12月30日 後ろの戸を閉じ身を隠せ。                イザヤ26章15〜21節

[新改訳]  イザヤ書                 

26:15 主よ。あなたはこの国民を増し加え、増し加えて、この国民に栄光を現わし、この国のすべての境を広げられました。

26:16 主よ。苦難の時に、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。

26:17 子を産む時が近づいて、そのひどい痛みに、苦しみ叫ぶ妊婦のように。主よ。私たちは御前にそのようでした。

26:18 私たちもみごもり、産みの苦しみをしましたが、それはあたかも、風を産んだようなものでした。私たちは救いを地にもたらさず、世界の住民はもう生まれません。

26:19 あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は使者の霊を生き返らせます。

26:20 さあ、わが民よ。あなたの部屋にはいり、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。

26:21 見よ。主はご自分の住まいから出て来て、地に住む者の罪を罰せられるからだ。地はその上に流された血を現わし、その上で殺された者たちを、もう、おおうことをしない。

 

不況はひどくなり、日本の国力はどんどん衰えている。犯罪は増え凶悪化している。それでも人々は、欲望の満足を求め金銭を追い求めている。今日は二十節の「後ろの戸を閉じよ」という言葉に焦点を当てたい。この言葉で思い出すのはノアの箱舟である。また、出エジプトの前の過ぎ越しの事件である。

 

  「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることが見な、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世記6:5)

 

  神は世界を水で滅ぼすことを決め、義人のノアにそのことを明らかにした。ノアは人々のあざ笑う中で巨大な箱舟を作り続けた。

 

 この「後ろの戸を閉じる」という言葉は現代日本に生きる人々にとって的を得た言葉ではないだろうか。クリスチャンは良い評判を得ようとし、人々との関係を大事にしてきた。それは日本人一般のこれまでの傾向であった。しかし、それで日本人は善人かというとそうではない。歴史上多くの弱者迫害、差別を繰り返してきた。評判を気にするのは、村八分にになることを恐れ、宗門改めのような連帯責任を犯すことによる罰を恐れたための結果としての社会的知恵でしかないように思われる。良い人間、評判の良い人というのは結果であって、それを目指すのは名誉欲という罪の産物でもあろう。

 

  マリヤ・クリニックも当初いろいろ評判や業績を気にして一般的なことをしていたが、どうも変なものであった。人目や評価を気にして他の人と同じことをすると、やりがいがなくなり医療というよりは商売というものになっていくのであった。栄養療法を明確に打ち出し、患者にも祈ったりする。聖書を贈呈し、今年のクリスマスは伝道ビデオを配布した。ゴルフコンペでは、はっきりと説教し、信仰を説明した。別に抗議は来ていない。却って喜ばれている。治療もあいまいなものは、なおらない。特に癌や重病な人は、はっきりと指導しないと却ってよくならず徒労に終わり評価もよくない。

 

  苦難はなぜ起こったのだろうか。それは、彼らの罪がひどく不信仰が長く続いたからである。わたしは牧師になろうと決意してから、苦難が続いた。いつもいつも試練ばっかりであった。まさに「祈ってつぶやきました。」ただ、それが自分の罪の故であったり、人の罪の故であることはわかっていた。特に、妻の罪深さまでも背負い込むのには困惑し葛藤した。わたしも罪深いが、妻も相当なものである。結婚というものは、ひとつになるのであって、自分の罪だけを背負うのでは足りないのであることに気がついた。自分の罪というものはなかなか気がつかないが、伴侶の罪はよく気がつく。起こったり批判したりしていても拉致があかない。しかし、うやむやにすると自分の信仰がおかしくなる。

 

 戸を閉じ身を隠してこそできることがいっぱいある。献身表明した時の家族や友人の非難はすごかった。寮に入らないときも。千葉で勝手に開拓をしたときも。牧師としても未熟さの故にも。子育ての未熟さの故にも。クリニックの経営でも。いつも非難され攻撃されてきた。しかし、わたしはそれらに向かって反発し対決したことはない。自分と妻の罪と弱さを認め、祈りつぶやきながら、仕事に励んできた。

 

 神の裁きと罪の結果に対して、わたしたちはなすすべを持たない。ただ、とりなしの祈りと悔い改めの祈りだけである。失敗をしたり、恥をかいたら、回復しようとしたりごまかしたりしないで、神の裁きに服する。そして、人の罪深さ、不信仰さに関しても、人間的な世話や助けも甲斐がないことを悟り、ただとりなしの祈りを続ける。わたしは知っている。神の前には言い訳が効かないことを。罪と悪とは、わたしたちを決して逃さないことを。

 

  年が改まるということは心機一転という良い機会である。失敗や恥、罪、いろいろなものに取り囲まれていたことに扉を閉めて、人の評価や通俗的なことから離れ、自分のするべきことを確認して新しい歩みをすることができる。しばらくは苦しいことが続くだろう。言い訳を言っていたらやり直しはできない。過去とは決別して、新しい歩みを始めよう。

 

 コリント人への手紙第二   

 

5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 

 

12月23日 主の民を慰めに来られた主イエス。     イザヤ40章1〜31節

[新改訳]  イザヤ書                 

40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。

40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」

40:3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。

40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

40:5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」

40:6 「呼ばわれ。」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう。」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。

40:7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。

40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。

40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。

40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。

40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 

今年のクリスマスのメッセージのポイントは、「闇」、「敬虔さ」、「待ち望む」ということを語るように導かれている。そして、キリストの初臨と再臨の比較も重要である。

  イエス様がお生まれになった状況を、クリスマスの時にはいつもしみじみと想い見ることにしている。家畜小屋は汚く臭く真っ暗だったろう。ともし火は小さく暗いもので、そんな中でマリヤは初産をヨセフの助けだけでしたのである。旅の途中だから満足な準備などあるはずがない。赤子のイエスさんが包まれたのは、予備の粗末な服かかけ布のようなものだろう。場所も広いはずがなく、家畜にけられないように注意しながら確保した小さな空間だろう。洞窟の家畜小屋という説もある。するともっと狭くなる。生まれたばかりの赤子を眠らせる安全なところは石の飼い葉おけしかなかったのではないか。その傍に産後のマリヤが身体を休めている。

 

  長男が8ヶ月のとき、家内が当直勤務で夜中に百日咳で泣き続けた年末の心細さを忘れることは出来ない。その1ヵ月後には親子三人で千葉に引っ越してきた。貯金はなく、誰も知らない寒く狭い店舗付の6畳で始めた暮らしは不安であった。収入は家賃に取られてしまうので、いつも断食して祈っていた。2年たって始めて明確な救いを近くの女性が体験した時は、何人も救いに導いた信徒の時とは比べようもない感謝があった。

 

  神の子がなぜ、最低の状況で産まれられたのか。自分が苦しく弱く悲しんでいる時に、そのありがたさが身にしみる。罪のない完全なお方が、弟子に裏切られ十字架の刑によって殺されたことに、自分の苦難の何倍何百倍の苦しみを受けられたことを悟り、申し訳なく思う。

 

 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」と神は仰せられた。

 

 慰めを必要とする人は少ない。

 

 報われないことを知り覚悟しながら、苦労と苦難に甘んじている人である。自分のやりたいように生きている人は、慰めを必要としない。忍耐もなく信仰もない人には慰めの意味がわからない。

 

  人はみな自分の考えたようには生きられないものである。そのときにどのように対応するかで、神に目を留められ慰めを必要とする人になるかが決まってくる。

 

1.自分の考えや主義が通らなくても忍耐できるか。

 

2.自分の権利や利益が損なわれても、愛すことが出来るか。

 

3.いつまでも解決しなくても努力と願い、志を持ち続けられるか。

 

4.喜びと感謝と平安を保てるか。

 

 「すべての人は草、その栄光はみな野の花のようだ。」とあるように、自分の功績、能力、性格、努力などに囚われ分析をしてはいけない。大事なことは、自分と人の罪を嘆き取り成し、そして神の業を待ち望んで神に仕えることである。

 

  主イエスの生涯とその成果は、人の目には虚しく終わってしまったかのように見えた。しかし、あくまで父なる神の御旨にそって生き、業をなした主は、その従順と愛により、救いの業を完成された。いたいけな嬰児に身をやつした神の子イエス様こそが、人を罪から救うことが出来るのであった。

 

 わたしたちは果たして主の後を追い、主に従った生活をしているだろうか。主の慰めを必要とするような歩みをとっているだろうか。

 

  10節から26節は、神の大能を宣言している。

 

  「わたしの道は主に隠れ、わたしの正しい訴えた神に見過ごしにされている。」(27)というほどの、不合理と時間の経過があって当然である。そこにわたしたちの信仰の真実性が現れてくる。そして、主を待ち望む者こそ、新しく力をえることができるのである。

 

12月16日   平和の日々がこられるように                          イザヤ11116   

12月 9日   私たちの為に平和の君が生まれる               イザヤ917

12月 2日  

 

11月25日   土の器である我らに収まる宝  Uコリント4章6〜12節

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

4:6 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

 

先日、獅子座流星群を下の二人の娘と一緒に見た。宇宙の広大さを知る時、無神論者と創造論者では全く異なる結論が出る。「初めに、神が天と地を創造した。」と信じる私にとっては、この地球以外は全て天であり、神は人間の為に天を造られたのであって、神にとって如何に大きく壮大であっても、如何に微細なものであっても、何でもないものと考える。何億光年先があっても、神はその光跡をも完全に造られるのだから、問題ではない。そして、神が人間に命じられたのは「地を従えよ、支配せよ。」(創世記一章)だから、天のことは全てがわからなくても構わない。私にとっては、人間の為に天地があるということであり、感動する。

 

  他方、進化論者にとって、宇宙はこんなに広いのだから、地球と同じ様な環境をもった星は無数にあり、生物が存在し、人間よりも進んだ文明をもった知能的動物がいるに違いないと言う。しかしながら、ここまで文明が進んだのに未だにいのちある物を人の手によって作り出すことが出来ないでいる。また、進化論の証拠を見いだせないでいる。進化論も創造論も結局は仮説でしかないのであるが、科学が進むほどに進化論で説明できないことが多くあることがわかってきている。他方、創造論は、万能の神の創造ということで、何の論理的矛盾もない。聖書研究会で、新天新地を学ぼうとしているが、宇宙に初めがあったことは進化論でも強調されている。それが黙示録では、再び、新しく天が造られると言う。

 

  ともかく、歴史は預言の通りに進んでいる。これを見逃してはならないし、終末の警告を忘れてはならない。その創世記には、神は土で人間を形造り、いのちの息を吹き込まれたので、生き物となったと書いてある。(2:7)「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。」詩篇103:14

 

  この塵にすぎない私たちを創造主は深く愛してくださる。しかし、実際は、人は塵にすぎないのに誇り高ぶり、創造主を認めようとせず、その思いの通りに生きないばかりか、勝手に自分の都合で神を作り宗教心を満たそうとしたり、神に反逆したりしている。そのことはイザヤ四四章にある。

 

彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火 でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。イザヤ44:18-19

 

 それに反して、神は私たちに語りかける。

 

だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。(43:1-3)

 

 そればかりではない。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(43:4)とまでも、語りかけてくださるのである。

 

 それであるなら、「苦しめられ」ようと、「途方にくれ」ようと、「迫害され」ようと、「倒され」ようと、問題ではない。どうせ神を信じるならば、進化論やこの世の教え、或いは欲望や意地などに惑わされることなく、神に賭け、どこまでも神を信じ従うべきである。「イエスのために絶えず死に渡され」(一一節)ることがあろうと、全能の創造主は知っておられる。パウロは、「キリストの苦しみにあずかる」(ピリピ3:10)ことが復活の勝利、人の知恵に拠るものではない神による圧倒的勝利の道であることを体験しているのであった。

今日の礼拝では聖餐式が行われますが、これは信者同士がキリストの身体なる教会において互いの結び付きと潔めを確認し、キリストの苦難と再臨を覚える信者に限られたキリスト教の2つの礼典の一つです。洗礼を希望している方は参加することができます。

 

11月18日   キリストの栄光に関わる福音の光  Uコリント4章1〜6節 

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

4:1 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、

4:2 恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。

4:3 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。

4:4 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。

4:6 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

 

 一節の「こういうわけで」とは、先週までに学んだことである。つまり、私たちは、人を罪から救い、義に導いて神との交流に導く務めに任じられているのである。それは、自分がいまだ罪深くても、人格的でなかろうと、また、教えがよくわかっていなくても、それに影響されないものである。なぜなら、救いは私たち人間の能力によるのではなく、行いによるのでもなく、ただ神ご自身の愛と意思によるものであり、キリスト・イエスが既に自らをもって罪の代価を払い、私たちを贖いとってくださった(買い取った)からである。義とすること、正しく歩めること、いつかは天国にいくことは神の宣言であり、勅令のようなものなのである。だから、大事なことはその神を信じることであり、心を主イエスに向けることなのである。

 

  「こういうわけで」、私たちはこのすばらしい意義ある務めに任じられているのだから次のように行動するのである。

 

@.勇気を失うことなく。

 

A.恥ずべき隠されたことを捨て。

 

B.悪巧みに歩まず。

 

C.神のことばを曲げず、真理を明らかにする。。

 

D.神の御前であることを意識しながら、自分自身の歩みを通して人々の良心に語り掛けて伝道する。

 

勇気はどのようにして失われるのだろうか。

 

a.敵が強く、問題が大きく、自分の力が弱いと思うとき。(相手)

 

b.援助や支援、協力が得られず、自分が孤立しているとき。(自分)

 

c.失敗や挫折の経験が多く、自信がないとき。(過去)

 

d.何をどうして良いかわからず、情報も知識もないとき。(情報)

 

神を信じると言うことは、これら全てを克服する。はっきり言って、短期的には失望することもあるが、勇気を持たず、問題に対処しようとしない人は、信仰が主に向いていないのである。金曜聖研で語ったが、どういう訳か、試練や問題は次々に起こり、自分の能力では対応できなくなることは多いものである。信仰がなく、勇気がないと、一つの問題に困り、集中して対応する為に他の問題を捨て諦めてしまうことがある。しかし、そこが信仰の試されるところなのである。神を信頼するということは、自分に出来ることを焦ることなくコツコツとやることでもある。問題の大きさ多さに目を奪われてはならない。今回、神の恵みと良き協力者によってAG会計を開発できたが、同時に自宅も購入し、クリニックの医療法人化や今後の準備もし、子供の大きな問題も対処を続け、そして、牧師や事務長や夫、父、その他いろいろなことをやり、そしてゴルフも腕を上げてきた。私は決して、自分を天才だとは思っていない。貧乏職人の子の凡人である。ただ勇気を失ってはいけない。問題の大きさに目を奪われてはならないと、自分をいつも戒めている。

 

恥ずべきこと、人々の目にまずいこと、は誰にでもある。しかし、それを少しずつ、捨てていかなければ神に用いられることは決してないだろう。

 

小細工や策略、悪知恵、によって利益を得たり、地位を得ようとしたり、人を味方に付けようとしてはいけない。他人を否定し、自分の利益を図ろうとすることは罪であり、報いを受けることになる。

 

神のことばを自分勝手に解釈をしてはならない。もし、解釈がわからなかったら、神の愛と人を愛することを考えたらよい。

 

私たちの真実な生き方こそが福音の光である。教会の形成は主の御霊によると先週学んだが、御霊に導かれ神に仕え人に仕えようとする主の弟子こそが福音なのである。私たち信者にとって、自分が神を信じ、福音の光の中を歩んでいることこそが、奇跡であり、恵みであり、福音なのである。

 

このようなすばらしい福音、キリストの御姿に変えられていく感動、に関心がないとしたら、それはその人が、心に覆いを掛けているからに他ならない。自分の意地、欲、利益などに罪に影響され、罪の奴隷となることにどういしているからである。このような人々は、せっかく神が罪の赦しという恵みを与えておられるのにそれを受け取ることが出来ず、滅びの道を歩むしかないのである。

 

私たちは変えられた自分を誇ることは出来ない。前述のように、それは自分の能力に拠るものではないからであり、自分を誇ったらすぐに罪の法則に囚われ、主から目を離し、恵みからそれてしまうからである。私たちはキリストを見続けるのである。光は私たちのものではない。栄光を反映するとはキリストと接し、キリストに目を向け続けるから、栄光が移ってくるのであって、自分のものではない。

 

11月11日    御霊による教会形成  Uコリント3章12〜18節

[新改訳]  コリント第二

3:12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。

3:13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。

3:14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。

3:15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 

先週学んだように、シナイ山から下りてきたモーセは神と共にいた為に顔が光り輝いていた。しかし、人々に律法を語り、戒めを教えている内に、その輝きは失せ始めたのでモーセは顔に覆いをした。コリント書には、消え失せるものの最後をイスラエル人に見せないようにとあるが、その他、俗なるものを見ないで神の栄光だけを見ていたいというモーセの願いもあったかも知れない。

 

 現実の毎日の生活で見るものは、確かに俗なるものばかりである。その俗なるものを見ていると心も思いも俗化してくる。モーセの顔の輝きが失せ始めたのを隠す覆いは、心を隠す覆いでもあった。パウロは、12節で、モーセのようではなく、つまり失望も世俗化もすることなく、ありのままを見せながら大胆に語ると言う。それは、罪に定める律法は、人々の現実を見るならば、有罪を指摘する以外にはないが、義とする教えは、人々が罪深いところにこそ、効果的だからである。従って、福音を語る者の罪性を隠すこともなく、語られる者、相手の罪性に失望することもないのである。

 

  ところが、イスラエルの人々は、律法が語られる時に、責められることを感じ、罪責感を持つので、心に覆いを掛けてしまうのである。ルカ4章でイエス様が会堂で聖書のことばを語ったとき、人々は「その口から出る恵みのことばに驚いた。」(22節)とある。人々は、会堂でこれまで、戒めと教え、ともかく厳しいことばだけを聞いてきたのである。

 

  現代の教会には、幾つかの傾向がある。

 

1.   厳しい教会。

 

礼拝を守り、什一献金を献げ、聖書をよく読み、祈りを欠かさないように厳しく指導する。娯楽にふけることを禁じ、世の中と親しくなることを避け、神と教会を最優先する。

 

2.   優しい教会。

 

教会は良い人の集まりであって、社交的にもよい。神は愛であるので、信者に無理を強いることはない。教会の提供する教えは、家庭、仕事、人間関係、教養、社会に有用なものであり、教会に奉仕することも責任ある敬虔な人間として必要なことである。信仰生活を通じて神は、信者を特別に祝福してくれる。

 

皆さんは、どのように感じるだろうか。日本には第一のタイプが多く、牧師や役員も律法学者のようなイエス様の嫌う人が多い。このような教会、或いは家庭に育つと、マインド・コントロール的な罪責感、劣等感、そして極端な行動を持ちやすい。アメリカには第二のタイプが多い。ここには、競争があり、誘惑があり、これもイエス様の嫌う金持ちの生活になる。このような教会は功利主義的であり、対価や成果が問われることになり、弱者は集うことが難しい。

 

3.御霊の自由がある教会。

 

  私たちの願うのはこのような教会である。前の二つは共に、神との交流を他のもので補おうとしている。心を主に向けるということは、実際は非常に難しい。律法的になる危険を知っており、恵みや祝福を追う利益追求の危うさを充分体験しなければならない。信者一人一人がこのことを意識し、心を主に向けて、聖霊に導かれて教会を築き上げるのである。

 

  これを形成するのは、マニュアルではない。教育でもないように思う。当然、設備や集会の多様さでもない。一人一人が主の弟子になることによって、主の弟子を育てて行くしかないのである。

 

 人はある時は感情的になり、ある時は律法的になり、そしていろいろな失敗をする。それを信仰の先輩が見守り、祈り、教えて、共に歩むのである。教会はそのような徒弟制度のようなもので築き上げられると私は信じている。だから、大教会を組織的に作り上げるつもりはない。

 

 御霊なる主の働きこそ、教会の力、いのちの源である。もっと祈り、もっと聖書を読み、もっと伝道し、もっと、成長しなければならない。それは全て、御霊に導かれてである。自分の思いに左右されたり、固執したり、祈らずに行動すると大変な失敗と回り道をする。それを身に染みて悟り、主の御霊に導かれるようになることが、主のかたちに似ることなのである。

 

11月 4日   人を義とする御霊の務め  Uコリント3章1〜11節

[新改訳]  コリント人への手紙第二 

3:1 私たちはまたもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた推薦状とか、あなたがたの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。

3:2 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。

3:3 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

3:4 私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています。

3:5 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。

3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

3:7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、

3:8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。

3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。

3:10 そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。

3:11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。

 

モーセがシナイ山から十戒の書かれた石盤を持って下りてくるとき、神と会ったことにより、顔が輝いていた(出エジプト34:29)。四〇日間断食をしながら主と共に過ごし、律法を教えられたのであった。

 

  私も二一日間断食をしたことがあったが、十日を過ぎてからは非常に楽になり水だけを飲んでいれば、身体は力は出ないが健やかで頭脳は明晰になり欲望がなくなって、神と共に過ごしているような体験であった。その後、生まれつきの小児麻痺の人を癒したのであるが、終わった後の苦しさはひどいもので、二度とやりたくない。私などでも、臨在を感じ主と過ごした時は良いのだが、その後で主の福音を伝えようとするとすごいギャップを感じ、また肉体の弱さに驚くものであった。

 

 モーセが携えてきたものは十戒であり律法であった。先週も語ったように、律法は人をいのちに導くものでありながら、実際には人間の罪性故に死に導くことになってしまう(ローマ7:10)のであった。それでも御ことばによってこそ(聖書の真理)、人は救いに預かり、だからこそ、同情や慰めよりも、悔い改めに至るように、牧師やクリスチャンは御ことばを語り続けるのである。そして、耐えられないように試練の中で、ある人々は神を求め救いに至り、他の人々は人を呪ってサタンの誘惑の虜になり、滅びていくのである。

 

 律法を人は全うすることは出来ない。当然、律法があるから罪を知り、私たちの罪は、死に値することを示されるのである。つまり、モーセの伝えた律法は「罪に定める務め」(九節)であり、「死の務め」(七節)であった。律法を全うする行いによって義とされる契約であったのでそれは無理であり、用意されるのは罰しかなかった。。それでも、神と過ごした為にモーセの顔は神の栄光を繁栄して輝いていた。                

 

彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ書31:33-34)

 

 この新しい契約は、石の板ではなく、心の中に書き記され(三節)、「咎を赦され」、神を身近に体験する恵みの契約であった。

 

 多くのクリスチャンが教理を知らず、聖書もあまり覚えていないのに劣等感を感じている。エホバの証人の人々の勉強熱心や人を説得する知識に驚いている。しかし、彼らに「私は神に愛されています。」とか、「神に祈っています。」等というと、向こうが驚く。記録や書物を読まなくても、本人に会えば、その何倍ものことを知る。私たちは、聖霊によって、神とその教えを心の中に直接に教えられるので、無理して覚えようとしなくても良いのである。だから、聖書を読もうとしてはならない。覚えようとしてはならない。聖書を通して、神と接し、神に教えを請うように、人格的に語り合うように聞く姿勢をもって聖書を開くことが必要である。

 

 ともかく、このようにして活ける神がおられる。この神は人を罪に定めるのではなく、信仰によって私たちを義とすることを願っておられるのである。それならば、モーセの務めよりも遙かに栄光に包まれた務めである。私たちは、その栄光の務めに任じられているのである。

 

 そのようなことを悟るならば、私たちはこの救いの契約、教えを励まずにはいられない。それは教えられたことを義務的に伝えるのではない。愛されていること、赦されていること、救われていることを伝えることなのである。 

 

 そして、もはや自分のやってきたこと、実績や功績を誇ることもつまらないことになり、人が救われ、赦されて歩んでいるということこそが、喜びとなり、それを伝え教えたことこそが、誇りとなるのである(一-三節)。

 

10月28日   いのちに至らせる香りを放つ  Uコリント2章5〜17節

[新改訳]  コリント人への手紙第二

2:5 もしある人が悲しみのもとになったとすれば、その人は、私を悲しませたというよりも、ある程度・・というのは言い過ぎにならないためですが、・・あなたがた全部を悲しませたのです。

2:6 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、

2:7 あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。

2:8 そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。

2:9 私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうかをためすためであったのです。

2:10 もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。

2:11 これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

2:12 私が、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いてくださいましたが、

2:13 兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがなく、そこの人々に別れを告げて、マケドニヤへ向かいました。

2:14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。

2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

2:16 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。

2:17 私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。

 

「いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」(ローマ7:10)

 

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。(ローマ13:9)

 

  このように戒めというのは、罰するとか敵意や憎しみの産物ではない。却って、詩編119編に列挙されているように戒めは喜びともなるのである。戒めがあるからこそ、わきまえが身に付き、正義を知るのである。(119:104)しかし、実際は「苦しみに遭う前は過ちを犯す」(119:67)ことが多く、人は試練にあってから自分の罪深さに気が付くほど強情である。多くの人は試練に遭っても自分の非を認めず、更に試練艱難に遭う。試練というものはないのにこしたことはない。試練や艱難の多さ、大きさは自慢できるものではない。それだけ強情であり、我欲があると言うことだからである。

 

 ところが、そのような強情で罪深い者が却って神に用いられ、神に業をすることが多い。先々週以下の聖句を引用した。

 

「人がその子を訓練するように、主があなたを訓練される。」申命8.5.

 

「あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心を知るためであった。」申命記8.2.「それはあなたを苦しめ、あなたを試み、ついにはあなたを幸せにするためであった。」8.16.

 

 私は説教をいつも自分に向かって語っていると言っているが、この箇所も実感しているのである。昨日まで特伝の講師として語ったが、私にはどのような題材についても、自分自身の体験を持ち、別に他人の引用や例話を探さなくても容易に出てくる。それほど、罪深く、またいろいろなことをやってきたのであった。そして、結局のところ、わたしの心を神はとうに知っておられることを悟らずにはいられなくなるのであった。今回のテーマは「人生を豊かに生きる」であったが、今年になってその恵みをやっとわかつことができるようになったのである。

 

 庭にできるミカンを朝夕に採り続け、実のしっかりとした柿を食べ、ピンクのバラを花瓶に生ける。朝出かけるときは鮮やかに咲いた椿に心が洗われる。荒んでいた次男の主勢もすっかり落ち着き、会話が弾む。昨日はマリヤがクリニックの受付を手伝ってくれ、主愛がスイート・ポテトの入った

 

マドレーヌを焼いてくれた。3dkの散らかった狭いマンションでの混乱が終わり、嵐の後のすがすがしさのように、私の心を和やかにする。

 

 説教をし牧会をしながらも私の心の中には悲しみがあった。「あまりに深い悲しみに押しつぶされ」そうになって、主の元にぬかずいた。私を責める者は多くいた。何よりも自分が自分を責める一番の敵であった。

 

 妻と語り合い、友と交わり、そして主からの慰めをいただいた。

 

 私はもはや人を責める側には立ちたくない。口をつぐみ、ただ祈る者、慰めを語る者でいたい。

 

 しかし、現実には、人々は強情で罪深く、自分を正当化して、悔い改めない。私は主の裁きを知っている。罪に対してサタンは容赦なく攻撃することを知っている。人の言葉、聖書や祈りで心を変えるならば幸いである。

 

 牧師は神の言葉の代弁者である。人は聖書のうちで自分に都合の良いところを読みとろうとする。しかし、事実は狭き道を選び、求めるよりも与えること、十字架を負う生涯にしか祝福はない。パウロが厳しい手紙を書いたのは「あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうかを試すためであったのです」(2;9)。」パウロは、すでに赦し愛しているのに、厳しく指導するのである。それは、強情な者は「サタンに欺かれる」からであり、彼らは「サタンの策略を知らない」(2:11)からである。

 

 従順の道を選ばず、心をかたくなにするならば、恵みの時を失する。12人の斥候のうち不信仰な10人の言葉を受け入れ神にも指導者にも従わず、不平を言ったイスラエルの人々は40年の流浪を余儀なくされた。もはや悔い改めても、その失敗は取り返せない。カレブは「主に従い通した。」(申命記1:36)。

 

万引きで高い地位を失う人がいる。一度の不倫は結婚生活の崩壊と人生の破綻を起こす。日本中が堕落し罪を犯している。それでも神の法則は変わらない。悔い改めるならば神は赦してくださる。しかし、サタンは決して忘れず、あなたを脅し続けるだろう。そしてこの地上では犯した罪の責任を負わなければならない。

 

10月21日   信仰者を育てる。  Uコリント1章23〜2章4節

コリント人への手紙第二

1:24 私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。

1:23 私はこのいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたに対する思いやりのためです。

1:24 私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。

2:1 そこで私は、あなたがたを悲しませることになるような訪問は二度とくり返すまいと決心したのです。

2:2 もし私があなたがたを悲しませているのなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょうか。

2:3 あのような手紙を書いたのは、私が行くときには、私に喜びを与えてくれるはずの人たちから悲しみを与えられたくないからでした。それは、私の喜びがあなたがたすべての喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからです。

2:4 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。

 

「生まれながらの人間は、神の御霊に関することを受け入れません。。」(Tコリント2:14)とあるように、信仰というものを教えることは難しい。簡単に列挙しても、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」、「隠れた所で見ておられる父が、あなたに報いてくださいます。」、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」、「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の御国にはいるのではなく、、天におられる父の御心を行なう者がはいるのです。」、「あなたの信じたとおりになるように」とマタイの福音書の最初の方から抜き出しても、それを出来る人は少ない。しかし、長年の信仰生活というものは、確かにその通りであることを教え悟らせる。

 

 損得や打算、安易な道を選んで、長期的に祝福された人を私は見たことがない。そういう人は、自分勝手な道を選んだのに、必ず、「祈って」とか「神の導きで」とか言う。十戒ではっきりと、「主の名をみだりに唱えてはならない」と書いてあるのだから、なにか行動を起こす場合も計画を立てる時も、自分の責任と判断で行なったと言わなければならない。その自分の判断と状況は、罪人である私たちが的確であるはずがないので、主の導きと守りを常に祈り求めなければならないのである。男だけで60万人と言われたイスラエルの民に、「カナンに行け」と明確に命じられたのは確かであるが、実際に主に従い通してカナンに入ることができたのは二人だけであった。

 

  従って判断し決断しなければならない時は簡単である。損と思われる方、困難だと思われる方を選ぶ。知識や理性では行動しない。完璧な計画は立てない。いつでも予期しない出来事や事件が起こることを覚悟している。失敗や損失、恥などを全て覚悟する。人の評価を気にしない。すぐに結果を出そうとしない。無理をしない。いつも他の人と話し合い、意見やアドバイスを聞く。公言したことも平気で覆す。要するに、自分の判断、決断、見解にあまり自信を持たず固執せず、常に主の導きと判断を仰ぎ続けることである。聖霊は、主の御計画と目的に導くナビゲーターであると思う。ナビゲーター(案内人)は、私たちが短期的に目的地を設定しても結局は、最終目的地に導いてくれる。ところが、生まれながらの人は、ナビゲーターに聞き従うことをしない。

私は、職業選択(献身)にしても、結婚にしても、千葉に来ることにしても、その後の生活にしても、自分から選んだことはない。自分の賜物、性格は、人を活かすことであると信じている。最初に、出エジプト記三十一章のベツァルエルの所を読んだとき鳥肌が立って、「これだ」と自分の生き方に気が付いた。聖所に必要な物を巧みに作り上げること、これは、召し出されたクリスチャンを神のご用に立つように巧みにアドバイスして、その人の生き甲斐、能力、賜物を引き出すことではないか、と判断したのである。

 

  先週語ったように、パウロの予定した計画は変わっていった。しかし、もし変わらなければ、コリントにすぐに着いて、悔い改めていない信者を罰する以外なかった。遠回りをしているあいだに「その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で充分ですから、赦し慰めてあげなさい。」(6,7)という時間が稼げたのである。

 

  この教会は昨年、ある不貞を犯した人を除名処分にした。しかし、私は十年間祈り続け、配慮と指導を続けたつもりである。それでも彼は造反を繰り返し、裏で牧師批判をして十名くらいの人を躓かせてきた。私は、それでも牧師としての自らの至らなさを認め、彼の主にある成長と悔い改めを願ってきた。ついに一年がかりで、明確な悔い改めと責任を取ることを文書で迫ってきたが、言い訳を言うばかりで回答せず、結局逃げてしまった。私たちは彼をそれ以上追求していないが、私の心の中には、今でも彼への深い愛がある。

 

今年、教会と牧師の批判をして去った人にも私には、深い重荷がある。心のあがきと取りなしの思いは、決して、私の個人的な思いではないと思う。去った時は、この教会より良い教会はいっぱいあるから、あっているならその方が良いだろうと思った。しかし、祈ると、その人への取りなしが起こってくる。主は私たちが「信仰に堅く立つ」(24)ことを願っておられる。心の傷を隠し、他人を非難し、自らを正当化しても、決して主にある成長はない。

 

人は何故、わざわざ頑固になって罪を犯すのだろうか。「私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。」(4)

 

先週もまた、頑固な決意を聞きました。若者の行動は危うい。戻ろうとしても戻れなくなるような道をわざわざ主の導きと称して進もうとする。我らの主は、ただ天において罪人なる私たちを取りなしていてくださる。

 

10月14日   神の計画の展開。  Uコリント1章15〜22節

パウロは紀元55年前後にコリント教会の混乱を収めるためTコリントを執筆した.その後,教会の混乱が収まったかどうかは不明である.しかしパウロは,再びコリント教会に問題が起きたとの情報をエペソで得て,解決のためコリントに赴いたが,結果は不調に終った(2:1,13:1).エペソに帰った彼は,「涙ながらに」コリント教会に書簡を書き(2:4),テトスに託した.エペソでの働きは終り,パウロはトロアスに来た.トロアスは伝道有望地だったが,彼はコリント教会の成行きを案じてマケドニヤへ渡り(2:12‐13),そこで,コリントから帰ったテトスに会い,教会の悔い改めを聞いた(7:5‐16).この朗報に接してマケドニヤから書いたのが本書である.

 

パウロはコリント教会訪問を通知しており,Tコリ16:5の予定を変更し,エペソからコリントに直行する計画だった(1:16).この計画が再度変更され,彼はマケドニヤ経由でコリントに行くこととなった.この変更はコリント教会軽視と見られ,パウロの誠実さをも疑わせるものだったので,パウロは弁明を行う。パウロは霊的父・使徒としての自分の立場(14)を確信し,コリントを2度訪問して恵みを2度与える計画を立てた(15‐16).これは〈軽率〉(気まぐれ)な計画でも,〈しかり〉と〈否〉を同時に語る(好意的計画を語りつつ内心では実行を否定する)不真実な計画でもなかった(17).彼の真実さは宣教内容から明らかである. 〔以上、注解より〕

 

コリントの教会はいろいろな面で、まだ不安定な教会である。

 

人の行動や真実性をすぐ疑って、非難や批判をし、交流を損なってしまう人がいるが、それは自分自身の現れである。コリントの教会もパウロがエペソからすぐ来るとテトスから聞いて悔い改めたが、直行せずマケドニヤ経由で来ようとして手間取っているのを知って、パウロを批判しているのであった。未成熟な自己中心な人は、他人や物事を思い通りに動かそうとし、また自分の分析によって人を捉える。

 

人は試練に遭う。思い通りに行かないから試練であるが、それは他人や社会のせいにはできないものである。それでも言い訳や愚痴を言いながら、試練に呑まれ、更に挫折していく人がいる。

 

「人がその子を訓練するように、主があなたを訓練される。」申命8.5.

 

「あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心を知るためであった。」申命記8.2.「それはあなたを苦しめ、あなたを試み、ついにはあなたを幸せにするためであった。」8.16.

 

不信仰な人は、信じることが難しい理由を探す。信仰者にとって、状況は関係ない。石原師の「決断の時」という説教を聞いて田中兄が洗礼を決心したと聞いたが、決断するならば、他人の理解や状況も関係ない。「信仰とは神への信頼」であると何度も語っているが、神を信じるのも人を信じるのも腹を括れば何でもない。試練というものは、この覚悟に目覚めさせるのである。

 

親が子供を愛し自分を費やそうと覚悟したら、子供が荒れようと、旨くいかなかろうと関係ない。神を信じたら、自分が旨くいこうと、失敗しようと、拘らないで神を信頼して生きるべきである。目先のことに捕らわれ、小手先の利益に左右される人は、必ず試練に遭う。それは幸いである(ヤコブ1.2.)。「神を信じさせてください」とか、「神様、私を祝福してください。」などと言っていても何にも始まらない。神はおられ、神は祝福を用意しておられる。信じて歩むならば祝福される。状況に左右される人は、いつまでも神ではなく、人や状況に左右され、愚痴や非難を言い続ける。

 

神は計画を立てられている。パウロがコリントに直接行くように導いたのも神であり、それを行かなくさせたのも神である。そのような状況の変化に左右されないで、真に神に悔い改め、パウロを暖かく迎えた者が神に祝福されるのである。旨くいかない時にこそ、真実な信仰が現れる。神は偽りの信仰者を決して受け容れない。

 

 パウロが宣べ伝えたキリストは,神の救いの約束のすべてを成就した(「しかり」とした)方だった.この神の真実をたたえ,教会は〈アーメン〉(「真実に」の意味)と唱えている(18‐20).この神は,今も,入信者をキリストに結び,聖霊を与えて救いの完成を保証される真実な方である(21‐22).この真実な神のしもべとして宣教するパウロの言葉が,今回の旅行計画通知において不真実であるはずはない(18)のである

 

 牧師宅の購入も思わぬ銀行の悪化によって困難とされた。でも私はいつでも退く用意をしていながら、決して条件を変えようとは思わなかった。成るものは成る。バーベキュー・パーティーも雨の中であったが、やれば楽しく出来た。私たちの教会の理念にあるように、決して状況に左右されてはならない。恐れて進まない人は、決してカナンの地に入れなかった。人生旨くいくはずがない。しかし、神の計画と、御心は必ず成る。毎日の生活も、自分の頭で計画し過ぎてはならない。神の介入による展開をいつも用意していなければならない。

 

御心は必ず成る。毎日の生活も、自分の頭で計画し過ぎてはならない。神の介入による展開をいつも用意していなければならない。

 

10月 7日   人間的な知恵に拠らず行動する。  Uコリント1章12〜14節

[新改訳]  コリント人への手紙第二

1:12 私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。

1:13 私たちは、あなたがたへの手紙で、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません。そして私は、あなたがたが十分に理解してくれることを望みます。

1:14 あなたがたは、ある程度は、私たちを理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであるということを、さらに十分に理解してくださるよう望むのです。

 

「愚か者は心の中で『神はいない』と言っている。」(詩編53:1)

 

人は知恵を尽くして生き抜こうとする。知恵を尽くせば、人より旨くいき、利益を得ると考えている。しかし、実際には、いくら知恵を尽くしても物事はその通りにはいかない。コンピューターで全ての可能性を考慮するとしても、それをプログラムしたのは人間であり、全ての不測性まで捉えられない。その不測性を補おうとすると膨大な費用と時間、労力が掛かる。それでも実際は予測を超えた不可思議な現実が起こる。

 

人や資金、知識その他何でもやりくりして、旨く生きる人がいる。それでも人生は、いつまでも思い通りには行かず、また、人の何倍も疲れ果ててしまう。寿命というものは、時間を隙間なく生きた人には短いものである。たとえ、長寿であろうと、やりくりに時間を費やした人の人生ははかないものであり、自らの人生を味わって生きたとは言い難いのではないか。人やものを動かすのではなく、自分が自分を喜ぶ、つまり、自分の存在を確認することが、大事なのである。

 

私は貧乏な商人の子供である。9人兄弟の末っ子で、兄や姉が貧しさに耐え勤勉に働いてきたのを知っているから、他の子供より貧しくても我慢してきた。欲しい物をねだるということは、とてもできなかった。お年玉など決して使わず、何年も貯めて小5の時、自転車を買った。だから本当に大事に掃除した。盗まれた時は、心臓が止まるかと思うほど、落胆したが、じっと耐えた。3日後に出てきた時は、涙が出てきた。一般的な教養を何も知らず、知られないような環境で育った。だから、一生懸命、本で学んだ。図書館の本は数千冊、殆ど読み切った。音楽を聴くことは出来ないから、教本にある楽譜をトランペットで演奏し、旋律と題名を覚えたが全体を聴いたことはなかった。全くの音痴だったから、無理にブラスバンド部に入ったのである。

 

知恵と努力で生き抜いてきた。金も稼ぎながら、普通の高校生の体験するものを身に付けてきた。そして、我が家で初めて大学に行き、アルバイトと奨学金で生き抜きながら、リーダーシップを磨いた。成功者になろうといつも努力してきた。異性への関心も拘束されて将来性を失うことのないように、いつも距離をおいて恋人は持たないようにした。自分を向上させようとする願いが、心を占めていた。しかし、青年期は不安定なものであり、虚しさと寂しさが、更に無理な生き方を強いていた。

 

そんなとき神に出会った。そして、これまでの考え方、生き方を放棄した。「真理は人を自由にする。」(ヨハネ8:32)の聖句が好きだが、真理を知ったら、これまでの栄達、成功を求める生き方が馬鹿らしくなった。しかし、クリスチャンになったら、牧師を初め人々のニーズが私に掛かってきたので、それを満たそうと、また一生懸命に信仰生活を生きた。

 

 そして、疲れ果て、人を裁き、批判して、いつのまにかクリスチャンになる前に嫌っていたような人間になっていた。聖書は真理であり、神は生きて働く全能の神なのに、どうして、こんな厭な人間になったのかと、自問した。

 

 私は、努力し、自分の知恵と能力で生きる習性から抜けられなかった。独身の時は、それでも誤魔化して良い人間でいられたが、結婚し、多くの責任を負うと、そのストレスが私を苛立たせた。

 

 不整脈になり、死を近くに感じて初めて、神の臨在が圧倒的に自分を覆っているのに気が付いた。神を信じていると言いながら、自分の能力で信仰生活を生き抜いている自分の限界に気が付いた。妻を責め、信者を非難し、他の牧師を批判していたのは、自分の知恵で信仰生活を勝利させようとしていたからであった。

 

 死を間近に体験して、恵みが私を覆っているのに気が付いた。

 

それからもう、一四年も経った。少しずつ、「人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動」(12節)することを学び、身に付けてきているが、まだまだ、自我の塊である。

 

 ともかく、恵みによって生きようとすると、多くのことを体験する。

 

1.   腹が立たない。イライラしない。批判的にならない。

 

2.   旨くいかなくても気にならない。思うようにならなくて当たり前。

 

3.   自分の成果、業績、意見が大したものでないことに気が付く。

 

4.   いつも祈っているようで熱心には祈っていない。断食もしない。

 

5.   何をしても楽しい。得ることも多い。

 

6.   人や状況の真実がよく見える。

 

7.   何にも関心があるが、いつも神の御心を考えている。

 

8.   死や敗北、事故を覚悟し、また、人がそのようにならないように祈っている。

 

 この調子であと、五〇年も生きたら、すばらしい主の弟子になれそうな気がする。

 

9月30日  神に拠り頼む者となる為  Uコリント1章8〜11節

[新改訳]  コリント人への手紙第二 

1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、

1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

1:11 あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。

 

アジアで遭った苦しみとは何だろうか。

 

使徒一四章を読むと、パウロは第一回伝道旅行のルステラで生まれながら足が萎えていた人を癒したが、反対者に扇動されて石打ちをされ、半殺しの状態になっている。この時人々はパウロが死んだものと思い、町の外に引きずり出している(14:19)。後にパウロはこの時、確かに魂が天国に行き、神の栄光を見たと証言している(12:2)ので、仮死状態になったことは間違いはない。

 

しかし、ルステラはアジアではない。当時、アジアというのは、現在小アジアと言われるトルコの西、ギリシャに接する地方であって、第二回伝道旅行で行ったトロアスやエペソでの出来事であると思われる。この手紙は代三回伝道旅行の途中にピリピあたりで書かれたと思われ、その途中にもエペソとトロアスにも寄っている。この旅はコリントを終点にして帰っているので、パウロはコリントの教会を非常に大事にし、心配していることがくみ取れる。

 

Tコリント15:32には「エペソで獣と戦った。」と書かれ、「毎日が死の連続です。」(31)とあるように、パウロの伝道の壮絶さが知らされる。パウロはこれを「人間的な動機から」ではないと言う。つまり、意地や自己満足でこれらをしているのではない。「堅く立って動かされることなく、主の業に励みなさい」(15:58)とあるように、全能の神の勝利を確信しているし、主にある労苦が全て覚えられていることを知っているからである。これは労苦に報いがあると言うよりも、むしろ他の人々や後の為に必要な労苦であると確信している覚悟であろう。

 

そのパウロが「非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにはいのちさえも危うくなり、死を覚悟した」というのだから、大変な試練・迫害であろう。

 

それをパウロはそのままコリントの人々に書き送る。それは彼らが試練に動じないようにという配慮・危惧からであろう。

 

多くの人が試練や事故、失敗に怯える。

 

今回のアメリカのテロも人々の恐怖心を煽るという点が世界貿易センタービル破壊以上に、アメリカ経済、そして世界経済にダメージを与えたであろう。今や、人々は安心して飛行機に乗れなくなった。高いビルや有名な場所、政治経済に重要な場所にいることに不安を感じるようになった。ブッシュ大統領が反撃を盛んに叫んでいるが、人々はその効果を信頼せず、自分の身に及ぶ破滅を信じてしまう。

 

日本の不況は更に深刻になり、大企業に対する信頼感はなくなってしまった。国民は政府も信頼せず、狂牛病ばかりでなく、正体不明の病気や疫病なども恐れている。頼りにした年金も目減りし、預金の利息も付かない。株は安くなる一方であり、負担は増える一方である。

 

もし、クリスチャンが以上の様な不安を同じように抱えているのならば、今こそ、「自分自身を頼まず、神に拠り頼む者となる」べきである(1:9)。

 

私たち夫婦も、破産し掛かったことは何回もある。病気になり疲れ果てたり、心臓が不整脈となったときの胸の圧迫感は忘れられない。やくざにも脅され、詐欺に遭い、泥棒にもあった。脅かされたこと、非難されたこと、町中の非難を受け、怒鳴り込まれたことも数多くある。信者が皆いなくなり、経済的な破綻にあっても私たちは逃げることができず、苦況に遭いながらじっとただ耐えた。涙が止まらず、悲しみは心臓を張り裂けてしまいそうでも、祈ると聖霊による平安が訪れた。苦しくて苦しくて、いつも鬱になりながら、子供の笑顔を見ると、たまらなくて泣き出してしまった。毎週何回もある説教が苦痛で、何時間書けても、何を語ったら良いのか途方に暮れていた。それでも、自分の語る説教に励まされ、自分で御ことばに打たれて感謝の祈りをするように導かれたのであった。

 

わたしも言いたい。「兄弟達よ。私たちがあった苦しみについてぜひ知っておいてください。」(8節)。誰にも苦しみはある。信者であろうと未信者であろうと試練はある。しかし、質が違う。

 

 伝道に一生懸命でなかったら、私たちもあのような試練には遭わなかったろう。しかし、あれらの試練によって、私は、神に拠り頼むことを身に付けた。罪人が自分の罪の故に試練を受けるのは、苦しいことである。信仰者はキリストの十字架を伝えるが故の試練に遭う。他人の罪深さ故の試練を甘んじて受けるならば、神の祝福を得るだろう。神は必ず「私たちを救い出してくださいました。なおも、救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」(10節)。十字架を負って生きることの喜びを知るから、祈りを身に付けるのである。

 

 信仰者にとって大事なこと、必要なことは知恵でも知識でも、能力でもない。神に献身することである。

9月23日  人を慰めるために  Uコリント1章1〜7節

コリント人への手紙第二

1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。

1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

1:7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。

 

「自分は優秀であり、人の助けはいらない。他人に迷惑を掛けたことはないし、失敗もしたことはない。」このような自己意識を持っている人が、高齢になったり、病気になったり、失敗をしたら、どのようになるのだろう。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても」ということばで、私はTコリント書を説明してきたが、この第二の手紙でも同じ様な趣旨は貫かれる。教会は、罪人であり、愚かであると自覚する人々によってこそ、愛と赦しの実現する健全な教会として成長する。

 

長く信仰生活を続けると、落ち着いた品性と謙遜、喜びが御霊によって形成されてくるが、クリスチャンというものは、必ず自我の罪深さを体験し、自己とその能力によっては何の良いものをもたらさないということを悟らないと、主の弟子になることができず、そのような御霊の実を実らせることもできない。

 

従って、クリスチャンは神の恵みにより、御心により、また、罪深い世とサタンのたくらみにもより、必ず耐えられないと思われるような試練に遭わなければならない。そして、そのような試練によってしか、得られないものがあるのである。

 

1.神の慰め。

 

言い訳やごまかし、つくろうことをする人は、神の慰めを必要としない。思いが神に向くことがなく、他人の目にどう映るか、みっともないようなことがないかどうかを気に掛けている。人を非難し、批判してきたので、自分がそのような対象になるのを恐れるのである。

ところが、神に召された人は、神の御心を思い、自分に苦しんで神に叫ぶ。或いは、神に叫ばなければならないような状況に立たされる。それでも、神に叫ばず、適当に対処して言いつくろう人がいるなら、神の恵みから外れる。

その時だけは悔い改め、反省しても、神の御心を実行しようとしない人は、御霊の感化を必要としないので、個人的に神に叫ぶことはない。

祈りが願い事ばかりで、御ことばを読み、神の思いを探るデボーションのできない人も、やはり神からの慰めを受けることはできない。

 

2.苦難に耐え抜く力。

 

勝利ばかりを願う人は、せっかくの試練に学ぶことがない。神と御心の深さを知ることもない。忍耐というのは、うまくいく保証のないものである。「神にみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(ヘブル10:36)とあるが、黙ってコツコツと努力し働くことができない人が多い。神を信じるからこそ、耐えることができ、また、聖霊なる神が、忍耐を与えてくださることを体験するのである。

 

さて、そのように神からの慰めを受け、忍耐を与えられた人は、その結果勝利をするのだろうか。願い通りのことがかなったのであろうか。

実際は、そうとも限らない。ローマ5章には、艱難が忍耐を生み出し、練られた品性を生み出し、希望を生み出すと書いてある。しかし、その希望は、私たちが敵に勝ち、問題を解決し、成功をするという次元のものではない。問題や試練に直面し、大きな敵に出会ったからこそ、神に叫び、祈り、慰めを得ながら忍耐をし、神を信じて来たのであった。でも、そのようなことに直面し、神を信じ、信仰を強めてくると、現実の社会生活を超えた、希望、神の深い愛に気がつくようになるのである。

 

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」)ローマ5・5

この神の深い愛を体験すると、私たちは、自分のことを忘れ、他の人々を愛し、励まし、慰めることができるようになる。そして、私たち信仰者の願いである、自我の確執から(罪から)離れるようになり、互いに祈り合うことができるようになるのである。そして、それらのことによってこそ、真に教会が築きあげられるのである。

9月16日  白髪は光栄の冠  Uテモテ4章5〜8節

日本は世界一の高齢化社会である。高齢化社会における問題点の取り上げ方には種々あるが,その観点が「長生きが真に幸福であるために」ということでは共通しているはずである.長寿=長い老後=余生=退屈(つまらない)という高齢化社会であってはならない.「生の質」を高めることと相まっていなければならない.ここに,キリスト者として,また教会として関与すべき重要な部分があると言える。

 

「白髪の老人の前では起立し、老人を敬い」とレビ19:32にあるように、高齢者に対しては高齢であるというだけで尊敬され、丁重に応対されるべきである。ところが、現在は、政府主導で高齢者を邪魔者扱いし、財政赤字の原因として軽んじている。高齢者が社会にとって非生産的なものとして扱われ、失礼な表現であるが廃棄物のような捉え方をされている。しかし、私たち自身にも人生や人間の価値を労働生産性に置いているようなところがある。先日のメッセージでも語ったように、私たちは神を讃美し、礼拝するために存在するのである。

 

一.老いを充実させるためには、それまでの生活を充実させなければならない。

 

人との交流を大事に毎日保っているだろうか。会話や共通の趣味のない夫婦は夫の仕事がなくなったら共に過ごすのが苦痛になるだろう。仕事のみを重視する人は歳をとったら、犠牲にしたものからの攻撃や賠償を受けるだろう。子供達を多くの犠牲をもって教え育てあげることによってこそ、親は尊敬を勝ち取ることができるのである。仕事のみの友人知人しか持っていない人は、人と心を割って交流する術を知らず、世間話しと自慢話ししかできなくて、孤独を味わうことになるだろう。

 

二.老いを充実させるためには、健康の管理と休養をとらなければならない。

 

休息を取らない身体は病気になって強制安息を強いるようになる。食事と栄養を充分に摂らず、酒たばこ、嗜好食品などにふけると歳をとったとき、そのツケを請求されることになる。睡眠に八時間、仕事や生計のために八時間、食事や憩い、趣味に八時間が適切であり、その他、週一回の安息日が必要なのである。それ以上、働くことが必要とされる仕事は、考え直して仕事を選ぶべきである。食事に好き嫌いのある人も、軽んじる人も高齢になって痴呆になることが多い(当然それだけが原因ではない。)運動をしない人は、足腰が立たず病気にもなりやすい。

 

三.老いを充実させるためには、正しい生活を過ごさなければならない。

 

不正に与したり犯罪を犯したり、悪に妥協しては、尊敬されることも信頼されることもない。ごまかしをしたり、言い訳を言うような人が,仲良い友人を保つことは難しい。

 

四.老いを充実させるためには、神を信じ、畏れ、聖書から教えを受けることが必要である。

 

   神を信じなければ自己中心になり、教えを学び従うこともない。平気で罪を犯すこともできる。

 

さて、このように人が高齢になるまでに充実した生活を願い、すごすことによってこそ、高齢者を尊敬し、大事にして、その知恵と力によって助けられる社会が構成されるのである。高齢者相手に自慢をしてはいけない。黙って、その語ることを聴くことが必要である。そのような姿勢によってこそ、私たち自身が長寿を全うできるのである。

 

エペソ人への手紙6:2―3. 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。

 

9月 9日  燃え             ルカ12章49〜50節 ローマ12章11節

アブラハム・イシハラ

【帰化前の名は 石原 正治(まさはる)】

 

1949年(昭和24年)6月27日岐阜県美濃加茂市にて誕生。

 

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団中央聖書学校卒

 

日本福祉大学社会福祉学部卒

 

米国ミズーリ州カヴェナント神学校卒

 

1985年、神学校卒業と同時にカリフォルニア州サンホゼに来て、以来、開拓伝道に従事。

 

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団補教師を経て、1987年米国アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団正教師。

 

中央聖書学校時代の同窓生である、シンシア夫人との間に、二人の子供(ルーク、キャロル)がある。

 

私達が、アメリカで伝道しようと思ったきっかけの一つは、北アメリカ大陸には当時も今も、一つとして、 整えられたペンテコステ派の教会が見あたらなかったからです。他の殆どの教派は、会堂もある、日本 語部/英語部のある立派な教会があるのですが、ペンテコステ派の教会がないとは、実に不思議です。

 

私達が着任したのは85年9月で、それから働きが始まりました。殆ど開拓でしたが、少なくとも最初から、 手当がいただけた(200ドル)ことは感謝でした。最初の、2、3年は、非常にゆっくりした動きでした。 けれども、年に2―3人の受洗者がありました。サンホゼだけでなく、サンホゼから、だいたい70マイル (110Km)位南に下がったシーサイドという町にも出かけて集会をもっておりました。

 

そして92年、私達は思いもかけなかった教会堂を購入することが出来たのです。その後、学生さん達の、 卒業・帰国が続き、おまけにアメリカの入国審査が厳しくなったこともあって留学する人が少なくなり、教会はかなり寂しくなりました。

 

更に追い打ちをかけるように、96年、教会が教会として使えない羽目に追い込まれました。それは、私達 が買った建物は『一般住宅』であって、アメリカでは、一般住宅を教会として使うことは、ルール違反だからです。けれども、今は使えなかった教会堂の建物も、使える見通しになり、少しづつ開けてきた将来に期待して 伝道に励んでおります。伝道開始から現在までに、受洗者は49名です。

 

私自身も日本にいた時は、「なんでアメリカくんだりで伝道せねばならないのか」と思っていました。 けれどもアメリカで伝道してみて言えることは、キリスト教会がやらねば異端・異教がどんどん伝道を進めるということです。現に日本の殆どの新興宗教は、私達の住むカリフォルニアに伝道拠点を持っ ています。

 

キリスト教会の影響が強いはずのアメリカでも、特にカリフォルニアの都会では、どんどん その勢力を食われているように見えます。97年、初めて私達は北カリフォルニア日系教会同盟の聖会 に参加しました。そこでホリネス・ロスアンゼルス教会の溝口先生が訴えられたのは、「アメリカの日本人 伝道は、日本人がいる限り、無くならないし無くしてはならない」で、私も「アーメン」と思いました。

 

そういう環境で、私達ペンテコステの流れをくむカリフォルニアの星教会は、もう一度聖霊様の油注ぎ を新たにしていただいて、特にアメリカに住む日本人・日系人の伝道のために邁進してまいります。

 

まず、教会堂の使用許可の早期取得達成とカリフォルニアの星教会自身の強化、老人の多くなる21 世紀に向けて、老人ホームの開設、海外伝道への協力(日本への宣教師支援・現在応援している エルシャダイ教会への継続支援)、カリフォルニアの星教会南カリフォルニア開拓などを、祈っています。

 

(以上、ホームページより引用)

 

 

9月 2日  主にある聖徒の交わり  Tコリント16章19〜24節

いつも言っているように、それぞれの教会には、その教会を支えている有名な信徒がいる。教会の評価、或いは神の評価と世の中の評価は明らかに異なるので、彼らが社会で有力であるとか、力があるというわけではない。却って、地位もなく財産もなく全く目立たない場合が多い。私は、そういうわけで、クリスチャンの新聞や雑誌が目立つ人、証しになる人ばかりを取り上げ、センセーショナルな記事を書き上げようとするのは好きではない。

 

  教会の使命は当教団の信仰綱要(基本的真理に関する宣言)によると3つある。

@   世界宣教をなす。

A   神を礼拝する共同体となる。

B   キリストの身体として信徒を建て上げる。

 

 さて、これらをどのように遂行するか。日本人は勤労的な民族なので、伝道を強調すると、AやBが損なわれることを私は見てきた。Bを強調すると縦割り社会の絶対服従のような異常な宗教集団ができる恐れがある。私は教会形成にAを強調するつもりで牧会をしてきた。

 

  神を礼拝するとは日曜礼拝に出席することだけを意味することではない。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手の業を告げ知らせる。」(詩編19:1)とあるように詩編は全てのものが神を誉め称えるべきことを宣言している。花が神を誉め称えるために咲くのならば、人間はどのように生きればよいのだろうか。

 

  日曜礼拝は私たちが日々神を礼拝するための型である。

 

@   神を讃美する。

 礼拝は讃美であると言っても構わない。世から召し出されて来た聖徒が共に神を讃美するのは天国の様相でもある。

 

A   信仰を告白する。

 私たちは信念を持って神を信じ、世とは一線を引いて生きる。それを共に告白するのである。世の中に流されない、誘惑に負けず、悪と戦う決心をするのである。それは魔術的なお題目ではない。

B   祈り。

 主に守られたこと、恵みを受けたことを感謝し、また他の聖徒のための取りなしを心を合わせて共に祈る。

 

C   信仰の証し。

 御ことばを信じ、神に従ったことによる恵みの体験を証し、共同の体験として喜びを共にする。

 

D   聖句の朗読。

 みことばを口に出して告白し、神からの語り掛けを聴く用意をする。

 

E   説教

 説教は御ことばの解説であり、説教者を通して、神は会衆に語りかける。会衆は、御ことばの宣言にアーメンと同意し、また、自らへの語りかけを聞き取る。説教は決して一方的なものではなく、分かち合いである。(ガラテヤ6:6)

 

F   祈りと決心。

 

 説教に反応して自らを吟味し、神に喜ばれる生き方を探り、自分の考え方、生き方を変える。(ローマ12:1,2)

 

G   感謝と献げもの。

 自らの決心を告白し、神に再び新たに献身をして、献げものをする。

 

 日々の生活がこのように御ことばの学びによる自己吟味と献身、そして讃美に満ちていたらそれは礼拝である。

 

 教会を支える人々、主にある兄弟はこのようにして、心からの喜びをもって交流を保つことができる。彼らには私心がなく、虚栄心もなく、互いに相手のことを心から愛し配慮しているので、豊かな交流ができるのである。

 

 教会がそのような献身的な人々を基盤として築きあげられなかったら、それは教会ではない。教会のように見えても嵐や試練によって脆く崩れ果ててしまうであろう。パウロは、そのような人々を心から称賛し、神の家族として信頼するのである。

 

 「主を愛さない者は誰でも呪われよ」(16:22)とは、事実をそのまま指摘したのであって、パウロの苦しみの叫びでもあろう。確かに、主を愛さない者は、旨くいかない。自分を愛し、世と世の欲を愛する者は滅んでいくのである(Tヨハネ2:17)。

 

8月26日  友を迎える  Tコリント16章10〜18節

パウロの生涯は、伝道旅行ばかりである。劇的に救われてから三十数年間伝道のために行ける限りの所に行き、伝道を繰り拡げた。このT書の後は、コリントU書が始まるが、十一章などの旅の難、迫害、試練を知ると壮絶な生涯に感動を受ける。NHKの大河ドラマは来年は吉川英治の宮本武蔵だそうであるが、武蔵の独身を貫いた剣の道にも感動した思いがある。

 

聖研で、人は結婚すると皆、主にある誠実さを忘れ、聖さから離れてしまうことを学んだが、自らも初めの愛を離れ(黙示録2:4)、献身から堕落に道を踏み外してしまわないように「目を覚ましていなければならない。」(十三節)

 

アブラハムは突然訪れた旅人の常人ならず神の人であることをすぐに見抜き、大変なごちそうを持って接待している。「彼は日の暑い所、天幕の入り口に座っていた。」(創世記18:1)とあるが、暑い日でも神を思い、祈り深く状況を把握し、更に「見るなり彼らに走っていって地にひれ伏して礼をした。」そしてサラに上等のパン菓子を作るように命じ自らおしそうな子牛を取り分けた。という行動力と気前の良さに驚く。

 

「与えなさい。そうすれば与えられます。」という信仰の原則があるが、ケチな人は、小さなことを惜しんで大きな損をする。私はもったいぶって人に物をあげる人は好きではないし、そういう人とはつきあいたくもない。しかし、与え会う友、分かち合う友、知人は大好きであり、大事にする。

 

要するに、旅人をもてなすことや、友人と付き合うこと、客を迎えることの中に信仰の大きな現れがあると思われる。三人の神の人を大変なもてなしで迎えたアブラハムに、神はサラの出産とソドムとゴモラへの裁きを伝えている。飢え渇き必要とする物が多い人に、与えもてなすことは、神に喜ばれる。信仰者とは、宗教活動に一生懸命になることではなくて、人を愛し、支えて、神を喜ばし、神を喜ぶ人のことを言う。

 

イエス様は偽善的宗教家を憎まれた。自慢したり、人に誉められたくて慈善をする人は、神に喜ばれることはできない。礼拝を守り、献金をし、教理を理解し、祈りもする。しかし、親しい友人がいない。心を割って話し合うことがない。という人は気を付けた方がよい。自分の心をさらけ出せない人は、心を誤魔化している。あなたの真の姿を知られたら、親しくくなれないと生活を形骸化しているのではないか。自分を信仰者などと自惚れないことだ。信仰の友がいなくて、信仰者とは言えない。

 

@   友を良く知ること。

 

パウロはテモテを弟子として友として扱い、その性格を良く知っていた。

 

A   友を信頼する。

 

  何をしようと友を信頼する。十年もすると親友になれるかどうかわかってくる。私はクリスチャンになって信頼できる多くの友を得た。

 

B   目を覚ましている。

 

友とは良く語り合い、その必要としていることを知っていることが必要である。友情は自分のことばかり考える人とは成立しない。

 

C   堅く信仰に立つ。

 

 罪を犯し、誘惑に負け、感情に左右されると自ら友を失う。

 

D   男らしく、女らしく。

 

 愚痴を言ったり、他人の悪口を言うような人は友ができない。優しく思いやりがあり、同情に満ちている人には多くの人が集まってくる。疲れたら休めばよい。悲しければ泣けばよい。しかし、人の同情を買おうとしたり、他人に訴えたら、友を失う。神を信じ、祈る人こそ、強くあり、人を引きつけ、神の祝福に満たされる。

 

E   一切のことを愛をもって行う。

 

 損得、自分の都合、状況、などに左右されたら、人を愛することはできない。自己中心な人は友人ができない。

 

 家を購入できることを心からうれしく思っている。これまでは狭く、忙しくて客を迎えることも食事に招待することもできなかった。子供が小さい時にはいつも客が来ていたのに、この六,七年は誰も立ち寄らせていない。多くの人に出入りをして欲しい。子供の友達も多く来て欲しい。そんな暮らしをやっとできるようになりそうで、うれしい。

信仰生活は自分だけで過ごすものではない。独りよがりの信仰は、天国の門で拒まれる。天国のパスポートには多くの証人、友人の証明印が必要であろう。

 

8月19日  献げ尽くしたパウロ  Tコリント16章1〜9節

パウロは一二弟子のうちイスカリオテのユダが抜けた代わりに神が任命した大使徒であり、パウロ無しには聖書もなく、キリスト教も今の姿はなかったと、言ってはいけないが、言いうる人物である。四人の福音書筆記者も大使徒ヨハネやペテロの手紙もすばらしいが、やはり神学はパウロの手紙に負うところが大きい。聖書霊感は、筆記者の能力や性格にも依存するので、これほど学問が有り、また献身して宣教に勤しんだ人物を神は用意しておられたのである。

 

アブラハム、ヨセフ、モーセ、ダビデ、イザヤ、などの神の器に並ぶ新約時代の巨人である。しかし、神の器は、彼らで終わることなく、教会時代は聖霊により、更に大きな働きをする信仰者が続出することになる。

 

「聖」とは、通俗な日常的なものから引き離されているもの、また神にささげるために聖別されているものを言うが、聖人は、まさに神に全くついた人物を示すことである。そして、聖霊に導かれ、聖書に教えられて、この教会時代には、全くの凡人が聖人のごとく、首イエスの弟子として、神に全く依存した信仰生活を送り、福音を伝えていくのである。

 

中国でクリスチャンに対する迫害がひどくなっているそうである。しかし、刑務所で伝道ができるので、拷問を受けても投獄されても、迫害はそれほど問題としてはいないということである。父親が投獄され、子供達が飢え苦しんだので周囲の人は「おまえの父は悪い親だ」と非難したが、それでも守られ、祝福されているという。まさに、現代の主の弟子たちであり、聖人である。

 

ところが、日本は先週話したとおり、戦時中も、その後も、信仰による試練を避ける傾向がある。中国では迫害よりも異端や聖書的でない信仰が心配されている。日本でも歴史においても、信仰の危機は、この世から来る堕落であり、罪である。

 

パウロは信徒たちに大胆に献金を命じている。@日曜毎に、A収入に応じて、B資金を蓄えておく、ということは教会の運営に必要なことである。教会は収益企業ではない。牧師も、教会総会で承認された給与以上に支給されることは禁じられ、また蓄えをするような余地は一般的にないものとされる。つまり、教会とは伝道するために存在し、そのために信徒を教えて弟子化するものなのである。教会は教会員の憩いの為に存在するのでも、コミュニティーでもない。罪の赦しの福音を伝えることが使命命なのである。

 

私はそのように考え、魂の救われた者は直ちにそのような生活に入るものと判断していた。ところが、開拓をし伝道をし牧会をしてみて、日本ではそれが通じないことに気がついた。

 

@  日曜礼拝を守ること。

 私たち夫婦は当然なこととしてこれを守り、何よりも優先してきた。しかし、多くのクリスチャンは仕事や用事、家族の憩いの方を優先している。

理由があれば、礼拝を休むこともしょうがないという感覚である。言い訳を言う人が多いのもこれと同じ観点であろう。

 

A  什一献金

どんなに金がなくても食費がなくても献金は最優先してきた。神の祝福を失うことを最も恐れたからである。義務ではないから、別にいくらでも良い。しかし、状況に応じて(左右されて)献金を減らす人が多い。忠実な献金をするためには、節約し節制しなければ(信仰的に吟味)無理なことこそ、信仰生活を充実させることを学ぶことはできない。

 

B  伝道をすること

クリスチャンであることを公言せず、証を聞きたがる人にも、口を押さえて密かに信仰生活を隠し、未熟な信仰を恥じて生きている。

 

C  祈ること

 公に祈ることをせず、心の中で叫べば神は聞いてくれると、調子の良いことを考えている。

 

 ともかく、日本人クリスチャンは自己中心であって、神中心ではない。神の助けを必要とするような状況に陥らないように気をつけ、死んだら天国に行けるように教会と神様にも渡りを付けておく。神の子キリストが人の為に十字架で死んでくださったのはもったいない話しで、神に祝福まで願うと、後で犠牲を強いられることになるから適当に自分で世渡りをする。神を信じるのも良いけれど、人に迷惑を掛けるな、と言われる。

 

信仰とは神を信頼することであり、この世や金や自分の能力を信用する生活とは、全く異なるものである。だから、「反対者も大勢いる」ことは当然であり、私たちはそのようにして、結婚し、献身し、千葉に移住し、子供を産み、育て、クリニックを始めた。そして、これからも人の反対を覚悟して、神に捧げて行くつもりである。

 

8月12日  労苦が無駄でない。  Tコリント15章50〜58節

今の時期は、広島や長崎への原爆投下が思い起こされ、内閣の靖国神社参拝などが論議される。私たち、クリスチャンは、この日本が犯した戦争の過ちをはっきりと認め、主体性を持って過去を反省しながら自らの国を愛して築き上げる気概を持たなければならない。戦後、アジア各国でキリスト教が著しく進展したのに関わらず、日本においては戦後一時期のものに終わってしまった原因の大きな一つに「福音派において教会の社会における責任に非常に消極的であり、政治責任を放棄した」ことに帰することが強調されている。日本のキリスト教指導者の戦時期における信仰放棄とも言える行動、対応を不問に付したことにより、政治的なことが禁句になったのである。

 

朝鮮から日本国内に強制連行された人は72万人から152万人、中国からは約4万人、従軍慰安婦にされた女性は5〜7万人、中国では何万人も日本軍によって殺戮され、毒ガスも撒かれた。しかし、国内においては戦争反対を唱える者は殆どおらず、クリスチャンでさえ、賛同する始末であった。

 

祈祷会において、私はクリスチャンのリバイバル運動が危険でさえあり得ると述べた。日本を福音化しようと多くの金銭を掛けた集会を持ち、宣伝をする。そして、リバイバルしないのは、祈らないからだ、献金しないからだと非難指導され、そのような集会に多くのゲストや講師を招いて煽り立てる。まるで、高度成長期の企業の掛け声のようであり、戦時の洗脳のようでもある。

 

また、教会成長を強調する教会で、牧師の絶対性を強調したり、信仰の熱心を強制したり、家族や他宗教の人を信用してはいけないと指導することが現在でも続いているそうである。以前、福音を語らなくなった教会が多いと説いたが、福音だけを強調して他を否定するのも危ない。実は我が教団にはそういうタイプの教会が多い。私などは、教団における主流派ではないし、役につきたくもないので、いつも逃げている。地位や評価を気にすると道を誤る。

 

聖書は言う。「血肉の身体は神の国を相続できません。」(15:50)。福音とは説得ではなくて、感化である。この世のものは皆、朽ちるものであり、虚しく過ぎ去る。いのちは、どこにあり、どこから来るものであろうか。「自分のいのちのことで心配してはなりません。」マタイ6:25。新しい家に移れることは喜びである。これで客も呼べるし、家でもてなすこともできる。財産を殖やしながら、それを全て神に用いられるようにしていきたい。医療法人も、来春を予定している。数年先には、デイサービスやホスピス、そして、栄養療法の治療のための入院施設も造りたい。それに多くのクリスチャンが携わって欲しい。

 

福音は感化である。人の世話はクリスチャンでなくてもできる。しかし、その人の人格を認めながら、神に委ね、愛していくことはクリスチャンにしかできないのではないか。自分の主張が認められないこと、勝利者ではないこと、称賛を得ないこと、報いがないこと、失敗も死ぬこともあることも覚悟して、堅く立って、主の業に励みたい。

 

死という現実から罪がトゲのように私たちを突き刺す。そして、罪があるからこそ、律法やきまりが私たちを拘束する。人間は罪深いので、きまりがないと、押さえが効かなくなって、皆勝手な罪深い行動をするからである。

 

御霊の自由とは、自分中心の考え方から私たちを解放する。労苦が自分の為のものでないので、報いはいらない。失敗も怖くはない。御霊の自由は、神への信頼である。神は私たちのことを全て知っておられる。御霊の自由は、赦され、愛された者の体験である。

 

 

8月 5日  神の国を相続する。  Tコリント15章45〜50節

マリヤ・クリニックは分子整合医学を模索している。それは身体の分子を組成する必要な栄養素を補給すると、人体は自ら治癒を始めるという考え方であり、神が与えた治癒能力を信じるクリスチャンとしてはあるべき姿勢であると信じている。それは、人間を即物的に捉え、薬や手術など対症療法を行う現代医学の限界と人体に対するダメージの大きさから代替療法として、最近脚光を浴びてきた。非難されながら十年以上も続けてきたことが、急に称賛されてきているので戸惑うこともある。

 

人間の組成は焼いてしまうと、殆ど土と変わらないそうであるが、聖書は、人間がちりで形作られ、いのちの息を吹き込まれたことにより、生き物となったと書いてある。先週も語ったように、人間だけが霊を持ち、他の動物と異なり、地球の支配者として存在するのである。

 

イルカや鯨、チンパンジーやオランウータンを知能が優れているということで大事にしているが、それは進化論の考え方であり、聖書に従えば、知能による優劣はない。むしろ、先週読んだように被造物全体が人間の罪の故に苦しんでいるという状況こそ危惧しなければならない。アメリカの京都議定書調印拒否を非難するばかりでなく、私たち自らが、環境汚染をしないように注意するべき責任を抱えているのである。

 

きちんとした食事を取らず、インスタント食品やジャンクフードを食べるだけで酒たばこを飲み、休息も取らない人は、まさに身体が、その人の罪の故に苦しんでいるのである。そんなとき薬を飲んだり、栄養剤を取り、またコーヒーを飲んで眠気を取ったり、睡眠薬を飲んで無理に眠るのはおかしい。日が昇ったら起きて、ゆっくりと食事を取り、日が沈んだら仕事をやめて、家族と団らんをするのがただしいのである。クリスチャンは、なるべくそのような暮らしができる仕事を選び、隙間なく生きるような生活はやめなければならない。

 

ともかく、アダムは地から造られ、神に霊を与えられて生きるものとなったのであるが、人は皆そのようにして死を迎えることになる。そして、「罪が死によって支配し」(ローマ5:21)というように、罪にされる人生をおくる者となる。ところが「恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させる」(同)ということが、神を信じる者に起こることになる。パウロはアダムという人によって、人間が始まり、罪が始まったのに対比して、イエス様を第二のアダムとして説明する。このイエス様は天から来られた方であり、完全な人ともなられた。自らの罪ではないが、人の罪を背負い、罪人として死なれた。しかし、父なる神の義を示し、その大能により、御霊の身体をもってよみがえられた。これは、自らの罪が死に値し、十字架の死は自分自身にこそ相応しいものであったことを認め、また神の義を求めずにはいられないことを告白し、信じた者にも、同様に効力を持つものであった。これによって、信じた者はイエス・キリストを最初の人として御霊の身体をもつ新しい人として生まれることが約束されるのである。

 

それはよみがえり後のことだけのことなのだろうか。わたしはそうは思わない。ラザロが死んだとき、マリヤもマルタも「終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っています。」(ヨハネ11:24)とイエス様に答えたが、「もし、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」(ヨハネ11:40)というこの世における奇跡、祝福を信じなかった。

 

八月号の百万人の福音に、ブラジルで苦労した母親が子宮筋腫になった時、祈り続けると、その筋腫の大きな固まりが二つ排泄され、癒されて長寿を全うしたという証が書いてあった。神を信じ、神に頼って生きる者に、神は、神の国の祝福を現してくださる。神の国の福音とは、魂の救いだけではなく、病の癒し、健康、その他の多くの祝福を伴うものなのである。

 

7月29日  御霊の身体。  Tコリント15章35〜44節

本当に暑い夏である。スイカがうまい。夏の果物は体温を低くする働きがあるというから不思議である。冷房に当たりながら、スイカを食べると冷え性になる。暑い地方には暑い気候に適応させる食べ物があり、寒い地方には寒さに耐える食べ物がある。神の造られた不思議を思う。最近は種なしスイカがあると言うが、それは接ぎ木によってなるのだろうか。

 

種を蒔くと芽が出て、成長し、花が咲いて実を実らせ、そして種ができる。実は動物に食べられるが種は消化されないで糞と一緒に排泄され、離れたところで糞を肥料にして成長する。美味しい実は食べられるためにあるのであるが、人間は種を除いて食べ、排泄物も地に返さない。それで土地がやせてきて、不毛になり、地が荒れ果て、気候もおかしくなってしまった。排泄物には虫も微生物も繁殖するが、化学肥料では土地は肥えない。植物も、動物も、そして人間も子孫のために生きて死んでいく。

 

仏教ではこれを輪廻として説明する。聖書ではこれと全く異なる。世界は神の為に造られ、神の栄光を誉め讃えるために存在する。日本では進化論が全盛であるが、進化論ではDNAの変化を決して説明できない。環境汚染が叫ばれているが、地球の温度が平均2度上がるだけで、世界は崩壊していく。神はなんとすごい創造主なのだろうか。

 

人間は、神によってこの被造物を支配することを命じられた(創世記1:28)。ところが、支配するどころか、破壊するだけである。それなのに、神はこの世界を天使によって支配させることをせず、人間に任せようとし続けているのである。「神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。」(ヘブル2:5−7)

 

でもそれは、すべての人間に対してではない。

 

「あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。」(1コリント36節)とあるが、私たちの人生もまた、死んでから生きるものとなるのである。この世は、罪深く、邪悪であり、誠実な者にとって生き甲斐のあるものではない。それでも、或る人々は、神を信じ、報われないが慈善をなし、正義に生き、そして死んでいく。        

 

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11:13)

 

「この世は彼らには相応しい所ではなかった。」(11:38)

 

蝶がさなぎから孵化して成虫になるために脱皮をするように、永遠のいのちを約束された私たちがこのままの身体で、後の世に生きるわけではない。栄化された御霊の身体をまとうのである。

 

  神は世界を良い物として造られた。人もまた同様である。しかし、罪により、滅びが始まり、良い物でなくなってしまった。蝶は蝶として飛び回るように成虫になるために存在するように、人間も完全なものとして生きるべく造られている。それが罪によって損なわれているが、復活することによって神と共に生き、完全な者とされるのである。

 

7月22日  試練の体験。  Tコリント15章29〜34節

「死者の故にバプテスマ」は難解な言葉である。イエス之御霊教団は三位一体の教理の否定の他に、この言葉に基づいて昔死んだ者の身代わりの洗礼をするので異端とされている。それでは、どのように解釈するのか明確に説明されている注解書はあまりない。

 

まず、「バプテスマ」という意味は浸るということを意味し、イエス様はマルコ10章39節で、「わたしの受けるべきバプテスマ」として十字架というご自分の試練の体験を意味しておられる。Tコリント10章2節には「雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け」として、雲によってエジプト軍から守られ、水の分かたれた紅海を通り荒野に入ったことを例示する。何度も語っているように、エジプトは罪の奴隷であった生活を例示し、紅海を通ることは洗礼を意味し、荒野はその後のクリスチャン生活、ヨルダン川を渡ってカナンに入ることは、死んで天国に行くことにも例えられる。ここでは、パウロが「モーセにつくバプテスマ」として或る体験に浸ることを意味していることに注目したい。

 

ローマ6:4には「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」とあるように、水のバプテスマは渡井たちがこの世に死に、神にあって新しく生まれることを意味する。つまり、洗礼を受けると言うことは、私たちがこの世の死者となることを覚悟すると言うことをも意味するのである。

 

キリストにあってこの世に死ぬことを覚悟するということが、死んで終わりならば全く意味のないものとなってしまう。「もし、死者の復活がないなら、『明日は死ぬのだ。さあ、飲み食いしよう。』ということになるのです。」(15:32)。クリスチャンとしての死を覚悟した試練、「わたしにとって毎日が死の連続です。」(31)というような試練が意味を持つのは、復活があるからである。水のバプテスマの意味は古き人生との別れだけではない、新しい歩みをも意味する。それはまた、単なる再出発ではなく、この世に死にながら生きることを覚悟すると言うことなのである。

 

もし、この文節がイエス之御霊教団のように「死者のための身代わりの洗礼」であるならば、前後の文節の意味が全く通じない。わたしもよく言われるのであるが、自分が感動するような信仰的体験、覚悟、奥義は、あまり説明しないで、体験したものだけが共有する理解として、わざと難解な言葉を使いたがるのである。おそらく、パウロが「死者の故にバプテスマ」と哲学的な言葉を言ったのも、そのような経緯ではないか。

 

信仰生活には、十字架を負うこと、十字架に掛かることを覚悟した者でしか理解できない体験と奥義がある。知的理解だけで頭の良い者が悟ってもらっては困ることがある。愛とか、寛容とか、赦しとか、自分は苦労を負うことをしないで、教会に、他人に、都合の良いことを要求する人々がいる。わたしは、彼らを非難するつもりもなく、迷える子羊として取りなし、また自らの罪による人生の試練から守られるように祈る。但し、正直、わたしは「目を覚まして、正しい生活を送り、罪をやめなさい」(34)と願い、彼らの滅びと神の裁きを知っている。

 

「神についての正しい知識をもっていない人たちがいます。」(34)。まさにそうである。みなさんはいかがであろうか。

 

なぜ、わざわざ苦労の道を選ぶのか、福音を伝え、損とも思える正しい道を生きるのか。「思い違いをしてはいけません。友達が悪ければ、良い習慣が損なわれます。」(33)。この世の人生を自由勝手に気ままに生きることはできない。悪と罪におぼれるか、善と義に救われるか。

 

ヤコブとヨハネがイエス様に天国における報いを願った。イエス様は、大きな報いには大きな犠牲、苦しみの体験が必要であることを教えた。

 

「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」(マルコ10:38)

 

自分をキリストにある死者と言え、またそれを促すことができるパウロにも感動する。しかし、そこにこそ大きな報いがあるのである。

 

7月15日  キリストの再臨と支配。  Tコリント15章20〜28節

@.神の子が人となって生まれた。A.その方は、人として完全な、罪なき御生涯を歩まれた。B.全ての人の罪の身代わりとなって十字架の死を受け容れられた。C.父なる神の大能によってこの方はよみがえられた。これだけのことを信じるだけでも普通の人にはすごいことであろう。先週は、このBとCとの間には、信じるということにおいて大変な難しさがあることを指摘した。Bまではおとぎ話しでもあり得るし、身代わりとなって死ぬ人も佐倉宗吾のような例がある。しかし、佐倉にある宗吾霊堂は宗吾が「祟ってやる」と言ったことを恐れ、霊を慰めるために祭ったのだという。イエス様は自分を殺す人々を赦して死んでいったので、全く異なるが、それでもすごい人もいるものだという理解で終わってしまう。

 

イエス様のよみがえりも、それだけのものならおとぎ話しで終わることもあるが、このよみがえりが私たちにも適用されるということを、「肉体の死は終わりではない。」として福音として伝えることに、困難がある。人々は死を恐れ、自分の罪深さを恐れている。神がいて私たちを裁かれるということは、耐え難い苦しみであろう。ある人は自分の取り返しの付かないと思われる罪深さに苦しみ、ある人は、人々が何も知らないで死んでいったことに関して不合理を覚えるだろう。神や信仰の現実性は人々に恐怖心を与える。丹波哲朗や新興宗教の教祖が唱えるようにだれでも死んだら天国に行くと聞けば、安心して毎日を適当に過ごしていけるのである。

 

しかし、キリスト教の教えはそれだけではない。D.天に昇り私たちを取りなしてくださっているキリストが、再びこの地上に来られるというのである。それも、今度は救いに来られるのではなく、裁きのため来られるのである。これは進化論を信じ、文明の利益に享楽し、欲望の虜になっている人々には、絶対あってはならない教えである。自称クリスチャンでさえ、「神が愛なら人を裁いたりするはずはない」と裁きや再臨を否定する人もいる。

 

実はこの神の裁きと再臨を信じるか否かが、本物のクリスチャンか否かを区別する境目なのである。誰でも簡単に、永遠のいのちや再臨を信じることはできないだろう。私自身、聖霊のバプテスマを体験し、洗礼を受けても、なかなか信じ切ることはできなかった。不信仰な私は、心から神を信じきり、死が怖くなくなるまで2年掛かった。

 

救いの真実さ、現実がすべての猜疑心、恐れを乗り越える。罪の誘惑、欲望、自分への失望、など信仰の成長には、多くの障害がある。マタイ十三章には、道ばたに落ちた種、岩地に落ちた種、茨の中に落ちた種、良い地に落ちた種と、神の国の福音が多様な人々に伝えられることが示されている。でも、イエス様ははっきりと、彼らは悟らない、わからないと指摘されている(13:11〜15)。

 

裁きと再臨を信じる者は、自らの清めを願い、神の業を行い、福音を伝えずにはいられない。言い訳を言い、何もせず、罪を犯しながら時が過ぎてしまった人々に対して、イエス様は「彼を厳しく罰して、その報いを偽善者と同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ25:51)と言われた。

 

「聖霊様、私の心を支配し、私を悪から守ってください。」と祈る人がいる。悪霊は私たちの心を支配したがるが、聖霊なる神は私たちのために取りなし、教え、助けることはあるが、支配することはない。神は人間をロボットにしたのではない。「目を覚ましていなさい。」「用心していなさい。」私たちは、聖書の教えを身に付け、キリストの弟子になるために、自ら努力しなければならないのである。

 

聖霊に満たされたしるしとして、倒れたり、笑ったり、大声を出して叫んだり、涙を流して泣いたりすることを捉える人々がいるが、愚かなことである。私は最初の時期に、そのようなことが起こることを決して否定する者ではない。私自身、聖霊のバプテスマを受けた時は鼻水を流しながら、異言が止まらず、大声で一時間以上祈り続けた。信仰熱心になってはいけないと自制しようとすると聖霊が激しく臨み、自己抑制できないほどに身体中がしびれた。多くの奇跡や体験が二年間続き、内住のキリストを確信した後、霊的体験が一切やんでしまった。もう、それらを求めようとすることは愚かに思え、キリストの業をすることに関心が移っていった。そして、私は長老となり、献身もしたのであった。

 

7月 8日  復活を信じる信仰。  Tコリント15章12〜19節

3年くらい前、アメリカの教会を調べる為、インターネットのヤフーで教会を検索したら、検索条項に同性愛を認めるかどうかというのが、最初にきたので驚いたものだった。この6月に、アメリカ長老教会(プレスビテリアン)が大会で「キリスト・イエスにのみ救いがある」という聖書に明確に示されている教理を拒否し、同時に同性愛者にも教職になることを認めたというから驚いた。アメリカでは、確かに教会が地域活動の中心になっており、牧師の地位も高いので、救われていない(ボーンアゲイン)人もクリスチャンを自称し、帽子にもなることが多い。アッセンブリー教団はアメリカで大きな教団になっているが、教会数が多いからで、平均は50名程度と日本とそう変わらないらしい。従って、救われていない人が牧師になることは少なく、健全な教団を保っている。

 

近くのある教会の牧師は、信者と話しをする時、赤提灯でするという。しばらく前に、この教会の会員であった者が、礼拝で牧師批判をし、言いたいことを言って出ていったが、移り移って今は、その教会に通っていると、挨拶に来たことがあった。でも分裂病と躁鬱病に掛かっており、明らかに異常であった。確かに救いを体験したので洗礼を授けたのであるが、愛のない教会はいやだと言って牧師を批判し始め、黙って聞いている私を興奮して非難した。彼は、今の教会は本当に楽しいと言っていたが、奥さんに暴力を振るっていると聞いていたし、一緒に来た奥さんはご主人を恐れているようで、会話をすることができなかった。

 

私はこういう話しをすることで、牧師批判をするなとか、教会を変わるなとか、言うつもりではない。信者になっても試練や苦労も多く、愚痴を言いたくなることもあるのではないか。神を信じることは決して楽なことではないと私は思う。しかし、イエス様は言われる。マタイ10:38.39

 

「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」

 

この十字架を負うことを厭うクリスチャンが多いということを警告するのである。私の知っている先輩牧師も、夫婦仲が悪くなってからおかしくなった。その教会では十字架が語られなくなり、福音がなんだかわからなくなってしまった。その教会でクリスチャンになった人が、当教会で十字架のことが言われるのが大嫌いだ、と言ったのに驚いたことがある。

 

十字架がなければ、復活もない。信仰者としての試練、苦難がなければ、神の恵みによる勝利も解決も体験できない。多くのクリスチャンが、自分の利益、祝福、勝利を求めるが、苦労、負担、努力、忍耐などを厭うので、イエス様の言われるように、主の弟子になることができない。そして、教会に楽しさやサービスの提供、メリットを求めるのである。

 

アメリカでは、そのようにして礼拝で讃美や劇、出し物で高度なものが必要とされてきたのである。人々は、牧師の話す麗しい感動的な話しや教会の提供するいろいろなサービスを味わいながら、自分を敬虔な信仰者として自認し、税金から控除される献金を領収書と交換するのである。

 

日本でもこのような教会が多くなってきた。礼拝の讃美も、非常に高度に音楽的になり、音響設備も充実してきた。良い面もあるが、讃美が個人の神への賛歌というより、カラオケかのど自慢のように人に聞かせるものの様になってきたことは注意しなければならない。

 

イエス様の復活が事実であるから、私たちはこの福音にいのちを掛ける。信仰にひたむきになるのは、死が終わりではないからであり、この人生は束の間であって、神に問われることになることを知っているからである。イエス様の十字架の死は私たちの罪の赦しのためであり、私たちもまた、十字架を負い、ある時は犠牲的に死ぬことがあっても、それは必ず来る御国にある勝利の為であることを信じているからである。十字架に掛けられたイエス様を伝えることは、愛の福音として、好ましく麗しい話しとしても理解される。しかし、よみがえられたイエス様を伝えるということは、人々に人生の意味を問いかけ、永遠の為に生きるべき、決断を迫ることなのである。

 

イエス・キリストを信じることは、他の宗教を信じることとは異なる。生き方の方便や利益の為ではない。世界を造られた神は、私たちを見ていて、私たちを全員裁くということなのである。あなたは裁きの神の前に立てるか、という問いかけが、イエス様の復活の宣教と関わるのである。

 

だから、人を非難する、罪を犯す、姦淫を犯すなど、もっての他なのである。信仰は趣味ではない。神について話し合おう、もっと神の愛を理解しようなどと、サタンに誤魔化されて、自分の清さを失い、信仰の破船にあってはならない。信仰の先輩たちは、「キリストにあって眠った」つまり、福音のために殉教したのであった。

 

7月 1日  私たちが拠って立つ福音。  Tコリント15章1〜11節

最近、ゴスペルが流行っている。ゴスペルとは訳すと福音ということであるが、これは黒人聖歌のことであり、映画の「天使にラブソングを」で取り上げられ、その元気でリズミカルな歌い方が多くの日本人に魅力となったものである。先日も、東地区会でゴスペルを聴き、歌ったが、元気がよくスピリチュアルであった。

 

ところが、このゴスペルにも好き嫌いがある。私の見方では、霊的でパワフルであるが故に、悲観的で思い煩いのある者には、神経を逆なでするようで耐えられないものとなる。

 

「十字架のことばは(福音)は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」がコリントT書のテーマ聖句であると最初に説明した。イエス様が私たちを救うために身代わりとなって罪を負い十字架で死んでくださり、しかし、救いの保証、永遠のいのちの証拠としてよみがえられたことを伝えることが福音宣教である。このまことに良き福音(グッド・ニュース)が、霊的に頑固で悲観的、厭世的な人間には、たまらなく厭なものなのである。演歌というように人生の悲哀を歌うことが好きな人間には、喜び楽しんでいる人々は、煩わしいのである。

 

人生の諸問題に対して、対応の仕方は2通りある。一つは、否定的、消極的に受けとめ、愚痴を言いながら、我慢して対応するものである。こういう人は解決や勝利は求めない。解決や勝利をするとまた、問題が起こることをしっているからである。責任を負わされることを避け、それでいながら、自分の努力や過去の苦労を自慢し、また地位や名誉を求める人々である。キリストの死と復活を自分の人生と結びつけ、そこに自分の人生の基盤を置いていない人々は、自称クリスチャンであっても、喜ぶこと、感謝すること、魂を神に注ぐことができない。

 

ところが、喜ぶこと、感謝すること、神に向かって讃美し、祈ることはなかなかできない。ルカ二十一章三十四節には、「あなた方の心が放蕩やや深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日が罠のように突然あなた方に臨むことがないように、よく気をつけていなさい」とあるが、毎日の労苦に捕らわれてしまうと、私たちは、心が沈み、とても讃美などできなくなってしまうのである。愚痴を言い、嘆くことは誰でもできる。人を判断し友を選ぶ時の最も重要な基準は、その人の明るさ、肯定的な言動である。

 

私は結婚する前に家内の言動で厭だったことは「でも」「いや」という接続詞が多かったことであった。神に無条件で従うことのできない人とは結婚しない、という確信をもっていたのであるが、だんだん内田さんが変わってきて神に全面的に服従し、献身表明するようになってしまい、これは私もかなわないと降参したのであった。結婚してからも、癖で肯定的な会話を、逆説的、否定的な接続詞で繋げることが多くあったので良く注意したことを覚えているが、最近は殆どない。商売でも、人と話しするときも、ともかく「そうですね」とか「ハイ」とか返事すると内容がどうであっても良い印象をもつそうである。

 

前述の聖句で「よく気をつけなさい」とイエス様が言われたように、自分が否定的、消極的になり、思い煩いに取り憑かれたら、よく気をつけて、祈り、讃美し、勝利を願わなければならない。

 

終末にはサタンがクリスチャンをふるいにかけることが許可される(ルカ22:31)。パウロはコリントU6章で、どんな試練の中でも、恵みを無駄にせず、救いと助けを受けるために、気をつけていると書いている。多くの人が「自分の心で自分を窮屈にしている」(6:12)。祈り、讃美し、福音をしっかりと理解しないと、私たちは目に見え、知性や理性、欲望に訴えるところからでる、敵意、そねみ、怒り、失望、などに惑わされてしまう。

 

神による助け、祝福の確信こそ、「安全で確かな(魂の)錨(いかり)の役を果たし」(ヘブル6:19)、神との深い交流に至らせるのである。

 

6月24日  適切に秩序をもって行う。  Tコリント14章26〜40節

私は最近、自分はこの時代にそぐわない頑固者なのかと思うようになってきた。ブレザーを買ったとき若い女性の店員がイスに座っている私に跪いて応対してきた。「済みませんがイスに座ってもらえませんか」、と言うと、「規則ですから」と微笑みながら答えた。丁寧に送ってもらったが、女性を隷属させて洋服を売ろうとしている店に反感を覚えた。クリスチャン新聞やクリスチャンのテレビに、異常なことを証として平気で宣伝しているのに嫌悪感を覚える。教会が大きくなることを宣教命令の実践として至上命令にして他を犠牲にした生活を強いる教会や牧師に反発を覚える。主義主張慣習既得権に固執して、主の導きを求めようとしない牧師に腹が立つ。

 

不惑は四十才のことであるが、惑うことはなくなり、自分の生き方、考え方を確認し、そこから世の中のこと、人々を捉えると、いやになることが多い。「耳従う」とか、「のりを超えず」とか別に聖書の教えではないが、実にイエス様がパリサイ人や律法学者を真っ向から非難し、宮で金儲けをしている商人を追い出した方に喝采を感じる。

 

すさまじい借金を国に負わせ利権を貪って自分たちは豊かになった人々が官僚や政治家ならば、そのツケは地獄ではもちろん、この地上でも払わなければなるまい。また、それを見過ごし、国造りの責任を放棄した私たちにも、今やツケは貯まってしまった。

 

パウロは、自分の救われる前の罪科を思い、「払わなければならない負債を負っています。」(ローマ1:14)と福音宣教への献身を告白する。それでは、私たち日本人クリスチャンの罪科、悔い改めなければならない罪は何なのだろうか。

 

それは神への不従順である。信仰生活を保つことが神の命令なのではない。神を第一にすることが大事なのである。私たちは非難されることを恐れ、社会で黙してしまった。クリスチャンとして、為すべきことは何かを自らに問い、迎合せずに、私利私欲を拒み、正義を為していくことが必要なのであった。韓国のリバイバルの背景は、最大の愛国者はクリスチャンであったという歴史的事実から来ている。小事に忠なる者は大にも忠である」(ルカ16:10)。クリスチャンでありながら礼拝を守らず、町の祭礼に参加し、悪事を黙認するならば、だれが私たちを信用するであろうか。自分の信仰、信念を表明しない者に何の義があろうか。

 

今日の聖句は、異言を話すことを導かれた時の対処法である。大事なことは、自分こそ正しいとか、神に導かれているなどと自惚れないことである。皆が語りたいと思うときは語らしておけばよい。良いことは誰が言っても、そう間違いはない。しかし、語りたくないと思うことを語らなければならないと導かれたときこそ、語らなければならない。皆が悪を図り、自分の為に生きている時にこそ、正義と弱者の為に生きなければならない。

 

私は教会とは、そのような者の集まりであると信じている。社会で戦うからこそ、家庭が必要であり、また家庭は社会で正義のために働くことの為に子供達を育て上げるところである。自分の為や親の為に生きる人間を育て上げるところではない。神の家族とされる教会もまた、世で悪と戦い、正義を築きあげる人々が集い、祈り合い、助け合う者であると信じる。

 

「預言者の霊は預言者に服従する」(14:32)とあるように、その人の人格こそがその人の霊性を明らかにし、清くし、強くする。教会の中で主義主張を論じるのは、それこそ論外である。教会は、世で霊の戦いを戦い、勝ち抜くための神の軍隊であり、信仰者の交わりなのである。

 

私自身の願い、教会やクリニック、そしてさらに拡大する働きの計画は、そこから来ている。私たち夫婦も、忙しく、大きな問題を幾つも抱え、そして、借金も抱えている。しかし、私たちは社会の弱者を守りたい。低血糖症を知らず、解決不能になっている多くの人々、彼らは精神病者だと自らを誤解している。癌などで死んでいく人々への末期医療も課題である。痴呆老人にも何かできないものだろうか。このような考えの中から、計画が現れてくる。神の御心でなければ、旨くいかないだろう。

 

私はクリスチャンとして、神に仕え、人に仕えることを、自らの義務、負債と考えている。自分を自慢し、誇ることは愚かであろう。自分の働きが世の中に認められなくても構わない。むしろ、認められない方が良いだろう。クリスチャンのマスコミが、信仰者の自己顕示欲を満たすものであるならば、いつかはつぶれていくだろう。

 

やくざからクリスチャンになった人々が脚光を浴び、「親分はイエス様」と言う映画になった。死を覚悟した人々だからこそ、迫力があり、心を打つのだろう。私たちは十字架に掛かるべき罪人だから、誇るべきものを持たない。ただ、満足のいく働きと死に場所を探すだけである

6月17日     預言は信じる者に語られる。  Tコリント14章17〜25節

パウロは礼拝の公性を強調する。実際、私たちアッセンブリー教団やペンテコステ系の教会は、礼拝や伝道集会でさえ異言の祈りを平気で未信者の前で祈ることが多い。個人的に聖霊に満たされることを優先し、そのことを強調するためだろうと思われるが、聖書にはっきりと、教会では異言で祈るよりも預言、もしくは知性のことばで語りなさいと指摘されているので、それらのことは神の命令を軽んじていることになる。

パウロ自らも、「誰よりも多く異言で祈っている」と言っており、私たちは神との交流、感謝を異言の祈りで確立しているのであるが、それでも信仰というものは、自己追求、自己満足のものではいけない。教会では、自分の霊的、感情的満足よりも他の人の徳を高めるために知性を働かせて語るべきことを選ぶべきであるという。当然、この背後には、パウロが、個人的な祈りの生活で誰よりも多く異言を祈っていることは確認していなければならない。つまり、個人的な祈りの生活を確保していない人が多いのである。

何度も言っているように、祈りは霊的な浄化手段であり、祈りが充分でないとイライラしたり不安になったり、喜怒哀楽が激しくなり、状況に左右されることが多くなる。小さなことに固執したり、人を許せなくなったりして、信仰者と言えども、信仰的に生きることが難しくなってくる。信仰生活というものは知的理解ではない。信仰体験は積むことができるが、信仰は神への信頼であり、依存でもあって、貯めることのできないものである。従って、自分の信仰体験や証は、他の人に語る為には良いが、それに拘ったり固執したり自慢するものではない。「誰でもキリストにある者は新しく造られ続ける者であり」(Uコリント5:17)、キリストにあるということは、現在キリストの霊、聖霊に満たされて歩むと言うことだからである。

異言は不信者のためのしるしであることのは、超自然的な異言の発言とその訳によって、不信者も神のことばであることを認めざるを得ないからであること指摘したが、それでも奇跡というものは、神を信じる為の手段に過ぎず、信じない者が奇跡によって信じるということはない。最初に語ったように、異言をゴンゴン祈っているからと言って、その教会に来た初心者がその教会を神の臨在に満ちていると信じることはない。却って「おかしい、変だ、」と感じるのが当然であろう。(23節) 神の真実、奥義、信仰について知らせ、教えるには聖書のことばを語り、預言を与えられることを用いるべきである。以前、奇跡や神癒(神による超自然的癒し)を求める教会、信仰者が多かったが、今はすっかり落ち着いている。当時、「奇跡やしるしによる伝道」として、新しい人々を集めようとした教会や牧師がいたが、現在はどうなっているのだろうか。私の信仰生活には多くの困難があり、思いの通りにならないことが引き続いた。私は神の前に訴え、祈り、解決を求めた。信仰の初期には何でも祈りに聞いてくださった神が、何も答えてくださらなかった。試練と苦難が続き、もだえ苦しみ、病気にもなり、人々の非難と教会員の離反もあった。それでも、信仰をやめることはできなかった。魂の救いを体験し、聖霊の導きと満たしがあったからである。更に祈ると、私は自らの罪深さと不信仰を思い知らされ、神の前に悔い改めた。信仰生活を守りながら時が過ぎると、変えてくれ解決してくれと泣き叫んで祈っていたことが、自分の思いとは違ったものとして解決し整えられていた。要するに、私は神に信頼していなかったのである。

21節は、アッシリヤに責められた時の預言者イザヤの記述である。U列王一八―一九章に当時最強のアッシリヤの大軍がエルサレムを囲み、ヒゼキヤ王の信仰を馬鹿にしてユダの言葉で人々にも聞こえるようにあざ笑ったとある。ヒゼキヤ王は生ける神をそしる敵の手から救ってくださいと祈ると、主の助けがあり、超自然的に一八万五千人が滅ぼされアッシリヤは逃げていき、ヒゼキヤは「すべての国々から尊敬の目で見られるようになった。」(U歴代32:23)しかし、それで高慢になったヒゼキヤは信仰も堕落し、「神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。」(32:31)

人生は、私たちの心がすべて現れてしまう畑のようなものである。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(ガラテヤ6:7−9)

教会は自分にとって聞き易いことばを聞くところではない。「罪を示され、神の臨在を感じてひれ伏して神を拝む」(1コリント14:25)ことを続けながら清められ、神を信じること信頼することを学んでいくのである。今も私には多くの困難があるが、神は私の信仰の実を刈り取らせてくださると信じる

6月10日   霊により知性により祈り讃美する。  Tコリント14章6〜16節

先週は異言の祈りのことを説明した。今週は、異言の祈りを公には祈らないこと、及び、異言の祈りを知性に結びつけることを学ぶ。

これらのことは、異言の祈りの効用が強く、異言の祈りをすると、「スカッとさわやか」というキャッチフレーズの飲み物ではないけれど、思い煩いが取れてすっきりしてしまうからである。私たちは自分の言葉で祈ると、お願いやら、問題の解決やら、いろいろあるが、しばらくすると祈りの言葉が尽きてしまう。自分の言葉で祈る祈りは、どうも自分の考え方に縛られてしまい、感謝に結びつけようとしても、なにか作為的なようで無理がある。他方、異言の祈りは祈り続けることができるし、祈るほどに、聖霊による平安と確信が満たされ、どうしても異言の祈りばかりになる人が多い。

 

先週、異言の祈りを祈れているので、自分は救われており、選ばれているのだから、教会に行かなくても良いと言う人から電話があった。異言の祈りは、祈りの手段であり、方法の一つであって、聖霊のバプテスマを受けた印であるが、救いの証明ではない。使徒の働き一〇章には、ペテロの説教に耳を傾けていた異邦人が聖霊のバプテスマを受け、異言を話したので、救いの証明として認め、洗礼を授けたという記事がある。それは、もともと神を恐れ、求めていて、「祈りと施しが神の前に立ち上って覚えられて」(10:4)いる敬虔な人々であって、ペテロの語る十字架の説教に打たれ、罪を告白した人たちであった。

 

救いの証明は、教理で何度も説明しているように、聖霊による罪の自覚と悔い改め、そして信仰による義認の確認である。救いは新生を伴い、その人はクリスチャンに相応しい新しいいのちによる清さと義を伴った恵みの生活を過ごし始めるのである。

 

頭の良い人は、救われた人の生活を模倣することができる。異言の祈りも手段であるので、その祈りを言語を学んだり、復唱するように模倣することもできる。幼い子供達が、親の会話を聞いて単語を発音し始めるように、異言の祈りを模倣することはできる。しかし、会話は人格の成長に伴わなければ、決して発展することがないように、祈りも神との人格的交流こそが必要なのである。

 

従って、異言の祈りが祈れるからといって、救われているとか、間違いなく天国に行けるとか考えるのは、中国語を発音できるから中国に行けるると考えるのが愚かなように、途方もないことである。自分は救いの体験をした洗礼を受けたと言っても、天国に行くためには、多くの為すべき課題が残っているのである。「ですから、愚かな議論、論争などを避けて、良い業に励むことが必要である(テトス3:5−11)。その為にこそ、「神は、この聖霊を私たちに注いでくださったのである。」(テトス3:6)

 

それでは、どのように祈るべきであろうか。

 

1.   聖霊に満たされるように異言で祈りなさい。

 

 私たちは、欲情、罪、偶像、悪霊、などに影響されず生きるためには、聖霊に満たされることが必要である。

 

2.   自分の行動を吟味しながら異言で祈りなさい。

 

 内住する聖霊が、どのように私たちの取りなしをしておられるのかを、注意深く聞く霊的な耳を持たなければならない。

 

3.   他の人、社会、情勢に関する神の導き、計画、語り掛けを聞くようにしながら異言で祈る。

 

批判的、否定的な思いを取り除いて取りなしをしながら異言で祈る。そうすると、神の導きが示されてくる。祈りが定まらないときは、霊的な妨げがある。すべてについて、すぐに導きがあるわけではない。神に従い、何年も取りなしの祈りを続けてこそ、示されることがある。

 

4.   決して聖霊なる神を自分に従わせるような祈り方をしてはならない。

 

自分の願いや思い、感情を優先するような祈りをしてはならない。他の人と交流のある会話のできない人は、神とも語りあうことや、聞くことができない。祈りの中で、自分の思い、願いに入り込むのは避けなければならない。

 

祈りとは人格的なものである。自己中心な人に祈りはできない。祈りの時間の長さを競うような人に、神との交流はできない。徒弟制度が何年も何十年も掛けて、技術と共にそれにあった人柄を形成するように、長く厳しい信仰生活こそが、信仰者の人柄と祈りを形成するのである。しっかりとした祈りの技術を身につけた人に間違いはない。

天国に行くチケットは、安いようで思いの他、高い。空席もなく、皆指定席のようである。それまで、十分に天国のことを学び、身に付けていようではないか。

6月 3日     異言は人の徳を高める。  Tコリント14章1〜5節

今日はイースターから7週間後、つまり過ぎ越しの祭りから五十日後であり、民数記二十八章26節には初穂の日、つまり小麦の初穂を収穫し神に捧げる祭りでもあった。イエス様は過ぎ越しの祭りの日によみがえり、これをイースターと名付けて祝ったのは当然後のことである。イエス様は40日間、弟子達に現れて、「神の国のこととご自分が生きていることを占めされた。」(使徒1:3)。イエス様は確かに一度死なれたが、今は生きておられるのである。

  そして、イエス様は天に昇られた。それは同じように再び来られることを明示されてのことであった。イエス様は何度もご自分が十字架に掛けられることを語られていたが弟子達は信じなかった。イエス様は更に、ご自分が再びこの地上に王として来られることを何度も教えておられるが、現在の弟子である私たち信者は、それをどれほど真剣に受けとめているだろうか。

  さて、昇天される前に弟子達に、聖霊のバプテスマを受けることを待っていなさいと言われた。弟子達は既にイエス様の十字架を信じ、救われていたので、救いと聖霊のバプテスマは明らかに異なるものである。聖霊のバプテスマは使徒の一章八節にあるように伝道の力を与えるものである。聖霊のバプテスマによる霊的パワーこそクリスチャンがこの世において勝利し思い煩わないための原動力である。だからイエス様は、この聖霊のバプテスマを与えるという父なる神の約束を待つためにエルサレムから離れてはならないと命じられたのである。

 弟子達は、集まって祈りに専念し、聖霊のバプテスマを与えられるよう待ち望んでいた。ペンテコステの日になると、突然その集まっていた家全体に聖霊が臨み、彼らは異言のメッセージを語り始めた。御霊の賜物の中で異言の賜物というものは、私たち日本人にとっては知らない言語を神の超自然的な介入によって語らせられ、それを聞き理解する人々には神の業として明らかに認識できるものである。具体的には、例えばフランス語を聞いたことのない日本人のおばあちゃんが流ちょうなフランス語で、フランス人に神の真理を語るようなことである。従って、Tコリント14章22節にあるように「異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるし」なのである。つまり、信者はそのような超自然的に語られなくても、真摯に神の言葉として受け容れるからである。 それでは信者には、どのように神の言葉を語られるのだろうか。それは預言である。だから「預言することを熱心に求めなさい」となるのである。「預言は教会の徳を高めます。」とあるように、「神から、この教会に何が語られているか」、「自分たちはどうすればよいのだろうか」、などということを「預言」(神から言葉を預かる)によって知ろうとするのである。

  皆さんは、「神から語りかけられる」、「知らされる」ということを求めているだろうか。異常なこと、変に思われる、狂信的になる、などとして敬遠していないだろうか。そう考えているとすれば、そういう人は神が異常なことをする神であり、変な神であると信じていることになる。確かに神懸かり、などとして神のことばを聞くのは超自然的霊能者であって、正常な精神を持っていると霊的関知力は強くなれないという考え方が日本にはある。しかし、それはキリスト教ではなく、本当の神ではなく、似非宗教であると、私たちは知っているはずである。似非宗教が神懸かりをするのなら、本物の宗教であるキリスト教の信者が、神の教え、語りかけを切に求めないのは、偽物に本物が駆逐されているようである。

 さて、異言は12章10節にあるように、異言の解きあかしの賜物が伴わないと、同国人だけの集会ではなんのことかわからないものとなってしまう。また、私たちアッセンブリー教団を含む、ペンテコステ教団と言うものは、異言を「賜物」としてのものではなく、「しるし」としての異言として強調しているのである。これは、「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義をはなすからです。」(2節)というものであって、「御霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、良いようもない深いうめきによって、私たちのために取りなしてくださいます。」(ローマ8:26)というように、異言は、私たちには何を祈っているのかわからないのですが、私たちの口を通じて聖霊様が私たちのために取りなしの祈りをしてくださるのである。だから、異言の祈りをすると、なんだかわからないけれど、すっきりする。異言の祈りを知らない人は、この世の思い煩いに振り回されるけれども、異言の祈りをパウロのように多く祈る人は、力ある働きをすることができる。霊性はその人の人格を形成し、悪の働きや誘惑、罪に対する強力な防衛力であり、武器なのである。だれよりも異言の祈りを多く祈ろうではないか。