5月4日 御心のままに志を立てて。  ピリピ2章12〜14節


[新改訳] ピリピ人への手紙

2:12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。

2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。


ルカ9:23イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

9:24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

9:25 人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

教会に来て聖書の神を信じてクリスチャンになってから神様が私たちの人生に介入を始められたのでしょうか。真の神様を信じようと思い始めたときから聖霊様が私たちに働き始めたのでしょうか。

ある人は、「もっと早くクリスチャンになればよかった」と言い、罪の人生を悔い、自らの犯した罪や過去の出来事を忘れたいと思うものです。他方、若くしてクリスチャンになった純粋な人を見て、「もう少し人生の苦労をして、人間の罪深さ、人生の悲哀を知らなければ」などという人もいます。あるいは、苦労ばっかりの人生を振り返り、うまくいっている人をうらやんだり、人の能力、才能、財産などの差を不公平と思うこともあるかもしれません。

先週はイエス様の従順を学びました。イエス様は神でありながら、最も卑しいところで生まれ、苦労をして育ち、そして福音を伝えながら、騙され裏切られて十字架で殺されてしまいました。しかし、それは父なる神の御心であり、イエス様も承知していたことでした。だからこそ、イエス様の御名は、感動であり、力があるのです。

私たちにとって、フセインもブッシュも、また小泉もそれほど感動する名前ではありません。でも、父や母、或いは恩師弓山喜代馬先生を思い起こすとき、感動がわたしの心を包むのです。先日は大学の恩師と会いました。その人生は、決して豊かでないが故に、献身的で他の人のことをいつも心がけていた生活のゆえに私たちを、暖かい思い出で包むのです。友人、知人たちの中でも試練や労苦にもめげず、誠実に歩んでいる人がいることは、心の励みであり、自分の戒めにもなります。

私は決して成功者になろうとは思いません。人を蹴落として競争の中で成功と言うものがあるのなら、それはうとましいものです。競売で購入した会堂も居住者がなかなか退去しません。権利を主張するのならば、追い出すのはできるでしょう。どうしたら良いのかわかりません。愚かなようですが、祈りながら最善の道を探しています。

私自身は、それほど人を助ける働きもしていません。ただ祈ってはいます。教会に金銭を貰いに来る人にあげたことはありません。しかし、私のの時間も、能力も、金銭もいつも必要な場合には、いつでも差し上げる用意はしております。でも、我こそは、という人を殆ど信用してはならない

とは充分経験しています。

  さて、私たちの人生は、良くも悪くも、楽でも苦でも、すべて神様の手の内にあるのです。それを御心に従順であるならば、神に用いられるのです。従順とは、奴隷や徒弟のような生き方で確かめられるでしょう。「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」イエス様は「しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカ17・9)として、弟子たちに自分の働きを誇り、確認することを戒めておられます。

  それでは、私たちが持つべき志とはどのようなものでしょうか。立身出世ではないことは明らかです。ですから、わたしはキリスト教のマスコミが成功談ばかりを集めようとしているのは好きではなく、そのような取材はお断りしています。子育ての失敗談は取材に応じましたが。大事なことは「神の国とその義を追い求め」ることです。曽野綾子さんが、「ヨブ記の最後の祝福は後世の加筆であるかもしれない。誠実な信仰者が報いられずに死んでいったならば、納得がいく。」(仮の宿)と書いていますが、人生を成功物語にしようとして自分で意味づけてはなりません。「神の国がある」ということこそ、私たち信仰者にとってすべての解決であり、それ以前に未信者向けに現世の祝福を結び付けようとしてはならないのです。

  私たちの志は、十字架の道以外のものではありません。私が長老であったとき、結婚を望むカップルに、それぞれ聖句を与えられるように指導をしました。彼らは、この聖句(13節)を同時に与えられて祝福の結婚生活を過ごしています。自分の幸せを願い、そのために伴侶を求めるのであれば、それはあまりうまくいかないでしょう。

  十字架の道というものは抽象的なものでありません。「自分にとって楽ではないが、他の人の幸せのためになる」という具体的な目的をもって日々を生きることです。職業や立場が十字架の道ではありません。歩み方が大事なのです。


5月11日 母の願い。  ピリピ2章15〜18節

[新改訳] ピリピ人への手紙

2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、

2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

2:17 たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

2:18 あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。


 私たち父親や男性は、人間が成長する時にはいろいろあるものだと思っています。ここでパウロが「非難されることがない純真な者となり」と書いてあることについて、女性的な母親的なものを感じます。男性は「非難されることがない」なんて人生にありえない、非難や批判を怖がっていたら、勇気をもって生きていけるものではない、などと考えます。世間知らずの「純真な者」ほど、融通が利かず、手に負えないし、問題や試練に弱い、などとも考えています。でも、罪を犯し、世の苦労をすれば優しくなり、道理がわかると言うものではありません。イエス様は、罪を犯すことがなかったけれど、誰よりも人の弱さ、罪深さ、愚かさに同情してくださるお方です(ヘブル4・15-)。

 「傷のない」ということは、大事なことです。「傷があるからこそ、人の痛みもわかる」という人もいますが、実は、人は自分の被った傷によって無意識に人生を歪めてしまっているのです。「父なる神」といっても、父親にいじめられたり虐待を受けたりした人は、神信仰をゆがめて、怖さに怯えるということもあるのです。逆に、父親がだらしがなく、優柔不断な場合には、神を信頼して歩むということがなかなかできないものです。精神分析によりますと、このような幼児体験、家庭環境は人格形成に大きな歪みを生じると指摘されます。これはまた、母親の姿勢にも影響されます。怖い母親、子供を管理し拘束する母親、だらしのない母親、甘やかす母親、いろいろありますが、子供にとっては接する機会の多いだけ、母親に影響されるほうが多いようです。このように考えると親の義務、責任の大きさにおののかされます。だから最近は、子供を育てる自信がない、面倒くさい、といって子供を産もうとしない夫婦が増えているようです。

 「邪悪で曲がった世代」にあって、このように私たちは「傷をつけあい」、「非難され」、「不純な者となり」、とても世の光としては輝けない、クリスチャンとして恥ずかしい、と思い込んでしまうのです。

  それでは、聖書はどのように語っているのでしょうか。

まず、神が人を造られた時、「生めよ、ふえよ、地を満たせ」と語られました。そして、十戒の中では、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」(申命記5:16)と命じておられます。つまり、子供をどんどん生みなさい、ということと、子供にはどんな親であろうと親を敬いなさい、と命じておられるのです。

  現代社会の特徴は、「計画」です。人間が計画し、統制して、社会や個人の生活を営んでいます。でも、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」(箴言19・21)とあるように、計画通りにはいかず、争いや事故、災害も起こっています。

  子供たちに良い大学に行くようにと願い、多くの金銭や時間、労力を掛け、その貴重な青春時代を損なっています。それからは良い会社に入るようにと、努力をし、良い結婚をするようにとお金を貯めます。でも整ってから、何かをしてそれが本当に幸せと結びつくのでしょうか。社会で功なり名を上げて、それが幸せなのでしょうか。

  私は日本のプロ野球を見ていて、勝負にこだわりすぎて、スポーツとしての喜びを失っているのではないかと思います。メジャーでプレーする松井やイチロー、佐々木などを見ていて、自分の力を出し勝負する戦いの充実感、敗者に対する思いやり、負けた時の潔さなどを感じます。勝負に勝つために人を道具のように扱ってよいものでしょうか。

  さて、母の思い、願いとは何でしょうか。それはこの15,16節のことでしょう。父親はどうも自分の功績を誇る癖がありますが、母親は自分が苦労しても子供が幸せになればそれでよいと言うところがあります。

 私たちは、考えすぎています。苦労はしないほうが幸いであり、明日のために今日を犠牲にしてはなりません。今日という日を、自分の力を出し自分を喜んで生き、輝くことです。パウロは、自分が殺されても喜びますと言い切れました。

  私は自分の母を思うといつも感動します。9人の子供のことをいつも考え、子供たちのために自分の労力を注ぎだしていました。子供が幸せならば幸せであり、子供に問題があると悲しんでいました。自分のことについては、愚痴や弱音を吐いたことがありません。温泉に連れて行ったとき、「人生でこんなに幸せなことはない」と喜んでいました。報われないことを覚悟していて、報われたときのことに感動したのでしょう。母に感謝しましょう。


5月18日 キリストのことを求めて  ピリピ2章19〜24節

[新改訳] ピリピ人への手紙

2:19 しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。

2:20 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。

2:21 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

2:22 しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。

2:23 ですから、私のことがどうなるかがわかりしだい、彼を遣わしたいと望んでいます。

2:24 しかし私自身も近いうちに行けることと、主にあって確信しています。



 勇気がないというのは、自分の身の安全を考えるからであり、行動に出ると言う誠実さがないからであると思われます。申命記20章には、家の問題や収穫の問題を抱えている男、婚約中の男を戦場に出すと恐れて弱気になるので、他の者の心を挫くから帰してしまえと書かれています。そして、それは本気になって神を信じていないからであると、指摘しています。

 牢獄にいるパウロの状況は悪くなる一方です。そのような状況の中で、これまでうまくいっていた時には、パウロに仕え親しくしていた人々が逃げ出していくのでした。つまり、「だれもみな自分自身のことを求めるだけ」なので、この後、「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。」(テモテへの手紙第二4:10)というようなことが起こってきます。

 物事がうまくいっている時は親しくし、そうでない時は離れていくような人が世の中には多いものです。今回友人の牧師が開拓伝道を始めましたが、私もよく知っている信者さんがそれには加わらず、負担を負うような教会員生活を疎んだのは非常に残念です。それでも多くの人が既に開拓の時から集っているのを知ったことは感謝でしたが、教会に必ず起こる試練の時、どのようにそれらの人が対応するか、やはり気がかりです。

 イエス様でも、パウロでも、試練の時、迫害の時には、弟子たちの多くが離れていってしまいました。この教会にも多くの逆境の時があり、多くの人がいなくなりましたが、それらを経て教会に残り、忠実に信仰を保っている方々には、感謝せずにはいられません。しかし、それでも積極的に悪と戦い、牧師の側についた人は殆どいませんでした。状況を見守るという日本的な立場です。

 モーセがシナイ山から十戒の板をもって下りてくるのに手間取った時、イスラエルの人々は、造反して偶像礼拝に走りました。その時、「誰でも主につく者は、私のところに」というモーセの言葉に応じたのがレビ族でした。レビ族ははっきりとモーセについたのです。

  私たち日本人は、はっきりとした決断をせず、状況に任せるということが多いのですが、それは日和見といって、世界的には全く非難され、信頼されない立場です。聖書の考え方は黒か、白であって、灰色というものは黒なのです。争いの真ん中に立って、論評し、裁いているのが最も非難されるのだということに気がつかなければなりません。たとえ、間違った立場に立ったとしても、結果や状況の中でその罰や不利を受けることによって反省し、またやり直すことができるのです。高い所に立って批評している人は、結局悔い改めることもできないのです。行動に出なければ、良い結果、成果は得られないのです。人生は例え失敗しても、その失敗経験は必ず益になるのです。神を愛しているといいながら、熱くも冷たくもない人は、神から拒絶されることになります。(黙示録3・16)。

  「豚に真珠を与えてはいけません」とマタイ福音書7章にありますが、打算で信仰生活を生きようとする人に期待すると、「それを踏みにじり、向き直ってあなた方を引き裂くでしょうから。」とあるように、大変痛い目に遭います。

 パウロにとって「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。」というように、他人のことを心から心配する同労者は貴重な存在であり、頼りになるものです。しかし、だからこそパウロは、そのテモテを自分の身代わりとしてピリピに送るのです。後にパウロは、出かけてしまったテモテに、寒くなるので自分の上着をトロアスからもって来るように頼んでいます。それは、寒さの準備もしてくれるような人が身近にいないことを示しています。

「私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」Uテモ4・16

  苦しく、寂しく、辛い状況の中で、パウロはそれでも、ただ主イエスを伝えようとし、また守られることを信じ、そして天国にいくことに慰めをみいだしているのです。アーメン


5月25日 私の兄弟、同労者、戦友  ピリピ2章25〜30節

[新改訳] ピリピ人への手紙

2:25 しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。

2:26 彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。

2:27 ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。

2:28 そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。

2:29 ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。

2:30 なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。



 人は、逆境の中にいる時に、その真の姿が現れます。そして、その行ないによってこそ、その人の考え方、価値が表わされます。

 パウロの当時の教会は非常に不安定なものでした。伝道者には安定した収入なんてあるはずがなく、教会奉仕もまた組織立ったものではありません。さらには、社会基盤も不安定ですし、病気や事故なども現在とは比較になりません。旅に出るなどということは、危険や災難を覚悟した決死的なものでした。パウロは、そのような試練をUコリント十一章後半に書いています。

 ところが、そのパウロが投獄されているのを聞き、ピリピの教会はエパフロデトに支援物資を持たせ、またそのまま留まってパウロに仕えるように指示をしました。ピリピの教会は、これまでもパウロを支援していましたが、今回はさらに徹底した献身的な支援を決めました。私は、個教会の成熟と力は、教会内外への援助や奉仕だと思っています。いくら多くの人が集まっていても、決められた集会の運営に終始し、手間と時間を掛けた企画などに関心があるようでは、教会とはいえません。

  ですから、私は他から講師を招いて伝道会やコンサートなどを行うことはあまり好きではありません。私自身も、日曜日には他の教会の講師に頼まれてもあまり行きません。教会が、教会員の生活の場であり、基盤であって、教会員の生活と教会の経常的存在・働きがそのまま伝道と証しになるべきだと思っています。

教会員には次のようなタイプがあると思います。

A.教会を生活の中心とする人たち。

B.家庭を生活の中心とする人たち。

C.職場や学校を生活の中心とする人たち。

 そのどれもが、神を第一とした生き方をするべきであることは言うまでもありません。当然、誰でもいろいろな関わりの中で生きているのですが、どれも中心に生きていると言う人がいるとすれば、くつろぎのないストレスで疲れてしまうことでしょう。また、父親が教会中心で、母親が家庭中心で、子供が学校中心であり、お互いの価値観が対立すると大変なことになるでしょう。

 エパフロデトは、教会中心の生き方をする人であり、パウロの窮状を知って仕事や家庭をなげうっても助けに行かずにはいられなかった人でした。ところが、その彼が、パウロのために働いているうちに重病になってしまいました。仕えるはずのパウロに逆に世話をしてもらう羽目になり、エパフロデトは恥じ入るばかりです。26節に、ピリピの教会が自分の病気のことを知ったことを彼が気に掛けている事を書いています。それはエパフロデトを送ることに教会の意見が割れていたのではないかと思います。向こう見ずにもわざわざローマにまで出かけてしまったことで、教会の理性派と情緒派が対立してしまうのではないか、自分の行動は浅はかではなかったかと悩んでしまうのです。

 そのようなことから、パウロは、回復したエパフロデトを直ちにピリピに送り返し、「喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。」と書き送って、彼の行動で教会が分裂しないように配慮するのです。
 
1. 愛による行動は、向こう見ずなものです。

2. 短期的な成果や結果によって事の成否を論じない。

3. 愛情は、会い、話し、書かなければ伝わりません。

4. いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。

パウロにとって、エパフロデトが来てくれたことは、大変な喜びでした。一人でいるということは、寂しく切ないものです。どうぞ、あなたの愛を行動に移してください。あなたの行動が愛なのです。

教会員には、それぞれの能力、環境があります。それをお互いに知り、理解し、祈りあい、助け合うことが必要です。信仰生活は、聖書を読み、祈って礼拝に参加すればそれでよいと思うならば、あなたはいつしか信仰の形骸化に陥り、礼拝に出ることも煩わしくなるでしょう。ぜひ、礼拝後の食事会、聖書研究会、祈祷会などの何でもない日常の集会に参加してください。特別な集会に参加することよりもむしろ、日常的な教会員同士の交流が大事なのです。気を使わないで、遠慮しないで、気軽に電話を掛け合いましょう。一緒にお茶を飲みましょう。

仕事、家事、趣味、いろいろあるでしょうが、計算し、計画して人生を過ごすのならば感動はありません。特に、日曜日は、雑多な生活から開放されて、友情を深めようではありませんか。


6月1日 人間的なものを頼りとするか。  ピリピ3章1〜6節

[新改訳] ピリピ人への手紙 3:1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。

3:2 どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。

3:3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。

3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。

3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、

3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。

 「犬に気をつけてください。」と言っても我が家の犬の場合は、全く怖くはありません。人が来ても吠えないで尾っぽを振っています。でも、私は犬が好きではありませんでした。幼児体験と言いましょうか、犬に追いかけられたこと、かまれそうになったことがありますし、吠えられたことなど、限りなくあります。だから、「犬畜生」という怖い言葉を聞いても、「なるほど犬はそういう獰猛なものなのだ」、と思っていました。学生時代に家主が全く飼い犬を散歩に連れて行かないので、可愛そうに思い、何回か連れ出したことがあります。そうしたら、私を見るとうれしそうに跳びつくので、「犬は嫌いなのに」と困りながら、相手をしていました。

 だから、娘が「犬を飼いたい」と言った時、子供のためには良いかと思いながら、私は全く相手をするつもりはありませんでした。今でも、触ると蚤がつくとか汚いと思い、軍手をしなければ、決して触らないのですが、子供が連れ出さないので、妻と一緒に毎日散歩に連れ出すことになってしまいました。そのおとなしく、飼い主に従順な性格には多くの教えられることがあります。でも、他の犬と遭ったり、食べるもの、動く物があると大変です。跳び出し引っ張られて何度か転びました。

 昔の犬やパウロの言葉と比較すると、犬も食事が良く、飼い主に可愛がられると、決して畜生というものにはならないようです。ジョイも躾けられて少しずつ跳び出さないようになってきました。先日は、近所の犬を連れているおばさんが、「旦那さんがいるとこちらに跳びついてこないよ」と感心していました。私も鼻高々です。でも、欲望のままに、犬のように自分に関心のあるものに囚われて放さない人々もいるようです。

 さて、ジョイが判ったら馬鹿にするなと言われそうな人々とはどんな人でしょうか。それは、人間本来の性質にとって、非常に魅力的な教えを餌に信者を惑わす人々です。その餌はクリスチャンとして成熟していないと、我を忘れて跳びついてしまうようなものです。それを得たくてうずうずするようなものです。クリスチャンでない人々には、非常に魅力的なものです。でも忠実な犬は、それよりもむしろ主人と一緒にいること、主人の命令を守ることを重要視します。昔、名犬ラッシーには感心しましたが、私たちクリスチャンも、欲望のままに生きてラッシーに注意されるような人物だったら恥ずかしいですね。

さて、その餌、私たちにとって、大きな関心とは何でしょうか。

 それは、道徳的、宗教的になることです。

 パウロは言います。@主にあって、 A喜んでいなさい。

 ジョイも動く物があったり、犬がいると車道でも跳び出しそうになったことが何回もあります。餌につられると危険なのです。

 私たちが、主イエスと一緒にいることを喜んでいないと危険なのです。

 ユダヤ教徒ではなく、クリスチャンになったのにも関わらず、律法的なことを強調する人々が、その教えを流布しにわざわざ旅をしているのです。そして、自らの罪を認め、自分には何の力も資格もないことを告白して、救い主イエスを信じた人々が、いつのまにか、「信仰者として相応しい道徳性をもつように」とか、「信仰者だからこそ、誰よりも宗教的になりなさい」という間違った教えに染まっていくのです。それらの教えは、生ける神、いつも共におられる主に目を向けることなく、自分自身の人間性に関心を抱かせるものなのです。

  ジョイは、今ではどんなにお腹が空いていても、私が「よし」と言わなければ、決して食べないで我慢しています。むろん、だらだらとみっともなくよだれをたらしてはいますが。

  自分の考えや意見、計画を決して正当化してはなりません。

  人間は、自分の欲望に適い、利益になるものについては、必ず最もらしい理由をつけるのです。だからこそ、主が「よし」と言わなければ、ただ待っているべきなのです。私は、このことを知ってから、多くのもっともらしい理由をつけながら、欲望に跳び出し、怪我をしたり失敗をした人々を見出すようになりました。

  さて、私たちは会堂を与えられるまで、二十年間「待て」という主に従ってきました。「よし」と言われる主に次は何をするように言われるか、やはり待っていようではありませんか。私は商業ペースの興行のように教会が、人集めの為のいろいろな行事をすることはあまり好きではありません。ジョイが踊りを踊っても、二本足で歩いても、私は喜びません。ジョイが私に関心を持ち、私に従っていつも共にいることがうれしいのです。

 ともかく、ジョイのことで説教ができると言うことはすごいことです。


6月8日 キリストの内にいる者。  ピリピ3章7〜11節

[新改訳] ピリピ人への手紙

3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、

3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、

3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです

 私たちは、律法主義者・パリサイ人という人々をイエス様が非難されたように簡単に見下してしまいます。でも、パリサイ人とは、セレウコス朝シリヤの王アンティオコス・エピファネスの時代に起きた大変なユダヤ教迫害に対して命を掛けて信仰を貫いた厳格な派です。。サドカイ派やエッセネ派と比べてもはるかに律法を守ることに厳格であり、その教えは、霊魂の不死、肉体の復活、そして、悪人の霊魂は地獄で永遠に留置され、義人の霊魂は他の肉体となって再生すると信じていました。ですから、律法の遵守者だけに神の恩恵があると信じ、律法の解釈と日常生活への適用は重要な問題となっていたのです。ですから、その意志は強固であり、宗教的情熱は激しいものでした。自分の信じることを実践し、律法を守ることが救いであるとしてその教えを広めようとしたのですから、生半可なクリスチャンでは歯が立ちません。

パウロは、タルソ出身ですが、ギリシャ語を日常会話とする現地に融合したユダヤ人ではなく、アラム語を話す由緒ある厳格なユダヤの裕福な伝統ある家系に属していました。そしてしっかりとした教育を受けたパウロは、ユダヤ人を惑わす異教を断固として排除するべく、敬虔なクリスチャンであるステパノの迫害にも加わり、さらにクリスチャン取締りの指導者として地方を回っていたのです。人を惑わす異教徒は、殺してもかまわないと信じて大祭司の許可証までもらうほどでした。

そのような旧姓サウロが突然、路上で同行の人の前で神に打たれました。私も、神学校の入学試験から帰ってきて教会で皆と円座になって祈っている時、救霊の幻を見たことがあります。他の人は、そのままなのですが、私だけ、目を開いても閉じても幻が見えるのでした。それは、恐ろしく不気味な沼で、そこから助けを求めて手が差し出されているのでした。私は、何かに抱えられてその沼を低く飛び回るのでした。あまりに低いので、その無数の手にしがみつかれて暗黒の沼に引きずり込まれそうで、怖さのあまりに、「助けてください」と叫んでいました。そして、皆の前でしたが、「主よ、無理です。私にはできません。伝道なんてこんなに怖いものだとは知りませんでした。お許しください。」とポロポロ涙を流しながら、伝道者・牧師になる決心をしたことを悔いたのでした。すると、突然、沼の中から輝きが出て、巨大な十字架が静かに立ち上がったのでした。私は

沼と天を繋ぐ巨大で美しい十字架に感動し、感謝して祈り続けていました。そして、自分の力ではなく、既に天と地を繋いでいる十字架を知らせればよいこと、十字架の下に人々を導けば良いことを教えられました。

 パウロは、このようにしてクリスチャンになりました。そして、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしは全てを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」というほどのキリストとの結びつきを得ています。

  私も長く人と接していると、その人の実態がわかります。信仰を確信し、立派な信仰生活を過ごしています。でも、神以外のものに頼っていると、いつしかそれが弱点として思わぬ試練に遭います。ある人は金銭欲、ある人は名誉良く、ある人は他人を信用できず、信頼できず、或いは、劣等感を持っている。誘惑に弱いのは、その人が罪というものの怖さを知らないからであり、自信がないのは神の大能を知らないからであります。失敗を恐れるのは、人の目や自分の苦労を厭うからであり、万事益となされる神に頼っていないからです。自信のある人は、実は空威張りであり、人を非難したり見下す人は、神の目を知らない人です。

 このように、キリストを知り、キリストと共に歩むと、人間の強さ、賢さ、優秀さというものが、実はその人を阻害し、邪魔になることに気がついてくるのです。

 さて、神から与えられる義とはなんでしょうか。それは、神ご自身の働きをしているという証明です。自分を誇ること、自分を出すことの無意味さを知るならば、神の働きをしているとしている実感を持つことができます。神が私の側につくのではなく、私が神のものになるということ。そうすれば、何を恐れることがあるでしょうか。何を心配することがあるでしょうか。失敗や試練は遭って当然です。キリストでさえ、いつも試練に遭われたのですから。しかし、それを恐れることこそが、神と共に歩んでいない証拠なのです。


6月15日 キリストの復活の力。  ピリピ3章10〜14節

[新共同訳] フィリピの信徒への手紙 3:10-14

3:10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
3:11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
3:12わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
3:13兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
3:14神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 パウロが「死者の中からの復活」と書いている「死者」とは、どのような人のことでしょうか。それは、自分が変わることがないと信じている人のことです。自分が変わることがないと信じている人とは次のような人です。

1. 希望を持っていない人。

2. 体制や組織に束縛や恐怖心を受けて心が傷ついてしまった人(マインドコントロール)

3. 失敗や恥、自分の弱さをさらけ出すことを嫌がる人。

4. 心身が疲れていて、変化に対応できない人。

 イザヤ書には「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(40・31)と書かれて、失望するのは神の大能を信じていないからであると指摘しています。神の大能を信じていないのは不信仰者です。ところが実際は、多くのクリスチャンも、犠牲を払うとなると神を信じて歩むということを厭うことが多いのです。つまり、死者とは、生体反応がない者、神からのメッセージに反応せず信仰者として生きていない者、ということになるのです。

 パウロは先週学んだように、神に捕らえられ、神を信じてまったく自分を変えました。そして、自分の学んだこと、自分の家柄、名誉、献身、というものが全く意味を成さないものであることを知り、その全てを価値のないものとして捨て去りました。しかし、これは殆どの人にはできないことです。

 ある人は、自分は金もない、名誉もない、家族も財産もない、と言うかもしれませんが、自尊心や意地、罪深さは十分残っているのです。それが争いや問題の原因なのです。自尊心があるからこそ、「恥をかきたくない」、「失敗をしたくない」と問題に対処しないのです。

 パウロは、生ける神キリストの人格に触れました。そして、キリストが死からよみがえり、人間にとって最大の敵・問題である死に勝利された方であることを悟りました。ところが、多くの人が、よみがえりの主を信じることが、自分にとって得であるから従うけれども、そこに苦しみや犠牲を必要とすると、神を信じることを辞めてしまうのです

 「体を殺しても魂を殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」とイエス様が言われましたが(マタイ10・28)、魂を殺せる人がいます。それは自分自身です。レビ記には、神に反抗して歩み、神に聞こうとしないなら7倍も重く懲らしめる」(26・18)とあり、それでも聞かないなら7倍、7倍と、どんどん神の裁きが重くなると警告しています。イザヤ書7・18には、「あなた方の罪が緋のように赤くても」神は赦し、「雪のように白く」してくださるとありますが、「もし拒み、そむくなら、剣にのまれる」とあります。

  神の裁きは、隠れていたら過ぎ去ってしまうようなものではありません。私たちの言葉と行動の全ては記録に残っています。自分の十字架を負って生きるということは、過去の自らの罪深さから来る全ての咎(逆境、苦しみ、試練、恥・・・・)を受け入れて、敢えて逃げずに少しずつ対処し、神の法則にしたがって解決をしていくということです。イエス様の十字架は、御自分の罪深さではありません。ですから、自分の十字架ということは、自分に関わる人々の罪深さが原因が由来した苦労、艱難をも敢えて引き受けるということでもあります。

  しかし、そのようにして神を信じるがゆえに、逃げずにその咎と苦労を負い、キリストが死なれたときのように、その罪と労苦を負わせた人を呪わず、とりなすならば、必ず、神の大能により復活を体験するのです。

  パウロは、既に得たのでも完全にされているのでもありません、と言っています。それは、一度、十字架を負い、苦労を覚悟すればよいというものではないということです。十字架を負い続けて、キリストに従っていかなければなりません。信仰的な決断を何度かしたからといって、過去のことを自慢していてはいけません。だから、パウロは「後ろのものは忘れ、ひたむきに前に向かって進み」と記しているのです。

 だから、私たちは、今、為すべきことを主にあって悟り、その労や恥を覚悟して少しずつ、前進しなければなりません。過去の証は、今、前進するための確信であり、アドバイスです。希望を持ち、前進しない人に、過去は意味を成しません。前進する、戦うということは大変な力を必要とします。カレブは85歳にして、「今も壮健です。」と言って、新しい土地を獲得しようとして戦いに前進しました(ヨシュア14・10)。自分に欲望に死んだ者こそが、神にある大望を持つことができるのです。











6月22日 ひたむきに前に向かって進む。  ピリピ3章13〜16節

 新改訳 ピリピ  3:13-16
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。

3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。

 「失敗を恐れず、何事にも勇気を持って進んでいく。その勇気はやさしさ・強さ・純粋さを生みます。勇気を持って進み、成功すれば自信につながり強くなれるのです。失敗を経験することにより、他人に対しても思いやりの心が育ち、やさしくなれます。夢に向ってひたむきに進む気持ちが、純粋な心を育てます。「やさしさ」「強さ」「純粋さ」この3つを基本に自分というものを作り上げていきます」

これは、ある女子中高の教育理念です。また、今年の高校総体の大会讃歌にも「ひたむきに進む」ということが記されていました。また、この言葉をインターネットで検索したら、すばらしいクリスチャンの著述を2つも発見しました。約30件の中で他には蟻がひたむきに進むというものがありましたが、ともかく、これは青年や信仰者に当てはまる言葉であることが証明されています。

  この教育理念にもありますように、前進することで成功しても失敗しても「優しさ、強さ、純粋さ」を得ることができるということは真実でしょう。これは、強いられたり、促されたり、惰性のものであってはいけません。「ひたむき」が大事なのです。

 イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトから脱出し荒野を旅する時、何度も後ろを振り返って不満と愚痴を言っていました。

1. 敵が押し寄せて来た時。出エジプト14・11.

2. 食べ物がない時。16・3.

3. 水がない時。17・3.

4. 指導者が留守の時。32・1.

5. 問題が大きい時。民数記14・2.

6. 指導者に不満がある時。民16・3.

7. 神の愛を信じない時。民17・12.

8. 疲れ、不幸があった時。民20・2.

9. 長期間の苦労と変化のない生活。民21・5.

10. 性的な誘惑。民25・1.

 それに反して、主を信じ従い通したカレブは85歳になっても壮健であって、まさにひたむきに前に向かって前進しています。ヨシュア記14・10- 。つまり、信仰のバロメーターが積極性なのです。試練や艱難、苦労があっても、長期に亘る平凡な生活があっても、神を信じ前進を続けていくことが、その人の信仰の証明なのです。

 当教会のホームページに、ある青年の救いの証を載せましたが、彼は首が曲がってしまい顔を前に向けることができませんでした。病院に行ってもどうしようもなく、ノイローゼになってしまいました。そんな時、教会に来て神を信じることを迫られました。信じるか否か、二者択一です。神を信じても首が治るという保証はありません。でも、彼は自分の人生を神に掛けました。神が、神を求める信仰者を捨て置くということはないからです。

 主イエスは「いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28・20)が、私たちの方が主から離れるのです。主にあって前進する限り、主は私たちと共におられます。でも、先の十の状況のように、罪深い私たちは、そのような状況になると、簡単に不満を言い、あるいは信仰を捨てて、この世の論理に迎合するのです。

  「成人である者は皆」とありますが、青年には希望があります。成人に達すると、自分の可能性、将来はだんだん見えてきます。クリスチャンとしても、先が見えてくるということがあります。ところが、神を信じる者は、あまり先を見て失望してはならないのです。「あなたのみことばは私の足のともし火、私の道の光です。」(詩篇119・105)とありますが、聖書の言葉を信じる者はサーチライトのようにかなり先の方を照らすのではないのです。あまり先ばかり照らして道から離れたりしないで、自分の足元を注意し、つまり毎日の生活をしっかりと聖書のとおりに誠実に生きながら、ひたむきに前進するのです。

  神が自分を用いるかどうかはわかりません。しかし、はっきりとしていることは、神は、不誠実な者、不信仰な者、高慢な者を決して用いないと言うことです。会堂を与えられるまでに20年掛かりました。建物を自慢してはなりません。大事なことは、これまで主に忠実であったように、これからも主に忠実であり、無理なこと、無謀なことをせず、ひたむきに前進することです。岩の上に自らの基盤を掘り続けましょう。こつこつと主に用いられる自分の人生を築き上げる人は幸いです。


6月29日 私たちの国籍。  ピリピ3章15〜21節

新改訳 ピリ 3:15-21

3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。

3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。

3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

十字架の敵として歩んでいるのは、誰でしょうか。

1. パウロ達を手本として歩んでいない人々。

2. 欲望のままに生きている快楽的な自称クリスチャン。

3. 地上のこと、立身出世やこの世の基準に囚われている人々。

 注意するべきことは、ここで痛烈にパウロによって非難されているのは、クリスチャンなのです。無理がない程度に教会に来て、人格的な成長を目ざし、よい人間になろうとする善意な人々は多いものです。それが否定されるのでしょうか。

昨年十二月のある調査では、キリスト教に関心や期待を持つ人は、人口の10%に及び、女子学生の4%は「現在キリスト教に入信したい」と考えていると統計が出ているそうです。キリスト教に関心がありながら、教会に通っていない理由は、忙しい、近くにない、拘束されたくない、毎週通うのが面倒、教会で何をしているかわからない、入りづらい、などがあるそうです。そして、キリスト教やクリスチャンに対するイメージは、あたたかい、心が広い、品がよい、などの肯定的なものと共に堅苦しそう、という印象が高いようです。

まず、これまでの聖書の学びを振り返りますと、パウロが嫌い警戒しろと言っているのは、律法的なクリスチャンです。実際、私は教会がその教会員について事細かく指示し指導している律法的な教会があることを知っています。パウロは、十五節で違った考え方をしているとしても神が、いつかその人を矯正して下さるだろうと語っています。つまり、パウロが痛切に非難するのは、その人の判断や弱さ、状況を認めない一方的画一的な指導をする人々に対してなのです。この世の基準と言うのは、教会外だけでなく、教会内に対しても、この世の考え方で教会を運営しようとしたり、聖書を指導することが危険であるということなのです。

ただ、ここでは、そのような人に対して厳しい人々に対するものだけではなく、聖書の教えを適当にして自分中心に過ごす人々にも厳しいパウロの批判があるのです。律法的なことは良くないと言って、神は愛だからと信じ、欲望をコントロールすることなく、生きている人々のことです。

彼らの最後は滅びです、とパウロは言いますが、私が経験した人生では最後にならなくても、途中でも滅びの中にいるような荒んだ生活を過ごしているようです。

  それでは、中途半端な段階にいる多くのクリスチャンはどうなのでしょうか。それは、先週学んだように、神を待ち望み、ひたむきに信仰の成長に励まないと、必ず、罪と誘惑の虜になって、祝福の人生は歩めないということです。清められなければ、堕落していくということです。

  私たち夫婦は、神に献身を決意して結婚しました。ただ、正直に振り返って見ますと、律法的になったときもありました。その時は、夫婦が労わりあい支えあって生きるのではなく、要求をし合い、責め合うような悲惨なものでした。成功しよう、金持ちになろうという時もありました。そういう時は金や欲望の奴隷であって、稼ごうとしても使うことができませんでした。

  「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。人は、その宝を見つけると、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13・44)とあるように、天の御国のことを真に知った人は、全財産と能力を掛けて、神の国に行けるために努力をします。そうしますと、そのように自分の時、能力、財産、思いを神の国に掛けていない人は、御国のことを知らない人ということになります。御国とは、神と共にいることであり、罪赦され新生をした人のみが知りうる奥義であります。

  私たち夫婦は、共に新生したクリスチャンでありますが、そのような暮らしをしている内に、自らが神の国の住民としてふさわしくない生き方をしていることに、「神が明らかにしてくださった」(15節)のです。そして、先輩牧師や周囲のクリスチャンがどうであろうと、自分としては未熟なままに「天に国籍」がある者としての生き方を模索したのです。自分の考え方を変えず、「これが正しいのだ、これでいいのだ。」と頑固な人がいます。その人は、自分の国に住んでいるので、神の国に住むことはできません。私は、牧師にもこの種の、独りよがりな人が多いことを見出しますから、信徒では当然でしょう。これは、やはり、神に招かれても応じることのできる人が少ないことを示しています。

「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。」(ルカ14・33.34)


7月6日 真の協力者よ。  ピリピ3章15〜21節

新改訳 ピリ 4:1-3

4:1 そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。

4:2 ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。

4:3 ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。


 ピリピの教会は、パウロが始めた教会であり、非常に成熟したすばらしい教会として知られています。だから、この教会の信者との「愛し慕い」あう交流は、パウロにとって、「喜び」であり、また、パウロの主にある働きの功績を示す「冠」なのでした(1節)。

 ところが、パウロは、「しっかりと立ってください。」と注文をつけます。それは、ユウオデヤとスントケという二人の有力な婦人信徒が仲たがいしているからです。「主にあって一致してください。」とまっすぐに言えるのは、この二人がしっかりとした信仰を持っているからですが、とうとう名を出さずにはいられなくなるほど心配したからです。

 ピリピの教会は、そもそも紫布の商人ルデヤの回心から始まり、看守の家族の救い(使徒16章)などのように誠実な信仰者が集って形成されてきたようですが、女性信徒が活躍したようです。しっかりとした教会、成長する教会には女性信徒が必ず中心になって活躍しているものです。私の母教会の金沢教会も船津恭子師の指導の下、神を第一にして教会を支える婦人信徒が数十人いて、教会をいつも支えています。女性は本来献身的であり、助け手であり、力強い協力者です。

 ところが、さしものピリピ教会にも、問題が起こりました。この女性たちは、「福音を広めることで私に協力して戦ったのです。」とあるように、非常に強い信仰を持ち、献身的でした。この二人が、喧嘩をしてしまったのです。能力があり、指導力のある人ほど、自分に自信があり、見解を持っています。従順な人ばかりでは、仕事はできません。でも、主に従順でないと、真に指導力も発揮できないものです。

 なぜ仲たがいをし、腹を立てるのでしょうか。

1. 自分を主にしているからです。

 いつも自分が中心になっていないとだめな人がいます。会話の中心、活動の中心でないと、抜け出してしまうなら、あなたは神の協力者にも、協力者を得ることもできません。

2. 他人の言うことを聞かない人がいます。

 人には指導するけれども、人がアドバイスをすると、「自分の状況を理解していない、こういう行動をとっているのは理由があるのだ」と言って、理屈を述べて、人の意見を聞かない人がいます。まず、耳を傾けることが必要です。私は、女性の会話で、相槌を打ちながら、全然かみ合わない会話を続けていることに良く出くわしました。自分のこと、自分の悩みを言いたくてしようがなくて、人の話を聞かないのです。

3. 自分の弱さ、罪深さを悟っていないからです。

 神は私たちの罪を赦されても、私たち自身が自分に罪を犯した人を赦さないと、罪の許しの恵みはわかりません(マタイ6・12.主の祈り)。

4. 自分の口を制御しようとしないからです。

 「人はその口の実によって良いものを食べ、裏切り者は暴虐を食べる。自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」(箴言13・2、3)「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。」(箴言16・1)。

 こういうことが、教会の有力な信者にもありうるということは、私たちもまた心から注意しなければならないことです。パウロは、ここで、「真の協力者よ」と言っているのは誰かと、論議されることですが。名を出すと羨まれることを配慮し、阿吽の呼吸で通じているのは、やはりルデヤではないかと思います。

 私の尊敬する婦人牧師村上知子先生が先週癌で召されました。人を立て、目立つことをせず、自分の牧会信念を貫きながら、末期癌に対応して静かに召されていかれたのは、さすがでした。本来献身的な女性が、自分と自分の口を制御すると、神が協力者として、その人を支えて下さるのでしょう









7月13日 いつも喜びなさい。  ピリピ4章4〜7節

新改訳 ピリ 4:4-7

4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。

4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 私たちの教会は、会堂建設にいそしんでいます。ここで、バビロン捕囚から帰り神殿と城壁を築きあげようとするネヘミヤ書から多くのことを学ぶことができます。

 神殿建設に当たって彼らが為したことは、次のとおりです。

@ 仕事をし、敵と戦いながら建設にあたった。(ネヘミヤ4章)

 剣や槍を持ちながら仕事をした。いつも敵からの攻撃に備えていた。

A  罪の悔い改めと人々の解放(5章)

 借金の帳消しと奴隷の解放。総督は無給。

B 聖書朗読や礼拝、断食の祈りに多くの時間を掛けた。(9章)

 自分たちがなぜ、敗北し奴隷になり、苦しんだのか、徹底的に学んだ。

C 聖書の教えに絶対に従う誓いをした。(10章)

 安息日に仕事をせず、礼拝を守り、為すべき献げ物を全て果たすことを誓った。異邦の民とも結婚しないことに決めた。

D 聖歌隊を作り、讃美をし、感謝を捧げた。〈12章〉

 彼らは、神殿と城壁の建設に当たり、自らの弱さ、頼りなさ、そして敵の多さとしつこさなどに途方にくれます。しかし、総督ネヘミヤと祭司エズラに指導されてイスラエルの民は、信仰復興を遂げます。神殿の建設は信仰がなければとてもすることはできません。そして、徹底的な悔い改めと律法による信仰指導により、神殿は建設されるのです。

 物事を進めるのに最も必要なものは、希望です。希望がなければ、物事を進めても、形式的なものに終わり、何のためのものか、意図がわからず、労力や財を費やすだけになってしまいます。その希望は、多くの問題や労苦をも乗り越える原動力になります。

 そして、その希望をもたらすのが、信仰なのです。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」思い煩うことがないことが、祝福の人生ではありません。「あなた方は世にあっては艱難があります。」〈ヨハネ16・33〉と主は言われました。思い煩うことが多くあっても、思い煩うことを辞め、祈るのです。祈らない人は、思い煩うことに出会うと、人間的な能力で対応しようとします。そして、苦しみ、悩み、能力のある人は能力で対処し、それができない人は諦めるのです。ところが、能力があるといってもたかが人間的なものですから、やはりうまくはいかないのです。そこで、「信仰者の寛容な心がすべての人に知らせ」られることになるのです。

 私は、現在、会堂建設に加えて、クリニックの組織、人事、ホームページの改定、教団の財務、教区の会計、地区の世話役、そして教職勉強会の世話役、そして、家事から、子供の世話、犬の散歩や買い物、その他、とてつもなく、忙しい生活を過ごしています。更には、梅雨の時期の通風で体調も悪い時です。月曜は夜中に帰るとき、食べたものを全部はいてしまいました。金曜の午後は、疲れて動けなくなってしまいました。この原稿も真夜中に書いています。ところが、このような中に自分の、生き甲斐というか、喜びを見出したのです。

 日銀の速水前総裁は、最も難しいときに就任したわけですが、日々聖書の言葉に励まされ、内外の大変な圧力にもめげず信念を貫けたと語っています。主にあって喜ばなければ、思い煩いの底に沈んでしまうようなことがあるのです。でも肉体がいかに疲れても、信仰が神と結びついていると、とてつもない喜びが沸いてくるのです。なにか、奥義を体得したような気持ちです。この調子では殉教でもするのではないかと懸念するような感謝と平安を見出しました。「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」とあるのは真実です。

 会堂を建てたら、何が起こるでしょう。すばらしい会堂で結婚式ももたれるでしょう。セミナーも英会話もできるでしょう。宿泊して教会員交流もできるし、地域の集会の会場にもなるでしょう。地区や教区の会場にもなるでしょう。そして私が忙しくなったらだれか助け手が現れるでしょう。

 自分としては、この後為さなければならないことが目白押しです。医療法人化、教会管理ソフトの作成、宿泊できる診療施設、ホスピス、グループホーム、教会ではチャペル・ウェディングのプランニングやいろいろな企画、また、奉仕しなければならない教団。教区の仕事、でも主の平安が私を守ってくださるでしょう。


7月20日 良きことに心をとめ実行する。  ピリピ4章8〜9節

新改訳 ピリ 4:8-9

4:8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。

4:9 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

 メジャーリーグに行った松井選手が多くの話題をさらっています。阪神の大躍進も単なる話題ではなく、経済的な効果や社会現象を生み出すほどに大きな影響をもたらしています。広島に行くと広島カープのファン、名古屋は中日ファン、そして大阪は阪神ファン、皆強烈なもので毎日の生活に大きな影響をもたらしています。それらファンは、好きなチームの応援をして贔屓になるのです。贔屓とは特別な好意であって、損得よりも人間の決断に大きな影響を与えます。

  聖書には、ひいきをしてはならない、とありますので(ヤコブ2,3章)人をえこひいきしてはなりませんが、「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。」(詩篇4・3)というように、特別に大事にするということはあります。私たちは、このことをしっかりを覚えていなければなりません。

  昨日、道を歩いていると、小学生の男の子が、「ママ、僕のこと嫌い」と聞くと、母親が「そうよ、あなたのこと大嫌い」と答えたので、その息子は「僕だってママのこと、大大大嫌い」と興奮して叫んでいました。親に嫌われていると思う子供は、親を嫌い、自分の存在を喜べなくなります。

  神に特別に好かれている愛されているという自覚は、その人の信仰、歩み、人生を強固にします。ところが、この神との密接な関係は、やはり、その人の信仰生活の実態に大きく左右されます。この神との交流は、「試練や苦しみの時、誘惑の時に、神を信じ、誠実を尽くした」という自らの信仰の決断に大きく依存するのです。例を挙げましょう。

・ 「アブラハム」 ロトとの争いの時、ロトに利益の方を選ばせている。イサクを捧げる時も同様。
・ 「ヤコブ」 創世28・20.神の祝福を要求し、その請願に収入の十分の一を捧げることを誓っている。

 そのほか、聖書には、信仰的な決断とその結果としての神の祝福が多く記されています。大事なことは、それを読み、それに教えられて自らの生活に適用することです。自分の生活の試練や苦難の時に、信仰を働かせる人は、クリスチャンであるのにも関わらず、非常に少ないという現実に驚きます。そのような不信仰も自ら決断しているのですが、信仰行為はしっかりと決断しなければできないことですが、不信仰の選択も実際に自らの行為であり、決断の結果なのだということを、自覚せずに誘惑に負けていることが多いのです。

 ギャンブル、快楽、犯罪も自分の決断の結果です。「ムシャクシャしたから」といって人を傷つける事件が多くなっています。その人は自分の感情に左右された数分の過ちの結果、一生を犯罪者として過ごさなければならなくなるのです。自分の行動について言い訳をいう人が多いのに驚きます。社会で感情的な発言をすると、その咎でうまくいかなくなることが多いものです。

 夫婦の会話も気をつけなければなりません。アダムとエバ以来、多くの夫婦が伴侶の入れ知恵で生活に破綻を帰しています。お互いを忠告できないと、社会で思わぬ失敗をしてしまいます。助言を聞き入れないとレハベアム王のように大変な危機、反発をもたらします。「指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。」(箴言11・14)

  自ら、聞く用意のある人は、助言を受け入れ、多くの祝福を得ます。助言についても、私の経験から注意点を列挙しましょう。

・ 非難や批判に基づいた助言でないこと。
・ 助言する人が興奮していないこと。
・ 聖句や格言、慣習などを引用し、判断する情報を提供しているもの
・ 強制的で、助言以外の方向を許さず認めないものでないこと
・ 法外な利益や社会的に逸脱した行為をうながすものでないこと

会堂建設にも、専門家や業者、他の人の意見を聞くと思わぬ成果や知恵、そして利益をもたらすものであることを実感しています。先週も、工事に関する多くの仕事に加え、いろいろな事件や問題が生じました。でも、「神は私に良きことをなしてくださる、神は私を特別に扱ってくださる」と信じますと、不思議な平安と祝福を得ることが出来ます。

ともかく、祈らない人は、仕事が多くなり、問題が溜まってくると、ストレスを感じ、問題を起こしたり、体調を崩してしまいます。多くの人が祈らずに、思い悩んでいます。そして問題を自ら大きくしているのです


7月27日 あらゆる境遇に対処する秘訣  ピリピ4章10〜12節

新改訳 ピリ 4:10-12

4:10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。

4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

 子供の頃は自分がヒーローになる夢を見、青年になると自分がすばらしい成功を収めることを願い、また幸せな結婚をすることなどを考えます。ところが、年を取ると次第に夢見ることを忘れ、現実の厳しさに慣れて否定的な考え方をするようになります。青年時代は、論理的な考察をして理不尽を嫌い、無能力をさげすむことなどもありますが、次第に自分の限界、能力の限界にも気がつき、諦めの気持ちも増ええきます。つまり、世の中を長く生きるということは、人間の限界を知るようになるということです。

 また、長く生きている中で、出会う人にも影響されます。否定的な環境に育ったり、欲望や罪にまみれた環境に育つと、やはり、そのような人間になっていくようです。自然豊かな環境や芸術的な環境に育つと情緒的な人間になるようです。

  私は、小学生時代、「家なき子」や「巌窟王」などを読んで、逆境にもめげず生き抜く人の小説を読んで感動しましたが、小説や映画などの疑似体験も大切にしなければなりません。また、周囲に多様な人々がいることも大事でしょう。祖父が新聞を逆に長い間読んでいるのを見たり、腰が極端に曲がっているおばあさんを見て、驚いたことも忘れられません。人の死、怪我、事故など身近な人々のダメージを見聞きすることも大きく影響します。高校時代バイクで知り合いが死んだことも大きなショックで、それからは無理な運転を怖がりました。障害児の級友がいたことも感謝でした。自分が恵まれていることを心から感謝し、彼らの心の優しさも知って労わることを覚えました。自らが貧しかったこと、もっと貧しい人々がいることを知っていたことも、大事な思い出です。

  さて、それでも、そのような人間環境の中で、決して知りえないことがあります。それは、イエス・キリストです。

  キリストを知ることは全く異次元のことです。この世のどんなこともキリストを知ることとは別次元のことです。

「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」(ピリピ3・8)

 キリストによって魂の救いを得ました。このことは何にも例えようがありません。キリストによって真理を知りました。「我、朝に道を知らば、夕べに死すとも可なり」という言葉を実感したものです。キリストによって、愛されていることを知りました。もはや欲求不満はありません。

  人生経験の多寡を問うことは、キリストを知り、聖書を知るならば、愚かなものとなります。人生の成果もまた、虚しいものです。人の評価もまた、移ろいやすいものです。

  生まれながらのローマ市民で学問も教養もあり、人格も優れていたパウロが、なぜ、貧しさ、豊かさ、飽くこと、飢えること、戦い、苦しみ、など幾多の経験をすることになったのでしょうか。それは、パウロが、キリストを知り、キリストにあって生きることを最優先事項としたために、それらのことは全く気にならなくなったからです。

 労苦が気にならない。苦にならない。実際にこういう人々に出会うことがあります。私は、そういう人々と出会う時、心からの喜びを覚えます。人の評価をしたり、けちを付ける人々は、いつも自分の労を惜しむ人だからです。或いは、人の欠点をあげつらって、自分の怠慢や罪を隠蔽するからです。

  キリストとの出会いは、そういう段階を遥かに超えたものです。労苦や自己犠牲を積極的に行うものなのです。自分を犠牲にして人に与え、助けるのです。私たちは、神の子となったのです。神の子が私たちの内におられるのです。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」(Tヨハネ3・1)

  来週から新しい会堂で礼拝します。新しい教会活動も始まるでしょう。なんという喜び、なんという感動でしょう。神との出会い、神との歩みを、他の喜びや趣味、仕事、雑事に委ねてはなりません。あなたの価値観がキリストを第一とするものでなければ、いつでも神との体験は、あなたから離れていくでしょう。こころより、あなたのために祈ります。


 8月3日 困難を分かち合う  ピリピ4章13〜14節

新改訳 ピリ 4:13-14

4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

4:14 それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。

都上りの歌

126:1 主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。

126:2 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」

126:3 主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。

126:4 主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。

126:5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。

126:6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。


いよいよ新会堂です。「私たちは夢を見ている者のようであった。」(詩篇126編)という言葉が私の心を占めました。ひとりで会堂に入ると涙がにじんできます。

 さて、この詩篇はバビロン捕囚からの帰還の時のものです。イスラエルの人々は、罪と頑なさから異邦に囚われ奴隷となりました。しかし、「主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。」(126・3)とあるように、神の哀れみと大能により彼らは奇跡的に帰されたのです。

 昨日、他教会のクリスチャンが来られて、うらやましそうにして、「クリスチャン新聞やその他で報道されるでしょうね。」と語りました。その瞬間、私は「この会堂は私の功績ではない。会堂を喜ぶことは健全だけれど、会堂を誇ることは傲慢につながるから気をつけなければならない。」という思いが来ました。

 私には、20年間の苦難の思い出が大きくあります。ですから、この会堂は、苦難からの開放、バビロンからの開放のような気がするのです。詩篇126編は「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」という言葉で終わっています。私たちにとって、新会堂は、「主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。」という願いの前触れでしかありません。魂が救われなければ、救われた魂であふれなければ、会堂もなんにもならないのであります。

 「涙と共に種を蒔く者」というように私の牧会生活は、涙ばかりでありました。申し訳ないほどに私は多くの人を躓かせ、魂の救いのチャンスを逃しました。牧師としても無能で教会を離れた人の数は残っている人の数倍おります。彼らの魂のことを思うと今でも胸が裂けるほど、悲しく申し訳ない思いであります。

 私たち夫婦は、教会の為に全財産を掛け、全力を注いでいます。教会といっても、意識は千葉福音キリスト教会だけでなく、神の教会というものです。クリニックの働きも、教団その他の奉仕も同様なものです。会堂が出来たのは福音のためであって、私たちのためではありません。私は自分の権利や生活をまず主張する人々が殆どであることを知っております。それが罪であり、人間性というものはそういうものですから別に非難することなく、ただとりなしをするばかりです。

 しかし、イエス様は言われます。「自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしについてきなさい。」(マタイ16・25)。自分を主張する者に、神の祝福があるはずがありません。7月は毎日会堂のことで働きどおしでした。でも私は誰にも手伝いを強要したことはありません。私たち夫婦は誰よりも多く献げましたが、献金を強要したことはありません。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」他人に期待せず、躓きもせず、自分としては出来る限りのことをすれば、どんなことでもできます。それだけではなく、神は思いがけない助け手を与えて下さるのです。十字架を負う覚悟をし、他人はどうであろうと、自分は神に仕え、神に従うならば、その「くびきは負いやすく、荷は軽い」(マタイ11・30)のです。

 この教会はこれからも変わりません。教会に来たくなければ来なければ良いし、献金したくなければしなければ良いでしょう。奉仕も自由です。でも、一生懸命奉仕をし献げる人を非難すれば、神がその人を罰するでしょう。罪人というのは不思議なもので、全ての人が自分勝手で不熱心でなければ不安になるのです。

 そして私は、多くの同労者を求めます。それは「困難を分かち合う」人です。「自分を捨て、自分の十字架を負う」人です。そして、非難や攻撃に耐え甘んじ、反って罪人のためにとりなしをする人です。自慢をせず、権利を主張せず、勝利や成功も主に委ね、主に従っていく人です。

 バビロンから帰ってくる人々をまとめ励ますために、主は多くの人材をイスラエルに用意されました。ダニエル、エズラ、ネヘミヤ、ゼルバベル、ヨシュア、数多の預言者、そして忠実な信仰者たちでした。日本のリバイバルのために働くか、自分と家族の生活のために生きるか、それはひとりひとりが判断して生きるべきことです。


8月10日 霊的祝福を求めて  ピリピ4章15〜20節

新改訳 ピリ 4:15-20 

4:15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。

4:16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。

4:17 私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。

4:18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。

4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

4:20 どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。


 ピリピ書の学びも終わろうとしています。この書簡には大変祝福されました。いつもちょうど必要な聖句で私自身へのメッセージのように受け留めています。ピリピの教会は成熟した教会ですから、この箇所から説教ができるということは、私たちの教会も成熟して来たということでしょう。自分たちに当てはまらず、自分たちがそれとは全く異なっている場合には、会衆もアーメンとは言えず、説教者も語りづらいものです。

 さて、今日は献金のお勧めです。私自身は献金や献身は祝福と考え、それを喜んで自発的に、また更に増やそうと願っていますが、実際には、献金を負担金と考えている人もいるようです。そして、教会からの利益に応じて、或いは保険金のように(神のばちがあたらないように)、負担として献金をしているのです。

 信仰と言うものは、論理的に説得するものではありません。いくら論理に納得しても、信仰をもって生きるということは出来ないのです。ですから、献金の祝福というものをいくら語っても、わからない人はわからないし、反って反発を招くだけなので、私たちの教会では、什一献金も義務化していませんし、あまり献金については語っていません。最近の日本人は、金銭的な確執が多く、「全ては金がなければどうしようもない。」と考えている人が殆どです。

 神は全能のお方ですから、「銀はわたしのもの。もわたしのもの。」(ハガイ2・8)と宣言されて当然ですが、私たち信仰者が「銀も金も私へ」と願うと「神にも仕え富にも仕えるということはできません。」(マタイ6・24)というイエス様の教えに逆らうことになります。反って「自分の宝は天に蓄えなさい。」(6・20)という教えこそ大事なものとなってきます。

 それでは「求めなさい。そうすれば与えられます。」(7・7)は金銭のことではないのでしょうか。これは聖霊であると限定する人もいますが、経済的祝福を含むという解釈は正当なものです。そのために必要な条件は、その前後にあります。

・ 心配せずに神の国とその義を第一に求めなさい。

・ 自分にしてもらいたいことは他の人にもそのようにしなさい。

・ 聖なるものを犬にあげてはいけません。

・ 良い木は良い実をむすぶ。

 これらの聖句が祝福の鍵です。つまり、子供や自分勝手な人、神の為に働かない人に神は祝福を注ぐことはないということです。また、私がよく感じることは、祈らないクリスチャンは無駄な行動や失敗が多いと言うことです。祈りなしに神の義や神の判断を求めることができるでしょうか。言い換えますと、祈りの中で神に判断を仰がずに、神の為や教会に仕えるという行動は取れないということです。

  そういう信仰的な行動の大きな目安が献金であることは当然なものとなってきます。信仰のない人は、献金が出来ませんし、献金を目立つようにしたがるのです。「善行を人に見せると神の報いがない。」(マタイ6・1)とあるように献金は大げさにすると報いを失います。

  ピリピの教会はパウロをいつも支援する唯一の教会でした。でもパウロは、ピリピの人におべっかを使ったりせず、「私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」と、パウロを支援しているのだから、あなた方には当然、それ以上の霊的祝福があるはずだ、と彼らの証しを期待するのです。献金や献品をするのなら、自己満足でするのではなく、神の報いを期待しなさいと要求するのです。そして、「良い木は良い実を結ぶ」という法則のように、真実な献身は必ずすばらしい報いがあるはずであって、報いがないのは、神の責任ではなく、あなた方の偽善が問題なのであると言い切ってしまうのです。

 マラキ書には、献金をすることによって「わたしあなた方のために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注ぐかどうか、試してみよ。」(3・10)とあります。このように信仰に自分の人生を注ぎ、祝福の期待を神に掛ける人は幸いです。多くの人が、自分の人生の祝福を勤労や能力、努力に掛けています。それらが破綻をきたすのは、歴史や人生が証明しています。神の祝福こそ、全ての反映と祝福の唯一の源であることを信じるでしょうか。


8月17日 あなたの霊にキリストの恵みを  ピリピ4章21〜23節

新改訳 ピリ 4:21-23
4:21 キリスト・イエスにある聖徒のひとりひとりに、よろしく伝えてください。私といっしょにいる兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。

4:22 聖徒たち全員が、そして特に、カイザルの家に属する人々が、よろしくと言っています。

4:23 どうか、主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。

 「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。」という言葉でピリピの教会の人々へのすばらしい手紙が締められています。霊性ということは非常に重要なことです。でも、現代のクリスチャンで自分の霊性に注意深い人はあまりいません。何度も申し上げていますが、霊性ということは人格と結びつきます。でも人格そのものでもなく、人格者であるかどうかということとはまた別です。

  エリシャの召使がアラムの大軍に驚いた時、エリシャが神に「どうぞ、彼の目を開いて見えるようにしてください。」と主に願ったように、霊の目が開かれてない人は、この世のことに囚われて神の導きや祝福を見ることができないということがわかります。ですから、問題や困難、人の敵対や批判、病気や事故、経済や財政などといったものに直ぐに影響を受け、消極的になり防御に回ります。このような人はサタンも攻撃し甲斐があって、効果が直ぐに現れるものだから、サタンの虜になって何もできない、神の祝福を獲得することができない弱虫になってしまうのです。ところが、サタンの虜は、消極的というだけでなく、サタンに利用もされるので、多くの問題を起こします。

  Tペテロ5章には、「思い煩いを一切神に委ねなさい。・・・堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」とありますが、思い煩いや弱音は持ってはいけないものです。これらを持つのは当たり前であってしょうがない、という人がいますが、思い煩いというのは習性であって悪いほうに人を向かせるのです。ですから、思い煩いそうになったら、祈るのです。神を信頼することに心を向けるのです。これが人格的に安定をもたらすのです。

 さて、霊は心ではありません。しかし、心を方向付けるものです。ですから、心が何を向いているかを確認することによって、その人の霊性を確認できるのです。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6・21)心が神のこと、義や愛に向いている人は幸いです。信仰者は謙遜でなければなりません。自分はすごい信仰者などと自惚れている人は、霊性が濁っているというほかありません。皆さんはいかがでしょうか。

この霊にキリスト・イエスの恵みを満たすのです。何を言っているのかわかるでしょうか。あなたの人生、考えの主人として、イエス様を受け入れるのです。主があなたに何を望んでおられるか、それを常に考えるのです。金持ちの青年がイエス様の所に永遠のいのちを得るために相談に来ました。イエス様は「持ち物を売り払って貧しい人々に与えなさい」と言われました。青年にはそれはできませんでした。ここの箇所は、貧しい人に物を与えることに焦点があるのではありません。金持ちは金で物事を考え、金で天国に行こうと考えることに問題があるのでしょう。ですから、能力や主義、財産、その他なんでも、豊かな霊性の邪魔になるのです。

 新しい会堂に入るために多くの古い物を処分しました。勿体無いと言って綺麗な会堂に古い物を入れると全てがおかしくなってしまいます。新しい人、霊性を豊かにするためには、この世の考え、過去のことは捨てなければなりません。イエス様に満たされるということは、現在であり、将来に繋がるものです。自分が何かしたという功績は、キリストに満たされるためには無益なものです。自分を主義主張で飾ると決してイエス様は、あなたの心の中に入ることができません。イエス様も入れて、この世の欲望も満たすという調子の良いことは辞めなければなりません。「キリスト・イエスにある聖徒のひとりひとり」とは、このように苦難や問題をものともせずに、キリストと共に歩んだ人々のことです。

  全身らい病の人がいました。彼は「主よ。お心一つで私は清くしていただけます。」(ルカ5・12)と願い、癒されました。どんな努力しても直らないらい病を信仰で癒されたのです。他方、人が努力したら報われるのでしょうか。私は努力自体報いであって、それ以上を求めるのはやはり欲望だと思います。「自分の為に蓄えても神の前に富まない者はこのとおりです。」(ルカ12・21)。「キリストの恵み」とは、神の為に生きた者が与えられる、一方的な祝福です。キリスト信仰は、趣味や教養、人生の教訓などと考えてはなりません。「自分の心の行くままの無理のない信仰生活」というのは、「神をも自分の利益のために利用しようとする罪人の生活」に他なりません。




8月24日 天に蓄えられた望み  コロサイ1章1〜5節

新改訳 コロ 1:1-5

1:1 神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、

1:2 コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ。どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

1:3 私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。

1:4 それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。

1:5 それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。


 今日からコロサイ人への手紙から礼拝のメッセージを語ります。コロサイ書の説明は後日にして、今日は天国のことを語ります。皆さんは、本気で天国を信じているでしょうか。 

  クリニックの社員旅行で韓国に行ってきましたが、韓国人女性のガイドさんとの会話にいろいろなことを考えさせられました。まず、「日本人のイエスはノーという場合もあるが、そんなことはわからないのでハッキリと言って欲しい」と言われました。自分の考えを明確に表現せず、状況に合わせて態度を決める日本人の特徴を他国人は皆知っているようです。信仰についても、何故日本のクリスチャンはそんなに少ないのか、韓国は30%はクリスチャンなのにと尋ねられ、答える前に、「何事もハッキリしない性格だから日本人はクリスチャンになれないのだろう」と言われてしまいました。それでも、好印象を与えたようで、家内の優しい心と私の温かい笑顔がキリスト教について新しい興味を与えたと後でメールが来て、感謝でした。

  ハッキリと自分の意見を言わず、個人的な希望も持たない、特別なことをしない、このような日本人はどのようにしてできてしまったのでしょうか。会話の中で皆が希望し、日本軍の韓国人に対する迫害のレリーフがあるパゴダ公園に行きました。態度を明確にしないうちに、このような恐ろしい迫害に加担してしまっていたのです。日本人のまた同じような被害者なのだと説明しても、「それなら何故反対しなかったのか、今もなぜ政治家が歴史認識を間違って語っているのに、反対しないのか」と言われてしまいました。

  知っている、信じているなら、その通りに行動する。「イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」(マタイ8・13)。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2・26)

1. 望みを天に蓄えていますか。

お金を銀行に蓄える人は多くいますが、望みを天に蓄える人は少ないようです。お金を使ってしまったら、蓄えることはできません。こう言うと、お金を献金しろと言っているように聞こえますがそうではありません。望みを浪費してはいけないということです。ブランド品を買ったり海外旅行に行くことが望みの人は、そのために働き、考え、希望を膨らませて、ついに実現させるのです。でも、その望みは、地上のものなので、虚しく過ぎ去ってしまうのです。自分だけの幸せを願う望みは、戦時中の日本人のように他国人を殺戮するものにもなってしまったのです。

2. 信仰と愛は希望に基づくものです。

 皆さんは、信仰があるから愛や希望が持てるのだと考えるかもしれません。それは、「自分に信仰力がある」と思う自惚れです。逆に「信仰がない、薄い」と自分のことを考えている人もいます。仮に信仰があったとしても、対象が実在しない神であったら、何にもなりません。実際には信念と信仰を混同する人もいるようです。信仰は、キリスト・イエスに掛かっているのであって、信仰者の意思に掛かっているのではありません。同様にキリストが愛して下さったからこそ、愛がもてるのであって、「愛情深い人」などという人間性は当てになりません。そういうわけで、神が自分を天国に迎え入れて下さるという望みこそ、キリストの人格、愛を確認し、我らの信仰や愛の基盤となるのです。

3. 望みは福音の真理の中でのみ知ることができるのです。

 福音とは、罪深い私たちが、ただ神の愛によって罪許され、義とされ、神の子とされるということです。これは悟りでは到底わからず、神ご自身のことばでのみ確認されるのです。ですから、聖書をきちんと学ばない人は、決して神の愛も信仰も希望も持つことはないのです。



8月31日 福音をないがしろにしてはいけません。  コロサイ1章6〜9節

新改訳 コロ 1:6-9

1:6 この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。

1:7 これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、

1:8 私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。

1:9 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。

ローマ2:1ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。

ヘブル2:1 ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。

2:2 もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、

2:3 私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、

2:4 そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。


 今讃美しました聖歌518番は新しい総合版では除かれています。もったいないですね。「この身を虜にせし、この世の楽しみ去り、心の重荷たりし罪科清められし今。一度はさすらい人、一度は死を慕いぬ、一度は疑いもて主の招きをも退けぬ。かつては闇路歩む、我欲の奴隷なりき」

 まさに、神を信じない人の特徴です。私自身も22歳で神を信じ、自分の罪に気が付いて悔い改めるまで、そのようなものでした。人から見たら、私は性格も良く努力家で品行方正な青年として捉えられたでしょう。でも、神を知り、十字架の意味を知ったとき、結局は自分は自己中心な罪人であると、聖霊によって知らされました。ですから、私はどんな立派な人も、やはり自己中心な自分の利益と判断を優先する人間であると知っています。

  先日、池田小事件の犯人に死刑判決が出ました。被害者の遺族も、死刑によって死の恐ろしさを身にしみて感じ、自分の犯した罪の大きさを知るといい、というようなコメントを出しています。でも、私の体験では自分の死については覚悟した者にとってあまり恐怖ではないと思います。むしろ、愛する者が突然死んでしまったこと、その悲しさは愛する者がいない人間にはわからないのではないかと思います。つまり、宅間被告には、死が消滅であるならば死刑はあまり懲らしめにはならないということです。自己中心な人間には、痛みも罰も懲らしめもあまり効果がないということです。

  この事件に関して、もう一つ思わされたことがあります。それは遺族も裁判官も、このような人間は死んで当然だと裁いていることです。彼らもまた、人を殺そうとしているということです。聖書は死刑を認めています。それは犯罪の抑制効果と、罪に対する罰という制度上のものです。死刑は死刑ですが、それでもその人の人格は認めなければなりません。罪を犯してしまったことと、その罰への哀れみを感じながら人を罰するのです。非人間的な犯罪行為をした、その人の歪んだ人格を深く哀れみながら罰するべきだと私は信じるのです。

  このようなことを指摘するのは、人間がいつ犯罪を犯すか、わからないし、いつでも、誰でも、ありうると私は思うからであります。

  しかし、普通はそのような自覚はありません。これは聖霊による罪の自覚による以外、人間にはそのような悟りはできません。でも、聖書は指摘します。「すべて他人を裁く人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めています。裁くあなたが、それと同じことを行なっているからです。」(ローマ2・1)

  このような指摘に対して、人々は「同じことを行っているはずはない。」と断言し、自分の義を主張します。でも、私には、この世は他人を非難する人ばっかりだと思いますが如何でしょうか。他人を非難していて自分は非難されないと思うほど、面の皮が厚いのかもしれません。

  韓国のクリスチャンに自分の息子を殺された人が、その犯人の赦免を願い、自分の子として受け入れたという話を聞いたことがあります。これが御子イエスを殺された父なる神の愛です。そして、福音とはそのことの知らせなのです。ですから、福音が世界に伝え広がるのは当然なことです。

  でも、日本ではあまり福音が伝わりません。何故でしょうか。

1. クリスチャンに自らの罪性の自覚がない。

聖霊によって自らの罪を認め悔い改めたら、もはや自分の評価や弱さ、罪に捉われないものなのです。

2. 他人を平気で非難する。

主の祈りにあるように他人の罪を許せず気になる人は、自分の罪の許しを確認できないのです。

 私は、正直、クリスチャンが教会から離れたり、伝道をしないのが不思議でなりませんでした。おそらく明確な救いを体験していないからでしょう。救いは神体験であり、聖霊による明確な悔い改めと回心をもたらします。

  罪人は罪を犯しても悔い改めることがありません。私たち、明確に魂に救いを体験した者は、そのような人々を深く同情し、愛し、とりなしをする必要があります。

  罪許されない者は、どうなるのでしょうか。聖書はハッキリと言っています。まさに殆どの人間は、自分の罪に関して、あの宅間被告のように、認めず悔い改めていないので、裁きにあい、地獄にいかなければなりません。それは永遠の滅びです。それを認める認めないは自由です。でも、神の裁きを認めなければ、決して神と共に生きることはできません。