2月3日

 キリストにあって新しい歩みをする  Uコリント51117

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

5:11 こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。

5:12 私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。

5:13 もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 

 私は牧師として長い間、心の底に深い失望があった。説教を話しても反応がなく、ただ話を聞いているだけの人々ばかりであり、神の語りかけを信じて行動に踏み出す人は殆ど起こらないからであった。

  現在聖研で学んでいる「ペンテコステ・リバイバル」にトーレーの言葉が引用されている。

  自分の魂の内に神が力強い業を起こしてくださることを願うなら、聖書を読んでいて神の大いなる業を見出すときや、誰かが神の業について自らの体験から語るのを耳にするときには、自分の限られた経験に引きおろして聞いてしまうことの無いようにするべきである。自尊心など捨て、謙遜な思い出で告白するのだ。『これこそ、私の持っていないものである。』そうすれば、あたえられるのである。

そして、失望の中で「神からの語りかけを会衆や教会員に迫るまい、自分に関しては革新的に生きていこう」と思ったものである。自らはクリニックの経営を独自にやったり、本を書いたり、神の語り掛け聞いていろいろと成功してきた。しかし、牧師としては神の語り掛けを迫るといつも猛烈な非難や批判そして、教会を去る人々が起こるので、ただ平凡にとりなしの祈りをしていけばよいと自制をしてきた。

  でも教会員も少しずつ成長してきて、証を持ってきた。神が確かに働いてくださっている。そして心も癒されてくる中で昨年は多くの収穫を得た。活ける神を信じることこそ、人生の鍵である。

  人間的な標準、考え方で人生を考え生きるべきではない。「神は何を自分に望んでおられるのか。」それをわきまえ、そこに従うべきである。「こういうわけで、・・人々を説得しようとするのです。」(11節)。信仰は論理ではない。理性でもない。直感でもない。ちょっと祈って思いついたことを主の導きとするのは愚かであると何度も語っている。でも借金の返済を何年と考え、その中で生活を拘束するのはもっと愚かである。子供を将来のために勉強に強いるのもおかしいが将来を夢見て、今を捨てている愚かさに気がつかないのが罪の奴隷のしるしなのである。

  神が将来を保証してくださるのを信頼して、今を神と共に生きるべきである。過去を振り返ってはならない。将来を案じてはつまらない。私たちはいろいろな情報に惑わされている。思い煩わないように、消極的にならないようによくよく注意しなければならない。

 

人間的な標準とはなんだろうか。

        慣例・慣習  

雪印はラベルの張替えを慣例としてやってきた。罪責感はなくなるだろう。毎日おなじような生活を当然だと思うならば破滅が始まる。食事でも変わったものを作り、仕事も新しいことをしよう。部屋も定期的に模様替えをしよう。同じように神にいつも問いかけよう。

        知識・常識

生まれ、性格、血液型を強調する人は、聖霊の感化を受けることは難しい。他人のことを聞き出すこと、定義づけすることはやめよう。情報に左右されることも危ない。神のみを信じ、神の語り掛けを聞いていれば間違いない。

 アメリカ、サンノゼのI先生の教会堂にやっと十字架が付いたという。土地建物を取得しているのに十年以上、何百万円をかけて、やっと教会堂としての承認が付きそうな状態になったという。腹も立ち、いやになり、くじけそうなことも多かったろう。私も開拓を誰よりも早く始めたのに、卒業後19年経ってもまだ、借家の会堂である。皆に追い越され、いまだに目処が立たない。自分としては打算がなかったわけでない。早く始めることが忍耐を教えられる結果となった。神は、その人の長所が自分の打算に使うものから神に役に立つものになるまでに多くの時と犠牲を費やされる。

  アポロ13号が月から帰ってくるとき、地球から33万キロの彼方で酸素タンクが爆発し、大変な危機の中で帰還した。生き延びた3人の宇宙飛行士はクリスチャンであり、「必ず帰れる。」と信じ続けたそうである。

  人生は目論見どおりにはならない。どうせ結果がそうであるなら。最初から神を信じ、信仰によって自分自身を捉え、神に導かれてあゆもうではないか。

 

2月10日

キリストによる平和使  Uコリント51721

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

 

 

元宣教師のツルネンさんが、国会議員になった。ホームページを見ると、かえって宣教師として力強く活躍しているように思われる。メール・リストにも登録するとよいだろう。フィンランドと神の国から来た大使のようであり、福祉や環境保全だけでなく、テロなどに関する見解など、これから大きな影響を日本にもたらすことを祈りたい。彼はテロについてこう語っている。

テロは民族間の価値観の違いから起こる場合も多く、イスラエルで多発しているテロでは、パレスチナ人側もユダヤ人側も、おそらく心の底から「正しいのは自分たち」であると思っているのだと思う。

  価値観の違いを認め合って、話し合いで譲歩していく。長い道のりでも、それしか道はないと思う。それぞれが自らの信念でもって主張を展開しているときに、片方の者がもう片方の者の口を、力ずくで塞いだとしたら、塞がれた方の怒りはますます強くなるだろう。

日本人は聖書という絶対的な価値観をもっていない。相対的な判断しかできない。人殺しはなぜいけないか教えられていないから、理由があれば、殺してもいいと説得されてしまう。

 雪印の事件で以前読んだ絵本を思い出す。森で狸さんがクッキーかと思うが焼いてお店を開いている。おいしいと評判で動物たちが集まる。なれてきて、少しどんぐりの粉を入れる。みなが気づかないので少しずつ増やしていく。突然、ある日、皆が「この味おかしい、うまくない。」と気が付いて誰も来なくなる。狸さんがあわてても、もう取り返しがつかない。狸だっけの表情が印象的であった。 

 私たちの確信はなんだろう。

1.神は人の罪をすべて知っている。それをごまかすことはできない。

2.善であれ、悪であれ、そのもたらす結果を受けることになる。

3.サタンは誘惑して罪を犯させ、罪人を虜にする。

雪印は牛乳事件で反省せず、ばれていない肉のごまかしを続けてしまった。もはや社会はその反省を信用せず会社は倒産するだろう。政府は、反省を迫り、罰することをせず、生産者を守るためといって国内企業に限定して支援体制をとらせるつもりであるが、自分も同じようなごまかしと汚職をやっているから強い行動、裁きをすることができないのだろう。

 ごめんなさいと言って罪が許されるほど、罪は甘いものではない。人が許し神が許しても、罪とサタンは許さない。私は息子の主勢の非行を、親としての自分の怠慢、至らなさにあると認めて、5年間の苦しみを忍耐し、神の救いを待ち続けながら、積極的に主勢の問題対処、改善に取り組んできた。週に3回は夜回りをし、2回塾の見張りをし、賠償を払い、そして、留学の機会を与え、これでもかこれでもかと時間も金銭も体力も思いも費やし、祈りをささげ続けた。いつしか、この子にはこれだけのものを注ぐ価値があるのだと確信するようになり、懲罰的な意識から犠牲的、摂理的な意識へと変わっていった。その間、子供同士はいつも仲良かったのは感謝であった。でも平均的な親より私ははるかに子育てに関与し、よい親であったという自負もある。それでも、神の目、基準から見たら、やはり、弁解のできるものではない。

  このような絶対的な基準をクリスチャンは持たなければならない。他の夫より妻より良い。ノン・クリスチャンより善良だ。積極的な悪は犯していない。などという言い訳は神の前には通用しない。

  だから、私たちの罪は死に値する。それをイエス様が身代わりになってくださった。自分は死刑だ。でももう裁きはイエス様が受けられた。これを現実のものとして捉えたとき、真の自由が与えられる。もはや罪の法則は私には及ばない。わかるだろうか、試練を耐えられたのは、神が私を許してくださっていることを確信していたからで、他人の罪が私に及ぼうと、その人の罪がどのようであろうと私は許せたのである。

 キリストの十字架による許し、救いを体験し、神が自分を義、正しいとしてくださることを確信するならば、私たちに恐れはない。自分の罪、過去、弱さにおびえることはない。「誰でも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

  しかし、自分の罪を隠す者、ごまかす者に許しの福音は適用されない。許しは判決が下った者にしか、効力がないのである。

  毎日少しずつ犯す罪によって、いつしかキリスト者としての味、塩気がなくなってしまう。周囲の者が、ある日突然、あなたをクリスチャンとしてはおかしい.一緒にいてもうれしくないと言って、去っていき、誰も来なくなったらどうしたらよいだろう。教会や真の信仰者はあなたのためにとりなしを続けるだろう。でも罪があなたを教会に来れないようにしてしまうのである。

 

 

2月17日

神の僕として生きる  Uコリント6110

 

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

6:1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。

6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

6:3 私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、

6:4 あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、

6:5 また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、

6:6 また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、

6:7 真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、

6:8 また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、

6:9 人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、

6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

 

 教団名誉総理の弓山喜代馬師が二月十日に召された。百一歳六ヶ月であった。最後まで信仰深く、頭脳明晰で死の直前の20分前にはっきりとアーメンとしっかりと祈ったので、安心して石原師が集会に出たら、そのまま召されたのだという。

  まったく神の器、神の僕であった。引退してから決して教団政治に口を出さず、人の批判もせず、口車にも乗らなかった。無駄口を利かず自慢せず、人の話をよく聞いて、祈ってくださった。日本アッセンブリー教団の最初の信者の一人であり、神学者であり、教師であり、突出した指導者であり、信仰の勇者であった、。

  さて、この弓山師の生まれが1900年であり次の年にカンサス州トペカのペンテコステ・リバイバルが起こったのであった。使徒の働き2章にあるように聖霊のバプテスマは「終わりの日」のしるしである。ところが、後半の天地の異変は、起こらなかった。それは預言者ヨエルの言葉の成就であるが、そのヨエル書には、初めの雨(種まき)と後の雨(刈入れ前)のことが記されており、1世紀に起こったことは種まき、つまり福音を世界に伝えるための聖霊リバイバルであったことが明らかである。それは、信仰のみによって救われる恵みの時代の到来であった。この2000年間の教会時代はまさに「救いの時、恵みの時」なのである。ところが、刈入れ前の雨が降り終わると後は、刈入れを待つばかりとなる。

  マタイ13章には、畑に毒麦が麦に混じって蒔かれてしまったとあるが、この世の終わり終末には、収穫がなされ毒麦も麦も別に集められることになるとイエス様が言われている。

  弓山師は50年以上前に20世紀はペンテコステ・ムーブメントの時代になるであろうと予言的に語られた。まさにペンテコステ派はプロテスタントの半数を占めるようになり、さらに勢いをまして、沈滞するキリスト教界における影響力を増大させている。ペンテコステ派の特徴は「無学な普通人」(使徒4:13)によって、運営されていることであり、信者の力が強いことである。弓山先生が牧師養成の必要のために中央聖書学校を設立されたが、それは神学校ではなく、聖書学校であった。「リバイバルのためには聖書を学ばなければならない、しかし、神学者はいらない。祈れ、伝道せよ、そして、神を学ぶ神学をせよ。」と弓山師は叫び、多くの伝道者を日本中に送り出した。

  この弓山師が天に召され、ひとつの時代が終わった感じがあったが、確かに後の雨の時代が終わり、刈入れの時が来るのであるという緊迫感も感じてきている。長寿の弓山師がその偉業を終えて召され、人生の意義をも思わせられる。

  弓山師の居宅を新築し捧げたのは、不動産を営むある信者であるが、この方は私の卒業の時も全員にスーツをプレゼントしてくださった。山崎パンの飯島氏、白洋舎の五十嵐氏、カネボウの三谷氏、囲碁やシャルターの西本氏、クリスチャンの日本社会における業績は、過去から現在まで大きく日本を動かしてきた。それはコリント6章にあるようないろいろな困難、非難、迫害、苦しみ、悲しみ、誤解の中で、そういう世の中の流れに左右されることなく、「神のしもべ」として生きてきたしるしである。

  人の目、人の評価、やることの効果など気にしていたら神に仕えることはできない。私もまた、弓山師の天国への凱旋を目の前にして、人生を悔いなく、神に仕えきることの覚悟を迫られたものである。自分の弱さ、未熟さを言い訳の材料にしてはならない。リバイバルは「無学なただ人」によってこそ、起こされるものである。

 

 

2月24日

 世の基準によって惑わされない  Uコリント61118

 

 コリント人への手紙第二

6:11 コリントの人たち。私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。私たちの心は広く開かれています。

6:12 あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。

6:13 私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。

6:14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。

6:15 キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。

6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

6:17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、

6:18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

 

先週、最先端の会計学を学ぼうとセミナーに出席したが、利益目標を追及するという企業目標に沿ってキャッシュフロー(お金の動き)を捉えようというものであった。中小企業を担当する公認会計士の講演なので、最近の利益ペースではない企業目標の設定、社会状況の変化は捉えられていない。それでも理論というより利益追求のすごさを実感できた。

  教会を含む公益法人というものは、利益目標は否定されるので、その分税金その他で優遇保護される。目下、宗教法人会計の理論化、体系化に取り組んでいるが、根本的に、牧師を含めた多くの教会役員が、収益、拡大目標を掲げ、世の中と同じ考えで教会を運営しようとしていることが会計実務の指導でもネックになっている。

  当然のことながら、教会は主イエスによって宣教と弟子養成の命令を受けている。会堂を建てるとか、献金を増やすということは、このために必要ならば考慮されるべきものであって、別に経済規模が大きいからといって、宣教がされているというものではない。私が好きでないことは、信者の献金が牧師の生活費を支出されるためであるかのように思われ、牧師の働きが教会の働きのように思われることである。そして、信者が牧師に自分たちを満足させることを要請し、牧師も信者を喜ばせるような働きをしようとすることがある。

  教会は、牧師も信者も一緒になって世に働きかけ、その中に主の助けと臨在があり、弟子化が進んでいくのである。だから牧師も群れのリーダーとして信者と同じ方向を見て進むのである。そして、世の中に入っていき、人々をキリストにあるいのちに導きいれるのである。それは、世の価値基準にある人々をキリストの価値基準、永遠を考えた価値基準の中に導きいれることなのである。

  そうであるならば、その私たちがこの世の価値基準で生きるのはおかしいということに気がつかなければならない。先週語ったようにパウロは、神の国の基準で生きることにより、「自分を神のしもべとして推薦」できるのである。

1.苦労・迫害・困難

これらは、私たちが十字架を負ってイエス様に従っている印であり、かえってこれらがないのならば、その人はイエスの弟子ではなくいのちを失うことになる(マタイ16:24〜)。

2.純潔・寛容・親切・いつわりのない愛。

   これらは急に身につくことではない。しかし、聖霊に満たされて歩めば必ず実るものである。聖霊は私たちがこれを損なっているときに、私たちの中でとりなしをし実行させる。もし私たちが聖霊を軽んじ汚れた行いを続けるならば聖霊は私たちから去っていく。

3.評判・豊かさ・成果

   神の子であるイエス様が貧しく、弱く、その生涯をかけても結局裏切られて十字架にかけられてしまった。十字架に死ぬ覚悟をしてこそ、神の大能による復活があるのである。

  したがって神を信じる者の基準と未信者との基準に調和があろうはずがない(6:15)。私は教会管理学の授業で、牧師に必要なものは、信仰を土台とした「情熱」、「責任感」、「見識」の3つであり、決して持ってはならないものが「虚栄心」であると語った。神学校の説教では、ゴルフの効用を語った。それは、慢心、虚栄心、意地などがそのまま結果に表れるからである。この教会を批判して去った者が、教会を荒らし牧師を辞任まで追い込んだことぉ知った。自分の主義、考えが通らないことを許さず認めない人は、神の働きを妨害する。私たちの教会は、その女性の考えを非難しなかったが、決して同意せず、迎合はしなかった。

  ものみの塔の人や異端の人、教会に批判的な人、彼らを変えようとする必要はない。彼らを親しくしてはいけない。「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。」(6:17)。性的にふしだらな人、約束を守らない人、うそをつく人、ごまかす人、言い訳を言う人、こういう人たちとは、親しくしないほうがよい。