1月5日  信仰を土台として自らを築き上げる   ユダ1420

[新改訳]  ユダの手紙               

1:14 アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。

1:15 すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」

1:16 彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。

1:17 愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。

1:18 彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。」

1:19 この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。

1:20 しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、

1:21 神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

1:22 疑いを抱く人々をあわれみ、

1:23 火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。

 

 新しい一年が始まりました。年賀状には、不況、闇、戦争などと、希望、平和などの言葉が多かったようです。私は正月の駅伝が好きですが、高校時代に高崎高校との定期戦で走ったことを思い出します。中一のときの走り高跳びのクラス代表も、やはり定期戦の剣道の試合もどれも無残な結果でしたが、鮮烈な青春の記憶として残っています。相手の強さ、自分の未熟さなど、努力の大事さを教えられたものです。現役、一浪の大学入試の惨敗も大変な衝撃です。負けるということ、苦難に遭うということは、人を大きく成長させます。そういう面で私は自分の子供には、挫折経験を積ませようとしてきました。若いうちに、失敗や苦労、努力、労働を体験しないと、臆病になって冒険や勇気がもてなくなってしまうようです。

 

  不況だ、失業だ、失敗だ・・・などといってもたいしたことではありません。世界中の人々はもっと大変な苦労を日常にしているのです。

 

 飼い犬のジョイが、しばらく優しい家内とだけで散歩を続けているうちに我儘になってしまいました。躾の本を読むと、犬は自分に優しくされていると自分が主人だと思い込んで、ストレスになってしまうそうです。ところが、飼い主の動向に注目する従順を身に着けると、雑多な情報が気にならなくなるそうです。正月の間、厳しい私が散歩に連れて行くと戸惑っていたようですが、すっかりおとなしくなって引っ張らなくなり、振り返って配慮してくれるようになったと家内が喜んでいました。

 

  今日の聖句では、「自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者ども」、「ぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめる」「御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間」という人々がいると注意されています。彼らは人生に学ばないのです。

 

  私はこの3月で神学校を卒業して20年になりますが、未だ教会堂を賃借しています。投じた資金は大変なものですが、それ以上に多くのものを得たと思っています。全能全知の神を知っているならば、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」(ローマ828)信仰を土台として自分の人生を築き上げることを学ぶためには、自分の能力、金銭、思い、労働、知恵、その他、信仰以外のものに価値がないことを長い時間を掛けて体験しなければならなかったのです。

 

  そういう面から考えると、それらこの世のもので失敗し、挫折を味わった方々が、信仰を持つと惑うことが少ないように思われます。価値のないものに価値観をもつという過ちを悟るには、多くの挫折を体験しなければならないのかもしれません。でも、実際には、能力にも金銭にも努力にも何にも自分を掛けないで言い訳をいい、挫折を体験しないで、先ほどのように不満と不平、あざけりを繰り返している人が多いように思われます。  

 

  さて、このような奥義を悟るためにはどうしたらよいでしょうか。

 

それは「聖霊によって祈」ることをしなければなりません。自分が信仰を土台としていないということに気がつくためには、聖霊によって長く祈り、神に自らを問い合わせなければならないのです。

 

  祈るといっても、自分の願い事ばかりを言っている人が多いのです。祈りとは、神に聞くことです。どうして、すべてのことが合い働いて益となることを知り、平安になるのでしょうか。それは、神からの悟りを得ているからです。私は、思い煩いや、不平不満の多い人がクリスチャンにも多いことを知っています。これは聖書のことばに聞くことと、祈ることがとても少ないからです。今年は、どうぞ祈ることを身につけてください。

 

1月12日 召された人々への勧め。   ユダ15

[新改訳]  ユダの手紙

1:1 イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。

1:2 どうか、あわれみと平安と愛が、あなたがたの上に、ますます豊かにされますように。

1:3 愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。

1:4 というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。

1:5 あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。それは主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたということです。

 

教会はギリシャ語でエクレシア、「召し出された者の集まり」を意味します。「主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされた」(5節)とは、奴隷であったエジプトから紅海を経て荒野を歩み、そして40年経ってやっとヨルダン川を渡り、約束の地カナンに導かれた時のことです。ここで、エジプトとは、労働の奴隷であったことを示しているので、申命記5・15の十戒の安息日厳守の戒めには、開放されたことのしるしとして安息日には働いてはならないことが戒められるのです。つまり、休み無く働くことは、罪の奴隷であることの証拠であり、週に1日を安息を保つということが人間存在の基本であり、自由の確認として大事なものであることが教えられるのです。したがって、「働くことが趣味」、ということは罪の奴隷であることを是認しているのでクリスチャンとしてはあってはならないことなのです。労働は職を得るため、生活を得るために必要なことですが、それは厳しいことでもあり、責任と義務の伴うものです。

 

  そういう面で仕事が充実していて生きがいになっている場合には注意しなければなりません。例えば牧師職や福祉、医療などもあてはまるでしょう。職業というと、英語ではCallingという言葉を使うことがありますが、これは天職ということです。「自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカ17・10)とイエス様が言われましたが、仕事に成果を求めると誘惑に陥るようです。人生も成果を求めがちですが、自分のために蓄えたものは何にもならずに滅びるだけです。それでも、人は自分のために蓄えたがりますが、神はその働きに必要なものを一時的に与えてくださるだけで、私たちが用いないでとって置くと罰せられると聖書に書いてあります。(マタイ25・29)。

 

  荒野の40年間は、真の共同共有生活でした。すべてが神から与えられたからです。しかし、実はその恵みの時代の生き方で、指導性や能力が現れカナンに入ってからの所有に違いが現れたようです。イエス様が「天に宝を貯えなさい」(マタイ6・20)と言われたのですから、やはり、この地上の生き方によって天国の報いに違いが出るのでしょう。

 

  この荒野のエクレシア、集会は「心から進んでささげ、仕事をしたいと思う者」によってなされていました。(出エジプト35・29、36・2)。

 

  私は「奉仕」という言葉が好きですが、奉仕を強要したり、義務化するのは好きではありません。また、奉仕を自慢したり、奉仕から利益を求めることは嫌いです。したがって牧師職からもあまり多額な給与を得たり、名誉や成果を求めないように注意しています。今回の新会堂の取得も神の御旨に任せようと思っています。わたしにとっては20年間毎日待ち望んだことですし、心からの喜び願いでありますが、なすべきことをするだけです。

 

  ただ、牧師としては真実を語り、心の中を見透かす神を伝えなければなりません。自分のために貯え、心から進んで神に捧げられない者は、滅びるだけです。

 

  私は教会員や客員が牧師に向って言いたいことを言い、去っていく中で、すべてを耐え、財産のすべてと健康、能力のすべてを尽くして教会を支えてきました。牧師が信仰を持っているのを、極端な過激な信仰と非難して攻撃する人々にもめげず、ここまで主と教会に仕えてきたつもりです。私に富があったから捧げたのではありません。多くの人が頭で考えて人生を営んでいます。それは、神を知っているだけで、信じているとは言えないのです。信仰を土台として生きているとは言えないのです。神や聖書、祈りを自分のために用いようとしているのです。

 

  これでは、神は私たちに祝福と賜物を預けるわけにはいきません。「十分の一を神に捧げて、わたしがあなた方のために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注ぐかどうかを試してみよ。」(マラキ3・10)と主は言われます。私は今だれよりも祝福されていると思っています。でもそのすべてをいつも主のために捧げています。主の御用のためにさらに多くの願いを持ち、多くの計画を立て、自分と家族をそのために備えようとしています。

 

  言いたいことをいい、知恵や理性、判断を基準に生きてはいけません。この世の基準に従って生きるなら、不満と不平、苛立ちがこころを占めるでしょう。「彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。」(4節)

 

  神があなたを教会に召しだしたのは、この世の罪、病、苦しみ、思い煩いから、救い出されようと神に叫んだからであって、私たちは神の呼びかけに応えたから今ここにあるのです。いやいやながらではなく、強いられてでもなく、こころから進んで、信仰生活を歩んでください。

 

1月19日  本能によって生きる人々の滅び。   ユダ610

[新改訳]  ユダの手紙

1:6 また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。

1:7 また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。

1:8 それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。

1:9 御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように。」と言いました。

1:10 しかし、この人たちは、自分には理解もできないことをそしり、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。

 

ソドムとゴモラは悪徳の町の極みとしてよく引用されることが多い、創世記に出てくる町です。アブラハムのとりなしによって十人の正しい人がいたら、この町をほろぼすことをしないと神は誓われましたが、その十人もいないので天から硫黄が降ってきて滅ぼされました。ここで、正しい人というのは信仰による義人というよりも、不道徳な人ではないという程度かと思われます。この前に天使が人に姿を変えて、アブラハムの甥のロトとその家族を救いに来るのですが、「後ろを振り返ってはならない」という命令にも関わらず、振り返ったロトの妻は塩の柱になってしまいます(創19・26)。

 

  「振り返るな」と言われても振り返ってしまうのが人情です。ロトの妻は悪徳の町に愛着を持ち、神の命令を軽んじていたことがわかります。このことは、娘たちも、そしてロトも同様で、酒飲みのロトは結局悲惨な人生を送ることになります。

 

  アメリカの性道徳の退廃はひどく、離婚率も非常に高くなってきていましたが、エイズの災いと警告の故でしょうか、最近は改善されてきたようです。でも、社会的にはアメリカの十年後の歩みを見せる日本が今や退廃の極みを見せているようです。携帯電話のメールの着信拒否を外したら、すかさず一日に10通以上の不道徳なメールが来たので、あわてて戻しました。エイズはやはり神の警告でもあるでしょう。

 

  神は愛であると信じて、罰したり裁いたりせず、何でも許してくださると考えている人がクリスチャンにもいるようですが、聖書には決してそんなことは書いてありません。神は自らの罪を悔い改め、イエスキリストの十字架を信じた人だけを許してくださるのであって、その人でさえも、誘惑されて罪を犯し、悔い改めないならば、やはり罰せられるのです。

 

  それでは罰するのは愛ではないのでしょうか。そんなことはありません。愛するからこそ、罰して、悔い改め、永遠の滅びにいくことのないように警告されるのです。

 

  日本では、戦後、青年だけではなく、全般的に道徳が退廃し、マナーや指導が廃れてきているように思います。父親が物分りのいい親になり、優しいばかりで躾やマナーを教えないのです。家庭も学校も社会も道徳を教えず、「労わり合うことが互いの益だから」という観点でしか指導していないのです。「自分の利益になる」という原則は、自己中心という罪の所産でしかありません。損得でしか物事を判断できないのは、悲劇です。テレビも本もすべての情報や会話が「健康のためによい、益になる、楽しい、面白い」というものばかりです。

 

 テレビで「ストレスは良くない」ということを伝えていました。「話し合い、語り合い、理解しあえば、ストレスを改善できる」というものです。いくらかは良くなりるでしょうが、私には根本的な改善にはならないように思われました。家族もそれぞれ、別なストレス要素をもっているので、それが多くなると助け合うなんてことができなくなるものです。

 

  信仰というものを「自分のために役立つから」、「神にすがりたいから」などと考えていると、やはりストレスに対応できなくなるでしょう。自分中心の信仰は、目先のごまかしにはなりますが、人生の解決にはなりません。人生は「自分には理解できないこと」(10節)ばかりです。

 

  十戒の2番目に「自分のために偶像を造ってはならない。」というものがあります。偶像とは、神よりも大事にするもののことです。3番目には「主の名をみだりに唱えてはならない。」とありますが、これは自分の利益のために主に勝手に願ってはならないということです。

 

  要するに、信仰とは「神を愛し、人を愛して、神の命令を守り、神に仕えて生きなさい。そうすれば、神は自分の民、子として恵みを施してくださる。」というものです。

 

  「イエス様の教えならば喜んで従います。」という人がいますが、実際には、祝福を求めてイエス様のところに集まった人々は、殆どつまずいてしまっています。それはイエス様の教えが厳しかったからです。そして集まった人々は、イエス様を非難し、批判し、攻撃し、裏切ったのです。

 

  このようにして、人々はイエス様の奇跡を見て信じ従い、教えの厳しさとこの世の攻撃によってイエス様から離れることを繰り返したのです。実は、信仰生活というのは、信じ、つまずき、信じ、つまずきの繰り返しの中で、「自分には何の良きところもない」ということに気がついていくものなのです。そして、ペテロのように、功績と名誉を追い求めていたのに、自分の罪を何度も思い知らされて、「主よ、あなたはすべてをご存知です」と言うしかないことを悟り、イエス様にただ従うことを学び身に着けるようになるのです。

 

  天使は、非難したり論じたりすることの無益さを知っていました。主に従い、自分の人生を明け渡して生きる者に主は永久の祝福を注がれます。

 

 

1月26日 滅びる人になる理由とは。   ユダ1113

[新共同訳]  ユダの手紙

1:11 不幸な者たちです。彼らは「カインの道」をたどり、金もうけのために「バラムの迷い」に陥り、「コラの反逆」によって滅んでしまうのです。

1:12 こういう者たちは、厚かましく食事に割り込み、わが身を養い、あなたがたの親ぼくの食事を汚すしみ、風に追われて雨を降らさぬ雲、実らず根こぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木、

1:13 わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波、永遠に暗闇が待ちもうける迷い星です。

 

「忌まわしい」という言葉をイエス様は何度も語られ、ルカ11章42〜47節には、「忌まわしい」人々のことが列挙されています。

 

@    十分の一の捧げものをしているが、公義と神への愛をなおざりにしている人々に対して。

 

A    上席につくことを求め、尊敬されることを求める宗教指導者。

 

B    人々に負いきれない義務を負わせ、自分は楽をする指導者たち。

 

 この書の作者はイエス様の弟のユダであって、まさか裏切者ユダだと思う人はいないとは思いますが、同じ「忌まわしい」という言葉を、以下のようなパターンに陥る人々、これも信仰者に対してですが、投げかけています。

 

 なぜ、未信者ではなく、信仰者が責められるのかと、疑問を抱く信者の方もおられると思います。「せっかく、信仰を持ち、苦労して信仰を保っているのに、神や牧師に責められたのではたまらない」、と思っても当然なことです。でも牧師に対しては、もっと厳しく「あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪者に、『悪者よ。あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」(エゼキエル33:7-9)と言われるので逃げようがありません。神は愛だから責めるはずがないというのは、自分勝手な神観念であって、地獄に行ってから後悔しても遅いのです。

 

  さて、それでは覚悟を決めて「カインの道」を学んで見ましょう。カインというのは、アダムの最初の子ですが、神への捧げ物を軽んじ、それだけでなく神に目を留められた敬虔な弟アベルに嫉妬して殺してしまうのです。ここで学ぶべきことは次の神の言葉です。「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4・7)したがって、「カインの道」というのは、「神を軽んじて生きる」ということでしょう。

 

  次に、「バラムの迷い」とは、民数記2224章に書いてあるのですが、要するに金銭欲に目がくらんで、正しいことを知っているのに、誘いに乗ってしたことです。

 

  さらに「コラの反逆」とは、民数記16章にある、指導者モーセに反逆し、平等を唱えて仲間をそそのかしたことです。

 

  彼らのようなものが信者の中に起こったのです。だから、「彼らは愛餐のしみです。」とまで言われるのです。神を知らず信じていない人々は、自分の罪の中を歩んでいます。残念ながら、それに気がつかないで「自分は正しい、人に迷惑をかけたことはない」などと考えているのならば、そういう自己中心の罰を受けなければならないのです。しかし、神を知った人々は、そういう罪を認め悔い改めたはずです。ところが、いつしか神を軽んじ、信仰を自分勝手に解釈して堕落していくのです。そういう人は、コラのように聖書を忠実に語る牧師や信者を嫌がり、平等や愛を叫んで批判をするのです。さらに金銭欲や快楽を求めることにも注意しなければなりません。そのようにして、真理を知り、罪からの開放を体験していながら、滅びの中に入っていくのです。

 

  神に喜ばれる信仰生活というものは単純なものです。しかし、その単純な信仰生活に人間の欲望がいろいろな理由をつけて、難解なものにしてしまうのです。神に喜ばれるか、どうかは、別に難しいことではないのです。例えば、多くの人がお祈りをして、自分勝手な生き方を選んでしまいます。祈りが罪の正当化になってはいけないのです。祈って導かれることは、次のとおりです。@自己犠牲。A伝道に至る深い愛。B苦難に耐える覚悟を伴う喜び。C悪と戦い、罪に負けない勇気。D全能の神を信じる希望。

 

  滅びる人の特徴は、聖書読んでも自分の正当化をし、信仰を利得のために保つ人です(恐れ気もなく、共に宴をはり、自分だけを養っている者)。怖いですね。与えなさい。そうすれば与えられます。自分を富まそうとする者には「真っ暗な闇が永遠に用意されています。」