2月 2日 神は犯した罪を全て裁かれる。  ユダ14〜19節

[新改訳] ユダの手紙

1:14 アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。

1:15 すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」

1:16 彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。

1:17 愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。

1:18 彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。」

1:19 この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。

イスラエルの最初の王は、ダビデではなくサウルです。サウル王は、アマレク人を滅ぼした後、羊や牛の良いものを聖絶(神の名において皆殺し)することを惜しみ、値打ちのないものだけを聖絶したのです。サムエルに責められたサウル王は、主に犠牲を捧げるためと言い訳をしましたが、「聞き従うことはいけにえに優る」(Tサムエル15・22)という有名な言葉を伝え、神によって王位から退けられることになりました。

  損得で判断する人は、いちいち理由を求めます。業者の損を惜しんだ日本政府は、狂牛病という大損害をもたらすことになってしまいました。聖書は、妻に夫への従順を命令しますが、最近はいちいち理由をしつこく求め、納得をしなければ従わない人が多くなっています。これは信頼するということの祝福を知らず、体験できない、人を疑ってかかる寂しい人々です。

 信仰とは、神への信頼であって、いちいち神からの保証を求めて生きるものではありません。したがって疑い深い人で、すばらしい信仰者になった人はありませんし、悲観的になるのは一時的でも信仰を失っているからです。

  さて、そういうわけでサムエルは次の王を選び、油注ぎをするのですが、神によって示されたエッサイの息子たちを見たとき、容貌や背の高さを見て、エリアブを選びそうになります。ここでも神は有名なことばを語られます。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Tサム16・7)

  このダビデは、王位を奪われるサウルによって長年いのちを狙われ続けることになります。そのとき、ダビデは簡単にサウル王の命を奪える機会を二回得るのですが、「手によって油注がれた私の主君に手を下すなんて絶対にできない」(24・6)と言い、「『悪は悪者からでる』とあるので、私はあなたに手をかけることをしません。」とひれ伏しながらサウル王に反省を促すのです(24・13)。また、次の機会の時は、「主はおのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そそがれた方に、この手を下したくはありませんでした。きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」」(26・23、24)とサウルに語りながら信仰告白をするのです。そして敵サウルに「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功しよう。」と祝福の言葉を言わせてしまうのです。信仰というものはこのように逆境のときに真実が現れるのです。

そういうように真実の信仰者は、逆境のときに不平や愚痴を言ったり、人を非難したり、自慢したりしないものです。つまり、信仰者と言うものは、自分のすべてを神が見ておられるという自覚の中に形成されるのです。したがって、信仰者は悪を行わないとか、罪を犯さないという程度ではなく、真実に生き、誠実に歩んで、神に喜ばれることを願って生きるものなのです。

  ですから、人前に言い訳を言い、誤魔化して信仰者を装うことは、年月の中で保てなくなってしまうのです。祈らず、聖書を読まず、神を愛し人を愛することをしないクリスチャンは、必ずメッキがはげてしまうのです。風雪の中でメッキが剥げてしまうように、この世の悪と誘惑の中で、信仰の真実さが問われてくるのです。

  外から塗ったメッキは剥げてしまいますが、実は剥げてからが大事なのです。メッキが剥げると上塗りをしようとしますが、一度剥げると上塗りはなかなか持ちません。教会や牧師、他のクリスチャンを責め非難し、自分と同じようにそのメッキを剥がそうとしますが、純粋なものは却って試練の中で輝きを増すのです。

「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」Tペテロ1・7-9.

 聖霊によって生きる人は、このように人格が栄化、聖化され、主イエスのようになっていくのです。しかし、「生まれつきのままの人間」(ユダ19)は、欲望のままに振る舞い、あざけって分裂をおこすのです。終末の時代は、このようにして教会から離れる人々、教会を分裂させる人々が多くなると聖書が言っています。私たちは、非難され、攻撃されても、すべての裁きを主に委ね、真実に生きていかなければなりません。

 



 
2月 9日 聖なる信仰の上に自分を築き上げる。  ユダ20〜21節 

[新改訳] ユダの手紙

1:20 しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、

1:21 神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

 私たちは、肉体と心と霊で構成され人間となります。魂は心と霊で構成され、死んだら天国か黄泉(ハデス)に行くのです。地獄は最後の審判の後に行くことになります(黙示録20・14)。動物には心はありますが、霊はありません。従って、死んでも天国に行くことはないのです。自治体でも動物の死体はゴミとして扱われるようです。

  それでは、私たちの誕生というものはどうなのでしょうか。神の子イエス様は、永遠の過去から存在しておられたのに、その「神は霊である」存在を封印して、聖霊がマリヤの卵子にいのちを与えられ細胞分裂を始めたときに、その霊を宿らせました。人間の場合には、生殖によって細胞分裂が始まったときに、自立的ないのちが動き始まるので、その時に霊もまた生まれると考えられます。詩篇139編16節を読みますと、「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」とありますので、そのときから人間存在が始まると思えます。バプテスマのヨハネは「まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」(ルカ1・15)と書いてあります。ところが、ヨブ記には「なぜ、あなたは私を母の胎から出されたのですか。私が息絶えていたら、だれにも見られなかった」(10・18)と書いてあり、胎内で死んだら人間として存在しないことになるのか、ということもありえます。このことは、中絶の反対の是非として非常に重要な問題になります。

  Tコリント2章には、生まれながらの人、肉に属する人、御霊に属する人がいるとあります。生まれながらの人は、神の御霊に関することは悟ることができませんと14節にありますが、多くの人が神のこともわかりませんが、自分の霊のこともわかっていません。でも、パウロは、「どうか、主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。」と手紙の最後に祈っているのが、ガラテヤ、ピリピ、Uテモテ、ピレモンとあります。その他にも類似した挨拶が多いことからしても、「自分の霊」というものを「霊的成長」(ローマ14・19)させることが非常に重要なことはわかります。この自己霊を成長させるためには、異言が重要です。「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。」(Tコリント14・2)とありますように、霊を成長させるには祈りや讃美が必要ですが、自分の霊を自覚するには異言を知的に祈ることが必要です(14・15)。

Tコリント15・38によりますと、この霊的実体は、天国における霊的身体と密接に結びついています。「私たちは神の建物であり、どのように建てるかについては、それぞれが注意しなければなりません。」(Tコリ3・10)とあり、人間的な動機。思惑で信仰生活を築き上げても、それは試練の火の中で何も残らずに燃えてしまうと続けて示されます。

  ここでテキストに入るわけですが、自分の考える最も聖い信仰を信じて、自分の信仰生活、霊性を築き上げないと、いつの日か、信仰はなくなってしまうのです。

  気に入らないことや苦労が多いと、勉強すること、働くことを辞めてしまう人がいますが、結局自分が損をします。苦しいことを耐えるから成長するのです。同様に、うまくいかないことがあると教会を休んだり、辞めたりする人も多いようですが、自分で天国に行く資格がないことを証明してしまっているのです。でも、神様は、その人が悔い改めて、信仰に立ち返り、信仰人生を築き上げることを望んでいるのです。イエス様はペテロが自分を裏切ることを知っておいでになり、とりなしの祈りをしておられた。そのようにして、ペテロは、自分の能力、生まれながらの力、生き方の上にではなく、神を求める聖い信仰のうえに自分を築き上げることができたのです。

  ですから、霊的な成長には次のことが必要です。

1. 自分の罪深さ、生まれながらの能力の無力さを知る。

2. 聖書を読み、祈って神への信仰を養う。

3. 試練や苦難に耐えて伝道をし、人をとりなす。

4. 自分の願いの成就ではなく、神の御心の達成を願いとする。

このことは聖霊によって祈ること、異言の祈りなくしては難しいと私は考えます。そして、試練の中にあっても神に仕える祈りの中にあってこそ、神の愛を深く体験するのです。自分でことをなすことの無能さを覚え、神ご自身の介入を深く待ち望むことようになります。この希望は失望に終わることはありません。






2月16日 疑いを抱いている人々を救い出す。  ユダ21〜23節

[新改訳] ユダの手紙

1:21 神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

1:22 疑いを抱く人々をあわれみ、

1:23 火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。


先週、石原慎太郎の「いま魂の教育(日本の崩壊を救う唯一の手立て)」という本を読みました。要点としては、「知識や物を越えた世界の存在を、親は身をもって伝えよ。」ということで、信念のためには命を懸けることも大事であるなどと書いてあり、わたしなども大いに共感しました。

  石原氏は、天国と地獄があることをはっきりと語るのが宗教の役目であると主張します。「人間は、その人生を善なり悪なり生き切ってしまえばそれで終わりであり、死んでしまえばこっちのものだ、といった無責任では決して終わらないのだということを教えてやる必要がある。」と語り、親鸞の次の言葉を引用します。「私は地獄がなければならぬと思います。同時にその疑獄から免れる道がなくてはならぬと思うのです。それでなくてはこの世界が嘘だという気がするのです。」

  私は定期的に別帳会員のためにもお祈りをします。別帳会員とは、教会に来なくなった人々のことですが、他の教会に移った人は会員ではないので、殆どが問題を持ち、問題を起こして教会に来なくなった人々です。黙って引っ越していった人々もいますが、牧師を脅したり中傷したり、金銭を騙していったり、教会員を引き抜いていったり、精神病になったり、いろいろな問題を起こしたことを祈りながら思い起こします。そして、彼らの荒れた心、人を信用できない傷ついた心を思い出しながら、神の助け、慰め、恵みが彼らを立ち直らせてくださるように祈るのです。でも、殆どの人が、まともな人生をおくっていないことは事実です。

 すべての人が罪を犯します。クリスチャンとは、自分が罪深い存在であることを認め、その罪を悔い改めている人のことです。罪を犯すとはどういうことでしょうか。「不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」(ローマ1・29-31)

  このような罪を正当化した時、私たちの中におられる聖霊が苦しむのです。ところが、祈りと聖書を読む習慣のない人は、内在の聖霊のとりなしを却って肉欲によって補うのです。そして、教会にも来ることができなくなるのです。さらに同じような不信仰な人々と同調しあうのです。それは、サタンが神を攻撃するのと同じ理由です。サタンの攻撃によって神が怒り、不正をしたら、神は悪を裁くことができなくなるからです。このようにして、信仰から離れようとする人は、信仰者を攻撃するのです。しかし、それは結局、自分自身の生活を破壊してしまうのです。

主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。Uペテロ2・20.21.

 Tペテロ書に「より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからです。」(2・7.8)とありますが、信仰生活には、必ず躓くようなことが起こります。嫌になっても腹が立っても当然、ということがたびたび起こります。誘惑されそうになることもあります。しかし、信仰者は内在の聖霊によって警告を受け、祈り悔い改めて、正しい道、義の道を歩むのです。このようにして、信仰者は次第に聖化されていくのです。「信仰の試練は金よりも尊い」とありますが、試練の火は信仰者だけでなく誰にもあるのです。その試練、世の理不尽の中にあって、ある人は義を求め信仰に至り、ある人は恵みによって救われた信仰からも離れてしまうのです。

  したがって、信仰者は試練の解決を自らの力によってではなく、神の力によると信じて神を待ち望むのです。忍耐して神を待ち望むものは、その忍耐によって自らの信仰を証明するのです。

  また、そのようにして、神を信じることができず、罪を犯し、あなたにさえ非難し攻撃する人を、信仰者であるならば、心から哀れみとりなしをすること、助けをすることができるのです。それは、「火の中から引き出す」とあるので、自分も命の危険を冒すかのような覚悟をしないと人は助けられないものであることを教えています。


2月23日 あなたがたを守る神。  ユダ24〜25節

[新改訳] ユダの手紙

1:24 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、

1:25 すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

 
主の兄弟であるユダは兄ヤコブと共に、イエス様の復活後はエルサレム教会の指導者として歩みました。長兄のイエス様のことを、母マリヤの言葉も信じられず、肉体的な兄弟として野心があるのだと考えていたのですが(ヨハネ7・3)、イエス様の復活後は、心から悔い改めて主の弟子となりました。

  このようにして忠実なクリスチャンとなったユダが手紙を書いたのは、偽のクリスチャンが教会をかき回しているからでした。偽クリスチャンの特徴は、これまで学んできたように次のようなものです。

@ 不敬虔な者、自分の欲望のままに生きている人々で、論じることが好きで、人をそしったり批判したりしています。4節、8節。16節。

A 主イエス・キリストが神であることを否定する人。4節

B 聖書の解き明かしではなく、「夢見る者」として神からの預言を説く。8節

C 利益のためにへつらう。16節。

D 御霊を持たず、分裂を起こし、性格の変わらない人。19節。

 このような人々が、教会に入り込みますが、動揺してはいけません。真に価値ある教えだからこそ偽物があるのです。ユダははっきりと、神はこのような人々を裁き地獄に行かせることを説明します。

 私たちクリスチャンは、確かに長く信仰を持つと、教会に来て信仰を持ち敬虔に過ごしている人が、突然、性格が変わり、争いや分裂を起こすことを見てきています。そして、私たち自身が戸惑い、それらの人々のことを心配するのですが、そのような変化に驚きながら、自分もそうなってしまうのではないかと恐れるのです。

 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。(二テサ2・9-13)

これを解説しますと、教会に来ていても真理を信じないで、信じているように装っている人がいて、そのような人はサタンの誘惑に負けて、やはり信仰を実際に続けることができなくなってしまう、ということです。ですから、「死に至るまで忠実」というように、信仰を保ち続けて点に召されることによって間違いなく、その人の信仰は他の人にも確認できるのです。ところが、これを神の観点からしますと、神は、前もって私たちを選び、「つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方」なのです。

  人間的な観点から見ますと、世の中に悪人がいないで、教会にも躓いて騒ぎ立てたり、争いを起こす人がいないほうが良いのですが、そういう人々がいても、本当の信仰者の信仰には、差し支えるものではありません。却って問題や争い、非難、中傷、などがあったほうが、聖化、訓練などのためにあったほうが良いなどと思われることもあります。

  実際には、信仰者でもペテロや他の弟子たちのように、イエス様を裏切ったり、信仰的な失敗をしたりする場合も多いのですが、それでも信仰に戻るべき人は戻ります。神に選ばれているとは、こういうことなのだろうな、と感心するというか、驚くこともあります。そんなわけで、私たちは、いつも誰に対してもとりなしの祈りをするべき使命をもっているのです。

 ヨナは、残忍なアッシリヤ帝国の首都ニネベに悔い改めを迫るように神から語られました。ところが愛国心の強いヨナは、敵国に神の愛と悔い改めをせまることが嫌いでした。でも結局は行かなければならないことになったのでした。私たちの人生、しなければならないことは、いくら時間を掛けても、労力がかかってもしなければならないのです。困難があっても神様は必ず守ってくださいます。最初から、素直に従えば、祝福の道を歩むことができます。






3月2日 キリスト・イエスにある聖徒たちへ。  ピリピ1章1〜2節

[新改訳] ピリピ人への手紙
1:1 キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。

1:2 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

[新改訳] 使徒の働き

16:22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、

16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。

16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。

16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。

16:27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。

16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。

16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。

16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。

16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。

16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。

16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。


 ピリピ書は、パウロがローマの牢獄にいた時に書かれたものです。でも「使徒の働き」の終わりの部分にあるような自由な生活ではなく、死刑を覚悟した(1・20)苦難の時に書かれました。この書は喜びの書とも言われ、内容の深さ、信仰の奥義の説明からも、書き手と読み手の双方の信仰の高さが読み取れます。

  このピリピの教会は、小ローマとも呼ばれるマケドニアの繁栄した町にあり、パウロは第二回伝道旅行のときに、訪れて伝道しています。使徒16章12節には「町の門を出て祈り場があると思われた川岸」とありますので、ユダヤの会堂はなく、ユダヤ人の勢力は小さかったと思われます。そこで、語っていると、紫布の商人のルデヤが心を開き、家族と共に洗礼を受けました。そしてパウロたちを宿泊させています。彼女は、その後もピリピ教会の中心となり、経済的にパウロの伝道を支えるような気配りを示していると思われます。

  パウロが同じように祈り場に行こうとすると、占いの霊に憑かれた女性が、パウロの後に付いてきながら予言を叫び続けます。この女性は占いの霊に取り付かれて苦しい中でパウロの正体を霊的に悟り、助けを求めたのだと思われます。占いや予言は、悪霊によるものでそれをすると次第に心を支配するようになるので、決してしてはいけません。精神的におかしくなった人の多くが、占いや予言に頼ったことによる場合があります。

  ところが、この女性の占いで儲けていた主人たちが、パウロのせいでこの女性から占いの霊が出てしまったので、役人に訴えたのでした。パウロとシラスは何度も鞭打たれ、牢獄に入れられ、足かせをはめられました。

  普通なら、そんな状況では落ち込んで自分の不幸を悩んでいることでしょう。でも二人は祈りました。普段祈っていない人はこんな時に祈れません。そして状況に左右されて落ち込んでしまい、悩んで時間を過ごしたり、やらなければよいことをしてしまうものです。祈る習慣を身に着けましょう。長く祈ることは大事です。

  さて、二人は祈っていると、鞭打たれた痛さも癒されて、感謝と喜びが沸き出でてきました。さして何時しか、讃美の歌を歌ってしまっていたのです。牢獄の中の他の囚人は驚きました。新しく入った囚人は鞭打たれてうめいているはずなのに、喜びの歌を歌っているのですから、たまげましたが、そのうちに麗しい讃美に聞きほれて涙を流して聞き入ってしまいました。

すると突然地震が起こって、獄舎の扉が開き、鎖も解けてしまいました。囚人たちは逃げられるのですが腰がすくんで動けません。でも看守たちは、静かなのでもはや囚人が逃げてしまったものと思い、罰を恐れて自殺しようとしました。そのとき、パウロが声を掛けたのです。看守はこれらの経緯に驚き、二人の前にひれ伏し、「救われるためには何をしなければいけませんか」とたずねます。パウロは「主イエスを信じなさい」と語ると受け入れ、彼らを勝手に自分の家に連れ帰ってご馳走しました。翌日、長官から二人の釈放命令が出たから良かったけれども、この看守は命をかけて信仰を告白したのです。これら三人がピリピの教会に連なったのでしょう。

  私はスポーツが好きです。先日、「ゴルフを始めたら、すぐにうまくなれると思うよ。」という人がいました。普段あまりスポーツをしていなそうな人です。スポーツというものは、日ごろの鍛錬が重要です。頭でいくら考えてもそのとおりに身体は動きません。スポーツをしていない人ほど、理屈で考え、わかったふりをして批評をします。スポーツ観戦でも、自分でしていない人ほど、酷評をするものです。ゴルフでも、とまっているボールを打つだけなのに、状況を判断し、分析してクラブを選び、打ち方を考えるのですが、プロでも思うとおりに打つことはできないものです。プロになるためには、毎日千球以上を打ち、体力強化をして、そして何年もかかって、それでもなれる人は、まれということですから、大変なものです。それでも運不運に左右されるものですが、鍛錬をしていないものには、ラッキーも自分のものとできません。

  信仰も祈りも同様です。聖書は、信仰は霊の戦いであると言っています。それは命がかかっているのです。兵隊の訓練は、スポーツよりも過酷です。それは体力や技術の取得が命に関わるからです。

  信仰の戦いに勝利するものは多くの祝福を受けます。キリスト・イエスのしもべとして自分を意識づけたパウロは、主のためにどんなこともして喜びの賛歌を歌うのです。恵みと平安は、信仰の戦いに自らを鍛錬した者にこそ取得できるもので、状況に左右されて祈らず、讃美しない者に獲得できるものでもないというのが、真実でしょう。






3月9日 あなたに良い働きを完成させる神。  ピリピ1章3〜7節

新改訳] ピリピ人への手紙

1:3 私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、

1:4 あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、

1:5 あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。

1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

1:7 私があなたがたすべてについてこのように考えるのは正しいのです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。

「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、」ということはすばらしい。人の霊性は、その人の感情や行動を左右します。しばしば、姑が嫁をいびったりするときは、最初から批判の思いがあるのです。嫌悪感は、霊的な相性からくるのです。霊的に弱い人は、試練や苦難、そして人からの批判や非難、攻撃に弱く、そして、気を使ったり、思い煩って、うつ状態になってしまいます。興奮したり、攻撃的になったり、イライラするのも性格の違いで現れ方が違うだけで、同じものです。

 霊的に強くなるには、長い時間の祈り、深夜の祈り、徹夜の祈り、断食の祈り、野外での祈りなどが有効です。宗教的な難行苦行は、多くの霊性の強めや清めに有効であり、用いられています。キリスト教で、このような祈りを実践するのは、やはり私たちペンテコステ派でしょう。そのため、イスラム圏や共産圏、因習の強い国々など、困難な伝道箇所ではいつもペンテコステ派が活躍しています。先週も語りましたように、感謝し喜ぶということは力強いクリスチャン生活のための大変な奥義であって、このためには、やはり祈りの生活が不可欠です。

  パウロは、誰よりも多くの苦難を経た人ですが、このようにして多くの感謝を持つことができる強い霊力を持った人なのです。したがってこのピリピ書の最後にも、パウロは「主イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊と共にありますように」と霊的な祝福を祈るのです。

  さて、そのような霊的観察力の強いパウロは、ピリピの人々がさらに教会を成長させるという良い働きを進めることを知っていました。それはどうしてでしょうか。それは、パウロの状況が悪く、うまくいっていないときでも変わらずパウロを支え、交流を保つ人々だからです。

  この教会は開拓から二十年経ちました。最初の十年は、牧師も若く経験がありませんし、会堂も小さく、設備もなく、中心となる信者も少なかったので、大変困難な状況でした。教会に来て救われた人々も、しばらくすると、設備も良く多くの信者がいてプログラムも楽しく、あまり負担のない大教会に皆引っ張られていきました。1993年までの教会員番号74までの人で現在残っているのは、十六名しかいません。私たち夫婦と兄夫婦以外には、萩原さん、小島さん、佐瀬さんがもっとも古い教会員で、最初の5年にはいります。私はこの方々の生活が必ず祝福されると信じております。なぜなら、この方々は状況にも環境にも左右されずに信仰を保ち、神と教会に仕えてきたからです。パウロは「私はそのようなあなた方を心に覚えているからです。」といっていますが、まさに苦難や試練にも関わらず、教会を支え、信仰を保ってきた信者を神が覚えていないはずがありません。

 サンノゼの石原先生ご夫妻と夫婦で一日楽しい時を過ごしましたが、別に我が家で過ごしただけです。でも苦労をしてきた人とは、何もしなくても心が通じます。「苦労をした」と自分でいう人がいても、自分勝手なことで苦労した人とは心を通じ合わせることはできません。「最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来た」主イエスのために無私になって苦労してきた人と出会うと、心から感謝し、喜びが湧き上がります。

  でも私は知っています。かつては「主イエスのため」と言い、無理な働きをしてきた人々が、今は自分の富と欲のために心を割いていることがあるのです。私は人の心が、弱く誘惑に陥りがちなのを認めなければなりません。これまでは会堂を建てるという大きな願いを神に委ねることで節制を保ってきました。苦難と試練に疲れ逃げていたら、誘惑に遭います。パウロは、この後で記されているように、牢獄に入り、死刑になりそうな状況でも神の備えられた殿堂のための祝福の道であると信じました。

  多くの人が試練や苦難を避け、そこから逃げること助かることを願っています。でも、試練や苦難のうちにこそ、神の祝福の道があるのです。「良い働き」とは「自分にとって都合の良い働き」ではなく、「神の手の中にある、伝道するために都合の良い働き」なのです。

  これらのことを気がつくためには、よく祈り、霊の目を開かれなければなりません。これは来週学ぶことになります。






3月16日 真の知識と識別力により豊かになる愛。  ピリピ1章8〜11節

[新改訳] ピリピ人への手紙

1:8 私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。

1:9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、

1:10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、

1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。


愛と言ってもいろいろな愛があります。父の愛、母の愛、兄弟愛、友人との愛、恋愛、ペットへの愛、国への愛、そして自己愛。自己愛性人格障害という異常な状態も最近は良く見られます。自分を愛するという行為は、健全な心の発達のためには必要なものですが、それが病的に肥大化して自分に対する誇大感を持つようになると、それは自己愛人格障害と呼ばれるものになります。健全な人のように、ありのままの自分を愛することができないのです。そのような人は次のような症状を呈するようです。

・自分のことにしか関心がない。・高慢で横柄な態度。・自分は特別な人間にしか理解されないと思っている。・冷淡で、他人を利用しようとする。・批判に対して過剰に反応する。・虚栄心から、嘘をつきやすい。 ・宗教の熱烈な信者。・御都合主義的な白昼夢に耽る。

このような異常な人格は、幼児期の体験に依存するとも言われます。赤ん坊や子供は自分を中心に世界が動いていると考えるのだそうですが、親や保護者が赤ん坊の障害を取り除いてしまうため、痛い、辛い、という現実に対応することが形成されないのだそうです。これは精神的にも同様で、子供が自分で判断するストレスを取り除くために指導や手伝いを続けると、このような自己中心的人格が形成されてしまうのです。そして、現実認識がゆがんでしまうのだそうです。

聖書は三十歳をおとなとするようですが、実際に社会のいろいろな仕組みがわかり自分の思い通りにすることを自制するようになるには、そのくらいの年齢になることが必要なようです。ダビデもサウルも三十歳で王になりましたし、祭司の年齢は三十〜五十歳とされています。ですから愛が、自己愛的なものではなく、豊かなものになるのには、知識や経験、年齢が必要なものであることは、社会的にも承認されることでしょう。

さて、ここでは、キリスト・イエスの愛の心をもってと、パウロがいうのですから、やはり、そこには真の知識と識別力が必要なことは明らかです。それは、どのようなものでしょうか。

預言者エリシャがアラムの軍勢に取り囲まれました(U列王六章)。エリシャの預言がイスラエルに有利にされているのに立腹したアラムの王がエリシャを捕まえに来たのです。エリシャのしもべは、恐れて途方にくれました。しかし、エリシャは、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言いました。霊的な目を開かれたしもべは、敵の軍勢よりもはるかに多い、主の軍勢が山に満ちていることを見て、驚きました。

・知識  私たちは、神がこの世を支配されている全能・全知・偏在の神であることをしらなければなりません。神にとってできないことも、知らないこともないのです。そして、サタンが私たちを惑わそう、恐れさせようとしていること、自分が自己中心な罪人で、自分勝手な道を楽して生きようと願ってしまうそうざいであることを知らなければなりません。

・識別力  聖くなければ主を見ることはできませんと、ヘブル書にありますが、私たちは人格障害をもった自己愛者のように、自分勝手に物事を判断してはなりません。

私は祈りの中で、自分の罪深さ、弱さ、自分勝手なことを知らされ、自分のなすべき主の導きを得ることは少なくありません。いつも祈る中で、真に優れたものを見分けることができるのです。自分の損得を基準として生きる人に、神の導きを得ることは難しいのです。

「キリストの日」、イエス様が雲に乗って再臨されるとき、私たちのすべての動機、行い、などが明らかにされ、私たちは、神の吟味にあって、御国の人となるかどうかが判別されるのです。私たちは恐れおののいて、主の前に自分をキリストの愛が豊かにされるものとされていく必要があるのです。

 


3月23日 投獄されても私は喜びます。  ピリピ1章12〜19節

[新改訳] ピリピ人への手紙

1:12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。

1:13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、

1:14 また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。

1:15 人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。

1:16 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、

1:17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。

1:18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。

1:19 というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。


 
私自身が信仰者として心がけていることは、物事を自分の思い通りにしようとしないことであり、人を変えようとはしないということであります。なぜならば、私はイエス・キリストに魂を救われましたが、今だ罪人であり、その心の欲することは、欲望であることが多いということを自覚しているからです。それでも、よほど意識し、心がけていても、自分の思い通りにしようとするものです。

イラクへの戦争が始まりました。私は戦争を起こすということに、どのような正当性を認めることはできません。しかし、北朝鮮の脅威の前に自分の武力を持たない日本が、庇護者アメリカに追従することの現実は理解できます。神なき人は、自らの力や知恵で自分を守ろうとし、それができない場合には、支配者に服従するという歴史的経緯は、現実であり、自己防衛の知恵でしょう。

でも、ブッシュがキリスト教の神に、フセインがイスラム教の神にそれぞれ勝利を願うという宗教対決の構図を私は認めません。真実な信仰者と言うものは、神の名において、敵を打ち負かそうとするということをしてはならないと思います。旧約聖書に敵を破るという神の命令がありますが、それはイエス・キリストが明らかに示された神の願い、真意、わかりやすく言えば愛を覆すものではありません。しかし、私たちが旧約聖書を読んで気がつくことは、人間の罪性、状況の悪さ、敵の強さなどを経て大きな試練、逆境を体験しながらも、神の御心と摂理は貫かれているという事です。

したがって、私の心がけの理由にもなりますが、「なるようになる」。つまり、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8・28)当然、注意するべきことは、神を愛する人々、つまり、自分の利益を追求していない人に、神が万事を働かせて益としてくださるのであって、自分の知恵や才覚で利益を追求しようとする人には、たとえその人が信仰者であっても、神が助けることはなさらないということです。ですから、信仰に利益を求める人に対して、いくら願っても神をあまり益とすることをしてくださることは少ないということです。天に宝を積む意識が大切です。

さて、パウロはとうとう投獄され、自由に行動することができなくなりました。多くの信仰者は、パウロの投獄を知って却って、奮い立って恐れることなく大胆に伝道するようになりました。キリスト教は殉教の宗教とも言われ、殉教を通して却って福音が広まっていく歴史的経過を持っています。日本人は「死んだらおしまい」と考える人がクリスチャンにも多くいますが、これが真実な信仰を持っていない証拠でしょう。

他方、パウロが拘束されたことに力を得て、自分たちの勢力を伸ばそうと伝道する、党派心を持ったパウロの批判者もいました。弟子たちは心配しましたが、パウロはそれでも伝道が進展するならばかまわないと言いました。これは、教理や真理が損なわれてもかまわないと言うことでしょうか。違います。それは、キリストの教え、聖書と、生ける神、聖霊が常に働かれていることをパウロが信頼しているからです。

すばらしい牧師の教会にすばらしい信者もいるものですが、おかしな信者もいます。教理もよく教えられない牧師に、すばらしい敬虔な信者がいることも多いことを、知っています。私は多くの牧師、信者、人々、指導者などの罪、不誠実、悪意、敵意、攻撃を体験してきましたが、それによってあまり躓いた経験がありません。下町の商人の九人兄弟の末っ子で、多くの人の偽善や、裏面を知っていたからかもしれません。

昨晩の新聞に、突然の妻の病気にどのように対応してよいかわからない若者の記事がありましたが、人生の経験というものは、年を掛け、苦労を掛けないと自分のものになっていかないものです。

パウロは誰よりも多くの伝道をし、苦労をし、試練や苦境を体験しました。そして、パウロをいつも傍にいて守ってくださる神を体験したのです。インマヌエル(神共におられる)なる神を、体験するためにも、私たちは、神に頼り神に求める人生を送りたいものです。






3月30日 クリスチャンの死生観。  ピリピ1章20〜26節

[新改訳] ピリピ人への手紙

1:20 それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。

1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

1:22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。

1:23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。

1:25 私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。

1:26 そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。


 日本人の死生観は、死ぬことについての諦めが基本のように思われます。どうせ誰もが一度は死ぬのだからしょうがないというのですが、だから少なくともみっともない生き方死に方はしたくないという考え方に繋がってきます。恥の文化というのもこういうことから形成されるのでしょう。私自身も、いつの間にか、そのように考えていましたし、周囲もまたそうでした。

天地創造の神に出会い、聖書を知って全く考えが変わりました。聖書の中には「永遠のいのちを得るためには」という質問を持った青年が出てきますが(マタイ19・16)、そういう質問をする土壌と言うものが日本には少ないように思われます。「千と千尋の神隠し」がアカデミー賞を受賞しましたが、宮崎駿監督の作品は、日本古来の汎神論の世界を描写しているのに、クリスチャンでさえ、面白がって見ているのは無批判=無見識という日本のキリスト教の様相を呈しているとも思えるでしょう。私自身も見ていますが、これら宮崎作品が子供たちにも大人にも流行りながら、他方で、「戦場のピアニスト」などの悲惨な現実描写の美化も同時並行的に見られることに対して、どのように牧師として啓蒙するべきか戸惑いを覚えます。

マレーシアに行ってみて、イスラムの人々が子供だけでなく、社会的宗教教育を徹底しているのに、感心しました。一日五回のお祈り、ラマダン月の断食を貧富の別なく課しているのは大事なことです。現代キリスト教は、マックス・ウェーバーの影響もあり、「賜物」と役割を強調したために、強者、能力者、支配者にとって都合の良いものに堕してしまった感があります。人間の都合を宗教にも適用してはなりません。また、宗教の名を借りて、非難したり攻撃してもなりません。そういう面で、宗教者の政治、経済からの乖離は、社会にとって重要であり、基盤でもあります。

さて、そのような面からも、死とはすべての人に平等に課せられた重要な問題であります。先ほどの青年が、イエス様によって金持ちの余裕ある慈善では決して天国に入れないと言われたことは、すべての人に対する断固とした神の課題であります。外国に行きますと、人々の気前の良さ、宗教者に対する寄進の心がけというものに驚きます。彼らは牧師を

全く対等な一人の人として対応し、且つ、神の代理人として驚くほど奉仕をし、捧げてくれるのです。しかしながら、そこでは宗教者には、俗世間と超越した姿勢、清さが当然なものとして要求されていることも事実です。私は、二日間一緒に過ごしたマレー人のガイドに「あなたは立派なイスラム教徒になれます」とほめられてしまいました。

 宗教者に必要なことを要約すれば、神に仕えて人々に報いと天国の存在を教えることでしょう。敬虔なキリスト教徒と同様に敬虔なイスラム教徒が、死などを恐れるはずがありません。ブッシュ大統領が敬虔なキリスト教徒を装っているからこそ、死に対する人間の対応を見誤っていると私には思えます。

  人が、自らのいのちを神に委ね、あえて死を恐れずに大胆に信念をもって生きるからこそ、人は尊い存在なのです。人のいのちは尊いと言いながら、平気で人を殺す人々は、神を畏れていないのです。もし、アメリカのクリスチャンが、イラクを攻撃する正当性を主張するなら、彼らはアメリカ教信徒であり、人のいのちの尊厳を知り、神を畏れる信仰者とは言えません。

  日本は、現在北朝鮮による攻撃の危機にあります。政治家がそれを考慮し対策を考えるのは当然でしょう。しかし、信仰者はそれと同じ論理をもってはなりません。私は、たとえ、自らが処刑されることになっても人を攻撃することは断じてできません。人を恐れるよりも神を畏れるのです。

「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。(ユダ1・14-16)

  「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

 


4月6日 福音にふさわしい暮らし方。  ピリピ1章27〜30節

[新改訳] ピリピ人への手紙

1:27 ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、

1:28 また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。

1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。

1:30 あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。

 先週は、クリスチャンの死生観について語りました。今日は、「キリストの福音にふさわしく生きる」ことを学びましょう。これは、ドイツ語訳では「教会生活を生きる」と訳されているようですが、福音的に生きるということは、個人的なもので確立されるものではなく、一緒に生きるということが必須なので、このように訳されることが適切でもあるでしょう。

1.「霊を一つにしてしっかり立ち」

  教会にも、個人的にも問題や試練は常にあります。その一つ一つに対して惑わされずにしっかりと福音に立っていられるでしょうか。

@ 経済的な問題 パウロは富むことにも貧しいことにも対処できると言っていますが、私たちはどうでしょうか。金持ちが天国に入ることは難しいとイエス様が言っておられますが、現代は殆どの人が金銭欲に囚われています。

A 対人的な問題 男女の違い、年齢の違い、生まれの違い、性格の違い。他人を支配しようとする人は、違いが気になり、赦せなくなります。友情や愛情は、相手の弱さ未熟さを気にしません。「互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」(1ペテロ4・8)

B 能力的な問題 人の能力はそれぞれ神から与えられているということを悟るべきです。勝利とか成功は神に委ねて、最善を尽くすことと、神に忠実であることを心がけ、神と共に生きることを優先するべきです。

2.「心を一つにして福音の信仰のために共に奮闘する。」

  イエス様は、二人でも三人でもイエス様の名において集まるところには共におられる、と言われました(マタイ18・20)。伝道をするにも、祈るにも、独りよがりはいけません。一人ぼっちの戦いは、勝負はあっても福音の恵みはなかなかわかりません。伝道に勝ち負けはなく、論議も好ましいものではありません。神の国と福音を私たちを通して伝えることが大事なのです。

3.「反対者たちにおどろかされることはない」

  キリスト教の歴史は、勝利に終わることは殆どありません。いつも迫害があり、試練があります。勝利は誘惑であり、落とし穴であって、却ってクリスチャンを堕落させてきました。そして、健全な教会、福音に立った教会はいつも無力であり、無抵抗でした。初代教会は地下に逃れても多くの迫害に遭い続けました。中国でも同様でした。現代社会でも同様です。しかし、いつのまにか拡大し、影響力を増し、社会を変えていったのです。私たちの福音は、反対者がいると言うことに、驚くものではありません。

4.「彼らにとっては滅びのしるし、信仰者には救いのしるし」

  福音は、神を信じない者にとっては、本当に腹の立つものです。だから福音の無力、無価値、無意味を証明しようと私たちを攻撃するのです。しかし、それこそが、彼らが滅びる者である事を証明しているのです。そしてこの御利益のないような福音を愚かにも信じていることによって、私たちは自らの救いを証明されているのです。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」(Tコリント1・18)。

5.「キリストのための苦しみをも賜った。」

  クリスチャンの生活は、試練の中にあって日曜礼拝を厳守し、献金を捧げ、教会に奉仕し、人々に施しをし、助けをするものです。犠牲的なものばかりで、何の得があるのかと、疑問を感じる人も多いでしょう。御利益や楽しさ、刺激を与えようとする教会も実際にはありますが、そういう教会は争いや混乱によって、いつのまにかなくなってしまっています。教会と言うのは、捧げる集まりであって、利益をえる場所ではありません。したがって、神を求め、神に仕える真の信仰者しか、集まることにできないところなのです。そして、魂の救いを実際に体験した者しか、集い続けることができないのが教会なのです。私たちの救いの真実は、そのようにして私たち自身の生活によって証明されるのです。このような私たちが、神を信じない人々の理解や同意、尊敬を得られると思ってはなりません。私たち、キリストの福音にふさわしく生きる者は、世の中の人々からは、愚かと見られて当然なのです。さらに非難され、迫害されることさえもあることを、覚悟しなければなりません。主イエス・キリストでさえ、迫害され、殺されたのですから。

 


4月13日 自己中心や虚栄を捨てて謙虚に。  ピリピ2章1〜5節

[新改訳] ピリピ人への手紙
2:1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、

2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。


  説教を語り準備するのに、最も苦労するのは、出だしであり、要は何なのかと、一言で語れることです。一言で語れることを長く説明しなければならないのは、聞く側の者、会衆がその意味をわかっていると思っていること、そして自分に適応してみようという動機付けがなかなかないからでしょう。

 イエス様は、人々がただ論評だけに明け暮れ、実際に行動しないのに業を煮やし、「笛を吹いてやっても、君達は踊らなかった。」と批判します。彼らは、断食をするヨハネを非難し、共に食事をするイエス様をも非難しました。どちらでも何でも非難するだけですが、「でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」とイエス様は、行動を起こす人々を賞賛します(マタイ11・15-19)。

  「男は黙って・・・・」というCMが昔ありましたが、男性でも女性でも、言葉数が多いと失敗をします。「もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」(ヤコブ3・2)。神に祈り、神に聞き、それを行動におこすということ、或いは、信念や誠実、謙遜をもって生きるということは、あまり饒舌にも雄弁にもならないのではないでしょうか。

  私もまた、言葉巧みな人のごまかしや言い訳を多く体験してきました。善悪の知識の木の実を食べたアダムから、人は善悪を知識として利用し、悪の言い訳を考えるようになりました。言い訳やごまかしをする人は必ず人を裏切ります。自らの罪を自覚せず、正当化をするのですから当然でしょう。信仰者として、そのような誘惑に陥る人々を見守りながら、自らは誠実を尽くしたいと心から願うようになりました。

 先週、クリスチャンに試練は付き物であり、キリストのための試練を敢えて当然なものと受け留め、献身的に生きることによって、私たちの魂の救いが証明されると申し上げました。まさに、試練によってこそ、私たちは「自己中心や虚栄を捨ててへりくだり」を学ぶのです。

  試練を避け、逃げる人は、魂の清め、悪や虚栄を削り取られる体験を経ることができません。試練の時、言い訳や責任転嫁をしていたら、何時までたっても、練られた品性が実を結ぶことはありません。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すを生み出す」(ローマ5・3.4)のであって、試練とか、艱難と言うものは、自分の能力では対応できないものであって、そこに真の人間性の洗濯、精錬がなされるのです。多くの人が、この試練・艱難に直面しようとせず、逃げてしまって神頼み、言い訳に走り、せっかくの信仰、神の恵みを体験する機会を逃してしまうのです。

  私は頑固ですから、人からよく思われないことも多いようです。しかし、職業、地位、立場で人を見下げたことはないし、自分の欲得で動いたこともないと自分では思っています。会堂が与えられるのに、誰よりも望み、自分のできる限りの財産を献げてきたのに、二十年かかりました。それでもまだ、居住者の穏便な退去を願い、待ち続けています。忍耐の中に人間性が現れることを私は知っています。

  多くの人がいろいろな理由をつけて正当化し、自分に都合の良いものを見つけ出しています。2,3ヶ月で祈った、待ったなどと言っていては神に用いられることはできません。神は、モーセを用いるのに八十年を費やしました。アブラハム、ダビデもそうです。パウロは回心(改心は仏教、その他の言葉)後、三年間の研鑽があってから公に伝道を始めました。

  自分の能力で何かを成し遂げたとしても、それは簡単になくなってしまうでしょう。人生の成果を得ようと、焦ってはなりません。あなたの富、事業、成果など、風と共に過ぎ去ってしまいます。

 「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」(マタイ7・24-25)

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16・24-25)


4月20日 父なる神はキリストを高く上げ。  ピリピ2章6〜11節

[新改訳] ピリピ人への手紙

2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。


 父なる神、子なる神であるイエス・キリスト、そして聖霊なる神。唯一神教と言いながら、三神がいるのはおかしいと思われる方もあります。この三神は、完全なる方であり、全知のお方でありますので、その願うところは同じであり、統一しています。互いが互いのことを全知であり、欠陥なき神なので、三神いても、それぞれの働きと思いにおいて矛盾はなく、対立もありません。それでも第一位格は父なる神であり、すべてを統御されます。御子は第二位格であり、実行者です。聖霊なる神は、私たちの心の中や世界に働きかける働き手です。

  御子は「わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」(箴言8・30.31)でしたが、人間が罪を犯し、「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」(創世記6・5)のを父なる神が悔やまれ、洪水によって人々を滅ぼし、もう一度ノアの家族から人類を造り直しました。

  このノアの洪水の時、箱舟に乗った八人の人は、水を通って救われたのですが、これは水を通る洗礼の型であり、箱舟に乗るということはイエス・キリストを信じて身を委ねるということを意味するのです(Tペテロ3・20.21)。Uペテロ三章によれば、洪水の前にノアの警告と箱舟に入るようにとの促がしを軽んじた人々が滅ぼされたように、終末の火の裁きの前に、教会が世に警告し、人々に救われるように促がしても、人々は教会をあざけり、「自分たちの欲望に従って生活し」、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか」と言い張るのです。

  このような人間のどうしようもない罪性に対して、実行責任者である御子は何をされたのでしょうか。

  御子は、神としての全能全知、普遍、などの大変な能力を、変えることはできないと思わないで、それをすべて捨て、人間という制限を持った存在になることを肯定されました。

@ 自分の立場を変えられないと思わない。

 自分の生まれ、主義主張、考え方、習慣、性質、生活状態、その他もろもろのことを悪く、低くは変えられないと思っている人が多い。

A 自分を無にして仕える者となる。

自分のやりたいことをやるのは仕える者ではありません。キリストは神の超越性、特権のすべてを捨てて、人間の身体の中に自分の神としての能力を封じ、そのことによって純粋な人間として生まれたのです。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のための、贖いの代価として自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10・45)

B 人間と同じようになられた。

 キリストは、上から見下げて「お前たちはダメだ」などと非難する神ではありません。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4・15)。そして、人間になられたからこそ、人間の言葉で、神の御心や真理を私たちに教えることができたのです。

C 人間の罪を負われた。そして私たちにいのちを与えられた。

 イエス様は姦淫の場で捕らえられた女性に対して「わたしはあなたを罪に定めない。わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちのひかりを持つのです。」(ヨハネ8・12)と言われました。

D キリストは復活された。

 「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」Tコリント15・17)

E キリストは私達をとりなして下さっている。

 「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」ローマ8・34)

 イースターというのは、このようにキリストの復活を祝うというよりも、むしろ、それを個人的体験として確認できる人には、大変な信仰的祝福に感謝するお祭りです。あなたは、それを自分のものとしておられるでしょうか。


4月27日 神と人に従って生きる。  ピリピ2章8〜11節

[新改訳] ピリピ人への手紙
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 キリスト教信仰というものは、知的理解によって獲得するものではありません。また奇跡やしるし、宗教的体験によるものでもありません。それは、聖霊なる神による罪の自覚と悔い改め、そして聖書のみことばに記され、わたしたちに霊的に語りかけるキリストイエスに対する人格的信頼によるのです。

  男性の弟子たちは、主イエスの復活を信じませんでした。これは、男性が主体的な立場を取る傾向にあり、神を信じても、「従う」ということができない性格を持っているからであると思います。つまり、納得がいかないと信じないのです。納得がいったら従うと言うのは、従うことにはなりません。それは、従うのではなく、自主的主体的なことだからです。

  信仰生活でも、男性よりも女性の方が祝福される傾向にあります。それは、女性は、聖書に書いてあり、牧師や、信仰の先輩が勧めたら、信じ従う傾向にあるからです。頑ななのは、いつも男性で、それ故に多くの試練や艱難に遭っています。さらに、艱難にあっても納得や説明を求めることが多いようです。

  その中で、自己の判断よりも神の祝福を願い、指示を仰いだ人々、信仰によって生きた人々が信仰の勇者として挙げられます。それは、アブラハムであり、ヤコブであり、ヨセフであり、モーセであり、ダビデでしょう。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創15・6)なんと単純な、簡単なことでしょう。でも、それが男性にはできないのです。

  わたしは、妻と話し、その行動や言動の理由を聞くとき、多くの不合理なことを見出し、指摘します。妻は納得しますが、決してその納得に従って行動せず、やはり、直感的、或いは単純な信仰的行動を起こします。そして、わたしは妻と共に生きて二十年経ちますが、今は妻の言動を大事にします。わたしの論理などは、神に従うことに比べたら何の力もありません。単純に神を信じ、神に従って行けば良いのです。

 信仰の初期は、理不尽なこと、感情的なこと、自分勝手なこと、その他、多くの道理に合わないことに反感を持っていました。でも、自分も落ち着いて考えたら、道理に合わないことを行っていることに気がつきませんでした。あたかも自分だけが神についているかのように、自分の論理、理性を誇っていたのです。「我こそは」などと若気の至りでした。今は、人の失敗、私利私欲、罪、あまり気にならなくなりました。日本人信仰者は、牧師に対する要求が強いようで、教会批判、牧師批判なども多く、或いは他教派、他教会を批判することもあるようです。

  女性信者が主の復活を信じ、喜び、信仰を燃やしているのに、男性信者は、それを批判しながら、正論を求めて論議を重ねていました。「愚かな人たち、聖書を信じない、心の鈍い人たち」。

  主イエスは、わたし達の罪を暴き立てることをなさいませんでした。すべてを知っておられる神に責められたら、わたしたちは何も弁解できません。偉そうなことを言えないどころか、誰の非難批判もできません。

  主の祈りを思い出してください。人の罪を赦さないと、自分の罪に怯えます。人の批判をし、納得のいく行動を求める人は、自分への緊張は大変なもので、「誰でも、立派でもない自分を何か立派でもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」(ガラテヤ6・3)。

  イエス様は、わたしたちに対して何の権利も主張せず、わたし達の非を咎めず、罪を糾弾せず、ただ、わたし達の罪の身代わりに、死んでくださいました。あなたが、人の罪ゆえに不利な立場に陥るならば、まるでイエス様のようではありませんか。自分の罪ゆえに不利な立場に陥ったとしても、既にイエス様が身代わりに罰を受けてくださったのだから、この世のことなど如何でも良いでしょう。

 あなたが、貧しくても金持ちでも、有能でも無能でも、健康でも病弱でも、大事なことは、それに執着しないことです。あなたの周囲の人が、罪人でも、強欲でも、頑固でも、優柔不断でも、ひ弱でも、その人を変えようとせず、ただ愛して相手に合わせていけば良いでしょう。神を信じ、神の言葉を伝え、なすべきことをする、それが信仰者の忠実な人生でしょう。

 人を変えようとするのは従っていることにはなりません。わたしたちが、この人には従えないと思うとき、キリストのことを思い、その謙遜に学んで、「イエス・キリストは主である。」と告白し、その愛を称えましょう。