマ書2・1を読むと、その人もまた、罪の許しを得なければならないとあります。

  福音は、決して論理的な教えや人格的な悟りによって伝えられるものではありません。批判したり、指導したりすることによって、弟子を作っていくものではありません。

  全国聖会で、当教会の人が遠方から来た他の教会員を泊めてあげ、また一緒にいた教会員が皆、疲れているのに食事もしないでその方が聖霊のバプテスマを受けるために祈ったという報告を聞きました。うつ状態であった彼女は、聖霊のバプテスマを受け、全く変わって帰っていったとそうで牧師からも本人からも礼状が届きました。

  自分の都合の良いように、隣人が変わってくれればと願うものです。でも、それは罪人の論理です。イエス様は、自分に鞭打ち、つばきする者の為にとりなしをしました。クリスチャンとは、報われても報われなくても、効果があろうと無かろうと、神の前に生きる者なのです。人前に自分の謙遜や努力を言おうとしてはなりません。それは人を見比べ、差別するものにもなります。神に仕えましょう。



5月23日 罪は戸口で待ち伏せしている。  創世記4章18

新改訳創 4:1-8

4:1
人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。

4:2
彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

4:3
ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。

4:4
また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。

4:5
だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

4:6
そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。

4:7
あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

4:8
しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。


  アダムとエバはエデンの園を追われ、悲しみと苦しみのうちに、二人きりで過ごしました。二人とも、心に傷を持っていました。そしてまた、互いの罪を責め合う気持ちも持っていたでしょう。多くの人が、自分の心の隙間を快楽で満たそうとします。しかし、罪によって空いた神との絆を、どのようなものでも満たすことは出来ません。

  二人きりで働き、助け合い、責め合い、そしてセックスをし、彼らは、自分たちが何がなんだか、わからなくなってきたかもしれません。つまり、生き甲斐がないのです。これは現代の多くの夫婦の状況です。そんな中で、初めて子どもが生まれました。とても可愛く、二人にとって慰めでした。でも、どのように育ててよいか、わからないので、二人はそれまでの互いを責め合う姿勢のままで子どもにも厳しく育ててしまいました。次にまた、男の子が生まれました。夫婦は、この子を育てるのに忙しく、長男をかまってやれませんでした。次男は、子育てにも慣れた親の愛情を受けましたが、長男は、厳しく育てられたままで、物事全てに反感を持ち、どうでもよいような生き方になってしまいました。それが、自らの罪を意識する親にとっては、とても嫌なもので、いつも腹を立てられていました。

  弟、妹は次々に生まれ、兄弟は多くなりましたが、カインの心の中は荒んだままです。そんな時、父親から言いつけられている神への献げ物をする時がきました。カインは、弟たちを使って、地の作物を適当に礼拝の場所に届けさせました。そして、そのことも忘れていたことでしょう。ところが、アベルの献げ物に対して、神は火をもって焼き尽くすなどとして明確な回答を示したことが、家族の間で話題になりました。それに反して、カインの献げ物は、何の反応もなく、腐っていました。カインは、馬鹿にされたと、激しく怒りました。

  これまでの注解書などでは、この箇所はただ、カインの行ないを責めるだけのものです。でも、人の行動には、理由があります。このように説明したら、皆さんはカインの行動も理由がある、責められない、と、思うかもしれません。先週、言い訳は罪人の特徴であると、説明しましたが、動機があったり、虐待を受けていたり、環境が悪かったら、罪を犯してもしょうがないと、いうのが最近の社会の論理です。裁判でも、そのような論理が正当性として取り上げられ、無罪となるケースが起こってきました。

  妻の「低血糖症治療の手引」でも説明されていますが、怒るとアドレナリンが出て、更に刺激を受けて、怒りが増長されるのです。つまり、怒ってはならないのです。「キレル」という言葉がしばしば使われるようになってきましたが、まさに自制が切れてしまうのです。

  ローマ書12章には、「誰に対しても悪に悪を報いることをせず、全ての人が良いと思うことを図りなさい。・・・・・・善をもって悪に打ち勝ちなさい。」とあります。更に、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4・29)とありますが、ローマ15・2も、Tコリント8・1も10・23も14・3も、Tテサロニケ5・11も、信仰者は自分の徳を高めるのではなく、人の徳を高めるように努めるべきであると勧めています。

  戸口で待ち伏せして私たちを誘惑しようとする罪を治めるようにと、神様が勧めておられることを、私たち信仰者も、他の信仰者に対して勧めなければなりません。神の前に、言い訳はできません。イエス様が、あの「パッション」で示されたように、どんなに迫害され虐げられても、決して人を責めず、呪わなかったように、私たちも悪に同意せず、同調せず、アベルのように心からの献げ物をして神を喜ばせようではありません。神への最大の献げ物は、私たち自身であります。

「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」Uペテロ1・5〜8.


5月30日 呪われた人生からの開放。  創世記4章9〜16節

新改訳 創 4:9-16

4:9 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

4:10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。

4:11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。

4:12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

4:13 カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。

4:14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」

4:15 主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。

4:16 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。


  テロが世界中で勃発しています。その背景には、弱者の不満があります。サウジで起こったテロは、「イスラム教徒の富を奪う米国の石油企業」を狙った攻撃であることを声明しています。日本人には、このような差別、搾取に対する不満はなかなかわからないと思われます。日本人二人が殺されたことも、イラク人のために働いていたのになぜ、報道人なのに、と思われますが、そもそも、イラクの人にとっては、勝手に自分たちの国に武器を持って押しかけてきて、ごちゃごちゃと動いていることについては、誰も変わらなく映って当たり前なのです。

  貧しい者、虐げられている者が富んでいる者、略奪者に対する敵意というのは根強いものです。イスラム圏では、富んでいる者の貧しい者に対する援助は義務とされているくらいですから、日本人が高い車に乗って金を使いまくって活動していることは、いくら殺戮に加担していないといっても、既にペナルティーに入ることなのかもしれません。

  カインが弟に対して抱いている敵意も、それと似たようなものだと思われます。神が警告されておられるのにも関わらず、カインは弟を殺してしまいました。その後、神からの問いかけに、知らない、と強情を張っています。「私は、弟の番人なのでしょうか。」との答えが神への最初の言葉ですが、兄として理不尽に負わされてきたと考えるカインの被害者意識が感じさせられます。

  国のため、社会のため、会社のため、家族のため、働き続けてきた人々が今や、報われず、人生の意味を見出せないでいます。福祉や年金は手薄になる一方だし、金が掛かるのに経済的には厳しくなるばかり。それでも、日本はイラクや諸外国に比べたら、かなり平等社会であり、治安も良く、生活していけるので、敵意となって現れる人は少ないでしょう。しかし、最近の悲惨な事件を見ると、そのような社会に対する敵意を見せる人々が現れてきています。青年たちの、暴走や犯罪もそのようなところから来ていることは事実です。

  私は、聖書の解説書や福音説教者が、カインに対して一様に批判的あることに疑問を感じます。福音を知らない人々は、皆カインのようなものです。非難していては伝道はできません。土地が呪われ、働きも虚しく、孤独に過ごす流浪の人生が罪人にとっての事実です。カインは、その現実を示された時、「私の咎は大きすぎて担いきれません。」と、やっと神に対して助けを求めます。でも、彼は悔い改めてはいないのです。

  私は、カインの頑なさを責める福音説教者が、まるで富者が貧者を責めるような印象を受けるのです。私は、クリスチャンがノン・クリスチャンを責めることを禁じています。むしろ、その罪の中から恵みによって救われたことを感謝し、頑なな罪人のために、どこまでも同情し取り成しの祈りをと行動を取るべきであると語っているのです。

  「低血糖症治療の手引」を出版しました。低血糖症の患者さんの状態は大変なもので、社会の認知を得られていません。しかし、私たち夫婦自らが、その悲惨な中から癒されてきたからこそ、千人もの患者さんを治療し、改善に貢献できたのです。罪人に同情できない人に、伝道はできません。

キリストは、「私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、全ての点で、私たちと同じように試みに会われたのです。ですから、私たちは、哀れみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4・15,16)

  先日、両親が新興宗教の熱心な信者であって、本人がクリスチャンになって勘当を受けた女性が、聖霊のバプテスマを受けて、すっかり性格が変わって明るくなった証しをしました。教会が歴史上、大きく前進する契機になったのは、ペテロが、律法で禁じられている異邦人の家に行って福音を語り、彼らが聖霊のバプテスマを受けたことでした。彼らが説教を聴いていたときに、聖霊のバプテスマを受けたので、洗礼を授けたのです。今日はペンテコステの日、皆さんも聖霊のバプテスマを受けましょう。


6月6日 

6月13日 主の御名によって祈る。  創世記4章17〜26節

新改訳 創 4:17-26  

4:17 さて、カインは、その妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。

4:18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。

4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。

4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。

4:21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。

4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。

4:23 さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。

4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」

4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。



カインの妻はアダムとエバから生まれた数多くの子どもたちの一人か、その孫でしょう。当時は大洪水前ですので、人の遺伝子は水蒸気層によって守られ、近親結婚しても損なわれず、長寿だったのです。  

人が、神から離れると、町、社会、組織を作り出します。後に作られるバベルの塔のようなもので、人間の力で神に対抗しようとするのです。私自身は経営学修士ですから、組織論は専門ですが、組織というのは、組織自体の存続を目的とし、或いは権力者の繁栄維持を目的とするものであって、組織構成員を守るものではありません。 

本来、人間というものは、夫婦仲良く暮らし、神と共に生きれば、それで十分なのであって、失礼ながら、愛国心、愛社精神などというものは、支配者の惑わしではないかとも思っています。したがって、例えば教会を愛し、教会に仕えるということが、自己や伴侶、家族よりも優先するように教え指導する教会というものがありましたら、それは、まともな教会ではなく、聖書的でもないと判断してよいと思います。

私たちの教会は、クロスロード・チャペル、つまり、十字架の道を強調する教会であって、「自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様に従う」(マタイ16・24)ことを教えます。たとえば、人間の欲求の最高基準は自己実現の欲求であると言われていますが、私たちは、自己実現は十字架の道以外にはないと信じています。しかし、そこで多くの信仰者が誤解するのですが、自らがクロスロードを歩いているという確認は、愛するということなのです。神が自分を愛していてくださる、自分を喜ぶ、そして最も身近な伴侶を愛する、これが必要なのです。「自分を捨て」というのは、「自分の罪を捨て」、と言うことであり、自分の罪の吟味には、欠かせないのです。

さて、カインの子孫は繁栄し、特に直系のレメクは自分の権力を誇り、神に守られなくても、自分自身で七十七倍復讐する力があると豪語する始末です。人の繁栄というのはろくなことがありません。

  先週は久しぶりに家内とゴルフをしたり、庭の手入れをしました。犬のジョイが私の行動に反応するのが面白くてなりません。でも、作業しすぎて、身体中が痛く、老いも感じます。

  聖書の記述は、時間的には前後します。カインがアベルを殺してしばらくして、アダムとエバはセツ(「いのちの基盤」という意)を生みます。また、セツの子をエノシュ(「弱さ、もろさ」の意)と名づけます。自分たちの弱さ、もろさに気が付いた人々は、やっと「主の御名によって祈ることを始めた。」(4・26)のです。

  イエス様を迫害し、十字架につけたのは宗教指導者です。自分たちの地位の保全を願ったからです。日本のリバイバルがないのは、クリスチャンが裁きあっているからです。夫婦が仲良くないのは、自分の思い通りにいかない伴侶を責めるからです。

  組織では、上司に逆らえません。権力者に逆らったら、罰を受けます。そのような社会に生きる者は、自分よりも弱い者を虐げます。知恵のある者は、愚かな者を搾取し、馬鹿にします。富んでいる者は、貧しい者を蔑み、利用します。

  私はゴルフが大好きです。プレーすると自分の弱さ、愚かさ、心の動きが本当によくわかります。同伴者のプレーもよくわかります。心の強い人が、上手です。でも上手な人で性格の良い人は少ないのも面白いものです。人生で最高の成績は、カナディアン・ロッキーの湖畔で現地の人々と、景色に感動しながらプレーした時です。神に感動しながら、平然となすべきことを果たし、仲良く暮らせるようになったら、私のゴルフは上手になるでしょう。それは天国かもしれません。この地上では、人よりも強くなろうとか、偉くなろうとか、うまくなろうとか、そんなことを考えず、自らの「弱さ、もろさ」を意識して「主の御名を求めて祈り」、語らいたいものです。皆さん、自分のことを語らず、誇らず、人と仲良く一緒にすごしてください。それが出来ないのならば、主の御名によって祈り、悔い改めてください。


6月20日 この子は慰めを与えてくれる。  創世記5章24〜32節

新改訳 創 5: 1-5、24-32

5:1 これは、アダムの歴史の記録である。神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、

5:2 男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。

5:3 アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。  5:4 アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。

5:5 アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。

5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

5:25 メトシェラは百八十七年生きて、レメクを生んだ。

5:26 メトシェラはレメクを生んで後、七百八十二年生き、息子、娘たちを生んだ。

5:27 メトシェラの一生は九百六十九年であった。こうして彼は死んだ。

5:28 レメクは百八十二年生きて、ひとりの男の子を生んだ。

5:29 彼はその子をノアと名づけて言った。「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」

5:30 レメクはノアを生んで後、五百九十五年生き、息子、娘たちを生んだ。

5:31 レメクの一生は七百七十七年であった。こうして彼は死んだ。

5:32 ノアが五百歳になったとき、ノアはセム、ハム、ヤペテを生んだ。



  アダムは神に似せて造られました。アダムが、彼に似た彼のかたちどおりの子どもセツを生むまで130年が掛かりました。当然、セツ以前に数十人の子どもを生んでいるわけです。更に多くの子どもをアダムとエバは持ちますが、結局は死んでいきます。

さて、エノクという人は、神と共に歩んだので、死ぬことなく天に引き上げられました。ユダ書には、エノクの預言が記されています。

「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである」。彼らは不平をならべ、不満を鳴らす者であり、自分の欲のままに生活し、その口は大言を吐き、利のために人にへつらう者である。1・14-16

  このようにエノクは、不正がはびこり、不平不満を言う人々の中で、悔い改めを叫んでいたので「神によろこばれていた」(ヘブル11・5)のです。

  最も長生きをしたメトシャラの子どもが、先週、悪の権化として語られたレメクと同じ名前です。カインの子孫とセツの子孫の違いが象徴されますが、レメクは呪われた地で働き労苦したが、この子を与えられたので慰められたとノアを喜んでいます。

  子どもを持つということはなかなか大変なことです。自分と同じような子とは限りません。私は9人兄弟の末子ですが、父は私を非常に喜び、愛してくれました。兄弟の中で、私以外に父と交流した者はいないと思います。兄や姉が父を非難する中で、私には父の気持ちがわかりましたし、父も私の気持ちをわかってくれました。親と心を通わせるということは、人生にとって大変大事なことです。今は5人の子どもがいますが、どの子とも心の交流・会話が出来ていると思っています。当然、未熟さや年頃の心配はありますが、それぞれの人生を生きるのですから、私としては、いろいろな経験を経て更に交流が深まると確信しているだけです。人生にとって、自分の人生を受け継いでくれる子がいるということは何という感激でしょうか。


  子どもがいない、という人も含めて、多くの人が自分の人生を引き継ぐということに関心を薄くしています。これは虚しいことでしょう。ヘブル12章には、多くの信仰の証人の後に習って進むべきことが記されています。肉の父が子どもを懲らしめ、親の期待に適うようにしつけるように、霊の父である神は、ご自分の聖さに与らせようとして懲らしめると書いてあります(ヘブル12・10)。

  レメクは、「主がこの地を呪われたゆえに、私たちは働き労苦しているが」と苦労の多い現実を認めながら、慰めを期待するのです。この地上での働きに失望してはなりません。私の父は、貧しく平凡な草履職人でしたが、私は心からこの父を尊敬し、自分を形成してくれた恩人と思っております。父が悔い改め、キリストを告白したかどうかはわかりませんが、神は決して黄泉に捨て置かず、最後の裁きの時には、この世の堕落に迎合しなかった父を迎え入れてくださると、私は信じているのであります。

  今日は父の日ですが、最近は多くの父親に自信がないように思われます。父に限らず、母も、また年長者も、信念をもって生きなければなりません。いじけたり、卑屈にならず、周囲に惑わされず、損得にはごまかされずに生きることが、信仰者の生き方です。父とは、神のかたちです。家庭においては、社長にも指導者にもへつらう必要はなく、神と直結した権威なのです。妻や娘の誓願は父の許可なしには神に届きません。社会的地位を家庭に持ち込んではならず、社会からの波を家庭に入り込ませないのが父の役割です。妻や子供にもへつらってはならないのです。自分の考え方を理解させようとすれば、理解しなければ従わないことになります。従順とは、理解の後にあるものではありません。そのように父は、批判や不従順と戦わなければなりません。そのようにして、信念を持って生きるからこそ、「慰められる」ことがあるのです。そして、そのような孤独な父、指導者を理解できない人は、自ら「慰められる」父や指導者になることはできないのであります。


6月27日  人の心の計ることが悪に傾くとき。  創世記6章1〜8節

新改訳 創 6:1-8

6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、

6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。

6:3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。

6:4 神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

6:6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

6:7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

6:8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。


アダムの子孫は、2系統がありました。カインの子孫であり、残虐なレメクに至る系図と、セツの子孫で慰めを与える同じ名のレメクに至る系図です。前者は非常に栄え数も増えて、淘汰の中で容姿の麗しい者が増えましたが、それは性格の悪い者でもありました。他方、善良なセツの子孫、聖書はそれを「神の子ら」と呼んでいましたが、いつしか、信仰も薄れ、誠実さも無くなって、容姿で女性を選び、同意なしに勝手に妻としてしまうようになりました。このように神を求め、神と共に歩む者がいなくなったので、神は非常に悲しまれ、人の死を身近にして120年を最長の寿命とすることにしました。

  このことは、ノアの洪水によって空中の水の層が落ち、放射線や紫外線が降り注ぐことによって寿命が短くなり実現しています。実際、現在でも120歳の寿命を確認できる人は、歴史上いません。訳としては、この時点からノアの洪水で人が滅びるまでの猶予期間が120年とするものもあります。

  「神の子」というのを天使と誤解する人がいますが、天使は神のこではなく、肉体もなく性もないので、この理解は間違いです。

  さて、聖書の年を言葉通りに調べると、エノクが天に上げられたのが、987年で、セツが死んだのが1042年頃です。ノアは1040年頃生まれているので、語り告げられてきた神との交流も昔話になり、廃れてきたと思われます。セツの子孫は、抑えられてきた俗悪なカインの子孫と喜んで婚姻を結びます。彼らはネフィリム(堕落した者たち)と呼ばれ、その後、モーセに率いられた出エジプトの民がカナンを視察した時に見た巨人族のことです(民数記13・33)。堕落した者が勇士であり、名のある者とされるところに、時代の退廃がうかがえます。

  このような様子は現代にも見られることです。最近の若者の美しさ、スタイルの良さは、おどろくばかりです。女性たちがすらっとした足を見せ、胸元ものぞかせて、男性の視線を集めています。男性もスタイルがよく、美顔で、美青年がもてはやされるようです。エステやフィットネスは大流行ですが、その語る内容や性格は問題になりません。でも、そんなふうですから、結婚も出来ませんし、しても続きません。「人が肉にすぎない」と神が語られたのは、罪によって神との交流をなくし、霊的に死んだものとなった人間の姿であり、肉欲のとりこになった状態を表しています。

  そのようにして、人の心に計ることは、いつも悪いことに傾き、金儲けや欲望を満たすことに向けられるのでした。人々が皆そのようになるのだから、社会は悪くなる一方です。現代の青少年の問題行動を見て、子どもを非難し、或いは親や組織を批判する人が多くなっていますが、それを悔やみ、悲しむ人が少ないように思われます。医療機関や福祉施設で従事者のストレスが増大し、争いや人間関係が悪くなっていることが報告されています。どうしてこのように堕落してきたのでしょうか。

  神を信じないからです。神の裁きを恐れないからです。

  問題を起こした人を非難し、批判するだけで、自らは責任を負うことを否み、欲望を満たすことを求めているのです。人の人格を認めません。「好きな者を選んで自分の妻とする」とは、力が全ての社会です。現代も、力や金、容姿が大きな影響力をもっています。人を愛するために犠牲を払うということは廃れています。このような社会で、教会が成長するはずがなく、人々は自分に楽な生活、欲望を満たし、金儲けになる道を求めて教会を離れるのです。

  しかし、「主の日は盗人のようにやって来ます。」(Uペテロ3・3-13)

多くの人が、しばらくすると教会を離れ、もっと生産性のある生活を始めます。そして、生活が荒んでくるのです。いつしか、肉欲のとりこになり、欲望の中で争いを起こし、その心の計ることは悪に傾いてきます。そのときには、もはや心は荒みすぎて神に立ち返ることもできません。現代社会では、確かに多くの人が金に目がくらんでいます。