1月6日

志を堅固にして歩もう  イザヤ26114

 

[新改訳]  イザヤ書

26:1 その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と

塁で私たちを救ってくださる。

26:2 城門をあけて、誠実を守る正しい民をはいらせよ。

26:3 志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼して

いるからです。

26:4 いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。

26:5 主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、

これを投げつけて、ちりにされる。

26:6 貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける。

26:7 義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。

26:8 主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、

あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。

26:9 私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求め

ます。あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。

26:10 悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主の

ご威光を見ようともしません。

26:11 主よ。あなたの御手が上げられても、彼らは認めません。どうか彼らが、この民への

あなたの熱心を認めて恥じますように。まことに火が、あなたに逆らう者をなめ尽くし

ますように。

26:12 主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべての

わざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。

26:13 私たちの神、主よ。あなた以外の多くの君主が、私たちを治めましたが、私たちは、

ただあなたによってのみ、御名を唱えます。

26:14 死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。それゆえ、あなたは彼らを

罰して滅ぼし、彼らについてのすべての記憶を消し去られました。

 

人生で成功する者は目標を明確にし、具体的にしている人であり、期限を決めず抽象的な目標を

持つ人はあまりうまくいかず、目標も立てない人は、殆んど愚痴を言ったり言い訳を言いながら、

敗北者になっているという報告があった。信仰の分野をこの世の成功原則で片付けることは適切

ではない。とりわけ金銭や地位、業績を上げることに執着する世の中の志向は好きではない。

しかし、多くのクリスチャンが、神に仕えて清廉潔白に生き、自分の欲望に捉われない生き方を

すると言って、目標を伝道目標だけにしているのも、いかがなものか。消極的な生活に終始して

しまい魅力的なクリスチャンでなくなってしまうことが多い。

 今回の沖縄家族・従業員旅行は、本当に楽しいものだった。子供たちが仲良く楽しそうに

過ごしている様子は喜びであり、パックで同行する人の注目を浴びていた。二年後には

マレーシア旅行をしようと既に積立を始めている。同行したい人は、牧師に申し出てほしい。

人生の喜びは、愛し合うことであり、神と共に生きることであるが、そのためには、やはり日常の

生活から離れた安息が必要である。そして、安息からこそ生きる力が湧いてくる。

志があるからこそ、安息を持つことができ、安息があるからこそ志が湧いてくるのである。

志は無理に作り出すものではない。失望者には志はない。

 さて、イザヤ二十五章12節には、敵対するモアブの要塞が打ち壊されることが記される。

「その高ぶりを低くされる」(11)とあるから、自分の力を誇示し、力に依存する高慢な者の

都が滅ぼされるということであろう。わたしには日本の不況、社会不安、崩壊が、日本人の

高ぶり、高慢に対する神の警告であると判断しているが、いまだ高慢な力依存の国民性は

変わることがない。ひめゆりの塔にある平和祈念館にあった戦争の悲惨さから日本人は

学んでいない。沖縄の珊瑚が死に絶えた海が哀れであり、あまり問題になっていないことに

恐れを感じる。

 他方、主が守り救ってくださるエルサレムの城壁の堅固さが対比される。神殿を中心とした

この都市は幾多の試練、迫害を信仰によって守り通してきた。(U歴代誌32:10-23)

アッシリヤの王セナケリブのように、わたしたちの信仰をあざ笑い、非難して攻撃する者が

起こり続けよう。しかし、わたしたちは神を信じるのである。

 我が家の子供たちの笑顔も喜びも、失われ、悲嘆の谷に落ち込みそうな時が何回も

あった。それを勝利したのはやはり、信仰を中心とした日常生活であった。

子供たちも礼拝には参加していないが、クリスチャンであることを告白しており、

親の信仰によってここまで来たことを悟っている。しかし、親の信仰力ではなく

神の恵みと守りこそが支えであったことは気がついていない。エルサレムの堅固さは、

そこに臨在する神こそが原動力であるように、わたしたちの生活、家庭の堅固さの

原動力はまことの神ご自身である。

 確かに山や谷はある。しかし、信仰はそれを見ない。信仰は、先にある神の約束に目を

留めさせ、わたしたちを前進させる。昨年も絶望するようなことは何回もあった。義人とは、

完全な信仰力の人ということではない。神に信頼して歩む人のことである。今年の歩みが

義人の歩みであるための条件を述べよう。

1.山や谷、試練に負けず歩み続けることである。

それは、まるで問題がないかのように生きることであり、愚痴や弱音を吐いてはいけない。

2. 神の助け、導きを求め続けることである。

自分で解決しようとしない。結末をつけようとしない。納得をしない。我慢をしないで、

神に切に求め続ける。

3. 志を高く持ち続けることである。

希望と願いがなければ人は滅びる。信仰者は堕落する。罪に負けてしまう。

 信仰者の人生に平凡はない。神を信じて生きるということは、非凡な人生を歩むことになる

のである。

1月13日

志を持った人生を生き抜く  ピリピ2章3〜18節
[新改訳]  ピリピ人への手紙

2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分

よりもすぐれた者と思いなさい。

2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエス

のうちにも見られるものです。
2:6
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができない

とは考えないで、
2:7
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、

実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えに

なりました。
2:10
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下に

あるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11
すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神が

ほめたたえられるためです。
2:12
そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私が

いるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを

達成してください。
2:13
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、

事を行なわせてくださるのです。
2:14
すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。
2:15
それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、

曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、
2:16
いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。

そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したことも

むだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
2:17
たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物

となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
2:18
あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。


昨日、患者さんの一人で貧しい中から苦学をし、会社を建て上げた人が、我が家の年
賀状を見てわざわざ教会に立ち寄ってくださった。初めての対面だが、話が弾んだ。
八人兄弟の下から二人目で、九人兄弟の末子の私と同じようで苦労話の中に志をもっ
て歩んだ人は、すぐに気があってしまう。

  今年のテーマは、志を高く持ち、それを堅固に実現していこうとすると、主がそ
の人の難関を直前に解決してくださる、ということである。

  私は中学入学の直前に志を持ったが、そうするといろいろな人の助けや運が向い
てくることがあった。ところが、同じ志を誓い合った仲間が挫折すると、突然に人が
変わったように攻撃して、うまくいく自分を避けてくるのに驚いたものであった。私
など貧乏人の子で金も教養も環境も惨めなものであったから、失敗したらもうやり直
せない状況であった。人生の総合力は学力だけではないと判断したので、スポーツ、
音楽、美術、趣味など、金のかからないようにしながら一生懸命学び続けた。ずっ
と、緊張状態が続いて、それでも志望校に高熱のため失敗し、挫折して学生運動に
入った。でも時代的には学生運動の時代は過ぎていた。虚しさの中にも緊張は続き、
親に頼らないで生き抜く術を身に着けた。

  そんな中で信仰を知ったときの喜び、感動は大きなものであった。ところが、緊
張と努力で生き抜いてきた私にとって、恵みや平安、愛といったものは、どうも苦手
であった。これらこそが、キリスト信仰の奥義であり、中心であるのに、私には祝福
を勝ち取る信仰と知恵に関心があった。

  しかし、何度も証ししているように牧師になることを決意してからは、まったく
自分の力の発揮しようのない人生が始まった。人は説得によっては、神を信じるもの
ではないことを知った。信者のときは、私の証しによって、何十人もの人が教会に来
たのに、横浜ならぬ千葉では、説得は却って反発を受けることを体験した。人々は私
を伝道によって信仰者を作り出し、それによって収入を得る者と考えていた。

  信仰に入った者も「だれも皆自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエス
のことを求めてはいません。」(ピリピ2:21)という状態で、「他の人のことも
顧みなさい。」(ピリピ2:4)ということは、頭ではわかってもそれを実行する人
はいなかった。その反面、牧師に対する期待や要求は強く、自分たちが伝道するので
はなく、牧師がするもので、また信者の世話や相談に乗るものとして考えられてい
た。私たち夫婦の主にある熱心は、浮いたものであって、信者の生活や考えとはかけ
離れていた。そんな中でストレスになり、牧師を辞めようと考えていたときに示され
たのが、この6〜8節であった。「キリストは御自分を無にして仕える者となり、卑
しく過ごされたのだ、それなのに、なぜ、私は信者や他人を自分の都合で動かそうと
しているのか。」

  悔い改めた私に大きな平安が与えられた。そして、つぶやかず、疑わず、牧師と
して主と人に仕えていこうという志が湧き出してきた。「牧師としての成功、名声、
地位、そういうもの全てを積極的に放棄しよう、私にはそれに代えて余りある主の慈
しみと恵みがあるではないか。」

  子供が「勉強しろ、と言わず、褒めてばかりいる家の親は変わっている。友達か
らうらやましがられている。」とよく言う。神の愛と恵みを体験してきた私が、子供
にも愛と恵みを体験させたい。苦労は世の中には十分ある。

  なぜ、多くの人が志をもてないで、日々の労苦に打ちひしがれているのか。

1.神の愛を体験していないからである。

2.自分の能力に依存しているからである。

3.自分の欲と願いに思いがとらわれているからである。

私は、人を祝福し、とりなしの祈りをし、喜ぶ者と一緒に喜び悲しむ者と一緒に喜び
ながら、聖書のことばを正確に解釈し伝えることに、牧師としての志をもった。なん
という平安、喜びであろうか。

古くからの知己のT牧師がリンパ腺癌で十二月十一日に天国に凱旋した。体の
異常から診察を受け病名を知ってから二ヶ月半の短期間で後任牧師を推薦し、なすべ
きことを果たして、告別の説教を十一月十八日に行い、翌週引き継ぐリーダーたちに
教会の使命を語り、すべて片付けて意識を失い殉教していったという。

私は、家内や子供たちに、いつ私が死んでもよいように覚悟をしていなさいといって
あるが、なかなか恐れるばかりで真剣には受け留めていない。いつでも死ぬ覚悟を
し、天国を確信していなければ、やはり、前述の三ポイントは獲得できないであろ
う。しかし、それはすべての信仰者が獲得しておくべきことであると、聖書は教え、
パウロも実践していったのであった。このピリピ書は、死を覚悟した獄中からパウロ
が出した手紙である。

1月20日

見えないものに目を留める。  Uコリント4718

[新改訳]  コリント人への手紙第二

4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない

力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
4:8
私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にく
  れていますが、行きづまることはありません。    
4:9
迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:10
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私
  たちの身において明らかに示されるためです。   
4:11
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それ
  は、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
4:12
こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。
4:13
「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の
  霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。
4:14
それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえ
  らせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
4:15
すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々
  に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。
4:16
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、
  内なる人は日々新たにされています。
4:17
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光
  をもたらすからです。
4:18
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見える
  ものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。


 パウロは、人が土の器に過ぎないという。要するに生ける埴輪のようなものであろ
う。そうすると、埴輪が自慢したり、苦しんだりするのはおかしなものである。生き
ており、意志があるからこそ葛藤があるのである。

 パウロは、この後十一章で語られるように、常に試練があり、戦いがあり、心身の
労苦があった。しかし、「窮することはなく、行き詰ることもなく、見捨てられるこ
とも、滅びることもなかった。」

  私自身は何度も破産の危機があった。まったくの資金のない中からクリニックを
始め、やり繰りにはいつも苦労していたが、とうとう行き詰まり、ついでに経営のこ
とで非難され疑われることがあった。耐え切れなくなって夜中に簡単な山登り用品を
携え、神に苦情を言うために栃木の山を目指した。その近くには祈祷院があったの
で、なにかあったらそこに頼ろうとしたが、何日かはエリヤのように山で野宿して神
に祈るつもりであった。人の通らない山に登り、断食をして祈っていたが、十月なの
で夜中を過ぎると寒くなってきた。ついでに雨が降ってきて簡単な焚き火は消えか
かっていた。覆いをし、祈るどころではなく、火を起こしたが消え入るばかりであっ
た。すさまじく寒くなり慌てて下山しようとしたが、闇夜の雨にぬれた登山道はあま
り人が通らないので道がはっきりしておらず、何度か遭難しかかった。携帯電話など
ない時代で自分がどこにいるか誰にも知らせていないのでこれは死ぬかと思うと、と
もかく神にすべての愚痴を悔い改めた。祈っても語りかけられないので先ほどまで神
に文句を言っていたのであった。必死になりながら、「今後どんなことがあっても神
に愚痴を言わず、苦労も厭わないから、この場を助けてください」と大声で叫び、夜
道を下ったのであった。

 三時ごろようやく車にたどり着き仮眠をしたが、興奮してねむれない。明け方近く
にあった風呂に入りホッとして、つくづく自分の愚かさを身に染みて感じた。倒産し
ようと非難されようと苦労が多かろうと、神を信じ救われた身にとって、大きな問題
ではないはずであった。覚悟がついてみると、掛けてあった保険を解約すれば八十万
円くらいになることを思い出した。

  死を覚悟しないと死に脅かされるものである。倒産を覚悟しないと業績が気にな
るものである。評判やら名誉などを気にすると悩みが多くなる。イエス様を信じ従
い、伝道の上で苦しめられたパウロに比べれば、私たちの苦労などは恥ずかしいもの
である。「いつでもイエスの死をこの身に帯びている」と言えるほどの毎日を送って
いない私たちであるならば、くよくよせず労苦を厭わず主とともに生きていこうでは
ないか。

  私は従来からの通風に加え、リューマチになったようである。外なる人(身体)
は、衰える一方である。体が弱くなるほどに栄養補給食品の効用が身にしみてわかり
治療にも生かせる。同情もとりなしの祈りも深いものになってくる。歳をとった実感
が深まるとともに、御国への期待も現実味を帯びてくる。見えるものに捉われると、
真実に生きることができない。見えない神を見えるもののようにいつも見つめて生き
たいものである。御国に凱旋した高木慶太師に恥じない生き方をしなければならな
い。

  皆さんは天国を確信しているだろうか。死への恐怖を御国への期待に代えている
だろうか。キリスト信仰の実体は、その教えの内容や歩みよりもむしろ、復活のキリ
ストにある。キリスト・イエスはよみがえられた。それを信じていなければ、聖書信
仰は悟りの宗教に変質してしまうのである。

1月27日

 見ゆるところではなく信仰によって歩む  Uコリント5110

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、

私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

5:3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。

5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、

この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。

そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。

5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を

下さいました。

5:6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、

主から離れているということも知っています。

5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

5:8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうが

よいと思っています。

5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、

主に喜ばれることです。

5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、

各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

 

 イスラエルで自爆テロが続いている。アメリカのテロにしても、イスラム教の教えの怖さまで思い込んでしまう

ことが多い。イスラム教徒は一日6回のお祈りを忠実に果たしている人が多いというから、キリスト教など

熱心さや厳格さ、宗教性という面ではとてもかなわない。

  1節にあるように肉体が滅びても天国があるということを強調するのが、一神教の教えの特徴である。

一神教では神が天地を創り、世界を治めているということが教えなので、神の自己啓示としてその由来を

表した言い伝え、歴史、聖書が必要であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教以外にはありえない。突然、

悟りを得たというのは、汎神論的であり、人間の側の理解の問題になる。聖書の教えは、人間の理解を

超えて神が世を支配し、御心のままに世界を変えていくことになる。

  そうすると人間の勝手な判断による積極的な殉教は、神を信頼していない証拠となり、自分または

宗教的指導者などの人間の判断による自殺は、殺人となり、神の教えに背くものである。つまり、

イスラム教の教えは唯一神教を唱えながら、宗教的支配者の都合の良いようなものであり、そのような

経緯からも、イスラム教指導者は社会的地位の高い者が常に治まっている。人々の純朴さ、宗教心を

政治的、社会的に利用しているのである。

  キリスト教は宗教指導者に世襲制はなく、社会的経済的に地位が高いとは言えない。カトリックは

教職の独身性によって世襲的独裁を免れ、プロテスタントは個教会主義、独立精算なので、牧師の怠慢、

堕落によってすぐに牧師でいられなくなる。経済的豊かさは無縁なので名誉や地位を求める人も

たまには見られるが、人生の短さは、すぐにそれを困難にする。

  地上での困難をどのように対処するかによって、その人の真実が現れてくる。教えの為、神の為、

悪を正す為と判断しても、人を殺したり傷つけたりする何の正当性もない。自分の困難を国、他国、社会、

会社、情勢、家族のせいにしても、解決にはならず、困難を除こうとしても違う困難がおこってくるだけである。

殆どの人が困難を他人や自分のせいにして、愚痴を言い、困難のせいにして自分の苦労に日々を費やしている。

苦労がなくなると話の材料がなくて困ってしまうのではないか。人生を徳川家康のように重い荷を背負って

生きるものであると思い込んでいる。 

先週、キリストの復活を信じ、自分も天国に行くのだと期待し歩まなければキリスト教の信者としての実体はない

と語った。聖書の教え、神の言いつけを守っているかどうかを確認する信仰生活は、親の愛を知らない子供の

ようである。

  地上に苦難はある。しかし、そんなことに捉われず神を信じ、期待し、積極的に喜んで、惜しまず人に

自分を注いで生きるのが、キリスト教信者の生き方である。だからうまくいくとかいかないとか、儲かったとか

損をしたとか、恥をかいたかかせたとか、すごいとかひどいとか、そんなことはどうでもよいのである。不況で

あろうと、福利が悪化しようと、病気になろうと、神を信じ、神とともに生きる身には、どちらでもかまわない。

見ゆるところは悪であり、罪であり、困難があろうと信仰は神の統治と守りを確信させる。そして、行き着くところは

天国である。それならば、あたかも天国に住むかのように、夫婦が愛し合い、友と語り合い、苦労をも喜んで

生きたいものである。

  見るところによって生きて、労苦を愚痴っても、その結果は罪の結果であり、自分の労苦の後を見て自分を

慰めるだけであろう。信仰によって生きるとは、自分固有の志をもって生きることである。「各自その肉体にあって

した行為に応じて報いを受けることになるから」(10節)よくよく自分の心を修め、思い煩いによって気を落としては

ならない。