5月5日

霊の戦いの武器は信仰による従  Uコリント1016

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

10:1 さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です。

10:2 しかし、私は、あなたがたのところに行くときには、私たちを肉に従って歩んでいるかのように考える人々に対して勇敢にふるまおうと思っているその確信によって、強気にふるまうことがなくて済むように願っています。

10:3 私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。

10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。

10:5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、

10:6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。

 

関東聖会は祝福されたものだった。来年からは関東教区は分割されるので、当分このような大規模の集会は教区ではできないだろう。講師はアメリカで最も大きい3つに入る2万人会員の教会に成長させたバーネット師であった。メッセージに打たれて殆どの会衆が講壇の周りに集まり、膝まづき、涙を流しながら手を上げ祝福を求めているのは感動的であった。その最後の説教で、信仰の道を忠実に最後まで誘惑に陥らず神に仕えるべきことを強調されたのは印象的であった。

  会衆を見ていると何種類かのパターンがあった。

@.食い入るように説教を見つめ祝福と聖書の解き明かし、神の語り掛けを求めている人。

A.義務的習慣的に集い、説教は居眠りをしながら聞き流し、殆ど自分のものとして受け留めていない人々。反応は周りの人々に合わせ、表面的に敬虔なクリスチャンを装っている人々。

B.よくわからず疑問を感じながら集い、あるいは否定的に集会を受け止めている人々。自分の判断、意志を強く持ち、良いものと悪いものを見分けながら、吸収しようとしている。

 バーネット師が「一人でも自分の説教を聴いて神の国の働きを進めてくれればそれで満足である。神はそれをしてくださるに違いない。」と最初に語っておられたが、説教者とはそのようなものである。ともかく、「あなた方が冷たいか熱いかであってほしい。」(黙示3:15)

  先週も語ったが、信仰の倦怠期が来る人々がいる。ジム・ベイカーという著名なテレビ伝道者であった人の末路が聖会で語られたが、誘惑に負けるとサタンはその人の魂を奪い取り、大変な試練に追いやる。不信仰者をサタンは惑わす必要はないから、クリスチャンが生きた信仰を持たないと簡単に餌食になる。

  短期的には3種類のパターンを例示したが、信仰は長期戦である。信仰生活とは、神を信じながら祝福を獲得し、魂をキリストに導くことである。そして、自分がその過程の結果キリストの弟子になっていくのである。それが試されるのが、失敗、弱さ、時間の経過、敵対、迫害などである。そのような失敗は自分の罪の結果であるのに、人々はそれに気がつかない。そして、神のせいにして勝手に失望するのである。

  アブラハムが信仰の父と呼ばれたのは、100歳になっても自分の身体に依存せず、神を信じ続けたからである。モーセはなぜ、壮健な40歳の時ではなく、80歳になってから神に用いられたのであろうか。

  私にとって、この聖句は人生を変えるような体験を与えた。

  神学校2年目の4月に長男主人(モンド)が生まれた。妻は未だノイローゼが言えず、年二回ある医師国家試験に合格できないでいた。5月になって突然妻の両親がプレジデントに乗ってきて、強引に妻と赤ん坊を連れていってしまった。実業家でもあり、地位もあった両親には私たちに説明も要らず、自分たちの判断で私たちに良かれと思ったことを強引にしたのであろう。

  人と争うことを自制してきた私にとっても、屈辱であり、我慢ならないことであった。自分の将来を捨てて献身し、また神学校の成績を放棄しても家事や妻の世話をし、働き通しの私の労苦がまったく報われないことに、神にも抗議した。しかし、祈ると十字架にかかったイエス様のとりなしが幻で浮かんできた。神に従うことの厳しさ、辛さに涙を流しながら委ねたのであった。

  ところが、委ねたつもりが二日もすると寂しさ、苛立ちが増し、断固として取り返そうと、K行きの電車に乗ったのであった。他に乗客も殆どいない車中で、神の励ましのみ言葉を得ようと開いたところが、このページ右上にある4‐6節であった。「私たちの戦いの武器は要塞を破るほどに力のあるものです。」とあるので、力を得たが、「肉のものではない」武器だという。「さまざまな思弁と神の知識に逆らって立つ高ぶり」こそ、あの両親の考えであると勇んだが、「あなた方の従順が完全になるとき」とはどういうことか。何度読んでも、人と争うのは信仰者の道ではないと教えられた。

  他の聖句を探そうとしたが、後の祭りである。この「従順が完全になるとき」という聖句が頭を離れない。自分の信仰が理解されず、苦労が認められない無念、妻と別れて過ごす寂しさをすべて神に委ね、神がすべてを益としてくださることを信じた。

  あれから二十一年経った。失望するのは簡単である。愚痴や言い訳は信仰を損なう。非難され、試練に遭い、嘆きや悲しみは数知れない。しかし、神に従うことだけが、私の基準である。報われなくて当然、理解されなくてもかまわない。神に従うということは、この世の知恵やはかりごと、損得を超えたものである。「自分を捨て自分の十字架を負って」イエス様に従う者にこそ、神は御国の祝福の鍵を下さるのである。

 

5月12日

夫婦が愛し合うという奥  エペソ52264  

5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。

5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。

5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。

5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。

5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり

5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

5:28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。

5:29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。

5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。

5:31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」

5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

5:33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。  

6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。

6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、

6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。

6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい

  

ハーバード幼児教育プログラムの調査で、男女のコミュニケーションの相違点が明らかにされた。女の子は口から発せられる音の百%が言葉として認識できるものであるが、男の子は六十八%しか言葉として認識できなかったという。残りは、「ウー」、「ブーン」、「ドカン」などという擬声音だった。教育者は言語病理学の問題を抱えているのは十中八九男性であると指摘する。調査では男性の一日に使う言葉数は一万二千五百で女性は2万5千と倍も語る。ともかく男性が女性よりコミュニケーションが下手であるということは統計を見なくても皆が同意すると思う。

  家族を味方につけるのは母親の方がうまく、父親は煙たがられる。男性は目的志向が強いが、その目的が自分だけのものが多く、周囲特に家族の同意を得られることは少ない。従って母の日は皆に尊重されるが、父の日は、義理的な意味合いが強い。社会が豊かになると生存や食の保証はされるので、男性の価値が低く見られてくる。他方、女性はコミュニケーションに長けているので、評価が高くなる。

  スポーツ例えばゴルフをするにしても女性と男性では全然違うように思われる。家内は練習場で、スコーンと気持ちよく当たったとか、遠くへ飛んだ、ということに関心があり、私はフォームがきちんとしているか、コースの状況に応じた打ち方が出来るかなどに関心があり、スポーツを自己訓練の一環に考える。女性は楽しくプレーすることに関心があるが、男性は女性にフォームやマナー状況への対応をいちいちアドバイスをして嫌がられる。男性はそれをきちんとしないのが嫌で、普通夫婦でゴルフをすると、終わりの頃は大喧嘩になると言われる。

  聖書は、妻には夫に従順であれと言い、夫には自分の身体を愛し労わるように妻を愛しなさいと言う。つまり、男性と女性の求めるものの違いを的確に指摘し、相手のニーズに合わせて行動するように指導するのである。ところが実際は、夫は妻に従順を要求し、妻は夫に愛を要求する。同じことなのであるが、自発的にするのと要求されるのでは天地さほど大きい違いがある。

  仕事に疲れ、或いは社会のストレスに疲れた夫に対して、その愚痴や苦しみ悲しみを聞くことなく、妻は家庭を大事にすることを要求する。夫婦の楽しみや子供のことなど、妻の話や気持ちに関心を示すことなく、夫は、自分の仕事の助けになることを妻に要求する。

 人がなぜ、裕福になることを願うのかと言えば、裕福になったら妻は自分を尊敬し従ってくれると男が思い、女は夫とロマンチックな生活ができるからであると夢見るからである。ところが罪はそんなに甘いものではない。

  今日は母の日である。母の子供に対する献身的、犠牲的な生活はいくら感謝をしても足りない。でもそれでは父親は家族のために献身的犠牲的に暮らしていないのかといったら、そんなことはないと思う。でも、誰も父親を認めていない。

  だからこの母の日に私は、男性に説教をしたい。父の日に感謝をされ、家族に感動的な思い出を与えるような男性になるべきである。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」

  私は一九七八年十二月、私を必要としている良子さんのために自分の人生を捧げようと決心した。大学教員を目指す研究者にとって、女医になる人と結婚することは困難であることを知っていた。まして、彼女は精神的状況的に不安的であった。それでもこの一人を幸せに出来るならば私の人生は意味があると思った。しかし、結婚を前提に交際してみると、ことは容易ではなく、この人と結婚するならば、献身するしかないと葛藤することになった。大学教授というのは名誉であろう。社会的にも安定している。それでも神の迫りに従うしかなかった。

  今でも私はこの妻に自分の人生を捧げている。妻が院長、私が事務長ですべてのことを補佐し取り仕切り、それでも社会的には私は家内の下、副である。そして家内がその賜物を発揮し生き生きと生きることに喜びを感じる。子供の為にも、いつでもすべてを注ぎ犠牲にしても構わないと覚悟している。先日、次女のマリヤに、お前が生まれるためにクリニックが潰れることも覚悟して記念にマリヤとつけたのだといった。

  母親がどうしてこれほど、理想として大事にされるのだろうか。それは今や希少な自己犠牲的な生き方の代名詞だからなのだろう。女性たちよ、これからも自己犠牲的に生きて、人々に感動を与えてほしい。そして、男性たちにも、同様であってほしい。「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い」(マタイ10:39)とあるように、自分の権利、欲求を犠牲にして他の人を愛するならば、キリストにあるいのちにみなぎるだろう。

 

 

5月19日

 賜物として聖霊を受けるでしょう  使徒21238

[新改訳]  使徒の働き               
2:12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言った。
2:13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。
2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
2:15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
2:21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
2:27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
2:28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
2:29 兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。
2:30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
2:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。
2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
2:34 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。
2:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』
2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

犬の躾に苦労しているが、諦めずに四、五回繰り返して指導すると悪さをしなくなる。従順になるには犬も飼い主の厳しく且つ忍耐を持った愛情のある躾が必要なようである。但し、犬でも躾が出来るのは生後八ヶ月までで、その後はもう難しいそうである。犬は一歳で二十歳に相当するそうだから、人間の年齢では十五歳くらいであろうか。

人間は犬のように主人だけを見つめ、その環境で育てられることがないので、従順を訓練されるのが難しい。情報は増えれば増えるほど、その処理に困ることとなる。最近のような情報社会では、子供たちは勉強、娯楽、健康、スポーツ、芸能、ファッション、その他多くのものを知らなければならず、何が本当に大事なものなのか、判断が出来なくなってしまう。愛され、守られることを知らないで育つと、従うということ、委ねるということが出来なくなってしまう。従順を装っても本心から従うことは出来ず、必ず逃げ道や保障手段を確保しておくことが多い。

ペテロは、イエス様の筆頭の弟子として誇りを持っていた。そして、命がけでイエス様に従うと公言していた。このような自負も自分を駆り立てる建て前や自慢でしかない。イエス様を裏切り、逃げ出したペテロは、「わたしを愛するか」というイエス様の問いかけに対して、「あなたがご存知のとおりです。」としか答えられない。主は「わたしに従いなさい。」(ヨハネ2119)と語りかけられている。

ペテロは、イエス様を守るために剣を抜き、大祭司の僕の耳を切り落としてしまった。熱心さ熱血さはある。ところがイエス様が捕まると、三度もイエス様の弟子であることを否定している。

信仰熱心で神に祝福を願い求め、うまくいっているときは良いが、一たび挫折すると急に自身がなくなり、弱気になる人が多い。信仰はうまくいかないときこそ、試され、その真実が現れる。神のすばらしさを伝えるために人生に勝利したい、成功者になりたいという人がいるが、そういう人はうまくいかなくなったら、神を呪うのだろうか、伝道をやめるのだろうか。ペテロもイエス様を裏切ったという罪責感から伝道をする気力を失い、なじみの仕事の漁を始めた。それでも全く獲れず、気が滅入るばかりだった。

人生において失意の時はある。わたしも勇んで献身したが、十年間は全く良いことがなかった。他の人は祝福されるのに私は祝されない。船津牧師は、私のことを洗礼も献身も船津師の第一号としてうれしそうに紹介してくださるが、私の教会員一号は精神病者だし、洗礼一号は問題を起こして教会を離れた信者の息子だった。今回も五百五十万円も掛けた教会墓地に成田の教会員が最初に入ることを希望している。最近は苦労が報われない運命なのだと悟りを持ってしまった。

  自分に自信がない。だからこそ、主に従えるのである。自分の能力、運などに期待していると、それに掛けてしまう。そういう意味では、うまくいかないほうが良いとも言える。ともかく、ペテロは、主の命令を忠実に守った。そして祈り続けたのである。

  祈りは信仰のバロメーターである。能力に自信のある人は、何をしようかと考え、準備をし、計算するが、祈ることをしない。自信がなく、希望もない人は何もしない。今年の教会テーマは「志を堅固にして歩もう」あるが、神に希望をおいて祈りを続けることは大事である。

  聖霊のバプテスマを受けたペテロは変わった。聖霊バプテスマは力の源である(使徒1:8)。臆病に逃げ隠れしていたペテロが大胆にエルサレムの人々に悔い改めを迫った。

  「主であり、救い主であるイエス様を、あなた方が十字架につけたのだ」と人々を断罪した。義人はいない。正しい人はいない。すべての人が罪びとであり、自分のことだけを考えている。そして、イエス様を十字架につけてしまうのである。

  聖霊のバプテスマは求めて与えられるものではない。自分の罪を認め、悔い改めて神に自分を明け渡したときに、神と繋がり、聖霊が注がれるのである。

  なぜ、聖霊のバプテスマを受けると力を受けるのか。それは、もはや敗北や挫折、恥を気にしなくなるからであり、聖霊が私たちの中に入って常にとりなしをして下さるからである

 

5月26日

自分を誇り他の人を押しのけてはならない。   Uコリント10718

[新改訳]  コリント人への手紙第二    10:7 あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、自分でよく考えなさい。

10:8 あなたがたを倒すためにではなく、立てるために主が私たちに授けられた権威については、たとい私が多少誇りすぎることがあっても、恥とはならないでしょう。

10:9 私は手紙であなたがたをおどしているかのように見られたくありません。

10:10 彼らは言います。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」

10:11 そういう人はよく承知しておきなさい。離れているときに書く手紙のことばがそうなら、いっしょにいるときの行動もそのとおりです。

10:12 私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです

10:13 私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。

10:14 私たちは、あなたがたのところまでは行かないのに無理に手を伸ばしているのではありません。事実、私たちは、キリストの福音を携えてあなたがたのところにまで行ったのです。

10:15 私たちは、自分の限度を越えてほかの人の働きを誇ることはしません。ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたによって、私たちの領域内で私たちの働きが広げられることを望んでいます。

10:16 それは、私たちがあなたがたの向こうの地域にまで福音を宣べ伝えるためであって、決して他の人の領域でなされた働きを誇るためではないのです。

10:17 誇る者は、主にあって誇りなさい。

10:18 自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。

 競争社会の論理を教会の中に持ち込んでいる人々がいる。教会の中で指導者になりたがったり、信仰の奥義をたくさん身につけたがるのである。はっきり言って牧師にもそういう人々が多く、大教会を形成して台牧師になりたいと思っている。

子供も経済的に許せば多ければ多いほど良いと思う人々もいれば、大変だから子供を産みたくないという夫婦も最近はいるそうである。私はすべての人が適当な愛し合える家族を持ち、その家族同士がまた仲良く交流するのが聖書的な人生観だと思っている。教会もあまり多くなると興行のようになり、お金を払って感銘的な話を聞き礼拝を味わう、というようになるのではないかと危惧している。

鈴木宗男議員の思いは如何なものだろうか。一生懸命立身出世を図り、多くの人、企業に便宜を与えて名を成し、財を成し、力を得た。得意の絶頂であったはずが、突然、便宜を与えてきた人々に裏切られ、告訴され、非難をされてしまった。本人としては誰もやっていることで、目立ちすぎたからまずかったというくらいの認識であろう。

パウロに対する批判も大きく多い。しかし、パウロの反論は以下の要点であろう。

1.自分を他人の尺度で評価されたくない。10節

2.他の人と比較して非難したり、吟味するのはおかしい。12節

3.自分の行動は限度をわきまえたものである。13節

4.自分の働きの成果が出たら、他の働きをするまでである。16節

5.他の人の働きに干渉し、その働きにでしゃばるな。16節

6.自分は神に従って行動している。18節

 

これらはなかなか独善的な判断である。危ないか健全かは以下のことで吟味できるだろう。

1.その働きの成果、結果から利益を搾取していない。

2.働きの構成員を支配、牛耳っていない。

3.働きの成果が出ると、また他の働きを始めるために離れる。

4.人と会うとき、偉そうでない。

5.きちんと論理的な判断、指導をしている。

 

  信仰者でも自分に自信を持ち、一方的に自慢したり、自分の領分に入れようとする人がいる。牧師でも、自信家は自分の教会こそ神の祝福があるのだから(信者や来会者がいう)、他の教会から自分の教会に移ったほうが良いと、うぬぼれる人がいる。自分の追従者が多いことによってしか、自己確認が出来ない人は哀れである。如何に他人の評価が高くても自分の妻子に評判が悪い人は、自己満足であって、いつしか宗男さんのように裏切られるだろう。パウロもイエス様も裏切られたが、その後が彼とは違う。

  パウロがコリントの教会にこの後に書き続けることは、「強くなろうとするな」であると思う。

 「私は自分の弱さを誇ります。」11:30

 「キリストの力が私を覆うために、むしろ喜んで私の弱さを誇りましょう。」「私が弱いときこそ、私は強いからです。」12;9,10

 「私たちもキリストにあって弱い者ですが」13;4

 

 「強くなろう。」、「信仰の勇者になろう」、などと信仰書や、キリスト教の集会で言われる。それは「主にあって」であって、この世の強さを求めるものでも、栄華を求めるものでもない。

  終末の様相が多く現れてきた。今や霊の戦いは激しいものであることを悟る必要がある。この世の争いや競争などに目をとらわれることなく、魂の獲得に勝利を得ようと必死にならなければならない。家族を友を救いに導くために、強く雄雄しくあって欲しい。しかし、日常の生活は、人々に仕えるものであるから、パウロのように「弱弱しく、その話し振りはなっていない。」(10節)くらいであってかまわない。

  妻を伝道するために家事仕事をしたり、柔和になり怒らなくなって何の恥ずかしいことがあろう。間違いを指摘するよりも、間違いに気がつかない振りをする人間になりたいと願っているのだが、私はまだまだ罪深い。間違いを指摘しても、その人が罪を意識し、悔い改めることはほとんどない。自分は真理の中を歩み決して、罪に妥協せず、しかし、他の人の罪に関しては心から同情しとりなすことによって、御霊による悔い改めが導かれるように思う。主のとりなしこそが、ペテロやパウロの認罪を導いたのである。