10月6日

信仰を基準として構成される民族   ガラテヤ書3章1〜9節

 

[新改訳]  ガラテヤ人への手紙

3:1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。

3:2 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

3:3 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

3:4 あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。

3:5 とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。

3:6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。

3:7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。

3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。

3:9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

 

先週は「義とされる」ということについて学んだ。無罪とされるためには、罪を疑われ、法廷に出なければならない。クリスチャンは、神の前に自首をして、自分の罪を認めたのである。生きているうちに自首をした者には、神の子、キリスト・イエスが身代わりに十字架にかかったという特赦を受ける権利があると、聖書が語っているのである。特赦とは、もう罪は裁かれない、すでに裁かれて無罪と宣言されたということである。一度罪を犯したら、もう世間に顔が立たない、と考える人がいるとしたら、それは法律というものを知らない人である。裁きを受けた人を差別してはならないことになっており、それを本人が言わなければ知られることはない。

 

同様に、自己破産というものも知られていない。これは借金超過で苦しんでいる人を救済し立ち直ってもらうための社会的な制度であって、5〜8年ローンやクレジットを利用できない以外には、それほど不利益はない。これは、会社などの民事再生法の適用も同じである。ところが、これらの個人を守る法律を知らず、利用しないでいつまでも苦しみ、借金の返済のための人生を送る人が多い。

 

許されたのに許されたと信じないで生きるとか、借金を帳消しにされるのにそれを行わない人は、罪と負債に縛られて生きるしかない。子供たちに、「一度悪いことをしたら、そこから抜け出られなくなる」とか、「一度失敗したら、その人は落ちこぼれる」とか、脅かして躾ける人々がいる。それは、子供のうちから、牢獄に暮らさせているようなものである。

 

私には、多くの日本人が「働かない者は価値がない」という間違った教えに縛られているように思っている。そうすると、子供や老人、障害者や病人は価値がないことになる。「働くことが趣味」という人は、エジプトで苦役に苦しんでいたイスラエルの人々よりもひどい、呪われているという状態であると思う。なぜなら、彼らは人生の価値ある、そして楽しい、充実した多くのことを知らず、知ろうとせずに生きているからである。

 

「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10・22)ということを悟らなければならない。

 

「ああ愚かな日本人クリスチャン!」あなたはどのようにして神を求め、信じたのですか。あなたが立派な人だから、クリスチャンになったのですか。自分を立派であると思ったり、誇ることの出来る者は神の前に立とうとしないで、教会にも来ず、聖書も読もうとしないで、一生懸命を働き、金を稼ぎ、自分の努力を誇っているではないですか。罪を認めないようなよい人間であると自認するならば、神を信じてはいなかったのです。それなのに、なぜ、世間を気にし、評判のよい人間になろうとするのですか。人格や働きの大きさ、富や地位、そのようなものにとらわれるのですか。

 

神を信じ、聖書を読み、お祈りをし、人を愛したら、そんなに働きづめになることはできません。でも、繁栄や祝福は、労働や努力の結果でしょうか。

信仰者の父はアブラハムであると言われています。アブラハムは高齢であり、子供もなく、定住する土地もないような状態でした。でも「アブラハムよ、恐れるな。」と神に言われました。恐れないで疑わないで神を信じるならば「あなたの受ける報いは非常に大きい。」(創世記15・1)と言われたのです。

 

今月千葉で講演会のある三谷康人氏は3度降格、3度左遷されながら、カネボウの重役になった人です。仕事に行く前に、朝長く祈り聖書を読んでから出勤されたそうです。神を信じ、人を愛し、人生を喜び、楽しんで生きる人こそ、しっかりとした判断、働きのできる人です。  

 

罪許されたことをしっかりと理解している人は、昔の罪がばれることを恐れて生きるような生き方をしません。借金の返済を免除されたことを本当に悟ったら、自分の収入を借金の返済のためではなく、自分の人生を価値あるものとするために用います。

 

これらのことをしっかりと理解していない人は、自分の働きが認められなかったり、試練にあったり、うまくいかなくなると、神に文句を言います。アブラハムは神を第一にしたので祝福されました。彼がやることは何でも神が祝福したのです。神を信じているというだけで、クリスチャンを祝福するということを神は決してなさいません。神を信頼しているということは、生活の中で神を第一にしていることによって証明されているのです。

 

10月13日

信仰によって生きるとは   ガラテヤ書31014

[新改訳]  ガラテヤ人への手紙       

3:10 というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」

3:11 ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。

3:12 しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。

3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

3:14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

 

 父なる神を知っている、イエス・キリストを知っている、といっても、それで神に信仰者として知られているというものではない。私はアメリカ大統領選挙の時にブッシュ氏の信仰告白文をインターネットで入手して、これは間違いのない真摯な信仰告白だと思ったが、その後の行動を見ていると、どうもクリスチャン向けのゴーストライターに票の獲得を目的として書かせたとしか思えない。一時的な言動というものは、その人の真実を示しているとは言えないことがある。

 

  「神を信じている」と告白しても、物事がうまくいかない時、失敗した時、誘惑にあった時、その他、いろいろな時に、「神を信じている」ように反応し、行動していなければ、神を信じているとはみなされない。

 

でも日本人の宗教観というものは、その程度しかないかもしれない。だから、命がけで神を信じる、試練や挫折があっても神を信じるということは、一般的な日本人の宗教観には相容れないのかもしれない。遠藤周作の「沈黙」という小説がある。宣教師が非常に厳しい虐待と脅しの中で、踏み絵を踏んでしまうのであるが、宗教の無力と絶望、そして人間の弱さが描かれる。これはカトリック的な宗教観であり、「父」としての無介入な神が捉えられ、禅とも結びつく「悟り」の宗教が示されるのである。カトリックの宗教観には残念ながら聖書信仰というものよりも、絶対神への帰依というような伝統宗教の特質が見られる。

 

プロテスタント信仰は聖書信仰であり、われらがペンテコステ信仰はそれに聖霊体験を加える。聖書的な論理、ロゴスの理解が信仰の重要な基礎であり、聖霊の感化による信仰理解、信仰行為がプロテスタントである。ペンテコステ派はそれに加えて、信者の積極的な願いの実現と神体験、奇跡、しるしの実現を強調する。ペンテコステ派が南米、アフリカ、アジアで急激に広まったのも、この奇跡や神体験が大きく影響する。

 

 日本におけるキリスト教信仰の特徴は、神よりも信仰者に関心がもたれているということではないか。クリスチャンの人格、質、働き、成果、業績などが、信者自身にも、キリスト教への外部からの評価にも大きい。「信仰偉人伝」などが著され、信仰者の質が問われる。

 

  でも、それは、ここでパウロに糾弾される「律法による行い」ではないか。学んできた「罪人の許しを求める叫び」、「破産者の債務免除への願い」などは、自らの過ちや弱さ、金銭的な失敗を避ける人々には無関係なことである。彼らには、犯罪人の放免や破産者の免責は、甘やかしにしか思えない。クリスチャンで、「自分は立派だ、良い人間になった」と証しする人は多い。しかし、聖書には「義人はいない」(ローマ3・10)とある。私は「自分の行い、信仰を認められよう」とするクリスチャンがあまりに多いことに愕然とする。他人や報いを意識する信仰は、信仰とは言わない。それはイエス様の嫌われたパリサイ人の偽善である。

 

 「自分を義人だと自認し、他の人々を見下している者たちに対して・・・・・自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」(ルカ18・9‐14)

  義人は信仰によって生きる。

 

1.「義人」 

 

  神に義とされるのは、行いや人格、実績によるのはない。十字架につけられたイエス様によって自らの罪を贖われた人である。イエス様が身代わりに死んでくださった自分の罪を認めた人である。

 

2.「信仰」

 

  自分を見てはならない。罪深い自分を見ても解決にはならない。自分を変えようとはしないことである。自分の働きに成果がなくても、却って悪くなっても気にしない。神を信じることである。

 

3.「生きる」

  絶望せず、忍耐を持って、恐れずに毎日を生きることである。人を恐れ、失敗を恐れ、挫折を恐れてはいけない。

 

 あなたの前の踏み絵をどうしたらよいだろうか。

 

 踏んでしまえ。踏んでも踏んでも神を信じ、助けと許しを求めることである。決して自分の罪性に絶望してはならない。人に裏切られても人を愛し続ければよい。認められなくてもやめてはならない。

 

 キリストは私たちの身代わりに呪われたものとなってくださった。それならば、私たちが呪われたもののように思えてもよいではないか。これを認めたとき、聖霊なる神が私たちのうちに強く臨在してくださるのである。

 

  私たちの願いの実現を求めるのがペンテコステ信仰であるが、願いが実現せず、絶望に至ってもなお、神を信じるとき、キリストの弟子としての十字架を背負った、御霊に満たされた人生が始まるのである。

 

10月20日

罪の下に閉じ込められるかどうか   ガラテヤ書31522

[新改訳]  ガラテヤ人への手紙

3:15 兄弟たち。人間のばあいにたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。

3:16 ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。

3:17 私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。

3:18 なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。

3:19 では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。

3:20 仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜わる神は唯一者です。

3:21 とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。

3:22 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。

 

アメリカがイラクを攻撃する準備を着々と進めている。聖書から判断するならば、どんな理由からでも人を殺すことを正当とすることはできない。ヒットラーは優性を伸ばすためとして障害者を殺戮し、ユダヤ民族を劣等民族と見なして皆殺しにしようとした。戦争は正義のためだと軍国主義者は言うが、アメリカはベトナム戦争の虚しさを教訓にしていない。この傲慢な姿勢に対してイスラム過激派のテロは更に激しくなろう。

 

  北朝鮮の人々に対しても日本人は傲慢ではないだろうか。独裁者の支配下にある人々は皆マインドコントロールを受けていて自由に判断できないのだろうか。それでは日本人は、物質文明の中にあって、金という独裁者によって支配されてはいないのだろうか。私たちは日常の生活の中で、障害者、高齢者、表現の下手な人、不器用な人、センスの悪い人、などをバカにしていないだろうか。

 

  正義のためといって、平気で人を殺すためにミサイルをぶち込む感覚になってしまうほどに人間の罪責感は、不確かなものである。私は、自分を含め、クリスチャンという人々が、案外罪に対して無感覚なことに気がつくことが多い。牧師であって、神様のために働いているのだからといって、何をしてもいいことにはならない。

 

「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

 

偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」ガラテヤ5・19-21

 

「陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者。」ローマ1・29-31

 

 クリスチャンであるということに安住し、自分は罪許されているから、といってこのようなことを平気で行っているならば、死んだとき、行くはずであった天国ではなくてハデス(黄泉)に行ってしまう。そのときになってから嘆いても遅い。陰口を言うクリスチャンや高ぶる者、大言壮語する者、その他、当てはまる人は多いと思う。要するに罪の自覚がないのである。罪に対して敏感であるから、自分は死罪になって当然という悔い改めがある。これは聖霊なる神によらずしては決して、人に現れない奥義である。

 

「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」ガラテヤ3・24

 

  律法があるから、罪を罪として受け入れざるを得ないのである。「あなたは罪人か」と聞かれ、自己中心という意味であると諭されたら、ほとんど善良な人は、肯定せざるを得ない。ところが、それで、教理的に理解したらクリスチャンになったかというと、制度的、体制的にはクリスチャンであり、信仰者であるが、神の前に子とされたか、というと疑問ではないか。

 

  ここで契約と訳されている言葉は、遺言という意味でもあるという。遺言による相続というものは、相続人の行いや出来のよさ、孝行というものに依存するのではなく、一方的に当人の判断に依存する。父なる神が一方的に、相続の恵み、義というものを与えると宣言したのだから、その相続の条件を飲むしかない。

 

  神が示した相続の条件、義とする条件は、自分の能力、行い、品性による権利、資格を一切ないものと認めることであった。「すべての人を罪の下に閉じ込めました。」とあるように、自分はどうしようもない罪びとであると認めることが条件なのである。

 

  自分をそのような罪びとであると認めた者は、もはや誇ることも、人を見下げることも、正義や理念の下に虐げることもできるはずがない。

 

  聖書ならぬ主義主張に固執する人よ、あなたに救いはない。

 

  偽りを言い不当な利益をもくろむ者よ、あなたは罪の呪いの中にある。

 

  自分を優秀であると自認し、人と見下げ、虐げる者よ、あなたの挫折はもう戸口のところに来ている。

 

  自らの平和と幸せに安住し、弱者や貧者、苦しんでいる者に助けの手を差し伸べない者よ、あなたの命には意味がない。裁きの主が待っているだろう。

 

  義と認められるためには信仰に生きるしかない。神をなめてはいけない。

 

私はこのように自分を戒める。私は裁きの神の前にとても立てない罪深い者である。主よ、ただあなたの哀れみを請うばかりです。

 

あなたもまた、私と一緒に神の前に悔い改め、キリストの十字架にすがろうではありませんか。神は愛です。

 

10月27日

 信仰による相続人   ガラテヤ書32329

[新改訳]  ガラテヤ人への手紙

3:23 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。

3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

3:25 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。

3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

3:27 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

3:29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 

  テレビで「子連れ狼」という時代劇が約30年ぶりに始まっている。謀略により妻を殺され、切腹の命を受けたが、幼児を連れて逃げ、幕府とその影の組織の柳生家との戦いを繰り返しながら、子供を育てていくのである。来年は、NHKの大河ドラマが宮本武蔵であるというし、時代や体制に逆らいながら強く自分を作り上げていくことが、人々の願いになってきたのかと、思わされている。

 

  人は環境や境遇によって影響を受けて人格を形成していくというが、それでも個々によって対応の仕方が違ってくる。

 

@.順応。格別に反発もせず、人生こんなものかと、周囲にあわせて生きる。理念、考え方をもっているが、実はお仕着せのものであって、それを吟味することも改革することもない。急激な変化、苦難に弱く主体性が形成されづらい。

 

A.反発。虐げられ、愛情を注がれずに育ったために、社会や組織、他人に対する反感をもつ。忍耐力や継続性に弱い。

 

B.独立。何事も自分で確かめなければ、行わない。協調性や融通性に欠けることが多い。

 

C.隷従。意図的に自分の判断や考えを主張しない。主人、指導者次第で悪にも善にも動く。

 

 悪いことばかりを挙げたが、それは人間性などというものは、いずれにしても大したものではないからである。器質にしても、胆汁質、粘液質、多血質、憂鬱質などと学んだが、結局のところ、人間分析に役立つだけで、どれが良いという指導はなかった。

 

 ところが、人は、自分の対応の仕方、器質を肯定し、それ以外のものを否定する傾向がある。あるいは、自分を否定し、他のものを願望する場合もある。拝一刀にしても宮本武蔵にしても、特徴は自らの行き方を保ち、他の人とは深く立ち会わないで生きたところにある。いま、私たちは自分が何かに依存して生きていることに不安を持ち始めているのかもしれない。

 

  キリストが福音を伝える以前、イスラエルの人々は律法に縛られていた。律法学者やパリサイ人が律法の厳守について、人々を監視し、教育、洗脳していた。もし、律法に違反したら厳罰が用意されていた。そのことによって、神を信じる民として、自分たちを罪や犯罪、呪い、災いから守ることになると信じていたのである。

 

聖書はそれを子供が成人に達するまでの養育係の働きであると言っている。厳しい養育係である。違反すれば死罪もありうるのである。なぜ、そのような厳しい戒めが必要だったのだろうか。

 

  私はクリスチャンの生活における甘さ、自己規律のなさ、罪にたいする無警戒を、危ういものと見る。イエス様は、「十字架を負ってわたしについて来ない者は、私の弟子になることはできません。」(ルカ14・27)「だれでも自分の財産全部を捨てないでは、私の弟子になることはできません。」(14・33)と言われた。

 

  故本田弘慈師は、「傲慢とお金と異性に誘惑されないように」と訓戒し、これに打ち勝つならば奉仕の実は結ばれたようなものだ、と諭したという。父は、傲慢な人間は大嫌いだとして、地位も名誉もない職人の仕事を愛した。母はいつも優しかったが、性的な堕落は許さなかった。厳しい戒めがないと、人は簡単に誘惑されてしまう。そして、罪の奴隷となってしまうのである。世間によく思われたいと願うと、神に対して誠実で居られなくなるのである。

 

 皆さんは、食事の時間を退けて祈り続けることができるでしょうか。

 

テレビや新聞を読むのを省いて聖書を読むことができるでしょうか。

 

人に好意をもたれるのを諦めて、伝道をすることができるでしょうか。

 

  ほとんどの日本人クリスチャンはこれをできないのです。そして、神は愛だから自分を罰することはないと信じて、礼拝を守らず、仕事をしているのです。神を礼拝することが人間存在の中心たる至上命令であることを軽んじているのです。

 

  このようにして、キリストを信じ、キリストにあって自由とされることを体験できないのです。神の子としての約束の祝福の相続をすることができないのです。パウロは律法は絶対にいやだ、と言い切ることができます。この世と罪を絶対的に否定できない人は、いつのまにか罪の奴隷としてまた戻ってしまうのです。私はそのような人を多く知っています。