9月 7日 御心に適った生活を過ごす。  コロサイ1章9〜12節

新改訳 コロ 1:9-12

1:9 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。

1:10 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。

1:11 また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、

1:12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

 人生には必ず思い通りにならないことがあるものです。自分や家族の病気や怪我,事故、或いは劣悪な環境や状況もあるでしょう。そのような時、どのように対応するかで人の本性がでるものです。先日、ある牧師の生い立ちについて知りました。両親は離婚し、育ててくれた母が小学生の時死んで、父に引き取られたけれど、いつも暴力を受けていたそうです。その父も彼が中学生の時に死んで、それからは自らも荒れ荒んで大変な青年期を過ごしたようです。

 親が争うということは子供にとっては大変なショックなようです。親がいないということも同様です。小さな子供では、少しの間いないだけでも心に傷が付くことがあるようです。思春期には自分の容貌や能力、体力にも多くの関心があり、他人と比較するもので、劣等感を持ちやすいのです。でも、子供たちは、自分の弱さ、未熟さ、欠点を認め、教えに従い学びもするのです。そして、思い通りにならないこと、状況が良くないことを悲しみ、苦しむのです。

 私には何度も言及しますが、子供の頃の決心がその後の人生を大きく変えています。一度目は、「子供らしくない」と言われたことでした。子供心に自分が良い子ぶっているのを、恥じたのでした。2度目は、小2の時、目立とうとして嫌な人間になっているのを先生が嘆いてくれたからでした。3度目は、例の小学卒業文集です。これらのことの中で、私は決して自分を恥じる人間にはなるまいと決心したのでした。

 さて、大人になるとどうでしょうか。 大人になると、自分勝手な生活を始めます。そして、もう少し年をとると処世術を心得ます。うまく社会を生き抜き、自分が得をするように立ち回るのです。クリスチャン生活も同様です。信仰をもってしばらくの内は、自分の罪深さにおののき、恥じて、聖書を読み、礼拝も忠実に出席して祈りや奉仕をするのですが、数年するとクリスチャンとしての処世術を覚えます。日本では多くのクリスチャンが数年するといろいろな理由で教会を離れ、元クリスチャンになっていきます。

 最近の日本人は処世術は心得ていますが、信念や誠実さといったものが欠けてきているように思えます。処世術とは、この世の知恵や理解力です。パウロは、「霊的な知恵と理解力」を強調します。「霊的」とは、神を知るということです。皆さんは、思い通りに行かないときに神に掛けているでしょうか。少し祈るけれども自分の判断で物事を進めているのではないでしょうか。

  大人になり、この世の知恵を身につけますと、決して冒険をしません。それでも自分の力ではどうにもならないことが起こるものです。そうすると愚痴を言いながら、その償いに対処するのです。

  「神の栄光ある権能に従い」とは、神の大能にじっと待つということです。信仰というものは、忍耐力のない人にはなかなかその祝福を得ることは難しいものです。「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(ヘブル10・36)これはただ黙っているのではなく、神が働いてくださることを待ち続け、信じ続けるということです。

  教会堂の競売物件を入札したときから、朝に夜にその建物の周りを回ってお祈りを続けました。居住者がなかなか立ち退かないときも、その方々の祝福を祈りながら、「神は良きことしてくださる」と信じ、決して自分では行動を起こしませんでした。それは毎日、その建物の周りを回り、彼らの幸せを祈るからこそ、「失礼なことをしてはいけない。退去する方々の心を傷つけてはいけない。」と平安を持ち続けられたのです。

  自分の幸せを祈るのではなく、他の人の幸せを祈るのです。夫婦というものは、伴侶のために自分を捧げるのです(エペソ5・25)。自分のために伴侶に要求するならば、必ず争いになります。親は子を愛して、子供の為に自分の自由な時間を用いるべきです。そうするならば、子供もいつしか自分の時間を親の為に割いてくれるようになります。

  自分のために人も時間も金も利用するのは、この世の知恵です。でもそれは全て虚しく浪費され、後は誰にも相手にされない孤独な自分が残るのです。神が人を愛し、その命までも捨てられたように、あなたもまたクリスチャンとして、自分のために生きることを辞めなければ、実際には形式上のクリスチャンとして「何の喜びもない」人生を送らなければなりません。


9月14日  私たちは闇の中から救い出された。  コロサイ1章13〜18節

新改訳 コロ 1:13-17

1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。


 闇が大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」と創世記の最初にあります。私は自分が神を信じる前のことをよく覚えていますし、神を信じない人々の心の暗闇を知っています。残念ながら、多くのクリスチャンが、自分の罪を認めず、神を信じていない人々を尊敬し、信頼しています。また、自らの世の中の功績や働きを誇ります。そして、反ってクリスチャンを非難したり、軽んじたりすることもあります。

  確かに、「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。」(Tコリント1・28)とあるように、私もクリスチャンになる人は、どこか、抜けている人が多いと感じることがあります。(失礼!)。それは宗教者一般にも言えますが、たまにはしっかりとした人格的、理性的信仰者もいます。ところが、実際には、そのようなしっかりとした信仰者は、単純な多くの信仰者を食い物にしたり、犠牲にして頭角を現します。政治家など見ると、上手に他人を犠牲にし、搾取することができる人ばっかりです。でも、やはり、「神は侮られるようなお方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6・7)。長い年月で、そのような搾取は見えてきます。

 ところが、クリスチャンは、そのようなこの世の論理を決して肯定してはなりません。私自身は、次のような原則を自分に課しています。

1. 決して威張ってはいけない。仕える者の意識を持つ。

2. 自分の欲得で行動しない。そのような人と行動を共にしない。

3. 成功しようとか、偉くなろうと思わない。

4. 自分の思うとおりになると思わない。

5. 他人の意見をいつも聞き尊重するようにする。

更に、私が信用しない人を明言しましょう。

1. 良いこと取りをする人。得になること、益になることを求め、実践する人は、損をしたくありません。犠牲を払いたくありません。現代社会はそんな人ばかりです。

信仰者の例・教会を渡り歩く信者、教団を出て単立教会になる牧師、特別な集会にしか参加しない信者、奉仕や献金をしない信者。

2.休むことができない人。趣味や教養がない人は、自分の内部を見るよりも人との比較に生きた結果です。そういう人は人生の意味も探ることがないでしょう。

3. 親友のいない人。友人は自分勝手に生きたら、持つことはできません。時間や価値、金銭を共有しなければ友は作れません。

 さて、このように語られると立つ瀬がない人が多いと思います。「自分は牧師に信じられていないのか」、と思ってしまうでしょう。でも、人の罪性というものは、そのように信用しうるものではないことを多くの日本人クリスチャンは確認できないのです。人は、罪人ですからいつでもあなたを裏ぎることがあるのです。

  罪を認め、神を信じると言うことは、新しい創造です。新しい歩みです。それは、人に依存するのではなく、神に依存し、人は全て罪人であることを覚えながら、愛することを決心するのです。神の愛は、私たちの人間性に依存するものではなく、神の本質に基づくものです。私たちは神の愛に相応しい者ではないからです。自らが神の愛に相応しく、立派な信仰者であると自認する人は、いつか必ず自らの失敗や罪深さにおののくことになるでしょう。

  あなたの内に新しい創造がなされなければなりません。

「大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」
                                      (ガラテヤ6・16)

  人間に躓いてはなりません。自分にも失望してはなりません。問題や困難の多さに戸惑ったり、苦しんではなりません。人間社会は闇です。たとえ、会堂が出来上がったとしても、困難の多さは減ったわけではありません。反って規模が大きくなっただけ、風当たりが強くなるのです。

  この自分勝手な闇の社会で、キリスト・イエスと共に新しい歩みを始めるのです。神を信じて、相手に左右されないで生きるのです。


9月21日 和解の働きと勝利。  コロサイ1章18〜20節

新改訳 コロ 1:18-20

1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、

1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。


先週は、「良いこと取りをする人。休むことができない人。親友のいない人。」は気をつけなければならないと語りましたが、今回の献堂式には不思議な友人が駆けつけてくれました。彼とは約十九年前にたった二,三時間一緒にいただけです。ところが不思議に惹かれて年賀状だけの交流を続けていました。でもそれが長くなるといつしか親しい友人のような気がしていました。そして、今回わざわざ大阪から駆けつけてくれたのです。話してみて、「やっぱり考え方が同じだった」という思いが確認され非常に感慨深い思いをしました。こういうときに恩師や友人が来てくれると何よりもうれしいものです。

  それは私たちが日常、敵意や裏切り、争いや嫉みなどの人間関係の中にいるからです。ヨブが大変な苦しみの中にいるとき、友人たちは彼を責め立てます。ヨブは「落胆している者には、その友から友情を。さもないと彼は全能者への恐れを捨てるだろう。」(6・14)「真直ぐな言葉はなんと痛いことか。」と嘆いています。人が苦しんでいる時、失敗した時、忙しい時、助けをしないで非難したり攻撃したり責めたりする人がいます。その人は、なんとかわいそうな人生を送ってきたことでしょうか。おそらくその人には親しい友がいないでしょう。いつもいがみ合って生きてきたのでしょう。キリストの愛を知らず、緊張した生涯を過ごして来たのでしょう。

  キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。(エペソ2・15,16)

皆さんはシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を知っているでしょうか。ヴェロナという町の二大名家は昔から争い合い憎みあっていた。モンタギュー家のロミオとキャビレット家のジュリエットが愛し合うのですが、その敵意の中でロミオは不本意な殺人を起こしてしまい、結局二人は自殺しあうことになります。その悲劇に後悔した両家はやっと和解することになるのです。この二人は無意味な敵対の犠牲者として死に、和解をもたらすのです。



この二人は不本意な犠牲者ですが、イエス様は、和解のための犠牲としてわざわざ人間として生まれたのです。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12・24)

  さらにローマ署には「被造物も滅びの束縛から解放され、神の子供たちの栄光の自由の中に入れられます。」(8・21)とありますが、これは、キリストの再臨、支配によって世界が滅びないものに変えられるということを意味しています。最近の天候異変や自然界の異変を見ても地球が人間の罪によって破滅の兆候にあることは明らかです。人間が自らの罪によって人生を滅びへと進めているのと同様です。

  御子イエスが教会のかしらであるということは、まず、教会においては、そしてクリスチャンというものは、和解の働きをしなければならないということです。

  最近、クリニックがギクシャクしています。患者さんが増えて、対応できなくなっています。従業員を増員しましたが、それで解決できるものでもないようです。私は利益が減っても事業を縮小することを考え始めました。医療、治療というものは、商売ペースでやってはいけないものです。和解の働きは効率ではありません。犠牲になる人がいなければ、和解は進められません。教会もクリニックも大きくなってきました。だからこそ、拡大を目指してしまって、真実さがなくなってはいけません。教会も献身した信者、主の弟子になった教会員が十分でなければ成長してはいませんし、活動を拡大すると滅びてしまうことでしょう。

 友が必要であることがわかるのは、あなたが真実な生き方をするからであって、自分中心な生活をする人には、無駄と映るでしょう。和解が必要であることをわかるのは、神の和解を体験し、許しの恵みを体験した者だけなのです。最近、やはり友も愛も必要のない人が増えているようです。


9月28日  信仰の自信を持とう!  コロサイ1章21〜23節

新改訳 コロ 1:21-23

1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、

1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

1:23 ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。


 最近、若い人と話していて気がつくことは、丁寧語を使えばどんなことを尋ねても良い、話しても良いと考えている人が多いということです。そして、年長者が彼らの質問や要求に答えられなくて、当惑し、時間を割かれていることが見受けられます。電話などでも丁寧語で話せば何でも聞いて良いと求めてこられ、答えないと失礼だとさえ思われる場合もあります。

 一つのことを会得するのには大変な努力が必要です。例えばコンピューターを自在に使うのにどんなに努力が必要なのか知らないで安易に人に聞いてうまくなろうとします。教会の平面図を描く為に、いろいろと試み、結局幾つかのCADソフトをダウンロードして、更に作図に5日間掛かりました。その結果を見て、知らない人は簡単にできるのだからすごいと言い、自分にはできないと諦めます。当チャペルの公式写真は、根本さんが大変な努力をしてあんなに綺麗にしてくれました。それは集中力であり根気であり熱意です。最新の技術を取得するのに必要なことは、実はそのような精神的なものなのです。「自分は苦手だ、わからない」と言う人は、習熟した人が全くわからない途方にくれるような故障解決のためにどれだけの努力をしたか理解できないでしょう。

 クリニックで従業員の募集をしていますが、履歴書を作るのにも殴り書きで、求職の理由も無理なく長く働ける職種で残業もノルマもないから、などと答えるのだから、とても採用などできません。努力し、苦心し、習熟するから仕事も楽しくなり、同僚とも協力できるのです。やる気のない人がいると職場の士気も低下します。採用しても本当に仕事ができるようになるには数年掛かります。会社では、新規採用した人には、そのつもりで時間と手間を掛けて教育指導にあたるのです。ミスや未熟は計算済みです。ところが、言い訳を言ったり、努力を惜しんだりする人が多いのです。面接の時に気がついたのですが、服装がきちんとしていない人が多く、人生にもやる気が見られません。こういう人々はどのような生活をしているのか、反って気がかりでした。

 「幸せになろう、生き甲斐のある仕事をしよう」という人ならば、技術や年齢に関わりなく採用します。何故、そういう人が少ないのでしょうか。それは、努力を惜しむからのように見受けられます。自分の弱さを認め、成長しようという願いが少ないからでしょう。

クリスチャンでも自信のない人が多いように感じます。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3・14)。会社ならば、倒産や解雇はあるでしょう。しかし、神は見捨てることはありません。ところが、私たちは、「かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったので」どうしても、自分に自信が持てないのです。

 「贖う」という言葉は、奴隷を金銭をもって買い取るという意味から来て、私たちの罪の代価としてイエス様が十字架に掛かられたことを言います。つまり、私たちを「聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるため」にイエス様が代価を払ってくださったのです。

 努力をせず、労を惜しみ、責任から逃れようとしている人は、自分が解雇される恐怖を感じながら言い訳と責任転嫁をします。クリスチャンでも自分の能力や品性に自信のない人は、言い訳と責任転嫁をします。ついでに愚痴話をします。

 ビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」をご存知でしょう。ジャン・バルジャンは貧しさのために一切れのパンを盗んで投獄されました。脱獄を繰り返したために二十年近くも刑務所で生活することになってしまいました。しかし、ジャンの性格はミリエル司教に出会ってから変わって来ます。ジャンが司教の家にある銀の食器を盗んだのに、司教は銀の食器をジャンに与えたと警察に証言し、実際にそれをジャンに与えました。ジャンは今まで自分を守ってくれる、自分を信頼してくれる人を知りませんでした。しかし、ミリエル司教との出会いによってジャンは慈悲の心を持つようになり、他人のために自らを犠牲にするようになったのです。

 本当に神を信じ、すがる人が殆どいないように思われます。神を信じないで、人を裁くのです。神を信じない理由が、他の人の責任であるかのように言う人がいます。日本では、自分の信仰の停滞を牧師の責任であるかのように言う人が多いと聞いています。「自分にはミリエル司教がいない」というのではなく、ジャンのような反省が必要なのです。神は、信仰者を一人一人見ていて、えり好みをしません。あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。


10月5日 教会のために苦しむことが奥義  コロサイ1章24〜27節

新改訳 コロ 1:24-27

1:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。

1:25 私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。

1:26 これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。

1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

 久しぶりにゴルフをしたら、ブービー賞(下から2番目)を取ってしまった。牧師がゴルフがうまいのも変なので、まあいいかと3位と同じ賞品に「ラッキー」と喜んだが、やはり習熟は日夜の鍛錬であると思わせられました。先週は、コンピューターの操作などで上達するのはなんでも試してみること、とにかく使うことであることをお話しました。

  自分に戒めていることは、すぐ教会を大きくしようとすると、脆いものになって試練や問題で簡単に崩壊してしまうということで、バルセロナにあるガウディのサグラダ・ファミリア教会の建築を思い見ることにしています。この教会は1882年に着工してあと100年から200年は掛かるだろうと言われ、世界中から優秀な職人が集まって建築を続けています。どのようなものになるかさえよくわからないようです。

 現在の私たちの価値基準に私はあまり迎合したくありません。

1. 早い、安い、うまい、という食べ物が果たして健康に良いのか。

2. 温厚な性格でどのような人も考えも受け容れるという人に信念や信仰はあるのか、打算の産物ではないか。

3. 財産があって、能力があって、社会的地位も高い人が価値ある人なのか。聖書は否定しているのに、クリスチャンはそれを望んでいるのではないか。何を血迷っているのか。

4. 楽しいこと、面白いことに心を向け過ぎると人間は馬鹿になり、愚かになる。自分の内面を見ているのか。

5. 実際に行動し、意見を言い、責任を取り、物よりも人を大事にする人が少ない。偉そうに批判ばかり言うな。

 この説教を読んだ友人たちは、「よく言いたいことが言えるな、羨ましいよ」

と言いますが、教会というのは「キリストの苦しみの欠けたところを満た」すところです。クリスチャンというのは、キリストが人々を愛し、その人生を人々のために献げ、福音を伝えるために生きたのに、それでもなお受けた迫害や苦しみを、自らもまた体験することが必要なのです。教会はどんな人でも参加することができますし、出入り自由です。私たちの教会は、ノルマさえありません。それは自発的にキリストの愛とその心を知った信仰者が教会に参画することを願うからであって、強制や洗脳では決して達成することはできないのです。

 教会は民主的な組織では在りません。話し合いで決まることは信仰的とは言えないからです。説教というものは、聖書の宣言です。それに反応する人は祝福を得ます。クロスロード・チャペルは綺麗になりましたが、十字架の道を伝える教会です。人を愛し、福音を伝えるためには十字架を負わなければなりません。十字架とは、自分を取り巻く人々の罪深さであり、それを負うということは、自他の罪深さを覚悟して黙々と生きながら福音を伝えるということです。このことの反応は学びでも、努力でもありません。

 「神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4・24)とあるように、礼拝において霊とまことが現れるのは、説教に対する応答であります。これは人が話し合いや講義で促すことや理解をさせることとは違います。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは聖書によるのです」(ローマ10・17)。

 信仰というものは、自分の能力や性格に依存するものではいけないのです。救いは能力や行いによるのではなく、神ご自身に依存するのです。「彼(イエス)に信頼する者は失望させられることがない」(ローマ10・11)からです。ですから、説教は、生きた言葉であり、礼拝者に対する迫りなのです。そして、その御ことばに対する反応こそが、霊的な礼拝なのです(ローマ12・1)。「この世と調子を合わせてはいけません」(12・2)。

 「奥義」とは、神の語りかけに答えてキリストのため、教会のために労苦をする者にこそ栄光に富んだ望みを持つことができるということなのです。教会とは世界にただ一つの公同の教会のことではなく、地域教会のこととしてパウロは話していると石原先生が語ってくださいましたが、教会をコロコロ変える人が苦労するのは、自分の罪のためであって教会のためではありません。私は、あまり報いのない教団や教区での奉仕を、同じようにキリストに仕えるための当然な労苦であると考えています。自分に見返りがないからこそ、奥義の祝福を味わえるのです。

 「教会から得るものがない」と考えている人は、教会に自らを捧げていないからです。目先の損得を考える人は、本当の宝を得ることはできないでしょう。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6・21)。「あなた方は神にも仕え、富にも仕えることはできません。」(マタイ6・24)


10月12日 キリストにある成人  コロサイ1章27〜29節

新改訳 コロ 1:27-29

1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

1:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。

1:29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

 私のコンピューターが壊れました。先週くらいから少しずつおかしくなっており、よく止まっていました。金曜にとうとう立ち上がらなくなり、リカバリをかけて再インストールをしてさて使おうと思ったらまたバグ、こんなことを3時間かけてやるとまたバグ、だんだんおかしくなってきたら最後に、故障が出てしまった。計5回のリカバリやインストール、そしてやはり壊れていたノートを修理し、使うものとファイルをインストールしてやっと週報を打っている。慣れてきたけれどもおかしくなると10時間は最低、今回は20時間かかります。便利だけれど、壊れると本当に大変。「キリストにある成人」を準備していて、こういうことを忍耐してできるのだから、私も少しは成人なのかなと思いながら黙々と修理していました。

 さて、「労苦しながら奮闘」してこそ、その成果の喜びと感激は大きいものです。このチャペルの献堂式には本当に感激しましたが、その時に私は故奈良幸子姉がいたらどんなに喜ぶかと思わせられました。細井師の讃美の時に、これまでの労苦とその中にあって祈ったこと、讃美したことなどが思い浮かんできて、感謝と感慨で思わず涙が吹き出てしまいました。

 労苦の中に伝道した人として、最大の預言者イザヤをあげましょう。イザヤは紀元前8世紀から7世紀にかけて、イスラエルの国難と背教の中で命がけで伝道し、最後は木の間に挟まれてのこぎりで殺されたと言われています。イザヤはキリストに出会っていないのに、キリストの恵み、救い、信仰による義、そして主の降誕、生涯、殉教などを明確に預言しています。その預言があまりに的確で正確なゆえに、また福音の理解があまりに深く恵み満ちたゆえに、イザヤ書はイエス様以後に書かれたのではないかとさえ、疑う者もいたほどです。

1;18 たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。

26:3 志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

29:19 へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。

30:15 神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。

43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。


 これほどまでの深遠な福音理解そして、メシヤ預言をなぜイザヤは悟ったのでしょうか。私が「十字架を負う」、「十字架に掛かる」、「キリストの死と同じようになり」、「キリストが私のうちにおられる」、などを体験理解したのは、大きな信仰的試練の時でした。当時は自分の困難に泣き喚き、苦しさに呻いたものでしたが、そのようなままでは決して福音を理解することはできません。自分の困難を見ても、周囲を見ても、いくら模索しても、それは個人の悟りでしかありません。物事に対応する姿勢を身につけるだけなのです。

 キリストを見上げ、それを見つめておられた父なる神を思い見るのです。そして、御ことばに立つのです。信仰とは個人的な悟りではありません。ですから、仏教のように黙想したり、禅を組んだり、哲学を重ねても、奥義を体得することはできません。

 信仰とは、実践です。福音を伝え、敵を愛し、労苦に耐えて奮闘し、祈り、感謝し、そして共におられるキリストを体験することが奥義なのです。

 あなたにとって、それは現実離れしたことでしょうか。福音を語り、伝えるということが、実はこれらすべてを全うすることなのです。福音を伝えなければ試練にあうこともなく、福音を伝えないで起こる試練は、ただあなたと周囲の人の肉の弱さから来るだけのものであって、それはすべての人に起こりうるものなのです。そのような世の常のものから、自分の悟りを得てはなりません。クリスチャンにとって、個人的な悟りは、有害です。それは個人の世界を形成するにすぎません。私たちは、ただ主に仕え主を伝えることを旨とし、キリストの栄光の中に入っていくのです。ですから、そこには神から来る喜びや平安、愛と感謝が伴うのです。


10月19日 神の奥義であるキリスト  コロサイ2章1〜7節

新改訳 コロサイ 
2:1 あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。

2:2 それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。

2:3 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

2:4 私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。

2:5 私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます。

2:6 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。

2:7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。

 人を愛することは苦闘することであります。愛する者は、その相手がどのような状態でも良い、黙認するということはできないのです。「我が家は子供の意見を尊重して自由に育てている」などという親が多いのですが、いざとなって子供に問題が起こったり、助けが必用な時、それは子供のことだから自分で責任を取れと放置している場合が多いようです。それは、会社などにも言え、責任を取らない人が多くなっています。上司は責任を部下になすりつけ、成果を取り上げてしまうのです。これでは、愛し合う家族も、業績の上がる会社もできるはずがありません。

 先週はイザヤの「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」(イザヤ40・1)という預言を与えられる凄さ、このようなメッセージを感じ取るまでの霊的敏感さを取り上げましたが、パウロの「苦闘」(コロサイ2・1)もまた、信者が

@ 心に励ましを受け

A 愛によって結び合わされ、

B 理解した全き確信に達する   ためでした。

 他の人を励ます人はなかなかいません。みな、自分の自慢話や関心のあることを話し、また人を自分の思い通りに動かそうと思っているだけです。伝道するということを、相手をクリスチャンにして自分にとって都合の良い、理解し会える人になって欲しいためにする、という動機が見え隠れするときがあります。実際には、人が思い通りに神を信じないところから、愛の苦闘が始まり、真の伝道が始まるのです。

 また、そのような苦闘を日々実践している者同士こそ、愛によって結び合わされるということが実現するのです。エレミヤは涙の預言者と呼ばれています。真実に主の言葉を語り伝えると人々は、彼をそしり、侮辱し、笑いものにします。エレミヤはもう預言をやめようと何度も決心しましたが、やはり

聖霊は彼の内に働いて、語らせずにはいませんでした。

 私自身は九人兄弟の末っ子で、可愛がられて育ちましたから、人に嫌われること、理解されないことがいやでした。でも献身し、伝道者として歩む中で、「人からなんと思われようと神につく」ということを身に着けてきました。自分という殻を打ち破らなければ、成人になることはできません。さて、今日は皆さんに一つの課題をもってもらいたいと願っています。それは、一人の人と、最低三十分間、世間話以外の話をしてもらいたいのです。そし相手を励まし、聖書の理解を深めることを確認してほしいのです。

 さて、「キリストを知る」ということは、「キリストについて知る」ということではありません。私たちは、毎日多くの人と会いますが、なんと形式的な付き合いが多いことでしょう。人格的な交流は、あなたが人格的に生きれば、ちょっとした出会いでもできるでしょう。生ける人と人格的な交流ができない人は、生ける主イエス・キリストとも人格的に交流ができないでしょう。

 実はコロサイの教会には異端が入り込んでいたようです。そして、「奥義」と称して、一般の信者にはわからない高度な知識と知恵があり、それを学ばなければ神に近づくことはできないと教えていたようです。「まことしやかな議論によって」、過ちに導かれてはいけません。幼子のように神を信じ、神と交流するのです。神に頼りすがる者を、神は捨て置くことがありません。

 純粋であるべきです。純粋に神を信じ頼らなければ、「キリストの中に根ざし」た生活などできるはずがありません。自分に自信があったり、高慢な人は、決して真実な信仰生活はできないものです。そういう面で金持ちになろうとしてはいけません。財産に目を向けてしまい、キリストには関心がなくなります。

 このようにして、宗教行為が形式的に根ざされた生活ではなく、生ける神キリストの臨在の中に生きる生活、それを中心とした生活設計を願い考えるべきです。日曜日に働かなければならない生活は見直すべきです。家族がバラバラな生活、仕事は修正しなければなりません。忠実な献金ができないような生活は、欲望と快楽に惑わされています。祈りや讃美、聖書を読むことがない人は、すでに神のいのちから離れています。その人の内には、苛立ちや怒り、敵意や高慢、欲望や堕落が入り込んでいるでしょう。

 日々の積み重ねで、人生と人格、信仰が築き上げられます。見栄や意地、欲望で築き上げた生活は、もろくも崩れ何も残りません。そして、あなたは罪に囚われて、神の裁きの前に、証拠を積み上げているのです。

 私は教会員や家族に自分以上の献身や努力を要求しません。でも、自分以上に神に近づいている人に出会えば喜びです。神を第一にし献身している人とは、直ぐに愛によって結び合わされるのを体験します。キリストにあって生きることは奥義です。


10月26日 キリストにあって満ち足りる。  コロサイ2章6〜10節

 新改訳 コロ 2:6-10

2:6 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。

2:7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。

2:8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。

2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

 母親が高校生と同棲し、4歳の男の子がその高校生に虐待されて死んだという事件がありました。その子は高校生が出入りするようになてから保育園でも感情的な爆発がみられるようになったようです。

 私たちは、それぞれ何らかの心の傷や経験、失敗によって自らの性格や考え方が形成されています。無論、喜びや楽しい体験も同様に影響を与えますが、不健全なものの方が意識の中に入らないで、いつの間にか劣等感や挫折感、心の歪みを起こしているようです。

 先日の寺田姉による家族形成セミナーには啓発されました。周りの人を変えよう変えようと忠告や指導、押し付けなどを繰り返すことはよくあることです。自分が他の人に依存しているわけで、それはまた自分自身をも見ていないことになります。

 先週は礼拝で、30分間会話を続けてください、とお願いしました。

@ 自分のことに関心がある人がいます。そういう場合、会話が成り立つのは、相手が他の人におせっかいな人で、助言や参考になる話をして相手を変えようとするので、長話ができます。双方共に自分に関心がある人同士の会話を聞いたことがありますが、相槌を打ちながらまったくかみ合わない話をしていました。

A 他人に干渉するのが好きな人がいます。自分には自信があり、人から干渉されると会話が成立しません。苦しんでいる人、問題を持っている人がいると、すぐ指図をするのですが、自分は決して責任を取りません。責任をとると自分の弱点がでてしまうからです。

B 他人にも自分にも関心がない人がいます。こういう人は会話が成立しません。他人はどうでもよく、軋轢のない気ままな生活を好みます。

C 真実や真理、幸せや自由などに関心のある人がいます。こういう人の会話は深みがあり話が尽きることがありません。ただ、真理は求めても、責任を負わず、自分に関心がある人の会話は空論になり、虚しく時間が過ぎていく場合が多いようです。

 寺田姉のセミナーを聞いて、涙を流している女性がいました。自分の子育てに関する反省、子供へのすまなさがあったのかと感動しました。なぜ、涙を流したのでしょうか。自分に関心がある人は、セミナーに出ても考え込むだけです。他人に干渉する人は、ノウハウを聞いたとして、誰々に教えよう、指導しようと余計がんばります。涙は愛情の表れです。真理は人を自己改革への導きます。

 私たちは、キリストにあって変えられました。古いものは過ぎ去り新しいものに変えられました。

 ところが、「虚しいだましごとの哲学」に惑わされる人がいるのです。それは、「キリストの中に根ざし建てられ教えられた信仰」を定着させていないからです。欲望に惑わされようとするからです。真理よりも欲望に目を向けているからです。

 私は「礼拝に出ようか出ないか」などと考えたことはありません。それは当然なものだからです。生活は神様中心であって、自分の状況、状態、気分によることはありません。ギャンブルをしようか否か、浮気をしようか否か、などとも考えません。

 なぜ、「まことしやかな議論」(4節)「人の言い伝え」「この世に属する幼稚な教え」に惑わされるのでしょうか。それは聖書以外のものに関心があるからです。自分の欲望をもって聖書を読もうとするからです。

 子供を自分の思い通りにしたいと思う親は、子供の人格に触れることはありません。子供の成績で自慢をしたい、子供の性格で喜びたいと願う親は、子供自身に関心を持っていないのです。

 子供自身が、欲望に囚われ、真理や愛、信仰に関心がないこともあるでしょう。でも、私たち自身がキリストのうちにあって、満たされて生きているのなら、必ず子供たちもいつしか気がついて、キリストを求めるようになるでしょう。

 私はクリスチャンが、実績主義、功利的、成功願望に取り付かれることを知っています。気をつけなければなりません。キリストにあって生きることを生活の中にしみこませれば、そのような誘惑が価値ないものであることに気がつくでしょう。


11月2日 キリストと共によみがえる。  コロサイ2章11〜15節

新改訳 コロ 2:11-15

2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。

2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。

2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、

2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。



 仏教の日蓮宗の信者から、布教のハンドブックが2回送られてきました。東京巨大地震の警告と日本の滅びを叫び、日蓮宗への帰依を説いています。キリストは十字架に掛けられて死んだけれども、日蓮聖人は首を撥ねられるとき、奇跡が起きたと説いています。読みながら、キリスト教と他の宗教の違いをもう一度確認しなければならないと思いました。アメリカでは、キリスト教国と言われながら、ハロウィーンなどが祝われ、魔女やお化けの姿をして、ふざけています。いわゆるキリスト教国も、日本のような神道、仏教系の国も宗教を、安心のためのまじないみたいに考えている人は同様に多くいるようです。

1. まず、世界宇宙とは何なのか、という理解です。

2. 次に人間はどのような存在かということです。

3. そして神はといかなる存在かということでしょう。

仏教系の本を読んでみると、自然界が先にあって、その中で人間が輪廻転生を繰り返したり、地獄に行ったりという理解があります。自然界や地獄はどのようにできたかという解答はないようです。そして、自然と歴史はずっと続くと思われています。日本人の宗教観は、そのような汎神論的なものですから、緊迫感がありません。豊かな自然に恵まれ、定住した狭い文化圏にある者が、宗教的意識をそこに発展させたわけです。そこには閉鎖社会の安定を図る社会的制度としての祟りや罰を諭す宗教が意図的に形成されます。ユダヤ教やキリスト教の発展した地域でも、農耕の神バアル礼拝や軍神マルドゥークなどがいたのですから状況は同じです。

聖書の神は人格神です。気分に左右されたり、ご機嫌を伺う人を特別扱いするような倫理性のない神ではありません。日本人クリスチャンは、この絶対的倫理、基準、正義をもった神という理解に不足しているきらいがあります。また、神は歴史をも支配し、人間社会にも自然界にも介入するのです。ですから、「神は私の味方か敵か、祝福するかしないか」などという人間中心の信仰は不具合が多いのです。

神の人間への要求は聖書に書いてあり、それは創造神との交流とそのために自己中心(罪)を捨てることです。神との交流なしに、信仰(宗教行為)も倫理性も人格も、また人生の祝福・成功も無意味です。神は裁く神ではなく、救う神なのです。ですから、政治や権力に利用されることは難しいのです。社会や指導者に従わなかったら、祟りや罰則を与える神ではなく、あくまで個人的な神との交流を求め、その上で信仰者同士の交流を深めて、愛によってキリストの身体(教会)を築き上げるものだからです。

 さて、割礼とは男性性器への宗教的警告であり、戒めのしるしです。肉欲に支配されず、惑わされず、聖なる結婚を築き上げるための神との誓いです。聖霊なる神がキリストの御霊として働き始めるペンテコステの日以降、肉体的な戒めや誓いである割礼は不必要なものとなりました。なぜなら、聖霊ご自身が私たち信者の中に働いて、「罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせ」(ヨハネ16・8)、私たちを「真理に導き入れ」(16・13)るのです。つまり、聖霊こそ、キリストの割礼なのです。

 罪は人を拘束し、欲望の奴隷をします。しかし、キリスト・イエスは、その身で私たちの罪とその罰を負われ、十字架に掛かれて死にました。オウム真理教の麻原さんも死刑になれば、自分の罪の償いをしたことになります。彼は自分の罪の故にでも死刑になりたくないのですが、キリストは自分は罪がないのに、私たちの身代わりに罰を受けて、死なれました。私たちの罪も、私たちが死刑になれば、許されるのです。死刑になれば、私たちへのすべての訴えも、すべての債権も無効になります。ですから、私たちはキリストにあって、罪許され、自由となるのです。


11月9日 キリストに堅く結びつく。  コロサイ2章16〜19節

新改訳 コロ 2:16-19

2:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。

2:17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。

2:18 あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、

2:19 かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。

 神は崇高な存在であるのに反し、人間は汚れていて無価値なものなので、直接、神に近づくことはできず、御使いに取り持ってもらわなければならないと教える。そのためには、御使いをよく知り、御使いに気に入られるように謙遜にならなければならない(18.ことさらに自己卑下)。そして、特別に秘儀を教える会に入会して禁欲を徹底し、教えや定めに絶対的服従をしなければならない(16)。そのような戒めに忠実に従った者のみが、神と出会い、直接的な啓示を受けるのであると諭すのです(幻を見たことに安住)。

 「決められたことは絶対に守る。」「しなければならないことはする。」「できないのは(すぐにやめたり、変えたりするのは)根性がないからだ」などと言う人は特に日本人に多いようです。「仲間や組織に迷惑をかけるなら、やめるべきだ。」と考えている人もいます。でも、決めるというのは、どうしても決められたのでしょうか。話し合いでしょうか。指導者の命令でしょうか。納得したのでしょうか。どうも、いのちのない文字、罪人であり未熟な人間が作ったものを絶対とするのはおかしいということに、絶対神を信じるクリスチャンでさえ、気が付いていないようです。

 憲法は絶対だから変えてはいけないという政党も変です。教団にしても、失礼ながら一五三〇年のアウグスブルグ信仰告白や一六四七年のウェストミンスター信仰告白を基準にして変えないのは、聖書以外のものを絶対していておかしいと思っています。私たちのアッセンブリー教団は、聖書の十全逐語霊感を主張しながら、自らの教理については何度も改定をしています。日本の教団組織も、次々に組織を変更し、常に時代にあったものであるよう担当機関を作り、検討を続けているのは、私たちの教団の長所であり、飛びぬけて成長している理由でしょう。先日、当チャペルの献堂式に来てくださった理事長も、教会員と親しく交流し、先日の教区聖会では個人的な信仰体験を赤裸々に語ってくださいました。このような教職と信徒の分け隔てがないのが重要なことです。

 あたかも牧師は何の罪も弱さもない完璧であり人格者である神の器であると思わせるような言動、雰囲気、教えは、過激な宗教や新興宗教に見られるマインドコントロールのひとつです。そのような宗教では、信者は信仰の指導者の前では、とても自分の感情を正直に表すことも、まただからこそ、真実な悔い改めも行い得ないでしょう。 教会でも、実は教えに忠実であり、決まったことをしっかりと守る人が、反って神との個人的交流が少なく、宗教的慣習に縛られてしまうことが多いのです。

 イエス様のお話の中で、週に二度断食をし、十一献金を忠実に献げているパリサイ人が出てきます。彼は、神に対して、自分の信仰を自慢し、隣の収税人のようではないことを誇っています。他方、収税人は自分の罪を悔い、神に助けを求めています。イエス様は「誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」と教えています。

 私自身は、神学校の時、あまりに祈りの声が大きいので近くの人は自分が何を祈っているか、判らなくなるほどだと言われ、実は、それを霊力が強いからだと自惚れていました。今は、それがパリサイ人の祈りのようで、マタイ六章五節にある偽善者の祈りであることがわかり、恥ずかしく思っています。代表の祈りは、他の信者と一緒に「アーメン」(本当に!)と和するためにも聞き取れるくらいに声は大きいほうがよいのですが、神との交流の祈りは、声が大きいと、殆ど一方的な要請や請願、高ぶりの祈りになって、神が聞いてくれないタイプの祈りになってしまいます。人との会話も、声の大きい人は、一方的で聞いてくれないことが多いようです。

 現在、教会の承認申請やクリニックの医療法人化の手続きに忙殺されそうですが、許認可行政と公務員の態度の大きさに、驚き教えられることが大です。行政は本来、私たちの社会・生活を守り助けるためにあるものと思いますが、許認可が勝手に難しくなり、専門家、業者が必要になっています。牧師は、神様との交流が難しいので存在する専門職ではありません。神が、いつでも私たちとの真実な交流を求め、また語りかけ、回答をしてくださる方であることを教える教師です。また、神に自ら語りかけ、祈ることを学んでもらう教師なのです。


11月16日 肉の欲望に効き目のない信仰。  コロサイ2章20〜23節

新改訳 コロ 2:20-23

2:20 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、

2:21 「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。

2:22 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。

2:23 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。


 人間が欲望に囚われ、その対処に苦労するのは、アダム以来の大問題であす。先日は、東大生が集団の婦女暴行で逮捕されるという記事がありました。その仲間は慶応と早稲田とか超一流の大学生のようです。彼らは中学あるいは小学の時から長い間、努力し節制して勉強し、そのような大学に入ったことでしょうに、肉欲に囚われ、せっかくの一流大学も退学させられるような始末になりました。

  人は、その始末に終えない肉欲に対処するために、禁欲生活を自らに課し、或いはそれを強制しました。また厳格な戒律を作り、それに従うことを強要したのです。世界には、そのような宗教も数多くありますが、そのような人間的社会的統制は、結局は、そのはけ口を求めるものとなって、過激な言動をもたらすものとなるように思われます。イラクやイスラエルのテロもそのような結果ではないでしょうか。捕虜となった米軍女性兵士が暴行を受けていたということも、敵ならばかまわないという非人道的な意識が肉欲と罪の暴走となったのです。

  この聖句では、そのような禁欲的、戒律的な定めは、人間の戒めと教えによるものであって、守ろうとしてもすぐにできなくなるものであると指摘しています。たとえば、食料がないからといって、節約に努めても結局は食料はなくなり死んでいくしかないからです。節制に勤めることを義務化し罰を与えても、どうせ死ぬならばと、その規制や罰は無力化してしまうのです。

ところが、実際には、そのような戒律、規制、統制は支配者の支配手段として機能し、一部の特権階級を生み出し、その人々の放縦を許容するものとなっているのが現実です。日本の軍国主義の時代でも、抑圧される一般国民を犠牲にして軍部・軍閥が利権を拡大していったのです。拉致などをする隣国も、一人の将軍様の暮らしは大層派手なようで、国全体が一人の人のために奉仕し存在するというのは、統制が徹底しているからです。でも、歴史はそのようなことが決して長くは続かないことを知らせています。

現在のイスラム教ほどではないとしても、キリスト教でも昔は、戒律的、禁欲的にする傾向はありました。聖書ではなく、「人間の戒めと教え」を優先し制度化してしまうからです。カソリックは、法王を絶対化し、またカソリック内で決められてきた伝承を聖書と共に重要視するという誤りを犯しました。それは、宗教指導者が国家権力と結びついて社会を統制するために戒律的制度を形成していったからです。今回の選挙で日本でも宗教勢力が大きな政治力を持つことになりましたが、権力は放漫を呼び起こし、宗教的瓦解をもたらすことになるでしょう。

 肉の欲望に対して肉の行動をもってしては、人間的な対処では埒があかないのです。

 「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」(ガラテヤ5・1)「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5・16)

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(Uコリント3・17)「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5・13)「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8・32)「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14・6)

  私たちを自由にする真理とはイエス様ご自身です。そしてイエス様は今やキリストの御霊として聖霊によって私たちを満たしてくださいます。この聖霊に満たされると、肉欲に囚われることはないのです。でも、肉欲に縛られ、誘惑されるクリスチャンもいますし、私たちもいつも聖霊に満たされているわけではありません、と質問があるかもしれません。それは、クリスチャンになりながら、その自由を肉の働く機会としてしまって、人を愛することをしていないからです。

 つまり、私たちは聖霊に満たされないで多くの時間を過ごしてきたので、それを当然だと思ってしまっているのです。戒律に縛られていたときは、罰せられる不安でいつも過ごしていたことでしょう。肉欲にもてあそばれ、罪悪感を感じていたでしょう。それがキリストにあって罪許され、救いを体験したら、今度は御霊によって、律法や戒律の意図する愛の行動を自ら率先してできるようになるのです。ところが、罪赦された感謝だけで、自由を得た責任を自ら全うしないと、いつのまにか、また罪の奴隷になってしまうのです。自由を得たら、その権利を行使し、人を愛し、神と人に仕える生活を形成していかなければならないのです。自由と平和の国も、自ら訓練し防衛しなければ、必ず侵略されるのです。


11月23日 キリストと共によみがえる。  コロサイ3章1〜4節

新改訳 コロ 3:1-4

3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

 先週もまたすさまじく忙しく、火曜から金曜までの教団総会は朝九時から夜の十時過ぎまで続きました。その中で友人二人が新会堂を見たいというので、火曜の夜中に連れてきて、水曜の早朝、会堂を案内しました。日曜長女がピアノの練習の後、電気を消してついでに看板の電気を消したことも日曜に気が付いていましたが、まあいいかとそのまま忙しさの中に放っておきました。案内のために全ての電気をつけて入り口と周囲の状況も説明しようとしてベランダに出て眺めていると上でチリチリと音がします。見上げると、天井から火が出て煙が噴出しています。あわてて電気を消しました。撤去したネオンについていたトランスがショートしていたそうです。もし、娘が電気をつけていたら、客が来て説明をしていなかったら、教会は火事で燃え落ちていたでしょう。先月も水道管の破裂の後すぐになんとなく会堂に入り、気が付いて事なきを得ました。業者の人も驚いていました。

 もし、私が疲労しているからといって、友人の希望を断ったり、丁寧に説明をしなかったら火事になっていたでしょう。いくつもの奇跡が今年も起こっています。経済的にも肉体的にも能力的にも限界がありましたが、いつも守られてきました。

 キリストとともによみがえるためには、キリストとともに死ななければなりません。多くのクリスチャンが試練を厭います。おいしいものを食べ、ゆったりとした時間をすごし、テレビを見たり音楽を聴いて、快適な生活を送りたいと願うのです。その合間に聖書を読み、なるほどと感心し、参考になる言葉にしるしをつけるのです。都合がつかなければ礼拝を休み、経済的に無理がない程度に献金をします。教会に来ているのは天国と神様にわたりをつけておくためというような意識です。

 イエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタ 16:24-25)と言われました。IBMの代表取締役会長が、下積みが長く続いた時も「神様が必ず私の仕事を導いてくださる。自分にとてよい結果であれ、思っていない結果であれ、神が与えられた仕事だという気持ちで、理不尽なことに関してはっきりと社長にも直訴した」という証を書いておられる。

 私も超多忙の中で多くの役所の手続きを強いられていますが、どんなときでも「ありがとうございます。法律でだめならしょうがありません。ただ従うだけです。」と発言していると、不思議に好意的に導かれます。

 「キリスト共に死ぬ」ということは、キリストが他人の罪の故に十字架につけられても、とりなしをしながら死んでいかれたように、私たちも人々の罪性に抵抗したり、反発したりしないで、全ての不利益を覚悟することです。二週間前には、事務所として資産化して用いようとした牧師執務室が法的に認められないことを知りましたが、この原則を思い出し、個人献金にすることを決意しました。個人的には献金で数百万の借金を負うことになるのですが、死ななければよみがえりは決してありません。そして、今月は大変な資金的不足が予測され、もう借りる余地はありません。でもこれまで何回も試されてきたことです。資金がなければ、預金も保険も全部解約すればそれで済むことです。それでだめなら倒産するばかりです。私は「心を尽くし、力を尽くし」神を愛しなさいという聖句が自分の戒めです。経済的には祝福されてきましたが、誰よりも神に献げてきました。自分の心の裏まで吟味して、神に隠していないか、自分の打算や利益で生きていないかを確認してきました。神は生きています。力を尽くして神に従う者をないがしろにすることは決してありません。

 ネヘミヤは「私の神。どうか、このことのために私を覚えていてください。私の神の宮と、その務めのためにしたいろいろな私の愛のわざを、ぬぐい去らないでください。」(13:14)と祈ります。これを神に報いを要求する傲慢な祈りと思う人がいたら、大変な誤りです。神を本気で信じるからこそ、究極的な自己犠牲の行動がとれるのです。この六ヵ月間殺人的な多忙で、特にこの三ヵ月は余暇も睡眠も取れないような日々が続いていますが、慣れてくると神の臨在を強く感じます。以前には過労で心臓を悪くし、不整脈で死に損ねたことがありますが、今は生きようと死のうと神と共に過ごすことだという確信があります。水の危機も火の危機も、まさに神によって守られました。友人たちは、私が疲れきっていたことを知って、「これは旅人をもてなそうとするあなたの報いだよ。」と言って帰っていきました。なすべきことをすれば神が守ってくださいます。






11月30日 古い人を脱ぎ捨て新しい人を着る。 コロサイ3章5〜11節

新改訳 コロ 3:5-11
3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

3:6 このようなことのために、神の怒りが下るのです。

3:7 あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。

3:8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。

3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、

3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

3:11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

 いろいろ問題を起こしていた息子が落ち着き、結婚に至った。ところが、医療法人の方は、栄養食品の販売がネックになって不許可になりそう。栄養医学というものは、対処療法でなくて、個体差を丁寧に診た東洋医学に似ているので処方の結果を丁寧に診なければならない。医薬分業などとは、医者が金儲けに走ることを前提にした節約政策で、医療の本質を見ていない、などとすっかりがっかりしてしまった。しかし、一日たつと、これでもう有床診療所やホスピスをしなくても良いのかとホッとしたような気もしている。

 私は中一の時に決心をして以来ひたむきに生きてきました。クリスチャンになってからも、「心を尽くし力を尽くして愛し」仕えることができる神を知り感動したものです。でも働きすぎて心臓をおかしくしたとき、神の御心を早とちりし先回りして勝手に動き回っていることを悟りました。今は、最善を尽くしてだめならば、いつでも最悪を覚悟できるようになりました。

 このチャペルを購入するときも、ただこの教会で出せる最高額を提示し、後は神に委ねたのでした。でも、この六ヶ月間は異常な働きすぎでした。少し立ち止まらなければなりません。簡単に諦めず、勝手に悟らず、常に神に伺い、神と共に生きなければなりません。

 「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼり」はクリスチャンになっても簡単に無関係になるわけではありません。それは、毎日の垢のようなものかもしれません。服を着続けていると必ず汚れ、そのままでは落ちなくなってしまいます。下着などは毎日取り替えて洗い、セーターや上着も季節ごとに洗います。洗いすぎると、反ってだめになってしまう素材もありますから、適宜に判断します。

 私たちの毎日の生活も、あまり潔癖であると、人間性そのものがだめになってしまいますから、肉に近いものから頻度を多く洗うことです。私たちにとって肉に近いものとはなんでしょうか。それは毎日の習慣的暮らしであり、肉親との関係です。「怒り、憤り、悪意、そしり」などは、あまり他人との間で出るものではありません。逆に身近な生活と遠い関係であると、出やすい場合もあります。ポイントは、相手を人格としてみていないからでしょう。冒頭のこと、担当者は、「おやりになっていることは立派なことですが、制度的には認められません。」と言いました。私は、話が通じないで、杓子定規に応対する相手に、思わず涙が出てしまいました。医療を人格的に捉えられない人々が医療整備を進めているのです。まあ、この世に生きる者の宿命でしょう。

 「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」〔マルコ7・15〕とあります。自分の中にある人間性に注意をしなければなりません。ぞんざいな言葉使い、
行動があるとしたら、それはあなたの人間性から来ているのです。毎日洗濯をするように、自分の古き人を脱ぎ捨て、洗濯を聖書の言葉と聖霊の導きで行い吟味して、新しい人を着るのです。あなたの言葉は、たとえ妻でも、子供でも、部下でもできる限り丁寧な言葉を用いるべきです。そして、紳士のように淑女のように行動するべきです。御霊の人が粗野な行動をとるものでしょうか。御霊の人になりたいと思ったら、そのように心がけるべきです。決して、人を外見や立場によって差別し、見下げてはなりません。

 きれいな服を着たら、汚いものに触らないようにするように、御霊の人になることを心がけたら、淫らな人、高慢な人、残虐な人、下品な人などとの交際は避けるべきです。そのような人をきれいにしようとしたら、あなた自身が汚れてしまいます。そのような人が声をかけ、交流を求めてきたら、手を洗い、汚れを落としてもらうことを願うことです。このことは、物質的なことを言っているのではありません。俗悪な人との交流は無理であることを悟るべきです。あなたとの会話、交流で俗悪なこと、淫らなこと、非難話などを話さないように気をつけるということです。

 スポーツや政治でも、対立する相手方を非難することは避けるべきです。不正やミスに興奮しないことです。私たちは人間社会の審判者ではないのです。悪や不正は神の裁きの手に委ねるべきです。大事なことは私たちが自らを神の子として御霊の人として生き、キリストのように栄光へと変えられていくことです。真理や知識は、悪や不正を論議することによってではなく、真実に清められて生きることによってしか、知ることはできないのです。



12月7日 神に選ばれた人として生きる。  コロサイ3章12〜14節

新改訳 コロ 3:12-14

3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。


 私が自分を牧師として不十分であると考えている理由は、あまり伝道をしないからです。また、信者の教育や指導もあまりしません。でも自らは、献身者として生き、教会員のために祈りはしています。その原因は、信者となるのは人の働きよりもむしろ神の選びにあると考えているからです。福音派は伝道派とも呼ばれるのですし、特に私たちペンテコステ派は宣教を使命とするのですから、私はやはり落第牧師です。

 でも、落第牧師の良いところも言わせてください。

・ 人をあまり変えようとしない。教え込まない。

・ 信者の欠点や罪性につまづかない。気にならない。

・ 教会活動に信者を動員したり、プレッシャーを掛けない。

欠点のほうが多いのでこの辺にしておきましょう。

 「主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。・・・主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。」〔詩篇33・13,18〕

 私は青年期から真実と正義を求め、天を求めていましたから、聖書の神を知ってからは、迷うところはありません。この聖句には感動し、神は私の心を知っていてくださるという充実感がありますので、試練や困難、そして戦いもあまり気になりません。ところが、これが牧師としては欠点になるのです。つまり、神に選ばれた者は、いろいろ弱さや罪深さがあっても必ず、成長し、清められていくはずだという確信があるものですから、とりなしの祈りはするのですが、「自分が手を出したり、助言をすると神の邪魔をするのではないか」、と考えてしまい、助けたりしないものですから、冷淡だとか、愛してくれない、信者に関心がない、などと受け取られてしまうのです。

 でも、聖書は正しく語ること、解説することには責任を覚えていますし、みことばこそが、私たちを霊的、信仰的に成長させると確信しています。

クリスチャンというのは、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」という自覚を持った者です。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(イザヤ66:2)

 それでは、本当のクリスチャンは信仰から離れることはないのか、という疑問があります。それは間違いなくあります。パウロの手紙は、殆どが、その危険に対する忠告であり、アドバイスです。原因は、

1. 信仰者自身の罪性、弱さ、肉欲。

2. 他の人や社会の制度、罪、快楽、敵意、争いなど。

3. サタンの攻撃。

などがあります。信仰生活というのは、戦いの生活なのです。だからこそ、罪に勝利し、サタンの誘惑に負けない信仰者には、報いがあるのです。

 先日、医者の集いで、栄養医学を日本で先駆けて用いて治療していること、大量ビタミンCによるガン治療もやっているのはマリヤ・クリニックだけということで、多くの賞賛を受けました。医療法人認可が難しいという現実にも反して、ホスピスをしたいという願いは大きくなるばかりです。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(U歴代誌16:9)「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」)ローマ8:33)

 神の目をいつも意識してください。自分の罪深さを考えて、隠れようとしてはなりません。神から隠れるなどということは、誰にもできません。神は寛容な方であり、慈愛に満ちた方です。このことを悟るならば、怠惰な生活、言い訳ばかりで世と妥協した生活を送ることが、神の愛に背いた間違った生き方であることに気が付くでしょう。あなたの言い訳は、神の前に決して通らず、神の守りから離れて、サタンの虜になる格好の材料となるでしょう。



12月14日 キリストの平和によって支配される  コロサイ3章14〜15節

新改訳 コロ 3:14-15

3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

 世界中が争いの方へ走り出しています。「私はあなたの家を平和にするために来ました。」と言って他人が入り込んできたならば、皆さんは安心するでしょうか。たとえ、それが警察官でも、或いは牧師や親戚でも、心は落ち着かないでしょう。その人たちが多数で凶器や武器を持っていたならば、それは間違いなく略奪であり、強盗のすることです。今回の自衛隊のイラク派遣は、そのようなものとして現地の人々には受け取られるでしょう。そして、これからは日本もまた他国に武力侵入した国家として仕返しのテロの危険が起こってくるのです。

 これらは聖書の預言でもありますから、止めることはできません。終末の秒読みが始まっています。私は、聖書の終末預言の中にアメリカらしい記述がないのが気がかりでもあります。もしかしたら、アメリカは核爆弾のテロにより国がなくなってしまう可能性もあると思っています。クリスチャンも友人知人も多い国ですが、正義の名の下に他国に入り込むのは、正当性はどうであれ、命がけの反撃を受けることは歴史が証明しています。そして、その危険性をアメリカは知っているからこそ、大規模な攻撃をしているのです。日本は戦争中、中国や韓国で大変な狼藉、略奪を犯してきたのに自らは他国の侵略を受けていません。それがどんなにむごたらしいものであるか、無知というのは愚かさに通じます。

 「キリスト教の教祖は、死刑に掛けられて死んでしまったから弱くて助けにならない」、或いは、「農耕民族の日本には、ああいう命がけの宗教、血生臭い宗教はあわない」と言う他宗教の解説書を何回か読みました。日本でも戦争があろうとなかろうと、人間性からくる残虐な行為をしてきたことを知らないのです。

 さて、キリストの身代わりの死は預言されてきたことです。その私たちの罪のために神の子が罰を受けて死ぬという詳細が約700年前にイザヤ五三章に記されています。それは私たちに平安をもたらすためのものでした。イエス様は自ら「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20・28)と言われています。そして、終末には「人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」〔マタイ24・10−13〕

 肉体の鍛錬をしないと、いざという時に力がはいりません。「疲れた、・・・が痛い」として身体を鍛えないと、身体は弱くなって元に戻りません。信仰も鍛錬をしないと、試練の時に耐えることはできません。私も、この半年は本当に忙しかったのですが、牧師職に手を抜いたつもりはありません。どんなに忙しくても体調が悪くても、問題が起こっても全ての集会に出席し、週報を作り、祈り、なすべきことをしてきました。父、夫、牧師、事務長、財務局、教区会計、地区長、栄養医学、おそらく他の人の5、6倍は働いたと思います。それは泣き言や言い訳を言わずに過ごしてきたこれまでの信仰生活の鍛錬の結果です。会堂の建築に関しても、献金を強いたり、困難の多さに嘆いたことはありません。自分の全てを尽くして支えるつもりでした。資金的には、殆ど蓄えはありませんでしたが、神は私を見捨てることはありませんでした。献げた分以上の、収入の増加がありました。

 キリストにあって生きてください。キリストは、試練や困難をものともしない平安をあなたに与えてくださいます。キリストは、あなたを攻撃するどんな人をも愛する愛をあなたに与えてくださいます。自分の都合、自分の能力、自分の時間、・・・などを考え、囚われている人は、試練に対処することはできません。試練というのは、自らの能力を超えたものなのです。神に身をゆだね、神にあって生きている・人には、試練の山や谷も、神が平らにしてくださるのです。イザヤ26・7.


12月21日  平和が御心にかなう人にある  ルカ2章10〜14節

新改訳 ルカ 2:10-14

2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」 2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。  2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

イエス様の生まれた頃のユダヤは、ローマによって支配され、ローマによってユダヤ人の王として任命されたのはエドム人のヘロデ大王でした。ローマ皇帝アウグストは、徴税と徴兵のために住民登録をせよと属国に命令を出します。乙女マリヤは聖霊によって、処女受胎をしたのですが、許婚のヨセフは神によって告げられたので、妻として迎え入れ、出産の準備をします。ところが、住民登録命令に従わなければ、罰せられますから、出産間近のマリヤを連れて、ナザレから150キロも離れたベツレヘムにいかなければなりません。ヨセフはダビデの子ソロモンの子孫で、マリヤはダビデの子でソロモンの兄ナタンの子孫でしたので、その譲りの登録地はユダ部族の継承地の中にあるベツレヘムだったのです。

  でも馬小屋で出産後すぐに、ヘロデに命を狙われた親子3人は、博士たちが献げた黄金などの贈り物を資金にエジプトに逃れなければなりませんでした。なんと大変な人生でしょう。マリヤとヨセフは、神に選ばれて救い主の親となったので、非常に過酷な人生を歩まなければなりませんでした。イエス様が12歳の祝いの時には生きていたヨセフも、その後死んでイエス様は大工として働き、マリヤや弟たちの世話をしなければなりませんでした。天で栄光に包まれて、全能の神として存在されていた御子イエスの人としての生涯は、かなり辛く大変なものでした。30歳からの公生涯後は、さらに厳しい伝道生活が続き、最後は罪人として十字架で処刑されることになります。

  昨日、保育園に行って子供たちや先生方と会いました。子供たちの保育は生後約2ヶ月から可能で、朝7時から夜8時まで預かられるそうです。最も発育に大事な時に、寝るとき意外は殆ど預けられてしまう子供たちの心はどのように形成するのでしょうか。子供たちに敵意や憎しみ、荒々しさがうえ付いてしまっているのを感じました。その子供たちには、また容赦のない指導がなされます。子供はそんなに器用にこなせないのに、いろいろな注文がされて良い子でいるように求められます。平安や喜びがなくなってしまうのではないでしょうか。

  現代日本よりももっと過酷な状況の中で、イエス様は育ち、福音が語られました。「平和は御心に適う人々にある」のです。御心に適う人とは誰でしょうか。その時は羊飼いでした。彼らは、酒を飲んで政治談議などはしません。羊の番をしなければならないからです。服や食べ物のことも問題にしません。

  国にも人にも家族にも、要求や不満、不平を言う人には、平安はありません。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ14:17)

  世間話に興じたり、社会に対する不満をぶつけないで、あなたがこの滅びようとしている社会において、神の国の住民として平安を与えられ、神と人とに仕え愛していくことを心がけていなければなりません。

  学校や会社、福祉施設などそして、家庭においてさえも、きちんとしろ、しっかりしろ、と要求ばかりが繰り返されています。いくらまともな言葉を使っても、自らの責任を果たさず、要求ばかりをするのは未成熟な子供のようです。神にある平安の源泉は、間違いのない、そして変わりない神の愛です。混乱の世を見ないで神を見つめて生きなければなりません。




12月28日 することをすべてイエスの思いで  コロサイ3章16〜17節

新改訳 コロ 3:16-17

3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。



 「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」

 なんと麗しいことでしょうか。でも、実際にはどうすればよいのでしょうか。やはり、聖書を毎日何度も読むことでしょう。通読も良いのですが、大事だと思った聖句を書き留めたり、張り出したりするのも良いでしょう。キリスト教用品の額や飾りを買って聖句を印象付けることは大事でしょう。昔、英単語を暗誦したように私たちも聖句を暗誦しましょう。そのようにして、やっとキリストの臨在を意識するような環境になるでしょう。つまり、これはキリストを自らの人生の主として、日々の生活にお迎えし同居することなのです。

「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め」

 互いに教えたり、戒めたり、これは自分としてはよくやっていると思っている人もいると思います。お母さん方は特によく子供を教え戒め、ついには怒ってしまうこともあります・・・。私はやっと最近、教えたり戒めたりするとき、知恵を尽くそうとするようになりかかっています。ともかく、すぐには口に出さず、相手の行動の真意を探り、理解するまで時間を掛けます。そして、他の人のいない所で、婉曲に自分の意見を言います。そして、相手の意見を必ず聞きます。この点で、祈りは重要な役割を果たします。損得や成否、善悪ではなく、神の御心にあってどういう意味合いになるのかを考えるのです。まさに、知恵を尽くそうとしなければ、人を指導してよい結果を表すのは難しいでしょう。

「詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」

 詩は理性であり、賛美は感情であって、聖霊の満たしからくる霊歌とともに人間の全存在をかけて神に向かって歌うのです。

 神を賛美するとき、手を叩いたり、上げたりできない人は、自分の感情や思いを自分の支配においているのであって、神を褒め称えることができないのです。霊歌といってもなんだかわからない人も多いでしょう。自分を神にあけ渡さなければ、理性や感情によって拘束されて、霊歌を歌うことはできません。霊歌は心のわだかまりを解消します。カラオケが流行っているのも、感情移入によってストレスを発散できるからでしょう。賛美は、生ける神に向かってであり、聞かれるものであることを覚えましょう。

「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし」

 これはすごいことです。無駄なことば、無益なことば、までも封じ込めるのです。沈黙は金とありますが、私たちはなんと多く、言わなくてもよいことを言って失敗していることでしょうか。意味のない会話をして、それで良好な交流をしたと錯覚しているでしょうか。私は、カナディアン・ロッキーを一人でドライブしたときのことを忘れられません。いくら試みても祈りがでないで、賛美しか沸いてこないのです。神の圧倒的臨在と啓示の中で、地を這うようなとりなしの祈りは消え、最善をなし、私たちを守る神にただ感動を覚えるのです。

「主によって父なる神に感謝しなさい。」

 父なる神の誤解していることがあります。厳しさだけを感じるのは、自らが罪深いときであり、試練の中にあるときです。主イエスの歩みは父なる神の御旨でありました。主によってこそ、神のことがわかり、感謝ができるのです。