8月4日  

完全な者になることを祈っています。   Uコリント13813

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

13:8 私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。

13:9 私たちは、自分は弱くてもあなたがたが強ければ、喜ぶのです。私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています。

13:10 そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったとき、主が私に授けてくださった権威を用いて、きびしい処置をとることのないようにするためです。この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。

13:11終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。

13:12 聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。

13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

 

科学は因果法則を追及し、真理を探究するものである。例えば、熱力学の第一法則では「系の内部エネルギーの増加量は、外から加えられた仕事量と熱量の和に等しい。」という、熱量まで含めたエネルギー保存の法則であって、宇宙はそのエネルギーは最初から同じであって、どうしても創造という他の力の介入が必要となってくる。バイオテクノロジーの権威でキシリトールを開発したフィンランドのレイソラ博士が「遺伝子情報のように複雑で英知に満ちたものが偶然発生したと捉えることは困難。そのことを認めざるを得ない状況に科学の世界は入っている。」と神の創造の真理に科学も近づいてくる。

 

ところが、社会科学の場合、普遍的ではないので、いくら歴史的、帰納的に分析しても因果は捉えられないので、研究者の個人的経験や考え方によって変わってくる。そこで科学性は難しいとも言われる。ところが、実際には、人は皆、それぞれ、因果の法則を個人的に検証し、自分なりに法則を作り出し、教え、戒めとして受け継がれている。それは相対的なものであって、状況によって適用が変わってくる。

 

しかし、聖書の真理というのは、そのような相対的なものではない。「真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。」というものであり、神は人間に絶対的な法則を制定している。

 

・罪の結果は死である。ローマ6・23

 

・人は善であれ、悪であれ、自分のした行いの結果を受け取る。ガラテヤ6・8

 

・すべてのことを見ておられる神を意識することが知識である。箴言9・10

 

・神を信じていることは、犠牲を払っていることによって証明される。マタイ10・38

 

・人生は神の業をしたかどうかを基準にして図られる。マタイ25・30

 

 このような法則をイエス様は明らかにしている。ところが、人は真理を相対的な処世術のように思っている。罪を見過ごし、多めに見ることを寛容であり、愛であると誤解している。寛容とは、その人の罪深さに諦めないで忍耐を持って配慮し、成長させることである。私は罪に無頓着な人が祝福と繁栄をしているのを見たことがない。鈴木宗男議員の誤魔化しは偽証罪として裁かれるだろうが、皆さんの言い逃れは神の前で偽証罪になることも間違いはない。「私は毎日、悔い改めて祈っている。」という人が多いが、悔い改めたのならば、罪の罰を覚悟するということであり、逃れることではない。つまり、神の法則は厳しいものであるが、そのすべてを覚悟して、それでもなお、積極的に神の業をする、ということが成長した主の弟子なのである。「完全な者」とは、神を信頼し、崇拝して、神とともに生き、自分の弱さ、罪深さ、能力のなさ、などに頓着せず、うまくいこうといかなかろうと、ひたすら神の業に励む人のことをいうのである。

 

  パウロが厳しい処置をするという(10)、それは、信仰者がこのような神の法則をないがしろにし、信仰的に堕落しているからである。警察官が犯罪を犯し、税務署員が脱税をし、公務員が賄賂をもらうことを、「皆がやっているから」、「ばれないから」と平然とやっている。クリスチャンが罪に対して盲目になるならば、罪がさらに私たちを追ってくるだろう。

 

  このような悪が蔓延した時代にあって、罪を犯さず、犯しても悔い改め咎を覚悟し、人々を愛し、その魂が救われ、成長するために努力し続けるならば、そのときこそ、あなたは神の愛というものがわかるだろう。愛のない者に神はわからない。苦難と、罪と、敵意と、誘惑のなかで、なおも、あなたが人を愛することによってこそ、神の愛がわかるのである。それが、「完全な者」であり、神から慰めを受ける者である。

 

  自分を正しいとせず、自分の観点からものごとを判断せず、勝手に信仰の法則を作らず、ただ神に仕えていくのである。現在学んでいるアッセンブリー教団の歴史を見ても、自分たちの考え、主張を教理にしようと反発し教団の主導権を握ろうとした人々が常におこったが、忠実に神に仕え、労を負った人々によって教団は守られてきた。

 

 この教会も、配布した「教会の歩み」をみてもわかるように、いつも世俗に流れ、打算で物事を考える人々が主導権を握ろうとし、信者を先導して分裂を繰り返してきた。でも教会とはそんなところである。だからこそ、真理を追究し、神を求めて真摯に生きることが求められるのである。平穏無事は、堕落の始まりである。言い訳を言って安逸を貪ってはならない。いまだ、会堂が与えられないのも、健全な姿かと思っている。でもいつも祈り願っている。教会もいつもうまく行くわけではない。でも主に祝福を願い続けている。

 

8月11日

悪の世界から救い出そうとして   ガラテヤ115

[新改訳]  ガラテヤ人への手紙       

1:1 使徒となったパウロ・・私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。・・

1:2 および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。

1:3 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

1:4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。

1:5 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。

 

子供たちと大阪のUSJに行ってきた。私は、阪神大震災の時もすぐに駆けつけたが、こういう異常事態の時の様子を見聞きしたいという関心が強い。ミネラル・ウォーターが無料で配られていたが、さらに夜の人気のショーが中止なので5時からはソフトドリンクがすべてただであった。東京ディズニーランドの作り笑いも、信仰宗教みたいで気持ち悪い(失礼)が、USJは統率が取れていないで、出演者が吉本興業みたいで個人的な受けを狙っていて近代的なUSJの施設とミスマッチしていた。数人の上級スタッフが一生懸命現場を仕切っていてが、大阪の人は組織に対する忠誠心のようなものが感じられず、まだまだ問題を起こすという印象だった。

 

日本ハムもこれで大打撃だろうに、指導者のごまかしが目立つ。管理職というものがわかっていないで、雇われ者がそのまま地位を上げたというところだろう。ドイツ経営学では、社会集団は,ゲマインシャフト(共同社会=家族・村など)とゲゼルシャフト(利益社会=会社・政党など),基礎集団(家族・親族など)と機能集団(会社・学校など)などに分類される。会社もまた、社会における役割が問われ、管理者はその共同体で役割を発揮することが求められる。現在アメリカ社会は、経営者の資本利得が不正に追求された結果、大変な混乱を起こしている。要するに指導者の資質と責任感、そして職務内容の堕落が世界的混乱の理由なのである。

 

  コリント書で、パウロが堕落したコリントの町に住む信徒に対して怒ったり誉めたりしながら懸命に指導する中で語られる奥義を学んだ。パウロは、ここでも使徒として懸命に弟子を作り出すことに励んでいる。

 

  パウロは言う。自分が使徒となったのは、人の考えや行動によるのではなく、神の手に拠ったのであると。パウロの考え方は、人にはそれぞれ、神の与えられた職務や働き、状況があるとする。王は王であり、奴隷は奴隷である。それは差別論者ではない。オネシモのような逃亡奴隷をパウロは我が子と呼んでいる。しかし、パウロは人間の価値は、職務や肩書きではないと知っているからこそ、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」と語り、金銭や地位を求めてはならず、その立場で神を信じ、誠実に生きよと、Tテモテ6章で語っている。

 

職業のことをCALLINGと英語でいうことがある。召し、天職という意味である。皆さんは自分の働き、仕事を天職であると考えているだろうか。天職であるかどうかは次のような基準で吟味できるのではないか。

 

1.その職の稼ぎの多寡に関わらず満足している。

 

2.その職の苦労、犠牲に関わらず、生きがいである。

 

3.いつも仕事のことを考えている。

 

こういう点で、牧師は転職でなければ勤まらない。パウロは自分は神から使徒に召されたのだと、強調する。

 

さて、それではクリスチャンというのは、どのように自分の召しを確認するべきなのだろうか。

 

1.報いがなくても神を信じている。

 

2.苦労、犠牲に関わらず、喜びと平安がある。

 

3.いつも神の御心を求め、魂の救いを願っている。

 

こういうことで、クリスチャンか否かは、明らかになり、他の人の信仰の堕落は最初から召されていないのだと、つまずかずに信仰に伝道に励むしかない。

 

こうすると、牧師か、信者かという違いは、職業であるか否かであるに過ぎないかのように思われる。ところが、組織において、指導者と指導される側とでは大きな違いがある。親と子に同じ家族でも、大きな意識の違いがあるようなものである。つまり、意識が全く違うのである。良い信者が良い牧師になれるとは限らない。

 

牧師、社長、リーダーという者は、どの方向に行くか、しっかりと前を向いていなければならない。そして間違ってぶつかってしまったら、真っ先に死ぬことを覚悟するのである。方向さえ指示すれば、後は構成員がそれぞれの働きをしてくれる。松下電器の本社の横を通った。個人商店がこんなに大きくなったのである。ソニーにして然り、ホンダにして然り。

 

教会は何に目を向けるのであろうか。伝道である。内部の軋轢を恐れてはならない。損失を恐れてはならない。正義の道を誠実に歩み、方向を迷わなければ、必ず祝福される。人は、不器用なものである。一人では生きて行けない。だから、夫婦があり、組織がある。一致とは、同じ方向をみて進むことであり、完全に理解しあうことではない。内面や互いを見ると不満がおこる。それは、悪と罪の世界の現実であろう。でも、だからこそ、キリストに目を向けて歩み、人々を悪の世界から救い出すために働くのである。自分にも人にも、その結果にも失望せず、ひたすら主を見つめて、伝道にまい進しようではないか。

 

8月18日

福音を覆えそうとする教え   ガラテヤ1610

[新改訳]  ガラテヤ人への手紙    

 

1:6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。

 

1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。

 

1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。

 

1:9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。

 

1:10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

 

 ここでは、信者が簡単に他の教えに惑わされていくことが指摘される(6節)。それは、キリストが与えてくださった福音を変えてしまう人々によるものであり(7節)、それは、人々の関心を買おうとする(10節)教えである。イエス様は、ほんの少しのパン種がパンを膨らませるように、すこしでも教えに混ぜ物があると真理をダメにすることを指摘する。それはどのようなものであろうか。

 

1.パリサイ人やサドカイ人のパン種。マタイ16・6

 

現実を見ないで、知識の優劣、論争に明け暮れる。信仰は論理ではない。信じるか、否かである。聖書は確かにすべての真理を説明するが、知的満足を求める者、論理性を求める者は神を見ないで自分の理解を優先する。

 

2.ヘロデのパン種。マルコ8・15.

 

権力者が与える欲望。立身出世。食欲、生活の安定、快楽。

 

3.パリサイ人のパン種。ルカ12・1.

 

偽善。信仰者の振りをして人々に見せるためにする善行。隠れたところでは行わず、誠意のない働き。自分の働きは自慢し、誇張する。

 

4.コリントの信者に見られる高慢。Tコリント5・6.

 

自分は真理を知り魂が救われていると自認し、反省や悔い改めをしないで、不品行をも正当化する。

 

5.ガラテヤの信者に見られる律法の強調。ガラテヤ5・9.

 

信仰よりも、その結果としての行い、決まりを守ることに捕われ、生ける神への誠意を忘れてしまう。

 

 なぜ、パン種(イースト菌)は悪いのだろうか。パンがおいしくなり、香もよくなる。しかし、パン種を入れると腐りやすくなる。おいしいものは腐りやすいのである。出エジプトの時、種を入れたパンを食べる者は、殺される。それは、道徳的退廃を意味してもいた。おいしいものを食べようとすること、快楽を得ようとすると、その人は、堕落しやすくなるという生きた厳しい戒めであった。苦菜を一緒に食べるということは、苦い苦難をもあえて食べていきなさいという戒めであろう。(出エジプト12・8、15.)甘い物、美味しい物だけを子供たちに食べさせるということが、決してよくないことを現代人は知らない。「愛するならば、無理をさせない」などと誤解している。愛するからこそ、厳しく戒めるということができないので、簡単に罪に惑わされている。犬を躾けてみて、つくづく思う。犬が引っ張るままについていくと、そのうち飼い主は散歩で事故に遭うだろう。盲導犬は飼い主が害に会わないように注意して共に歩んでいる。自由にのびのびと過ごさせることを愛のように誤解している人が多い。これでは、罪からの開放も、人を愛することも身につかない。

 

  主へのささげ物も、パン種や蜜を入れてはいけない。(レビ2・11)。信仰行為に、余計な飾りや味付けはいらない。信仰生活は実直がよく、人に自慢するものではない。しばしば証のために成功話を求める人がいるが、そんなことを語って信仰に導かれる人は、うまくいかなくなったら信仰から離れる偽信者になることが多い。「神を信じたら、なんでもうまくいく」などと言って、信仰を勧誘してはならない。パン種を入れないパンと苦菜を食べながら出エジプト、つまり、悪の世界から離れて信仰によって進む人生が始まるのである。

 

  したがって、福音は、この世と快楽を好む者には、価値のないものであり、魅力のないものである。「キリストには代えられません。」という賛美があるが、世の宝も富も、有名になることも名誉も、芸術も、自然も、世の楽しみは、キリストにあって生きることに比べたら、真の信仰者にとっては価値のないことなのである。

 

  しかし、人の心は、誘惑と快楽に向き、楽しいこと、満足させることを求める。そして、神は愛だからという論理で、福音を勝手に変えてしまうのである。前に述べたように、聖書の真理は、社会科学的な相対的なものではなく、自然科学的な絶対的なものである。人は宙に浮いたら必ず落ちるのであり、罪に惑わされたら必ず地獄に落ちるのである。

 

  犬を躾けられなければ、犬によって日々が拘束され、犬を躾ければ、日々助けられる。同様に福音によって、罪を抑えられれば、キリストの愛と許し、恵みを体験し、福音を変えて罪を甘やかせば、毎日が罪によって拘束され、実りない日々を過ごすことになるだろう。

 

8月25日

教会を迫害した者が今は宣べ伝える。   ガラテヤ1章11〜24節

 

[新改訳]  ガラテヤ人への手紙       

1:11 兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。

1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

1:13 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。

1:14 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。

1:15 けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、

1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、

1:17 先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。

1:18 それから三年後に、私はケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。

1:19 しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒にはだれにも会いませんでした。

1:20 私があなたがたに書いていることには、神の御前で申しますが、偽りはありません。

1:21 それから、私はシリヤおよびキリキヤの地方に行きました。

1:22 しかし、キリストにあるユダヤの諸教会には顔を知られていませんでした。

1:23 けれども、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。」と聞いてだけはいたので、

1:24 彼らは私のことで神をあがめていました。

 

ガラテヤ書は、ユダヤ教的慣習、律法の厳守をクリスチャンにも要求する人々とその影響の強いガラテヤの教会にあてたパウロの手紙である。

 

  パウロが福音を人からではなく、キリストによって直接に受けたと主張するのは、使徒たちがキリストから直接任命を受けたのと同様であると、パウロの使徒性を疑う人々に対する反駁である。

 

  イスカリオテのユダが自殺した後、弟子たちは代わりの使徒をくじで選んだ(使徒1章)。多くの信仰者が、課題や問題が起こったとき、主の導きを待たず、世の知恵や常識、思惑によって行動する。彼らは、普段は信仰を主張し、「神様、助けてください、導いてください。」と祈りながら、実際は、理性という外観に隠れた自己の存続、利益を求める欲によって行動し、祈っているという行動によって自己の行動を正当化する。選ばれたマッテヤは結局、大した働きはしていないし、使徒性は確認されない。主がはっきりと語り導くまで祈って待ち、簡単に自分の行動を結論づけない、それまで、損失がたまり、時間がかかっても祈り続けるという忍耐と希望の信仰を取れる信仰者は少ない。

 

  パウロは、使徒9章の劇的な回心の後、人に相談せず、使徒たちに会うためにエルサレムに上らず、ユダヤ人の少ないダマスコの近くに3年間も隠遁生活をし、じっくりと聖書を読み直し学んで神の導きを求め続けた。

 

  一人の人生が何年あるかわからない。しかし、短かろうと長かろうと、神の導きと異なった道を歩んだら、歩んだだけ戻ることが難しくなる。私は牧師として不遇な8年間とその結果信者がみないなくなった時のことを忘れることはできない。息子の非行とそのために苦労した6年間も、私の罪深さの結果である。牧師として歩んで来年で20年を迎えるが、今なお借り会堂であり、子供たちの献身も未定である。自分としては今なお、ダマスコにいるような気がする。40歳にして勝手にイスラエルの民をエジプトから救おうとしたモーセが、主に用いられたのは、40年後であった。

 

  信仰生活とはなんだろうか。

 

  それは、神に従い、神とともに歩む生活である。

 

  それでは、神に仕え、神とともに歩むために自分を整えなければならない。

 

1.神と共に生きる仕事、生きがいを持つべきである。

 

パウロは、自分の間違いを認め改めて、人生の指針をつかむために3年を費やした。

 

2.共に信仰生活を過ごす伴侶や友に、多くの時間と思いを注がなければならない。

 

パウロは、その後、ペテロを訪ね、15日間語り合った。その間、ヤコブ以外とは会っていない。夫婦が信仰を語り、実践し、愛し合うことなくして、何の人生だろうか。クリスチャン夫婦でも、祈りあい、労わりあい、助かってともに生きる夫婦は少ない。罪を悔い改めないで誤魔化しているからである。独身であったり、伴侶がどうしようもない頑なな人であるなら、真の友を探し、いつも助けあうべきである。そのために多くの時間を掛けなければならない。友のいない人は、神と自分を偽って生きている。

 

良き夫婦、良き友は、お互いに本音、意見を言い合え、そして生きることができるものである。そのためには、自分がしっかりとしていなければならない。相手の言葉、真実に対して、自分も誠実といたわりを示さなければ、友はできるものではない。ごまかしを言い、言い訳をいう人に友はいない。

 

自分が神と共に生きていると思うならば、少なくとも一人以上の共に生きる人を確保していなければならない。親しいからといって、お互いに言いたいことばかりを言っているようでは、友とはいえない。私は友を助けるためには、時も財産も思いも、ささげ、費やす覚悟を持ったものだと思っている。妻と共に生き、多くの親友をもったこの人生に、心から神に感謝し、神のためにお役に立ちたいと願っている。

 

神のために、妻のために自分の命をも献げる思いを持っていないならば、その人の信仰は自己中心であって、神に喜ばれるものでもなく、大した働きもできないのではないか。

 

パウロは、悔い改め、いのちがけで、福音宣教に没頭した。パウロはいつも、殺害される危険がありながら(使徒9・23―)、主に守られ、栄光を表わしたのである。