7月7日  神の力は人の弱さのうちにこそ働く   Uコリント12710

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 

[新改訳]  ルカの福音書             

18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 

 私は自分の心にいつも、この高慢なパリサイ人のような高慢、信仰自慢、差別、自己義が起こらないように警戒し戒めている。自分の業績、考え、働きを自慢する人が非常に多い。特に男性はそれを生き甲斐のようにしている。このルカ十八章の引用箇所の前には、

@.「夜昼神を呼び求める信仰者」

A.いつでも祈ること

B.失望しない

  ということが強調されているが、高慢な人は間違いなく前二者をしないであろう。「失望しない」ということについても、自分に期待する人間は失望することが多い。先週、イザヤ四十章から、「主を待ち望むものは新しく力を得る」と語り、失望し落胆する者は結局、神を信頼していない者なのだと学んだ。

  金曜に超教派牧師会の「仲良し会」が数年ぶりに集まった。日本の福音派で活躍するそうそうたる顔ぶれであるが、同席した娘の主愛が「生き生きとして面白い人たちね」と言っていた。新顔の人が自分の実績や抱負を一生懸命に話すと、茶化していたが、苦労と努力を重ね人生を渡り歩いてきた先輩たちに比すると私など、自分など小僧のように思われてしまった。私は恵みにより二十年も前から仲間に加えてもらっているが、大変な実績を積んできた人々であり、その中には殉教したT師も加わるはずであった。現在数千人のメンバーを集めているVIPクラブを形成したI師も大変謙遜で目立たない人であり、千百名の礼拝を毎週しているというO師も冗談の多い機転のきく人で、後で娘とその冗談を思い出して笑ってしまった。I社の会長になったTさんは気さくな人で、障害児の息子さんを預けられる人がきてくれるようになったと夫婦で出席し、まめに司会をし人の紹介をしていた。無論、私の恩師、母教会のF師夫妻の献身、祈りの姿勢には啓発されることばかりである。

  これらの人を見ていて、ともかくひたむきに自分の働きをしていることに気がつく。自慢話などしない。過去も振り返らない。「私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、・・・目標を目ざして一心に走っているのです。」ピリピ3:18,19

パウロは言う。「私は自分の弱さ以外には誇りません。」それは、自分の行動、実績、理論、考えを誇ることが、どれだけ邪魔になるかを知っているからである。以前、一番金のかかるものは、「意地」である、と語ったことがあるが、自分の考え、願いを実現しようとする意地こそ、神の業を実現するのに妨害するものはないのである。

  栄光の神の一人子、イエス・キリストが馬小屋で生まれ、大工の子として育てられ、そして枕するところもなく伝道の生涯を過ごし、愛する人々に裏切られて十字架で死んでしまった。

  私は、残念ながら教会に忠実に通っている人々でさえ、天国に導かれる人は少ないのではないかと懸念している。イエス様も先ほどのルカの18:8でご自分が戻ってきたとき「果たして地上に信仰が見られるでしょうか」と心配しておられる。

  「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」ルカ18:17

  ここで、「決して入れない」とイエス様は強調されている。自分のいのちを救おうと努め、自分の主張や考えを繰り返し、過去を誇り拘泥し、自分に取り付かれている人は「決して天国に行けない。」

  だから高慢こそもっとも警戒するべきことであり、自分に弱さや恥、苦痛、迫害、困難があって、神を必死に求めなければならない状況であれば、それは幸いである。なぜなら、神はそこから必ずあなたを助けてくださり、またあなたは堕落することなく天の報いに預かることが出来るからである。

  大事なことは神のために働くことである。自慢話などしている暇はない。家族や友人、知人の救いを思い祈るならば、自分のことなど考え、誇ることなどできなくなる。

 仲良し会の牧師たちのようにひたむきに自分のなすべきことを行い続けるならば、神は忠実なあなたに多くのものをゆだねるようになるだろう。

 

7月14日  神や人を裏切る人々   Uコリント121113

[新共同訳]  コリントの信徒人へ手紙二

 12:11 わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。

12:12 わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。

12:13 あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。

 

 自分たちを大使徒と名乗る偽の指導者達に対してコリントの信者たちは、世話になったパウロの擁護をせず、パウロの側に立つこともせずに、反対者たちに教会をかき回させてしまった。それで、パウロはコリントの教会を守るために、自分の働きとその結果としての奇跡、不思議、力ある技を対抗して語らざるを得なかった。パウロによって伝道され、回心し、教えられた人々が、パウロの側に立って惑わされなければ、そんなことは必要のないことであった。ところが彼らは、断固として悪と戦うということ、善悪を見定めること、意思決定を行うこと、発言し行動をとるということが出来なかった。

 

  私は最近、決断の出来ない人が多くなっていることを危惧している。失敗を恐れているのである。たとえ、失敗しようと自分の判断であれば、それはよい経験につながり、得るところは大きい。アメリカであれば、ナイストライ(よく試みた)とか、ドントマインド(気にするな)とか言われることを、ダメじゃないかとか、努力や準備が足りないから失敗したんだ、とか責められることが多い。失敗を前提とした社会と失敗を許さない社会の違いは大きい。

 

  エロスの愛は感情的なものであり、友情はそれに情緒的なものが含まれるが、やはり、状況に囚われることが多い。それに対して、アガペーの愛、神の愛は、意思的なもの、犠牲的なものである。それを例えるとき、父や母の愛を崇高なものにして説明することがある。父や母が自分を犠牲にしてまで子供を守り育てるときの決断がその例である。

 

  アガペーの愛は、状況に左右されるものではない。相手のよし悪しによって、影響されるものでもない。自分の利益都合を考えるものでもない。

 

  私は社会が損得によって判断をするようになり、親が子供を自己犠牲的に育てなくなったために、正義や愛のために決断をするということができなくなったような気がする。  

 

人々は損得のためには判断が出来る。ところが、性格の良い人、優しい人、そして悪から立ち返り神を信じたクリスチャンに決断ができなくなっているケースが目立つ。それは、その決断が失敗したり、うまくいかなくて人々の迷惑になること、神の栄光を汚すことを恐れているのである。しかし、実はその背景には、神の絶対的な許し、愛を知らないので、行動が取れない、決断できないということがある。

 

このコリントの教会のように、立場をはっきりとせず、決断をしないと、結局は悪に加担したり、人を傷つけるような場合が多い。パウロは、コリントの教会に負担をかけなかったことが、このような優柔不断な甘えを生み出してしまったと反省する。

 

  信仰者の人生は、何度も何度も自分の能力・判断・性格に依存して失敗し、神に委ね拠り頼むことを教えられることの積み重ねによって、キリストを土台として築き上げられる。自分の罪深さ、能力の限界、多くの試練を体験してやっと、自分を土台にしない人生が築き上げられるのである。それなのに、多くの信仰者がこの決断が出来ない。

 

  「心の堕落している者は自分の道に甘んじる」箴言14・14

 

  「正しい道を捨てる者には厳しい懲らしめがあり」箴言15・10

 

  「愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす」18・2

 

  「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い」24・10

 

  「人を恐れると罠にかかる。しかし主に信頼する者は守られる」29・25

 

神を信じた決断をしないで、神に委ねているというのは偽りである。神は私たちの罪深さをご存知で、私たちを救ってくださったのであるから、いまさら、神に何も出来ないことや罪深さを悔い改めても、それは神を信じていないことの証拠でしかない。

 

  神を信じないで、信仰の決断をしないでいると、必ず問題は多くなってくる。あなたの友人、心を通わせる友はいなくなってしまう。欲望があなたの動機となり、名誉、権力、富、快楽に心が向き、思い通りにならないことを不満を抱き、イライラが増してくる。そして、人と争うことが多くなり、ついには社会的にも家庭的にも健康にも破綻が来ることになる。神に悔い改めて祈ることも出来なくなり、教会に出席することもしなくなる。

 

  信仰の決断で、失敗することも、人から非難されることも、思い通りに行かないことも覚悟して、それでも神に喜ばれること、正しいことを行うべきである。神を求め、誠実に生きるならば、問題が起ころうと、うまくいかないことがあろうと、神からの平安を得ることができる。

 

  私の人生は試練と苦労があり、思うとおりにいったことはほとんどない。教会は賃貸で、個人的には借金を抱え、病気持ちである。しかし、人に裏切られても裏切ったことはなく、神は今も私とともにいてくださる。主に信頼する者は、なんと幸いなことだろうか。

 

7月21日  信仰の成長のない人々   Uコリント12章14〜21節

 

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

12:14 今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。

12:15 ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。

12:16 あなたがたに重荷は負わせなかったにしても、私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったのだと言われます。

12:17 あなたがたのところに遣わした人たちのうちのだれによって、私があなたがたを欺くようなことがあったでしょうか。

12:18 私はテトスにそちらに行くように勧め、また、あの兄弟を同行させました。テトスはあなたがたを欺くようなことをしたでしょうか。私たちは同じ心で、同じ歩調で歩いたのではありませんか。

12:19 あなたがたは、前から、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと思っていたことでしょう。しかし、私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する人たち。すべては、あなたがたを築き上げるためなのです。

12:20 私の恐れていることがあります。私が行ってみると、あなたがたは私の期待しているような者でなく、私もあなたがたの期待しているような者でないことになるのではないでしょうか。また、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動があるのではないでしょうか。

12:21 私がもう一度行くとき、またも私の神が、あなたがたの面前で、私をはずかしめることはないでしょうか。そして私は、前から罪を犯していて、その行なった汚れと不品行と好色を悔い改めない多くの人たちのために、嘆くようなことにはならないでしょうか。

 

今日、私の親友の牧師が教会で牧師批判の公聴会を開かれるという。とりなしのお祈りをしていると、自分への非難が相次いだ10年ほど前のことが思い起こされる。私は牧師批判を一概に悪いものと思ってはいない。牧師批判、教会批判は以下のような理由、人々によってなされる。

 

@.教会をより良くしようとする人々。

A.教会や牧師の欠点、弱点が気になる人々。

B.教会や牧師のことがわからない人々。

C.教会や牧師に悪意を持っている人々。

 

私自身、教団や他教会、そして教会員に対して意見や考えを持っている。昔は教団批判を公然とし、過激な他教会を非難し、熱心でない教会員を指導したこともある。そのような中で私への非難は神の導きであった。私は自らへの非難を正当と認め、言い訳をしなかった。そして、非難をする人々のとりなしの祈りを続けた。私が牧師らしくなったのは、この自分を非難する人のために祈る使命を悟ったからであった。私は指摘されるように未熟である。しかし、私は、非難する矢はその当人にも返ってくることを知っていた。主の祈りにもあるように、「自分に罪を犯す者を許すと、自分の罪の許しを確信することができる。」のである。私はモーセが自分を非難する者のために自分の命をも差し出してとりなしをする(出エ32・32)という霊的指導者の指名を祈りの中で示されていた。そして、自分の感情のままに行動し、口に出す人々を愛されたことのない迷える羊のように思えたのであった。

私を非難した人々の結果は以下のとおりである。

 

@.教会員を引きつれ自分の教会を始めた。→教会は潰れ行方知れずになった。付いていった人々は教会を離れた。

A.教会員を誘い、他の教会に行った。→更に教会を変えた。他の教会員も違う教会へ行ったり、信仰を離れた。

B.自分だけで教会を変えた。→家庭が崩壊したり、精神疾患に陥った。他の教会でも問題を起こした。

C.妥協してそのまま居ついた。→いつしか問題が起こり、信仰も不安定のまま、祝福がなく教会を離れた。

D.牧師と和解したり、罪を悔い改めた。→健全な信仰生活を保ち、主の弟子として成長している。

 

さて、パウロを非難する人々はどんな人であろうか。

 

@.人を欺く働きをする偽使徒(11・13)

 

A.優柔不断な信徒(12・11)

 

B.負担や義務を負わない、負えない信徒(12・14)

 

C.争いや罪を繰り返す祈りと誠意のない信徒(12・20)

 

D.汚れと不品行を繰り返す偽信徒(12・21)

 

聖書はハッキリと教会に偽信徒或いは堕落した信徒が入り込み、教会をかき回すことがあることを指摘している。ある人々は、教会にそういう人々がいることに戸惑うことがある。しかし、価値有る物には必ず偽物が現れるように、教会が尊いゆえに、教会には必ず信者を装う人々が忍び込むのである。彼らは意図的に入り込むのではない。「御霊のことは御霊によってわきまえる。」(Tコリント2・14)とあるように、生まれながらの人は教会のこと、聖書のこと、救いについて、わからないのである。それをこの世の知恵によって解決しようとするから、救われる前のパウロのように、信仰をもって歩む教会や牧師を攻撃するのである。

 

イエス様は何度も痛烈に律法学者やパリサイ人を攻撃された。それは、「盲人を手引する盲人」(マタイ15・14)のようなものであり、「彼らは言うことは言うが、実行しない」(マタイ23・3)人々である。私は信徒で堕落した人も、信徒であると自称しながら信徒でない人も、更には堕落した牧師も知っている。

 

ポイントは祈りである。魂の救われていない人、罪を繰り返す人は祈っていないし、祈れない。また、祈らない人は、簡単に誘惑や罠に陥る。祈りは能力ではない。祈りは成果がわからない。祈りは行いではない。だからこそ、祈りに信仰の真実が現れる。教会の力は祈祷会である。祈りこそ、力である。祈りこそ、山をも動かす神の力である。しかし、現代の教会と信者に祈りがない。祈らない信者が試練に打ち勝つことは、突然マラソンに挑戦するように無理なことなのである。日々のこつこつとした祈りこそが、信仰の腰を強くするのである。

 

7月28日  キリストにあって生きる。   Uコリント1317

 

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

13:1 私があなたがたのところへ行くのは、これで三度目です。すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。

13:2 私は二度目の滞在のときに前もって言っておいたのですが、こうして離れている今も、前から罪を犯している人たちとほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。

13:3 こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。

13:4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

13:5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。・・あなたがたがそれに不適格であれば別です。・・

13:6 しかし、私たちは不適格でないことを、あなたがたが悟るように私は望んでいます。

13:7 私たちは、あなたがたがどんな悪をも行なわないように神に祈っています。それによって、私たち自身の適格であることが明らかになるというのではなく、たとい私たちは不適格のように見えても、あなたがたに正しい行ないをしてもらいたいためです。

 

 山一證券の粉飾決算に始まり、三菱自動車のリコール隠し、雪印乳業・食品の偽装工作と堕落した衛生管理、最近はUSJ、その他、外務省、銀行、建築業界など日本中の経営管理、危機管理がおかしくなっている。ミスや失敗を許さない日本の風土が、ごまかして済まそうという姑息な対応をもたらしてしまった。神の前にも人の前にもごまかしや言い訳は効かない。「すべての事実は確認されるのです。」(1節)という神の前に生きるという自覚、悟りがないのである。

 

  かって教会に問題が起こったとき、私はその人も悪いが、自分の未熟さ、罪深さにも原因があることを認め、とても非難することは出来なかった。次男が問題を起こし続けたとき、私は親としての責任は、PTA会長としての働きや牧師としての献身、さらに父親としての人一倍の労苦にも拘らず、逃れることは出来ないと認め、すべての非難、犠牲、苦労を覚悟した。私には妻子、教会員、従業員、その他多くの人への責任がある。牧師としては、いつも祈っているとか、助言しているとか、ということで、教会員の罪、弱さ、不信仰に関して責任を逃れることはできない。

 

  「人の心は何よりも陰険でそれは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれの生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。」(エレミヤ17・9,10)

 

 13:5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」

 

@.自分の罪をごまかす者は、神の裁きを免れない。

 

教会に来ていることでは免罪符にならない。「そのくらいのことは誰でもやるからしょうがない。」と考えることは、サタンの惑わしである。悔い改めのない者に許しはない。いつも「私の罪を許してください。御免なさい。」と前もって弁解している者がいるが、罪の結果、罰を甘んじて受けようと考えない者は、ごまかしていることに変わらない。わたしは神の前に立てない自称クリスチャンが数多くいることを知っている。

 

A.他人の罪を裁き、とりなすことがない者は、キリストが内在していない。

 

わたし達は恵みによって救われた。自分の功績、努力、行いによってではない。救われていない人は、このことがわからない。だから、他の人のことに関わらないで生きることが出来る。そして、弱者や罪びとを平気で責められるのである。キリストが内在している人は、とても他人の弱さ、罪深さを見過ごしには出来ないのである。

 

  これらのことを聞いて不安になった人がいると思う。その不安を自己義によって隠してはならない。救いとは神にすがることである。勝手に救われたと満足してはならない。はっきりと言います。この2点を確認していない人は魂が救われていません。勝手に乗車券を作っても、神の判が押されていない偽切符は、いざというときに乗車が認められないのである。

 

  祈ったり、聖書を読んだり、信仰を考えたり、奉仕をしたり、いろいろなことをする。それは神とあうための道しるべであるが、だからといって神とあった証拠にはならない。

 

 「人はその口にするあらゆる無駄な言葉について、裁きの日には言い開きをしなければなりません。あなたが、正しいとされるのは、あなたの言葉によるのであり、あなたがつみに定められるのも、あなたの言葉によるのです。」マタイ12・36,37

 

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」マルコ8・34^38

 

  私自身は、このようにして主の弟子になるためにすべてのことをしている。結果は関係ない。牧師という職もあまり関係ない。ただ、神とともに生きるために、くつろいだ時間を過ごすことも重要だと考えている。世界には戦争や紛争の中にいたり、苦難や弱さにあえいでいる人も多い。でもわたしは、それらのことは神に委ね、自分で出来ることをしている。当然、彼らには献金はしている。でも金銭は自分に委ねられたものだから、多くは自分で使い、生かさなければならないと考えている。

 

 なすべきことをしながら、自分の罪深さがすべて神にばれていることを認め、少しずつ反省し、自分を変えている。罪の結果のペナルティーを悟りながら、祝福の道を模索するのである。