11月3日

 幼稚な教えの下に奴隷となるか   ガラテヤ書4111

[新改訳]  ガラテヤ人への手紙       

4:1 ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、

4:2 父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。

4:3 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。

4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

4:5 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

4:6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

4:7 ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

4:8 しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。

4:9 ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。

4:10 あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。

4:11 あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。

 

当時のローマの法律によれば、相続人である子が十四歳になるまでは後見人の下に置かれ、財産管理に関しては二十五歳になるまで管理者に任されたという。それまでは、先週語った、厳しい養育係の規律の下に過ごすのである。

 

  北朝鮮のことを考えると、国民の殆どが情報も権利も知らされずに厳しい管理指導の下にあるように思われる。先々週語ったように、その国民を意思決定ができない人々のように考えてはいけない。しかし、意思決定に必要な情報や、それが許される環境はなかったことは間違いがないであろう。彼らが世界を知り、自由な国々のことを知ったとき、どのような行動を起こすであろうか。

 

 日本は封建主義の江戸幕府が敗れたが、勝利したのは帝国主義の明治政府であった。大正デモクラシーなどと言われたが、戦時中の統制はひどいものであった。戦後の民主主義の台頭もどうも付け焼刃のようなところがある。先日の青木参議院議員の政府批判を聞いたが、あのような利権政治・支配がいたるところでまかり通っている。これでは日本を成熟した国家として世界も認めるのが難しいのではないか。

 

  信仰を告白しクリスチャンになっても、成人に簡単になるわけではない。「子としての身分」(五節)とは、養子縁組のことである。養子になっても今まで奴隷であったので、簡単に「お父ちゃん(アバ、父)」とは言えない。父のご機嫌を伺ったり、父に気に入られようと自分を条件付けるのである。

 

  クリスチャンになりたての自分のことを思い起こす。

 

  陽気で親分肌で人付き合いもよく、何でもやっていた。ビールは一ダース飲んでも平気で人の世話をしていた。マージャンは徹夜でやり、強かった。ジャズバンドにも入り、水泳部にも入ったことがある。学生運動の委員長や生協の常任理事や監査、ゼミの幹事で会計学研究部の副部長など、どこに行っても知り合いがいて、教授、職員、学生に顔が広かった。原色のシャツを着たり、パイプを吸ったり、カクテルを作ったり、ともかく派手だった。

 

  ところが、クリスチャンになって、一切をやめた。日本人は本音と建前を使い分けるというが、神を知り真理を知って、今まで一生懸命やっていたことが、馬鹿らしく虚しく思えて、聖書を読みふけり、三ヶ月で聖書を完読した。しかし、習慣としていたことから、抜け出すのは大変だった。酒宴では、いつも中心だったのだから、周囲も驚き、自分もどうしてよいかわからなかった。いつものように人が私に集まってくるのだが、どのように対応したらよいか戸惑っていた。結局、痛烈な私に対する非難が始まった。これまでの経緯と立場から、教会にこもるわけにもいかない。五十人以上の人が正体を調べに教会に来た。そのうち五人が洗礼を受けた。信仰者としての生き方も方向性もわからないまま、しゃにむに過ごして信者の時代に洗礼に導いた人は、日曜学校の教え子を含めて50人以上はいる。

 

  私の青年期であり、信仰についても青年期であろう。船津牧師夫妻の牧会の下で動き回ったというのが、実感である。しかし、結婚し、神学校に行くことになってから、すっかり勝手が違ってしまった。十年間は苦しんだ。

 

  今、成熟しているわけではないが、成人ではあると思う。信仰の成人に達するのに、やはり早道はなかった。「十字架を負う」という体験、「主に従う」という体験、「十字架にかかる」という体験、「よみがえり」の体験、「神と共に生きる」という体験、いろいろなことがあった。そして、主の祝福を味わうようになった。主の豊かさ、すばらしさを生活の中に実現することを知ってきた。

 

  しかし、まだアブラハムのように、モーセのように、主の民を導く自信はない。若いときの熱情が懐かしい。いまだに、罪の奴隷である周囲の人々の影響を受けている。自他の罪性に決別して、カナン(天の御国)を目指して、進み行く用意はない。

 

  牧師になってから最初の十年間、「イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの叫びは神に届いた。」(出エジプト2・23)を引用し、神の国を目指す祝福を説いたが、私のいたずらな熱心さは信者の反感をかい、殆どの教会員は去ってしまった。自分の未熟さの痛感、管理者としての失敗を体験した。

 

財産、富、自分に預けられたものを管理することは難しい。自分の子供も信者も、自分の思うようには成長しない。躓く人も、離れる人も、成長を忘れる人も、そして、思いの外、成長し、祝福される人もいる。

 

来年は五十歳になる。父なる神の定めた私の生き方、使命は何かと模索しながら、アブラハムのように、モーセのように羊を育てて生きたいと願うものである。

11月10日

キリストが形造られるまで   ガラテヤ書41220

[新改訳]  ガラテヤ人への手紙       

4:12 お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。

4:13 ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。

4:14 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。

4:15 それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。

4:16 それでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。

4:17 あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。

4:18 良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです。それは私があなたがたといっしょにいるときだけではありません。

4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

4:20 それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。

 

イチローがすっかり大リーグ選手らしく堂々とした様子になって帰ってきた。真面目で無口で紳士的な松井がメジャーでどのようになって帰ってくるか興味がわく。イチローらメジャーに行った選手たちは、自分で決断した道を責任を持って生きていくという覚悟と自信が、いつの間にか風格を作り出しているように思われる。日本の選手たちは、マスコミや球団、先輩や指導者を要領よく付き合いながら、野球選手を演じているように思われるが、メジャーには男と男の対決の場を球団や指導者が提供しているような印象をもつ。そこに魅力を感じるのであろう。

 

  信仰者は、福音の種を蒔かれた土地のようなものである。すべての人に同じ種が蒔かれる。それをどのように受け取り、対応するかによって、その後の成長に違いが現れる。

 

@道端のような所は、往来が激しいので、すっかり硬くなり、心という土壌に何であれ新しい芽が出ることはない。過ぎゆく雑多なことに心が奪われ、考える余裕もない人である。

 

A頑固な人、自分を吟味することのない人は、信仰の芽が出ても聖書の言葉に照らして反省し、自分を形成しようとしないので、いつまでたっても信仰が身に付かず教えも理解できない。幼子のようであれというから、信仰の理解は知的理解力ではなく、霊的理解力であって、聖霊の感化に反応する人が成長し、祝福の実を実らせることとなる。

 

B誘惑に弱い人は、聖書の言葉を理解していても、それとは関係なく誘惑に乗ってしまう。分子整合医学を勉強してわかることは、きちんと栄養を取っていない人は、病気やストレス、外傷に弱い。しっかりとした栄養を取ると誘惑にも負けなくなる。

 

C聖書は私たちに真理を語り、聖霊はなすべきことを教えてくださる。これに素直に対応できていれば、間違いなく私たちは祝福された人生を送ることができる。

 

 パウロがガラテヤで伝道するようになったのは、パウロが病気をしたからであることが、ここ(4・13)と使徒16・6によってわかる。病気は当時の人々には、悪霊の仕業であるか、罰であるかと思われていた。しかし、病気のパウロを親身になって看病し、却って神の御使いのように丁重に世話をし、パウロの語るキリストの教えに傾倒していった。そして彼らは、信仰の喜びを体験したのであった(15)。

 

  ところが、パウロがガラテヤを離れている間に、いつの間にかパウロを嫌い、反発するような行動をガラテヤの人々が持つようになってしまった。それは、熱心に彼らに教え、パウロを中傷する人々がガラテヤに着たからであった。

 

@遠慮なく人を中傷したり、非難、攻撃する人を信用してはいけない。

 

 友はどこまでもどんなときでも受け入れあい、仲良く付き合うものだと思っているが、考えが変わったり、失敗をすると付き合わなくなる人がいる。自殺した太宰治が「走れメロス」を書いたのは、真の友情を求めていたからであろう。

 

A孤独になってはいけない。排他的になってはいけない。

 

 私は超教派の牧師に友人・知人が多いが、私が初めてのペンテコステ系の牧師の知り合いであり、それまでは「過激で話の通じない人、非理論的な人、・・・」などと偏見があったようである。話し付き合ってみれば、案外親しい仲間になることもあるものである。自分の考えを認めない、対立するからといって、敵ではなく、却って自分のことを親身になって思うからこそ、はっきりとしたことを言うこともある

 

 大リーガーたちは、大リーガーになることを夢見て、努力し鍛え、大リーガーになった。私たちは、神の人になることを夢見て、クリスチャンとして自分を鍛え、自分を誇りに思うようになろう。

 

  「一緒にいること」はすごく大事なことである。「争うのではなく、きつい語調ではなく」付き合えたら喜びである。夫婦が非難し会うものであってはならない。理解しあい、愛しあい、一緒にいることを喜びとする夫婦関係が形成されなくて、神の人になることはできない。相手に責任があるのではない。相手を自分勝手に形成しようとし、要求ばかり言うあなたに責任があるのである。相手のうちにキリストが形成されるまで、自らが、十字架を負って苦しみ、自分を主張せず、愛する相手によって誤解によって殺されることがあっても、「父よ、彼らをお許しください」といいながら、交流を続けるならば、かならず復活することがあるだろう。

 

11月17日

奴隷の子と自由の子   ガラテヤ書42131

[新改訳]  ガラテヤ人への手紙       

4:21 律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。

4:22 そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。

4:23 女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。

4:24 このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。

4:25 このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。

4:26 しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。

4:27 すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」

4:28 兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。

4:29 しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

4:30 しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

4:31 こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。

 

 信仰の人、アブラハムは堕落した時代にあって、神を信じ力強く謙虚な生活を貫いた。そして、肉的な判断、打算ではなく、神に忠実に仕えて生きることによって、神が祝福してくださることを信じた。その祝福は子孫に対する大変大きなものであったが、アブラハムは高齢になり、子供もいない流浪生活でありながら、それを信じるという信仰のものであった。創15

 

  しかし、七十五歳で生まれ故郷のカランを出て流浪し、やっとカナンに定住してからも十年が経ち、未だに子供がいない状況で、自分の子孫が空の星のようになるという神の約束を、まさに肉的な判断で成就しようとしてしまった。つまり、妻の助言のとおりに奴隷の女によって子供を生んだのだった。この子をイシュマエルと言い、アラブ人の祖先とされる。

 

 この奴隷のハガルは妻サラと違って、教養も信仰もアブラハムと共有することのできない粗野な人であったとされるが、実際はわからない。イシュマエルは正妻の子ではなく、特にイサクが生まれてからは、阻害されて育ったかもしれない。イスラエル人は、自分たちを教養と律法をもった優れた民族と自慢し、アラブ人を粗野と馬鹿にしたので、いつもこのように比較されるが、アラブ人にとっては、侮辱であろう。

 

  ともかく聖書を読み信仰を学ぶ上で重要なことは以下のことである。

 

@    神の約束、祝福を信じるということは、長期的な観点が必要である。

 

A    その信仰には試みがきて、打算によって成就しようとすることが多い。

 

B    信仰を装った打算の結果は、その後の歩みに常にダメージを与える。

 

C    それでも信仰を持ち続けるならば、神は約束の祝福を下さる。

 

D    打算と信仰は両立しないので、どちらかを選択しなければならない。選択しなければ、打算が信仰を阻害し、争いと苦しみの生活が続くことになる。(イサクとイシュマエル)

 

E    打算を選んだら、その人生は長くても甲斐のないものになる。(父テラの人生。創世記十一章)

 

F    信仰を選んでも、かつて選んだ打算の結果は尾を引いて、信仰に害をもたらし続ける。

 

 アブラハムは、この苦しみを甘んじて受けた。要するに、彼は十字架を負う覚悟をしたのである。更に、その人生を掛けた一人子のイサクを、主の命令によって犠牲として献げる覚悟もしたのである。

 

 毎日の生活の中で、自分の中にある罪の産物を認め、これを排除することのできない信仰者が多い。なぜ、生活の中に争いがあるのか、実りのない空しい働きが多いのか、それは、私たちの罪が原因である。原因を他人に帰してはならない。

 

 不幸や失敗の原因を他人や社会、情勢に帰する人は、霊性のないひとである。その人は、試練の先にある神の祝福の道を悟ることはないであろう。祝福は、みな自らの罪の悔い改めにある。

 

 自由とは、何であろうか。罪からの自由のことである。そして、自由は神の大能を信じる信仰によってしか、与えられない。

 

 悔い改めとは、悔いることだけではない。また、人の能力で改めることはできない。罪とは、自己中心のことであり、罪を認めるとは、自己中心から神中心に心を回す、つまり回心なのである。自分の罪や失敗を認めないのは、言い訳を言っているのは、自己中心の証拠である。

 

 先輩であり、友人であるI牧師がアメリカで会堂を得た。十二年間もその建物を得てから、認証されるまでかかった。その説教は、ピリピ2・13である。

 

 「神は、御心のままに、あなたがたのうちに働いて、志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」

 

  私たちは、開拓後、十九年になっているのに、まだ自分の会堂を持っていない。毎月の支払った家賃を計算すれば、数千万円になっているだろう。しかし、一生懸命、自らに言い聞かせる。「この便のいい場所でなかったら、これなかった人もいるだろう。それに神からの確信でなければ、神の宮である会堂を建てるわけにはいかない。ダビデも自分の住む王宮は建てても、神殿は建てられなかったではないか。」

 

 自分が打算によって影響される人間であることを認めながら、それが神の御心ではないこと、自分の願いが神の御心に沿っているものは必ず実現することを信じるものである。

 

11月24日

 恵みから落ちてしまう人々   ガラテヤ書516

[新改訳]  ガラテヤ人への手紙       

 

5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

5:2 よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。

5:3 割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。

5:4 律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

5:5 私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。

5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

「嘘をつく人は大嫌いだ。」「時間に遅れる人は、信用できない。」「ごまかしをする人とは、付き合えない。」そのくらいのことを言う人は多い。細かくなると、「音を立てて食べるのを聞くと、ぞっとする。」「脂ぎった顔を見ると気持ち悪い。」などという女の子もいる。前者は倫理的なものやマナーであり、後者は感性のものである。人を差別したり、嫌ったりする理由はいろいろある。ひどい例は食べ方が嫌なので離婚したなどという場合もある。 

 

理解するべきは、こういう嫌悪感というものは、霊性に依存する場合が多いということである。これがクリスチャンになると、「聖書的でない。」「クリスチャンの品性が足りない。」「自己中心である。」「感情的である。」などとされて、やはり非難。批判されることが多い。

 

先週は二つの牧師会があった。私より少し若い世代の牧師たちのものと、一回り年長の方たちのものであった。前者は、理論的、教理的な意見交換や牧会方法などを話しあったが、自分の立場を強調し、他を批判することが多かった。意見としては、正当なものであったが、なにか満たされないものを感じた。私が自分の課題と弱さを語ったが、すかさずアドバイスを受けた。私自身は、簡単に指導やアドバイスをしてしまう自分に課題を持っているのに、もっと信念をもって牧会をしろと言われ、技術論が好きではない私には同意できないものだった。 

 

後者は何も難しいことを話さず、仲良く冗談を言い合うものであったが、私には参考になることがすごく多かった。誇ったり、うまくいっていることを自慢すると、すかさず、弱点を指摘されるが、それが要点をついており、相手のことをおもっているものであることがわかるものであった。全く違う立場のもの同士であるが、その対立点になるものは巧みに避けながら、批判や非難は一切なかった。

 

先々週、@非難、攻撃する人を信用してはならない。A孤独になったり排他的になってはいけない。と「キリストが形作られるまで」の要点を述べたが、律法的になる人は、そのような傾向がある。

 

先週は、つまらないことで妻に怒ってしまった。不器用な妻だから、「変われ」と言っても無理なのに、注文をつけてしまった。妻は食べながら話すことが多く、よく食べ物を飛ばしてしまう。結婚以来、お願いだからやめてくれ、と言い続けているのに全く直らない。奥歯で噛めばよいのに、なぜか、前歯で噛む。聞いている人は、馬鹿らしいと思うだろうが、夫婦の感性としては大事な問題だと思っていた。でも考えてみれば、妻は私に「癖を直してくれ」と言ったことが無い。やはり、妻のほうが霊性が高いのだろう。

 

「自由」ということは、「束縛されない」ということである。「私はクリスチャンだから、・・・・は絶対しない。」という人が多い。最近のクリスチャンは、カウンセリングの影響で「受け入れる」とか、「理解する」とか、「慰める」、などに関心を持つ人が多い。すばらしいことであるが、それが批判の材料になることが多い。「あの人は人を受け入れない人だ、違いを理解しない人だ。」これは自分に当てはめて悔い改めたらよいのだが。

 

日本の現代生活で割礼を受けるということはありえないので、「割礼を受ける」ということは、何かと吟味したい。「割礼を受けて自分を良い信仰者であると確認したいならば、その人は律法全体を行う義務がある」ということは、次の要点であろう。@自分は容易に行なえるが、ある人には大変な負担になること。A自分がそれを果たしていると自慢していること。Bキリストや恵みから離れてしまうこと。C聖書に書いてあること。D社会的、倫理的に模範的なこと。

 

これらの尤もと思われることに固執すると、神がいらなくなり、ルカ十八章のパリサイ人のように神に自慢するようになってしまう。

 

妻に癖を直すことを要求していたときは、仲良くなれなかった。どうでもよいと思ったら、すぐに仲良くなれた。たまには妻も拗ねるときがある。私は妻に嫌われると不安なので、すぐにゴマをする。仲が良いということは、非常に霊的なことである。仲が良いと、妻からも神からも恵みを得る。

 

誰でもよいから、親しくなるように努めよう。自慢したらだめ。頑固もだめ。腹を立ててはいけない。嫌われないように注意を払おう。自分勝手に過ごさないで、相手を喜ばせるように時間を過ごそう。こういうことができないで、聖書を一生懸命読んでも、清貧な生活を過ごしても、恵みは殆ど無い。要するに、信仰を楯に独善的な暮らしをしているだけなのである。

 

一生懸命祈り、とりなしをした人から、「牧師は愛がない」と非難されて教会を去られてしまうことが多い。牧師職は押し売りではないから、それでもいいか、と自分を慰める。立派さを求める人に批判が多い。「愛する」ということは、結果に捉われない自由なものである。自分に捉われてはならない。自分の努力も行いも報いのためにやるのではない。神に愛されているから行うのである。