1月4日 すべてイエスの名によって行なう。  コロサイ3章16〜17節

新改訳 コロ 3:16-17

3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。

 最近、目先の損得で判断をする人が数多く見受けられるようになりました。また、失敗を恐れ、負担や損失を恐れて、行動を起こさない人々が増えてきたように思われます。

  例えば、子供を産むということも、自分たちの損得や負担の大きさから考えたら決してできない勇気あることとなります。ですから、子供を産まない夫婦も増えてきたようです。

  お金を費やすのも、物や食べ物、快楽が多いようです。行楽に行っても、その記録を残すことに一生懸命で、物質的印象に囚われている気がします。でも本当に心に残ることは、写真やビデオなのでしょうか。

  正月に一人増えた家族でスキーに行ってきました。会話の中で末っ子のサラがスキーをした幼児の時は可愛かったとか、こんなことがあったとか皆で話をします。それは写真よりもはるかに印象的で心に残る記録です。自分の印象に他の人の印象が加わり、立体的、内省的な印象も付加します。それは一緒にいるときが親密で多いからこそできることですが、そのようにして一人の人格が、そして家族が形成されることこそが重要であると思います。

  実は言語としては、その人の実際に語る内容よりも、その人の語ったときの印象のほうがはるかに強い意味合いを持つと言われています。ですから、子供やペットなどには、語る内容よりもその人の印象、表情の方が伝わるのです。ところが、年をとると、ことばによっても印象によっても、騙されること、騙すことが多くなり、結局、人を信用しなくなるようです。それでも、笑顔は人に交換を与える第一の入り口のようです。

  キリスト教信仰というものは、キリスト・イエスに対する人格的信頼です。そして、この人格的信頼は、テキストによる教育によって確信されるものよりもむしろ、私たちクリスチャンの毎日の生活におけるキリストへの信頼によって、印象付けられていくものです。

信頼とは、どのようにして得られるものでしょうか。

1. 損得を考慮せず、助けてくれるという確信。

2. 自らの弱さ、罪深さ、失敗を問題にしない、相手の人格。

3. どのような犠牲を払っても時間を費やしても解決してくれる。

4. 卓越した、その人の能力。

 幼子は、その親をそのようにして信頼します。飼い犬もそのようにして飼い主を信頼しているように見えます。さて、わたしたち、クリスチャンはそのようにしてキリスト・イエスを主として信頼し、歩んでいるでしょうか。

 昨年のこの時期、会堂を得ることに幾つかの課題がありました。

@ 私たちの財力で買い取れるだろうか。

A 居住者は速やかに退去してくれるだろうか。

B この教会でそんなに献金する人がいるだろうか。・・・・・・・・

 こういうことを考えていると、何もできなくなってしまいます。子供を産もうという親は、生まれる前から既に子供を愛しているのです。冒険に向かう人は、勝利を確信するからです。希望がなければ、前進できません。少し問題が起こると、いやになったり不平を言う人がいます。その人は、神を信頼していないのです。つまり、崩れない希望は神に対する不屈の信頼(信仰)から来るのです。そして、その信頼の源は、神が私たちに示す愛にあります。主キリストは、私たちを愛し、既にその身を犠牲にして私たちを救ってくださったのです。

 私は、自らの言動にキリストを根拠づけてなすことを嫌います。自分の愚かな言動をキリストに結び付けては申し訳ないからです。でも、いつも主に祈り、主に求めています。自分のことばが主イエスの弟子として申し訳ないことはないかどうか、いつも自己吟味をしているつもりです。主と共に歩もうではありませんか。



1月11日 何をするにも主に対してするように。  コロサイ3章18〜24節

新改訳 コロ 3:18-24

3:18 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。

3:19 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。

3:20 子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。

3:21 父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。

3:22 奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。

3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

3:24 あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。



 人は、善悪の知識の木の実を取って食べたとき、罪人となりました。善悪を知るということは、恐るべきことで、神に従うことではなく、自分で自分勝手に判断をするということです。

  ソロモン王は「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」(T列王3・9)と願い、かなえられて賢明な王となりましたが、結局のところ、性的に堕落し、後半の人生は、「何の喜びもない。」(伝道者12・1)という結末を迎えることになってしまいます。ソロモン王は「知恵が多くなれば、悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」(1・18)と知恵者であることの価値を否定します。

  さて、今日のメッセージは、妻や夫、子供、親、奴隷、主人というそれぞれの立場にある人への戒めですが、特に現代社会では知恵や賢さが強調されていることの過ちを語ります。

  エバの誘惑の原因は、その実に3つの誘惑があったからです。これは、Tヨハネ2・16とも並列すると次のようになります。

@ 食べるのによく。   「肉の欲」

A 目に慕わしく。   「目の欲」

B 賢くする。      「暮らし向きの自慢」

夫婦の互いへの非難だけでなく、指導者や仲間への非難が筋の通らないことに集中しています。人が集まると、そこにいない人への批判話になる傾向があります。自分の納得のいかないことは非難するのです。夫婦間では非常に仲が良いけれど、他の人には非常に厳しい夫婦がいました。夫婦が共通に他の人を非難して息が合っているようでした。でも、互いの間に問題が起こってしまったら、どうなるでしょう。

ヨハネは「世をも、世にあるものをも愛してはなりません。・・・・神の御心を行なう者はいつまでも永らえます。」(Tヨハネ2・15,17)と宣言しています。

教区会に来られた牧師達が、この教会の婦人たちをほめていました。何かというと、決してでしゃばらず、自分を出さず、裏方に徹していたからでした。自分の満足と人の評価とは違うものです。

  親しい人、自分と関係の深い、例えば家族だと黙っては折れなくなることもあります。私が最近、心に戒めているのは「人は決して馬鹿ではない。」ということです。他から見て理不尽で、おかしいと思っても、その人なりに考えているのです。そして、その判断は、その人なりの人生から得たことで、的を得たことであるのです。昔は、聖書的な判断ということがいつも頭にありましたから、黙っていても気になり、祈るとその人を変えるための嫌な祈りになることもありました。

  先日、牧師批判をして教会を去った人から謝罪の電話がありました。心配で祈っていたものですからうれしかったです。でも、私は、その人が変わるようにとは祈らず、私への批判や教会を去ったことも、彼の益となるようにと祈っていました。同様に、教会員で心配な人も数多くいます。でも、ただ主の祝福と導きを祈るだけです。

  このような心境、信仰になったは、やはり家族の交流の影響が大きいと思います。お互い、偏った夫婦で異常なところばかりあるのですが、それが気にならなくなったのです。「つらくあたる」時も数多くあったのですが、それは自分をも痛めつけました。子供たちも気になり心配なことは多いのですが、忠告や指導よりも、励ますこと、見守ること心がけています。

  知恵があると思うと、人を指導し、批判します。でも、それは益にはならず、義人の生き方ではありません。義とは、神の御心をいつも意識することです。信仰とは、行ないでも、人格でもなく、神を信じることです。生きるとは、悩まず恐れず前進し、希望を持ち続けることです。

 「義人は 信仰によって 生きます。」


1月18日 何にも縛られずに正しいことを行なう  コロサイ3章25〜4/4節

新改訳 コロ 3:25-4:4

3:25 不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。

4:1 主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。

4:2 目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。

4:3 同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。

4:4 また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。



 このコロサイ書はピレモンへの手紙と対をなしています。コロサイ教会の有力な信徒ピレモンの家から奴隷オネシモが逃亡して、ローマに逃げ込みました。ところが、どういうわけか、パウロに会い、福音を聞いて回心し、獄中のパウロの世話をすることになりました。ピレモンのところにいたときは、「あなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。」(ピレモン11)という劇的な変化を見せます。

  獄中にいるパウロは不便なので、このオネシモが大変役に立つのですが、他人の奴隷を勝手に用いるわけにもいきません。パウロは既に奴隷としてではなく、「わが子」(10)と呼んでいるのですが、自分の利益中心に考えないのが、真実なクリスチャンの姿勢です。当然敬虔なクリスチャンであるピレモンのことですから、パウロに使えていると聞けば、そのままま仕えさせるはずですが、パウロは、敢えてその情報が通じる前に正しいことをしようとするのです。

  「親切は強制されてではなく、自発的でなければならないからです。」(14)とあるのは、私たちの教会の姿勢がここから引用しているのを覚えておいてください。それは礼拝出席においてもです。時代はどんどん悪くなっていきます。礼拝に参加するということがどんなに霊的に大事なことか、ということを身に沁みて体得しなければなりません。それぞれに尤もな理由があるかもしれません。しかし、その理由は神の前に通じず、また礼拝を集団でしないと霊的には必ず退廃するのです。(ヘブル11・25)。だから礼拝や奉仕や献金はクリスチャンにとって必須なものだからこそ、自発的であることが必要なのです。それが真に自由人である者の行動です。これをいちいち判断し、打算するのは罪の奴隷なのです。

  パウロは、そればかりではなく、もしオネシモが損害を掛けていることがあるならば、「その請求は私にしてください。」(18)とまでいうのです。先週、善悪に縛られないようにと語りましたが、同様です。パウロは、「不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。」(コロサイ3・25)を確信し、決してごまかさないのです。奴隷に対しても、信仰の弟子に対しても、彼は自分の優位を主張しないのです。

  千葉は、問題が起こったり、気に入らないと教会を代えたり、通わなくなる信者が多いのですが、この人たちが神の祝福を受けることは難しいと考えます。昨年の教区聖会で、ある教会の役員を長年やっていて、ある時に牧師批判をして教会を去った人を見受けました。明るく輝いていたご夫妻が、陰気な頑固者として人目を避けて集会に集っているのが印象的でした。その教会の牧師がマイペースで変わっているのは誰もが知っています。だからこそ、その役員が賞賛されていたのですが、どちらも傷ついてしまいました。残念です。

  右も左も非難して、自分は何もしない人がいますが、その人に神の国の報いはありません。オネシモは、奴隷である自分の身を厭い、ローマに逃げたのですが、心も身ももっと悲惨なことになりました。福音を聞き、真の自由を得た後は、逃亡奴隷として殺される危険をも覚悟して、主人の所に帰ろうとするのです。外面的状態は問題ではありません。大事なことは、神にある自由です。

  教会にも通わず、奉仕もせず、献金もしない。気が向いたとき聖書を読み、賛美を流し、気侭に生きる。それは、実は罪の奴隷の姿なのです。教会をよく替わる人が「今度の教会は、説教が面白いし、音楽もいい、義務もないし、何をしてもいい。良い教会だ。」と言いました。それなら、コンサートか寄席でも行くのと同じであり、教会には通えても天国には行けないかもしれません。


1月25日 塩で味付けされた快い言葉  コロサイ4章2〜6節

新改訳 コロ 4:2-6

4:2 目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。

4:3 同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。

4:4 また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。

4:5 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。

4:6 あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。

「塩味の効いた快い言葉」というのはどのようなものでしょうか。

 塩味が効きすぎてはしょっぱくて食べられません。子供のころ、お汁粉の中に砂糖と間違えて塩をたっぷりと入れたものを口につけたことがあります。誰が作ったのか覚えていませんが、その途方もなく塩辛い汁粉はどのように我慢しても一口も食べられませんでした。

 塩味は素材を生かし、とてもおいしくします。昔話に、領主が領民に「一番美味しい物を持ってきた者には褒美をやる」とお触れを出しました。競って美味しい物を作ってきた領民の中で、ある者が塩を出しました。領主は馬鹿にしているとして、その者を牢に入れたのですが、嵐が続き塩を手に入れることができなくなると、何を食べてもおいしくありません。塩が取れて料理に入れるととても美味しくなり、領主は牢に入れていた者を解放して大層な褒美をあげたそうです。

 でも、現代生活では、味覚がおかしくなっていて、刺激的なものを食べないと満足しないようになっています。味覚がおかしくなった理由には次のようなものが挙げられるでしょう。

1. 味蕾を形成する亜鉛が供給されていない。化学肥料で育ったものには微量ミネラルはありません。

2. 幼児の頃から味の強いものを食べている。大人の味で子供に与えているので味覚が形成しない。

3. 自然な素材ではなく加工食品を食べ過ぎている。

 味覚というものは、良くかまずに粗悪な物を食べていると決して正常になりません。とても味付けが強く、素材の悪さをごまかしている食べ物を「美味しい、美味しい」と食べる人は、やはり健康を損なってくるようです。健康ですと、人間は自分に必要な物を本能的に食べたくなるのですが、不健康になると、身体に悪い不健全な物を食べたくなるから不思議です。健全な食生活を保つと、甘い物、刺激的な物は食べたいとは思わないものですが、不健康になると甘い物、カフェインの入った物を衝動的にとりたくなります。麻薬のようです。

「堅い食物は大人の物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練をされた人たちのものです。」(へブル5・14)

 霊的に不健全な人は、粗悪な物を求め、自らの生活をだめにしてしまうのです。人生には、試練や艱難は当然誰にもあります。そういうものは簡単には解決しないのです。じっくりと辛抱強く取り組み、努力を続けるのです。それをすぐに諦めては、おとなにはなれません。

 パウロは、この時、牢獄に入っていて全く拘束されていながら、心は自由で全く拘束されていませんでした。それは祈っていたからです。祈るということは宗教的な儀式ではありません。祈りとは、自分自身や周囲のことについて、じっくりと神に伺い聞いて、何をなすべきか、その状況を味わうのです。

1. 魂の救いがなければ、世の中の味と神の国の味を区別できません。

2. この世のことに囚われ、刺激的なことを求めていては、神の国のことは理解できません。

3. 自分の願いばかりを祈る人が多く、年月を掛けて神に祈り、聞き従う人が少ない。インスタントは、よくないのです。

 このようにして、人生を生き、祈り深い人の言葉は、まさに塩味の聴いた言葉になるでしょう。冗談だから、息抜きだからといって、意味のない会話、自慢話、昔話をしても、そういう人に合わせてもいけません。6節には「いつも」と書いてあります。内容のない会話は、必ずあなたを不健全な生活に導きます。

 それでも、味気のある会話とはどのようなものでしょうか。それは、あなたという素材のはっきりとわかるものです。そして、その素材を味わうと神の国の味のするものです。教会は、そういう面で、いろいろな素材の混ざった美味しい鍋物のようです。どの素材にも、塩味ならぬ、救いと恵みの味が利いているのです。


2月1日 神の国の為に働く同労者  コロサイ4章7〜11節

新改訳 コロ 4:7-11

4:7 私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう。

4:8 私がテキコをあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心に励ましを受けるためにほかなりません。

4:9 また彼は、あなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモといっしょに行きます。このふたりが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう。

4:10 私といっしょに囚人となっているアリスタルコが、あなたがたによろしくと言っています。バルナバのいとこであるマルコも同じです。――この人については、もし彼があなたがたのところに行ったなら、歓迎するようにという指示をあなたがたは受けています。――

4:11 ユストと呼ばれるイエスもよろしくと言っています。割礼を受けた人では、この人たちだけが、神の国のために働く私の同労者です。また、彼らは私を激励する者となってくれました。

 人生とは、どのようなものでしょうか。人はそれぞれ、必ず死ぬことが定められていますが、どのように生き、どのように死ぬか、自分の意思と判断に委ねられています。

 ある人は、自分の判断はできなかった、不自由な身でどうしようもなかった、と言うかもしれません。しかし、「心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、義人は信仰によって生きる。」(ハバクク2・4)とあるように、困難な状況であっても、神を求め、謙遜に神を信じて失望せずに行きぬく人はいるものです。

私は、自分の人生を信仰の友や同労者探しに費やすことに生きがいを見出しています。自分の人生が成果があるか、幸せになるか、認められるか、はわかりません。でも、自己満足の人生は、罪の故であり堕落の人生であって、神の国に繋がることは少ないものであることは知っています。そうであるとすれば、人に期待せず、依存もせず、神の国を求め、献身する時、同じような友を見出すならばなんとうれしいことでしょうか。

大国ローマの囚人となったパウロにどこまでも一緒につきそうのはアリスタルコです。彼は、エペソでパウロの宣教に怒って暴動が起こった時、捕らえられ(使徒19・29)、パウロの伝道旅行に同行し(使徒20/4)、パウロが囚人として捕らえられた時もローマまで同行した。おそらく、このテサロニケ出身のマケドニヤ人は、自分をパウロの僕、奴隷として届け出て同行が許されたのでしょう。なんという自己犠牲の精神でしょうか。

マルコは、パウロとバルナバの伝道旅行に同行したけれども、困難な時逃げて帰宅してしまった。その後、反省したけれども、パウロはその後の同行を拒否し、結局バルナバがマルコを連れるためにパウロと別れる原因となってしまった。その故に評判が悪かったのだけれども、ローマに来てパウロに仕え「私の為に役に立つ」(テモテU4・11)とわざわざ、パウロに言われるような人物になっています。

小アジアの生まれのテキコは、マケドニヤからエルサレム教会に救援物資を届けたり(使徒20・4)、エペソに手紙を届けたり(エペソ6・21,22)、テトスにも手紙を届け、そして、このコロサイ書簡を届けています。パウロは、愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべ、と賞賛しています。彼は、怯える奴隷のオネシモを励ましながらピレモンの元に連れて行き、パウロのことを伝える重要な働きもしています。

 ユストを含め、これらの人々が、他国にいて信仰をもった元ユダヤ教徒であって、神の国のための同労者とパウロは信頼します。パウロは、弟子たちと別れるとき、「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24と自分の人生観を語り、「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20:35)と戒めを与えます。

 私は、クリスチャンになり牧師になって、多くの同労者、親友を得ました。なんという感動、なんという喜びでしょう。

 教団内では、Y師、H師、M師、I師、教団外では、K師、S師、その他、あまり会ってはいないけれども心通い合う多くの友人、知人、先輩がいる。そして当然、愛する同労者である妻もいる。

  皆さん、孤独になってはいけません。愛は、愛する対象を必要とします。人との交流を損なうものは、自己中心の罪です。つまり、罪人は唯我独尊なのです。特に、妻や夫、家族を非難する者に、義人は決していません。

 


2月8日 牢獄からの祝福  コロサイ4章12〜18節

新改訳 コロ 4:12-18

4:12 あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。

4:13 私はあかしします。彼はあなたがたのために、またラオデキヤとヒエラポリスにいる人々のために、非常に苦労しています。

4:14 愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。

4:15 どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。

4:16 この手紙があなたがたのところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラオデキヤから回ってくる手紙を読んでください。

4:17 アルキポに、「主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。」と言ってください。

4:18 パウロが自筆であいさつを送ります。私が牢につながれていることを覚えていてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。


 エパフラスは1・9にも「これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。」と最上のほめ言葉を受けています。それは、この「彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。」という言葉でも証明されます。

  クリスチャンになって自分のためにばかりいつまでも祈っている人がいるとしたら驚きです。例えば、仕事の祝福としても、それが他の人に仕えるためであるとしたら良いのですが、自分の仕事の繁栄のためであるとしたら、クリスチャンになった意味がありません。エパフラスは「あなたがたのために、またラオデキヤとヒエラポリスにいる人々のために、非常に苦労しています。」というほど、多くの人の為に奮闘するのです。

  親が子供の為に労苦を惜しまず、守り育てている姿は、親になってみれば当然なことです。女性が子を産むことによって救われる、と語るTテモテ2・15の聖句は、子を産むこと自体よりも、子育が自己否定を要求することから解釈付けられます。ですから、そこには「が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら」という条件がつけられるのです。

  ですから男性にとっても当然、他人の為に十字架を負って生きるという主の命令が要求されるのは当然なことです。キング牧師が、一番の障害は、悪意のある敵対者ではなく、善良な人々の無関心であると、語ったことが思い出されます。「しもべ、仕え人」としてこそ、パウロの仲間、同労者である資格があるのですが、その願いは、信者が「完全な人になる」ことでした。完全な人とは完璧な人ではありません。完全に神を信頼して歩む人のことです。

神を完全に信頼する人は、自分がうまくいくか否かなど、あまり関心がなく、神の御旨を果たすことだけに関心があるのです。

  医者ルカは、福音書や使徒の働きを書いたことで大変な貢献をした人ですが、彼は、どこまでもパウロに伴い健康管理をしながら福音を伝え、その社会的地位でパウロを支えたのでした。彼が高収入で社会的地位の高い医者という職業を中心に考えていたら、このように歴史に名を記すことはありません。

  簡単に書かれるデマスは、「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい」(Uテモテ4:10)という様子を既に表わしていたのでしょう。信仰生活というものは、論理でも、打算でも、平安な生涯を求めることでも難しいものです。アルキポに「主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。」と忠告するのは、このことが神である主イエスの命令だからです。

  信仰を自分の損得で考える人は、この命令を果たすことは出来ません。最近は、子育ても損得で考えるから、子供は産まないという夫婦が増えているそうです。しかし、「子はかすがい」というように、子供の為に労苦を夫婦が共有するからこそ、同労者として夫婦が一致し仲良くなるのです。アルキポは、パウロに「戦友」(ピレモン1・2)とも言われます。

  生まれながらの性格が温厚であっても優しくても、それで神の国を受け継ぐことはできません。主にある自己犠牲の労苦、福音を伝えるという労苦を続けることによってこそ、御霊の実としての品性が宿るのです。あなたもまた、パウロと同じようにこの世という罪の牢獄の中にいるのです。その不自由な中で、むしろそれを当然として他の人を祝福する者となってください。


 2月15日 神が天と地を造られた。  創世記116

新改訳 1:1-5

1:1
初めに、神が天と地を創造した。

1:2
地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

1:3
そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

1:4
神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。

1:5
神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。

 モーセ五書と呼ばれる旧約の最初の5巻の重要性は信仰者にとってだけでなく、科学者にとっても歴史家にとってもまた政治にとっても大きなものです。信仰者といっても、キリスト教だけでなく、ユダヤ教、イスラム教も正典としているものですから、世界の殆どの人の生き方に関わっているわけです。その中でも創世記、更には最初の数章は大変重要なものとなっています。

  「初めに」とはいつのことでしょうか。宇宙の歴史は、約60兆年前という説もあり、その他いろいろあり、また、極端には紀元前4000年前という人もいます。でも、神が世界を創造されたのは、完全ですから、例えば光を作るならばその何億年分の光跡をも完全に造るわけですから、何億光年先の恒星が見えるからといって宇宙が何億光年前からあると断定しなくても良いのです。また、地層や風化が数千万年掛かるから、聖書の記述は違っているというのは、自分の頭で考えた論理を信仰に優先させていることなのです。大事なことは、神が宇宙を造ったのか、自然に出来たのか、ということです。

  これも、エネルギー不変の法則とか、エントロピーの法則だとか、いろいろ科学的には創造論説も、進化論説もどちらも説明ができるのです。でも、韓国で、進化論学者と創造論学者がそれぞれ、論戦をしたところ、創造論の方が優勢だったという報告もでています。ともかく、人は、神を信じることもできるし、信じないこともできる、でも神を信じるならば、中途半端でなく、創造論を信じなければならないのです。神が宇宙を造られた。そのことに関して科学的にも説明がつくのです。神を信じているといって、進化論の方が科学的だから、それも捨てきれない、などという人は、実は、神を信じていない、信頼して生きてはいないことを自覚しなければなりません。

  「神」という言葉は、ここで単数形のエルではなく、複数形のエロヒムが用いられています。「創造した」というのはバーラーで単数主語の動詞が用いられ、三位一体の神の創造の業と説明されます。「天と地」というのは、地球を中心として天である宇宙という関係で考えたほうがよいと思われます。

ここで、地球は水蒸気に包まれた未形成な隕石などの集合体と説明する科学者もいます。今日の科学者は、太陽の起源を語る際に、まず最初に熱せられたガス体として光を放つ原始太陽ができ、それがのちに収縮して、核融合によって光を放つ現在のような太陽が形成された、と考えているようです。ここでは、15節の記述との違いは、太陽が明確に今のように輝いていたのではなく、天にある水蒸気層によっておぼろげに輝いていたということを説明するしかないでしょう。

重要な点は、神が「光よ。あれ。」と仰せられると光が出来たということです。聖書の説明を霊的な意味合いだけに理解することは、結局はご都合主義になり、信仰の破綻に会います。しかし、それでも、なお、この霊的意味は大きなものです。暗闇の中でどうなるかわからないとき、解決不能なとき、問題を抱えどうしてよいかわからないとき、私たちは言葉の意味あいの大きさに気がつくのです。「光よ。あれ。」天と地を造られた神は、私たちの大きな問題を造作もなく解決する大能を持っておられるのです。

箴言8章を読むと創造における御子の働き「組み立てる者」ということがわかります。ヨハネ1章は、御子によらず造られたものは何もないと示し、コロサイ1・16もそのことを明言しています。御子イエスこそ、私たちの問題をどのように解決するか、神の御心にそって、組み立ててくださるのです。また、そのときに、私たちに働きかけるのが、神の霊である聖霊なのです。聖霊は、工事のときに実際に監督であるイエス様の意向にそって働く労働者のようなお方なのです。

私たちは、このようにして天と地、宇宙を造られた神が、私たちの問題をも解決してくださる方であり、私たちの人生を築き上げてくださるかたであることを信じなければならないのです。


2月22日 あなたの人生を助けます。  ローマ7章15〜25節


新改訳 ロマ 7:15-25  

7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。

7:17 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。

7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。


2月29日 地球には大空の上に水の層があった。  創世記1章6〜23節

新改訳 創 1:6-13 創 1:20-23

1:6 ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。
1:7 こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。
1:8 神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。
1:9 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。
1:10 神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。
1:11 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。
1:12 それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。
1:13 こうして夕があり、朝があった。第三日。

1:20 ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。
1:21 それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。
1:22 神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」
1:23 こうして、夕があり、朝があった。第五日。


  天地創造の経緯を人間が見ることは出来ないことは当然です。それでは、この記事はどのように書かれたかということを洞察しなければなりません。最初の五巻はモーセによって記されたとされていますが、モーセが神ご自身によって超自然的に霊感を受け記したと受け留めることもできます。でもそうするとモーセ以前の信仰者、アベル、エノク、ノア、アブラハム、その他続いて起こる信仰者の経緯が偶発的な信仰ということになってしまいます。むしろ、アダム以後、信仰の系図、それは創世記に記される系図の伝承者に次々に口述伝承されてきたと考えるほうが適切かと思います。つまり、天地創造の経緯から、自分たちが神に造られ愛されてきた経緯を選ばれた信仰者に伝えてきたのです。そのことは後日詳細に説明します。

  ここでは、天地創造の経緯を科学的にというよりも、当時の人間にわかるように、そして現在の私たちにも異議のない概論として語られてきたと考えるほうが妥当でしょう。現在の科学で説明のつかないことは、次のようなものです。

・ なぜ恐竜はあれだけ大きくなり、栄え、そして絶滅したか。

・ 地層として説明される土砂はどこから来たのか。

・ 南極に青々として草があったとしたら、水はどうしたのか。現在、南極の水が全部溶けたら地球上の殆どが水に覆われる。

・ なぜ、シベリヤや南極が暖かかったのか。

・ なぜ、現在の砂漠に石油になるような大量の植物があったのか

現代日本人は、天地創造は宗教者の空想で非科学的だと考えていますが、科学で説明のつかないことも多くあるのです。実は、科学も宗教も、どちらも説明のつかないことを扱うということでは、同次元なのです。ですから、科学者で信仰者というのは非常に多いのですが、日本では殆どの人が、科学者でもなく、信仰者でもないのです。

さて、以上のことは、週報の表紙に掲げた図から説明します。

「大空よ。水の間にあれ。」とは、上空に厚い水蒸気の層があったということです。天の下の水とは、現在よりも少ない海や川、池の水でしょう。厚い水蒸気層により、地球は満遍なく温暖であり、恐竜のような巨大生物も生きられたのです。砂漠もなく、荒地もなく、氷河もなかったのです。ですから、放射線からも守られ、人間も動植物も長寿で遺伝子も損なわれなかったのです。遺伝子が健全であるならば、親族結婚でも障害者は起こらないのです。病気も殆どなく、短期間に大増殖するのです。

  植物が造られてからすぐに動物が造られたということも科学的です。植物は、動物による受粉や種の移動を前提として出来ているのです。風や波などだけでは、植物は増殖できないのです。そういう点からも、この一日という単位は的確で速やかです。漸進的な進化では、植物も動物も成り立たないのです。植物も動物も、相互依存しているのです。動物がアメーバーのようなものから進化したとするならば、なぜ、進化するのでしょうか。なぜ、腕が出来るのでしょうか。なぜ、目が見えるのでしょうか。目が見えるということは、偶然の進化で出来うるものなのでしょうか。

  果たして、科学が合理的で宗教が非合理的なのでしょうか。私は決して科学を否定するものではありません。しかし、日本では、宗教は道徳や倫理のための道具、方便として理解されているのです。神が人格神として実在し、私たちに愛するという応答を要求しているのです。神を信じるということは、生きるための方便ではありません。世界は、人間中心ではなく、神中心に動いているということを日本人は理解していません。でも、世界中の唯一神教の信者は、それを受け入れているのです。日本では、クリスチャンですら、科学が合理的で、信仰は非合理的だけれども、信仰を守っているという人が多いのです。それでは、魂の救いをえることはできません。


3月7日 人は神のかたちに造られた。  創世記1章24〜27節

新改訳 創 1:24-27

1:24 ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。

1:25 神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。

1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。   1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。



  遺伝子は細胞を作るためのタン白質の設計図です。遺伝子はDNAの中に含まれ、DNAは二列になっていて、それが分かれたときに対になっている塩基が新たに付いて新しい遺伝子が再生されるのです。DNAは分子の数が数百億を超える巨大分子で、人間には約10万個の遺伝子があります。つまり、それぞれの動物には特有な遺伝子が数百億個の分子によって構成され、その遺伝子が数万個もあって、やっと一つの種が出来ているのです。そして、遺伝子異常は病気や虚弱な体質として死をもたらし、そのようにして種が守られるのです。

個体差としての遺伝子と種の違いとしての遺伝子は違うのです。だから、ラバは雄ロバと雌馬との間の雑種ですが、繁殖不能という致命的欠陥をもつのです。もし、人間が類人猿から進化してできたのなら、結婚ができるはずですが、決して子孫は生まれません。神が種にしたがって、それぞれ、動物を造られたのであって、種の移行や進化は歴史的にもありえなかったことなのです。

  進化論に立つと、人間も動物の一種ですから、他の動物への優越性はありません。力が強いというだけで他の動物を支配しているということになりますから、強ければ何をしても良いという論理と、逆に動物愛護という論理も共に進化論から成立します。

  同じように同性愛も人間の愛情の多様性ということから、理解されようとします。強い男が、弱い女を支配するという論理も、同性同士のほうが理解しやすいから仲良くできるという論理も、人間中心の論理から発生するのです。ヒューマニズムも男尊女卑も実は神を知らない人間の勝手な論理としては同一なのです。

「神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」ということは、人が罪に汚される以前のあり方です。罪とは、自己中心ですが、その自己中心によって阻害されながらも、男と女が一つになって、神のかたちを現したいという動機は人間の中に根付いているのです。

それでは「神のかたち」とは何でしょうか。

  「御子は、見えない神のかたちであり」(コロサイ1・15)、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」(Uコリント3・18)とあるように、神は見えないので、神様が人間のような姿をしておられるわけではありません。むしろ、神の御性質、神のあり方と理解されます。そうしますと、神の御性質に似せて、人を男と女に造られたわけです。人が単独で神のかたちに造られたのではなく、男と女で神のかたちが形成されるわけです。男と女とは、夫婦のことです。

  ご存知のように、実際には仲良い夫婦はあまりいません。罪人は、それを相手に原因を擦り付けるのです。自己中心でなければ、相手中心です。恋しあう男女は、相手中心です。だから、神のかたちのようになれると夢をみるのです。性欲は悪いものだと考えてはいけません。一つになりたいという願いの現われが性欲に現れるのです。ところが、これが罪によって動機づけられるので、大変なことになってしまうのです。

  私はクリスチャンになって本当に感激しています。昔は罪の赦しに感激したのですが、今は自分の内にキリストのかたちが形成されている実感に感激しています。自分中心であった罪人の私が、性格がよくなるとか言うのではなく、無私というありえないものを少しずつ獲得しているのがわかるのです。神を意識し、神と共に暮らしていることを実感しているのです。なんという感動でしょうか。そして、それは、性格も考え方も習慣も性別も違う妻と共に過ごすということに多く起因しているのです。結婚当初は、妻を自分の思い通りのものにしようと願っていました。男尊女卑です。あるときは、妻と関わると平安がもてないので、感知しないように心がけました。そうすると反って腹が立つのです。いつの間にか、妻をよく理解し、妻と共に歩くようになりました。聖霊が内住してくださったのです。

  遺伝子には、あなたの身体的要素が全て組み込まれています。そして、神のデザインは、あなたの性格や人生までも組み込んでいます。自己中心は、思い通りの人生をねがいます。神の願い意図するあなたの人生は、罪によってではなく、聖霊に従ってこそ、達成されるのです。


3月14日 生めよ、増えよ、従えよ、支配せよ。  創世記1章28〜31節

新改訳 創 1:28-31

1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

1:29 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。

1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。

1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

 この箇所で示されるように神の創造された時、動物は全て食物を食べるものとされました。しかし、罪を犯した人間は、いつしか動物を殺して肉を食べていました。創世記9章には、動物をも食べてよいとノアに許しています。これは神の許容と理解されるべきです。既に肉食は人々にも定着していました。ローマ書8章には、被造物が虚無に服した、滅びの束縛に入ったと記されています。つまり、人間が罪を犯したので世界全体が変わってしまい、動物も肉食になったのだと類推できるのです。イザヤ65章には、「狼と子羊は共に草を食み、ししは牛のようにわらを食べ」、とありますが、それは回復された千年王国のことです。イエス様が臨在するところでは、被造物が回復されて肉食をしなくなるのです。

 生めよ、増えよ、とありますが、肉食をしないで、罪もないから殺戮や犯罪もなければ、増えてしょうがないと思う方も多いかと思います。でも、現在の世界で耕作可能なところは一体どのくらいでしょうか。被造物が、損なわれてなければ、世界中が緑豊かなはずで、現在の人口の何倍も人は生きられます。動物もずっと多くても平和に過ごせるほど地球は広いのです。問題は、現在の地球が荒れ果てていて、耕作ができず、水もない、天候も温暖ではないということなのです。つまり、被造物が滅びの中にいることが問題なのです。
 
 罪の状態では、生みすぎてはいけません。増えたら暮らしていけません。それは、まるで現在の人間社会、家庭の状態です。私たちが長男を生むときは、私が3週間で3日間の断食を3回もして奇跡的に癒され生まれました。長女は、神学校の卒業の直前で私が健康的に全く害された年で、次男は経済的に厳しい開拓伝道の時、次女はクリニックを開業してまもなく院長の出産は倒産を覚悟したものでした。3女は既に高齢出産で、産後の診察は長期間できないことを覚悟しました。このようにして5人の子供が神によって与えられたことは、私たち夫婦が、神に従ったからです。私たちは、自分の経済状態も、健康も、

 状況も、全て神の手の中にあることを信じ、親の立場よりも子供を産むことを優先しました。実際に考えると、日本の普通の親ではどれも産まないような状況です。私たちは、そのように自分たちの労苦を恐れて、産む決心をしない人々を多く知っています。親は、動物でさえ、自分のたちの命を犠牲にして子供を産み、育てるのです。神に従わなければ、実は自分の人生をも自分に従わせることは出来ないのです。自己中心の人生は、滅びの束縛に入るのです。

 「支配する」ということは、支配されるものが最善の状態に管理されることを意味します。自分の都合で生きる人が、うまく治めることができるはずがありません。今は非常に忙しく毎晩遅くまで仕事をしています。でも、休日は守ります。今週は、庭の梅の木を生かすため剪定をし、また4本の梅の木の中心にあった楓の木を思い切って幹を半分にしてしまいました。決断し管理しなければ、決して良い実を多く収穫することも木々の美しさも味わうことが出来ません。

 充実して仕事をすることも大事ですが、食事を作ったり、食器を洗ったり、犬の世話をしたり、買い物をしたりすることも人間としての基本的な生活です。私は、金銭を得る仕事だけをする人を異常であると判断しています。それだけで他には、テレビや新聞を見るだけの人は、必ず病気になり、ぼけます。それは人間としての基本的生活習慣を身に着けていないからです。他の家族ですと引っ張っていく愛犬のジョイが私とは、わき目をふらず忠実に私の傍を静かに歩きます。長男が感心してまねようとしましたが、簡単にはジョイは従いません。私は、得意でした。ここまでするのに、2年も掛かりました。そう簡単に息子にジョイが従われたら、反ってがっかりです。

 多くの人は、私たち夫婦が仲が良いと感心します。でも、私たちはお互い、かなり配慮しあっていますし、気をつけて助け合っています。片方でも自己中心ならば夫婦が仲良くなれるはずがありません。神にも伴侶にも支配されてかまわないと思えなければ、とても自分自身の人生を治めることは出来ないのです。

3月21日 神が造られたものはすべて良かった  創世記1章31〜2章3節

新改訳 創 1:31-2:3

1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

2:2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

2:3 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

イザ 48:16-18

48:16 今、神である主は私を、その御霊とともに遣わされた。

48:17 あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

48:18 あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。

イザ 49:15「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。




  天地の創造は六日間で終わりました。それは非常によいものでありました(31節)。それは完成されたものでもありました。つまり、その後、補完されたり、創造が続くというものではありません。当然、自然の変動はあり、歴史は刻まれますが、創造という神の業は、少しずつなされたものではなく、この間に完成されたのです。それは、不十分なものではなかったのです。

  現在、自然を見ると、かなり損なわれてきたと判断されます。汚染が進み、自然破壊が進んでいます。人間がその使命として与えられた、地を従え、生き物を支配するということは、もはや罪によって全く損なわれてしまったということができます。先週も説明しましたように、創世記3・17からも、土地が呪われたこと、人間の働きも苦しむものとなってしまいました。

  神様が完成されたものを造られたのに、人間が罪を犯しただけで不完全なものになったとしたら、神の力も大したことはない、と言うことになってしまうのでしょうか。

  そうではありません。神は、人間が罪に勝利すること、自然が罪に勝利した人間と共に回復することを約束しておられるのです。「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」(ローマ8・21)。

  例えば、人間は自分の子どもをいかに愛しても、その子どもから尊敬され、愛されるとは限りません。子どもが成長し、親の愛と人格、子どものための努力を知って初めて、子どもも自立的に親を愛し敬うのです。三歳までに子どもは、親の喜びを殆ど満たしてしまうなどということわざは、成人しても子どもに敬われることのない親の悲しみをたとえたものであって、罪の産物の人間性に対する諦めです。

  私は、現代でも青年たちの歌や文の内容を知るとき、安心するのです。実際には、遊びほうけている子どもたちでも、真実の愛や友情、誠実な生き方を求める言葉が、それらの中にあふれているのです。

私は、反って禁欲的、戒律的、或いは批判的になる親の世代に心配を覚え、その抑圧の中で苦しむ子どもたちに深い哀れみを持ちます。また、信頼することを知らない人々の存在にも驚きを覚えます。

  神は、そのような人間社会を知っておられ、また予測もしておりました。しかし、神はそれでも、神は、お造りになったものを全て、人間をも含めて、「はなはだ良いもの」と見られたのです。私たちも、たとえこれまで産んだ子どもが大変手がかかり苦労したとしても、また子育ての苦労が予想されても、自分の子どもが生まれる時、全く良い子、愛するものとして受け入れてしまいます。神は、そのように罪人になることを知っておられながら、人間を愛し、いつくしんだのです。その愛は、人間の罪によって損なわれるほど弱いものではありません。イザヤ書43章をぜひ、読んで下さい。神は私達を造り出した方であり「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」として、いつも私達と共にいてくださると言ってくださっているのです。

  親から愛された人々を知っています。彼らは、能力がなくても、豊かでなくても、社会的な立場が低くても、満足しています。喜んでいます。幸せです。私自身、親から「愛している」、などと言われたことは一度もありませんが、私を愛し、私を育てるために一生懸命働いたこと、私と一緒にいることを喜んでくれたことを知っています。そしてクリスチャンになり、神の無償の愛を体験しました。ですから、私には、あまり名誉欲とか、金銭欲とか、意地とかあまりないと自覚しています。別に、他人と比較しなくてもいいのです。立派な人にならなくても良いのです。既に神の愛を受けているのですから、この世でも成功や功績は大したことではないのです。

  日曜日に教会に来て礼拝をするということは、その喜びの確認であり、充足であります。安息日を守れ、というのは、命令でなくて、祝福の確認なのです。礼拝に来るのを義務と考える人は、この喜びの中に入っていない人です。罪人には、この喜びは義務としか映りません。そして、神を信じない人は、礼拝を守ることは出来ないのです。