3月3日

 汚れから自らを清め聖きを全うす  Uコリント7110

[新改訳]  コリント人への手紙第二 7:1 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

7:2 私たちに対して心を開いてください。私たちは、だれにも不正をしたことがなく、だれをもそこなったことがなく、だれからも利をむさぼったことがありません。

7:3 責めるためにこう言うのではありません。前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。

7:4 私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって、私はあなたがたを大いに誇りとしています。私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。

7:5 マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。

7:6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。

7:7 ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました。

7:8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、

7:9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。

7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

 

  パウロは「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」と言い、また「だれにも不正をしたことがなく、だれをもそこなったことがなく、だれからも利をむさぼったことがありません。」と言うが、これは信仰者にはプレッシャーである。「責めるために言うのではありません」と言われても、負担は大きい。

さらに、「あなたがたに対する信頼は大きいのであって、私はあなたがたを大いに誇りとしています。」と言われると逃げ出したくなる。

  教職研修会が伊豆伊東であった。190名の牧師が集まると牧師観察だけでも面白い。老若男女、才気、剛毅、朴訥、多弁、寡黙、強壮、虚弱、多血、憂鬱・・・・・・本当に多彩である。人間的な能力があるからと言って、うまくいくとも限らず、うまく言っていると自認していても他から見ると堕落ではないかと思われることもある。信仰の世界は外部者には不可解なものであろう。

  しかし、友と語りあうことは、やはり、すべてが表に出てくるし、人格を形成するという結論である。ごまかし隠しているようでも、神にも人にもばれている。教会が大きくなるとか、経済的、社会的に成功するとか、を超えて神の祝福と臨在が、その人に現れ、その人を形成している。弓山師の記念会もあり、その美談も弱点も披露されたが、それでもイエス様の十字架の死の時の百人隊長の証言のように「本当にこの人は、正しい方であった。」(ルカ23:47)偉大であった、神の器であった、という感慨が泣き笑いの中に一同を満たした。「教団葬はこれが最初で最後だ。」という言葉は、この方以外に教団葬をしたら、弓山師に申し訳ないという思いから来たものである。

  私も神学校を卒業して19年になる。過失(自動車運転違反など)以外には犯罪をしたことはない。意識的には不正をしていないと思っている。争いを持ちかけられたことは何度もあるが、争いに応じたことはない。言い寄られた(?)こともあるかもしれないが、反応をしたこともない。利益は得てきたが、貪ったということは決してない。利益を出せば出すほど、流すことを(他の人に分ける)義務として自分に課してきたつもりである。

  牧師達との会話で宝くじで3億円当たったらどうするか、という話が出た。教会のためには、そのまま奉げるのは健全でなく信徒を甘えさせるという声が多かった。私は、もし3億円当たったら、そのまま教会に奉げると言った。そして、私が経済的に祝福されているのはこういう覚悟、意識があるからであるかなと自分で思った。彼らは、失礼ながら大きなお金をそう持っていないので現実感覚がないから、夢としてどう使おうか思い描いている。私は何度も倒産の危機を乗り越えているから、その度に自分のものか神のものか意識を問われてきた。神に捧げ任せたものだという確信を得たから、前進ができたのである。自分の時間、富、能力も、すべて神に捧げ、神にあって生きる姿勢があるなら神が祝福してくださる。

  私は当然、完全ではない。思いは罪深く。腹が立つこと、いやになること、逃げ出したくなることはある。しかし、私の中に居られる聖霊が、悲しみ、私をとりなし、私は罪を犯そうという肉の働きから守られ、それがまさに自分自身の罪であることを認め、悔い改めてきたのである。

  自分を罪から守ってきたのは自分の力、意思ではない。内に居られる聖霊の働きである。ところが、残念ながら、実際には多くの人がこの聖霊の感化を受けられず、罪と欲、思い煩いの奴隷になっているのである。罪の奴隷は死にいたる。ローマ書6章11から23節まで読んでほしい。

  この世の成功、不成功に捉われない人格、平安、御霊の実を獲得しただろうか。自分の罪の性質にはっきり向き合わなければならない。私は十一献金を厳守している。収入の十分の一を捧げるということは、収入が多くなるほど、意識的にならなければできない。そして、さらに自分の与えられた物を他の人に流すということを義務として心がけている。しかし、それは物欲に捕らわれている人には決して流さない、自分への報いを求めないという、原則に沿って行う。同様に、教会員を牧師の個人的なことに用いない労させない、教会の働き、収入は必ず、他に流さなければならないという戒律的な意識をも自分に課している。そこにこそ、教会が祝福されると信じている。自分も教会も神のものであるという意識が、「聖」という意味である。

  昨夜、鹿嶋市長である家内の兄の市政報告会に出席した。日本の市長の中で最も薄給であり、口座はすべて公開しているという。4年間一生懸命節約し26億円浮かせたという。確かによく私心なく働く兄である。家計は火の車である。いつまで続くかわからないが稀有な市長である。未信者に負けてはいられないと思いながら5千人集まる生甲斐をうらやましく感じた。

 

3月10日

御ことばに打たれた悔い改  Uコリント7916節 

 

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

7:9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。

7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

7:11 ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明したのです。

7:12 ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは悪を行なった人のためでもなく、その被害者のためでもなくて、私たちに対するあなたがたの熱心が、神の御前に明らかにされるためであったのです。

7:13 こういうわけですから、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らぎを与えられたからです。

7:14 私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。というのは、私たちがあなたがたに語ったことがすべて真実であったように、テトスに対して誇ったことも真実となったからです。

7:15 彼は、あなたがたがみなよく言うことを聞き、恐れおののいて、自分を迎えてくれたことを思い出して、あなたがたへの愛情をますます深めています。

7:16 私は、あなたがたに全幅の信頼を寄せることができるのを喜んでいます。

 

聖書のことばを聞いても行わない人は、自分の顔を見て繕い、チェックするだけで後は忘れてしまう人のようである(ヤコブ1:23)。このような礼拝や説教も聴いたときは、自分をチェックするが、他の人にどのように自分が思われるか自分の行動を外面的に改めようと思うだけで、すぐに忘れてしまうことが多い。人は自分の行動をいつも肯定しているのである。だから、説教でも聖書でも、自分の考えや行動が間違っていると指摘されるような場合には、それを否定したり無視したり、他の人はもっと悪いと言い訳を言ってしまう。

 「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教は虚しいものです。」(ヤコブ1:27)とあるように、自分の非を認め、改めるということは難しいものである。

  ダビデ王が息子アブシャロムの反逆に遭い逃れるとき、シムイがダビデをあざ笑い呪った。家来たちがシムイを殺してしまおうかと聞いたとき、その非難と呪いは罪を犯した自分に対して的を得たものであるから言わしておけと命じた。しかし「主は私の心をご覧になり、今日の彼の呪いに代えて、私に幸せを報いてくださるだろう。」(サムエルU16:12)と語っている。

1.ダビデは罪を犯したことを認めている。

人は皆罪びとである。善人はいない。自分も他人もすべて罪によって支配されているということを認めない。マズローの欲求階層説というのが有名であり、自己実現欲求が最高次の欲求であると強調されるが、人が罪びとであるならば、それは自己中心的なものとなり、他を阻害してしまうので実現は不可能となる。自分の罪性を認め、自己放棄をしてこそ、自分の活動と思いが人を阻害し拒絶するものでなくなるので、自己の最高の発揮がもたらされるのである。

2.ダビデは罪の結果の不幸、咎、災いを受け入れている。

罪を認めるということは、その罰を受け入れることによって証明される。日本社会には神がいないので、人が人を裁く決定権を持っているように思われてしまう。人が許しても神が許さない。また神がおられるので、人は人の罪を裁けないということを知らなければならない。謝るだけで済ませてしまう躾こそが社会崩壊の原因である。不正をした会社や人物が次々に露呈している。それを裁いている人は自らも裁きの時が近づいていることをわかっていない。

3ダビデは真の悔い改めこそ、神の祝福の源であることを知っていた。

自らの非を認めず、人を裁く人は、災いをもたらす経緯に気がつかない。災いはすべて人の罪から来る。自分の不運を悪運や世の中のせいにしてはならない。幸運が信仰や善行によって来るとも限らないが、幸運に勝る祝福が、神から来ることをダビデは知っていた。

 このようにして、「神の御心に沿った悲しみ」とは、神のことば、聖書から与えられるものである。そして、熱心になって、自らを改め、咎を負って生きようと決心をさせるのである。取税人ザアカイは、イエス様に出会って罪を認め、自分の財産の半分を貧しい人に与え、騙し取った物は4倍にして返すという行動をとった。おそらくほとんどの財産はなくなるだろう。しかし、それを覚悟するところが、罪を認めるということなのである。 

  不正なことをした雪印食品はつぶれる。不正な利得を得ようとした多くの会社が倒産をしてきた。不正な診療報酬の請求をした病院もつぶれる。そのように不正というものは、人や会社、組織を滅ぼすものである。

  「うそも方便」ということがあるが、クリスチャンたるもの、決してこの世をごまかしで生きてはいけない。「あなた方は、自分たちがすべての点で潔白であることを証明したのです。」(7:11)

 

3月17日

今 は そ の 時 で す。  ヨハネ4章3-26節 

 

 

3月24日

キリストにある豊か Uコリント819

 

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

8:1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。

8:2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。

8:3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、

8:4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。

8:5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

8:6 それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。

8:7 あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。

8:8 こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。

8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

 

 ヨハネによる福音書一章に、「キリストの満ち満ちた豊かさの中から恵みの上に恵みを受けた」(16節)と書いてある。恵みの上にとは能力や行いではなく神の恵みによって救われたその上にということである。その救いの上にさらに、祝福を受けることを恵みの上に恵みという。

   しかし、この恵みの上の恵みは、それを求めると最初の恵みである救いを失ってしまうこともあるという厄介なものである。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

とあるが、「神にも仕え、富にも仕えるということはできません。」(6:24)というように、富に仕え、富を求めると神を信じ従うことができなくなってしまう。

  多くのクリスチャンが、魂を救われるという恵みを受けたのに、そのすばらしさを次第に忘れ、この世の術に知恵と力を注いで生きようとしてしまう。アメリカでは人生を何によって建てるかというメッセージを語るように導かれた(Tコリント3:9〜23)。木、草、わらで建てるなら、それは簡単に建つ。それらは、目に見える地上のものであって、知恵や力、努力で集めることができるものである。しかし、火によって、その建物は焼き尽くされ何も残らない。人生の真価は、金銀宝石によって建てるかどうかによって試される。金銀宝石は、地に埋まっている。マタイ13章には「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。」とあり、全財産を処分してもその宝を得ようとするものだと書いてある。金銀宝石を得ることはそのように運にも左右されながら、しかし、それを得ようと人生、財産を掛けなければならないようなものである。

  マタイ6章には、いのちは衣服や食物、富よりも大事なものであり、心配したからといってそれを少しでも延ばすことのできるものではないことがイエス様によって指摘されている。

  神の下さる恵みや祝福、真理、御霊の賜物、などは、この世のものではない。この世の打算、知恵によって生きることは、気・草・わらでその人生を築き上げるようであり、何も残らない。それなのに、魂を救われた多くの人が、これらのもので人生を築き上げようとしている。

  マケドニヤの諸教会の信者たちは、コリントよりもはるかに貧しかったのに、惜しみなく富を神にささげることを実行した。

誰にも気前が良ければよいというものではない。「聖書には豚に真珠をあげてはならない」(マタイ7:6)と書いてある。

  今回の私の旅行の目的は、二つあった。ひとつは、娘に私たちが進めている栄養医学はどんなに代価を払っても学ばなければならないということを教えることであった。もう一つは、石原師が苦労して建てた十字架塔のために献金を持参し、それを自らの目で見るということであった。そんなことは教えればよい。献金は送ればよいという人がいる。

  代価を払う、犠牲を費やすということを理解できない人が多い。私たちは命を賭け、労苦を費やし、非難や困難を経ながら、栄養医学を志した。今でこそ、注目されているが、それは人の真似ではなく、そこに大きな価値を見出したからこそ、勝利をし、祝福を得たのである。他方、当教会は、既に多くの家賃を払いながらも未だ会堂を取得していない。私としては目先の利益・計算によらず、教会堂建設ではなく、教会員要請に力を費やしてきたからこそ今の教会の祝福があると信じている。石原師が31万ドルの会堂取得の後、12年と10万ドルも掛けてやっと十字架を建てることができた喜びを知るには行ってみなければわからない。

  損得計算で人生を生きる人は、結局のところ、何も残らない。野村佐知代さんは、脱税してごまかしたお金以上に罰金を支払わなければならず、息子からも裏切られ(正当な行為)、社会的にも、精神的にも多くのダメージを受けることになってしまった。

  すべてのことに富むためには、その本当の価値を知らなければならない。魂の救いの価値を真に知るならば、伝道と教会形成のためにどれだけ力を注がなければならないか、悟るであろう。自分の人生を神にあって、実りあるものとする必要、使命を知るならば、そこにどれだけのものを費やさなければならないか覚悟しなければならない。

  「塔を築こうとするとき、完成にどれだけの費用がかかるか計算しなければならない。」(ルカ14:28)と同様に、自分の魂を救い、主の弟子になるためには、十字架を負い、苦難を覚悟しなければならない。

  今回、多くの費用を覚悟したのに、リョーダン博士の家に泊まることができたり、娘のゴルフシューズや用品、プレー費を払ってもらったり、サンノゼの教会に泊まれたり、多くの利益を得た。まさに恵みの上に恵みを得たという実感である。

 

 

3月31日  

 キリストとその復活の  ピリピ3921

[新改訳]  ピリピ人への手紙    3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、

3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。

3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。

3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 

 イザヤ書五十三章はイエス様の十字架の預言である。イエス様は私たちの罪のために十字架につけられた(53:5)。彼は、痛めつけられ、苦しんだが、ほふり場に連れて行かれる羊のように口を開かない(53:7)。人々は誰も、彼が私たちの背きの罪のために打たれ、死罪になることを気がつかない(53:8)。人々はみな自分勝手な道に向かっていき、自らの罪、咎に気がつかない(53:6)。

  罪とは自己中心であり、人はみな自己中心であって、自分の欲望のために他の人を犠牲にする。先日ゴルフをしたら、そのクラブの競技委員長がスコアをごまかしていた。結局、立派なことを言い、立場が高い人でもスコアをごまかしてでもよい成績をとりたいのである。私は人間とはそんなものと思っているから、別に怒りもせず失望もせず、プレーを続けていた。無論私の成績はひどいものであった。

  多くの人が、立派な人が存在し、人格も能力も天与のすばらしい人がいて、自分などと比べようもないと考えている。しかし、聖書ははっきりと、「義人はいない。悟りのある者はいない。神を求める者はいない」(ローマ3:10,11)といっている。

  政治家の不正暴露が続いている。会社も、社長も、警察官も、税務署員もみな罪が暴露されている。人を崇めたりあこがれたりする人は、人につまずいたりだまされたりすることも多い。私は人につまずいたり失望することはまったくない。

鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。イザヤ2:22

  自分の力も過信してはならない。あまり力むと失敗する。うまくやろう、成功しようと短期的に頑張りすぎると、心身、霊性ともに落ちてくる。休みなく働く人は必ず、病気になり、家庭が崩壊し、乱費することになる。ところが、罪人は、自分のためにならば、いくらお金を費やしても惜しくない。遊興にお金を掛け、健康維持や、精神的安定に時間や財をつぎ込む。自分の趣味や興味にも投資する。

  対して、神の定めは簡単である。

神以外に第一のものをもってはならない。自分勝手に信仰を振りかざしてはならない。安息に地を守れ。両親を敬え。殺人、姦淫、盗み、うそ、貪欲を禁じている。

これらのことを守れば、心身の健康は維持でき、長い人生の中でかなりのことをやり遂げられるだろう。ところが人は、キリストがされたように、神や人を愛し続けるが故の苦しみを耐えようとしない。パウロは、七節で「得であったことを損であると思うようになり、」八節にはすべてのものが「ちりあくた」に過ぎないと思うようになったと書いている。この世の成功、自分の功績を意識するものは挫折を味わうだろう。神のため、人のためと言いながら、実際は自分の満足のために働いている人が多いのである。

  私は正直言って、今は牧師としての成功や有名になることにほとんど関心がない。神とともに生き、日々のなすべきこと(これがどのようなものか判断するのがむずかしい。)を果たすことで十分である。しかし、これが私には、「自分は捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。」という一事であると思っている。つまり「死者の中からの復活」である。 

  教団の仕事と家族との買い物や家事のどちらが大切かと尋ねられたら、私には、家族のほうが大切である。また、自分の今の生き方を守っていくためには、年齢的にこれから頼まれ負わされる職務は避けたいと真剣に考えている。でも財務局の下働きのような雑事はやってもよいと思っている。変な話だが、欲望の満足になるような仕事が多いのである。行事をそつなくこなしても、任務をしっかりと果たしても、自己満足のような気がしていたのである。結局のところ、どうでも大差ないことに時間や手間、自分自身を掛けたくない。

  祈りや、聖書、教会のために費やす時間が少なくなっている。これは天国人として由々しき問題である。イースターメッセージになっていないかもしれないが、主の十字架と復活を無駄にするような生き方をしてはならない。