9月1日

 弱者を守るためには強くあれ。   ガラテヤ1章11〜24節

[新改訳]  ガラテヤ人への手紙       

2:1 それから十四年たって、私は、バルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。

2:2 それは啓示によって上ったのです。そして、異邦人の間で私の宣べている福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした。

2:3 しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を強いられませんでした。

2:4 実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。

2:5 私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。

2:6 そして、おもだった者と見られていた人たちからは、・・彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。・・そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。

2:7 それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。

2:8 ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。

2:9 そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。

2:10 ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。

 

先週学んだように、クリスチャンを迫害してきたパウロがイエス・キリストを信じたということは、ユダヤ人にとっては憎むべき存在であり、クリスチャンにとっては油断のならない怖い存在であった。ところが、バルナバがこのパウロを引き受けてとりなしをしたので、パウロは大胆に伝道をした。(使徒9・22)。しかしユダヤ人たちが殺そうとしたのでパウロはタルソに非難した。

 

  その後、ペテロは異邦人を差別してはならないと神からの直接的な啓示を受け(使徒十章)たが、そのようにして異邦人と一緒に食事をしたりすると、律法に反しているとして、非難を受けた(使徒11・2)。しかし、ペテロが神からの啓示を説明すると、その交流が認められたが、それでも染み付いた慣習から、ユダヤ人が積極的に異邦人に伝道することはなかった。

 

  ところが、クリスチャンに対する迫害が強くなったので、信仰者はエルサレムから離れ、結局、異邦人にも伝道する機会がおこり、特にアンテオケで改心者が多くおこった。エルサレムから遣わされたバルナバは、ギリシャ語も堪能なパウロ(以前の名はサウロ)をタルソから連れ出して、アンテオケ教会形成に協力して働いた(使徒1119-26)。ここで初めてクリスチャンということばで、信仰者が呼ばれるようになった。

 

  アンテオケはシリヤの首都で当時五十万人の人口がいたという。教会は成長し、大飢饉と迫害の中にあるエルサレムの教会に救援の物資を送ろうと、バルナバとパウロを派遣することになる(1130)。

 

  エルサレムの教会は共同生活をしていたが、ヘブル語を使うユダヤ人とギリシャ語を使うユダヤ人の交流がうまくいかず、不満があった(使徒6章)

 

それでもユダヤ人だけならば良かったが、風習の全く違う異邦人も教会の交流の中に入ってくるようになった。小さい頃からいわゆる行儀作法を厳しくしつけられているユダヤ人にとって、異邦人はまさに野蛮人であった。割礼というのは、男性性器の包皮を切り取ることであるが、それは病気の伝染を守ると共に、罪の放縦を戒める厳しい掟の象徴でもあった。ユダヤ人クリスチャンは、割礼を異邦人クリスチャンも受けることによって、同じ様な意識をもってもらいたいと願った。これは、多数を占めるユダヤ人クリスチャンの同意を受けたので、諸教会を回って異邦人クリスチャンにも割礼を強要する人々が現れた。バルナバとパウロは激しくこれに反発した。

 

  このような経緯で、エルサレム会議が開かれることになった(使徒15章)。激しい論争があったが、ペテロの発言によって納まった。それは、信仰と恵みによって救われたのであって、異邦人に厳しい掟を課し悩ませてはならないというものであった。そして、諸教会に、信仰者の仲間が、使徒は何も指示していないのに、勝手なことを言って異邦人クリスチャンを動揺させ、心を乱したことを認め、惑わされないようにと手紙を出したのであった。 

 

  パウロは自分がそのことの使者であったこと、同行したギリシャ人のテトスが割礼を強いられなかったこと、などを説明する。パウロは、真理を守るためには決して譲歩しないことを強調する。そして、自分が神も真理も戒めも知らない、異邦人に福音の真髄を示し身につけさせるために使徒として召されたのであると、自らの使命を語るのである。

 

  パウロは真理のために強く主張し、強く生きる。強くなければ、教えを受ける者が、悪いものに惑わされてしまうからである。

 

  最近は、聞き分けのいい、父親、母親が多いようである。タバコ、酒、不倫、同棲、ごまかしを認める親が多い。自分が同じようなことをやっているから、子供を戒めることが出来ないのである。教師や警察官、社会の言葉を借りてしか、子供に警告を言えないのである。

 

  聞き分けのいい牧師も困り者である。「私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。」(2・5)。聖書というものは、自分の都合のよいように解釈されたり、利用されてはならない。「牧師は、羊飼いのように信者の世話をするものである。」という人がいる。それでは、「福音の真理が保たれる」ことはない。

 

  信仰というものは、欲得によって左右されるものではない。神の御心は、私たちの願いを満たすことではなく、私たちが神の御心を行うことが大事なのである。

 

9月8日

自分の意見と権利を主張する。   ガラテヤ21114

[新改訳]  ガラテヤ人への手紙       

2:11 ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。

2:12 なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。

2:13 そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。

2:14 しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。

 

食事を一緒にするということは、毎日の生活で非常に大事なことである。我が家では、食卓の傍にテレビを置いたことはないし、食料として勝手に取ることは、なるべく避けている。食事の団欒は、人間として基本的な共同作業であり、これがないと人格の健全な形成はないと思う。両親は食事の時になるべく子供と一緒にいるべきであり、自分が食べたら勝手にテレビを見るために食卓を離れるようなことは好ましくない。

 

先週は教団理事のテレビを見ないことを奨励するような記事に注釈をつけたが、それはテレビが今や社会との重要な情報の接点であり、それを絶って祈りの生活を送るということが、実際には交流のない独善的でストイックな(禁欲的)信仰生活になってしまうことを警告したのである。つまり、自分や子供の属する社会との交流を避けてはならず、テレビや新聞、あるいは食事の団欒などを通して、互いを理解しながら、とりなしの祈り、慰め、励ましがあるのである。当然、食事のときの会話が責め合ったり、非難のものであってはならないことは言うまでもない。

 

したがって、教会において食事を一緒にとることの重要性もわきまえている必要がある。基本的に教会における食事で注意するべきことは以下のとおりである。

 

・他の人、特に新しい人の情報を聞き出すようであってはならない。

 

・スポーツや芸能、昔の話など、霊的でないことを長く話さない。

 

・一人の人が長く話し続けたり、自慢話にならないように注意する。

 

・身近にあった出来事を語り、感想を言い、自分の状況を伝える。

 

・互いの消息など、祈り、援助するようなことを報告する。

 

・信仰体験、証などを必要な人に語る。

 

ある人は、そういう面倒なことをしたくないと言うが、正しいことや善を行うためには配慮が必要であり、悪を行い、欲に縛られるのは容易なことだからである。愚か者は、そういう配慮がなく、聞く耳がないので、愚かな道を歩むのである。

 

さて、この聖句は、ペテロが異邦人と一緒に食事を取らなくなったことへのパウロの非難である。ペテロがアンテオケの教会に来た当初は、その教会に混在していた異邦人とも当然のように一緒に食事を取っていた。ところが、イスラエルから割礼派の人々が来ると、ペテロは自分のユダヤ人における評判が悪くなり、自分の使命である「割礼を受けた者への使徒」(2・7)の働きが、損なわれることを懸念して、彼らのご機嫌を取り、異邦人とは一緒に食事をしないようになった。

 

別に大したことではないと、言う人が多いかもしれない。しかし、それは差別である。人種差別、女性差別、障害者差別など、私たちはよほど意識しなければ、虐げられている人々の立場を理解できないものであり、彼らは実際に抑圧され、自ら権利を主張することは難しいのである。そして、福音は、その本質が解放であるがゆえに、抑圧を是認するような人々には、その本質を語ることができないような真実、誠実なものなのである。したがって、もしここでパウロが、ペテロの人間的な配慮、恐れを是認してしまったなら、それはキリスト教を形骸化させ、ユダヤ人の一宗派として衰退、消滅することに至らしめたであろう。

 

千葉市が「男女共同参画ハーモニー条例案」に勝手に「女性らしさ」などという言葉を付け加えたことに関して、市長が「反応が多くあったのでかえってよかった」(東京新聞9・6)などと言ったことは、全く本質をわかっていない証拠であり、女性差別が日本社会で改善されるには時間がかかるであろう。

 

  パウロは、現実的には、奴隷差別には社会的な反動が大きすぎると遠慮し、逃亡奴隷オネシモへの兄弟としての対応などという婉曲な指導で済ませてしまった。これが、ルターの農民。階級差別に影響を与え、ドイツ農民戦争への暗愚な対応をもたらしたことは否めない。

 

先週は、ウェスレー神学を学びに行ったが、ウェスレーが自分の指導するメソジスト信徒に他の教理、教派を受け入れることを認めず、追放したことは、彼の信念の強さとしてかえって教派の進展、強めにつながった。彼は、国教会も他の教派も認めたが、二股をかける信者、信仰をきらった。それは、寛容に見える安逸な妥協は信仰の破船につながると信じたからであった。

 

自らの信念、主張を明らかにするからこそ、研鑽があり、成長がある。キリスト教が他の信仰を認めないと非難する人がいるが、その人は自らの多神論にたって、唯一神論を認めていないだけである。先週のテーマのように弱者を守るためには強くなければならない。自らの信仰を守るためにも、キリスト教信仰が「霊とまことを」(ヨハネ4・23)を要求するものであるからこそ、真実でなければならない。

 

9月15日

走るべき道のりを如何にして走るか?   Uテモテ4章1〜8節

[新改訳]  テモテへの手紙第二       

4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。

4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、

4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

4:5 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。

4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。

4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

 

医学書によると、老年期を次の3期に分けることが考えられている。老年初期:65〜74歳、老年中期:75〜84歳、老年後期:85歳〜。75歳までなら中壮年者と同じように手術療法に踏み切り、75歳以上だと個人の状態に応じて判断し、85歳以上だとまず手術療法は特別の場合を除いておこなわないそうである。しかし、従来、老化現象そのものと思われていて、実は老年期のライフスタイル因子によってかなり左右されていることが判明したものが多数あるそうである。老化は、精神認知機能にも及び、もっとも顕著な現象は、記憶力、記銘力の減退である。そして、より高次の精神機能、言語、推理、洞察、空間認知機能なども衰える。しかし、一見避けられないと思われるこの認知機能の老化も、加齢以外の要素によって大きく影響されることがあきらかにされつつあるが、それは、栄養とか教育の因子である。

つまり、人は、食生活と意識付けで老化から自分を守ることが出来るのである。創造論者は人間が短命になった理由を、上空の水の層がノアの洪水の時に落ちて紫外線や放射線が注ぐようになり、遺伝子が損傷したからであるという。マリヤクリニックが採用している分子整合医学によれば、充分な栄養素の補給により遺伝子が回復され、病気が治癒し、健康を回復する。律法を守るイスラエル民族の食生活は非常に健全であり、高齢者が多く、優秀な人材が多いことからも証明されている。

「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」(創世記25・8)

「モーセが死んだときは120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」(申命記34・7)

「主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすきないからだ。それで人の齢は、120年にしよう。』と仰せられた。」(創世記6・3)

人生は120年が限界であると神が定めたが、その与えられた120年を自らの判断で健康で元気に生きることはできる。また、その人生の後は、その限られた人生の歩みによって、天国に行くか、行けないか自ら決めることになるのである。その具体例がモーセであり、アブラハムであった。

さて、具体的には、どのようにするべきであるか。

そして、真に重要なことは、120年を健康に生きることなのか、或いは、その120年の後の永遠の人生を生きられるか、どうかなのである。

 

パウロは、67年頃に殉教しているから60歳代まで波乱万丈の人生を生きたが、「生きている人と死んだ人とを裁かれるキリスト・イエスのみ前で」(1節)という意識を常に持って、その伝道生涯を歩んだ。

 

1. 彼は「時が良くても悪くても」状況に左右されず働き続けた。

 

  神を信じる人は、運・不運、状況や結果に左右されず、神を信じてなすべきことをやり続けた。アブラハムもモーセもそうである。他方、不信仰者は、神の名を借りて自分の都合の良いように言い繕い、人々を味方につけることに腐心して、怠けるのである。(3,4節)

 

2. 慎み、耐えて、自分の務めを十分に果たす。

 

  自分の為すべきこと、自分しか出来ないことを悟り、わきまえ、覚悟することが必要である。他人が何を言おうが関係ない。他人の目、意見、常識などを気にし過ぎて、自分を埋没させ、生き甲斐を見失っている人が多い。失敗も、挫折も、恥も、人生の目的からすれば大したことではないのに、それを気にして怯え思い煩っている人が多い。(5節)

 

3. 勇敢に戦う。

 

  自分の内には罪という敵がおり、外にはサタンがいるし、敵対者もいる。神を信じて生きるということは、これらの敵に惑わされず、真っ向から戦いを挑むということである。(7節)

 神が与えてくださる義の栄冠を受ける者は幸いである。勝利の栄冠は、そのためにひたむきな努力をする者に与えられる。若い者には若い時に応じた試練があり、高齢者には、それに応じた試練がある。罪とサタンは簡単に私たちを解放することはない。弱さや老いに失望してはならない。自らの為すべきことをわきまえて生きようではないか。

 

9月22日

 堅く信仰に立って主の業に励もう!   Tコリント15章13205458

[新改訳]  コリント人への手紙第一   

15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。

15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。

15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。

15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。  15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 

教会員が礼拝に来る途中の事故で死んでしまった。雨の中、自転車で傘をさし、教会員への旅行のお土産を持ってこようともしていた。残念、何故、と考えて当然の忠実な信仰者の突然な召天であった。私自身も当惑し、また心の悲しみを堪えることはできない。もし、人生が死で終わりであるとするならば、遺族にとって、これ以上の悲しみ、苦しみは無い。北朝鮮に強引に拉致され、殺された者の遺族の苦しみ、恨みを察する。

 

もし、死者の復活がないのならば、神の国という望みが真実なものでないならば、私たちキリスト信者も同様なものであろう。いや、むしろ希望を天国に置き、この地上での報いを気にしないで神に仕え、人々を愛し、自らを消耗していく忠実なクリスチャンは愚か者ということになろう。

 

したがって、このことの成否はキリストにかかっているのである。もし、キリストが復活されなかったのならば、私たちの信仰は自己満足であり、空論でしかない。そして、キリストがよみがえらなかったのなら、私たちは未だ罪の中にあり、私たちにキリストのいのちは注がれていないことになる。また、キリストの御霊として、私たちを助け、教え、導き、力を与えてくださる聖霊も来ていないことになる。

 

しかし、私は罪許されていないのだろうか。キリストのいのちを体験していないだろうか。聖霊の注ぎを受け、バプテスマを体験していないだろうか。当然、否である。私たちは罪許されている。神によって救われている。聖霊の傾注を受け、御霊の賜物をいただいている。神は生きているのである。

 

その信者はいつも自分の一番好きな聖句は「あなたがたが、わたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15・16)であると言っていた。「神様が私を選んでくださったのだから、間違いは無い。感謝、感謝!」強烈な救いの確信である。

 

救いの基準を自分に置いていないということは、信仰の極意である。多くの人が、自分の行ないや功績を気にする。試練や失敗の意味を探り、成功や勝利の功績を自分に帰する。要するに、自分に捉われ、自分の人生に意味づけをしたいのである。

 

「しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカ17・9,10)

 

イエス様は自分の働きの意味と報いを求める人間の罪の傾向を戒めたのである。私たちは、被造物であり、神をあがめる存在であり、しもべにすぎない。まず、それを認め、神に仕えることが初めの一歩であり、そこから十字架の生涯、クリスチャンの生涯が始まるのである。

 

  しかし、神はそのようなしもべを捨て置くことをしない。

 

『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25・21)

 

「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。」(ヨハネ15・15)

 

「死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」

 

(黙示録  11:18)

 

このように、罪に勝利し、神にあって歩んだ者には必ず報いが与えられるのである。報いは求めてはならない。しかし、報いはある。その違いは、私たちが自ら、明らかにしている。意味を求め、納得しないと動かない人々は注意するべきである。成功や失敗に捉われる人々は注意するべきである。損得や常識に左右されることも危ない。神を信じることと、自分の判断を信じることは相容れないことも多い。言い訳を言う人は、自分を守るために神をも友をも裏切ることもある。

 

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(15・58)

 

9月29日

生きている意味を知る満たし   ガラテヤ書2章1521

[新改訳]  ガラテヤ人への手紙       

2:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。

2:16 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

2:17 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。

2:18 けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。

2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

 

死は人間の真実を表わす。信者の死は、その人の御国への凱旋を確信させる。もはや、彼女のために祈る必要はなく、こちらこそ、とりなされる必要があるものである。他方、周囲の人の信仰の状態をも表わすものとなった。突然の死は、人生に意味を持たせ価値ある生き方を持ちたいと思い、信仰を自らの祝福と繁栄に結び付けたいと考える者にとっては、理不尽なものであろう。クリスチャンへの神の特別な加護を信じ求める彼らにとって、信仰の意義をも失わさせる敗北であろう。

 

  自分は変わったとか、祝福されたという証は、キリスト信仰にとって本質的なものではない。それらは語利益信仰であって、新興宗教のものとあまり変わらない。神を信じているとか、神のすばらしさを知っているとか、ということも、自己満足に信仰を付け加えたもののようである。したがって、忠実な信仰者の当然の死に躓く者は自分の救いをもう一度確認したほうがよい。無論、寂しさ、悲しさ、などはある。しかし、御国に居ることを感じられない人は、やはり、キリスト信仰を自分のものにしていないのである。遺体に向かって話しかけるクリスチャンも多かった。それは抜け殻である。御国に凱旋した証拠であり、記念である。パウロは「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。・・・世を去ってキリストと共にいるほうがはるかに勝っています。」(ピリピ1・20-23)と言ってのけている。

 

  ユダヤ人は生まれながらに神の子であると信じていた(15節)。しかし、ユダヤ人が良く知り身に着けている律法は、神によって義とされるに十分なものではないということを理解したからこそ、キリストを信じた。でも、「クリスチャンになって罪を意識するならば、それは子供が親の愛を疑うようであり、却って罪を犯すことになるから、キリストは罪の助成者である」とユダヤ主義者は言う。

 

  同様に自分は教会に来て一生懸命に奉仕しているので、神の子であると信じている人もいる。「イエス様を信じていれば、罪を犯さないし、罪責感を感じない。意識的に犯す罪でなければ、罪でない。」という信者も居る。

 

  義とされる、ということは裁判で無罪と宣言されたということである。無罪とされるためには、罪を疑われ、法廷に出なければならない。すべての死んだ人は、最期の時に神の大きな白い御座の前に出され、裁かれると黙示録20章に書いてある。ところが、クリスチャンは既に生きているうちに、神の前に自首をして、自分の罪を認めたのである。生きているうちに自首をした者には、神の子、キリスト・イエスが身代わりに十字架にかかったという特赦を受ける権利があると、聖書が語っているのである。

 

  でも特赦を受けたにもかかわらず、また罪を犯してしまう。それでもその人は無罪特権を受けているのか、また自首しなければならないのか。「義が律法によって得られるとしたら」)21節)ということは、義認の教理的理解やユダヤ人的な特権的理解に基づく考え方である。つまり、一度、罪を認め悔い改めたら以後、すべての罪は許されていると考えることは、教理的にそれを理論付けても、ユダヤ人的な特権を考えているのであり、無理がある。

 

  神を知り、神に愛され、そして人を愛し伝道する身になった者として、パウロは自らの罪性を認め、自首するというよりむしろキリストに自分を捧げてしまったのである。自らの判断、考えで生きると、自己中心の考えが入り込み、欲望もあって、うまくいかない。それで、パウロは、自分をいたわる気持ち、損得、願い、好き嫌い、それら全てを考慮に入れることをやめ、キリストの御旨を実行することに専心したのである。

 

  人は皆、自分を判断の拠点にする。ところが、それを放棄し、キリストのままになすべきことを果たそうとして祈り、御ことばを(聖書)を聞くと、不思議に御霊に満たされ、喜びと平安が与えられるのである。愛しても愛されず、労しても報われず、仕えても知られず、苦難と試練が続く、敵からの攻撃も多い。そんなクリスチャンこそ、天における報いは大きい。短い地上での成功・不成功、幸せ・不幸せなど、取るにたらないことである。

 

 天における報いもいらない!・? いや、神のまじかにいたい。神には知られていたい。これは信仰者の切なる願い・憧れであろう。